2015年9月1日火曜日

164 三樹の教え:人を育てる

 計画的にものごとを進めることは、重要だし、達成する可能性を上げるためにも、必要不可欠でしょう。計画的に進める上で、人を育てることは、重要ですが、これほど難しいものはないかもしれません。

 なにかを成し遂げるとき、目的に応じた期間で計画を立てます。私の周りだけでしょうか、最近はどうもいろいろな場面で、計画作成を命じられることが多いように思えます。もちろん何かを成すならば、強制的であっても、計画がないよりは、あったほうがいいでしょう。
 特に長期に渡るもの、複雑なもの、多人数での進めるものには、計画は不可欠です。強制された計画でも、集団として取り組んでいたり、業務として厳しいノルマがあれば、十分な効果は得られるでしょう。
 では、個人のレベルで計画を考えると、どうなるでしょうか。
 そもそも個人がやる気もないのに、他者から計画を義務付けられ、実施を強制されたら、どれだけ実効性があるでしょうか。特に創造性を強要されたら、本当にいいものが生まれるでしょうか。形だけのもの、とりあえずのものしかできないのではないでしょうか。
 計画もなく、ものごとを遂行することは可能でしょうか。計画を立てないと、ものごとはなかなか進まないものです。個人であっても、自主的に立てた計画を持ったほうがいいはずです。ところが、自主的に立てた計画であっても、実施できるかどうかは、個人の気の持ちようや、状況にも依存するでしょう。
 私は、若い時からいろいろ計画を立ててきました。さんざん失敗してきたせいでしょうか、歳を経るにつれ、実効性のある計画を建てられるようになってきたように思えます。ただし、時には無謀だと思いながら、自分への動機付けのつもりで計画を建てることもあります。これは、自己弁護でしょうか。
 次に、計画の立て方を考えていきましょう。
 計画には、その期間によって、長期、中期、短期の区分ができるでしょう。この期間の区分は相対的なものであって、場面によって違ってくるでしょう。
 例えば、それぞれの一日の仕事の場合です。一日でも、この3つの区分が可能です。一日でも、いろいろな仕事があるはずです。仕事の手間にしても、数分でできるもの、1時間ほどかかるもの、数時間かかるものなど、いろいろがあります。そんな時は、一日の全体の仕事量と、その仕事の重要度、あるいはこなすに必要な集中度も重要になるでしょう。そんな区分をしてから、仕事に取り組んだほうがいいでしょう。私は朝型なので、集中して行うべきものは、朝、早めにスタートして、頭が働くうちに終わらすようにしています。午後は、作業量や時間がかかるのですが、集中力があまりいらないものに取り組むように心がけています。
 仕事の中には重要度の低いものがあります。時間に余裕があるときは、ついついだらだらと進めがちで、集中すれば一日で終わるはずのものも、終わらなかった経験は、だれもであるのではないでしょうか。気づいたら締め切りが目前だったりとか。仕事は計画的に進めていくべきでしょう。
 例えば、一週間ほどの野外調査の場合です。目的地までの移動に二日かかるとすれば、正味は五日分が調査日となります。その中には、調査地域内での移動時間も含みます。私は欲張らずに、一日に一、二地点の重要ポイントを定めて見るようにしています。また、全体として優先順位をつけ、最優先のものをできるだけ最初に調べるようにします。もし、天気が悪かったり、条件が悪ければ、再度調査できる可能性を残しておくためです。それでもだめなときは、別の機会に、再度訪れるようにしてます。
 では、年や一生のように長い期間に及ぶ計画は、どのように立てればいいのでしょうか。ある教えがあります。「三樹の教え」と呼ばれるものです。「管子」(かんし)で示された考え方です。
 一年之計、莫如樹谷
 十年之計、莫如樹木
 終身之計、莫如樹人
というもので、読み下すと、
 一年の計、谷(穀)を樹う(う)るに如(し)くはなし
 十年の計、木を樹うるに如くはなし
 終身の計、人を樹うるに如くはなし
となります。
 農村に暮らす人の考え方なのかもしれませんが、ここから学ぶべきことは、期間に応じて目指すものを変えるべきである、ということではないでしょうか。一年で収穫(達成)できるもの、10年で収穫できるものを考えろ、ということです。さらに重要なところは、最後の一文にあるのではないでしょうか。生涯をかけて、人を育てる重要性を説いています。人材の育成は、なかなか難しい目標です。
 教員は、人を育てるのが仕事です。私は大学の教員ですが、小・中・高校の教師、各種の塾や講座の先生、など人に教える職業は多様です。長くひとつ場で経験を積むと、職場やクラブ、なんらかの組織に後輩や後進が出現し、育てる必要性が生まれるはずです。あるいは質問に対する回答であっても、答えるときは教える立場になるはずです。多くの場面で教える側、先生は、生じます。それに見合った教わる側、学生も多数いることになります。
 ある場面であなたは、先生として、本当に人を育てているといえるか、ということを問われている気がします。先生側は一生懸命に教えていたとしても、教わる側は、身についていない場合も多々あるはずです。一方、教師の何気ない一言が、学生には重要な教えとして伝わることもあるかもしれません。あるいは、教えの場では気づかなかったとしても、後々に響いてくる場合もあるかもしれません。私には思い当たることがあります。多くの教育現場で、似たことが起こっているのではないでしょうか。
 一人の人を手塩にかけて育てるということは、現在社会では少なくなったように思えます。短時間、長くても数年の単位での教えの場面が多くなりました。ですから、教える側は、いかなる時も手を抜くことなく、精一杯に励み、教える努力を怠ってはならないのです。
 では、人を教える人がいない場合、この「三樹の教え」は無用のものでしょうか。そうではないと思います。他人を育てるのではなく、自分を育てると読むことが可能でしょう。一生をかけて、自分を育むのです。これは、誰にでも適応可能です。
 しかし、これはなかなか難しいことには変わりはないのですが、自分にとって自分は一番大切なものでしょうから、欺くことのできない存在です。取り組む姿勢、集中度、本心がわかり、いつもサボってないかを監視し、いくつになっても見守ることができます。努力はすべて自分に跳ね返ってきます。
 自分を育てるためには、一生かけて取り組むべき作業です。そのためには、10年の計、1年の計が必要になるのでしょうね。

・管子・
現在の中国の山東省を中心にして、
昔、斉(せい)という国(紀元前1046年から386年)がありました。
斉は有名な太公望によって建国されました。
その斉の第15代の王、桓公を補佐する宰相として
管仲(かんちゅう)がいました。
管仲に由来する書物として
「管子」(かんし)があります。
その中に「三樹の教え」が説かれています。
重要な教えは、時を越えて残るのでしょうね。

・野外調査・
9月4日から10日まで野外調査に出ます。
上で述べた例がそのまま当てはまります。
6泊7日ですが、移動に2日、調査は正味5日間です。
泊まるところはすでに確保しています。
大分から宮崎、熊本にかけて移動しながら
野外調査を進めていきます。
最重要ポイントは、数カ所があり、
それに次くものもいくつかあります。
今回は移動範囲が広いので
重要ポイントが時間が足りないときは、
翌日に再度みることにしています。
それでも足りない時は、次回とします。
天候だけは、どうしようもないので、
悪天候の時は、諦めて、次なる機会を待ちます。