2005年1月1日土曜日

36 科学と芸術の狭間にて(2005年1月1日)

 明けまして、おめでとうございます。年頭のエッセイです。私の今年の抱負を紹介しましょう。新年早々私的で堅苦しいものですが、お付き合いただければありがたいです。

 私は、2002年4月に現在の大学に職を得たとき、この職場で新たな研究テーマをゼロから考え直そうと決意しました。考えた結果、ライフワークとして、次のような3つの方向性を持つものが出てきました。
 まずは、地質学者として、地球の自然を解明するという科学的な側面を深めたいと考えています。できれば、誰もやったことのない素材と切り口でできないか、ということです。これは、人類や科学の進歩に貢献することであります。科学者として職を得ているからには、これを成さねばならないことであると考えています。
 次が、自然、地球、宇宙の面白さや不思議、神秘などを、科学の成果として市民にわかりやすく紹介することです。私は大学教員ですから、学生たちにそれを伝えることが給料分としての仕事です。しかし科学に携わる者として、市民によりわかりやすく伝えることも重要な任務ではないかと考えています。私の場合、科学、特に地質学の教育の新しい方法論の開発を含めています。
 最後が、地質学を通じて、自分自身が自然や地球、宇宙に関して深く考えていきたいということです。あまたある自然科学の学問分野の中では、地質学という学問は、特に過ぎ去った時間について、深く考えるために多くの役に立つ素材やテーマを扱っている分野だと思っています。地質学の素材やテーマの中には、古い過去、長い時間の積み重ねによる変化、そして過去の時間の知識から未来を読み取る知恵などが隠されていると思います。そのような地質学的な深い思索を「地質哲学」と、私は称しています。そんな「地質哲学」を深めていきたいと考えています。
 大学に在籍する科学者たるもの、科学、教育、哲学の3つのを併せ持たなければならないと考えています。これが理想の科学者ではないかと思うわけです。大学で教員そして研究者として職得たからには、理想の大学教員を目指して、私自身がそう成るべく挑戦しています。自分自身を実験台として、いい教師なるための方法論も研究テーマとしていこうと欲張っています。
 自分自身が理想とする教員に近づけば、それはひとつの方法論として実践例と論文になると考えています。なぜなら、私は特別に人より能力があるわけでもありませんし、人より学問を特別によくできるわけではありません。ただ普通の地質学を専門とする大学教員です。そんな人間が、理想的な教員像になれる方法があるならば、多くの人にもその方法論が役に立つはずです。
 もしうまくいかなくても、つまり私がダメ教員であったとしても、私はタダで転ぶのは性に合いませんから、こういうやり方ではいい教員になれませんよ、という失敗例を示すことができます。そんなことに取り組みながら、自分の教員修業を論文に逐次しています。
 さて、以上のような経緯で、私は科学、教育、哲学の3つの方向性を同時に目指すことになったわけです。それぞれ方向性において目指すべき目標がはっきりしているべきです。次にそれぞれの目標について紹介していきます。
 私は、今の職場に来る前は博物館に11年間間勤務していたのですが、教育については、そのときから取り組んでいます。博物館では現代風の自然史というものを、いかに確立するかがテーマでした。大学に来て3年間で、大学教員としてのスタンスから市民教育へどう取り組むかの大枠ができてきました。それに基づいてさまざまな実践をしてきましたし、これからも新しいことに取り組んでいきます。その取り組み関しては、教育関係の学会で、すでにいくつかの論文を発表しましたし、これからもいくつか書いていくテーマが控えています。そして、新しい実践も始めています。ですから今のところ、教育に関する方向性は順調に進んでいるといえます。
 地質哲学は、まだ印刷物はできていませんが、講義などで新しいテーマに取り組みながら、地質学に関して思索を深めています。それは、少しずつ形になりつつあります。学生にも、講義その重要性が理解できているので、この方向は間違っていないと考えています。いずれ、その成果は公表しようと考えています。哲学の方向性も、歩みはのろいですが、進みつつあります。
 最後の科学、つまり地質学の研究です。実は、これが悩みのタネでした。私は、地質学は地質学でも、誰もやっていない地質学、誰でも楽しい地質学、子供でも理解できる地質学、というような方向性を目指そうと考えました。いってみれば、教育、哲学、そして科学の融合した地質学を生み出せないかというたいそれたものでした。当初の意気込みはよかったのですが、これがなかなか一筋縄ではいきませんでした。
 その方向性を考えた根拠は、はっきりとしています。まずは、近年の科学が、市民からあまりにも乖離したものが多すぎるということがありました。先端科学といわれるものほど、大きな道具、高価な機器、多くの人手、国家規模の研究予算など、大掛かりになります。このような、科学者の興味と市民の興味が乖離している例には、枚挙に暇がありません。
 さらに問題は、それに参画している研究者ですら、自分のやっている研究の成果が、社会にあるいは人類の未来に本当に役に立つのか、あるいはそれは今、多くの労力や予算、人材を使って早急に取り組むべきものなかなど、本来真っ先に確かめておくべき意義すらも、見失っている人を多々見かけます。研究とはそれでいいのでしょうか、という疑問でした。
 研究とは、研究者自身が好奇心や面白さを感じて行う行為のはずです。でも、最近、多くの研究者は業績に追われながら、自分自身を見失っているようですごく心配です。もっと、素直に興味を追求して、その成果を人類の成果として、きっちりと記録していくことが重要です。そして、面白いと思っているのであれば、伝える努力さえすれば、きっと市民もその面白さを理解できるはずです。それができない研究とは、税金の無駄遣いではないでしょうか。
 研究者は、素人には難しくて説明できないということがあります。まるで市民が馬鹿だからわからないのだという言い方です。自分のポケットマネーでするのであれば、何をしてもいいのでしょうが、少なくとも職業として行うのであれば、その意義を多くの人に理解を求めるべきだと思います。できないのは努力を怠っていると思います。そんな研究者が多いように感じます。
 私は、もっと素朴な研究テーマ、研究手法があってもいいのではないかと考えています。そこから重要な知的資産を生み出せないかと考えました。どうせ自分一人がする研究なのだから、自分自身が、そして多く人も、できれば子供でも楽しいと思える素材を使っていこうと考えました。それも地質学者が今まで素材にしてこなかったものがいいと考えました。
 その結果たどり着いたのが、河原や海にある石ころや砂という素材でした。地質学では、堆積岩の構成物として砂や礫は扱われます。また、水理学では川の作用をみるために、礫や砂の挙動や集積機構を調べることがあります。しかし、それはつまらなく感じられます。
 大人でも子供でも、もちろん研究者でも、河原や海で石ころや砂があるところは、なんとなくわくわくします。そしてそれらを見ていると、なんとなく遊び心や好奇心が刺激されます。私が狙うのはそこです。そんな誰もが起こす好奇心を満たして、そしてその背景に自然の素晴らしさがあることを示せば、誰もが身近に自然と科学の大切さを理解できるのではないかと考えました。
 そのために、私は、自分の住んでいる北海道の一級河川13本で、まずは、石ころを集めようと考えました。また川と海岸線沿いの砂を集めていこうと考えました。さらに、本州の各地の代表的な川の調査も同時にしていこうと考えました。それらの調査の結果をデータベースにして、インターネットで紹介していけば、多くの人が楽しく、そして面白く、ためになるものができるのではないかと考えました。
 そして2年ほど前から調査をはじめ、現在北海道では、予定の半分ほどを野外調査を進めてきました。データベースも順調に進んでいます。
 しかし、研究をどう展開するかで行き詰っていました。研究をどういう方向で進めるか、なかなか糸口がつかめないのです。それであせっていました。
 でも、ふと思いました。自分は、先ほど述べたように科学的成果を求めすぎていると他人を批判していながら、自分自身が科学的成果を求めてすぎているのではないかと。集めた各地の砂や石ころを眺めていると、砂や石ころにも、いろいろなものがあって面白いし、美しいのです。そんな面白さ、美しさをもっと人に見せる努力をした方がいいのではないかと思い至ったのです。素直に、テーマ設定の初心に戻って、もっと美や遊び心を追求すべきではないかということです。自然の中で面白く、そして美しいものを、科学的という扱いに固執しなくても、より美しく、より面白く見せることにもっと努力をしてはどうかということです。
 自然をあるがままにとらえ、そして最低限の加工によって、そのあるがままをよりよく人に示すということです。自然から得た情感を最小限の加工によって他人に示すのです。
 これは、高浜虚子のいう客観写生のようなものではないでしょうか。客観写生とは、自然を写生するように忠実に描くことで引き起こされる感動のことです。虚子はさらに進み、日本的な美意識にもとづいて自然を詠みこむ花鳥諷詠という境地に達しました。私は、日本というものを砂や石ころに持ち込むべきかどうか判断できませんが、一つの方向性としてあるかなと思っています。
 その理由は、私は以前自分が書いた論文で、自然史とは自分の住む地域の自然を科学的に記載して、世界に向けて発信することだということを述べたことがありました。自分の住む地域には、きっとその地域固有の自然があるはずだし、それは他の地域の人にとっては知りたいことでもあるはずなのです。その地域のことを良く知り、良く伝えることが重要である、ということを自分がいっていたのです。
 この考え方を、私のやっている川や海の石ころや砂に適用するのなら、自分が面白い、美しいと思っていることを、そのまま素直に出せばいいのではないかということです。そしてそれが日本のあるいは北海道の自然であるのであれば、日本のあるいは北海道の美意識に裏づけされているのではないかということです。その美意識が、虚子のいう日本的であっていいのではないかということです。まだまだ、悩みが晴れているわけではありません。どうやるべきかも定まっていません。でも、案外素直に考えればいいのだという気がしています。
 以上、お正月から個人的なそれも難しい内容をお送りしてしまいました。でも、ここ数年の私の悩みが少しずつ解消していくことと、それに向けてどう展開しようかというのが、私のこの年頭にいちばん気にしていることです。いってみれば、私の一年の計を紹介したことになるのでしょう。

・土から砂へ・
 砂の美しさを素直に表現するという発想は、栗田宏一著「土のコレクション」(ISBN4-577-08260-3)という本を見たからでした。栗田氏については何の知識もありません。しかし、この本を書店で見つけたとき、きれいなのですぐに購入しました。彼は土の研究者ではないので、学術的なことはほとんどかかれていなのですが、実に土がきれいなのです。きれいというだけで、これだけ人の目をひきつけるものがあるのだということを、教えてくれました。これが、自然の造形の素晴らしさなのです。研究することも重要ですが、しかし、自然の造形が美しいことを、美しく見せるようにすることも重要かもしれないと思い至ったのです。この本によって非常に大切なことを見せつけられた気がしました。
 それを自分が扱っている、砂や石ころに応用すればいいのです。科学的な術や道具を用いて、より美しく見せればいいのです。すると、ふっと肩の荷が下りたような、新しく進むべき道を見出したような気がしました。まだ思いつきの段階です。これを実際に実行するときにはどうなるかはわかりません。でも、しばらくこの方向で科学を進めていこうと考えています。もし遂行途中で進展があれば、その経緯はこのエッセイでも紹介できると思います。

・謹賀新年・
 また一年が巡りました。2004年の年頭に今年成したいことを計画しました。2004年の1年間で成したことを思い返し、そして見比べると、その達成度の小ささには愕然とします。これが私の能力なのでしょうか。一番の気がかりは、私がライフワークにすべきテーマが、新しい職場に来て、3年もたつのに、まだ、定まらない焦りかもしれません。ところが、昨年の暮れあたりから、少しずつその方向性が見えてきたような気がします。そんな気持ちを、この1年の最初のエッセイとしました。私の研究への展望を私的なことですが、新たな展開といえます。

・新しいメールマガジンの発行・
 このたび、新しい月刊メールマガジンを発行します。1年間、あたためていた企画です。「大地を眺める」というものです。大地の景観には、さまざまな自然の驚異、素晴らしさ、不思議が隠されています。そんな大地の景観を、地形や地質のデータから、地質学者である私が眺めたら、どう見えるでしょうか。そんなことを毎回、日本の各地を題材にして見てきたいと考えています。固い内容ではなく、私が訪れたときの感想をいろいろ述べるエッセイのようなものにしていくつもりです。
 また、地形の数値データを使用して見づらい地形や、特徴的な地質を鳥瞰することもしていきます。大地の造形に隠された仕組みに、目を向けて、楽しんでもらえるものを考えています。2005年1月3日に創刊特別号を発行するつもりです。毎月中旬に連載をお送りします。
 もしよろしければ、
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/index.html
から申し込めますので、よろしくお願いします。