2011年5月1日日曜日

112 帰納法と権威

 人は、無意識に帰納法を実生活で適用しています。帰納法が緩やかに働いていると、それが作用していることも気づきません。帰納法の適用の結果、権威が形成されていきます。もしかすると、帰納法的考え方とは、脳の生理に叶っているが故に、無意識に使っているのかもしれません。

 このエッセイでは、科学における帰納法について何度か取り上げたことがあります。数学的帰納法は、厳密に限定、定義された世界では、帰納法から得られたものは正しいと判断できます。しかし、自然界や現実の社会では、対象が厳密に定義された世界ではなく、観測しきれない広さ、測定でしきれない複雑さをもっています。そんな複雑さをどう回避しているのでしょうか。今回は帰納法の人間的な側面をみていきましょう。
 科学において、帰納法という手法は、有効なものとしてごく普通に利用されています。帰納法を用いれば、多数の事実(データ、観察、事例、・・・)から、今までない新たな法則を見出すことができます。非常に魅力的で、そして有効な手法です。
 ただ、問題は、論理的に結果の正しさを保証されていないことです。これが数学的帰納法との違いです。ある結論を支持する証拠が、どんなにいっぱいそろっていたとしても、たったひとつの否定的証拠(反証)で、その結論は否定できてしまうという弱点があります。これが自然界、社会における帰納法の限界です。それは、母集団のすべての事例を網羅的にチェックすることができないという非常に現実的な制限があるからです。
 今までどんなにいろいろなに証拠が積み上げられていたとしても、論理的には崩壊します。例えば、つぎのような場合です。恐竜は中生代の古生物で、中生代の終わり(K-T境界と呼ばれている時代です)に絶滅した動物です。もしネス湖で生きている首長竜(ネッシー)が発見されたとしたら、恐竜の絶滅という論理は破綻します。光速がこの世で一番早いとされていますが、もし光速より速い「もの」が実測されたら、相対性理論は破綻します。氷が水に沈む現象が発見されれば、水が上流に流れたら、ひとつの水槽の中で温かい水と冷たい水に分かれたら・・・。まあ、論理のどこかを修正すれば、とりあえずはなんとかなるかもしれませんが。
 今まで「ある理論」を支持する証拠しかみつかっていないからといって、その理論が正しいとはいえないのです。論理的には不完全で、完全にするにはその理論が適応できる範囲のすべてを網羅的に調べて、正しいことを示さなければなりません。そうでなければ、たった一個の反証で崩壊する不完全性を持っているからです。
 帰納法の限界は、論理学ではよく知られ、科学哲学でもよく問題にされているテーマでもあります。帰納法の限界があることを、科学者は理解しておくべきです。ところが残念ながら、理学や自然科学の学部や大学院の専門教育の授業で、論理学や科学の運用について講義を受けることは殆どありません。ですから、科学者でも、帰納法の限界を知らずに科学をしている人も、多数いるかも知れません。もしそんな科学者が反証に出会うと、保身的本能が働いて、ついつい感情的に反論したり、時に反証を提示した人への嫌悪感を募らせることがあります。これは、科学の土俵をはみ出ています。
 しかし、たとえ帰納法の限界を知っていたとしても、反論に対しては嫌悪感が沸き起こるでしょう。科学者なら理性的に対処したいものですが、なかなか難しいものです。科学者も人間ですから、人の性(さが)に左右されるものだからです。
 というのが今回の前置きで、次に人と帰納法の話になります。
 先入観のない人との付き合いを考えましょう。顔を見ずに付き合いが始まるとしましょう。
 科学の世界では、新人が論文を投稿するときは、審査(査読といいます)を受けます。新人の論文であれば、査読者はその道の先輩になります。査読者は、新人の論文を読むとき、内容の吟味をするのはもちろんですが、教育的配慮もこめていろいろと注意や指摘をすることがあります。内容がレベルに達していなければ問題外ですが、内容がある程度よくても、いくつか難しい指摘をしていくことがあります。
 これは、私の経験ですが、その分野ではだれもが知る共通の問題で、なかなか解決できないもの(オフィオライトの化学組成における元素移動の問題)がありました。査読者ももちろんその問題について熟知していたはずです。私が最初に投稿した論文では、その問題についてどう対処したのかが、査読から指摘を受けました。私は、その指摘を、厳密には解決をできない旨を示して、変化を受けにくい成分、受けたとしても結論を左右するほどの変動をしていないことを前提にして議論している、と回答しました。これは、当時のそして現在でも、多くのその分野の研究者の態度です。
 あとで、査読者がわかったとき(よく知っている先輩でした)、その論文の件について聴きました。彼は、答えられないのは分かってきたが、教育的配慮として指摘したと言っておられました。今思えば、ありがたい指摘であったと思います。
 ここまでは理解できます。私の似たようなことを、後輩にしたことがありました。私がある論文を査読した時、その論文が英文だったので、英文で査読結果を書いたり、より良いタイトルの変更を指示しました。もしかすると、不要な英文や変更要求だったかもしれません。よりよくなればと思ってしたことです。論文の中身と関係がありませんから。
 学会というのは、共通の利益を求める同業者のコミュニティで、善意に基づいたボランティア集団ですから、新人を育てる姿勢も強くあります。新人は感謝をすべきかもしれません。何編か論文を書いてい一人前になってくるとると、本質的な指摘で、初歩的な指摘は減ってきます。
 さて、問題はその先です。研究者として一人前から一流と評価が上がってくると、その権威が周りの人を威圧することがあります。ある研究者(当時の私の専門としてた分野の権威)が、もう定年をされ一線を退いていましたが、研究心は旺盛で、論文や書評なども書いておられた頃の話です。明らかに、一昔前のレベル、新規性や独創性のない論文が、単著で掲載されたことがあります。つまり、学会のレベルからすると掲載に値しないはずの論文です。通常なら査読者が、掲載拒否してしかるべき内容でした。明らかに、その研究者の権威によって掲載された論文です。
 掲載のレベルのぎりぎりの内容でも、新人や若手の研究者の論文なら却下でも、熟練の研究者なら少々不備があっても、掲載されることがザラにあります。これは、ある意味で、仕方がないことかもしれません。
 同じ内容でも、ベテラン研究者の言であれば、周りの人にとっても意義を見出せ傾聴に値し、駆け出しの研究者がいえば、戯言にされてしまうことがあります。特に、学術論文ではなく、主張や意見記事などのようなものは、新人にはなかなかハードルが高くなります。しかし、権威のある研究者では、ほぼ無条件で掲載されることが多くなります。
 そんなベテラン研究者も、若手の頃は、今の若手と同じよに切磋琢磨して実力をつけ、実績を積み上げてきたはずです。コミュニティでも彼の実績を、見守ってきたはずです。これは、研究実績おける帰納的評価というべきものです。このように研究者は、自分の言の重さを増やして来たのです。権威とは、このように帰納的に作り上げられるものでしょう。若い時に失敗したらなかなか取り返しはつきませんが、ベテラン研究者は大きなミスもしないでしょうし、少々のミスはコミュニティも多めに見てくれます。一種の今までの貢献のお返しかもしれません。論文も、背景にあるそのような実績や権威も同時に読み取るべきなのかもしれませんね。
 本当に人類の知的蓄積だけを考えるのであれば、無記名での論文の審査し、掲載をすれば、本当に価値のある論文だけが掲載されるでしょう。でも、それは夢物語です。なぜなら、科学は人間がするもので、人間には何をするにも、やる気、動機、集中、ねばりなどが必要です。その一端を、名誉や権威などのさまざまな欲への志向が担っているはずです。
 人の活動は、記憶の蓄積(経験)として作用します。蓄積された記憶のパターンは、繰り返し使われるほど、そのパターンは強固になります。脳における帰納的活動です。パターンが完成すると、逸脱を嫌います。頭の中で作り上げた人間像、固定観念、判断基準で、すべて判断をしがちになります。新人はまだそのパターンを構築しされていない人なので、公平な判断を適用されます。ベテランは出来上がったパターンで判断されるので、少しぐらい逸脱しても、強引にいつものパターンで判断されます。
 このような人間への帰納的適用は、決して悪いことばかりではありません。適応する人がブレない人であれば、少々言い回しが稚拙でも、そこには経験に裏打ちされた聞くべきものがあることを、前例は示しているはずです。そんな実に人間的な結果を帰納法は生み出します。
 ただ、そこに前例にない誤りがあったとき、今まで帰納的に気づいてきた価値判断をすべて否定するか、というとなかなかそうはいきません。多少は「おおめ」に見るでしょう。論理的、科学的ではありませんが、もしかすると、この論理から外れた「おおめ」は、失敗を許し、再起を与えることなのかもしれません。ただ、2度、3度繰り返すと、論理的判断が出るかもしれません。「ああ、あの先生はもう終わりだ」と。

・若者・
帰納法は、無意識に適用する傾向が人間にはあります。
それは、いい面、悪い面の両方があります。
それをわかって使えばいいのですが、
無意識に運用してしまいます。
ですから、なかなか難しいものです。
でも、人間生活では、この運用は何年もかけて築くものです。
ですから、意識して利用しているわけではありません。
無意識、つまり人間の性として利用しているのでしょう。
固定観念の不備に気づくものは、
その固定観念をもっていない人たちです。
若者です。
若者は、年配者たちに立てつくのは、
そのような帰納がまだ働いていないので

・帰納的観念・
ゴールデンウィークになりました。
私は予定はありません。
適当に思いつきで過ごすことになりそうです。
まあ、家族で団欒といきましょうか。
まあ、疎まれない程度にしておく必要がありますが。
このへん兼ね合いは、
家族の年齢構成に変化してきます。
それをうまく察知しないといけないのですが、
なかなか難しいものです。
帰納的観念ができているので、
それを修正しながらですから、
まずは心理的抵抗があります。
それに打ち勝つのはなかなか大変です。