2006年7月1日土曜日

54 過信:科学崇拝の戒め(2006.07.01)

 科学は、非常に役に立っています。それは信頼に足るものです。しかし、科学を過信しすぎることはよくありません。もっといろいろな世界があることも理解しておく必要があるはずです。

 現代において、科学は論理や理性の判断基準として非常に重要な役割を果たしていることは、前回示しました。そして、現代人、あるいは現代社会の科学に対する「信心ぶり」は、まるで新興宗教のごとくみえるという話をしました。
 現代の「科学教」は、圧倒的な実績をもっています。科学技術のここ100年ほどの進歩は、目を見張るものがあります。そして、その科学技術の恩恵に多くの人が与っています。いまや科学技術なしには、日常生活が送れないようになりました。これらかも科学は進歩して、私たちに恩恵を与えてくることでしょう。
 科学を推進する科学者や技術者は、「科学教」の「経典」に、日夜新しいページを書き加え続けています。その経典のページの増加は、留まることなく、いや日増しにスピードが増しているように見えます。
 科学が進歩を続けることによって、社会が発展し、生活が快適で豊かになります。こんな科学の実績は、いたるとこで見ることができます。まるで科学にはできないことがないように思えるほど、科学にはいろいろなことができます。かつてはできるはずのないことでも、科学は実現してきました。
 鳥のように空を飛ぶことは、レオナルド・ダ・ビンチの夢でした。しかし、ダ・ビンチが設計した装置では、空を飛ぶことはできませんでした。今や、強力なエンジンを使えば、金属でできた機体に多くの人を乗せて飛ぶことができます。その延長として、地球外の宇宙空間まで人を運ぶことができるようになりました。夢物語でしか考えることのできなかった月の世界にも、人類の足跡は残されました。
 もちろんまだ、科学にできないこともたくさんあります。マントルまでボーリングして岩石を持ってくること、海底での居住、宇宙空間での定住、他の天体への移住など、長い時間がかかるでしょうが、やがてはきっと実現するでしょう。すでにその一歩は踏み出されているのですから。1万メートルを越える深海にも人はいったことがありますし、原子力潜水艦には、何ヶ月も人が海中で生活しています。宇宙空間に人が常駐する宇宙ステーションがあります。月には人が行きましたが、他惑星にも探査機を送りこみ、詳しい調査が何度もなされてきました。
 科学にできないこと、それは原理が解明されていないとか、技術がまだないためであって、将来はきっと実現していくはずです。それが科学の可能性であります。できないこと、それは不可能を意味するのではなく、目標としてこれから科学が目指していくものなのです。そして人類の叡智は、やがてはそれを成し遂げることでしょう。このような未来予測をすることが、私たちの科学に対する信頼の証でもあります。
 科学をそれほど信頼していながら、それでも多くの人は、科学では解き明かせないこと、科学では決してできないことあることを、うすうす感づいています。それは、何も心霊現象や怪奇現象などではなく、身近な現象でも解明できないことがあることを、人は知っています。
 人間に関する生物学的、医学的側面は、科学が多くのことを明らかにしています。しかし、人間の行為や心理に関することは、どうも不確かです。芸術の分野、人間の心、社会の様子や変化などは、科学ではいまだに解明できないことです。例えば、なぜ私はこの時代のこの場所に存在するのか、なぜ社会は論理的帰結に従わないか、なぜ歴史はこのような経路をたどったのか、なぜ人は同じような過ちを繰り返すのか、などなどです。人文科学や社会学、芸術活動などには、論理ではなかなか解決しきれないものがあることが確かなようです。
 それでも科学者たちは、科学で解明しようと努力を続けています。過去の歴史を如何に解釈しても、歴史が変わるわけではありません。人が間違う仕組みが分かったしても、そして対処したとしても、人の失敗は起こります。とんでもない失敗、事前に想像しえない失敗だって起こります。それも人間の振る舞いなのです。
 ダ・ビンチのモナリザに使われた絵の具の種類がわかっても、モーツアルトがどんな時にどんな曲をつくったのかがわかっても、シェイクスピアの戯曲の文法が分かったとして、その感動が増ことはありません。芸術とは、見たとき、聞いたとき、読んだとき沸き起こる心の動きです。それは科学的な合理性や理性から生まれるものではなく、心を動かす感情なのです。
 科学のメスが入ったとたんに、芸術は味気ないものになります。そんなことをしなくても芸術は十分価値があるのに、切り刻むこと、要素還元主義的に論理で解釈しようとすることで、芸術の豊かさが損なわれていくような気がするのは、私だけでしょうか。
 科学がもっとも得意としている自然の現象、生物の振る舞いなどにも、解明できないことがあります。それらの本質に対して「なぜ」という部分は、わからないことがたくさんあります。例えば、なぜ私たちの宇宙がこのような自然の定数を持つのか、なぜ生物は進化するのか、なぜ生命は私たちの太陽系に誕生したのか、などなど、「なぜ」と問われると、答えられないことが多々あります。そしてそれは、答えが出ない問いのような気がします。
 私たちの科学がまだ未熟だから、解決できないだけなのでしょうか。そうではなく、私には、科学がそれほど万能でないためだと思えてなりません。上で挙げたような例は、科学が答えを出すべき領域ではないような気がします。もし、科学が答えを出せない領域が存在するのであれば、科学が万能ではないことの証明になります。その答えはまだありませんが、人が普段接している領域に、科学が決して解明、到達できない領域があるのかもしれないのです。
 科学が解明できない領域は、多くの人が、それも昔から感じてわかっています。ですから、こんなことは、改めていうまでもないことなのかもしれません。しかし、科学が現代社会の中であまりに多くの比重を占めているから、このような問題を再確認していく必要があるように思うのです。
 特に科学者たちの狂信的な振る舞いには注意が必要です。科学者とは、科学することがすべてであり、科学を生業としている集団です。彼らは、それなりの社会的地位と、待遇を受けています。それは、科学者の努力によるものですが、それは科学自身が、それだけの威力を持っていたからです。その科学の推進者として科学者は社会的評価を得ました。
 科学に打ち込んでいる科学者は、狂信者のごとく、科学的内容はどんなことも信じ、科学的でない、論理的でないことは、信じなくなります。あるいは、否定すらしてしまいます。科学者が、科学以外のものを信じない、認めないのは、個人の自由ですからいいとしても、その姿勢を他人に強要する、あるいは教育と称して若い世代に押し付けることのはいきすぎです。
 何が何でも科学で解決できるという科学者の姿勢は、科学を推進する上で重要な動機となっていることでしょう。しかし、それがすべてで、それが最優先、それが以外は認めないという姿勢は、他の多様性を排除し、他の人の自由を奪いかねません。科学者も、そのあたりのバランスを取れればいいのですが、ついついそのようなバランスを忘れてしまいます。
 科学には、善悪はありません。あるのは結果です。科学は、強力な兵器で強い軍隊を武装する一方、世界平和を推進します。便利な生活を与える反面、ライフラインが途絶えるととたんに不便になります。安全な生活をもたらす一方、テロも起こします。
 善悪のない科学だからころ、うまく操らなければなりません。科学から得られる結果を、バランスよい判断をして扱わなければなりません。そのためには、狂信的な「科学教」信者では、理性的な判断ができない気がします。危ない結果を選択する気がします。広くを価値判断できる視点が必要です。そして、科学が万能でないこと、科学がすべてでないこと、科学で解明できないことがあることも理解する姿勢が必要です。科学への過信が、暴走を生まないことを願います。
 科学が、これからも人間にとって重要な役割を果たすことは確かです。そして科学はこれからも大いに発展していき、私たちの生活を豊かにしていくことでしょう。科学は、さらに多くのことを論理的に解明していくことでしょう。人間は科学を上手く扱える賢さが必要です。時には芸術を楽しむ心のゆとりも必要でしょう。自然の不思議や、美しさを素直に楽しむ心も必要でしょう。
 今回のエッセイは実は、私への戒めのためでもあります。私は、科学者という職業で生計を立ています。もちろん、科学を信じていますが、研究をしていると、日夜、成果を出すこと、良い結果を求めることに心を砕いています。それは、科学の狂信状態とです。ですから、ついつい科学を過信している状態になってしまいます。そんな過信に陥らないように、時々自分を振り返える必要があるようです。

・理性と感情・
今回のエッセイで科学万能ではないという考えは、
実は、1998年5月に父が亡くなった時から生まれました。
父の葬式で喪主をしていて、私の心に生じた事件が、
理性と感情について考えるきっかけになりました。
父の葬儀まで、私は非常に理性的で、
感情に負けない理性を持っていると信じていました。
そしてそれまで過ごしてきたときはそうしてきましたし、そうできました。
しかし、父の棺を閉める時、焼却炉の前で最後の別れの時、
突然自分でもわからないほど、涙が出て止まらなくなりました。
感情に流されていく自分を経験して驚きました。
そのとき、心の隅に追いやられていた理性で最後の最後に思いました。
「やっぱり自分にも、どうしようもない感情があったのだ」ということです。それが、理性に偏りすぎた私の生き方に対して、
最後に父が教えてくれたことだと、今では思っています。
それはあまりに大きな教えでした。
その教えと、今までの理性中心の生き方を、
どう自分の心の中で折り合いをつけるかが、重要な問題となりました。
私は、すべてを合理性や理性によって考えることが正しいと考えていました。
まさに科学の狂信者でした。
自分は今までそうしてきたました。
だから、他の人も自分と同じように、頑張ったり、望んだりしたら
合理的な考え方になれるものだと考えていました。
でも、そんな理性的である自分のような人間にも
おさえ切れない感情があることを気づくと同時に、
当然他人にも同じような感情があることを身をもって知ったです。
自分にも他人にも、感情を認めることにより、
今まで簡単に解決できると考えていたことに、
解決不可能な部分があることが、身につまされて教えられたのです。
理屈では済まない部分を認知するということです。
その土俵でも、ものごとを考えなければならないということです。
その後、私の興味はそちらに急速に向かっていきました。
でも、いくらやっても解決できない問題のよう見えます。
とりあえず私には、理性、合理性、科学の世界を目指すことしかないのです。
しかし、他の人が持っている感情の世界は認めること、
その世界も忘れず受け入れることにしました。
私は、理性と感情の全面解決はできないまでも、理性の象徴である科学を、
少しでも多くの人の役に立てばと考えるようになりました。
このような考えに至るまで、何年もかかりました。
父に宿題は、大変、長い時間のかかるものでした。
でも、自分の世界を大きく広げる結果となりました。
そんな宿題を与えてくれた父に感謝しています。

・夏の予定は・
いよいよ7月です。
そろそろ夏休みの計画が気になる季節です。
今年は、8月一杯は、まとまった夏休みがとれそうもありません。
もともと8月下旬まで大学では、採点、成績評価があり、忙しいからです。
そして、8月下旬には、高校訪問をしなければなりません。
北海道は広いので、泊まりで、いろいろ回らなければなりません。
ですから、8月一杯は身動きができません。
9月には、後期の新しい講義の準備をしなければなりません。
9月中旬には調査があるかもしれません。
9月下旬には、新しい学科の見学会があります。
新しい学科の設立の年なので、いろいろ新しい用事があります。
夏休みは、地質学者にとって稼ぎ時なのですが、それもままなりません。
でも、間を縫って、家族サービスと称して調査をしていきたいと思います。
とりあえずは、7月の連休にアポイ山に登るつもりです。
9月の連休も調査に使いたいのですが、いけるかどうかまだ未定です。
夏休みだというのに、大学教員はなかなか大変なのです。