2020年12月1日火曜日

227 仮説と演繹と斉一と

 機能と演繹という方法は、多くの科学の営みの中で、当たり前に利用されています。しかしそれらが、不完全であることを意識されていません。すべてが検証不能の仮説だったのです。


 最近、執筆している原稿の中で、地質学の学問的特徴を考えています。地質学の特徴はなんといっても、過去の素材から過去を探る、ということが一番でしょう。過去の素材とは、過去の形成されたもの(岩石や地層、化石など)のうち、いろいろなプロセスを経て、現在入手できるようになったことになります。古い時代ほど、そのプロセスは長く、そして複雑になっていきます。そのため、過去の情報が失われてきます。そのうち現在まで残ったものだけが、入手でき、研究できる素材となります。

 化石を例にしましょう。化石は、過去のある時代の生物の一部が石化したものです。生物の一部、つまり部分から全体として、その生物の生きていた時の姿(全体像)を想像していきます。その姿から、生活していた行動や営み(生態)を推定することもできるでしょう。その生態から、他の生物の関係(食料や住処など生態系)や生活の場(海陸空や寒暖などの環境)などへと、想像を巡らすことができるでしょう。

 歯の化石が一つ見つかったします。その歯を現在生きている生物と比べると、肉食動物の歯と似ていたとしましょう。化石の歯の大きさから、顎の大きさが推定でき、顎の大きさから頭部の大きさが、頭部から全身が推定できるでしょう。肉食獣であったら、その全身に見合った、餌となる大きさの草食獣がいたことになります。その草食獣の数は肉食獣よりは多かったでしょう。その大きさの草食獣が多数いたということは、それらを支える多くの植物が必要になります。サイズの異なった草食獣もはたずですから、それらが食べる多様な植物もあったはずです。当然、サイズの異なる草食獣もいたはずで、それらを専門に狙う肉食獣もいたはずです。たったひつの歯の化石から、このような類推が可能となります。

 このような類推を支えている考え方は、現在の生物、現在の生態系の知識を転用、援用しているもので、「斉一説」と呼ばれるものです。斉一説は、生物だけでなく、物理学や化学の法則を過去に適用する時に使われる考え方です。例えば、水は高いところから低いところへ流れます。水は氷点下では氷になり、水は暖かいと水蒸気になります。水が多く暖かいところでは、蒸発も盛んになり、雨もたくさん降ります。水が少ないところでは乾燥していきます。

 このような当たり前と思える法則を、過去の適用しようとするのが斉一説です。今当たり前のことは、昔も当たり前だという斉一説も、当たり前のことをいっていると思えます。

 物理学や化学の規則は、現在の検証可能な現象から帰納的に求められたものです。それを、過去にも適用してこうというの斉一説です。斉一説が正しければ、先程の歯の化石一個からの類推の正しさが保証されることになります。斉一説は本当に正しいのでしょうか。

 斉一説には落とし穴があります。それは、過去の事象への適応という一番根本の点です。「化石=過去の生物」は、だれもが「正しい」と思っているのですが、科学において、「正しさ」とは、検証されてはじめて確かなものになります。化石が過去の生物であるということを証明するためには、化石が生物であるという前提が必要になります。しかし、化石は石なので、生きていません。ですから、化石からは、生物であったことは検証はできないし、その前提がないと、現在生きている生物の比較による類推もできないことになります。

 化石の例をだして説明しましたが、過去の起こった事象は、岩石から読み取った情報から、どのようなことが起こったのかを推定することはできます。しかし、その推定が正しかったかどうかは、検証できません。なぜなら、私たちは過去に戻れないからです。これも当たり前のことですが、斉一説には適用限界があることが落とし穴になります。

 斉一説に適用限界があるのは、時間が一方向にしか進まない、不可逆なものだからです。こんな当たり前のことを、つい忘れてしまいがちです。なぜなら、物理学の法則や方程式では、時間の変数があっても、その時間をどこにおいても成り立つものが多いからでしょう。化学では可逆の反応(反応がいったりきたりできる)も多数あります。このような法則や現象では、その現象は時間において可逆であることになります。それが自然科学では多く目にする法則だからでしょう。

 しかし、長い時間の流れ、複雑なもの、大きなものという視点で見れば、時間が可逆でないことは明らかです。エネルギー(石炭、石油、天然ガスなど)も使えば劣化(二酸化炭素になる)していき、同じエネルギーを永遠に使い続けることはできません。熱力学的にはエントロピー増大の法則と呼ばれるもので、時間経過ととものエントロピーが増加し、不可逆であることがわかっています。

 ですから、地球の歴史という視点で見れば、時間変化に伴って、物理学、化学の法則が働く前提となる地球の環境や条件が異なっているため、現在の環境から考えた法則は、無条件には適用できないことも多々あるはずです。つまり斉一説も、制限付きでしか適用できないということです。

 上の例で出した肉食獣の歯の化石で用いた考え方は、斉一説でしたが、もっと広い見方をすると、現在の生物との類似を過去へと演繹したものだといえます。歯から顎、顎から頭部、頭部から全身などは、演繹を繰り返して利用していました。

 演繹法は、正しいと考えられる規則を、別のものへ適用していく方法です。演繹法から新しい法則は生まれません。一方、いくつもの事実から規則性を見出す帰納法からは、新しいアイディアを生み出せるので、創造性がある方法です。帰納されただけの法則は、集めた事実は説明できますが、他の事実に当てはまるかどうかはわかりません。検証する必要があります。検証作業が終わるまで、その法則は仮説となります。仮説が正しいかどうかは、演繹をして、検証していく必要があります。この帰納と演繹で科学は進んでいきます。

 しかし演繹の検証過程に、時間の不可逆性が入ることで、検証不能になります。さらに現在の仮説においても、検証は自然界のすべてに対しておこなうべきですが、それは不可能です。ですから自然科学の仮説には、常に反証の出てくる可能性があります。自然界では帰納法に限界があるということになります。

 上の述べた化石からの類推は、限られた事実から仮説を立てて、その仮定を新たな事実へ演繹して検証しようとする方法なので、「仮説演繹法」と呼ばれ、アブダクション(abduction)と呼ばれることもあります。実は、自然科学の法則は演繹の適用限界があるため、完全な検証ができないため、すべれ仮説となります。ですから自然界の法則はすべて仮説で、科学の営みでは仮説演繹法が使われていることになります。

 完全な検証はできないのですが、少ない事実から仮説を立て、その仮説を演繹することで正しさを増すというものです。その中に斉一説も含まれています。仮説演繹法とは、多くの人が無意識に利用しているものでもあります。危険ですが、利用価値のあるものです。


・不確かさ・

多くの自然科学の法則の背景に、

帰納と演繹、仮説演繹法、斉一説があります。

それを考えると自然科学の不確かさがわかります。

でも、科学は留まることはないので

日夜、仮説が生まれ、演繹が繰り返されています。

そして、科学や技術は進歩しています。

科学する人は、この不確かさ、危うさを

常に意識しておく必要があるでしょうね。


・コロナが近くにいる・

11月は寒い日も温かい日もあり、

その差が大きかったような気がします。

着実に冬が来ています。

通常の風邪やインフルエンザの流行もはじまりそうです。

そして、新型コロナウイルスの感染者数が

わが町でも増加しています。

町には4つの大学がありますが、

多くの大学で学生の感染者の報告が増えてきています。

我が大学では、遠隔授業に切り替えましたので、

学生と教職員との接点がなくなりました。

学内での感染は押さえられているはずです。

しかし、どこかに漏れがあるかもしれませんので、

感染が広がらないことを願うしかありません。

2020年11月1日日曜日

226 修行期間:苦悩と歓喜のループ

 研究者になるためには、専門的な訓練を受けます。それぞれの専門性を身につけるためには、それなりの適性が必要な場合があります。適性があれば、大変であっても、そこに楽しみを見いだせます。


 前回のエッセイでは、研究者の実態を紹介しました。エッセイのLetterでも書いたのですが、もともと書きたかったテーマの部分へと辿り着くまでに、文章量が多くなったので、前半を切り離してお送りしまた。今回は、後半に当たる、研究者が修行期間に、どうモチベーションを維持するか、という話題をお送りします。

 まずは、研究者への道についてみていきます。ただし、これは一般論なので、他の道も、当然、あります。私も少し変わった道筋もたどりましたが、事例として合わせて紹介していきます。

 研究者になるためには、大学の学部学科を卒業後、大学院へ進みます。修士課程(2~4年間)から博士課程(3~6年間)までありますので、それなりの期間、専門的な訓練を受けて、修行をしていく必要があります。

 ここで、修士課程を2~4年間、博士課程を3~6年間と書いたのは、それぞれで修士論文や博士論文を提出して、課程を修了することになります。しかし、2年間もしくは3年間で論文が終わらなければ、最長で修士課程で4年、博士課程で6年まで在籍できるという意味です。その間に論文を提出し、審査を通れば、修士号や博士号を課程内で授与されることになります。これを超えると、論文修士や論文博士となり、ハードルも高くなります。

 修士論文あるいは博士論文は、指導の先生が、内容をチェックして、了承されたものを提出することになるので、審査は特別ことがない限り、通ることになるはずです。また、大学によっては、論文提出のための条件を定めているところもあります。例えば、私が博士論文を提出した大学では、公表論文を3篇以上、その内1篇以上が査読論文と英語論文であること、などの条件を設けていました。

 研究者となるための最初の訓練は、大学の学部で専門分野を学ぶ時からはじまります。学部の頃は、だれもがその分野の初学者というべき存在になります。初学者の頃は、専門に関する基礎的な知識から応用までを広く学びながら、データを得たり、処理したりする専門分野に関する技能も同時に身につけていくことになります。

 どんな分野であっても、一定のレベル(一人前になる)に達するためには、それなりの修行期間を経ることになります。修行で、その職種固有の知識や技能を身につけることになります。

 私の場合は、地質学の知識を身につけながら、研究を遂行するための基本的なスキルを訓練をしていきました。地質学的スキルとしては、いろいろなものがあります。例えば、野外調査で岩石や地層を見分けること。露頭の位置を地図上で把握し記録すること。見えない部分の地層の分布を、図学的に推定し地質図を作成していくこと。採取した試料を処理して顕微鏡観察できるように薄片作成にすること。薄片を顕微鏡で鉱物を同定したり組織を識別していくこと。試料を化学分析するために調整し、実際に分析すること。得られた分析データを解析していくこと。などなど、非常に幅広い技能を身につけるとともに、専門知識を活用して、研究の方法を学んできます。

 技能を身につけたとしても、それぞれの作業は、一人前の研究者になってもおこなうことになります。中には、地道な努力を強いるものも多く、苦痛に感じることもあり、それに耐えながら研究を進めていかねればなりません。

 研究を継続していくのは、なかなか大変です。しかし、専門的に学んでいくと、興味を覚え、それを追求していきたくなるという、好奇心が湧いてきます。好奇心は多くの人が持っているし、小学校の教育でも、「興味、関心」などいって、好奇心を持つように教育をおこなっています。マニアやオタクと呼ばれる人が、熱中するのも同じ好奇心からでしょう。好奇心は、だれもが、持っているものです。しかし、本業となってくると、好奇心を維持するのは、なかなか大変です。

 研究の修行時代、好奇心だけでこなすには大変なのですが、それを耐えるための楽しみも見つけられるようになります。労力の末、得られる喜びです。苦労が大きくなるほど、喜びも大きくなります。新知見の発見、新しいアイディアを思いつくこと、論文が書き上がること、投稿が受理されること、いろいろな局面があります。それぞれに、大変さとその先に喜びがあることを見出していきます。大変さと喜びを経験することも、あるいはその経験こそが、修行の重要な目的ではないでしょうか。苦労の先に喜びが期待できないと、現在の苦悩には耐えきれないのです。

 この苦労と成功、それに伴う苦悩と歓喜もあります。苦悩と歓喜の繰り返しループを経ながら、一人前になっていきます。苦悩と歓喜の繰り返しの過程が、研究の道へ「病みつき」を生んでいくのでしょうかね。


・紅葉の盛りに・

先日校務で函館にいきました。

前泊だったので、途中の大沼公園を一巡りしました。

紅葉が盛りで、艶やかな木立の中の道で、

大沼を一周してきました。

ただ、残念ながら、小雨の降る中だったので、

のんびりと散策する余裕はありませんでした。

ところが、翌日、晴れの大沼公園を通ることになりました。

帰りを急いだので、晴れの大沼の紅葉は

高速から横目で眺めるだけでした。


・警戒ステージ2・

北海道では新型コロナウイルスの感染者数が増え、

警戒ステージが2とひとつ上がりました。

今後の、推移が心配になります。

今の所、大学では、レベルを上げるまでには

至っていませんので、これまでの授業形態が維持されています。

ただ、これからは寒くなってくるので、

今後も予断が許されません。

2020年9月1日火曜日

224 縁なき衆生は度し難し

 正しいことがわかっていても、つい、心は他の方向や他のものを選択することがあります。心は不思議なものです。しかし、心を律するのは理性、知性しかありません。理性的に知力を使って生きていければと思っています。

 「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し」という仏教用語あります。この言葉は、一般にも使えると思います。「縁」とは、本来は仏とのつながりですが、広く賢者、科学的見地での考えられる人となるでしょう。「衆生」とは、すべての人々のことです。「縁なき」とは科学的に考えられない人々のことです。「度す」は、悟りの境地へ導くという意味ですが、広く考える正しい道へ導くということでしょう。「度し難し」とは、導くのが難しいということです。つまり、「縁なき衆生は度し難し」とは、科学的に考えられない人は、正しい道へ導けないということになります。別の言い方をすれば、「馬の耳に念仏」あるいは「犬に論語」となるでしょうか。
 さて、本題です。目に見えない存在を信じることは、困難なように思えます。しかし、実際には多くの人が、見えないものを信じています。そのいい例が、ウイルスではないでしょうか。
 ウイルスの対処の困難さは、見えない点です。しかし、これだけ医学が進み、その微小な姿を映像化して示されると、肉眼では見ることができないのですが、そこに存在するかように信じて、行動しています。そこに存在するかどうかが不明であっても、存在するという前提で、対処しています。このような考えは、「予防原則」、あるいは「予防措置(precautionary measure)(原則)」などと呼ばれることあります。
 科学的に結論が出ていない課題であっても、対処が必要なときがあります。結果として被害の大きなことを想定して対処しようというもので、予防措置原則が用いられます。ただし、適用しすぎてしまうと、「怪しきはすべて禁止」となるので、注意が必要です。
 新型コロナウイルスは、7月からの大きな第2波が現在も継続中です。都市部(東京、大阪、神奈川、愛知、福岡など)とともに、沖縄も感染が拡大が継続しています。毎日の感染のニュースで、人は馴れてしまい、地域によっては毎日の新規感染者が200人だと少なく感じてしまいます。馴れによって、つい油断していきます。
 科学が発達していない時なら、病気の原因となるウイルスは、見えないものですから、その存在を信じない人もいたはず。しかし、同じ時代の人が、お馴染み得ないものでも「神」の存在は信じていたりします。時には、現実に起こった論理的、科学的に考えれば、その原因がわかるものですら、神が成したと信じることもありました。人の中には、矛盾した心が存在しているようです。
 現在では科学が進んでいるので、科学で確認されていない存在(例えば、幽霊や宇宙人、超能力など)は信じないことが多いと思いますが、星座や手相の占い、血液型による性格判断、県民性など、科学的根拠がないとされていることも、日々メディアが放送し、多くの人が話題にしています。まあ、人は、信じたいものは、たとえ科学的はありえなくても信じることがあるようです。現在でも、教育を受けた人にも、矛盾した心は存在しているます。
 多分、このような矛盾した心の存在は、どんなに科学が進んでも、教育が進んでも、残るものなのでしょう。矛盾した心が、個人の思想信条や、個人の心の問題である限りは、他人が口出しすべきことではありません。しかし、そのような矛盾が、他者、あるいは多くの市民、コミュニティ、国民を巻き込むことになれば、問題となります。
 現在、新型コロナウイルスの形態や特性、遺伝子情報などは確認され、その特徴と対処法も少しずつではありますが、わかりつつあります。また、一般の感染症に対する、科学的対処もわかっています。新型コロナウイルスへの完全な対処は、ワクチンの完成を待つしかないのでしょうが、それができるまでは、予防措置原則でウイルスの蔓延を抑え込むことが必要不可欠でしょう。
 新型コロナウイルスの対策に対して、抑え込んだ他国の事例を見ると、科学的な考え方と予防措置原則に則ることを決め、強いリーダーシップのもとで対策が実施されていることがわかります。一方、我が国では、科学的考え方があっても、予防措置原則を知っていても、リーダーシップがなく、中途半端な対処が、日本の現状を生み出しているようです、また、初期段階での対処の間違いが、現在のアメリカの状態を生んでいるのでしょう。指導者は、衆生を度することこそが、もっとも重要な役割のはずなのですが、・・・。
 科学先進国で、経済発展もしている日本という国で、このような事態が起こっていることは、由々しきことではないでしょうか。科学者たちは、科学的考えをもって政府に助言しています。他国の成功例も、いくつも示されているます。予防措置原則による方法論も確立されています。また日本には、経済力も医療体制も整っています。衆生は度される資質と従順さをもっています。なのに、指導者が「縁なき衆生は度し難し」なのでしょうね。

・自粛の継続・
今年の北海道の夏は、暑い日が何度かありましたが、
それでも過ごしやすい日が多かったです。
それが北海道の夏の魅力です。
3月以降、出かけることが全くありませんでした。
ほぼ、大学と自宅の往復だけで過ごしました。
家内の外出も、曜日を決めて、買物しに出かけますが
外出は最小限にしています。
8月末に、校務での出張が3度ありました。
しかし、9月には、道内で調査をしたいと考えています。
新型コロナウイルスの感染状況には、
常に気を配ることになります。
いつ中止になるかがわかりませんので、
様子をみながらです。

・体験が残すもの・
大学では、後期も遠隔授業を
多数の講義で、取り入れざるえないでしょう。
しかし、少しずつですが、
対面授業を復活させはじめることになるでしょう。
時間短縮や三密対策をした上での
対面授業の実施となります。
いつまで続くがわからない不安があります。
新型コロナウイルの耐え忍んだ体験は、
日本国民の将来にいったい、何を残すのでしょうか。

2020年8月1日土曜日

223 倦ずおこたらず:うひ山ぶみ

 大学の今年度の授業は、ほとんどがリモート講義になりました。先生の工夫でいろいろな形式の講義がおこなわれています。その結果、大学の学びの形が変わってきました。学びの本質は、どうなっていくのでしょうか

 新型コロナウイルスの第二波が起こっています。いくつかの大学や大学生でも、感染が発生しています。でも大学では、淡々とオンライン講義、遠隔授業で学びが継続されています。オンラインによる学びは、インターネットを介して、大学で指定されたサイトに接続して、そこで履修している各授業を受けます。大学ごとに指定されたいくつかの遠隔授業の方式に従って、講義がおこなわれています。不慣れの先生や、準備が十分整っていない状態でも見切り発車でもありました。
 オンライン講義には、リアルタイムでのリモート対面講義(ライブ講義)、さまざまな媒体をサーバーで公開して学生が自身の都合で講義を受講するオンデマンド型授業(教材提供型授業)などがあります。リモートでの対面講義でも、我が大学ではアプリケーションとして3種(Teams、Big Blue Button、Zoom)ほどが使われています。オンデマンド講義での媒体も、書面(マイクロソフトのワードの文章など)で示したり、プレゼンテーション資料(パワーポイントの書類、音声付き書類など)を示したり、実際の授業を撮影し、その動画を学生がダンロードして見る(学生とサーバーに負担がかかるので推奨されていません)などがあります。先生は講義の内容、あるいは自身のスキルやシステムに応じて、それらを組み合わせて講義を作り直して進めています。他にもいろいろな方法があるでしょうが、大学のサーバーの能力や手段の選択によっても授業の実施の仕方はいろいろありそうです。
 これまで、通信教育や予備校などで、このような方法が使われていました。でも、それなりの準備や設備を整えて実施にはいったはずです。しかし、今回は、多くの大学や専門学校で、待ったなし、準備期間なしにスタートすることになりました。教員側には、戸惑いがあり、日々、講義の準備に消耗、疲弊していきます。
 講義資料を公開して課題を提示し、学生が課題を提出することで進めていくタイプのもの、ライブでの対面講義(3種類のアプリケーションを使用)のタイプのものを、講義のタイプに合わせて使っています。大学の会議や打ち合わせも、リモート会議となっています。
 先日、リモート授業でトラブルがありました。その講義は大人数の講義なので、講義資料を公開して、学生はそれを読んで、与えられた課題を調べてレポートにして提出するという講義にしています。公開した授業資料が間違ったものをアップロードしてしまいました。すると複数の学生が、すぐにミスに反応しました。私のミスですが、実際の授業なら、その資料をプリンターから打ち出した時、配布用にプリントを印刷する時、学生に配布する時など、ミスに気づくチャンスは何度もあり、間違った資料の配布には、どこから私自身が気づけます。しかし、リモート講義では、そのようなチェックが経ることなく、資料をリモートのサイトに公開してしました。複数の学生がすぐにミスに気づき、反応したのは、当たり前なのですが、見えない学生の存在を感じることができました。今後、気をつけなければと猛省しました。
 学生もそれぞれの目的、目標をもって、大学で学んでいるはずです。遠隔での学び方は、誰も望んでいるわけでも、吟味して選ばれた形式でもありません。新型コロナウイルスの流行によって、仕方なし、待ったなしに取られた手段です。講義の形態も、現状の大学がもっているリソースと能力に合わせておこなわれています。学生も教員も、このような遠隔授業の形式を選ぶことも、準備することもなくはじまりました。
 現在、私も学びを継続しています。例えば、遠隔授業の方法や使い方など、まだまだ不慣れで、未だに「こんなことができるのか」という驚きもあります。しかし、記憶力の低下、効率、集中力の衰えは、如何ともしようはありません。興味、好奇心があるかぎり、学び続けていきたいと、日々励んでいます。
 学ぶ形式、方法は、人それぞれで、向き不向きがあります。また、学びの効率もさまざまでしょう。大学の講義も終盤を迎えて、「学び」について考えました。
 学びについて、本居宣長が「うひ山ぶみ」で大切なことを述べています。「うひ山ぶみ」とは、宣長が門人に対する入門書として著したものです。宣長の代表的な著作である「古事記伝」は、「古事記伝」は1764年(明和元年)に起稿して1798年(寛政10年)に脱稿するまで、書き続けられました。自身の学びの大きな目標を成就したあと、書かれた学びのための書です。
 「うひ山ぶみ」の最初に、「詮(セン)ずるところ学問は、ただ年月長く倦(ウマ)ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」と述べています。学びの姿勢をいっています。多分、自身が「古事記伝」の執筆に35年間を要し、その間、学び続けてきた経験からいえることでしょう。
 加えて「学びやうは、いかやうにてもよかるべく」としています。方法は問わない、ただ「止(ヤム)ることなかれ」といっています。同感です。現在の学生たちも、学ぶことを止めてはいません。どんな形式、様式の学びであろうと、学び続けることが重要です。私も学びを止めないように、日々心がけたいと思っています。
 学びの成果は、才能のある人、ない人など、人の能力を問いません。自分には才能や能力がないと思って、諦めた時点で、その人の学びは終わり、成果も止まってしまいます。「不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也」ということです。学べば、必ずや「功」が得られるのです。
 そして、「晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり」ともいっています。宣長自身、35年間継続して「古事記伝」の執筆続け、68歳になって完成しています。当時の68歳はかなりの高齢でしょう。宣長はそれでも、完成を目指して学びを続けていました。重みのある言葉です。
 さらに「暇(イトマ)のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也」ともいいます。目的をもって学べは、時間がなくても、それなりの成果が挙げられはずです。忙しさを口実にして、学びを止めることで「功」が挙げられなくなります。自分が、どんな状況にあって、学びたい時が学べる時、身につく時です。自分の置かれている条件、環境、状況などに阻害されることなく、才能や能力などに考え悩むことなく、学んでいくことです。
 皆さん、形や場所、自身の状況や能力などを問うことなく学んでください。親の収入や、自身の境遇などが、世間では格差が問題にされています。学生の皆さん、そのような外力や外圧、世論で、学びが止まってしまうことこそが、一番の問題です。自身に必要と考えられる学び、自分が興味をもっている学びは、「とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」です。

・学び続けること・
前期の遠隔授業も終盤になりました。
成績評価も、通常とは異なっていきいます。
出席という概念もどう適用するかが
難しい講義もあります。
また、サーバー上に、学生のアクセス記録が
どのような形で残っているのか。
学生の学びの記録をどう評価に反映するのか。
よくわからないこともまだまだあります。
すべてがはじめてのことなので、
戸惑いながら、試行錯誤しています。
これも新しい学びでしょう。
「とてもかくても、つとめだにすれば、
出来るものと心得べし」

・大学生の発症・
いくつかの大学で、発病者が続いています。
検査をすれば、大学生には
無症状の感染者もいるような気がします。
生活のための復活してきた
飲食で働いている大学生も多くいます。
彼らも感染の危険性を考えながらも
生活のために働いています。
それまで、アルバイトがストップして、
苦しい生活を強いられていた学生にとっては、
背に腹は変えられない状況でしょう。
治療薬やワクチンができるしか
解決策がありません。
一日も早い開発を願うしかありませんね。

2020年7月1日水曜日

222 生命は概念か科学的現象か

 生物と生命についです。生命の意味するところを、深く考えることは少ないと思います。今回は生命について考えていきます。少々ややこしい話になりますが、読んでいただければと思います。

 前回はウイルスについて考えたのですが、ウイルスを考えるとき、生物が満たすべき必要条件として、代謝、個体、複製、進化の4つのキーワードで示しました。これらの条件は、多くの生物が満たしていますが、ウイルスは代謝の機能を持っていないので、生物の定義からはずれるので、生物と無生物の間に位置するような存在でした。
 生物がもっているべき必要条件とは、それさえ満たしていれば生物といえることかいうと十分ではありません。なぜなら、生物ならばこれら4つの条件を満たしていなければならないという、帰納的な考えて抽象された概念を集約したものです。これらの条件を満たしていたとしても、生物とは限りません。それが必要条件の限界、帰納法的限界でもあります。
 例えば、この4つの必要条件では、生と死の境界が曖昧になっています。死ねば生物ではなくなるはずですが、その境界をこの条件では定めていません。ではその条件を加える必要があります。では、生の側である「生きている」というとはどのようなものでしょうか。
 「生きている」を「生命」という視点で捉えることができます。これが、今回のテーマです。
 岩波生物学辞典では、「生物」の定義は、「生命現象を営むもの」としています。生物学辞典でも、生物における「生命現象」の重要性を指摘しているので、この検討方向はよさそうです。ところが、同じ生物学辞典に、「生命」の項では「生物の本質的属性として抽象されるもの」となっています。なるほど、生命の定義を考えると、生物の属性のなかもで、すべての生物が持っている(抽象される)本質的なものが「生命」だとしています。
 しかし、よく考えてみると、なんだかよくわからない定義になっています。それは、トートロジーになっているからでしょう。生物は生命という用語を用いて、生命は生物という用語を用いて定義しています。トートロジーとして、同語反覆の構造を含んでいます。「ただし生命は生物の本質的属性と定義されるので、両者の関係はトートロジーとなり、この問題は古くからの論議がある。」と生物学辞典にもトートロジーであることが記されています。わかっていても、あえてそう記述しているのは、生命や生物の定義が難しいことの現れで、苦肉の策でもあるのでしょう。
 定義がはっきりしなくても、「生きているもの」と「生きていないもの」の境界、つまり生と死の境界が、なんとなくわかるような気がします。例えば、ペットの犬や猫などが死ぬとき、なんとなくその瞬間がわかります。道端に動かない鳥がいたら、死んでいるように見えます。「なんとなく、死んでいる」と感じるのは、同じ生物同士、生命を宿しているもの同士、相通じる「なにか」があるためでしょう。それは生命を有しているもの同士が、何かを共感しているのかもしれません。
 しかし、植物や地衣類など、私達とは、生き方が大きく異なっている存在の生死がわかるでしょうか。木の枝の枯れた部分があれば、そこは死んでいるとわかります。しかし、ある木や苔で、今、枯れた部分や時期を指摘できるでしょうか。わからないと思います。
 生きているもの同士の共感は、生き方が似ているもの同士でおこるものであって、異なるものへは共感が生じないようです。となれば、その共感は、生物としての類似性への共感であって、生死への共感ではないのかしれません。
 さらに問題は、その共感を定義し、客観的に示すことができない点です。これは、生命の定義ができないという、振り出しに戻ります。もっとも自身に身近な「生きている」ということの定義ができないのです。
 さて、ここまで述べてきた生命に関する議論は、実は哲学における大問題でもありました。アリストテレス以来、「生命とは何か」を解き明かすために、多くの哲学者がこの問題に挑んできました。
 例えば、ドイツの哲学者ヘーゲルは、生命とは「この物質は存在する物ではなく、普遍的なものとしての存在、あるいは概念というあり方をしている存在である」としています。つまり、生命とは概念であり、概念であるから私たちは生命を認識できるのだ、といっているわけです。逆説的にみると、概念の認識であって、生命は見えるものではなく、科学的検証が及ばないものだともみなせます。
 自然科学の進歩によって、いくつかの状況変化がありました。ひとは生命が神がつくったものではないということを、ダーウィンが進化論の導入から推定されてきました。また、20世紀には科学の発展により、生物に関する微細の組織の観察、生物や細胞内の各種の化学組成の分析やその働きの理解で、生命現象を科学的に検証する手段が生まれました。その結果、情報が膨大に蓄積されてきました。
 医学から科学哲学へと進んだフランスのカンギレムは、1966年の講演「概念と生命」で、「概念はわたしたちが生命に近づくことを可能にすることができるのだろうか、あるいはそれはどのようにしてなのだろうか。ここで問われているのは概念の本性と価値であり、生命の本性と意味である」という問いを発しています。その答え、あるいは探求のための方法論として、シュレーディンガーの仕事があります。
 量子力学を作り上げた中心の物理学者でもあったシュレーディンガーは、1943年には、「生命とは何か」で、「今日の物理学と化学とが、このような事象を説明する力を明らかに持っていないからといって、これらの科学がそれを説明できないのではないか、と考えてはならない」と述べています。実際に彼は物理学者でありながら、生命の謎に挑んでいきました。翌年には、「生命とは何か 物理的に見た生細胞」を著して、分子生物学で生物現象を追求できる可能性を説きました。
 シュレーディンガーは、生命現象は、無秩序から秩序、さらにはその秩序を維持する仕組みあることを指摘しています。生命現象は、エントロピー増大の法則から逸脱しています。そのため、生物はまわりから「負エントロピー(ネゲントロピーと呼んでいます)」を摂取することで、エントロピーの増大を抑えていると説明しました。現在では、物質やエネルギーとしての負エントロピーの実在は否定されていますが、この考えは重要です。生命現象を科学的客観性を導入しようとした試みでもあります。
 さて、現在生物の詳細に関する研究は生物学の重要なテーマですが、単純に「生きている」あるいは「生命」に対する取り組みは、生物学だけでは解明できない、大きなテーマなのでしょう。そして、あまりに曖昧な概念でもあります。しかし、生物学の進歩から、生物の必要条件である代謝、個体、複製、進化の4つの実態が解明されてきました。生物の仕組みを解明から生命の外堀を埋めていく努力、さらなる概念の帰納を、怠ってはならないでしょう。

・シュレーディンガー・
このエッセイではシュレーディンガーとカタカナしましたが
私はこれまでシュレディンガーと発音していました。
調べるとシュレディンガーの記述しているものも見かけます。
名前としては、ドイツ語で、
Schro(o ウムラウト oe とも表記)dingersと表記されています。
これは、以前大学でドイツ語を習ったとき、
oウムラウトは「エ」と発音するように覚えました。
そのため、シュレディンガーと発音し、
他の文献もそう書いているものがありました。
ところが、いろいろ見ていると、現在では、
シュレーディンガーと表記するようになっているようです。
このような外国語の発音、表記にも時代変化があるようですね。

・はや7月・
はや7月です。
年度末から新年度にかけて、
大学のリモートによるゼミナールや講義、
会議もリモートになっています。
初めてのことに追われていうちに、気づいたら7月です。
北海道は6月上旬くらいまでは
夏めいてきていたのですが
6月中旬からは天候不順で寒い日が続いたので
夏の気分がすっかり抜けてしまいました。
昨年冬から異常気象と新型コロナウイルスへと
異変に振る舞わされていますね。

2020年6月1日月曜日

221 ウイルス:無生物として進化

 新型コロナウイルスの大流行で、ウイルスについてもテレビや新聞、ネットなどで、いろいろと知識を得られた方も多いと思います。ウイルスを通じて、生物や生命について考えていきましょう。

 今回はウイルスについてです。ウイルスは生物だと思っている人も多いかも知れませんが、「ウイルスは生物ではない」というのが、多くの生物学者の見解のようです。ウイルスと生物について考えていきましょう。
 生物は多様です。多様ですが、すべて生物が満たすべき必要条件が考えられています。生物として満たすべき条件は4つあります。平たい言葉でいうと、「食べる、排泄する」、「入れものにはいっている」、「コピーをつくる」、「変化する」の4つです。
 「食べる、排泄する」とは、生物学では「代謝」のことをいいます。代謝とは、生物が生きていくために、外部から必要な成分を取り入れ(食べる、と表現しました)で、不要になった成分を排出(排泄)することです。これは生物が活動し、成長していくために不可欠な行為となります。
 「入れものにはいっている」とは、生物学では「個体」と呼んでいます。生物と外界との間に境界(隔壁、細胞膜、皮膚など)をもっていることで、自身と周りを区分するために必要なものです。そして、生物は1こ、2こと数えられる存在となります。自己と外界、環境などが区別できます。また、代謝を定義するためにも、不可欠な条件となります。
 「コピーをつくる」は、生物学的には「複製」と呼ばれています。生物の個体は、長く使っているといろいろな部分に不具合が生じたり、機能が不全になったりします。使用期限が、生物ごとにあります。そのため、自分たちの仲間を残こすためには、自分と同じ機能や特徴をもった複製していきます。複製することで、自分と同じか似たもの(子孫)が生き延びていくことができます。自分自身ではありませんが、自分と同じ「個体」、「子ども」がつくること、「子孫」を残すというで生き延びることです。生物は、この「複製」の機能によって、時間経過による劣化に対応しています。
 「変化」とは、生物学の言葉では「進化」になります。「複製」される時、時々ミスコピーが起こることもあります。その多くは生き延びられないのでしょうが、稀に生き延びられるものが出てきます。その「ミスコピーの子ども」の多くは、生存競争に負けたり、次の子どもつくれなかったりします。しかし、長い時間の経過があると、稀に子どもをつくれるものもでてきます。その子孫の中には、稀でしょうが他の環境へ進出できる能力をもっていたり、環境変化に耐性をもっていたり、もしかすると周りより優れた能力をもつももいるかも知れません。このような小さな「変化」の積み重ねが、やがて「進化」となっていきます。
 単細胞生物は、分裂することで「複製」ができ、サイクルも早いので、「変化」や「進化」も起きやすくなります。一方、多細胞生物、特に動植物などのように複雑な生物は、「複製」のサイクルも長期間の後になります。そのため、「変化」にも時間がかかります。そのため、雌雄(オス・メス)で子どもをつくることにして、「変化」を起こしやすくしています。
 現在の多様な生物は、このような「進化」の結果として生まれたはずです。現在、生きて子孫の残し続けている生物は、すべて生存競争や時間の淘汰を乗り越えて生き延びてきた生物になります。
 このような4つの条件を満たすものが生物の定義といえます。ウイルスは、4条件を満たしているでしょうか。
 ウイルスは、「個体」になっています。「飛沫感染」や「接触感染」は、ウイルスの「個体」が宿主内に入っていくことになります。ウイルスは体内で増殖していき病気になるので「複製」もしています。また、「ウイルスは変異する」というように、ウイルスも「変化」していきます。生物の4つの条件のうち、3つを満たしています。
 ところが、ウイルスは、細胞として「代謝」の機能をもっていません。タンパク質とDNA(あるいはRNA)は持っていますが、他の生物の細胞に入り込み、その細胞がもっている「代謝」機能を借用しています。宿主の代謝機能を利用して、自身と同じDNAをもつ個体を複製していきます。ですから、ウイルス自体は、「代謝」の機能を欠いているので、必要条件を満たしていません。だから、生物とはいえません。生物学者がウイルスは無生物だという理由です。
 ウイルスは、生物が存在しないと生きていけません。ウイルスは無生物とされているのですが、生物ありきです。生物なくしてウイルスは存在しえないのです。では、そもそもウイルスはどのようにして誕生したのでしょうか。
 生物の誕生については、いろいろな研究、議論があります。そこから次のような誕生から進化のシナリオが考えられています。すべて生命には、共通祖先が存在し、そこから進化によって多様な生物が誕生したというシナリオです。共通祖先から、古細菌と細菌(バクテリア)が誕生し、次に古細菌から真核生物が進化してきた、という仮説がもっとも一般的です。このような生物の誕生と進化のシナリオのどこに、ウイルスの出現が関わってくるのでしょうか。
 ウイルスの起源については、かつて3つの仮説がありました。
 生物が出現する前にウイルスが現れたという「ウイルス優先仮説」があります。ウイルスは生物より単純なので、先に出現したというものですが、生物が出る前に誕生したとしても、代謝機能がないので、宿主(他の生物)がないと複製できないという矛盾がありました。
 もともとは細胞に寄生する細胞だったのですが、そこから遺伝物質だけが還元されてできたという「還元仮説」(縮退仮説とも呼ばれる)があります。これは、寄生して生きる細菌(寄生細菌という生物)に似た巨大なウイルスが発見されたことから支持されました。しかし、寄生細菌とウイルスは似ていないという基本的な問題がありました。
 ウイルスはもともとは普通の生物であったのですが、そこからDNAあるいはRNAだけが飛び出してできたという「脱出仮説」(流浪仮説)があります。しかし、この説では、細胞にはないウイルス固有の構造が説明できないという問題がありました。
 いずれの仮説も課題があり、未解決でした。そこに登場したのが、「共進化仮説」です。生物が誕生したとき、同時にウイルスも進化したという説です。生物が誕生するためには代謝が必要です。代謝には栄養(エサ)が必要になります。その栄養源付近にはウイルスが誕生しやすい環境があり、そこで誕生したとされるというものです。
 もうひとつ「キメラ起源仮説」が2019年に発表されました。「キメラ」とは、ひとつの細胞の中に、異なった遺伝情報をもつ細胞が混じっているものをいいます。キメラは珍しいものではなく、植物とそこに「接ぎ木」した枝などは、キメラの状態となります。もともと生物が誕生するとき、混在していた遺伝子のプールから、他の細胞の機能を利用して生きる仕組みをもった遺伝子からできたものが、ウイルスとなったという仮説です。この仮説は先に述べた3つの仮説とは少し異なっていますが、「ウイルス優先仮説」と「脱出仮説」が組み合わさったものとなっています。
 生物の誕生すらまだ確定していないのですから、ウイルスの誕生を理解するのは、まだまだ先のことかもしれません。しかし、ウイルスの誕生は、生物がないと成立しないので、もし現在のウイルスを素材にして、誕生についての研究が進められたら、どこかで生物の誕生への束縛条件が生まれるかも知れません。期待したいものです。

・知の集結・
新型コロナウイルスの流行で、
世界中で多くの研究者がウイルスに関心を持ち、
関係する研究論文も大量に公表されています。
治療薬の治験やワクチンの開発なども
使命感をもった多くの研究者が関わっています。
通常の手続きや規模ではなく、
人類が総力を挙げて、
対応に取り組んでいるように見えます。
非常に力強さを感じています。
通常よりも早い時期に対処法ができることが
期待できそうですね。

・それでもウイルスは生物・
ウイルスは無生物だといいました。
でも、私は生物だと思っています。
生物の4条件は満たしていないのですが、
生物の多様性を考えるのであれば、
そのような特異なものも含めてもいいと思います。
また、ウイルスを調べるためには、
生物学の知識が不可欠です。
そしてなによりウイルスは、生物学者が調べています。
生物学なくしてウイルスはありません。
この構図は、生物なくしてウイルスはないと似ています。

2020年5月1日金曜日

220 自粛と独学:ピンチをチャンスに

 新型コロナウイルスは、猛威を現在も奮っており、感染するかという不安を常に陥れられています。自衛として自粛をしる限り、感染の可能性は最も低いはずです。自粛という逆境を利用して、次なる飛躍を目指しましょう。

 世の大人は、自分の目で世の中を見て、自分の頭で考え、自身で判断し、そして自分で行動してきました。ところが、小さい子どもなら、親や先生が見方を教え、考え方を教え、判断の仕方を教え、そして行動するように指導していきます。それまで一人でできなかった子どもも、長い期間練習し学ぶことで、だんだんと一人でできることが多くなってきます。やがて、すべて一人できるようになると、社会に適応したことになります。そして、一人前になったとして、社会にでていきます。それが大人になることでしょう。
 ただしこれは理想であって、現実はそうではありません。昔の日本では小さいうちから社会に出され(例えば、丁稚奉公として)、ひとつの職種で一人前になることが最優先されてきました。その修業の一環で、大人になるための教育も同時に進められてきました。それでも、充分社会常識や生きる力が身についていました。
 現在では、社会が複雑になっており、学ぶべきことも多様になっており、系統的な学びを進めていかないと、適応力が身につかなくなります。現在の日本では、義務教育が9年間ですが、多くの子どもたちは、高校から大学まで、7年間の学びを継続していきます。さらに専門家を養成するためには、大学院で2年から5年の学びを続けます。高度の専門性を身につけるためには、少なくとも、21年の学びが必要になるということです。
 本当にそんなに時間が必要でしょうか。特化した学びはもっと短時間で習得できるのではないでしょうか。例えば、丁稚の小僧が、見よう見まねで、仕事を覚えていくのですから、専門学校での集中的な教育なら、少なく2、3年で専門的な知識や、技術を身につけられます。より高度、より専門を望めばキリがありません。でも、一般的専門ならば数年で身につけられるということでしょう。
 ところが、こんなに長い時間をかけて学んだことが、社会に出た時、活用できるかどうかは、また別の問題です。実際に社会で使ってみることです。昔の丁稚は実際の現場に立ち、師匠の手助けや小間使からはじめて、現場のことを覚えていきまし。ですから、学びが最初から実用的な技術であり、知識でした。丁稚の特化した技術なり知識の習得では、実用的、即戦力はありましたが、体系化された学びではありませんでした。学習者自身の中で学んだことに対しての応用力、つまり知識の普遍化、一般化が必要になるはずです。そこには個人の能力の違いが、大きく反映されたでしょう。大きな発展や、独創性は、個人の能力に依存していたことでしょう。そのような才能はまれでしょうから、発展には長い時間が必要になることでしょう。
 現代の教育は、だれでも一定の努力をすれば、体系的な学びから、普遍化、一般化された応用力まで身につけることができるようになっています。そのために、16年から21年にもおよぶ多くの時間が必要になっているともいえます。現代の教育は、何かに特化した専門家や、どんな専門にも対応可能なジェネラリストの養成も、いずれにも対応したシステムであるといえます。
 昔ながらの学びと現在の学びのどちらがいいかは、どちらにも一長一短があり、一概にはいえません。
 そんな中で、学び方を知っているかどうかが、重要ではないでしょうか。現在、学校教育ではアクティブ・ラーニングが導入され、能動的に学ぶことが推奨されています。能動的に学べば、「学び方」が身につき、学校で教わらないことも、自身で学ぶ方法、「独学の方法」が身についていくことになります。独学は、回を重ねるほど学びの速度は上がるはずです。ただし、たっぷりの時間と心に余裕がないと、独学をはじめ、目標を達成することは難しいかも知れません。
 さて、2月下旬からの新型コロナウイルスの流行により、緊急事態宣言が発令されてから、自粛生活が日本全国でおこなわれてます。特に感染者が多数だったり、増えている地域では、自粛への呼びかけも活発で、ストレスも溜まっていることと思います。北海道も、その対象地域となっています。
 幸いながら、私は、自粛のストレスはありません。それを説明するまえに、そもそも自粛のストレスとは、どうして溜まるのかを考えていこうと思います。自粛のストレスは、動けない、移動できないという束縛感、あるいは不自由感から来るのではないでしょうか。
 同じことをしていても、意に反することであれば、ストレスになり、好むことであれば楽しみになります。例えば、学校の授業でも、楽しく面白いと思い興味を持っていれば、60分であろうと90分であろうと、あっという間の時間に思えるでしょう。一方、つまらないと思っていると、たとえ45分30分でも退屈な時間になるでしょう。まして、強制された学びなら、10分も耐えられないでしょう。
 同じ行動や作業でも、心の持ちようで、時間経過の感じ方が、大きく変化してきます。そして、心の持ちようによって学習効果、習得率も異なってくるでしょう。同じ時間を過ごすのであれば、能動的に、興味をもっていれば、有意義になり、充実したものになるはずです。
 インターネットへの常時接続の家庭やアパートなども多くなり、接続時間や接続容量などを気にすることのない人も多くなっていると思います。それを利用して大学の授業は、少なくとも5月中はネット配信でおこなうことになっています。ですから、自宅での独習、自習という、自発性の高い学習がしばらく行われることにことになります。その時、心の持ちようの差で大きな学びの差ができるでしょう。
 5月上旬まで緊急事態宣言の中です。ゴールデンウィークであっても、児童、生徒、学生でない人も、自宅での自粛や自宅勤務で過ごす人も多いはずです。時間はたっぷりあるはずです。そんなとき、独学がいいのではないでしょうか。今まで時間がないことを理由に後回しにしてきたことを、この機会にはじめてみてはいかがでしょうか。
 幸い、経済活動が停滞している中ですが、宅配で書籍の入手も可能ですし、デジタル書籍なら即座に入手できます。さらに、インターネット上にもいろいろな学習サイトもあり、YouTubeなどには動画で学べるサイトも多数あります。独学にはうってつけの条件、環境ではないでしょうか。今回の新型コロナウイルスというピンチを、自身の独学のチャンスに変えてはいかがでしょうか。
 もし、そのような独学の時間を過ごせれば、有意義な時間になるでしょう。もしかすると、自粛の時間では足りないほどの独学ができるかもしれませんね。

【私の独習】
 このように独習の必要性を述べている私は、どんなことを学んだのでしょうか。少し紹介しましょう。2月辺りからある数学の必要性を感じていたのですが、学ぶ時間がなく、どうしようか考えていました。そんなとき、2月末の北海道緊急事態宣言で、3月上旬の帰省の中止し、大学の集中講義も、すべての行事も中止となりました。私は独学で、数学を学び直しをすることにしました。学び直しとはいっても、ほとんど忘れているので、初めて学ぶのとかわりませんでした。ただし、次の論文や本で概念を展開する時、数学の概念が非常に重要だと思いつきました。そこで数学の学び直しをすることで、概念を理解して、地質学に応用しようを考えたのです。その時間とチャンスができました。
 フーリエ変換の基礎については、ほぼ終わりました。突き詰めるとかなり深い内容で短時間では無理ですが、私は触りだけ、概念の理解でよしとしてます。またフーリエ変換に必要な、微積分や三角関数も、基礎の学び直しはおこないました。テイラー展開もだいだい押さえました。そして、現在、本と論文の作成に取りかかっています。非常に充実しています。

・本の執筆を・
いつもなら、夏前後に完成するはずの本の原稿が、
4月9日には完成してしまいました。
現在、本来なら編集のし直しだけのつもりだった
最初本の修正ですが、大幅改訂の作業を進めています。
現在、大量のデータを収集し処理して、
大幅に書き換えを進めています。
できればゴールデンウィーク中に、データ処理は終えて、
ゴールデンウィーク明けにはからは、
増補部分の執筆に入りたいと考えています。
自粛の時間は、充実していて、ありがたく思えました。

・論文の執筆を・
独学で進めてきた、数学の学び直しですが、
次の論文のための、道具が手に入った状態です。
この数学の道具が、概念化されて地質学に
落とし込むことが、次なる課題となります。
大変ですが、だれもおこなったことのない試みなので
ワクワクしながら、時間がもっとあれば
と思ってしまいます。

2020年4月1日水曜日

19 知の伝播と行動の監視

 新型コロナウイルスでの現在の日本の対応から、知と行動決定、そして知の伝播と行動監視の役割を考えてみました。その背景にある、民主主義の原理という、当たり前のことも考えました。


【配信中止】
というまえがきのメールマガジンを予約配信をしていたので、その後新型コロナウイルスのデータの更新、感染拡大もあり、この時期にふさわしくない内容なと判断し、配信を急遽、停止しました。したがって、今月の配信は、申し訳ありませんが、取りやめとします。

・躊躇・
今回のエッセイを書くのは、かなり躊躇しました。
なぜなら、多くの人の考えと、少々異なっているからです。
また、メールマガジンであっても公の場ですので、
このような考えを示すのは
無駄に不安は安心感を与えたりしかねかねないからです。
淡々とデータだけを示すことにしました。
また、前提が疫学的に間違っていると
混乱を与えるかもしれません。
でも、現在の私の科学的考えからすると
ごく当たり前の考え方かと思えます。
なので、思い切って発行することにしました。
ただし、ホームページの提示はやめます。

・影響・
オリンピックが延期となりました。
札幌でのマラソン、競歩もなくなりました。
しかし、そのため、教員採用試験などのスケジュールが
変更されて告知されています。
現在ところ、その修正はまだ出されていませんので、
そのスケジュールのまま進むのでしょう。
採用試験受験者には、大きな影響があります。
また、来年のオリンピックが同じ時期に、
札幌で開催されるのであれば
そのスケジュール変更が続くことでしょう。
来年の受験者にも影響がありそうです。

2020年1月30日木曜日

217 私の夢は302:ステータスコード

 目標を設定したり、目標の達成法を考えることは、一度はあるいは定期的にしたほうがいいはずです。特に若い人は試した方がいいでしょう。年配の人が同じ方法でやってみたら、うまくいくのでしょうか。試してみました。

 大学の教職課程のある授業で、小学校5年生の道徳の教科書を紹介された先生がおられました。私の共同で担当している授業でした。その教科書に、「夢をかなえるために」という教材がありました。その教材では、大谷翔平さんの通った高校では夢や目標を実現するために「目標達成シート」というものを書いたのを紹介していました。児童も自分の夢で、そのシートに書き込んでいくということをしていきます。
 このシートは「マンダラチャート」とも呼ばれているそうですが、長方形の内部が3X3に9等分されています。この9マスの長方形が基本となります。そのような長方形が3X3個、集まっています。つまり、81個のマスがあることになります。使い方は、まず真ん中の3X3の長方形の中心のマスに、かなえたい目標、夢を書き入れます。できるだけ高い目標、大きな夢にします。目標の周りの8つのマスには、その目標を達成するための要素(項目)をキーワードで書きます。さらに8つのキーワードを、周囲の8つの3X3の中心のマスに書き写します。それぞれのキーワードを達成するために、すべき具体的な内容を書いていきます。つまりひとつの目標を達成するために、8つのキーワード(要素)を決め、それぞれを達成するために8つの具体的な方法を決めていくわけです。具体的な方法を実践していくことで、目標達成に近づいていくということになります。
 ちなみに大谷さんが高校生の時に書き込んだ目標は「ドラ1 8球団」とあります。これは、8球団からドラフト1位をもらうことでした。そしてその目標は達成されました。
 大学の授業では、教員志望の学生たちに「目標達成シート」を書いてみることにしました。私も学生一緒に、このシートを書きはじめました。ところが、書こうとすると、なかなか埋まらかなったので、かなりあせりました。
 実は、別の方法で目標を決めて、それを達成するために年にいくつかの項目を決めています。いわゆる今後の人生設計を立てて行動しています。そして、一つの項目が達成できたり、年末か年始になると、その設計を見直して最適なものに修正しています。ですから、形式は異なっているのですが、目標達成のための手段や確認作業は、いつもやっています。
 授業で、いつもやっている自身の目標とその手段を、このシートに書いていけばいいのだと思って臨んだのですが、全然埋まりませんでした。どうしたことでしょうか。多分、このシートは、若者(大きな夢を持つべき人)が、これからすべきことがまだ定まっていない時、あるいは大きな目標のため、達成すべきことがいろいろあり、手段もいくつもある時に有効な方法なのかと思います。私は限られた時間内で、限られた目標で進めていくことを最優先しているので、大きな目標ではないため、埋まらないのかもしれません。
 さて、話題は転換します。インターネットについてです。インターネットは、今では利便性だけでなく、娯楽としても重要なツールとなってきています。ネットサーフィンをしていると、動画や音楽、映画など、好きなものだけを見て、長時間、彷徨っていても飽きることがありません。また気の合った友人とも、SNSでつがっているので、インターネットを通じての友人関係もできます。最近の若者はインターネットへの接続は、スマートフォーンが手段となっているので非常に重要なものとなっています。スマートフォーンの小さな窓ですが、そこには広い世界、多くの友人につながっています。自分の好きな世界だけで、多くの時間を費やすことができます。
 ところが、現実には、嫌でもしなければならないこと、体を使わないとできないこと、手間のかかること、避けては通れない人間関係など、いろいろと気の重いことも対処しなければなりません。それが社会で生きていくということでしょう。だから、余計に好きなことだけを提供してくれるインターネットの世界が住み良くなるのでしょう。
 住み良いはずのインターネットで検索していくと、別のサイトへといこうとすると、
 Not Found(見つかりません) や HTTP Error 404 - Not Found
というメッセージ(ステータスと呼ばれます)が出てくることがあります。インターネットを利用する人は、時々目にしているものでしょう。特に、昔に作成されたサイトだと、そこで引用されたリンク先も古くなっているので、更新されたり、別の名称に変わったりすると、そのサイトは見つからなくなります。そんな時に、表示されるステータスです。
 このようなステータスの番号には意味があります。ステータス番号は、インターネットのサーバーとブラウザーとのやり取りに関して、サーバーの状況をを、3桁の数字として返してきます。通常は、そのサイトの構成するデータが送信され、いわゆるページが表示されていきます。しかし、エラーがあるときにそのようなステータスが表示されます。
 HTTP 403 Forbidden(アクセス拒否)
などもよく見かけます。また、
 HTTP 302 Found(発見)
という訳のわからないステータスもあります。「302」は、サイトは存在するのですが、現在一時的に別のところにあり、表示するデータはないという意味です。サイトは存在するのですが、一時的に表示できない状態だということです。
 「302」は、もともとサーバーの開発者が一時的にデータを移動している時のステータスとして使うものだそうです。開発者にはそれなりに使い道があるのでしょうが、私にはよくわかりません。
 重要な情報、是非欲しい情報を検索していとき、ステータスの「404」や「403」が出るとがっかりしてしまいます。でも、なにも起こらない無反応の状態よりは、「404」や「403」などと、ステータスが表示され状態がはっきりしたほうがいいはずです。
 そのスタータスが私の人生設計では、ページが表示されています。目標や手段は、自分のやり方で進めているのですが、本当に達成できたかどうか、その達成度は私が後年判断することになるのでしょう。でも、「目標達成シート」ではステータスは「404」になります。「403」でないだけマシなのでしょうね。しかし目標が、「302」でも困るのですが。

・418・
エラーには 418というものがあります。
I'm a teapot (私はティーポットです)
その意味は文字通り「私はティーポットです」
ということで、表示が拒否された場合に返される
ステータスコードです。
つまり、ティーポットの私(サーバーのこと)に、
コーヒーを淹れさせようとしたから、拒否します
ということだそうです。
このエラーは、1998年のエイプリルフールに
Hyper Text Coffee Pot Control Protocol
に由来するジョークだそうです。
本来なら使わずに終わっているはずなのですが、
この418ステータスコードは
Googleでは実装されています。
興味がある方は、
https://www.google.com/teapot
を御覧ください。

・新型コロナウイルス・
2月になりました。
北海道では各地が雪不足になっており、
いろいろな行事が縮小されたり、
中止になったりしています。
札幌の雪まつりも雪集めに苦労しているようですが
なんとか開催するようです。
北海道の特徴の雪を使う大きなイベントなので
国内だけでなく海外からも多くの観光客が訪れます。
中国から観光客も多いことでしょう。
しかし、最近は新型コロナウイルスが心配です。
自衛として、人混みは出ないようにすること
そして体調を整えることでしょうね。

2020年1月1日水曜日

216 百年一瞬耳 君子勿素餐

 人は学んだことを自身の血や肉にし、それに従って考え振る舞っていました。学びからの信念に、命を懸けることすらありました。そんな人物が残した言葉には重みがあり、聞く人にも重く伝わっていくことでしょう。そんな重みのある言葉から、新年のエッセイをはじめます。

 昨年秋、山口県萩市にいきました。萩には、はじめてでした。萩は日本海を望む町です。阿武川の河口近くにできた中洲に、古くからの城下町が広がっています。中洲の東を流れる川沿に宿泊し、近くにある松陰神社を訪ねました。松陰神社は吉田松陰を祀るために、明治になってから建立された神社でした。
 萩は、かつての長州藩の本拠地で毛利家が支配していました。長州といえば、幕末に土佐、薩摩と並んで尊皇攘夷として維新を起こし、明治の中枢の人材を多く出した藩でした。中でも長州の吉田松陰は有名なので知ってはいましたが、特別に興味があったわけではありませんでした。観光として訪れました。
 松蔭は1830(文政13)年に萩の城下で生まれ、安政の大獄で囚われ1859(安政6)年に伝馬町牢屋敷で死刑(斬首刑)となっています。享年30歳、若き死でした。また、私塾の松下村塾で多くの人材を育成したことも知られています。
 松陰神社には、吉田松陰歴史館と松下村塾や旧宅が残されていたので見学しました。松下村塾という小さい建物で生活し、多くの人が学んでいたのかと驚きました。松蔭の詳しい履歴は知りませんでしたが、歴史館や塾の解説で、いろいろとわかり、すごい人物であったことを知りました。そして、このエッセイを書くにあたり少し調べました。
 松下村塾は、叔父の玉木文之進が身分に関係なく受け入れていたもので、松蔭も小さい時、学んでいました。松蔭は幼少の頃から秀才で、四書五経などを早くに身につけ、9歳で藩の武士が学ぶ藩校の明倫館の兵学師範になり、11歳で藩主毛利慶親への御前講義、13歳で長州軍の演習を指揮し、15歳で日本の兵学を修めたとされています。
 秀才であっただけではなく、行動力もありました。アヘン戦争の結果を知り、西洋兵学の必要性を痛感し、九州や江戸などで学びはじめました。藩の許可をとらずに脱藩し東北へ出か、江戸に戻ったとき士籍剥奪や世禄没収の処分を受けています。ペリー来航で衝撃を受け、長崎でロシア軍艦に乗り込もうと画策しました。そして、ペリーの再来で密航しようとして捕まり、下田奉行所に自首しています。その罪で伝馬町牢屋敷に投獄され、やがて国許蟄居になり野山獄に幽閉されました。野山獄内で教育をして、獄から出され杉家で幽閉されたときに講義をはじめ、多くの人が受講しました。そこで杉家を改築、増築していきました。1857(安政4)年、松蔭27歳のとき、松下村塾の名を引き継いで、開塾となりました。
 そんな折、幕府が朝廷の許可をえず、日米修好通商条約を結んだことに怒り、政府要人を討ち取る計画をし、1869(安政6)年の安政の大獄で捕まり、死刑になります。吉田松陰は秀才でありながら、知に留まらず、行動できる人だということわかります。
 松蔭の経歴をみていくと、松下村塾で教えていたのは、1856年8月から1858年12月までのわずか2年余りしかありません。その期間に後に明治維新で活躍する多く人材を輩出しました。有名ところとしては、山縣有朋、高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞などがいます。
 松蔭など江戸時代の教育を受けた人は、四書五経などを身につけ、それを実践していました。「論語」「大学」「中庸」「孟子」の四書は、高校の漢文でほんの一部を学びますが、そこからでも内容の正しさ、崇高さはわかります。ただし、実践していく人はどれくらいいるでしょうか。昔の知識人は実践もしていました。
 松蔭は、書や文の達人でもあったようで、いろいろな名言や教えが残されています。1858年6月、塾生の山田市之允(15歳)に松蔭が扇に書いて与えた文があります。

 立志尚特異 俗流與議難
 不顧身后業 且偸目前安
 百年一瞬耳 君子勿素餐

読み下すと、

 立志は特異を尚(たっと)ぶ
 俗流は與(とも)に議し難し
 身后(しんご)の業を顧(おも)わず
 且つ目前の安きを偸(ぬす)む
 百年は一瞬のみ
 君子素餐(そさん)するなかれ

となります。その意味は、

 志を立てる時、特異を尊(尚)ぶものだ
 俗人(俗流)とは話し合うこともできない
 身后(死後)の業などは考えるい
 目先の安楽に心を盗(偸)まれるな
 百年は一瞬だ
 君子よ徒食(素餐)をするな

ということでしょうか。世に出るためには、特異であれ、俗になるな。死後のことなど考えず、安楽に溺れるな。時間のたつのは早いので、徒食をするな。誰もが納得することでしょう。でもなかなか実践できないことでもあります。しかし、松蔭の実践力を知っているものにとっては、この言葉の重みが違います。多分、若き山田市之允は、同時代に松蔭の生き方をみて、その意味の重さを痛感したことでしょう。
 現代に生きる私たちにも、過去の偉人が実践して伝えた言葉は重く響きます。感心するだけでなく、実践する必要があります。
 百年一瞬耳 君子勿素餐
を心に命じましょう。

・良き一年ありますように・
明けましておめでとうございます。
昨年は本エッセイを購読いただき、ありがとうございました。
本年も、引き続き購読のほどよろしくお願いします。
北海道の年末には寒波で冷え込みもあり
ドカ雪も降りました。
でも、暮れらしい景色になりました。
今年の冬もはじまったばかりですが
穏やかであることを願っています。

・オリンピックイヤー・
今年は、オリンピックイヤーとして
世間は浮かれることだと思います。
私は、8月の時期にオリンピックを開催するのは反対です。
拝金的背景やIOCの不正、ロシアのドーピング疑惑、
アスリートより国の思惑が優先している
など、純粋なスポートの祭典であるはずなのに
その純粋さが穢されているようにみえます。
私は、はじまればテレビ観戦するのでしょうが。
やはりunder uncountable での
7、8月の最悪条件ので開催は反対です。