2014年5月1日木曜日

148 メンター:同行二人

 ギリシア神話のメントールと、四国の遍路が使っている同行二人は相通じる心がありそうです。メントールはメンターとなり、現代の役割分担された師弟関係を意味しています。そのような関係は、西洋にも日本にも、古くからあり、今も生きているのでしょう。

 メントールをご存知でしょうか。ギリシア神話にでてくる神様で、Mentorのことで、メントールの他に、メンテーあるいはミンターなどともして発音されることがあるようです。ホメロスの「オデッセイ」にも登場する神様です。
 オデッセイは、有名な古代ギリシアの長編の叙事詩です。物語は、イタケーの王であり英雄でもあるオデッセウスが、放浪の旅をするというものです。長いトロイア戦争(神話の中の戦争)での勝利の直前から、物語がはじまります。
 物語の最初、オデッセウスは、カリュプソーの島に囚われていました。その後島を出て、放浪の旅がはじまります。一方、オデッセウスの息子が、父を探す旅も語られていきます。
 実はオデッセウスは島に囚われていたのですが、イタケーの国民たちは、死んだものだと思っていました。そのため、オデッセウスの妻ペーネロペーには、財産目当ての男たちがいい寄ってきました。
 オデッセウスの2人の息子うち、テーレマコスは、母の苦境を救うべく、オデッセウスを探す旅に出ます。そこで、女神のアテナが、若きテーレマコスを苦境から救うために手助けをします。アテナは老人に姿を変えて、テーレマコスを導く為に登場します。アテナが姿を変えた老人は、オデッセウスの友人であるメントールでした。メントールは、テーレマコスと同行して、助けていきます。
 メントールのこのような指導者としての働きにちなんで、メンター(Mentor)という言葉ができました。メンターとは、単なる指導者より、対話や助言などをしながら、本人の自発的で自律的な成長を促す役割ももった人のことをいうそうです。現在では、メンター制度やメンターシップなどの役割が設けられていることもあります。
 私もある組織に請われてメンターに登録しています。その組織の若手が、メンターとして指名したら、私とメンターとしての役割を果たすことになります。金銭的な関係はなく、ボランティアで、手段もメールによるコンタクトとなります。残念ながら、まだ私をメンターとして指名する人はいません。ですから、私は、肩書だけの、指導をしていないメンターです。
 それはさておき、メンターと普通の指導者との違いは、指導を受ける側が、自ら考えて行動できることを目指すことや、メンターシップではかなり強い師弟関係を結ぶことがあります。そのような点が、普通の指導者や教育係とは違っているところでしょうか。
 さて、メンターです。私は現在のメンターの役割のことを考えながら、昔(私が学生や社会人の新人の頃)は、こんな役職はなかったなあと思いました。自分の周りの先生や上司、先輩(以下、指導者とします)で指導してくれる人は、全般的な指導をし、役割分担はありませんでした。指導者とは、公私に渡り師事することになりました。そこには指導者としての役割分担はありませんでした。ただ「指導者」でした。
 現在社会では、指導者には、役割分担があり、内容ごとに方法論が示され、必要な研修、マニュアルなどが用意されています。おかげで指導者としての役職に戸惑うことも少なくなります。指導者にやる気があっても役割に対するノルマ、成果、評価などが問われ、役割からの逸脱がなかなかできません。
 私が学生のころの先生たちは、個性的で、中には乱暴で粗暴な人もいました。あとで思えば、そんな人でも、先生とよばれる何かの秀でたところもありました。それは、研究者として修行を積んで、同業のコミュニティに立った時に、やっとわかることでした。その時、人とは奥深いものだと感じるときでもあります。
 師事する側は、先生を選択できる場合も、できない場合もあります。師事する側は、それを天命とあきらめ、その先生の個性を飲み込んでいく必要がありました。その過程で先生を理解し、対処法を学んでいくことになります。
 あるときは先生の言うがままに行動し、時に自分なりの変更、修正を試み、あるときは反論を試み、やがては共同で研究や仕事をこなすパートナーになっていきます。それが弟子としての成長になります。
 一方、先生側からいえば、弟子は優秀に越したことありませんが、優秀の尺度は感覚的でもあります。単に勉学、学力だけでなく、行動力、慎重さ、持続力など多様な面での評価になります。どれかに秀でていれば、それを伸ばすことで優秀な弟子になっていきます。戦線側からすると、弟子の足りない部分に対して、不満や欠点も湧くでしょう。しかしこれも個性だと、飲み込むしかありません。
 どんな弟子であれ、指導者となったからには、何らかの指導をしていかねばなりません。指導者の要求をどのようにこなすかが、先生側の本当の評価になります。
 初学者であれば、まずは先生の指示を受けて、そのような行動や対処するかが重視されます。研鑽を積んでくれば、自分なりに学び、新たな方法や考えで、同じこと、より良いことをなす弟子も出てきます。時に生意気にみえたり、あるときはいうことを聞かないようにみえるかもしれませんが、成果がでるのであれば、認めるしかありません。
 やがて弟子も一人前になり、共同研究者、ときには自分より優れた成果を出すこともあります。そんなときは、指導者という立場では嬉しくもあり、同業者としては悔しさもあり、思い半ばでです。でも総じて弟子の成長を喜ばしく思えるのでしょう。
 師弟関係の深まりは、一般論で上記のようになりそうです。時には、師弟関係も破綻することもあるでしょう。でも、多くの師弟関係は、なんらかの形で成立し、継続ししていくことになります。人それぞれで、多様な師弟関係が構築されていくはずです。
 指導者にはアテナが姿を変えたメントールのような要素をもった師弟関係もあったでしょう。日本にも古くからおこなわれている四国の巡礼の「同行二人」の言葉も、メントールのような存在を信じているいることになります。そこに新しくメンターという名称を与え、役割分担を明確化することは、やるべきこと、目指すべきことが明確化されます。無意識に行なっていたことを、意識的することは、効率的で公正なものになるでしょう。危険回避、役割責任の明確化は重要です。厳格化すること、限定をつけることは、失敗や危険性を避けるためにはいいかもしれません。
 しかし、私には、役割の明確化は、師弟関係の結びつきを狭めていくように見えます。自由度の低下は、大きな可能性の芽を摘むことになっていないでしょうか。このような厳格化は、メンター制度だけでなく、現代社会が抱える問題でもあるようにみえます。
 こんなことを危惧するのは、私にメンターの資質がないためでしょうか。それとも、私のメンターのイメージが違っているからでしょうか。師弟関係とは、個性と個性のぶつかり合いによって、その時その場で変化ながら成長していくもので、その変化への対応から学ぶことも多いのではないでしょうか。

・同行二人・
本文で使った「同行二人」という言葉は、
「どうこうふたり」とは読まず、
「どうぎょうににん」と読みます。
これは四国を巡るお遍路さんが
笠や首からぶら下げる袋に書いてある文言です。
一人で歩いていても、
共に歩いている人がいるという考え方です。
一緒にいるのは、弘法大師です。
弘法大師は見えませんが
メンターとして共に旅をしているように見えます。
日本には、精神的、宗教的に
このような自律的な考え方があったようです。
メンターや大師に対し
偽ることなく、本心で接しているはずです。
まさに、メントールとテーレマコスの関係ではないでしょうか。
そんな心持ちで、辛い旅を続けるのです。
そんなお遍路の姿を思い出すと、
私もまた旅に出たくなりました。

・ゴールデンウィーク・
ゴールデンウィークの中日ですが、
我が大学は、暦通りに授業は進みます。
しかし、うちの子どもたちの学校は、
29日から平日に代休を入れて連休にしています。
いいのか悪いのかわかりませんが、
長い休みには、新学期がはじまって一月後くらいには
いいのかもしれません。
新入生は、結構無理をしている人もいるかもしれません。
そんな人は、一息ついてリフレッシュできればと思います。