2002年12月1日日曜日

11 教養人(2002年12月1日)

 2002年8月18日に山口で学会がありました。地学教育に関する学会です。今まで、博物館での科学教育を考えてきたのですが、これからは、大学教育について考えることになるので、どのような科学教育をおこなうべきか、発表した。その概略を紹介します。

 私は、まだ、大学教育の全貌は知りえないのですが、大学における教養教育が大きな問題であるように見えました。
 では、何が問題でしょか。
 大学での教育は、専門家養成と教養人育成の2つがあると考えられます。いや、専門家養成と教養人育成にあったというべきかもしれません。ところが、現在では、教養人育成の実効性がまったくない状態ではないでしょうか。
 もともと、専門と教養は、一人の人に求められたのではなく、どちらかを身につけて、大学を卒業すればよかったはずだったと思います。一部の優れた人だけが、両者を身につけられたものだと思います。ところが、いつのころからか、一人の人間に、専門と教養の両方が求められたのです。つまり、すべての学生に両方をもとめ、カリキュラムが組まれました。現在は、それはあきらめられ、専門家養成に力点が置かれるようになってきました。
 しかもです、大学は専門家養成を第一義としてきたにかかわらず、「本当」の専門家は、大学院で養成するという仕組みができつつあります。
 それでは、大学での教養教育が必要ないかというと、そうではないのです。ますます、その必要性が高まっているのです。現代のような混迷を深めている時代、世界が狭くなり、国際的に交流が深まる時代、一国の問題が、即座に全世界に広がる時代、教養人の重要性は高まっています。また、政治、官僚、会社の中核における「文系」人間の占める比率は高くなっています。彼ら「文系」の人間が、指導者として、科学を理解できないまま、政策や施策、方針つくることによって、もしかすると、取り返しのないつかない失敗が起きるかもしれません。あるいは、「理系」人間が人文科学に対して無理解のために、自分自身の可能性をいかに狭めているか、その研究視野の狭さをみれば一目瞭然です。
 つまり、大学での育成すべき教養人が生み出せてないということが問題なのです。前置きが長くなりましたが、再度、いや今という時代だからこそ必要なのが、教養人なのです。そんな教養人育成を、荒廃した(大学の)教養教育で、どう再現するかということが、今回の学会での発表のテーマでした。
 大学という場にこだわらず、広く日本全国に存在する教養を求める人に対して、「いち大学教員」が、効率よく、教養教育をおこなうには、どうすればいいのでしょうか。私が考えたのは、インターネットのメールマガジンとホームページを利用するものでした。このような仕組みは、多くの人がすでに利用していることだと思います。しかし、道具をどう使うかは、使う人の勝手です。使い人が便利だと思えば、どのように使ってもいいのです。
 私の使い方は、大学の教養の講義を、同時進行で、メールマガジンとホームページで公開することです。講義と同じであれば、メールマガジンのために講義を新たにつくる必要はなくなります。また、同時進行であれば、大学の臨場感、あるいは、講義の実態が、メールマガジンを「聴講」している市民(以下ではメールマガジンの購読者を「聴講者」と呼びます)に、よく伝わるのではないかと考えました。
 もちろん、大学の講義と、メールマガジンとが、まったく同じとはなりえません。なぜなら、講義をする状況、受ける状況、そして媒体がちがうからです。そこには、自ずから、メリットとデメリットが生じます。
 大学の講義は、なんといっても、「なま」でおこなわれます。うるさい学生がいれば、注意しますし、ジョークなどもいいます。また、学生の理解度を、顔つきから判断して、わかりにくければ、何度も繰り返し説明することも可能です。一方、メールマガジンでは、一方通行になり、「なま」の臨場感はでません。でも、文字で書かれた講義ですが、毎週、進行していくものなので、教科書とは違った、臨場感があります。
 講義では、口頭で話しますが、レジュメとして、図表をつけて渡すことができます。しかし、メールマガジンでは、テキストのみを配信します。そこで、メールマガジンと連動したホームページが有効となります。ホームページに図表を掲載しておけば、聴講者も図表を参照できます。もちろん、著者権を損なわないかたちで利用することは、前提です。私の場合は、私が作った図と博物館時代につくってインターネットですでに公開しているものをつかっています。必要なら、参照すべき図のURLを示します。
 図表はホームページを利用し、テキストは毎週の講義分を配信すれば、聴講者は、教科書を用意することなく、無料で限りなく大学の講義に近いものを聞くことができるのです。
 大学生は、授業料をはらって、講義を聴き、単位を与えられます。しかし、聴講者は、無料ですが、何の資格、修得証明ももらえれません。すべて、自分自身の教養のためです。
 メールマガジンは、手軽であるゆえに、聴講者は、受身になるという欠点があります。学生は、単位をとるという重要な使命があるため、嫌なことでも、なんとかこなします。それが、結果としてある人には、教養となっていきます。でも、聴講者の場合は、すべて自主性にかまかせられています。
 受身になることを防ぐために、私は、聴講者に対しても、学生と同じ内容のレポートの提出をおこなうことで解消しようとしています。実際の大学講義でも、各期(半年間)に希望者にたいして、3度のレポートを実施しました(つまり強制ではありませんが、成績に関与します)。私が実施している教養科目の大学の受講者は、1,000名あまり(4クラス合わせて)います。毎回、200名程度の学生が、レポートを提出しました。一方、メールマガジンでは、約3,000名の聴講者に対し、10名程度が提出しました。回を重ねるにしたがって、そお提出率は下がっています。非常に提出率がわるくなっています。これは、まさに受身の聴講者が多いからだと思います。
 でも欠点ばかりではありません。大学生は、レポートから、意見交換や議論が、生まれことはほとんどありません。これは、大人数の教養の講義のせいもあるのですが、なにせ、単位とること、いい成績をとることが一番の目的だからです。しかし、メールマガジンのレポート提出者とは、レポート内容に関して、私との間に議論が生まれます。私が、レポートに対して、感想を書くからでしょうが、数は少ないのですが、非常に密度の濃い議論が生まれています。それをホームページで「車座」と称して、公開しています。その車座の議論も、他の人の議論のテーマとなっていきます。このような方法が、かなり深い議論もでき、非常に有効であることがわかってきました。
 大人数の講義では、ありえないのですが、少人数の講義では、学生同士の議論、意見交換が可能です。あるいは、ゼミのように、議論を重要視することもあるほどです。
 メールマガジンでは、聴講者同士の意見交換は、できません。インターネットで掲示板機能(bulletin board system:BBSと略される)を利用すれば、公開の場で、この講義に関して議論することも可能です。実際に、私の他のホームページでは、BBSの機能を活用しています。
 今回の講義に関しては、BBS機能は使わないことにしています。メールマガジンとホームページの「車座」でしか、他人の意見は、公表していません。つまり、この講義に関するすべての議論は、著者経由、著者の管理下でおこなうことにしています。
 それは、講義である限り、講師がすべてに関与すべきであることと、トラブルの回避のために、おこなっていないのです。
 講師がすべてに関与しないと、講義の提供者として無責任だし、議論のすべてに関与するのには、投稿の頻度にもよりますが、時間や手間がかかる可能性があからです。講師の省力化を掲げる以上、最小限の手間でおこないたいからです。
 もしごたごたが、あったとしたら、多くの聴講者に不快感を与え、せっかく教養教育、科学教育に興味を持ちつつある人びとに、水をさしたくないからです。また、この講義は、小学生も理解できるようにとしているため、私が把握しているだけでも、数名の小学生が参加しています。彼らに、必要以上に深いな思いをさせたくありません。
 以上のような意図をもって、片手間とはいいながら、多大な労力をもってはじめた市民への教養教育は、はじまったばかりです。でも、その効果は、上がっていると思います。そして、この講義は、2年間の予定で現在、継続中です。
 学会では、このような内容を発表してきます。

・オリジナリティ・
 上の文章と、このLetterの文章は、じつは、学会に向かう前の飛行機や待合室で書いたものです。
 学会の発表の成果は、まだわからない状態です。私の「大学の教養教育は重要である」という主張は、現在の大学の流れとは、相反するものです。これが、大学教官もいる学会で発表するのは、いささか興味津々と言うところです。
 ある人は、波風を立てるのを嫌う人がいますが、私は、自分自身が正しい、楽しいと思っていることは、堂々とおこなうべきだと思います。それが、少々常識と反しても、学術の世界であれば、論理的で、結果が生産的であればいいのではないかと思っています。そして、目指すものが、最終的には人類の幸せや、利益になればいいと思っています。もちろん、それが犯罪や誰かの不利益になるようなものでは、いけませんが。
 それと、私が、いちばん重視するのは、独創性(オリジナリティ)です。オリジナリティがないものは、私には魅力を感じません。特に、研究者としては、オリジナリティない研究は、研究する意義がないのとも、思ってしまいます。そして、つぎに重要視するものは、理論と実践、あるいは、データと仮説を伴っている研究が、望ましいと思っています。

・評価・
 学会での評価は、上々でした。特に、年配の方には、好評でした。そして、国立の教育に関する研究所の方、大学の先生がた、高校の先生がたなど、思わぬ評価を受けました。
 これは、私への評価というより、教養教育の問題、あるいは専門教育でさえ、専門化しすぎているということを反映しているようです。専門は専門で、ある幅の広さが必要です。
 近年、地質学を名乗る学科がほとんどなくなり、地質調査をできない地球科学者が当たり前になってきました。地球科学者が、すべて地質調査ができなければいけないとはいいません。でも、この10年ほどで、一気に地質学者の供給が、激減しました。社会の需要は減ったかもしれません。でも、やはり必要としている業種もあり、そしてその業種の人たちは、人材不足に悩んでいます。
 大学が自ら選んだ選択肢ならいいのです。でも、社会が必要としているという「迎合」がないでしょうか。あるいは、政治の圧力はないでしょうか。
 ある学問が、明日、必要だといっても、明後日に、その学問が完成できないのです。特に基礎学問はそうです。ですから、今は無駄かもしれませんが、知的蓄積が必要なのです。
 私が、目指しているような大学での生涯学習など、大学を挙げて、おこなっています。私のやるようなことは、所詮、ゲリラ的なものです。ですから、本流ではないですし、どんなにいい方法論を提示できても、本流にはすぐにはなりえません。でも、もしかすると、万に一つかもしれませんが、将来、本流とはいわなくても、ある階層の人たちに有用な方法になるやもしれません。基礎学問とは、そういうものではないでしょうか。
 そして、基礎学問をおこなう人の心構えは、上で述べたようにオリジナリティではないでしょうか。つまりは、人類の知的資産を生み出すことです。
 「今日、役にも立たない理論」など、無駄でしょうか。日本には、基礎的な学問をおこなう研究者を養う余裕もないのでしょうか。明日のための学問しか受け入れられないのでしょうか。明後日のあるいは、ずーっと将来、あるいは役に立たない学問をする人を養う余裕すらないのでしょうか。

2002年11月1日金曜日

10 ロゼッタストーン:知の集積(2002年11月1日)

 2002年8月31日から9月10日まで、イギリスに行きました。その目的のひとつは、ロゼッタストーン(Rosetta Stone)を、見ることでした。ロゼッタストーンは、ロンドンの大英博物館に、現在、保管され、一般公開されています。
 大英博物館(British Museum)は、イギリスの国立の博物館です。その歴史は、1753年に、イギリスの博物学者で初代館長のハンス・スローンのコレクションと、第1代・第2代オックスフォード伯のコレクションに、マグナ・カルタなどをふくむロバート・コットンの蔵書をくわえて設立されました。
 大英博物館の建物は、ロバート・スマークの設計で、1847年に完成したものです。現在、この建物には、10の部門と1972年に大英博物館から独立した大英図書館の一部がはいっています。1883年に自然科学部門が独立して自然史博物館となり、1909年には自然史博物館から科学博物館が独立しました。
 こんな由緒のあり、人類の至宝が数限りなくあるような大英博物館でも、ロゼッタストーンは、目玉となっています。
 ロゼッタストーンの碑文は、ギリシア語と、エジプト語のヒエログリフ(象形文字で神聖文字ともいう)とデモティック(民衆文字)の3種類の文字で書かれています。ヒエログリフ(Hieroglyph)は、古代エジプトの象形文字で、聖刻文字、神聖文字ともいわれます。このヒエログリフの解読から、エジプト学の基礎がきずかれたという曰(いわ)くつきの歴史的資料です。
 1799年、エジプト、ロゼッタ近郊で、ナポレオンのエジプト遠征に従軍していた工兵隊の士官が、ロゼッタストーンを発見しました。ロゼッタは、英語読みで、現地ではラシード(Rashid)と呼ばれているナイル川デルタ地域ラシード支流の河口にある町です。
 碑文の内容は、エジプト王プトレマイオス5世をたたえる神官団の布告で、紀元前196年に刻まれたものです。ギリシア語の和訳を読んだのですが、美辞麗句、飾りの言葉だらけで、あまり内容のないものでした。
 ヒエログリフの解読は、最初、スウェーデンの外交官ヨハン・ダビド・オケルブラドが、この文のデモティック中の表音文字の解読に部分的に成功しました。ヒエログリフの解読では、イギリスのヤングとフランスのシャンポリオンが、その功を争いました。
 ヤング(Thomas Young、1773~1829)は、私には、物理学でなじみのある研究者です。光の干渉現象を発見し、光の波動説の確立に貢献しました。弾性の理論的研究では、弾性率のひとつに、彼の名にちなんだヤング率があります。
 ヤングの職業は医者でした。ですから医学でも、目についての研究で業績を上げました。眼球を調節する筋肉があることを解剖学的に示し、乱視について記載し、その原因を指摘しました。
 さらに、古代エジプト文字の研究で、ロゼッタストーンにヒエログリフの解読においても功績があります。ヤングは、いくつかの固有名詞の解読に成功しました。
 もう一人のシャンポリオン(Jean-Francois Champollion、1790~1832)は、小さいころから語学の天才でした。研究は、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、エチオピア語、ペルシア語、中国語から、メキシコの古文字にまでおよび、16歳のころコプト語が古代エジプト語の流れであることを突き止めています。その後、コプト語辞典の編纂や、エジプトの歴史や地理の研究にも熱中しました。
 シャンポリオンの業績は、なんといっても、ロゼッタストーンの碑文の解読でしょう。1821年に、2種類のエジプト語の文が表音的にはじまることを解明し、ロゼッタストーンなどの碑文における王の名前の書き方が、ヒエログリフでのカルトゥーシュ(王の名前で枠で囲われたもの)であること確認しました。1822年には、一気に碑文のすべての解読に成功しました。この結果を、1822年に、パリ学士院で発表しました。この年が、近代エジプト学のはじまりとされています。シャンポリオンは、この後、10年ほどで、エジプト学の広い分野にわたって業績をあげ、近代のエジプト学の創始者となりました。
(以下は、ライブです)
 以下では、私が見たロゼッタストーンについて紹介しましょう。
 ここからの文章は、大博物館の中心部にあるReading Roomで書いています。まあ、いってみれば、メールマガジンの送り手側のライブです。
 大英博物館から独立した大英図書館が一部大英博物館に残されています。このReading Roomは、その図書館の閲覧室にあたり、実際に閲覧できるところです。しかし、多く観光客は、入り口で引き返すので、中は静かに、本を読んだり、入力作業ができます。なんとこのReading Roomは、1857年以来、市民が利用できるのです。約150年間、このテーブルに何人の人が本を広げ、この椅子に何人の人が知的好奇心を満たすために座ったのでしょうか。マルクスも個々を利用したと書いてありました。時間の重みを感じます。
 多くの人は、ロゼッタストーンを写真で見ていると思います。みれば、だれでも、「ああ、これか」と思い出せるほど有名なものです。また、イギリス、ロンドンを訪れた人の多くは、大英博物館を訪れ、ロゼッタストーンは見たことがあると思います。
 ロゼッタストーンは、現在は、ガラスで覆われており、全体のいい写真を撮ることができませんでした。残念ですが、しょうがありません。このロゼッタストーンは、1802年の終わりころ、紆余曲折をへた後、大英博物館に落ち着き、それ以来、現在まで、一般公開されています。なんと、200年間も、市民に展示されてきたのです。なんと素晴らしい経歴をロゼッタストーンは持っているのでしょうか。
 ロゼッタストーンは、高さが114cm、幅が72cm、厚さは28~30cm、重さ762kgの黒っぽい岩石でできた板です。ロゼッタストーンは完全なものではなく、左上の角のかなりの部分と、右上の縁の細い部分、右下の角が失われています。もともとは、上が半円形で、下が四角い、西洋の墓石のような形をしていたと考えられています。
 多くの説明には、岩石の種類は、玄武岩と記されているのですが、ロゼッタストーンの説明文では、花崗閃緑岩(Granodiolite)と書かれています。
 地質学的にみると、つまり私が見たロゼッタストーンは、以下のようです。
 ロゼッタストーンは、2種類の岩石からできています。
 大部分は、ドレライトという玄武岩よりやや粗粒の結晶からなる火成岩です。マグマとしては珪酸(SiO2)が少なく、鉄やマグネシウムの多い塩基性の性質を持つマグマからできたものです。黒く緻密な岩石で、見慣れない人には結晶は見ません。しかし、よく見るとロゼッタストーンの欠けた部分の割れ目で、ガラス越しですが、単斜輝石の柱状結晶が光ってみました。写真にとって拡大してみると、斜長石の結晶もみえます。ですから、オフィティック組織と呼ばれる、ドレライト固有の岩石組織を持っているようです。
 左上部に、中央上部から左上部にかけて、数センチメートルの幅のピンク色の脈状の部分があります。これが、もうひとつの岩石である粗粒の花崗閃緑岩の岩脈の部分です。裏側の割れ目でみると、ピンク色のカリ長石、白色の斜長石、無色の石英、黒く不定形の角閃石、まれに黒く角ばった輝石が見えます。マグマが固まってできた火成岩ですが、ドレライトとは違い、珪酸が多く、鉄やマグネシウムの少ない酸性の性質のマグマからできたものです。
 他のエジプトの岩石でできた資料をいくつもみていきますと、塩基性の岩石に酸性の岩石が貫入しているものが、よく見かけられます。ですから、石材の産地のひとつとして、塩基性のマグマの活動後、酸性のマグマが活動した地域のものが使われているようです。
 ロゼッタストーンだけではないのですが、古代エジプトの岩石の加工技術は、素晴らしいものです。現代のような道具を使えば、可能でしょうが、何トンもあるような岩石を切り出し、細かい加工をして、表面もきれいに磨き上げています。どのような技術を使ったのでしょうか。
 ロゼッタストーンの表面に刻まれた、小さいな文字、ヒエログリフの細かい模様、小さなギリシア文字、本当に細かい文字が刻まれています。素晴らしい技術です。
 一番感心したのは、古代エジプトの人々が、文字や絵で、「記録」するという重要性を十分知っていたことに驚きます。移ろいやすい人間は、せいぜい100年の寿命です。でも、死者は、ミイラになれば永遠に生きながらえます。そして、文字として石や紙(パピルス)に記録されたものは、やはり永遠にその記録は残ります。そんなことを、彼らは悟っていたのです。
 エジプト人は、庶民から王様まで、住まいは、日干し粘土で固めたような粗末な家に住んでいたようです。現世の富や名誉より、死後に残すものに、財力や精力をつぎ込んだようです。その結晶が、ヒエログリフが刻まれた多くの死者の副葬品です。
 現代生活にその教訓を、活かせないでしょうか。「今」の快楽を求めて刹那的に生きるより、後世に残る仕事、あるいは知的資産の積み上げに、精力を使って生きればどうでしょうか。そうすれば、必要以上のものや富、労力は使われず、後世の人のためにとって置けます。あるいは自然に対しても必要以上に負担を強いることがないかもしれません。
 古代エジプト人は、自分たちの言葉は永遠に消えないと信じていました。古代エジプト人は、こんな格言を残していたそうです。
「未来に向けて語るべし、それは必ず聞かれん」
 われわれは、未来に何を語るのでしょうか。今のみを語っているのではないでしょうか。

・なぜ、大英博物館なのか(これもライブです)・
 本来なら、私の志向や興味から言えば、自然史博物館に行くべきではないでしょうか。ところが、なぜか、大英博物館なのです。9月6日夕方、エディンバラからロンドンに着いて、9日の昼にロンドンを発つまでの、2日間すべてを、大英博物館の中ですごしました。両日とも8時間ほどいました。もちろん、トイレから食事まで内部にあり、そして世界一級の資料が、すぐそこにあるのです。さらにいえば、その2日間の半分以上はReading Room、つまり図書館にいました。
 ロンドンの町は、ホテルと大英博物館(徒歩5分ほど)のホテルの近くで夕食を食べるほか、ほとんど見ていないことになります。それに、展示物を見るだけが、大英博物館の見方ではないと思います。そこに流れる長い時間に浸ること、それも、大英博物館の見方ではないでしょうか。
 その理由は、いくつかあるのですが、世界最高の知の集積の場で、その雰囲気を胸いっぱいに吸い込みたいと思ったからです。
 大英博物館が資料としてあつめたもの、そして現在も集めているもの、それは、人の営為かも知れません。
それを為した人:芸術家や職人、必要に迫れて作った庶民、名も亡き人、などなど。
それを為さしめた人:皇帝、王、貴族、支配者、神官、宗教家、などなど。
それに協力した人:市民、庶民、納税者、奴隷、下層に人々、などなど。
それを観る後世の人々:解読する人、解析する人、感動する人、味わう人、圧倒される人、たたずむ人、観光する人、学ぶ人、老若男女、過去の人、現在の人、未来の人、などなど。
そんないろいろな人の営為の集積、そんな人の知恵と知恵の衝突の集積が、ここにはあるのかもしれません。
 ならば、そんな人の営為の集積、そんな人の知恵と知恵の衝突の集積を、ほんの短い時間ですが、体全体で感じたいと思ったのです。

・ロゼッタストーン解読・
 今回、ロゼッタストーンを見に来るにあたって、レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ著「ロゼッタストーン解読」(ISBN4-10-541601-4 C0020)を、滞在中に読みました。ロゼッタストーンに書かれた文字の解読にまつわる話です。
 ロゼッタストーンのヒエログリフは、フランス人のジャン=フランソワ・シャンポリオンが解き明かしたものです。彼は、ライバルたちからの誹謗、中傷、妨害にあいながらも、病気と貧困に打ち勝って、1822年、31歳のとき、ヒエログリフの解読に成功しました。この本から、彼の熱意、彼の努力、そして弱音、
人間としてのシャンポリオンがわかりました。そして、彼のエジプト学に対する情熱も伝わりました。そして、ここまで一つのことにのめり込めた、彼の偉大さを尊敬しました。
 この本を読み終わった直後に、ロゼッタストーンを見ました。感動もひとしおでした。写真をとれなくて残念でしたが、そんなことは些細なことで、ロゼッタストーンに刻まれた人類の叡智に感動しまた。
 そして、大英博物館は、なぜ、こんなにも他の地域のものを集めているのか疑問に感じました。この世に一つしかないものは、あるべきところに収めるべきではないかとも思ってしまいます。ただ、これだけの宝物を、無料に世界の人々に解放しているのは、素晴らしいことだと思います。でも、罪滅ぼしかなとも思ってしまいました。

・なぜ、ロゼッタストーンなのか・
 イギリスにいってロゼッタストーンをみたいと思っていました。そのきっかけとして、ひとつは、かつて担当した特別展「地球再発見」の図録の目次の背景に、ロゼッタストーンの画像を使ったこと。もうひとつは、サイモン・シン著「暗号解読」(ISBN4-1-53902-2 C0098)を読んだときに実物を見てみたいと思っていたものです。
 エジプトなどの古代の文化は、長い時間にわたって継続してきたものです。古代エジプトのヒエログリフは、紀元前3000年以上も前から、紀元4世紀はじめまで使われていました。少なくとも3000年以上にわたって使われてきたわけです。人類がもっと長く使った文字といえます。
 しかし、ヒエログリフは、エジプト人がギリシア文字を使うようになってから、忘れられ、解読できるものもいなくなっていたのです。ヒエログリフの解読によって、古代エジプトの人々の長い歴史が、解明されてきたのです。
 ヒエログリフを通じて、古代エジプト文明の緻密さと精神性の高さが伺えます。たとえば、墓しか彼らは残さなかったのです。それは、「ロゼッタストーン解読」によれば、
「質素な家や宮殿は生きているあいだしか使わないが、墓は『永遠の家』だった。」
からだそうです。
 人類の知的遺産象徴として、ロゼッタストーンやヒエログリフの本物を味わってみたいと思っていました。
 蛇足ですが、私たちが日ごろ使っている漢字。これも3000年以上の歴史があり、なんといっても現役の文字として、しかも、中国、日本だけでなく、東南アジアのいくつもの国々で、文字として、利用されています。私たちはこんな素晴らしい文字を、日々使っているのです。ゆめゆめ忘れずに。

2002年10月1日火曜日

09 ハットンの見た露頭:現実とスケッチ(2002年10月1日)

 近代地質学の基礎を築いたのは、イギリスの地質学者のジェームス・ハットン(James Hutton、1726~1797)とされています。ハットンは、スコットランドのエディンバラで生まれました。彼が調べた地域、特にスケッチの残された現場を、今回見に行きました。
 イギリスは、ベーコン(Francis Bacon、1561~1626)を生んだ国です。ベーコンは、「ノウム・オルガヌム」(1620年)で、科学に、精密な観察と実験をもちこみ、実証主義を提唱しました。ベーコンの国、イギリスで、実証主義的に地質学が構築されたのは、1世紀半もあとのジェームス・ハットンでした。
 ハットンは、花崗岩の貫入や地層の不整合という現象を、自分で、実証的に観察し、18世紀末に理論化しました。それは、「地球の理論」(Theory of the Earth)という著書で体系化されました。1775年に、エジンバラ王立協会の会合でハットンが発表したものが、1778年の会報に掲載され、1795年に増補され、「地球の理論」の2巻の単行本として出版されたものです。
 ハットンは、地球内部の熱によって、地表が上下運動して、さまざまな地質現象が、永遠に繰り返されるものだと考えました。地球を大きな熱機関と考えたのです。ハットンは、花崗岩は、地球内部の熱によって形成されたという火成説を唱え、A. G. ウェルナーらの水成説と対立しました。
 ハットンは、ルネッサンス以後蓄積されてきた、化石や鉱物、地層、岩石の断片的知識を、はじめて、科学的に地質学として体系化しました。ハットンは、多くの事実から仮説を構築するに当たって、論理的な考え方でおこないました。そして、その科学的な考え方は、斉一(せいいつ)説と呼ばれ、火成説とともに、近代地質学の基本的な考えとなっています。
 ところが、ハットンの「地球の理論」は、難解であったため、当時の世には、ほとんど評価されませんでした。さらに、空想的で思弁的な同名の本が、かつて何冊かあったこと、彼が無神論者であったことも災いしていたのかもしれません。
 ハットンの友人で、このシッカー・ポイントの調査にも同行したプレイフェア(John Playfair)は、この説の重要性を理解していました。エジンバラ大学の数学教授プレイフェアは、1802年に、「ハットンの地球理論の解説」(1802)という本を出版し、ハットンの考えを普及に努力しました。ハットンの説は、この本によってようやく世に知られるようになりました。
 その後の研究の蓄積と、ライエル(Charles Lyell、1797~1875)の「地質学原理」(1830~1832、全3巻)によって、「斉一説」に基づく地質学が、充実していくのです。チャールズ・ダーウィンは、ライエル友人でもあり、ライエルの説に影響をうけて、進化論を提唱にいたります。進化論と斉一説は相反するものですが、ライエルは、ダーウィンの説を強力に支持しました。
 さて、私は、2002年8月31日から9月10日まで、地質学発祥の地、イギリスを訪れました。今回の調査で訪れたのは、イギリスの北部、スコットランドのエディンバラ周辺でした。ハットンが野外調査をした地でもあります。
 教科書の写真で、何度もみいているのですが、ハットンが見て、地質学の礎(いしずえ)とした露頭を、現場で見てみたいというのが、今回の訪英の一番の目的でした。まあ、自己満足かもしれません、現場主義的におこないたい私のやり方でもあります。
 さて、ハットンが調べた地質で、スケッチが残されている露頭がいくつかありますが、なかでも有名なのは、不整合の露頭です。それは、ジョン・クラーク(John Clerk of Eldin)が、ハットンに同行し、描いたものが、たくさんあります。
 「ハットンの不整合」と名づけられている露頭があり、近代地質学のハットンの業績を象徴しているものです。「ハットンの不整合」の露頭としては、シッカー・ポイント(Siccar Point)と、アラーズ・ミル(Allar's Mill)の露頭が有名です。
 シッカー・ポイントは、エディンバラの東方約50キロメートル、ダンバー(Dunbar)という町の近くにあります。シッカー・ポイントは、非常に有名なところで、地質学の教科書にもよくでているところです。この付近の地質巡検には必ず入れられるようなところで、日本人の地質学者も何人も訪れています。 ここの露頭は、ジェームス・ホール(James Hall)が描いたスケッチがあります。一応、概略はわかるのですが、実際の露頭を見ると、かなり違いがあります。これは、露頭のほうが見事で、スケッチが見劣りするためでしょう。
 もう一箇所のアラーズ・ミルの「ハットンの不整合」は、ジェドバラ(Jedburgh)という、イングランドとの境界に近い町はずれのジェド川(Jed Water)のがけにあるものです。
 アラーズ・ミルの不整合は、スケッチが有名です。スケッチはジョン・クラークが描いたものです。スケッチでは、不整合の露頭が崖になっていて、上は、平らな地形になっています。崖沿いには、道があり、道の奥は、牧草地なっています。道には、騎乗した旅人と馬車の騎手が、すれ違うときに手を上げて挨拶しているもので、当時の様子が感じられて、不整合の露頭もさることながら、その風景のスケッチが、印象に強く残っています。
 今回、アラーズ・ミルも訪れました。しかし、その「ハットンの不整合」は、あまりにもスケッチとはかけ離れたものでした。川の対岸にその不整合の露頭はありました。しかし、風化や浸食が激しく、昔の面影は、ほとんどありませんでした。一応、露頭の前の草は刈られていて、露頭の全貌を見ることはできました。でも、その露頭での本当の不整合面は、上から雨水で流された土砂をかぶっていて、よくわからなくなっていました。
 「ハットンの不整合」のスケッチがされている場所で、露頭を2箇所みました。そして、どちらも、現実と、事前に得ていた情報とは、かなり違っていたというのが、最終的な印象でした。
 しかし、考えてみると、写実的なスケッチとは、どんなものでしょうか。今回の調査で、私は大量の写真をとりました。スコットランドだけで、1000枚以上とりました。ハットンは、もちろん写真のなかった時代の人です。
 では、写真のない時代は、なにを写実としたのでしょう。もちろんスケッチでしょう。スケッチは、人手によっておこなわれます。そして、ジョン・クラークの手記や印刷物をみると、現場では、ラス・スケッチをして、帰ってきてから、じっくりと絵を描き直しているような気がします。
 とりあえず、必要なところだけを、現場では描いて帰るわけです。ラフであろうと詳細なスケッチであろうと、現場で書いたもののうち、重要なものは、清書されます。そのときに、現場のスケッチをもとに、いろいろ手を加えます。ジョン・クラークの馬車もそのようなものでしょう。このようなことは、多くの人が、研究者ももちろん、現在でも当たり前におこなっていることです。しかし、スケッチや写真をつかって、「事実」や「生データ」を、提示しているわけです。
 現代では、写真を私たちは、つい写実の象徴と考えてしまいます。しかし、「実物」や「現実」などの「なま」のものを、カメラで「切り取る」こと、そして「記録」することは、その行為をする時点で、すでに加工をしているのです。写真ですら、構図、露出、シャッター速度などを決め、そして、2次元の画像として、「切り取って」いるのです。だから、ハットンのスケッチを、間違っているなどと批判してはいけないのでしょう。
 彼が、何を記録し、何を観察し、何を伝えたかったか、そして、それが伝わったかが、大切ではないでしょうか。もちろん、写真でも同じです。
 ジェームス・ハットンは、「地球の理論」(Theory of the Earth)の結論として、有名な格言を残しています。
"We find no vestige of a beginning and no prospect of an end"
「私たちは、はじまりの痕跡も、おわりの予見も、なにも見つけられない」

・確かな岬・
 シッカー・ポイントのSiccarとは、スコットランドで使われている「確かな」という意味の言葉で、古い英語で、sureの語源となっている単語です。シッカー・ポイントは、ポイントが「岬」という意味で、「確かな岬」となります。
 その露頭は、牧場の中をしばらく歩き、海岸の絶壁を降りたところにあります。この断崖絶壁も、牧場として、牧草がうえてあり、柵も作られています。その中に、ここを訪れる地質屋がつけた道でしょうか、海岸へと続く、踏み跡があります。
 ハットンは、スコットランドの地質調査をしていて、褶曲の激しい地層と、少しだけ傾斜した地層があることに気づき、その関係がどうなっているかを探しました。海岸線を船に乗って調査中に、この露頭を、発見したそうです。
 まさに地質関係を示す「確かな岬」Siccar Pointです。
 私は、この露頭に、2日間訪れ、不整合を調べ、味わいました。そして、岬のすぐ先でカニ漁をし、私に手を振るスコットランドの漁師に、ハットンの姿をダブらせました。

・写真撮影・
 私は、2002年の3月まで、写真は35mmのポジフィルム(ASA64か100)で撮影していました。カメラ本体、予備一台、交換レンズ(魚眼レンズ、12mm広角レンズ)、三脚、ストロボなど、撮影用の機材だけで、出かけるときの機内持ち込み荷物がいっぱいになるほどでした。
 しかし、4月以降、アナログカメラが必要なくなり、デジタルカメラに切り替えました。500万画素があれば、A4サイズで十分なクオリティが得られるからです。それに、デジタルで使用する頻度のほうが多くなってきたからです。
 画像をデジタルに切り替えたおかげで、いくつか変わったことがあります。それは、写真の撮影枚数が格段に増えたこと、写真やデータの処理が、現地で終わらせることができることです。
 撮影枚数は、2週間ほど調査では、アナログのときは、36枚撮りフィルムを20本前後使用します。ところが、デジタルになると、ランニングコストがまったくかからないので、やたら撮ってしまいます。ですから、スコットランドは、5泊6日の滞在でしたが、1000枚以上の写真を撮っています。
 また、デジタルカメラの画像を、持参しているノートパソコンに毎晩、吸収します。そのときに、写真のメモも書き込み、ついでに、採集した資料のメモを書き加えます。すると、帰ってしなければならないことが、なくなります。非常に効率的です。そして、現地でないとわからないことがすぐに翌日調べることができます。また、確実にほしい画像は、即座に再現できますので、失敗があまりないからです。
 でも、電子機器は、電源が保障されるところ、そして、故障のリスクが常に付きまといます。このために、予備は必要なのですが、今回は予備なしできました。デジタルカメラがシッカー・ポイントで動かなくなり、焦りました。でも、電池を抜いてリセットするという荒療治で、動作するようになりました。カナダでは、メモ用のパソコン一回故障し、帰国の検査でソフトが一つ壊れました。でもなんとか、データは残り、事なきを得ています。今回は、パソコンのトラブルはありません。
 今のところ、デジタル・システムで満足しています。
 7月のカナダの調査、そして9月の調査とデジタルのシステムで撮影を行いました。そのために、荷物が軽くなりました。デジタルカメラのデータを保存するために、ノートパソコンや電源など、まったく違った装備になりました。でも、今回のイギリスでは、予備(コンピュータ、デジタルカメラ)を持たずにきました。すると、驚くほど、荷物が軽くなりました。
 地質資料と文献で荷物が倍以上に膨れ上がります。そして、思い出とパソコンに書き込んだメモを土産に、心もいっぱいになって帰るのです。

2002年9月1日日曜日

08 オフィオライト(2002年9月1日)

 オフィオライトというものをご存知でしょうか。私の卒業論文、修士論文、そして博士論文は、オフィオライトを素材にして、書きました。その後は、いろいろな研究に興味は移りました。でも、10年近くは、オフィオライトを研究してきました。今回は、オフィオライトというものを紹介しましょう。
 オフィオライト(英語でophioliteと書きます)とは、ギリシャ語の蛇をあらわす言葉オフィス(ophis)と、石をあらわす言葉リソス(lithos)を合わせた言葉です。19世紀中ごろから、英語として使われている言葉です。なぜ、このような「蛇の石」などという言葉が使われているのでしょうか。それは、オフィオライトに伴われるカンラン岩が、蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれる岩石になっているからです。日本語でも蛇紋岩といわれていることからわかるように、岩石が、蛇ような模様や色をして、岩石の表面も蛇の肌のように、てかてかと光っているためです。
 現在では、オフィオライトは、一連の岩石グループの名称となっています。その一連の岩石グループとは、海洋底を構成していたものです。下から、カンラン岩、斑レイ岩、玄武岩、チャートと呼ばれる岩石が重なっています。
 それぞれの岩石を紹介しましょう。
 カンラン岩は、マントルを構成している岩石です。カンラン石という鉱物をおもな構成物とする岩石で、比重も大きく、オリーブ色のきれいな岩石です。しかし、地表で見られる岩石は、オリーブ色でみられることは少なく、多くは、濃緑色、緑色など色の濃い、黒っぽく見える岩石になっています。これは、カンラン石が、蛇紋石に変わってしまっているからです。岩石名も、カンラン岩から蛇紋岩となります。
 カンラン岩には、もともとマントルにあったものと、マントルが溶けていったんマグマになり、そのマグマからカンラン石が沈積してできたカンラン岩があります。ですから、カンラン岩にも起源の違うものがあるのです。その違いは、岩石の組織の違いで見分けられます。マグマからできたカンラン岩は、沈積したときに鉱物がつくる縞模様(層状構造といいます)ができますが、マントルにあったカンラン岩にはそのような構造はみられません。そして、岩石の種類が、マグマからできた層状カンラン岩は、鉱物の量比が変化して、多様なカンラン岩の種類ができます。一方、マントルのカンラン岩は、マグマが抜けて、ハルツバージャイトと呼ばれる一様なカンラン岩になっています。
 つぎの斑レイ岩は、粒の粗い鉱物からできている岩石で、層状構造をもっている部分と層状構造のない部分があります。層状構造を持つ斑レイ岩は、層状のカンラン岩の上部で、斜長石が多く含まれるようになって、岩石としてカンラン岩ではなく、斑レイ岩と呼ぶべき岩石種になったものです。さらに上部では、マグマ溜まりで、マグマがそのままゆっくりと固まったものです。
 玄武岩は、斑レイ岩と同じような化学成分を持ちます。しかし、斑レイ岩がゆっくり冷え固まったのに対し、玄武岩は、急激に冷え固まったものです。ですから、玄武岩は細かい粒、あるいは鉱物が十分成長できず、マグマがそのまま固まったもの(非晶質、あるいはガラス質といいます)になっているところもあります。
 玄武岩には、構造によって、岩脈と枕状溶岩の2つの種類があります。
 岩脈というのは、マグマが別の岩石を通り抜けるとき、つきぬけ、そのまま固まったものです。オフィオライトで見られる岩脈は、多数の岩脈が平行に貫入しているものです。非常に不思議な形態を示す岩脈群です。このような岩脈は、大地が常に広がろうとする地域でなければ、形成されないと考えられています。
 枕状溶岩とは、玄武岩のマグマが、水の中で噴出したときできる形態です。字の意味するところ通り、枕をいくつも積み重ねたような構造をもっています。すべてのオフィオライトの上部にある玄武岩は枕状溶岩になっていますので、オフィオライトは、常に、水底で活動していたことを意味します。
 岩脈状の玄武岩と枕状の玄武岩の関係は、連続的です。つまり、ある岩脈の上部で枕状溶岩になっているところあります。ところには、枕状溶岩を突き抜けている岩脈もあります。でも、そんな岩脈もさらに上部では枕状溶岩になっています。つまり、マグマが岩脈のあるところを通り抜けて、水底で枕状溶岩として噴出したことになります。
 チャートとは、放散虫など珪質のプランクトンの遺骸からできた岩石です。ですから、チャートには、海水中に生きている生物の化石がたくさん含まれて、保存されていることもあります。その小さな化石(微化石とよびます)を調べますと、たまった年代がわかります。
 チャートのほかにも、量は少ないのですが、大陸から遠く離れたところにたまる、粘土層が含まれていることがあります。粘土は、大陸の岩石が風化してできるもので、河川や風によって海に運ばれたものです。粘土のように粒の細かいものは、陸から遠い海洋にもゆっくりと堆積します。
 カンラン岩、斑レイ岩、玄武岩の3種類の火成岩とチャートの堆積岩が、オフィオライトの構成メンバーです。オフィオライトの岩石グループが示したそれぞれの性質は、かつての海洋地殻を構成していたこと意味しています。オフィオライトは、海洋地殻の「化石」のようなものだったです。
 オフィオライトは、大陸の各地に、さまざまな時代のものがあります。つまり、過去のいろいろな時代の海洋地殻を、陸地の調査で、研究することができるのです。なおかつ、重要なことは、海底にある海洋地殻が、2億年より若いものばかりで、もっと古いものは、陸地のオフィオライトを調べるしかないのです。
 オフィオライトの重要性が再認識されだしたのは、1970年代後半のころです。プレートテクトニクスの理論が普及して、陸地の地質が、すべてプレートテクトニクスの考えで見直されたころのことです。
 過去の海洋地殻を調べるにはオフィオライトを調べるしかないのです。まだ、オフィオライトが海洋地殻であることが認知されないころは、オフィオライトと海洋地殻が一致する根拠が少ないと反対する人もいました。しかし、現在では、海洋地殻やオフィオライトに関する知識も増え、その類似性を否定する人はなくなりました。しかし、注意が必要なのは、オフィオライトとよばれる岩石グループにも、海洋地殻以外の場所で形成された岩石が混じっていることあるからです。
 こんなオフィオライトを、私は研究してきました。卒業論文は、北海道日高静内川上流の西縁構造帯のオフィオライト、修士課程では、岡山県西部井原地方、博士論文では、舞鶴構造帯のオフィオライトを研究しました。野外調査、岩石の顕微鏡観察、岩石と鉱物の化学組成、同位体組成をおこない、オフィオライトの年代決定、形成場、マグマの起源、マグマの組成変化をおこないました。
 このような研究の指導をしていただいたのは、田崎耕市先生でした。田崎先生は、修士論文の時の指導教官でしたが、博士課程や、その後の私の研究者人生において、よき相談相手になっていただいたり、家族ぐるみの付き合いをしておりました。その付き合いは、22年に及びます。
 田崎先生自身は、北海道の神居古潭帯のオフィオライト、房総半島嶺岡のオフィオライト、三郡帯のオフィオライトを研究されてきました。岡山大学、愛媛大学で教鞭をとられ、退官前や退官後は、核廃棄物について研究や、金沢市市民や子供たちへの科学教育をおこなわれていました。
 2002年8月19日の朝、田崎先生は、69歳で亡くなられました。墓石は、三郡帯の鳥取県若桜地方の輝石斑レイ岩の自然石を使うように遺言されています。質素で、虚飾をきらう研究者としての最後の我儘が、墓石に込められた思いでした。それを考えると身につまされます。ご冥福を祈ります。
(合掌)

(2002.08.21)
 恩師との出会いは、修士課程で、O大学O研究所(当時)を選んだときでした。
 それまで、私は、H大学理学部のK教授(当時)、N助手(当時)のもとで、卒業論文で、日高のオフィオライトの調査研究をやっていました。そして、修士論文では、地域にはこだわらず、オフィオライトの研究したいために、田崎先生が、助教授(当時)でいたO研究所に進学しました。1980年4月のことでした。
 そして、三郡帯のオフィオライトを研究するために、先生と一緒にいくつかの地域を回りながら、岡山県井原市付近のオフィオライトの研究をすることに決めました。
 1980年の夏、井原市の由緒正しきお寺に下宿して、自転車屋で、バイク(カブという車種)を借りて、一月あまり、野外調査をしました。
 修士課程2年生とき、C型肝炎の検査で恩師は、大学病院に入院されました。そして、私は、井原市で2度目の夏の調査を、恩師の車を借りて、おこないました。今度は、民家に下宿をしました。
 そして、1981年の春に助手で別の講座に赴任してきたT氏に私を託し、この年夏、カナダのカルガリーに在外研究に1年間、お子さんを連れて、旅立たれました。そして、カナダ、カルガリーで先発されていた奥さんに合流されました。
 その頃、私が、博士課程に進学したいといっていたので、「修士論文を無事、自力で書き上げ、博士課程に進学したら、カナダに来なさい。一緒にカナダのオフィオライトを見に行こう」と約束していました。
 1982年4月、私は、H大学の博士課程に進学しました。S君は、私と入れ替わりに田崎先生の研究室に修士課程で入ってきました。約束どおり、夏休みに1ヵ月半ほど、カルガリーの田崎先生のアパートに滞在して、カナディアン・ロッキー、カルガリーのスタンピード、カナダ東部(ケベック、ニューファンドランドなどの)の地質巡検や観光を楽しみました。カナダ東部への旅行は、家族旅行も兼ねていました。ただし、行きのトロントから帰りのトロントまで、田崎先生と私は、奥さんと娘さんたちは、別行動でした。
 私が帰るとき、娘さんたちは、先発して帰るため、私と一緒に日本に帰国しました。そして、子供たちは、学校が始まるまで、しばらく親戚にいました。
 博士課程では、私は、フィールドを拡大して、中国地方から近畿地方にまたがる舞鶴構造帯全体に広げていました。その後、私は、年に一度か二度は、O大学C研究所(当時)を、分析のために訪れるようになっていました。そのたびに、田崎先生と研究上の相談し、家族のいる自宅を、訪れていました。私が博士論文を書きあげるころ、田崎先生は、E大学に転勤されました。
 私は、博士論文提出後、1年間、O大学で研究生をしているころ、ニュージーランドへの海外調査を、田崎先生、S君、小出でいきました。その調査が、縁で、S君はニュージーランドに1年間留学しました。
 結婚する前には、家内を連れ、E県の田崎先生のところを訪ねました。そのときは、歓待して頂いて、本当に楽しかったです。
 あとは、電話やメールによる連絡や、機会があるたびに、顔を合わす程度でした。田崎先生がE大学を定年されて金沢で自宅をもたれ、奥さんと一番下の娘さんと住んでいたとき、田崎先生の退官記念シンポジュームが金沢大学でおこなわれました。そこで、私は、田崎宅を訪れ、一泊させていただきました。
 前の職場であるK県立博物館にもこられ、箱根に2泊していただきました。そのうち、一泊は、長男と家内も一緒に宿泊しました。長男は誕生後2ヶ月で、それが最初の外泊で、田崎先生が、長男を最初に抱いてもらった人でした。
 また、2001年9月下旬、日本地質学会が金沢であったとき、学会をぬけ出し、半日、田崎先生の家で、話し込みました。そのときも、病み上がりで気落ちされていた先生を励ましながら、翻訳をしましょうと話ていました。
 金沢での恩師に関する記述が2つあったの紹介します。

●金沢にて● 2001.9.22
金沢にいる。
昨日から、金沢に来ている。
昨夜は学会の懇親会があり、
懐かしい、多くの人とあった。
学部と博士過程時代の恩師にあった。
今日は、朝一番の発表である。
それが終われば、金沢在住の修士過程時代の恩師と、
ゆっくりと話し合う予定である。

学会に来ると、
近くの観光地や地質名所を見るということを、
かつてはよくやっていた。
今回もすぐ近くに兼六園がある。
しかし、出かける気にならない。
これも、忙しさのせいだろうか。
それとも、老化?

●恩師の気力● 2001.9.22
急に涼しくなってきた。
初冠雪のニュースも流れている。
秋が、深まってきた。

電話では話していたが、
久しぶりに恩師に会った。
恩師は、最近病気がちで、
気力も低化している。
昨年、手術した。
7月にアルゼンチンに行って、
肺炎になり、8月はずっと寝こんでいたそうである。
今年の10月にも手術する予定だそうだ。
そして、生きることに積極的でない。

恩師は、弟子が少なく、
私と後輩の2人くらいしかいない。
だから、その後輩と恩師をなんとかしたい、
と相談している。

英語文献の日本語への翻訳が
いいのではないかと考えている。
奨めているのだが、どうも乗り気にならないようだ。
でも、なにか目的を持って生きて欲しいのだが、
今日は、1日その相談をするつもりである。
うまくいくかどうか。
あきらめずに説得しよう。

この2つが、最後にあったときの記述です。あとは、時々、電話で、体調伺いをしながら、話したことがある程度です。今年の1月に、私の転進が決まって手紙を書き、その後、電話した時、ある本が借りたくてお願いしたら、お祝いだという手紙がついていました。
 もともと、あまり日記などつけない私が、転勤のときだけは、いろいろなことがあるだろうと、半年ほど日記というかメモをつけていました。
 以下、転勤のころの日記より(抜粋)

2002年1月9日
 田崎氏に転職の手紙を書く。退職願を提出する。
2002年1月22日
 田崎氏に電話をして、転職や今後のこと話す。転職祝いに、Johanssen著のPetrography4巻を頂くことになる。
2002年1月29日
 田崎氏よりPetrography4巻が着く。ありがたい。

 私の過去の記録には、これだけの記述しかありません。少ないです。でも、心に占める、空虚感は大きい。

 以上が私の恩師との付き合いと、思い出の概略です。書いてしまうと、これだけなのかという気もします。もっともっと長い付き合いのような気がします。年数で言えば22年に及ぶ付き合いでした。
最後のもう一度、田崎先生のご冥福を祈ります。
(合掌)

2002年8月1日木曜日

07 構造主義的地質学(2002年08月01日)

 構造主義という考え方をご存知でしょうか。もともとソシュールという言語学者に、その方法論の端は発しますが、レビ・ストロースという人類学者が確立した方法であります。構造主義というと、硬く、形式を重んじるような感じがしますが、実は、形式を打ち砕いた考え方なのです。
 構造主義を簡単にいうことは難しいのですが、考えをまとめる方法として、以下のようなやり方で行われます。レビ・ストロースの神話学を例としましょう。
 方法には4つのステップがあります。
 1. まず、対象としているもの(文化、自然、理論なんでもいいのですが、レビ・ストロースは神話)ものの集合をひと束にして考えます。広範囲にわたってもいいのですが、その集合は何らなの共通性、何か、どこか似ているものをあつめます。
 2. つぎに、その集合の基本となる要素、単位に分割していきます。その要素、単位をレビ・ストロースの場合は神話素とよんでいます。
 3. その要素をつらぬ「軸」をいくつか、みつけます。その軸のうち、二項対立するようなもの(これを「構造」と呼んでいます)をいくつか選びます。
 4. そして最後に、その対立軸を「構造」として、整理、分析します。レビ・ストロースは、その軸をもとに、表を作成し、解釈しました。そこから、さらにプラスαを見出せればしめたものです。
 ここでは、「構造」とは、要素に分解されたものから作りあげられたものですから、定まったものではありません。構造主義でいう「構造」とは、それぞれの対象に応じて見出されるものです。ですから、もともとあるものではないのです。帰納的に見出されるものです。
 それに、「構造」は、分析するための視点を示すものです。その「構造」解析から、何を抽出するかは、研究者の能力によっています。ですから、「構造」は、ある対象物の本質を見抜くための、ひとつの手法なのです。より深く分析するための方法論というべきものです。
 構造主義は、要素還元主義とそこから総合的に組み立てていく手法、いってみれば西洋の伝統的な帰納法と演繹法を合体させたような手法を構築したのです。レビ・ストロースが、人類学や神話学であまりにみごとにおこなったものですから、大いにはやり、多くの分野でその適用者がいます。
 この構造主義の祖ともいうべきレビ・ストロースが、構造主義の源泉として、マルクス主義、精神分析、そして地質学があるといっているそうです。意味深長です。いずれも、一見すると無秩序にみえるようなものですが、その奥には、隠された本当の秩序(構造)が見つかるというのです。あるところまで調べが進んでいきと、急に構造が見えてくるというのです。
 地質学のどのような点をさしてそういったかは詳しくは知りませんが、私なりに解釈していきましょう。
 たとえば、整然と重なった地層があるとします。まず最初にその地層をみたとき、その地層の重なりの整然さだけが見えてきます。しかし、そこで自然を相手にデータを収集をすれば、さまざまな次元、階層の秩序(構造)が見えてくるというのではないでしょうか。それを、わかりやすく説明するために、こんな例を考えました。
 この地層から、地質学的に読み取れるさまざまなことを、その各地質学的要素(地層素とでも呼びましょうか)として考えていきます。地層素にあたるものは、岩石の種類(岩相)、化石、地質構造、変成・変質作用などが考えられます。
 岩相、つまり岩石(堆積岩)の種類の違いを詳しく調べます。すると、堆積岩がたまった環境、たとえば深海や、沿岸、河口、扇状地などが読み取れます。そして、地層の下から上に岩相変化を調べていくと、環境の時間変遷が読み取れます。
 つぎに、化石を調べていくと、化石とはもともとその時代に生きていた生物ですから、生活環境を知ることができま。また、地球の長い時間の経過の中で、化石が生存していた時代がわかります。つまり、化石の種類に応じて時間と環境が読み取れます。あるいは、環境の時間変化が読み取れます。
 また、地層の地質構造を調べていきますと、その地層が、現在のこの地で見れるようになるために経てきた地質学的変動を、順番に、つまり時間にそって読み取っていくことができます。また、地質学的変動とは、地質学的環境の変化を意味します。
 また、岩石の、変成作用や変質作用を調べていくと、堆積物が固まり、変成し、変質し、風化していく変化の順番、程度、そして変化のための条件変化(環境変化)が読み取れます。
 以上のように、岩相、化石、地質構造、変成・変質作用などの地層素は、時間と環境、環境変化という軸が見えてきます。2項対立的ではないですが、無理くり対立させて、時間、変化という軸を選びます。これが、地層における「構造」ということになります。
 それを、表やグラフにして考えていくと、なにかそこから新しいことがわかってくるでしょうか。これからの課題です。とりあえずは、このような手法で、分析してみようと考えています。構造主義の手法は、地質学という学問の体系を整理するのには役立かもしれません。
 でも、現在のところ、それ以上でも、それ以下でもないような気がします。レビ・ストロースのような閃きは、生まれません。このような方法論は、どうも、私には、還元主義的で、いままでの科学的手法の範疇を超えていないような気がします。構造主義をしっかりと理解した人がおこなえば、もっと違った分析ができるかもしれませんが、今のところ、私にはうまくいきません。
 もっと還元主義的でない手法、もっと総合的な手法、もっと自然を理解しやすい手法はないのでしょうか。私が、いま模索しているのは、そのような方法です。現在、構造主義をアンチテーゼとすべく、ポスト構造主義、あるいはポストモダンなどという考え方が提唱されています。でも、私には勉強不足でまだわかりません。人間の知恵など限りがあるはず、過去の哲人の中に、いい知恵があるかもしれません。それを勉強中です。

・哲学者の生き方・
 実は、わたしは、今、地質学を考えるための新しい手法がないか模索しています。そのためのブレインストーミングとして、先人のいろいろ考えた人たち、つまり哲学者の考えを勉強しています。それは、著者の書いたものから、その解説書まで、その哲学の内容が直接わかるものであれば、原著(もちろん日本の訳)を読むより、解説書を読んだほうがいいかもしれません。両方を平行しておこなっています。
 今回のエッセイは、構造主義の解説書と、デカルトの「方法序説」、プラトンの「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「パイロン」(いわゆるソクラテスの3部作)を読んだのちの私なりの復習を兼ねています。
 デカルトも、ソクラテス、プラトンも読んでいると、その学問に対する真摯な態度に感銘を受けます。その内容に関しては、古い部分もあるのですが、その精神は、時代を超えて、現在にもつうじるものです。彼らの哲学よりも、生き方を学ぶべきなのかもしれません。

・地質哲学・
 実は、先月(7月)の13日から23日まで、カナダのニューファンドランドにいってきました。カナダの大西洋側にある大きな島です。
 目的は、先カンブリア紀-カンブリア紀境界(V-C境界と呼ばれています)の地層を見ることです。地質調査ですので、地層とその地層をつくる石を、しつこく見てきました。
 でも、本当にしたかったことは、地質学的に第一級の意味をもつ境界を、「生(なま)で」みて、そこで何かを感じられないかということです。自然、実物に接したときでないと、その感覚、感動は得られません。それを味わいたかったのです。
 というのも哲学というのは、書斎的でずっとこもって思索していくような感じがしますが、もっといろいろな哲学の形態があってもいいのではないかと考えています。構造主義は、そういう意味では、人文科学だけでとどまらず、自然科学の分野(生物学)でも、応用されています。
 ソクラテスが、対話を通じて、哲学を深めました。デカルトも、いまでの書物を通じた哲学に限界を見出し、世界を見聞してその哲学を深めていきました。わたしも、彼らにあやかって、自然物(地層や岩石)をじかに触れることによって、地質学への思索を深められないかと考えています。書斎派ではなく、野外(フィールド)派として地質哲学を構築できないかと考えています。
 まあ、それこそ、机上の空論とならいようにがんばるしかないです。本当にできるかどうか、私の能力と努力にかかっているのでしょう。まあ、道は険しく遠いけれどがんばります。
 このエッセイでは、その思索の遍歴が、現れてくるはずです。実は、最初から、そのつもりではじめたのですけどね。

2002年7月1日月曜日

06 生物の進化:グールドの死を悼む(2002年07月01日)

 生物は、進化してきました。その進化の結果、私たち人類も誕生しました。私たちは、この話をごく当たり前のこととして受け入れていますが、これを受け入れないひとも、世の中にはたくさんいます。それも、充分教育の行き届いたひとや地域においてでもです。
 あるひとたちは、進化を否定します。そのひとつに創造説があります。創造説では、聖書の創世記に書かれているように、生命は神がつくったものであり、種は、べつべつに創造されたまま、現在に至ります。したがって、ヒトはヒトとして、つねに万物の長として、この世に君臨しつづけてきましたし、これからも君臨していくのです。創造説のように、種の変わること、つまり進化すること否定する考えをするひとたちもいるのです。このようなひとたちは、進化説だけを学校で教えるは、間違っているとして、進化説と創造説との両方を教えるべきだと考えています。
 有名な事件として、スコープス事件があります。1925年7月、アメリカ合衆国テネシー州デートンで、高校で進化論を教えた生物教師、ジョン・スコープスが、聖書の創造説に反するとして、裁判がおこなわれました。この裁判は波紋を呼び、アメリカを代表する弁護士クラレンス・ダローと、元国務長官W.J.ブライアンが検察側に立ち、世界中の注目を浴びました。その間、テネシー州は、進化論は聖書の創造説に反するとして、公立高校で進化論を教えることを禁止するバトラー法を制定しています。スコープスは有罪となり、罰金100ドルを科せられました。その後、州の最高裁判所で無罪となり、バトラー法も1967年に廃止されています。
 余談ですが、ブライアンは、晩年、原理主義(Fundamentalism)に献身していました。その影響もあって、裁判で検事補をつとめました。しかし、この裁判で、ブライアンが科学上の発見に無知なことが判明し、面目をつぶしました。それと同時に、原理主義も大きな打撃を受けました。ブライアンは裁判の結審から5日後に急死しました。
 もちろん科学者たちは、創造説に反対します。その反対者のひとりに、古生物学者グールドがいました。裁判の顛末は、彼のエッセイに詳しく書かれています。
 進化論への道は、険しく遠いものでした。進化説が出現する前、激変説(catastrophism)の立場の科学者たち、たとえばキュビエが唱えたのは、一度の生物の創造ではなく、ノアの大洪水のような天変地異によって、何度も生物は死に絶え、そのたびに生物はあらたに創造されたと考えました。種は不変で、生物相が置き換わるだけです。これによって、古い時代からいる古生物やその多様性を説明しようとしました。しかし、創造するのは神です。
 激変説に対して、より新しい考え方として、斉一説(uniformitarianism)がありました。斉一説では、過去も現在と同じような作用が働いていたと考えました。ラマルクの考えは、生物は、いつでも無生物から誕生し、そしてつねに単純なものから複雑なものへと「前進」していると考えました。ですから、ある時点で生物相をみると、早く出現した生物は複雑で、あとから出現したものは単純な生物であることになります。
 激変説も、創造説の一部を含んでいます。生物は神の連続的創造によるものである。スイス生まれのアメリカ博物学者のアガシーも、このような創造説の立場をとっていました。アガシーは1846年ハーバード大学の博物学教授で、比較動物学博物館は、彼が、創設したものです。そのアガシー教授のポストに、グールドがついていました。
 連続的創造説には、宗教的背景のほかに、当時の生物発生に対する常識があったのです。有機物から、生物は、偶然に、自然に、生まれてくると考えられていました。このような考えを、偶然発生説、または古い自然発生説といいます。たとえば、食べ物を放っておくと、カビが生えてきたり、ウジがわいてきたります。有機物から、まるで生物が生まれたきたようにみえます。ですから、環境さえ整えば、どこからでも生物は誕生したと考えられていました。
 無生物から生物が出現すると前提は、パスツールの科学的実験で否定されました。白鳥のような形をしたガラスビンを用意します。そのなかに、有機物(肉汁)を入れます。有機物を加熱して、中にいる微生物を殺します。殺菌後、外から微生物が入らないように、ガラスビンの口を長く、細く伸ばし、口はあけておきます。こうしたことによって、空気は出入りするのですが、長い首の入り口付近ついた水滴のために、微生物は進入できず、そのビンの中の有機物からは、生物は誕生しなかったのです。この実験によって、生物の偶然発生しないということが確かめられました。
 この実験によって、ラマルクの連続創造説の部分は否定されました。「前進」という部分だけのこし、生物はあるとき、あるところで誕生し、その生物を祖先として私たちに至る道筋があるということです。このような考えを新しい自然発生説といいます。
 そして進化という仕組み知ったのは、1859年です。そう、それは、ダーウィンの「種の起源」の出版された年です。私たちのいま信じている進化説というものは、長い歴史をもっていたのです。「種の起源」から、まだ150年もたってないのです。
 150年たって、私たちは進化に関して、多くのことを学びました。進化を担っているのは、DNAとよばれる物質であること。そして、DNAは、すべての生物に共通するもものであること。進化が生物の多様性をつくったこと。などなど、私たちは科学の名のもの、多くのことをダーウィン以来、付け加えてきました。でも、なぜ、キリンの首が長くなったか。なぜ、ゾウの鼻が長くなったのか。なぜヒトは考えるようになったのか。その理由は、DNAの研究は答えてくれません。わたしたちは、いまだに、進化の仕組みの全容がわかっていないのです。
 もし、私たちの地球とまったく同じ、もうひとつの地球があったとしたら、そこでは同じように人類が、誕生したでしょうか。そして動物園や水族館、植物園には同じ生き物が見えることができるでしょうか。
 ひとつの考えとして、進化とは長い時間の思考錯誤の結果あるのだから、現在の生物種は、現時点での最高の組み合わせであるというものがあります。その頂点にいるのが人類である、と考えます。人類は、生まれるべくして生まれたという考えがあります。でも、これは、ラマルクの考えの変形版にみえます。そこには、科学的根拠はありません。それは、私たちの願望であって、人類が誕生する必然性は、今での研究成果からはみることができません。
 もうひとつの地球では、想像もつかない生物の国があるはずとグールドは考えました。つまり、進化などというものは、予測不可能で、なにがおこるかわからないというのです。
 進化は、目的論的に、キリンの首や、ゾウの鼻は、伸びるべくして伸びたという答えを求めるのでしょうか。もしそうなら、首の短いキリンから今のような長いキリンまで、また鼻の短いゾウから今のように長いゾウまで、さまざまの長さの首を持つキリン、さまざまの長さの鼻を持つゾウがいてもいいはずです。このような考え方を平衡進化説といいます。
 でも、化石の証拠は、そうはなっていません。あるとき突然、首の長いキリンが出現し、あるとき突然、鼻の長いゾウが出現します。つまり、新種がある日突然、誕生し、その後、ほとんど変化してないということを示しているようにみえます。このようは考え方を、断続進化説といいます。1972年、グールドたちは、この考えを提唱しました。その後、この断続進化については長く議論されてきました。
 人類は生物の長で、それは、生まれるべくして生まれたという、人間には非常に心地よい考え、あるいは、変化とは、時間によって一様におこるという考え、そこには斉一説的考え方が見え隠れしています。そのように考えたいという気持ちが、科学者の心のどこかに潜在し、無意識にその虜になっているのかもしれません。グールドは、そんな甘い考えつぶしてきました。
 グールドは、なにもアナーキストのように、なんでもかんでもつぶせというのではなく、科学的に、素直に、自然を眺めた結果、そうなったのです。なかなか抜け出れない歴史的束縛、人類として優越感、常識という根拠のない先入観、それは、上で述べたように科学の歴史では、失敗の歴史として語られています。現在のわたしたちにも、実はつねにその危険にさらされているのです。歴史的束縛、優越感、先入観などだれもが、意識していようが、いまいが、心にもっている考え方を前提とすれば、議論なしに論理を展開していけます。でも、これは、大きな落とし穴なのです。
 そんな落とし穴にはまらずに、科学をすべきだとグールドは教えてくれました。科学的には冷静で、カリブ海の陸産巻貝化石の研究をし、進化についてつねに新しいことを考え、Natural History誌に25年間科学エッセイを連載し、バージェス頁岩を世界的に有名にし、ハーバード大学およびニューヨーク大学教授で、1982年のNewsweek誌の表紙になり、1997年にはアニメThe Simpsonsに登場し、野球好きで、クラシック好きで、毒舌家で、2番目の妻と二人の子供が残して、60歳でグールドは逝きました。まだまだ教えてほしいことがいっぱいあったのですが、もう新たな教えを乞うことはできなくなりました。今回はグールドの成果の中心に書きました。

・グールドへの道・
 私の専門は地質学でも、岩石学や地球科学とよばれる分野です。ですから、グールドの専門の古生物学とは、少しずれています。専門が違うので、私は、グールドの論文は、読んだことがありません。多分今後も読まないと思います。でも、彼の書いたエッセイや書籍は、いくつか読んでいます。そして、彼のその博識と深い思索には、いつも感銘を受けていました。
 私は、グールドとは、まったく面識はないのですが、彼の研究態度や研究手法に感銘を受けていたので、できれば、彼のところに、1年間滞在できないかと考えていました。それは、今いる職場が、5年間勤めると、1年間の研修をさせてくれるので、その時の研修先としてグールドのところを考えていた矢先の訃報でした。
 グールドと私は、専門も違うし、考え方も違います。でも、考える姿勢や態度は、非常に共感を覚えました。現在の科学者でいちばん気になっていた人でした。
 せめて、彼の仕事から学ぶために、本を見ようにも、グールドのエッセイや書籍で読んだものは、残念ながら手元にはありません。今まで、読んだ本は職場の図書館に寄贈していたからです。そして、転職のためにそれは見れなくなりました。でも、グールドの書籍で、この2年ほどの間の読書記録に残っているものをたどると、
Natural History誌に連載されたエッセイ集:
ダーウィン以来 ―進化論への招待
パンダの親指 ―進化論再考(上・下)
ニワトリの歯 ―進化論の新地平(上・下)
がんばれカミナリ竜 進化生物学と去りゆく生きものたち(上・下)
単行本:
ワンダフル・ライフ ―バージェス頁岩と生物進化の物語
フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説
時間の矢・時間の環―地質学的時間をめぐる神話と隠喩
を読んでいます。
 まだ、読んでない本として
エッセイ集:
干し草のなかの恐竜 ―化石証拠と進化論の大展開(上・下)
ダ・ヴィンチの二枚貝 ―進化論と人文科学のはざまで(上・下)
八匹の子豚 ―種の絶滅と進化をめぐる省察(上・下)
フラミンゴの微笑 ―進化論の現在(上・下)
嵐のなかのハリネズミ
単行本:
個体発生と系統発生
人間の測りまちがい ―差別の科学史
暦と数の話 ―グールド教授の2000年問題
などがあります。さらに、まだ訳されていないものとして、
エッセイ集
I Have Landed: The End of a Beginning in Natural History
単行本
Rocks of Ages : Science and Religion in the Fullness of Life
The Structure of Evolutionary Theory
があります。このほかにも多数のものがあるはずですが、私の現在手元にあるか、発注中のものです。
 中でも「The Structure of Evolutionary Theory」は、グールドの大作のひとつで、2002年3月発行されたものです。1464ページにおよぶもので、最後の大作というべきものでしょう。執筆に20年を費やしたといわれています。
 今注文中でまだ手元にはありませんが、書評によると内容は以下のようです。自然選択、適応、変化の蓄積という古典的ダーウィニズムに関する3つの観点についての議論、そして、種からさまざまなレベルでの自然選択、自然選択だけでないさまざまな仕組みによる進化、激変説を含む広範な進化の原因が、古典的ダーウィニズムへの3つの挑戦的試みとしておこなわれているようです。進化についての、彼のライフワーク的考えがまとめられているようです。
 グールドの本で、読んだものは、半分ほどです。読んだ量でいえば、半分しか、学んでいないことになります。
 でも、読むことと学ぶこと、あるいは読んだ量と学んだ量が比例する訳ではありません。ようは、彼のスピリッツというか、態度、姿勢、心構えというようなものを学びたいのです。
 それは、いつになることでしょうか。たどりつけない目標かもしれません。ですが、目標達成は、目標を向かうことから、はじまります。長い道のりの、まだ一歩を踏み出したばかりかも知れませんが、まずは、学び、理解すること。そして、できれば、グールドとは違った地平を目指したいと考えています。
 最後になりましたが、グールド(Stephen Jay Gould)享年60歳、心からご冥福を祈ります。(合掌)

2002年6月1日土曜日

05 地質学的定常と人間的非定常(2002年6月1日)

 大きな地層切断面の前に立つと、その地層に中に刻まれている事件と時間に圧倒されます。そして、それがどんな事件でできたかが気になります。
 地層の基本的単位は、単層(たんそう)と呼ばれるものです。単層とは、地学辞典(平凡社)によると
「連続的に堆積した1枚の地層のこと」
「ふつう、その上面と下面は堆積の休止期を示す層理面によって限られる」
となっています。この定義は、湊正雄「地層学(第2版)」(1973)を原典とし、そこでは、
「単層とは、上下の相隣れる二つの地層面(層面)で境された地層の部分である」
と定義されています。では、その境界である地層面の定義は、湊正雄を、困らせています。そして、最終的に、
「1枚1枚の単層が固化するときの上表面または下面である」
と、湊正雄は定義しています。
 上の定義から、単層とは、一連の、あるいは一つ事件による堆積作用でたまった物質で、次の堆積事件までには時間を隔てているということになります。
 一連の堆積事件には、堆積物の堆積状態によって、定常的現象と非定常的現象とに区分できます。しかし、定常と非定常の区分は、曖昧です。
 定常的現象とは、常に堆積作用が続いている状態です。たとえば、深海底にマリンスノーが降り、微生物の死骸が堆積物としてたまっていくような状態です。しかし、定常的とはいっても、その堆積量や成分には、時間、季節や気候変動による変化が生じえます。
 マリンスノーが深海底にたまったものが、チャートと呼ばれる岩石になります。地層として陸地に出ているチャートをみますと、数cmから数10cm程度の厚さの縞模様が観察されます。その縞は、珪質の生物の死骸以外のものからできていて、陸地から飛んできた火山灰や細粒の堆積物(泥質物質)が混入することで、形成されています。
 それは、定常的現象のなかに、非定常的現象が混在していることを意味します。その原因は、定常的現象の時間スケールが非常に長いため、非定常的現象が、間歇(かんけつ)的ですが、あたかも定常的に起こっているかのように見えるのです。定常的現象とはいいながら、非定常的現象とは区別がつきにくくなってしまうのです。
 では、非定常的現象とは、どんなものでしょうか。それは、時間的に、ある限られた時間に一気に堆積作用がおこることです。たとえば、土石流や海底地すべりのような短時間に起こる激しい堆積作用や、季節変化(黄砂の堆積、雨季の洪水)や気候変動(岩塩などの蒸発岩、氷河堆積物)による比較的長い時間をかけておこる穏やかな堆積作用などがあります。
 定常的現象による堆積物か、非定常的現象による堆積物か、どちらが多いでしょうか。統計を取っていないので、正確なところはわからないのですが、多分、非定常的現象による堆積物が圧倒的に多いと思います。
 もし、この予想が正しいとすると、非定常的現象とは、地質学的時間スケールで眺めると、「定常的」といってもいいほど、ありふれた現象といえます。
 日本列島太平洋側の堆積岩によくみられる地層は、砂岩から泥岩へと連続して変化する単層が、幾重にも重なって、繰り返しているものです。このような単層は、何100年に1回という人間にとっては非常に珍しい、大土石流や大海底地すべりのような非定常的現象で形成されたものと考えられています。土石流や海底地すべりは、大型の地震が、その引き金となって起こると考えられています。
 短時間でおこる非定常的現象は、まさに天変地異ともいうべき、めったに起こらない現象です。しかし、地層とてして残されている膨大な回数の繰り返しをみると、非定常的現象は、地質学のスケールでは定常的現象というべきものとなってきていると感じてしまいます。
 地質学には、人間の時間とはまったく違う時間が流れている気がします。ですから、今まで述べた定常と非定常という区分は、もしかしたら、人間の日常感覚にもとづくものであって、地質学的には、あまり通用しない区分なのかもしれません。
 非定常現象であっても、「定常的」といえるほど、繰り返しおこっていることが一般的です。それは、地質環境として見た場合、その場は、「定常的」に地震が起こる場であり、「定常的」に海底地すべりが起こる場なのです。そして、これが、地層というタイムレコーダーに残るのは、むしろそのような非定常的現象なのです。人間と地質の時間流れは、これほどまでに違っていたのです。

・圧倒される膨大さ・
人間の時間と地質学の時間はあまりにもかけ離れていて、もはや、同じ土俵で議論できなほどなのです。例えば、人間の一生からすると、100年以上のサイクルは、体感できる時間としては、もはやサイクルではないのです。一生に一度あるかないかできごとなのです。しかし、上で述べたような海底地すべりによる、事件は何100年に一度の出来事として起こることなのです。
 時間の長さを感じるために、簡単な計算をしてみましょう。
 ある時代の地層を考えましょう。例えば、第三紀の中頃(中新世初期アクイタニアン)の地層だったとしましょう。その地層の年代は、2330万年前から2150万年前の時代です。期間でいうと、180万年かかってたまったものです。そのうちの半分、つまり90万年間が、砂岩から泥岩という単層の繰り返しによってできている地層だとしましょう。もし、1000年に一度の天変地異によって、その単層が一つ(約30cmの厚さ)できるとしましょう。とすると、この地層はどれほどの規模のものとなるでしょうか。
 単純に割り算してみましょう。90万年÷1000年=9000です。つまり、9000枚の単層が形成される訳です。その地層の全厚さは、掛け算をすればいいので、9000枚×30cm=2700mとなります。
 つまり、1000年に一度の天変地異でも、90万年という地質の時間が流れれば、それは、2700mという膨大な地層の連なりとして記録されていくのです。
 地質の時間を体感するのは、実は難しいのですが、今のような感覚をもっていると、地層の前に立つと、その地層に記録されている、時間と事件の膨大さが窺い知れると思います。
 私は、このエッセイの冒頭に書いたように、その膨大さに圧倒されるのです。

2002年5月1日水曜日

04 地質学とは(2002年5月1日)

 私が地質学に携わって、四半世紀になります。短いような、長いような期間です。しかし、今まで私は、「地質学とはどんな学問か」ということについて、深く考えたことがありませんでした。今後、そのあたりを深く考えていきたいと思っています。とりあえず、今回は、地質学とはなにか、地質学と他の自然科学とはどう違うのかを考えてみます。
 まず、地質学を、どう定義すべきでしょうか。その点について、少し考えてみます。
 色々な定義の仕方があると思うますが、ここでは、次のように定義してみましょう。
「地質学とは、時間、実物、野外、実験、という要素からなる」
と。
 以下、その要素について、少々考察してみましょう。
 まず、「時間」についてです。
 地質学における「時間」とは、過ぎ去った一度限りのものです。そこには、全く等質の繰り返しや、これから来る時間(未来)は含まれません。
 もし、過去における法則(地質学の法則)が、「時間」において普遍的なものであれば、その法則を未来へ外挿できるかもしれません。つまり、地質学は、「過去の時間」における法則を見出す学問ですが、そこから普遍性を導き出せば、その法則は、一気に「未来の時間」に適用できる可能性が生じるのです。過去の事象に関する科学が、未来学の一翼を担える可能性があるのです。それも、かなりの論理的にです。
 たとえば、プレートの動きを観測していくと、年間何センチメートル、どの方向に移動している、ということが正確に測定することができます。それは、過去から現在まで続いている地質現象です。
 この現象は、未来に対する永続性の保障は、今のところありません。しかし、この運動は、未来にわたって(永遠とはいわないが、プレート全体の運動を考えれば、どの程度継続可能かも推定できるでしょう)継続すると推定できます。この推定は、かなりの確実性があると考えられます。
 その推定を前提に、プレートの移動が予測できます。予測は、数百万年、数千万年の単位の予測となります。さらに、プレートの移動よって、大陸配置が変われば、気候や地質現象(火山、地震、造山作用など)の様式も変化します。当然、それも、予測可能です。
 このような「未来の時間」での予想を、地質学はなしうるのです。しかし、このような研究を前面に出しておこなっている研究者は少ないようです。
 つぎに、「実物」です。
 地質学における「実物」とは、過去に形成された岩石、過去に起きた現象、過去に生きた生物(古生物)などのことです。
 地質学として利用できる「実物」になるには、いくつかの条件を満たす必要があります。それは、「実物」が、すべて過去のもので、手にできるのは、その一部しかないからです。
 「実物」は、形成時にまず、断片化がおこります。断片化に堪えなければなりません。あるいは、断片化されても、もとの「実物」に関する情報を保存していなければなりません。さらに、「実物」は、時間を経ても残りうるものでなければなりません。
 つぎに、「実物」は、地質学的変動に耐えねばなりません。続成作用、変成作用、造山運動、風化、削剥などの地質学的変動を受けても、変化、破壊、消失することなく、現在まで残らなければなりません。
 最後に、幸運でなければなりません。「実物」が存在しても、それをしかるべき時期に、しかるべき人に、発見されなければなりません。「実物」に書きこまれた情報が、読み取りたい人に、読み取りたい時期に、読み取るための技術によって、読み取れなければならないのです。
 これらのどれかが欠けても、たとえ重要と思われる「実物」が発見されても、「実物」の有効利用はできないのです。そのために、重要だと思われる「実物」は、人類の共有の資産として、永久保存される必要があるのです。その機能を持つのが、博物館でしょう。
 次ぎの要素は、「野外」です。
 「野外」は、フィールドとも呼ばれます。地質学における「野外」とは、野外で「実物」を調査し、採集することを意味します。野外調査には、有効な「実物」を得るために、独自の方法があります。
 求めている情報が、どの「実物」に入っているのかを事前に知っているか、あるいは見当をつけなければ、有用な「実物」を採集できません。なにせ、その気になれば「実物」は大量にあるのです。そのためには、それなりの知識や経験が必要です。
 野外では、「実物の産状」を読み取る必要があります。産状とは、「他の実物」との時間の前後、上下などの相互関係、構成物の量比、空間的位置、分布などのことで、「野外」でしか得られない情報です。「実物の産状」を調べるにも知識や経験が必要です。
 以上のような意味で、地質学において「野外」は、習熟を要する科学であるといえます。
 最後は、「実験」です。
 地質学における「実験」とは、野外で採集した「実物」から情報を読み取る作業です。その手法は多様です。代表的なものとして、化学分析、詳細観察、再現実験、計算機実験などがあります。
 化学分析には、完全手作業による湿式分析や、各種の装置を利用した機器分析があります。機器は、科学技術、特に電子技術とコンピュータの進歩、普及に伴って、分析の精度や簡便さは格段に向上しました。
 物資を詳細に調べるには、拡大する技術が不可欠です。昔は、肉眼や虫メガネ(ルーペともいう)で、その後は顕微鏡で、今や電子顕微鏡、トンネル顕微鏡、原子間力顕微鏡などというものまであります。その拡大能力は、原子を一つ一つみることができるまでになっています。
 再現実験は、天然の「実物」や合成の「実物」から、それが形成されるための条件を推定したり、決められた条件で合成物がどのような相や性質を持つかを、実験室で調べるものです。
 計算機実験は、長い時間を計算機で短縮したり、非常に短い時間をゆっくり再現させたり、超高温、低温や超高圧にしたりなど、実験室ではできない、計算機でしかできない実験領域でその能力を発揮します。それと、失敗を気にせず何度でも繰り返すことも可能です。
 「実物」から、「野外」と「実験」で読み取った情報が、地質学における基礎データとなります。基礎データを時間軸に沿って並べ、何らかの規則性が見えてきたとき、新たな理論が生まれるのです。その理論は、時間に特異性をもつ地質学の固有のものとなるのでしょう。そして、そんな理論の積み重ねが、地質学の新転地を切り拓くでしょう。

・非常識な論理派・
 私は、エッセイでも書いたのですが、地質学を専門としています。しかし、それだけでなく、もっと広い分野、視点で、その地質学の特性を考え、発言してきたいと思っています。あるいは、地質学という視点で、ある分野のある考え方、ある資料を見たらどう見えるか。そんなことをしていきたいと考えています。
 例えば、それは、環境問題、自然教育、自然史観、自然哲学、人間倫理、生命倫理、自然倫理、環境倫理、地球倫理など、「夢は大きく」です。
 そのためには、地質学を知らなければなりません。それは、単に地質学の研究をするというだけでなく、地質学の本質、根源、根本にかかわるようなことを、突き詰めて、あるいはこだわって、考えていきたいと思っています。
 そんな思考のプロセスの断片を、このエッセイで表現できればと思っています。その答えは、全く非常識なものになるやもしれません。あるいは意図して非常識なものを提示するかもしれません。もちろんそこには地質学的論理があるものです。
 しかし、その非常識な考え方が間違いだとはかぎりません。もしかすると、その非常識な考えの中に、次のブレークスルーのきっかけになるものがあるやもしれません。大発見や大発明は、非常識なところから生まれることが多いのは、歴史が証明していることです。
 非常識であるかどうかより、多様性、つまりは多様な視点での議論を、まずは受入れる必要があります。一種のディベート、ブレインストーミングです。そんなことを常にしているべきです。それができないと、本当に重要な提案がそのなかにあるかもしれないのに、それをみすみす見過ごすことだってあるかもしれません。
 そんなことにならないように、皆さんも、私の非常識な意見に、賛成しろといいませんが、耳を傾けて下さい。
 非常識派から、最後に一言。常識や非常識で、提案を判断するのではなく、そこで展開されている論理で、判断して下さい。常識派の多くの意見は、誰かが言ったことを前提にしています。その誰かがいったことは、別の誰かが言ったことだったりまします。そんな意見より、論理として筋の通っている新しい提案のほうが重要ではないでしょうか。
 自分自身への戒めを一つ。非常識な論理派を目指せ。なぜなら、常識の非論理派よりまさり、常識の論理派より有用だから。決してなるなかれ、非常識の非論理派。


・新しいメールマガジンの発行・
 先月から、新しいメールマガジンを発行しました。それは「Terraの科学-Club Geoの冒険-」という週刊誌です。内容は、大学教養程度の「地球科学」の内容を、2年間にわたって講義していく予定です。内容はレベルを落とすことなく、小学生にも理解できるようにを目指します。もし興味おありでしたら、一度購読してみて下さい。
申し込みは、
http://www1.cominitei.com/lecture/regis.html
からです。
 ちなみに私は、「Terra Incognita」以外に「地球のささやき」
http://www1.cominitei.com/earth/regis.html
と、「Dialog2」
http://www1.cominitei.com/dialog2/regist.html
という週刊誌を発行しています。もし興味おありでしたら、購読してみて下さい。

2002年4月4日木曜日

03 学について(2002年4月4日)

 「学」について、考えます。「学」はマナブではなく、ガクの方です。学が必要か、不要かについて、ここ数年、悩んでいます。つい最近まで、私は不要と考えていたのですが、「学」があった方がいいのではないのかと考えるようになりました。今回は、「学」について考えます。
 ことの起こりは、私が書いた論文からでした。私は、地質学を研究しながら、教育、それも自然史教育というものも研究しています。その内容については、別の機会にして、自然史教育に関する考えを一連の論文として発表していたのですが、関連する学会のシンポジウムで講演した時のことです。
 その時まで、私はあまり意識せず、「自然史学」という用語を使っていました。それに対して、ある人から質問を受けました。「自然史」は、英語で、natural historyといいます。それでは、「自然史学」はどう英訳するのですか、という指摘でした。「学」をどう英語に反映するのかということでした。
 その時の答えは、「no idea」でした。しかし、考えた後の判断は、「学」のあるなしは、英語には反映できない、というものでした。だから、自然史に関しては、「学」を付けずに、「自然史」で統一しようと考えました。それ以降、私の論文では、「自然史」という用語で、「自然史学」という意味も、文脈で読み取ってもらうということにしました。ずっと、そういう用法を守ってきました。
 論文の査読で、何人かの人に、「自然史」に、「学」を付けたほうがいい場合があるという指摘をされたことがありました。しかし、その場合は、以下のような説明をしていました。
 「自然史」の英語表記、natural historyという用語には、「自然史」と「自然史学」の両方の意味がある。私は論文では、「自然史」をnatural historyと同様の使い方をしている。したがって、意味としては、「自然史」と「自然史学」両方の意味の場合があるが、私の論文では英語表記にならって、「自然史」に統一した。という回答をしてきました。そう説明すると、査読者は、この説明を納得して、受け入れられてきました。そして、何篇かの私の「自然史」と書いた論文が印刷されました。一応、学会的にも、この「自然史」という使い方は、小出風かもしれませんが、認知されたということになるわけです。
 このような事例は、いくつかの用語であります。英語のgeologyも、「地質」と「地質学」の両方の意味で用いられています。例えば、「日本の地質」と「日本の地質学」とは、全く違ったものを指します。「日本の地質」は、日本列島がどのような時代の岩石や地層からできているかを記述したものです。一方、「日本の地質学」とは、日本の地質学という学問の歴史や特徴を記述したものになります。
 どちらも英語にすれば、Geology of Japanで表すことができます。あえて、後者用にStudies(あるいはResearches)of Japanese Geologyというような使い方をすれば、区別することが可能です。これでも、両方の意味に取ることも可能です。これは、geologyという用語に、「学」のある、なし、両方の意味があるために生じる混乱といえます。文脈によって判別できるのですが、論文や本の題名となる時は、注意が必要です。
 Physicsも物理と物理学の両方の意味を持ちます。しかし、chemistryとbiologyは少し違います。Chemistryは、化学という一通りの訳で、学のありなしの両方に使います。つまり、英語の同じ用法です。Biologyは生物学だけに用い、生物としてはlifeやorganismなどという別の単語があります。
 つまり、英語も日本語も「学」のある、なしが、概念として統一されているわけではないのです。ということは、慣例にしたがって用いればいい、あるいは自国の言葉でわかりやすいよう表現すればいいということになりそうです。
 言語は、それぞれの国や民族の長い時間、歴史を背景にしています。ですから、2つの言語の完全に1対1の対応をした翻訳や訳語は在りえないはずです。日本語の意味を英語に訳すとき、日本語では一つの単語で済むのに、英語でその意味を表すには長い言いまわしが必要なこともあります。逆のことだってあるはずです。でも、これは、文化の違いだからしょうがないことなのです。でも、文化の違いさえ認めれば、すむことなのです。長たっらしい言いまわしにこそ、異聞化の接点を見出すべきでしょう。
 そして、話しは、再び、自然史にもどるわけです。そもそも自然史は、自然の記述と、自然史という学問の二通りの意味を持つ用語でした。しかし、私は、英語を意識しすぎたため、自然史と自然史学の二通りの意味を、自然史という一つの用語に請け負わせようとさせました。しかし、これは少し不自然で、無理があったわけでした。Geologyに対して、「地質」と「地質学」の2つの日本語が用意されたように、natural historyにも、「自然史」と「自然史学」の2つを用意してもいいのです。これは、今まであまり意識されず、行われてきた方法です。
 私は、まだ、それらを区別した論文は書いていません。このエッセイを書きながら、考えをまとめつつあるため、このエッセイが最初の区別する文章なのです。多分、私は、今後、これらを区別しながら、使い始めるでしょう。そして、私の論文を読んだ人の多くは、その変化に気づかないでしょう。なぜなら、「学」を必要に応じて付けたほうが、自然で、すんなりと読めるはずだからです。
 今回は、「学」を付けた場合と付けない場合は、意味が違うのに、英語では一つの用語でしか使っていないという、ごくありふれた言語の相違について考えた。結局は、それぞれの国の言語でいいように使う、というごく当たり前の結論になりました。

・尊敬される「学」・
「学」は、あるべきか、なくてもいいか。
それは、問題です。

エッセイで述べたような「学」の使用の場合は、
用語として意味が違う場合には、「学」はあったほうがわかりいいと思います。

単純に「知識」という意味の「学」は、あったほうがいいでしょう。
ただ、あっても困りませんが、必要以上に時間をかけて覚えこむのも考えものです。
読者の方も、受験時代に興味のない科目の暗記に、
苦労された経験があるかと思います。
このような事前の暗記による知識も、それなりの効用はあるのですが、
必要に迫られた時や興味のある時に、覚える知識は、同じ暗記でも身につきます。

一方、「教養」に類する「学」は、あった方がいいと思います。
これは、リテラシーと呼ぶべきものだと思います。
リテラシーのような「学」は、単に知識の過多ではありません。
知識はなくとも、「学」のある人はいます。
優れた職人や優れたビジネスマンは、学歴や暗記や教科書のような知識がなくても、
人を惹きつけ、尊敬を得て、リーダシップを発揮します。
それは、充分な経験によって「学」を身に付けたためではないでしょうか。
リテラシーのような「学」は、経験や個性、生き方に裏づけされた
人格や人間性にまで及ぶもので、社会生活では非常に重要です。

では、そんな「学」は、どこで、誰に教えてもらえるのでしょうか。
あるいは、どうすれば身につくのでしょうか。
それが、わからないのです。
多分、どこでも、だれでも、「学」は、身につけられる可能性があるはずです。
ただ、それをなしうるのは、ほんの一部の人だけです。
そんな「学」を身につけた人が少ないから、尊敬に値するのでしょう。

我、まだまだ、「学」成り難し。

・表示方法・
メールの表示法について、いろいろ考えたのですが、
やはり、現状の方法で表示し、配信します。

それは、いくらインターネットとはいえ、文体があります。
このエッセイのような内容は、細かく分かち書きをするより、
段落を明瞭にしたほうが、論旨を汲みやすいと考えます。
もちろん、多くの改行をして分かち書きをしたほうが分かりやすい文章もあります。

また、苦情のない多く人は、もしかすると、
この文体の方が、読みやすいかもしれません。
それに、印刷して読みたい人もいるかもしれません。
そうすると、書籍や新聞の文章のよう、段落がはっきりしたほうがいいと思います。

もし、見づらい人は、メーラーの表示で、文字を大きくするか、
印刷で文字を大きくするかして下さい。
ただし、レターの部分は、できるだけ改行を多くして、見やすくしかます。
御了承ください。

2002年3月1日金曜日

02 地質学における時間の不可逆性(2002年3月1日)

 時間感覚とは、人それぞれによって違います。あるいは、同じ人でも置かれた環境や心理的状況によって、時間の流れるスピードは違います。例えば、面白いゲームや本、映画などに熱中してるときには、2時間でもあっという間に感じてしまいます。一方、つまらない会議や講演会、授業、挨拶などでは、30分や15分でも長く感じます。早く予定の30分や15分が終わらないかなと思ってしまい、もし予定より5分でも延びようものなら、とてつも長くなった気がします。
 このような時間の流れは、感覚的なもので、客観的なものではありません。物理学的には、厳密な時間の定義があります。かつては、地球の公転速度や自転速度などの平均太陽日を基準にして時間が決められてていました。現在では、物理的な時間間隔の単位「秒」は、1967年10月パリの第13回国際度量衡総会において「秒は、セシウム133の原子の基底状態における2つの超微細準位間の遷移に対する放射の9,192,631,770周期の継続時間とする」と決められています。この基準による時間は、原子時と呼ばれています。太陽や地球の動きでは、現代科学の必要とする精度が、正確に定義できないために、原子時を使うようになったのです。しかし、かつての恒星時における1秒に合わせて、原子時は定義されています。
 学問の世界では、時間を自由に操ることがあります。素粒子の世界では、1秒の1000分の1の時間でも、長いとされるのに、宇宙の歴史では、1億年の単位が使われているののです。
 時間は、物理的には、自由に切り刻んだり、逆行させたり、止めたり、未来にしたりすることが可能です。しかし、日常的な感覚からすると、時間は一方的に流れて、「現在」を中心とすれば、「過去」と「未来」が厳然として存在します。つまり、不可逆(ふかぎゃく)なのです。不可逆な時間を一番強く感じているのは、地質学という学問かもしれません。
 地質学の対象としているものは、過去のもの(昔の岩石、化石など)か、もしくは現在進行中の現象(火山、地震、プレート移動)です。地質学の時代区分では、一番古い時代を、冥王代(めいおうだい)(45.6~38億年前)、太古代(たいこだい)(38~25億年前)、原生代(げんせいだい)(25~5.8億年前)、顕生代(けんせいだい)(5.8億年前~現在)となります。それぞれの時代は細分されており、顕生代は古生代(こせいだい)(5.8~2.4億年前)、中生代(ちゅうせいだい)(2.4億~6500万年前)、新生代(しんせいだい)(6500万年前~現在)となり、新生代はさらに第三紀(だいさんき)(6500~164万年前)と第四紀(だいよんき)(164万年前~現在)に、第四紀はさらに更新世(こうしんせ)(164~1万年前)と完新世(かんしんせ)(1万年前~現在)となっています。
 過去のものは、時代が古くなるほど、不明瞭となります。つまり、地質学的時代区分の単元の期間が、過去になるほど長くなっていきます。これは、時間を遡ぼるための私たちの能力が足りないのかもしれません。あるいは、時代を遡るほど地質学的記録が消えていくのかもしれません。いずれの場合にしても、私たちの過去を読み取る能力が向上すれば、過去がよりよく読み取れるはずです。でも、古いものほど読み取り誤差が大きくなっていくという原則は崩れそうにありません。
 地質学においては、時間は不可逆に流れ、「現在」が常に原点となっています。だから、過去は時間が遡るほど、情報量は少なくなっていきます。
 不可逆な時間とは、一度限りの再現不能な「流れ」を意味します。川が海へのそそぐ場所(河口)を「現在」としましょう。河口から川を見たとき、下流付近はよく見えます。中流は遠くにかすかに見えます。上流は山が見えますが、流れは見えません。時間の流れとはそんなものです。そして、地質学的証拠、あるいは素材とは、河口付近に転がっている石ころなのです。「上流のどこか」としか分からない石ころから、上流を想像するしかないのです。地質学では、物理学のように川を遡行することはできないのです。河口(現在)から動くことができないのです。上流を遠目に眺めるしかないのです。
 地質学では、石ころの時間記録を読み取り、過去を「見てきたように語る」しかないのです。地質学者とは、1つの石ころから、10の情報を引き出し、想像力で100の物語としていく人達なのかもしれません。その物語が、説得力があるかどうかは、1から10までは技術力で達成できますが、10から100へは研究者の個人の能力である想像力なのです。
 しかし、技術や個人の能力では、いかんともし難い部分があります。それは、1つの石ころを見つけることです。いくら探しても、最上流の石ころは、河口付近にはもともと1個しかないかもしれません。そして、その1個を発見できるかどうかは、偶然の賜物なのです。
 地質学とは、時間を遡ることをその手法としています。ですから、地質学者は近未来を語ることは、苦手としても、遥か彼方の未来を語る力は、一番かもしれません。1000万年や1億年の単位での地球の未来図を、証拠をもって語れるのは、地質学者だけなのかもしれません。例えば、プレートテクトニクスの知識を使えば、現在のプレート移動の速度から、1000万年後や1億年後の大陸の配置を推定することができます。また、プルームテクトニクスの知識を使えば、1億年後や2億年後にその大陸が裂け、海洋ができるかを予測できます。
 素晴らしい能力ではないでしょうか。地質学的時代区分では、「現在」を終わりとしましたが、「未来代(みらいだい)」という不可逆な時間の流れの先には広がっています。
 過去を探る地質学は、その時間遡上能力を、現在から未来に向けることによって、未来を予測する能力身につけていたのです。地質学では「現在は過去の鍵である」という金言がありますが、今や「過去は未来の鍵である」という金言も持つことができるようになっていたのです。

・メールマガジンの表示方法・
このメールマガジンでは、地質学的なことに関する少し踏み込んだ議論をしています。
ですから、少々重たい内容で、文章量も多くなっています。
それによって、本文が読みにくいという指摘が、Takさんから、ありました。

この点は、私も気になって、読点ごとや、句点ごと改行をしてみたのですが、
かえってスクロールがおおくて読みづらくなったりしました。
ちなみに、このLetterは、句点といくつかの読点で改行してます。
もし、印刷して読みたい方がおられると、さらに読みにくくなります。

私の週刊メールマガジン「地球のささやき」でも同様の問題に直面しました。
でも、分量が少ないので、Letterの部分だけを、
細かく改行することで、対応させてもらいました。

Takさん、今回もまだ、解決策はでません。
とりあえず、今回は、メーラーで表示を大きくするか、
コピーアンドペーストでワープロにもっていって、見てください。
あと1ヶ月、私の検討します。

読者の方で、いい見本があれば教えていただきたいのですが・・・・


・常識の人・
前回の「オッカムの剃刀」に対して、
Kabさんから、こんなメールを頂きました。
「ニュートンは、一方で錬金術に凝っていた。
当時の錬金術、今は、化け学と見るべきでしょうね。
このニュートンの両面性は、共通点を持つのか?持たない、と観るほうが面白い。
なぜなら、その後の人が、ニュートンの神秘主義、
不合理性の面を切り捨てたことに問題あり、
と観ることができるから。
しかし、ニュートンは、錬金術にも神の手が働いており、
それを発見できると、信じていた、のでしょう。」

それに対して、私はこう答えました。
「ニュートンの物理学と錬金術は、奇異な感じがするかもしれません。
でも、私には、ニュートンも
その時代の常識に生きていた人に過ぎないと思っています。
ニュートン流の物理学を完成させたは、
彼の才が成せる技であるのでしょう。
でも、彼の成した微積分学は、同時期に、同じことを、
全く別途考えていたバロー、メルカトール、ライプニッツなどがいたわけです。
ニュートンが物理学をつくり上げなくても、
10年後あるいは50年後には、同じような成果を人類はつくり上げてきたはずです。

同じような事例が、キャベンディッシュの場合もありました。
孤高研究者であった彼は、業績を公表せず死んでしまいました。
後年、その重要性の気付いたマックスウェル(?)が、
何年もかかってその業績を発掘したそうです。
その業績の中では、他の科学者が発見する何年も前に、
彼が発見していた法則や原理があったという事実が明らかになってきました。
このようなことから、科学というのは、時流や潮流というものがあって、
ある時期に、ある成果が生まれる、という例証になっています。

それが、その時代の知能の質や運によって、
早いか遅いかの違いがあるだけなのかもしれません。
だから、逆にまったく時流にのらない、
役に立つのか立たないのかもわからないが、
なんとなくすごいような理論や原理を見出すのが本当の意味で、天才かもしれません。いや、時代と隔絶しているので、
そのような評価は生まれず、鬼才、変人になってしまうのかもしれません。

以上のことから、ニュートンは、常識の人であったの思います。
だから、物理学においては業を成したかもしれませんが、
化学では潮流が向いてなかったのでしょう。
当時の化学における常識的な範疇にいたわけです。
そして錬金術は失敗に終わったのす。」

2002年2月7日木曜日

01 地質学的関係(2002年2月7日)

 地質学的には、同時または短い時間での一連の作用によって形成された岩石があります。このような地質学的区分を、堆積岩では地層(その規模は各種あります)、火成岩では岩体、変成岩では変成相といいます。ここでは、呼び方を問題にしないので、グループと呼びましょう。
 では、次ぎにグループの関係を見ていきましょう。あるグループで一連のでき方でできたものの関係として、どのような可能性があるでしょうか。
 まず、連続と不連続があります。連続にも物質的連続と時間的連続があります。物質的連続と時間的連続な場合、物質的には連続だが時間的には不連続である場合や、逆に、時間的には連続だが物質的には不連続である場合があります。また、不連続とは、物質的にも時間的にも不連続となります。
 物質的連続と時間的連続な場合は、グループ内のある岩石とになります。火成岩では岩体内のある岩石種や溶岩流、変成岩では変成相内のある岩石種、堆積岩では単層、となります。つまり、地質学では、物質的連続と時間的連続な場合を、グループ内での最小の区分の単位としています。つまり、物質的連続と時間的連続というのは、その内部に区分の基準が存在しない、つまり同一であると認定できる基本単位ということです。
 物質的連続と時間的連続な場合のうち、物質的には不連続を持たずに変化していく場合は、「漸移(ぜんい)」といいます。このような場合、境界をどこにするかが問題で、自然は連続しているのに、人為的に境界を設けて区分する場合があります。ここに問題が生じます。これは、別の機会にします。
 上で述べたような何らかの不連続を含む関係を、岩石の基本的な起源として区分される堆積岩、火成岩、そして変成岩で、そのような関係に置き換えることができるか、見ていきましょう。
 堆積岩では、物質的には連続で、時間的には不連続である場合を、「ハイエイタス(無堆積)」といいます。時間的には連続で、物質的には不連続である場合は「整合(せいごう)」といいます。物質的にも時間的にも不連続の場合、「不整合(ふせいごう)」といいます。
 火成岩では、時間的には不連続である場合は、同一グループ内では生じません。それは、火成岩は、マグマからできているからです。マグマにおいて、時間の経過は、温度変化として現れます。ですから、時間の不連続があると、物質的には不連続を伴います。時間的には連続で、物質的には不連続である場合は、「層状(そうじょう)構造」や「流理(りゅうり)構造」ができます。層状構造は、深成岩で同時期形成された鉱物がマグマ溜りの中で層状に繰り返して形成されることです。流理構造は、火山岩で不均質なマグマが流動しながら固まった場合に形成されます。
 変成岩では、岩石の区分と変成作用の違いをもたらします。物質的には連続で、時間的には不連続である場合は、「複変成(ふくへんせい)作用」といいます。複変成作用とは、同じ岩石に変成作用が2度以上にわたって起こったことです。時間的には連続で、物質的には不連続である場合は、同一の変成相ですが別種、つまり岩石名の違いとして現れます。変成岩は、変成を受ける岩石(原岩(げんがん)といいます)の種類を問いません。ですから、同一変成相でも、各種の岩石を混在しているのが、一般的です。物質的にも時間的にも不連続の場合は、複変成作用によって別の変成岩ができていることを示しています。これも、複変成岩ではごく当たり前に起こることです。
 今まで見たきたものは、何らかの成因関係があった場合ですが、つぎは、全く起源やでき方が無関係なものが接している場合をみていきましょう。
 2つのグループに接触関係の形成には、2つの可能性があります。第1は、一方的にあるグループの方が他のグループに接していった場合です。第2は、両者とも別々に形成されたものが、全く別の時期の別の作用で接するようになった場合です。
 地下深部で形成されたマグマが上昇するとき、他の岩石や地層を突き貫けています。その時、第1の可能性の関係が形成されます。このような関係を、火成岩を中心としてみると、「貫入(かんにゅう)」といい、堆積岩を中心としてみると、「非整合(ひせいごう)」といます。
 第2の可能性の場合は、断層(だんそう)といいます。断層関係は、地質学的関係としては、一番多いかもしれません。規模を問わなければ、至るところ断層だらけです。地質図を見れば、断層のない地域はありません。大きな地層の出ていている崖(露頭(ろとう)といいます)をみれば、小さいものならいくつも断層を発見できます。日本列島を宇宙から見ると、中央構造線やフォッサマグナなどの巨大な断層が見ることができます。
 異質のグループが接している場合、そこには不連続が生じます。それは、地質学の世界ではごく普通の現象なのです。それが、その地域の地質を複雑にしていきます。でも、そのおかげで、地質学者の出る幕が生まれてくるのです。

・はじめまして・
 「Terra Incognita 地球のつぶやき」を購読いただきまして、ありがとうございます。以下に、すこしこのメールマガジンの発行趣旨を説明します。
 "Terra Incognita"とは、ラテン語です。"Terra"とは大地や地球の意味です。"Incognita"は未知の知りえないという意味です。
 そんな地球の未知なる部分を、地球は少しだけ小声でつぶやいてます。私たちは、ほんの少しだけ、未知の地球の素顔を垣間見ることができます。そんな「地球のつぶやき」を、私が聞き取って伝えます。私自身の聞き方ですから、人とは違ったように聞こえるかもしれません。でも、これに関して大いに議論しましょう。必要とあれば、議論もメールマガジンで展開していいかもしれません。
 日本では、地球科学に関する限りは、ハイブローな(つまり学術的にも内容的にも妥協しないもの)内容のエッセイは、あまり見かけません。でも、欧米では、スティーブン・J・グールドや一線級の研究者が、市民向けに、ハイブローなエッセイを書いています。日本では、書籍にすると、売るために、議論の複雑さ数式などを犠牲にして、いいたいことを伝えきれずに書かれた書籍が多すぎます。けっして、専門化向けの自己満足的エッセイではなく、わかりやすさを追求しながら、内容や専門性を犠牲にすることなく、議論していきたいと考えています。そして、二番煎じやどこかの聞きかじりでなく、私自身が聞き取った内容で、議論を展開していきたいと考えています。そのため、メールマガジンではあまりふさわしくないのですが、月刊という息の長い連載エッセイを企画しました。
 もしかすると、そんな議論が、地球のより深い理解に繋がるのではないでしょうか。そんな気持ちで、このメールマガジン「Terra Incognita 地球のつぶやき」を発行してきます。

・本誌の前身「地球のつぶやき」・
 このメールマガジン「Terra Incognita 地球のつぶやき」には前身があります。それは、「Monolog of the Earth 地球のつぶやき」というメールマガジンでした。限定100名に対して、この「地球のささやき」(購読は、http://www1.comonitei.com/earth/regist.html)の姉妹篇である「Monolog of the Earth 地球のつぶやき」を非公開で発行してきました。もともと、この「地球のつぶやき」は、「地球のささやき」の読者で著者にメールを下さった方に対する私の感謝の気持ちとしてお届けしていたものです。「地球のつぶやき」は不定期ですが、月一回程度の発行をしてきました。現在まで、No.7が発行済み、廃刊としました。でも、その感謝の気持ちを忘れないないためにも、当初の名称の「地球のつぶやき」を副題として残しました。以下に「Monolog of the Earth 地球のつぶやき」の目次を紹介していきます。
1 サラとの対話(14kb)
2 組織について(14kb)
3 分類と類型(13kb)
4 地質調査(9kb)
5 教育(6kb)
6 オッカムの剃刀(10kb)
7 地質学的終焉(18kb)(本号)
もし興味おありでしたら、ホームページにバックナンバーを掲載しています。ので、ご覧になってください。
 「地球のつぶやき」では、エッセイ以外に、読者へのLetterのコーナーもあり、そこでは、私の個人的なことや経歴など、なかり踏み込んだ内容が書かれていて、全体として、かなり大量の文章量となっています。もし、著者である私自身の生い立ちや、なぜ地質学を研究しているのか、どんな経歴なのか、などが気になる方、興味ある方は、かなり立ち入ったことまで書かれていますので、ホームページでバックナンバーをご覧ください。もしかすると、私のことがかなり理解できるかもしれません。

2002年2月6日水曜日

special7 地質学的終焉(2002年2月6日)

 すべてのものごとには、「終わり」があります。「終わり」の存在は、人類の歴史を紐解けば、多くの現象において、簡単に見出すことができます。また、地質学においても、「終わり」がある現象を、多数見出すことができます。人は「終わり」を望むことは、少ないでしょう。なぜなら、「終わり」ですべてが「停止」するからです。でも、その「終わり」が、いわゆるハッピーエンド(幸福な終焉)であれば、少なくとも、人には望ましい「終わり方」ではないでしょうか。地質学では、「終わり」があるといいましたが、どのような「終わり」があるのかを見ています。地質学のあるいは私独自(?)の「終焉観」を紹介しましょう。
 地質学とは、過去に起こった地質現象を調べ、その地質現象を再現し、その現象における本質(原因、起源、条件、法則、原理、変化則、必然性など)を解明する学問です。そこで重要なのは、「過去に起こった」ということです。すべて、終わってしまった現象なのです。
 化石は、かつて生きていた生物の遺骸の一部です。地層は、過去に起こった大規模な土石流や洪水で河川から運ばれた土砂がたまったものです。火山岩は、かつての火山噴火の際、流れ出た溶岩です。変成岩は、地下深部で高温高圧にさらされて変化し、地表にもたらされた岩石です。
 地質学の見ている「終わり」は、けっして、幸福な終焉(ハッピーエンド)とは思えません。でも、それは、人間の尺度あるいは情緒による見方です。幸福な終焉な現象は、地質学的には検出しづらいものです。つまり、不幸な終焉(アンハッピーエンド)が、地質学的には記録されてされていくのです。人間的な尺度で見ると、記録に残るという点においては、不幸な終焉の方が、幸福な終焉となっているのです。皮肉なものです。人間の情緒と地質学という異質の論理が組み合わさることによって、幸福より不幸のほうが幸福であるという、一種の詭弁のような警句(?)が出てくるのです。
 さて、話を地質学に戻しましょう。地質学とは、すべて、ある原因で起こった地質現象の「結果」、つまり終わってしまった現象を見ているのです。ですから、地質学で解き明かすべきものは、普通ではない「異変」の「終わり」の原因なのです。化石は死という不幸を、地層は洪水という天変地異を、火山岩は火山噴火という異常事態を、変成岩は岩石が地下深部にもたらされまた地表に持ち上げられたというダイナミズムを、探ることになります。地質学とは、「異変」を解明する学問といえるかもしれません。言い換えると、地質学的時間という非常に長い時間スケールでは、地表の「日常」は、地質現象としては残りにくく、「異変」しか記録しないものなのです。
 「異変」の例を、化石でみていきましょう。生物の個々の死が、化石となります。その死が集団や種全体の死となると、地質学における刻印も深くなります。その生物集団や種が絶滅する何らかの共通する原因があたったはず、と考えるわけです。また、集団における絶滅の規模が、全生物種の何割にも及ぶような事件だとすると、地球環境に急激な変化が起こったと考えられるわけです。全地球におよぶ原因とは何か、という謎解きに地質学的議論はおよびます。例えば、巨大隕石の衝突(約6500万年前におこった)、海洋の大規模な酸欠状態(約2億7000万年前)、全地球の凍結(約7億年前)などは、地質学的「大異変」として、深く刻印されています。このような超一級の「異変」も、長い地質学的時間スケールでは、一度限りの出来事ではなく、何度も起こっているのです。そして「異変」の規模が大きければ大きいほど、記録の刻印は明瞭となります。
 地質学とは、「異変」という「非日常」を調べる学問ということができます。しかし、近年、「日常」に目をむけ、「日常」のなかのささやかな「異変」を読み取るという試みもなされています。地質学の世界でも層状チャートとよばれる堆積岩のように、深海の「日常」を記録している地層もあります(「地球のささやき」の「3_21 層状チャート」を参照)。層状チャートは地質学においては主要な構成要素ではないですが、「日常」を記録する重要な存在として認識されつつあるのです。
 地質学においては、終焉とは、不幸なる終焉のみが記録されています。しかし、その不幸な「異変」が激しければ激しいほど、地質学的刻印は大きくなるのです。人間が望むのは幸福なる終焉です。でも、幸運な終焉は地質学的には記録にも残らない「日常」なのです。「日常」を記録するには、層状チャートがして見せたように、できるだけ長い日常を繰り広げることによって、他力でありますが、何らかの「異変」の刻印を刻むチャンスを広げることなのです。「異変」の刻印を「日常」的内部に持つこと、これが層状チャートが地質学的記録にとった戦略です。チャートはなにもしません。少しずつ日常を積み重ねていくのみです。

・終わりは突然に・
 「地球のつぶやき」としての、エッセイは、これを最後とします。つまりこれが最終号です。そのために、今回のテーマ「地質学的終焉」を選らびました。日常を重ねることによって、非日常を取り込むという戦略を本誌でもとります。
 現在まで、限定100名ということで、35名の方に、この「地球のささやき」の姉妹篇である「地球のつぶやき」を非公開で発行してきました。もともと、この「地球のつぶやき」は、「地球のささやき」の読者で著者にメールを下さった方に対する私の感謝の気持ちとしてお送りしていたものです。
 でも、本誌の終焉は、「Terra Incognita」というメールマガジンに移行することによって、「刻印」を残します。今回から非公開から公開に変更します。「Terra Incognita」は、「まぐまぐ」の公開のメールマガジンとして、「地球のつぶやき」と同様の発行形態、月刊誌として発行していきます。興味のある方は、以下のサイト
http://www1.cominitei.com/monolog/regist.html
からか、あるいは「まぐまぐ」のサイエンスのコーナーから購読をしてください。
・転進・
 4月1日付けをもって、私は転職します。それは、さまざまな理由の集積結果であります。非常に個人的、私的ことですが、そんなことを報告することで、この「地球のつぶやき」の最終号の最後とします。少し長いですが、転職にいたる顛末を記した文章を載録します。興味のおありの方は一読を。

以下「私が転職する理由」の載録(原文のまま)
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私が転職する理由
2001年12月1日 小出良幸 記

 私こと、小出良幸は、2002年3月30日をもって現職から転職する。
 その理由を、文章にして、以下に記す。こんな役にもたたないことを、公開の場に記するのは、明らかに自己満足に由来している。
 でも、もし、この口上を身に染みる人がいれば、大いなる喜びといえる。
 以下、私からの長い長い別離と旅立ちの辞である。

転職に当たって
 私は、2002年3月31日をもって神奈川県立生命の星・地球博物館を退職し、4月1日から札幌学院大学に転職する。
 公務員から私立大学への転職だから、何人かの人から、身分や給料、将来性などの条件を考えて、「本当にそれでいいのか」ということを聞かれた。私は「いい」と答えた。それには、当然、いくつかの理由がある。その理由を、口頭で説明すると長くなるし、多くの人は話しの種に聞く人だけなので、さらりと「私は新天地が好き」といっている。でも、本当に興味がある人には、しっかりと説明しなければならない。その説明が長くなるので、文章にして、「ここに理由を書いてある」と教えようと考えた次第である。
 まず、理由説明の前に、札幌学院大学についてである。
 札幌学院大学は、1946(昭和21)年6月に、札幌文科専門学院(経済科・法科・文科として創立され、1978(昭和53)年4月に、札幌短期大学と札幌商科大学がキャンパス統合(江別市)され、1991(平成3)年4月に今度私が行くことになった社会情報学部(社会情報学科)と経済学部(経済学科)が設置れた。現在、商学部、経済学部、人文学部、法学部、社会情報学部の5つがあり、夜間として商学部第二部が、大学院として法学研究科と大学院臨床心理学研究科がある。社会情報学部は1学年200名定員で、全学で1学年1,190名、総数4,500名程度の学生がいる。
 私は、社会情報学部の地学(全学共通科目、昔で言う教養科目)の教員として採用された。身分は教授である。

 次に、本題の私が転職する理由である。
 まず、理由は一つではなく、いくつかある。
理由1. 博物館には10年間勤務するつもりであって、その10年が経過した
理由2. 博物館における研究職としての生き方を示したかった
理由3. 転職の場は、ある限定した研究機関にした
理由4. 自分がやりたいことができる時間をつくりたかった
理由5. 自分と家族に一番いい環境で生活する
の5点である。
 その理由を詳しく述べる。

理由1. 博物館には10年間勤務するつもりであって、その10年が経過した
 実はこれが一番重要な動機である。
 私は、日本学術振興会特別研究員として籍を置いていた岡山大学地球内部研究センターから神奈川県の公務員として転職してきたとき、現在在籍している神奈川県立生命の星・地球博物館はまだなく、自然系博物館開設準備室であった。あったのは、25年前からある、神奈川県立博物館であった。当時の所属は、神奈川県立博物館の研究職だが、兼務辞令として、博物館開設準備室勤務があり、教育庁の準備室に常勤していた。しかし、博物館に机だけはもらい、そこで、時々行っては研究をやっていたが、実質は準備室と自宅で仕事(研究)をしていた。
 新設される博物館は、日本のスミソニアン博物館を目指すとして、研究を充実するのだという構想のものとに進められた。そのため、最新の装置を導入することになっていた。高精度2次イオン質量分析(SHRIMP)と呼ばれる装置で、当時世界に一台しかなかったが、その販売が始まったばかりだった。それが、使える人として私は呼ばれたのである。ただ、その装置が導入されるのは、開館後であるから3年間は、設立のための準備に専念しなければならい。だから、約4年間は、研究を片手間でしなければならない。主は博物館開設のための事務的仕事だった。もちろんそれに専念した。
 神奈川県に来て7年目に、研究の主体や興味が、科学から科学教育へ移っていることに気づき、8年目に人生設計をやりなおしてみた。人生設計では、今までの神奈川県における希望と実際に自分が過ごしてきたこと、そしてこれからの目標や希望を整理してみた。
 そこで、自分の興味が、科学もおこなっていたが、教育と科学の狭間を埋めること、博物館の地質学の新しいあり方を示すことに興味が移っていることが判明し、それを主要な研究と位置付け、10年間の集大成することを目標と定めた。その集大成が、11年目のあたりほぼできそうであるという見通しが立った。
 問題は次の人生の設計である。現在の博物館の環境は、非常に快適で、今後もそれなりの発展をさせられる気もする。しかし、今後10年間を考えたとき、今まで過ごしてきたような、未知のスリリングな人生ではなく、予想のつく人生であるような気がした。
 私にとって、自分の研究者的可能性が、まだ他分野あるいは境界領域、または地質学でも別のアプローチなどにおいて、まだまだあるのではないかと考えた。私の年齢からして、頭の働きそうなのは、あと20年間くらいであろう。だからその20年間を安穏として生きるよりも、その20年間を新天地で生きることを決断した。その新天地で、新たな自分の可能性にチャレンジしたいと考えた。その結果が、今回の転職となったのである。

理由2. 博物館における研究職としての生き方を示したかった
 現在、私の属する博物館の研究者の移動は、定年による移動だけで、ずっとこの博物館にいるという暗黙の了承があるように見える。しかし、研究者は、自分の能力や興味に応じて、転職をすべきだと、私は考えている。それが、日本の研究者の層の活性化に繋がるし、この流動に適応できない研究者は、研究職から去るか、あるいは一つのところに留まる優位性を対外的に常に示しながら、研究を続ける必要が出てくる。それも、やはり、研究の活性化に繋がる。
 どの職場でも一緒だと思うが、給料泥棒のような研究者が多すぎる気がする。「定職」についても、常に研究者の勤務状況、つまり十分研究しているかどうかを評価するシステムが働く必要がある。それは、論文の数でもいいし、あるいは別の評価法が必要ならその評価を独自に開発し、社会的にあるいは学会、専門集団で、評価できるものとして提示すればいいのである。それが、できなければ、その研究者は、研究してないと、対外的には評価される。それは、しいては失業に繋がるというシステムが必要であろう。そのような流動する研究者として生きる、という実例に博物館でなりたいと考えた。
 一般に、研究者としては、学会的に評価される論文を書くことが一番手っ取り早い、実績となると考えられる。そのため、たとえば、博物館から流動する研究者になるために、10年間は業績を作るために、必死で研究し、論文書くことになるはずである。現状の学芸員のような十年一日のような研究生活はできないはずである。
 私はこの11年間に、私自身が第一著者である論文は34篇、うち査読つき論文11篇を書き、著書13冊、うち出版社からの本3冊という実績をつくった。私は、このような実績をつくって流動する研究者を目指した。
 これが博物館の研究者の生き方の見本とはいわないが、後輩もしくは同僚学芸員たちに、僭越ながら、研究者としてのあり方の一つの例を示したいということも、転職の動機の一つである。
 さらに、自分が現在占めているポストを、他の新人研究者に空けることが、上記の理由から、博物館の活性化に繋がるのではないかと考えている。博物館に、私の行為が共感を呼び、後に続く研究者が出ることを望む。

理由3. 転職の場は、ある限定した研究機関にした
 家庭をもっているので、定収入を得る見込みもなく退職して、次の職を探すことはできない。就職先は、研究職である。従って、他の博物館や大学などの研究機関である。そのため、現状で自分の専門や能力、環境などの条件があった公募を探し、応募することである。そのとき、なんでも応募するのではなく、自分の好みにあたところのみに応募することとした。
 その好みとは、研究あるいは自分が自由に使える時間が、十分取れる環境であることである。会議や公務で振り回されない環境である。
 現在、国立大学は改革の真っ最中で、そのために会議が多いと予想される。国立大学、それも地方大学はもっと大変なので、応募はやめる。ただ、学風で好みに合うのは京都大学だけは、例外として(その理由は学風である。学風の由来は「京都帝国大学の挑戦(ISBN4-06-159896-3 C0137)」)、公募に応募したが、駄目だった。
 国立で可能性があるのは、改革の終わった研究機関である。国立極地研究所もその一つであるので、応募したが、駄目だった。
 他の選択肢は、公立(県立、市立)大学、もしくは私立大学となる。一番の理想は私立大学である。私立大学は、学部を問わず、新天地として自分にできそうな分野であれば応募した。情報学部は望むところである。新たな展開が予期でそうでだからである。
 文教大学の情報学部3度応募、大阪工業大学1度、姫路工業大学1度である。
 そして、今回、札幌学院大学社会情報学部の地学の教官に応募し、採用された。教授もしく助教授の公募に30名弱の応募があり、その中から私が採用された。

理由4. 自分がやりたいことができる時間をつくりたかった
 自分がやりたいことは、新たな展開による研究と本を書くことである。そのためには、給料をもらうためのノルマが少なく、自分の時間が今より確保できる環境が欲しかった。
 新たな展開による研究とは、まだ、決めてない。転職後、現在の続きの研究や公務をしながら、置かれた環境とインタラクションしながら、あたらな研究テーマを探していきたい。楽しくてわくわくしている。人生設計のときにも述べたが、新しいことを始めるには、40歳代が最後のチャンスとなると考えている。全く新しいテーマや分野に開拓しながら進むには、好奇心、体力、精力、精神力が必要である。そのためには、若さが必要である。それは、私は40歳代としている。
 50歳になる前には、テーマをきめて、50歳台にはその条件作りを終えて、進んでいたい。幸い、45歳で転進できたので、5年間の間に、新しいテーマを決めてスタートし、条件作りする期間が用意できた。
 私は、修士課程で北海道大学理学部から岡山大学温泉研究所に行ったとき、博士課程で北海道大学理学部に行ったとき、研究生で岡山大学の地球内部研究センターに行ったとき(2年目から学術振興会特別研究員となる)、学術振興会特別研究員から博物館に来たときそうであったように、新しい環境にはいれば、新たなエネルギーが沸いてきて、新しい環境で新しい研究テーマが生まれてきた。今度の新天地でも、そうなること望んでいる。いや、そうする。それが楽しみで、転職したのであるから。
 次にやりたいことは、本を書くことである。その本として、子供向けの地球科学の本、地球科学の普及書、専門書、自然史教育学の本、が現在考えているテーマである。
 子供向けの地球科学の本は、予定では5巻完結のテーマがある。まだ、目次だけではあるが。
 地球科学の普及書は、現在ある「石ころから覗いた地球誌」の続編を書くことである。「石ころから覗いた」3部作として、「石ころから覗いた宇宙誌」「石ころから覗いた生命宇宙誌」があるが、ある程度草稿は書けている。それを、完結したいと考えている。
 教科書であって教科書的でない専門書として、岩石学と同位体地球科学の本を書きたい。それは、吉田武著「オイラーの贈物(IABN4-87585-153-X C3041)」や「虚数の情緒(ISBN4-486-01485-5)」がその手本となるものである。
 そして、現在行っている科学教育の集大成として、自然史教育学の理論と実践書の2冊である。
 このような著作のために、十分の執筆時間が欲しいのである。

理由5. 自分と家族に一番いい環境で生活する
 私は、もともと田舎で生活したいと考えている。当初は、地方都市と漠然と考えていた。しかし、近年のインターネットの発達により、田舎でも最低限の収入、電気、水道、電話という必要条件さえ満たせばよいというようになった。いや、田舎ほどよいと考えるようになっていった。
 私自身にとっても、家内や子供たちの生活、生育環境として、都会より田舎がいいと考えている。だから、公募への応募もそのような条件を満たすところとなる。そして、今度の転職が、現在の私の人生設計では、最後の展開となるかもしれない。この地が、一生を終(つい)の地として、一番いいと思うところでなければならない。
 文教大学に何度も応募したのは、現在の湯河原の住居から通勤可能あるためである。また、それ以外の応募大学も、私の望む環境を満たすところが近くにあったのである。今回の札幌学院大学は、札幌とは言っても江別市で、野幌森林公園の周辺で、自然のあるところでもある。それに、なんといっても私は札幌に十年間すんでいたので、その住みやすさは知っていたのである。札幌あるいは江別は、理想ではないが、ベターな地域である。家族にとっては、私の望む田舎よりベターであろう。そして、何年かの借家住まいをした後、ベストの終の住まいを作ればいいと考えている。

さいごに一言
 以上、私の転職の理由やそれにまつわることを長々と述べてきた。
 ご理解いただけであろうか。理解できようが、できまいが、私が選んだ道である。私が転職した理由であるので、客観的であろうが、独善的であろうが、心のままである。
 批判や意見より、こんな人もいるという温かい目で、私の新天地への船出を見守って欲しい。
 今、私は、あれもやりたいこれもやりたい、という思いでいっぱいである。
 少なくとも私は、どこで難破しようが本望である。
 See you again, anywhere, anytime.

2002年1月14日月曜日

special6 オッカムの剃刀(2002年1月14日)

 カール・セーガンは、「ひとはなぜエセ科学に騙されるのか」(上巻ISBN4-10-229403-1、下巻ISBN4-10-229404-X)やSF小説の「コスモス」(ISBN4022548037、4022548045)の中で、「オッカムの剃刀(かみそり)」という言葉を常識としてよく使っています。ある現象に対する仮説が2つ以上ある場合は、単純なほうを選べ、という教訓として使っていました。私は「オッカムの剃刀」の意味を知りませんでした。私が東洋の常識の標準というつもりはありませんが、もしかするとそのような成句を知らないのは、西洋と東洋における常識の違いに由来するものかもしれません。
 そのようなことから、今回は「オッカムの剃刀」に関する話題です。
 神を考える神学と人間の理性や真理などを論理的に考える哲学は、あるときは対立し、あるときは共存していました。そして、いつしかその目指すところを異にしていきました。また、哲学と自然科学も、かつては不可分の関係でした。例えば、私たちが哲学者としてよく知っているデカルトは、1644年に太陽系の起源について渦動説を唱えています。カントも、1755年に星雲説を提唱しています。19世紀に「科学者(scientist)」という名称ができるまでは、博物学、あるいは物理や化学、生物学などの自然科学を研究人々を、「自然哲学者(natural philosopher)」と呼んでいました。しかし、今や哲学と自然科学は、あたかも別世界の存在に見えるようになってきました。
 このような経緯は、科学の源流をたどれば、どうしても西洋的な古典や哲学などにたどりつくと考えられます。さらに哲学と科学の源流は、アリストテレスにたどり着くのでしょう。そんなアリストテレスの哲学と科学を最大限に利用して、キリスト教的神学を解釈しようとしたのが、スコラ学ではないでしょうか。スコラ学とは、キリスト教における超自然的事象を自然的人間理性、つまりアリストテレスの哲学や科学で理解しようとしていました。スコラ学者たちの信念は、「神は唯一であり全能な創造主である」とか「人間の魂は不滅である」などです。その信念は、この世のすべてを支配しうるものでした。このようなスコラ学が、11世紀から15世紀半ばまでは、西洋あるいはキリスト教世界の知的世界を支配しました。
 スコラ学の最盛期である13世紀を終え、14世紀になると、人間の理性と哲学の領域は、スコラ学者が考えていたよりも、もっと制限されていると考えられるようになってきました。そのような考えの中心人物として、オッカムという神学者が登場します。
 そのはしりは11世紀後半からの、普遍論争に端を発します。普遍論争とは、普遍(概念)が先か、個物(感覚で認識される一つひとつの対象のこと)か先か、というものです。一方は、普遍がほんとうに存在する(実在する)のであって、個物はその影にすぎないと考える立場で、実念論とよばれました。それに対して、個物こそがほんとうに存在し、普遍はたんなる名前にすぎないと考える立場で、唯名論とよばれます。
 14世紀の唯名論の代表的論客が、オッカムでした。オッカムは、スコラ学者の拠り所としている信念が、哲学的・自然的理性によって証明できず、神の啓示によってのみ証明されるということを、論理学的に示しました。
 さてさて、やっと今回の話題のオッカムにたどり着きました。オッカムとは人物名だったのです。今回は、このオッカムについて述べたいがために、長々と前書きを述べてきたわけす。
 オッカム(William of Ockham;1285頃~1349頃)は、イギリス生まれの宗教家(スコラ学者あるいアンチスコラ学者)でもありますが、中世最大の論理学者とも、考えられています。
 オッカムは、アビニョンにある教皇庁で清貧問題を研究しました。その結果、教皇ヨハネス22世の誤りを確信するにいたりました。もちろん、そうなると教皇庁にはいれません。そこで、ルートウィヒ4世の庇護を求めてバイエルンへ逃れました。ルートゥヒは、バイエルンの皇帝で、反教皇の立場をあきらかにして、帝位についていたのです。皇帝と初めて対面したオッカムは、「皇帝陛下、陛下が剣で私を守って下さるなら、私はペンで陛下をお守りします」と述べたといわれています。以後20年間、オッカムは、普遍論争への突入します。その時代背景や、論点は上で述べたとおりです。
 オッカムの論理学は、「論理学要論」にまとめられています。オッカムの論理学は、アリストテレスの時代の論理学(三段論法)を吸収しながら、より進んだ推断(consequentia)の論理学を含んでいます。推断の理論は、「ある岩石は、堆積岩か、変成岩か、あるいは変成岩である」従って「ある岩石は、堆積岩でもなく、火成岩でもなく、変成岩でもない、ということはない」というような論理です。論理学的いい方をすれば、「選言的な肯定命題から、その命題の部分と矛盾的に対立する部分からなる連言的な否定命題への推断は妥当である」という論理形式です。こうした推断の理論は、命題論理学の一種ですが、ストア学派の命題論理学とは違い、新しくつくり出された命題論理学とされています。
 オッカムの「必要なしに実在を多数化してはならぬ」という原理は、「思考節約の原理」とも呼ばれています。この原理が「オッカムの剃刀」と命名され、形式論理学にも、用いられています。「オッカムの剃刀」は、観察された事実、理的自明性など、「十分な根拠」なしには、いかなる命題も主張してはいけないとしています。
 やっと、「オッカムの剃刀」の定義がわかりました。「オッカムの剃刀」とは、どんな仮説にも、十分な根拠が必要であり、不必要に仮説を増やしてはいけないというこのようです。冒頭のカールセーガン氏の「オッカムの剃刀」の使い方は、もともと使い方とは違っています。それは、現在までにそのように変化したのか、それとも拡大解釈をするとそこまで広義に使えるのか、あるいはセーガン氏の誤用か、いずれかはわかりません。でも、私は、「オッカムの剃刀」から、西洋の常識とその由来するところを少し垣間見た気がします。
 日本人が、神道の儀式に通じ、仏教の教義、古事記、日本書紀、枕草子、徒然草などは古典の一つとしています。たとえば、ある宗派を持つ人でも、無信教の人でも、多神教(多くの日本人はこれ)でも、般若心教の一節(摩訶般若波羅蜜多(まかはんにゃはらみった)、色即是空、空即是色)や、各宗派のお題目(南無妙法蓮華経(ナムミヨウホウレンゲキヨウ)、南無阿弥陀仏など)は、聞いたことがあるはずです。これと同じように、西洋の人々は、宗教の如何にかかわらず、キリスト教の教義や宗教家に通じ、ギリシア神話が古典の一つになっています。これが、西洋(キリスト教文化圏)における常識となるわけです。
 ある文化的背景を抜きにして、ある「常識」を前提として、話をはじめても、根源的な部分で通じないこともあります。もしかすると知識として「オッカムの剃刀」のようなことをいくら調べても、「常識」はなかなか身につきにくいものかもしれません。つまり、日本がいくら西洋化しても、国や民族、地域の固有文化の「常識」の相違だけは、消しきれません。それが、固有文化の芯に当たる部分かもしれません。そのようなそれぞれの国や民族の固有文化の上に、近代的科学が築き上げられ、世界の科学の共通文化、つまり科学的常識が構成されているのかもしれません。ですから、ものごとの根源に迫れば迫るほど、固有文化に属する部分にたどり着くのではないでしょうか。そこには、それぞれの人の生い立ちを含めた固有文化があるような気がします。こんな仮説は、「オッカムの剃刀」に抵触しないでしょうか。

・固有の文化・
 固有文化の相違を生む一つの要因として、宗教があると思います。去年のアメリカ合衆国へのテロとそれに対するアメリカ合衆国の報復も、このような固有文化に由来する確執ではないでしょうか。他の宗教、民族や国家の固有文化を否定することは許されません。どんなに少数の固有文化であったとしても、認知していく必要があると思います。
 固有文化の大は国家、民族から、小はどこまでいくでしょうか。固有文化の考えを、推し進めていきますと、人それぞれにおける個人の文化、あるいは個人の常識というものに行き着くことになると思います。
 「あいつとは、話が合わない」といって、愚痴をいうことがありますが、それは、それぞれの生い立ちに由来する個人文化の違いに由来するものでしょう。これは、ごく当たり前のことなのです。そのような個性を否定して、いじめをすることは、自分自身もより強い個人文化に出会うと、否定の憂き目にあわされる可能性があります。ですから、他を認めることは、自分の個人文化を守ることに通じるのではないでしょうか。
 同じことが、他の宗教、民族や国家の固有文化を守ることに通じるのではないでしょうか。

・新年・
 あけましておめでとうございます。
 皆様はどんな新年をお迎えでしょうか。
 私は、子連れの帰省でした。故郷でのんびりできないかと思いましたが、やはりはかない夢でした。故郷に滞在中は、寒波に襲われ、非常に寒い思いをしました。元旦は、祖母と長男、家内と長男が、近所を回ったのですが、雨が降り、非常に寒かったです。私は炬燵(こたつ)で丸くなっていました。2日は、祖母と家族全員で、スーパーに子供の買い物に出かけました。一駅しか乗らないのに、待ち合わせ時間が長く、雪までちらつきだしました。3日も寒くかったので、皆で自宅でじっとしていました。
 私の新年は、寒波と炬燵と子守でした。