2005年12月1日木曜日

47 科学的ということ(2005.12.01)

 科学的に考えるといういい方は、よく聞きますし、よくします。なにも研究者間でなくても、日常会話にも出てきます。しかし、科学的に考えるということは、どういうことでしょうか。少し、科学的に考えて見ましょう。

 科学的に考えることは、大切です。特に科学者は、科学的に考えられなければなりません。しかし、科学者でなくても、だれでも、複雑なことを考えるとき、ものごとを深く考えるとき、人と議論するときなどは、科学的に考えなければなりません。多くの人は、科学的に考えることが大切だと思っているはずでしょう。
 「科学的に考える」とは、どういうことか、考えてみましょう。科学的に考えることは、分かりやすくいうと「すじ」が通ってるかどうかということです。論理的であるかどうかと、いい換えられます。論理学で論理というものが整理されていますが、そんなことを使わなくても、簡単に分かります。
 すじが通っているということを、次のような例で紹介しましょう。
 「この火山が危険だ」という人がいたとしましょう。この火山が、今現在は平穏で何の異変も感じないようなものなら、多くの人はどう思うでしょうか。あまり信じないかもしれません。なぜ、危険か聞きたくなるでしょう。
 ですから、この危険性を訴えている人は、この火山の危険性を、他の人が納得できるように、説明しなければなりません。そんな時、すじの通る説明をしなければなりません。
 まず、「この火山は、○○という理由で、危険だ」という言い方にすべきでしょう。もし、○○という理由が、誰でも納得できるもので、その理由と「危険だ」という結論に、だれでもわかるような因果関係や法則、規則などがあればいいわけです。これを、すじが通っていると呼んでいます。科学的検証にも耐えられるもの、耐えたものが、科学的ということになります。ですから、科学的と呼べるものは、多くの人が信じることができるものであるわけです。
 しかし、多くの人が信じているからといって、科学的であるとはいえません。これは、重要なことです。だれも信じていなくても科学的なことがたくさんあります。いや、大発見とは、誰も信じていない、思いもしない結論から生まれることが多いのです。
 ですから、科学的とは、結論の価値を評価するのではなく、すじが通ってるか、いないかが、最優先されることになります。もしすじが通っていれば、そのすじから生まれた結論は、価値にかかわりなく認めるという立場にいなければなりません。だから、どんなに、非常識なすじや論理であっても、その論理が否定できない限り、結論は受け入れられるべきです。認めたくない内容であっても、論理的には成立します。これが、科学的のいいところでもあり、悪いところでもあります。
 自然の中には、分からないことがいっぱいあります。現状の科学では、どんなに科学的に考えても、解決できないこと、結論の出ないことがいっぱいあるということです。そんな肯定もできないし、否定できない考えかた(仮説)は、未解決問題として存在を許すべきです。それを否定するということは、分からないことは受け入れないということです。これでは、創造性の芽や発見のチャンスをなくてしてしまいます。
 否定できないことは結論が出せない、という例として「幽霊が存在するか」ということで考えましょう。この話題は、メディアでたびたび取り上げられて、公開で討論されることもよくあります。しかし、科学的に考えれば、どのような議論になるかが、議論する前から分かります。少し考えてみましょう。
 幽霊が存在するということに関して、意見を持っている人を、擁護派(人情的?)と否定派(科学的?)に分けることにしましょう。この問題に対して、科学的に決着をみるには、幽霊の存在を否定するか証明するか、幽霊の不在を証明するか否定するか、という4つの場合分けができます。擁護派がしたいことは、「幽霊の存在の証明」と「幽霊の不在の否定」です。否定派のしたいことは、「幽霊の存在の否定」と「幽霊の不在の証明」です。
 それぞれの場合の難易度を考えて見ましょう。
 擁護派の「幽霊の存在の証明」と「幽霊の不在の否定」とは実は同等で、同じ意味のことを、言い換えているだけです。擁護派は、幽霊が存在するという証拠を一つでも出せは、証明できます。一方、否定派の「幽霊の存在を否定」と「幽霊の不在の証明」とは同等で、「ない」ことを証明することになります。このないの証明は実に困難で、現実的にはこの世のありとあらゆる場所、もので幽霊がいないことを証明していかなければなりません。現実的には不可能なことです。
 少々ややこしくなってしまいました。整理すると、幽霊擁護派は、非常に有利な立場にいます。擁護派が「存在する」ということを、科学的、論理的に証明するためには、原理的には簡単です。幽霊がいるという証拠を、万人が納得できるものを、1つでいいから提示すればいいのです。そんな証拠を提示できれば議論は終結します。しかし、現実は、その確たる証拠が、擁護派からは出せない状態でいます。
 逆に、否定派が、科学的に「幽霊」を否定するには、「存在しない」ことを証明することです。しかし、科学的に「存在しない」という証明は、非常に難しく、現実にはできないのです。負けたくない擁護派の打つべき次善の策は、擁護派の出す幽霊の証拠をことごとく否定していくことになります。
 かくして、幽霊がいるかいないかの議論は、擁護派が確たる証拠が出せず、幽霊否定派は幽霊擁護派の出す怪しい証拠を否定するという対処的な議論に終始します。これが、繰り返しおこなわれています。いってみれば、水掛け論になっていきます。これは、議論始める前から予想できます。
 この幽霊の例から、次のようなことが分かってきます。幽霊の存在は、現状では、論理的に否定できません。そうであれば、「幽霊が存在する」という考えを仮定として認める姿勢が必要です。
 もちろん、常識人にとって「幽霊が存在する」というこを受け入れるということは、非常識に類することかもしれません。しかし、これが幽霊だけではなく、存在証明のできない一般的なものだったらどうでしょう。否定してしてしまうでしょうか。
 未知の地球外生命、未知の地球生物、未知の力、未知の粒子、未知の現象など、現在灰色のゾーンにあるものは、すべて同列に扱うべきではないでしょうか。これらは現状で、すべて論理的には否定できないということになります。これらの中には科学者が研究テーマとしてしているものもあります。そして、その中から新しい発見が生まれるはずです。
 論理的であるのに、結論が非常識に見えるものに対しては、多数派である世間の風は冷たいものです。結論が独創的であればあるほど、非常識に見えることでしょう。ですから、非常識なことを考えるには、それなりの覚悟が必要となります。
 でも、そんな常識の外、非常識の中に大発見があります。一般に、非常識な考えの大部分は、やはり「非常識」である場合が多いです。しかし、大発見と呼べるものは、少ないが故に、値打ちがあり「大」がつくのです。多数の本当の非常識の中には、ほんの少しだけ大発見が埋もれているのです。それを見逃していけません。それを受け入れる心の広さが必要です。
 革命的、飛躍的な理論の出現は、一見非常識なことから生まれることがよくあります。科学の大発見も、同じです。そんな例として、アインシュタインの相対性理論の非常識を紹介しましょう。
 アインシュタインは、当時の科学としては、非常識なことを考えました。それは、光の速度はいつでもどこでも一定ということや、空間が重力によって曲がるなどというものでした。現在でも、常識の世界で考えれば、これらは、非常識に思えます。しかし、このような非常識なことが、論理的には成立していることを、アインシュタインは数学的手法で証明しました。私たちの日常感覚では感じられない現象でした。
 アインシュタインの偉大な点は、この仮説が他のものより優れていることを証明する方法として、ある科学的予測をしました。1911年、相対性理論に基づいて、日食の時、太陽の近辺に見える星が、太陽の重力空間が曲がり、天文学的に予測できる位置よりずれる(後にアインシュタイン効果と呼ばれた)ということを予想したのです。空間が歪むということの証明が、相対性理論の証明にもなります。このような予測は、従来の論理では、決して導けない現象です。しかし、このような予測は、両刃の刃です。もしその現象が観測できなければ、自分の理論の間違いを証明することにもなります。
 その重大さを理解したエディントンは、1919年の日食時に、イギリスの王立天文学会と王立協会の天文チームを率いて、アインシュタイン効果の観測を苦労の末成し遂げました。その結果、アインシュタインの予測が正しいこと、そして相対性理論の正しいことの両方の証明に成功しました。
 その後、素粒子の世界では、時間が延びるというアイシュタインの相対性理論の効果があることもわかってきました。現在では、相対性理論でなければ説明できない現象が一杯現れてきたため、相対性理論が、常識となっています。
 非常識なことまで、考慮に入れるのは、大変です。たとえ受け入れたとしても、それを外に向けて公言し、実行することは勇気のいることです。もしそれが本当に非常識なものであれば、社会で、あるいは科学の世界では生きていけないかもしれません。ですから、このような重要な決断は、自分が決して譲れない時、場面にだけですることになりそうです。
 以上考えてきたことから、科学の世界でも、科学的に考えても、決して答えの出ないこともあることがわかります。つまり科学は万能ではありません。もちろん、これも科学の成果でです。科学は万能でないことが、科学的に考えることからわかるのです。

・私の信条・
 科学的に考えるということを、私は信条としています。もちろん、常に科学的に考えることが、ベストの選択とは限りません。時と場合に応じて、科学的に考える度合いを、調整しなければなりません。なぜなら、日常生活が、科学的に考えられ、すべて合理的なものだけで成り立っているわけではないからです。もし、日常生活を科学的に考えてだけいくと、ひどく生きづらい生活になりるはずです。
 私の信条も、ですから、科学的に考えていい場合だけに適用するものにしています。日常生活を、常に科学的に考えているわけではありません。ちょっと優柔不断に見えますが、これは、経験上そうなったのです。
 実は、私も、若い時には科学的に考える姿勢が結構徹底していたのですが、社会人になり、家族を持ち、他の人とのかかわり多くなると、そうもできなくなりました。平和に暮らすための知恵が付いたのでしょうか。
 たとえば、SF小説、落語、ドラマ、どれも架空のもので、不合理なことがたくさん前提になったり起こったりしています。また、人間の生活や行動にも不合理なことが一杯あります。社会的な、憲法、法律、規則などにも、根拠がなく取り決められていることが一杯あります。
 身内や友人の不合理な行動をいちいち否定していては、人間関係が成立しません。それに自分自身の行動にも不合理なものが一杯あります。それをいちいち否定していては、一歩も踏み出せなくなります。
 ですから科学的に振舞うのは、ほどほどにすべきだと考えています。非常識な結論が出た場合、それに沿って振舞うのは、自分が一番大切にしている世界だけにしたほうがいいと考えています。
 でも、自分の住む世界で、非常識なでもすばらしい結論が出たとしたら、私はそれに乗っかります。そしてその心積もりはしています。でも、問題があります。それは、そんなアイディアや大発見ができないことです。こればかりは、どうしようもありませんね。