2021年12月1日水曜日

239 地声人語:大地の声を聞け

 地質学とは、大地の岩石を調べていきます。岩石は物言わぬ存在です。しかし、聞き耳を立てれば、いろいろな声が聞こえてきます。地質学という耳は、日夜、聞く範囲を拡大しているのですが・・・。


 地質学を専門としているのですが、研究テーマは地質学の概念や本質的な属性を深く考えることにしています。地質学のプロパーな研究テーマとはかなり異なっています。
 野外調査を、年に何度も実施しています。野外調査の通常のものではなく、地質学で典型とされる露頭を中心に見ています。典型的な露頭を観察することで、地質学の概念や本質について考えるきっかけにしています。そのため、重要と考えている露頭には、何度でも足を運びます。
 大学に来て20年近くになりますが、この研究スタイルでの野外調査が定着してきました。日本各地で、露頭を探し出しては、その前で五感で岩石を接し、感じながら、いろいろなことを考えています。
 地質学の一般的な研究手法は、露頭を調べことからはじまり、岩石を採取して、実験室でさらに詳しく分析、計測などして特徴を調べて、地質学的情報を引き出していきます。露頭や試料から得た地質学的情報は、客観的根拠、検証可能性と再現性を持っているものになります。
 地質学は、岩石、つまり大地を研究対象にしています。大地の素材としては、岩石や鉱物、地層、化石などを固体物質が中心になります。
 時には、液体を対象として、地層の形成状況から、海洋の起源や変遷や堆積盆、湖沼、河川などの復元することがあります。気体の反映として、堆積物の特徴(酸化、還元など)から大気の特徴を捉えその変遷を考えたり、火山噴火に伴うガスや揮発成分の関与を調べることもあります。さらに、生物の痕跡として化石を扱い、そこから生物個体だけでなく、過去の生態系や古環境を推定していきます。
 地質学は、固体が中心でしたが、それ以外液体、気体、生物へと、対象を広げてきました。
 地質学者が野外で調査して素材を入手していくので、対象は、地球表層の物質になります。ところが、岩石には、地殻内部や、マントルからマグマを経由して噴出することもあります。深部からもたらされた岩石によって、地球内部の情報もえることも可能となっています。
 地質学の対象は、地表の2次元から地下へと伸びる3次元へと広がりを持っています。
 現在、存在している素材を用いていますが、素材の年代測定ができれば、岩石が形成された過去を復元して、地球の歴史を編むことがきるます。時間軸で過去に、4次元的に拡張できるようになっています。
 以上みてきたように、地質学は、身近な岩石から、地球内部へと3次元的、過去へと4次元的に拡大してきました。
 地質学者は、拡大された時空間にある大地の声を聴きとり、人の言葉へと変換していくことになります。深くなればなるほど、大地のつぶやきは聞こえにくくなります。古くなればなるほど、大地のささやきは小さくなります。しかし、技術の進歩、地質学の体系化が進むと、そのような小さな大地の声を聞きとれるようになってきました。これは、「地声人語」と表現できるのではないでしょうか。
 今後、地質学者の地声人語の役割も、ますます重要になってきてます。なぜなら、地質学の対象は、いまや地球に留まらないからです。
 月や小惑星のイトカワやリュウグウから岩石試料が入手できています。隕石もその母天体である小惑星を調べるための重要な素材となっています。実物さえ入手できれば、地質学的手法(岩石学、鉱物学、地球化学、年代学などの分野)を用いることができ、地質学的解釈も適用できます。岩石の声を聞き、言葉にするのは、地質学の出番となります。
 実物試料が入手できない場合でも、探査機が着陸した火星などでは、現場での観測や分析が実施され、客観性のあるデータがえられています。そのデータの解釈には、地質学の知見は不可欠でしょう。また、火星から由来した隕石も見つかっているので、探査データと付き合わせることで、火星も地質学的な検証の圏内になってきました。
 惑星探査として、太陽系内の天体も各種の観測が進められてきました。固体表面をもった天体で、表層地形が、探査機の精細な画像によってえられています。地形の成因や形成過程において、地質学的体系は重要な働きをしています。地質学の適用は、太陽系の地球外の惑星や衛星、小天体、彗星などにも広がっています。3次元の広がりも、地下だけでなく天空方向へと伸びています。
 近年、太陽系より外の恒星の周りで見つかってきた、系外惑星が多数あります。太陽系しか知らない地球人にとって、異形といえる惑星が多数発見されてきました。しかし、異形な惑星であっても、惑星系形成に関しては、地質学が応用されていくはずです。
 惑星探査や天文学的観測などとともに、地質学も宇宙に向けて適用範囲を広げていきます。対象が天空に向かっていくと、地質学は「天声人語」となってきそうです。
 どんなに地質学の裾野が、地球を飛び出し、太陽系の天体、太陽系外惑星に広がっていったとしても、足元の自然の理解が、地質学の基礎となっています。地質学にとって、足元の大地の理解は、露頭を地質調査することからはじまります。地質調査の重要性は、地質学者なら充分認識しているはずです。地質学者は、必要となれば天声人語の果たせますが、地声人語の姿勢は、常にもっている必要がありますね。

・冬到来・
我が家の車は、10月の遠出のときに
早々に冬タイヤにしています。
10月末にでかけたとき、峠で雪に見舞われ、
11月中旬にも、峠で雪になりました。
ドカ雪も降った地域もあり、
冷え込みあり冬らしくなってきましたが、
里は、ではなかなか雪が降りませんでした。
11月下旬になって、わが町にも、連日の積雪があり
少々遅めの初雪となりました。
12月には、本格的に雪の季節になります。
根雪の時期は今年はどうでしょうか。

・天声人語・
天声人語は、朝日新聞のコラムのタイトルで有名です。
「天に声あり、人をして語らしむ」
という中国の古典とされているそうですが
その由来を、何人かが調べているのですが、
どうも定かではないようです。
この意味や解釈はいろいろできるでしょうが、
なかなかいい言葉です。
「地声人語」は、「天声人語」を借りた
地質学者の立ち位置に転用した造語です。
これも、いい用語に思えるのですが、
自画自賛でしょうか。

2021年11月1日月曜日

238 利と実利の間にて

 利とは、いつかどこかで益があるかもしれないものです。実利とは、今すぐ、直接的な益があることです。日常生活では、まずは実利を求めてしまいます。利も重要であるとは、理解しているはずなのですが・・・。



 自然を対象に研究するのが自然科学です。より基本的な物質やエネルギー、運動、変化、反応などの原理を考えていくのが、化学と物理学です。もっと基本的な原理を考えていくのが、数学や論理学などです。それらの方法論を適用して、地球自体や地層、岩石、鉱物、化石などを対象にするが地質学です。生き物を対象にするのが生物学です。人そのものを対象にするのが人文科学で、人を集合してい考えていくのが社会科学でしょうか。それぞれは、いろいろに細分され、単純に区分できない学際的な分野もあります。
 人文科学は、多くの人が興味もあり、理解できます。社会に関してもそれなり関心もあります。人も社会も関係が複雑で、因果関係もいろいろな原理、法則、規則も示されています。それらの規則が完全に正しいかどうか、本当に検証されるのかなどは、なかなか評価が難しいようですが、重要性は理解されています。それぞれの学問分野には、それぞれの特徴があります。
 学問的な成果を、実際の場面で運用するのは、自然科学では科学技術へと応用を考えていけば「実利」が生まれていきます。しかし、すべての科学的成果が実用性のある「実利」になるとは限りません。では、「実利」のない学問は不要でしょうか。
 文学、音楽、絵画などは、人の営みとは直結しませんが、生活や人生に潤いを与えるような「利」があります。人に関する学問では、現象の裏にある規則性、人の心の奥にある機微、根本的なことに関する深い思索など、「実利」はないですが、人の好奇心を満たし、悩みなど解決してくれるという「利」があります。社会科学でも似たような「利」もあるはずです。
 自然科学や純粋な学問領域でも、人類の基礎的な知的資産として「利」があるはずです。それは理解されているはずです。ですから、その成果を生み出すために努力している人たちを理解し、その活動を見守るべきではないでしょうか。同時代を生きる人は、彼ら彼女らの努力や成果を尊重し、可能な範囲での助力や支援をしていくべきでしょう。少なくとも、それを妨げるようなことはすべきではないでしょう。
 大きな装置や莫大な予算を使って研究する人に向かって、その結果はどのように利用できますか、どんな何に役立ちますかと、多くの人、特にメディアが「実利」を聞きます。税金を使ったのだから、当然国民に「実利」を還元しなければならない、という論調での質問です。
 一方、研究者も、多くの税金を使っている研究が、基礎学問であるときは、社会への「実利」の還元に直結しないので、「利」を返答するのですが、どうも力がこもっていきません。そこにメディアは、暗黙にそのような研究に予算を使うのはどうなのか、生活に直結するような「実利」に、もっと予算を使って欲しい、と思えるような質問をしていくのではないでしょうか。
 同じような質問を、例えば芥川賞や直木賞を受賞した作家に、世界的に著名な画家に、その作品は人の生活や社会にどのように役立ちますか、などという質問はしないでしょう。ノーベル賞をとった人の業績は、難しくても「利」として理解しようとしていきます。
 社会学者の多くのコメントを、メディアは流しています。学識経験者の発言の「利」を理解しているため、報道しているのでしょう。その影響や結果を、メディアはあまり評価をしませんが・・・。
 このような事態は、科学、特に自然科学への理解が足りないせいかもしれません。スノーのいう「二つの科学」の乖離のためでしょう。いわゆる理系と文系という区分があるためでしょうか。文系の人は、理系の内容が理解できない、しようとしない。逆に、理系の人は、文系の内容を知らない。そして、両者の間には、大きな溝があるということです。このような乖離は、ある分野の人は、別の分野の重要性を理解できず、「実利」のみで判断してしまうことになりかねません。
 理系や文系の世界で長く暮らすと、理系の人も文系の考え方になります。文系の方でも理系の考え方になるはずです。学び、親しんでいけば、その考え方ができるはずです。ただし、他分野のことを教養して身につける余裕はなさそうです。ですから、理解が深まらないのは、致し方ないのかもしれません。
 でも、芸術をすべての人が許容しているのは、その「利」を理解しているからでしょう。同様に知らない分野であっても、「利」を理解しよう、報道しようという姿勢が重要なのでしょう。しかしメディアの人も、「実利」を中心に長く報道し、その「実利」の中で長く過ごしたり、「実利」中心の見方になるのではないでしょうか。「実利」ばかりを読まされると、人々も「実利」で判断をしていくのでしょう。政治家も科学の軽視、無理解は、「実利」優先に頭が向いていることの現れかもしれません。
 「実利」を求めすぎるのは、教養以前の姿勢の問題ではないでしょうか。実社会では、「実利」が重要なのは言を待ちません。現在のような不景気な社会では、「実利」が重要なキーワードになるでしょう。「実利」がえられれば、それがどのような経過をたどっていいのかもしれません。しかし、「実利」の裏にあるものを見過ごすのは問題です。「実利」の裏に、不誠実なもの、非合法なものがあれば批判されるべきでしょう。それは人の権力や肩書、地位に関係なく批判されるべきでしょう。これも、教養以前のその道の専門家、職業人としての任務でしょう。
 強いものには腰が引けて、弱いものには不躾な、強行な態度になるのは、明らかにアンフェアではないでしょうか。政治家の公約や発言は、社会に「実害」を与えています。強者であっても、そのウソや間違いをもっと徹底的に追求しなければならないはずです。発言力のある立場の人には、もう少し頑張っていただきたいものです。市民も、「実利」ばかりを見ずに、「利」の重要性も理解していくべきでしょうね。

・国民の審判・
10/31に国政選挙が実施されました。
このエッセイは、10月下旬に書いています。
投票日には、調査中ですので、期日前投票をしました。
結果がわからない状態で、書いて配信しています。
本文では一部、政治批判、
メディア批判めいた発言となっています。
これは多くの人が、感じていることのはずです。
もしかすると、メディア内部にいる人も
同じことを感じている人もいることでしょう。
現状をなんとかしなければなりません。
これも多くの人が感じているはずです。
これに対する返答が、選挙のはずです。
配信は選挙前ですので、国民の審判は不明です。

・違いを感じる・
10/29から11/1まで調査に出ます。
この調査は、今年最後のもので、道南へいきます。
いくつかの地域を巡っていきます。
何度もいっているところも多いです。
露頭も似たところをみることになります。
同じ露頭であっても、
見る側の気持ちが変わると
違ってみえます。
その違いを感じることが
私の野外調査では重要だと考えています。

2021年10月1日金曜日

237 虚と実と間で:岩石の合成実験

 かつては、虚と実は、悩むことはなく明瞭なものでした。デジタル化が進んでくると、虚と実の境界が曖昧になってきました。大学の遠隔授業でも、虚実の境界が曖昧になっていることが気になっていることから、考えました。


 「虚業」という言葉があります。投機的なビジネスや堅実でない事業、あるいは実態のないものの売買、実態があっても書類上の操作で利益をえる事業など、あまりいい意味では使われていません。しかし、現代社会では、多くの処理がコンピュータを用いて進められています。
 例えば、買い物も、インターネットで実物をみることなく注文し、現金を使うことなく電子マネーやクレジットカードなどで決済し、人と顔を合わせることなく、実物が手に入ることで完了します。最後の実物を手にする以外は、すべてデジタルの状態で進行します。この流れは、虚の世界での動いているようです。実の部分は、商品を作っているところ、商品を運搬するところ、買った人が商品を手にするところだけで、あとは見えない虚となります。最近の売買の多くは、虚が、多かれ少なかれ介在するようになってきました。
 虚業の反対が「実業」で、その意味は「農業、工業、商業、水産などのような生産、製作、販売などをする事業」などと書かれています。昔は、この説明でよかったのでしょうが、現在では、虚業か実業か、どちらに区分すればいいのか、迷ってしまうものもあります。
 現代社会では、情報とサービスだけで完結する業種も多くなり、重要性も大きくなってきました。GAFAのうち、GoogleやFaceBookは、情報操作で莫大な収入をえている企業です。利用者は、無料で情報をやり取りができて、大きな恩恵を受けています。利用者の無料の恩恵である情報検索や情報発信の行為が、効率的な宣伝をおこなうのに重要な情報となるため、それを欲する企業に提供することで利益を得られるというビジネスモデルです。類似のビジネスが多くなってきました。このようなサービス業は、虚業に見えます。
 接客や営業のようにサービスが、直接、人へとなされていれば、商業活動の一端となり、実業と呼べそうです。教育も、人を育てるというサービス業といえます。しかし教育でも、通信教育ではデジタルですべて進行し、教材と課題、添削という手順で完結するようなものでは、虚の部分が多くなってきます。
 教育の基本は、扱っているものは、情報が中心で、学ぶ手段として道具や人的交流があります。道具や人的交流がなくても、教育は学ぶという目的さえ達成されれば完結できます。必要とする人へ、情報を提供できれば、ものや人が直接動く必要はありません。そのような教育は、虚業となるのでしょうか。
 大学の遠隔授業の一部には、そのようなものがあります。対面でない教育には、虚の部分が多くなっていくようです。通信教育や遠隔授業による教育では、虚の度合いが多くなり、虚と実の境界が曖昧に思えます。
 ここからが話題が地質学になります。科学の世界でも、虚実が入り混じっています。虚が、大規模な装置や複雑な手順を踏んでいると、その結果は本当らしく見えてしまうことがあります。
 シミュレーションと呼ばれる計算機実験があります。シミュレーションは思考実験の一部といえますが、通常の思考は人の頭の中でおこなうものですが、そこでは直感で判断してもよく、厳密さはなくてもよいものです。厳密さを求めるならば、理論的に解決しなければなりません。しかし、関係する方程式がわかっていても、理論的に解けない問題も多々あります。そんな問題でも、コンピュータを用いて計算を工夫することで、なんらかの解をえて、その解を現実に当てはめることで、可能性を示す方法がシミュレーションとなります。
 最近では、ビックデータを用いたAIによるシミュレーション、「京」や「富嶽」などの超高性能のコンピュータによるシミュレーションの研究成果をよく聞くことがあります。地質学でも、地球深部の物質の状態やマントル対流、大規模な海流、将来の気候変動を探ることに、大型計算機を用いたシミュレーションがおこなわれています。
 地球深部の岩石の状態を探ることを例に考えましょう。
 地球のある深度の物理条件(温度圧力など)は、他の方法で推定されています。深度が浅ければ、岩石試料として入手できることもありますが、深けれれば他の方法で岩石種や組成が推定されているものを用います。
 求めたい条件や状態が、方程式にできれば、理論的に解くことができます。しかし、方程式には解けないものも多くあります。偏微分方程式が入っていれば、解くことが難しいので、解ける形式の近似式にして計算していくことになります。近似計算で、シミュレーションしていきます。ある物理条件(初期条件)で、シミュレーションをしなんらかの結果がえます。他の方法で求められている観測データと結果が、一致しなければ、初期条件や方程式や計算方法などを、許容範囲で変化、変形、変更しながら、再度結果を求めていきます。そして、その結果が、観測データと一致すれば、それはひとつの可能性を示しています。
 ただし、シミュレーションの中の計算は、近似計算になり、そこには誤差が含まれています。誤差を見積もることもできますが、あくまでもその式がその現象の真の方程式であるという前提がなければなりません。また、条件を数値化する段階、近似計算にする段階、計算結果の数値を解析する条件など、いろいろ手順を踏みながら、結果を出し評価をしていきます。そのため、いろいろ過程で数値の多様性、任意性が発生します。そのような場合、多数の結果を選択して評価する時に、研究者の恣意性が入る可能性もあります。
 また、複雑系になる方程式が入っていれば、少しの条件変更で結果が、大きく左右されていくこともあります。複雑系が混入した結果では、繰り返し計算が多くなると、結果もじゃ不確かさが増してくることもありえます。
 ここまでは、上述の情報のみを扱う虚の話に対応します。教育などのサービス業に対応する例もあります。
 地質学にはシミュレーションの一種とも考えられる合成実験があります。これは、上部マントルの岩石を知るために、ある条件に岩石をおいて、その状態を調べる方法です。上部マントルの条件を発生し、そこで実物がどのような鉱物組み合わせの岩石になるかを確かめる実験的方法です。実物としては、マントル由来の岩石を使ったり、そのマントルから由来した火山岩を使ったり、化学的に組成を合成した薬品を使ったりされることがあります。それぞれ目的に応じて、実物は使い分けられています。
 このような岩石の合成実験は、可能性を提示する方法となりますが、虚でしょうか実でしょうか。計算機実験のシミュレーションとは、実物を使っている点が異なっています。
 虚実の境界が定まらない、地質学の悩ましい例をいくつか紹介しました。しかし、いずれも科学的仮説とその根拠を示すという点では同じです。もしかすると、社会や科学が進むと、虚や実の境界が、ますます曖昧になっていくのかもしれませんね。

・今年の紅葉・
北海道では、紅葉がはじまりました。
少しずつ秋がはじまり、
秋の気配が深まってきました。
今年の紅葉は、一気に進んでいないようです。
早くからはじまったのですが、
だらだらと紅葉が進んでいきそうです。
今年は天候も不順だったので
それが紅葉にも反映しているようです。

・緊急事態宣言の解除・
9月末で、緊急事態宣言が
まん延防止等重点措置を経ることなく
解除されそうです(9/28に執筆)。
ただし、一気に通常生活や、
営業状態に戻るわけでなく
移行期間を持ちながら、段階的に戻っていくようです。
ワクチン接種も進んでいるので、
感染もある程度は治まってくることが、
期待できそうです。
ただし、変異ウイルスもあるので
注意は必要でしょうが。

2021年9月1日水曜日

236 集中した科学と急いでいる科学

 COVID-19へのワクチン開発は、非常に短期間になされました。緊急事態に対して、人類の集中された科学力に驚かされました。では、通常の科学は、もっとのんびりと、遂行されているのでしょうか。


 COVID-19患者への対処として、当初は薬も処置も試行錯誤でしたが、この1年半で、医療現場の経験の蓄積もされてきました。重篤な肺炎に対しても、以前なら失われていた命も、人工呼吸器などの医学的対処と対応医療従事者の献身的対応で、なんとか危機が食い止められています。しかし、感染拡大がひどい状態のため、医療現場も、限界を迎えつつあるように伝えられています。

 COVID-19へのワクチン接種は、もっとも有効な対処法です。計画通りであれば、日本でも、もっと早くワクチンの接種も進んでいるはずなのですが、すべてが、後手に回っているようです。

 我が大学も申請から1月半たって、やっと職域接種がはじまります。9月から、学生と教職員への接種がはじまり、10月初旬には接種が終わるので、10月中には、集団免疫がある程度できるのでは、と期待できます。ただし、変種も次々とでているので、不安が募ります。ワクチン接種で、当初ほどの効果は期待できないでしょうが、感染、発症、重症化のリスクは減るはずです。

 100年前のスペイン風邪(インフルエンザ)のときは、世界人口の30%(5億人)ほどが感染し、死者も4000万人以上(1億人以上ともいわれた)もありました。その時は、なすすべもなく、ただじっと耐えて感染が収まるのを待つだけでした。

 100年前より医療技術や対処薬などは進んでいるので、感染症への対処がかなりできています。それでも、今回のCOVID-19では、現在(2021年8月28日)、世界では2億1500万人以上が感染し、死者は448万人にのぼっています。ワクチン接種率は人口の25.2%となっています。ワクチン接種率からすると、これからも感染者数や死者の数は増えていきそうです。

 さて、今回のワクチン開発をみていると、そのすべてでスピードの凄まじさを感じました。それまでの研究の蓄積もあったのですが、開発の時間も、商品化も量産化も、臨床試験、承認など、いずれも迅速でした。これは、人類全体の危機に対して、一致団結して英知と資源を集中してきた結果でしょう。緊急の課題に対して、人類が一丸となったときの底力を見た気がします。

 しかし、これは緊急事態のときです。日常的な研究は、もっと着実に進められているはずです。

 職業的な研究者の多くは、大学や公立の研究所、民間企業などに在籍しています。組織に属し給与をもらっている限り、組織の目指すもの、目的に向かって努力する義務があります。特に民間企業では、目標達成が最優先、あるいは目標に束縛されて仕事しています。

 大学では、次世代の人材育成として、社会人として必要な教養とともに、専門性も身につけていく教育がなされます。研究者になろうとする人には、大学院に進学して、さらに高度な専門性を身につける必要があります。大学院などのある大学では、教員は研究者養成も重要な任務になります。

 大学の教員は、教育者であることが第一義ですが、研究者であることも求められます。教員は、それぞれの研究テーマを持っています。それぞれの興味で独自の研究テーマを持っています。教育と研究を進めることが、任務になっており、それで生活の糧を得ていることになります。

 大学の教員は、自分の好きなことを、のんびりとしているように見えますが、予算削減、人員削減の煽りもあり、実は大変忙しくなっています。大学の組織運営のための校務もあり、それも給料分になっています。また、ボランティアで研究者集団での役割もあるでしょう。

 研究費が足りないので、外的研究費、競争的研究費を獲得するために、毎年、何種類もの申請書を作成しています。獲得したら、その研究計画にそって研究を進め、最終的には成果報告をすることがノルマとなっています。次々と研究費を獲得したからには、研究期間が単年であれば毎年、数年であっても毎年のように研究成果を上げなければなりません。獲得する研究費が多ければ、それなりに出すべき成果の数も多くなければなりません。研究成果とは、論文を書いて(学会誌や研究会誌、大学の紀要など)、学界(数個の所属学会がある)へ報告することです。学会報告もその中に含まれます。

 研究者になりたての頃は、指導教員に、研究内容の指導ともに、論文作成でも懇切丁寧に指導をして頂きました。英語であろうが日本語であろうが、それこそ一言一句、赤を入れられて添削していただきました。一篇本目の論文は非常に苦労しましたが、2篇目、3篇目となるにつれて、指導教官の添削も減り、論文とはこう書くものだという、自分なりの方法も見つかるようになりました。おかげで、自力で論文が書けるようになりました。

 研究者には、年に何本も書く人がいる一方、中にはもっと長い期間をかけて研究を進めてから、論文を書くことあります。論文ではなく、著書を認める人もいます。いわゆる大作をものする人もいます。充分な研究期間を経て成果を出す研究もあります。

 ただし、研究期間が長くなると、研究費がなくなります。期限付きの研究費は、単年度から3年、長くても5年程度です。それより長い10年を越えるようなは研究費はなく、ポケットマネーでの研究となります。研究の完成度を上げるために時間をかけると、研究費がなくなることで、ますます成果が遅れるという、悪循環が生じます。そのような研究者が、大学にはある程度の割合でいます。

 文系の分野では、そのようなタイプの研究をする人もいます。理系や社会系の研究者は、研究費がなければ、なかなか研究成果が挙げられません。そのため、研究成果をなかなか出せない(出さない?)大学教員もいます。多分、肩身の狭い思いをしているのではないでしょうか。

 大学教員は、少なくとも数年に1篇程度の論文を書くことが、暗黙も求められています。それは、研究分野や研究規模を問わず、求められています。多くの大学教員は、そのようなペースで論文を書いていくことになります。大学教員たるもの、論文を書くことが第一義である、となってきました。それを実行している教員が多くなっています。

 結果として、論文を書いて、投稿し、査読を通し、印刷されるまでの一連の作業に熟練していきます。それなりのテーマ、それなりの書きようなどのコツもあります。それに長けてくると、テーマが決まり、テータが集まり、期待した結果さえ得られば、論文を書くことがルーティンとなり、苦ではなくなり、比較的簡単に仕上げることができます。これはこれはいいのでしょうが、どうも違う気がします。

 興味や深いテーマや、時間や手間の掛かりそうなテーマは後回しになり、手っ取り早く論文になるネタを優先してしまことが、意識的か無意識かはわかりませんが起こっていきます。論文を書くことが優先事項、という主客転倒が起こっています。論文をたくさん書いている大学教員の多くは、そのような状態になっているのではないでしょうか。

 10年、20年など長い時間がかかっても、成果が得られるかどうか不明でも、基礎的な研究として進めていくべきテーマもあるはずです。自分がもっとも興味あること、研究者としてスタートしたときの好奇心や野心、あるとき思いついた壮大なテーマもあったはずです。そのテーマが達成できれば、科学への大きな貢献となり、自身の満足感も大きいはずです。そんな気持ちは、忘れてしまっている研究者も多くいるようです。多くの研究者は研究を進めています。取るに足らない論文の数より、急いてみえなくなった野心、急いて消えた好奇心、急いてなくなった壮大な地平、が重要ではないでしょうか。

 このエッセイは自戒を込めて書きました。


・反省のつもりで・

私は、ここで述べた成果を追い続ける

主客転倒の典型的な教員かもしれません。

論文を次々と書いているのは、

自身の興味が次々と湧いてきていると思っています。

しかし、本質的はまだ解決していないこと

もっと深いテーマ、もっと時間をかけて

取り組むべきことがあっても

解決せずに時間切れとして、

完結せずにとりあえず論文を書いて、

一段落させてしまいます。

そこにはもっと深い謎、未開の天地、

重要な解へのルートがあったのかもしれません。

また、論文を書くために、無意識でしょうが、

テーマを浅く設定しているのかもしれません。

そんな自分に対する反省も込めて

このエッセイを書きました。


・暗黒の時代・

ワクチン接種の時期が遅れているのは、

その調達に誤算があったためでしょう。

しかし、その内実、実態はまったく示されていなので

なにが問題で、なにがボトルネックだったのか、

今後の反省として活かすことができません。

重要な公文書も残さず、正確な情報も開示しない

不思議な体質へとなっています。

自分たちのしていることに責任をもたない、

次世代への遺産を残さない、そんな姿勢に見えます。

将来、平成から令和は、公的記録が残されていない

暗黒の時代と記されそうです。

そんなことも考えられない指導者には

多くの国民は、呆れてしまっています。

2021年8月1日日曜日

235 よるべないものたち:メランジュ

 地質学用語にメランジュというものがあります。メランジュは寄る辺ない状態です。都市への一極集中、特に現在のCOVID-19で作り出されつつある人間関係を象徴しているように見えます。


 メランジュ(Melange)という用語で表される地質帯があります。以前にも紹介したことがあるかと思いますが、改めて説明しておきましょう。

 メランジュとは、さまざまな成因の岩石(堆積岩、火成岩、変成岩)や、形成条件(変成作用や火成作用などの条件)の全く異なった岩石が、サイズもさまざまな岩石ブロックとして、泥岩や蛇紋岩の中にバラバラに混在しています。その分布にも、ざまざまな広がりがありますが、地質図に示せるほどのサイズのものに限定されています。

 メランジュのでき方にはいくつかあるのですが、地質学的に重要なのは、地殻深くまで達した巨大な断層(構造線とも呼ばれます)によって、深部の岩石が持ち上げられていることです。そのような構造線ができる地質学的な時期、できる地質場に特徴があったとすると、メランジュから大地の変動の歴史とその特徴を読み取ることができます。

 断層に沿って蛇紋岩中に異質が岩石が取り込まれていることもよくあるのですが、小規模なものはメランジュとはされませんが、サイズに関係なく、形成された時期やできている地質場によっては、メランジュの一部と考えていい場合もあります。大規模なものであっても、地表には一部しか露出していない場合もあります。

 北海道では夕張山地がメランジュ帯として有名です。夕張山地は、蛇紋岩の中に玄武岩、チャート、石灰岩、砂岩、泥岩などの多様が岩石のブロックがあります。それらの岩石は、沈み込みだ海洋プレートが変成作用を受けたもので、浅いところ(低圧型変成作用)から中間(中から高圧型変成作用)、そして最も深部(低温高圧型変成作用)で変成作用を受けたものです。また、海洋プレートの上に溜まった堆積岩(砂岩、泥岩、石灰岩、チャートなど)も取り込まれています。基質となっている蛇紋岩は、マントルの岩石(カンラン岩)が、巨大な断層で水が供給されてできたものです。蛇紋岩は、カンラン岩より密度が小さく、すべりやすく、変形しやすい岩石なので、断層に沿って上昇していきます。そのとき、地殻を構成していた途中にあった各種の岩石を、取り込んできました。これが典型的な蛇紋岩メランジュのでき方です。

 メランジュを構成している岩石類は、全く関係をもたない関係となります。今回は、このような関係について考えていきます。

 ある本を読んでいる時、「よるべない人」という言葉を見ました。以前は見かけることがあったのですが、最近全く聞いたことがない言葉でした。中でも記憶に残っているのは、昔聞いていた加川良のフォークソング「鎮静剤」に出てきた歌詞を思い出しました。シンプルなメロディーで、淡々といろいろな女性のことを歌っています。その中に、「よるべない女」という言葉がでてきました。

 「よるべない」とは、「寄る辺ない」と書きます。身を寄せるところがない、身寄りがないなどという意味です。かつて「寄る辺ない」という言葉が、いろいろな文章や場面で使われていましたが、最近はほとんど見ること、聞くことがありませんでした。それを本で見たので、新鮮さを感じたのかもしれません。そして、「寄る辺ない」とは、まるでメランジュのようだとも思いました。

 昔も「寄る辺ない」人は、人口密集している都会(江戸や大阪など)には多数いたはずです。そのため、都会では、「寄る辺ない」という言葉を使う機会が多かったのかなと思います。ところが近年では、都会への人口の集中によって、若者や高齢者など「寄る辺ない」人たちが、昔よりずっと都会では増えてきているはずです。「寄る辺ない」人に関する出来事やニュースは増えているはずです。なのに「寄る辺ない」という言葉を聞かなくなりました。

 どうしてでしょうか。かつての日本の多くの人は、家族や親族を中心とした地縁組織の中で暮らしていました。「寄る辺ある」関係が当たり前でしたが、都会では地方から流入してきた人の集中が起こり、「寄る辺ない」人が多く暮らすようになってきました。そのような人たちに対して、「寄る辺ない」が使われてきたのではないでしょうか。

 都会の「寄る辺ない」人たちにも、故郷には家族や親族がいるでしょうし、都会でも多数かどうかはわかりませんが、親しい友人などがいるはずです。

 現在の一人暮らしの若者たちは、SNSを主な手段として、友人関係を継続しているように見えます。SNSは便利ですが、自身や友人で興味を持たない話題には流れていても、届きません。多くの人が接する情報からも「寄る辺ない」状態になっていきそうです。

 SNSの交流を中心になり、対面しない関係が長く続くと、人間関係が希薄になります。深く付き合うためには、対面での人間関係を構築していなければ、一定以上の関係にならないように思えます。SNSだけ、リモート状態だけの関係では、それなりに親しくなっていけるでしょうが、相手の感情の機微が捉えにくくなるのではないでしょうか。

 現在、多くの大学では、遠隔授業の実施で、人的交流がかなり減った状態が1年半ほど継続しています。現在の1、2年生をみると、たまにある対面授業でもどこかよそよそしく見えます。聞くと遠隔授業では学生同士の交流が少ないので友人関係が築けないといいます。3、4年生は、すでに対面によって構築されている人間関係があるので、遠隔授業やリモートになっても、人間関係は維持されているようです。「寄る辺」ができるかできないかは、対面で付き合うことが重要だと思います。「寄る辺」は、友と行動や議論などをする体験によって生まれるのだと思います。

 メランジュの中の岩石類はバラバラで「寄る辺ない」状態です。しかし、地質学は、それぞれの岩石がもともと持っていた成因や形成条件などで生まれきた「寄る辺」の関係を解き明かしてきました。蛇紋岩は、地球深部での「寄る辺」を、断層とともに破壊して「寄る辺なさ」を生み出しましたことになります。しかし、その蛇紋岩や構造線の形成メカニズムを解き明かすことで、「寄る辺」関係を読み解くこともできます。人の「寄る辺」は、対面、つまり人間として近接した関係で生まれるようです。


・コロナとエアコン・

大学は、先週で前期が終わります。

今週から定期試験の時期なのですが、

7月上旬まで遠隔授業だったので

定期試験の中止の決定がすでに出されています。

一番暑い時期に定期試験は、

問題があると思っていたので今回は良しとしましょう。

大学の大きな教室には順次、エアコンが設置されています。

ただし、エアコンを入れていても、

現在は、コロナ対策で窓を全開するので、

あまり意味をなさいないようですが。

本州の教室ではどうしているのでしょうかね。


・教訓I・

加川良の「鎮静剤」で検索すると

このエッセイで示した曲を聞くことができます。

少々昔の歌詞なので今なら差別的表現になるでしょうか。

加川良さんはフォークソング歌手でした。

1970年代の反政府運動の時からずっと

最近まで唄い続けてこられました。

しかし、2017年4月に亡くなられてしまいました。

加川良の「教訓I」は時代は異なりますが、

その分を差し引いて考えると、今にも通じる歌詞です。

杏さんが「教訓I」をカバーしています。

2021年7月1日木曜日

234 シシュフォスの岩:摂理と不条理

 永遠に繰り返されることを、それも無目的だと、徒労感が湧きます。そのような徒労は、人には不条理や虚無感を生みます。自然現象では、似たような現象がありますが、自然の摂理に従っています。


 以前、学校教員とともに、研究会をしたことがありました。私が講師として、数十名の小学校教員に、試験的な研究授業をしました。河原で石を積むことから、河原の石の種類と由来を考えようとするものでした。構想としては、上流で同じことをして、石の違いや由来を考えていこうという企画でした。子どもも大人も、単に石を積むということですが、倒れれば大騒ぎし、高く詰めれば歓声があります。石ころを積み上げることは、楽しめる遊びになります。

 海岸や山頂には、石が積まれたままになっていることがあります。積み上がった石は、バランスは安定しているようにみえるものがほとんどです。ところが、人が重心をうまく見つけて、意図的に不思議なバランスを持たせて積み上げたものがあります。ロックバランスと呼ばれています。コツがあるのですが、積み上げるには、コツを習得しなければなりませんが、それには熟練を要します。

 自然界にはバランスロックと呼ばれる景観があります。どうしてこのようなバランスで、大きな石が立っているのかが、不思議に思えるものもあります。そのようなところは、観光名所になっています。

 宗教的な聖域には、死者を弔うために石を積み上げられた「賽の河原」と呼ばれるところがあります。賽の河原とは、死んだ子どもが、苦を味わうことを意味します。冥土の三途(さんず)の河原で、子どもが石を積みあげようとするのですが、鬼(餓鬼)が来て壊していくので、高くは積み上がらず、子どもをさいなめるというものです。そのうち地蔵菩薩が来て、子どもを救ってくれるというものです。

 賽の河原では、石を積んでは壊されるということが繰り返されます。西洋にも似たことがあり、その言い回しとして「シシュフォスの岩」というものがあります。西洋では、古代の神話がよく使われますが、「シシュフォスの岩」もギリシア神話にちなんでいます。

 シシュフォス(Sisyphos)は、シーシュポス、シシュポス、シジフォスなど、いろいろな表記があるのですが、ここではシシュフォスを用います。

 ギリシアの神々の系譜は複雑で、シシュフォスの岩に関わるところだけ紹介しましょう。河神アーソーポスから逃げているゼウスの居場所を、枯れないペイレーネーの泉の作ってもらうために、シシュフォスは告げ口をしました。また、兄弟のサルモーネウスの娘テューローを誘惑したことでも、ゼウスの怒りを買いました。そのため、シシュフォスを捕まえタルタロス(奈落)に連行するように、タナトス(死の象徴の神)に命じました。しかし、タナトスはシシュフォスにだまされて幽閉されてしました。

 タナトスがいなくなったので、誰も死ぬことができなくなり、困ったアレースは、タナトスを助け出しシシュフォスを捕らえタルタロス(冥界のこと)に連れていきました。その時も、シシュフォスは妻に策略として葬式をするなと命じていました。シシュフォスは、妻が葬式をしないので、復讐するために三日間だけ生き返らせてくれと頼み、再度、この世にもどったのですが、そのまま居座りました。ゼウスの使いのヘルメースがシシュフォスを、冥界に連れ戻しました。

 シシュフォスは犯した数々の罪として、冥界で罰を与えられました。それは、大きな岩を山頂まで上げるというものです。その岩を持ち上げて山頂に着きそうになると、岩は転げ落ちます。持ち上げてはまた落ちる。これが永遠と繰り返されるという罰です。

 このような神話から、シシュフォスの岩は、終わりのない労働、徒労の意味で使われます。カミュは、「シーシュポスの神話」という短い随筆を書きました。これはカミュの「不条理の哲学」の真髄として、有名でもあります。

 シシュフォスの岩と似た地質学の現象として、タービダイト流があります。タービダイト流とは、海底の斜面に溜まった堆積物が、地震や洪水などをきっかけに、一気に土石流となって流れ下るという現象です。タービダイト流は、さまざまなサイズの土砂を含んだ、密度や粘性の大きい流体(混濁流、密度流などと呼ばれます)になります。そのため、水中であっても、海底の斜面に沿って流れていきます。大陸斜面にはこのようなタービダイト流によって溜まった地層(タービダイト層)が、何層も形成されています。

 タービダイト流は土砂が混じった粘性の大きな流れなので、前に溜まったタービダイト層が削られるという現象が起こります。タービダイト流が大規模になれば、いくつも前のタービダイト層をも削剥します。削られた土砂はタービダイト流に飲み込まれます。せっかく溜まった地層が、削られるという現象です。賽の河原やシシュフォスの石のような不条理さを思わせます。

 しかし違いがあります。それはタービダイト流が自然現象として起こることです。賽の河原やシシュフォスの石は、子どもが積んだり、シシュフォスが持ち上げたりしていました。石の積み上げには、人の労力、エネルギーが関与してました。タービダイト流は、エントロピーの法則にかなった現象になっています。

 また、削られた土砂は、そのタービダイト流に取り込まれるので、別のところに運ばれ、今回できるタービダイト層として堆積します。削られた土砂は、無に帰する訳ではなく、再配置されるます。これも質量保存の法則にかなっています。

 タービダイト流は、人は関与しない完全な自然現象です。日本列島には、タービダイト層が典型的な地層として、各地に分布しています。自然の摂理にかなった地層が日本には広く分布しています。


・野外調査の準備を・

6月は、暖かい日や寒い日、湿度の高い日など、

天候の変動が大きかったように感じます。

しかし、夏の気配は濃厚になってきました。

エゾハルゼミの声は聞こえなくなりました。

木の葉も若葉から濃い青葉になりました。

いい季節になってきたので、野外調査にでたくなります。

あとしばらくは、自粛、我慢が必要ですが、

そろそろ準備をはじめています。


・撮影日和・

先日、新しい魚眼レンズを購入しました。

天気のいい休日に、公園にいって試し撮りをしました。

子どもが来るような公園ではないので、

静かに撮影できるかなと思っていました。

9時過ぎに来たのです、公園には私一人でした。

撮影していると、次々と人が来て、

結局、私以外に3組4人になりました。

外の空気を吸いたくなるようないい天気でした。

そのうち2名はカメラをもって

撮影に来ているようでした。

私同様に撮影日和ともなったようです。

2021年6月1日火曜日

233 アポリア:難問と実践と

 日本では以前COVID-19の感染が広がっています。少し前までは、COVID-19は難問でしたが、最近では解決の方法が見えてきました。成功事例も多数あるので、あとは実践あるのみでしょうか。


 哲学では難問や、行き詰まりになった状態をアポリア(Aporia)と呼んでいます。ギリシア哲学で使われている用語です。

 プラトンは、ソクラテスを主人公とする対話で多数の本を執筆しています。本の中では、対話によって、アポリアが提示されて終わる話しが多く描かれています。ソクラテスは、対話を通じて相手をアポリアになることで、まだ何も知らない無知であることを知らしめています。プラントは、ソクラテスが相手をアポリアに陥らせるという書き方をすることで、アポリアから新しい展開を生み出せる可能性を暗示するという方法論を提示しているようです。

 ただし、対話者がそアポリアからの脱出のための意欲や行動に進めるかどうかが、重要になってくるでしょう。アリストテレスは「形而上学」の中で、先哲たちを悩したアポリアをリストアップして、それらについて自身で考えていきました。つまり、プラトンの暗示した方法論で、アリストテレスは、アポリアへの解決策の探索を実践していたのです。アポリアを把握し、アポリアからの脱出のために考え、実践することことで新しい方法論を付け加えました。アリストテレスの方法論の提示も、暗示されているものです。

 ソクラテスの対話から生まれたアポリアを、プラントは方法論にして、アリストテレスはアポリアを解決するために実践をおこなうことで、解決のための方法論まで進めました。アポリアは、単に難問という意味だけでなく、難問からの脱出をも促しているようです。ギリシア哲学の巨人たちが、体現してくれているのです。後人は先人の導き従えばいいのです。

 さて、現在の日本は、閉塞状況が継続しています。各地で緊急事態宣言が今月へも延長されそうです。そんな地域では、自粛が慢性化してきて、歪んだ日常が当たり前になってきています。自粛をしている人にとって、COVID-19は解決できないアポリアなのでしょうか。この閉塞状況はアポリアでしょうか。考えていきましょう。

 まずは、現状把握から。政府のCOVID-19への対処に関して、多くの人が政府の対処に不満、失望を感じています。後手だったり、時期を間違った対象だったり、無駄なところに費用を使ったり、科学的な裏付けのない政治判断だったり、人命より他のものを重視したり、強者には忖度するのに、弱者には冷淡だったり、と言い出せばきりがないほどの愚痴が、次々と沸き起こります。

 これらは、アポリアではなく失策ではないでしょうか。さらに、オリンピック開催には、多くの人が反対しているのに強行開催しようとしています。政府は、人命よりオリンピックの方が重いと考えているのでしょうか。もし実施して感染爆発や多くの重症者や死者が出たとしたら、選手や関係者の気持ちはどうでしょうか。あるいは国民の気持ちはどうでしょうか。

 これらすべての難局はアポリアでしょうか。COVID-19へ適切に対処した国は現在対処しつつあります。対処が混乱したアメリカ合衆国でも、指導者が交代して対策を強く推し進めたところ、半年ほどで一気に感染を抑え込みつつあります。難局への対処への方法論は、いろいろな国で実践が積み上げられてきました。

 国内に入れない水際対策、入ってきたらロックダウンと経済的保証、対ウイルスのワクチンの開発、ワクチンの早急な認可と充分な量の確保、接種態勢の緊急的方法の確立など、いろいろな実践があります。それぞれの場面で専門家や企業、行政などの連携が不可欠ですが、それを統括するのが、政治家としての手腕が問われるところです。残念ながら日本はそのような人材は乏しいようです。

 では、どうすればいいのでしょうか。古代ギリシアの先哲の知恵を借りましょう。

 ソクラテスは対話にて、相手がアポリアになっていることを示しました。現在の日本のCOVID-19における状況は、まさにアポリアです。プラトンはアポリアを知るという方法論は示しました。アリストテレスはアポリアをリストアップして、解決のために実践するという方法論を示しました。現状で各国のCOVID-19への対処、そして脱出のための実践例は多数示されています。それを適用し実践すればいいはずです。そして政治や指導者の態度も、各国で示されています。

 先人の実践があれば、先人から学べば後人はアポリアからの脱出はしやすいはずです。後発のメリットは、実践例が多数あり、それを自由に組みわせて有効に利用できることです。あとはそれを、実践する行動力、決断力です。ところが、なぜか日本ではできていません。そして、前掲の国民の愚痴へと戻っていきます。堂々巡りに陥りそうですね。


・緊急事態宣言の延長・

北海道も他の都府県とともに

緊急事態宣言が延長されそうです。

その期間は、6月20日までになりそうです。

大学も当然、緊急事態宣言に対応して

遠隔授業がはじまり、継続しそうです。

もしかすると、前期の講義全体が

遠隔授業のまま終わってしまいそうです。

昨年と同様の状態になったら、

1年生、2年生の学生は、

大学の体験的学びを体得できない、

なぜ大学にいるのかという不安、

友人やサークルでの人間関係の形成不足

など考えてしまうことになりそうです。

教員もそのような悩みへの対処も

十分できなくなるかもしれません。


・研究計画の再考・

緊急事態宣言の発令とともに

予定していた野外調査が、

次々と中止、延期に追いやられてます。

その分は、時間的には補うことができません。

たとえ、7月に野外調査が開始できたしても、

集団免疫ができない限り、

ワクチン接種が広まらない限り、

いつ感染爆発が起こるかわかりません。

注意ながらの調査となりそうです。

今年度の当初予定していた研究計画も

考え直す時期になっています。

2021年5月1日土曜日

231 しがらみと好奇心と:初心は何処に

 科学を、金や名誉のためにおこなっている人もいるかもしれません。そもそもは好奇心によって、科学に目覚めたのではないでしょうか。そんな好奇心がしがらみの前では、隠されてしまっているのでしょうか。


 かつて地質学は、野外調査から研究をスタートしていきます。自然との接触を通じて、記載し試料を採取していきます。記載からその地の地質状況を把握し、試料から各種の観察、分析、計測をして情報をえることを基礎情報にしていました。しかし、これは昔の話かもしれません。

 現代の地質学では、先端の大型装置(大型望遠鏡や探査機)や高性能装置(Spiring 8)や、巨大プロジェクト(深海掘削や局地調査)など、個人ではできない手段や分野も手掛けることも増えてきました。これは「学際的」になってきことを意味します。

 私がおこなっている地質学は、基本はひとりでおこなっています。それは、野外調査からはじまります。野外の露頭での岩石や地層から読み取った大地の営みのダイナミズムは、感動を受けます。それに比べる自分や人間のささやかさ、・・・など、あれこれ自然の中で考えてしまいます。露頭からはじまる思索を、現在の中心テーマにしています。

 私も「学際化」を進めていますが、ひとりでおこなうものです。野外の露頭という身近な素材から、素朴な感覚、感性からえられるインスピレーションを大切にしています。そこから、地質学固有の考え方や概念などを、深く掘り下げていこうとしています。そのときに哲学や論理、数学などの他分野の考え方を導入することで内容を「学際化」していこうとするものです。ひとりでの「学際化」を目指しています。

 自然の中で石を見ることは、なかなか気持ちのいいもので、野外にいくとストレスやしがらみから開放されるので、のびのびします。そもそも地質学だけでなく、科学あるいは研究とは、好奇心に触発された事柄について、科学的・論理的手順で調べていくことで、これまでにない新知見を見出していくことです。科学的手順とは、対象となる事物や事象を観測し、測定し、定量的もしくは定性的な情報をえて、それを解析していきます。その過程で、新たな知見を見出したり、これまでにない概念を抽出したり、あるいは手段として、新しい測定技術を適用したり、時には目的のために新しい装置を開発することもあります。いずれにしても、これまでにない何らかの新しい知見、方法、考え方や概念などを、科学界に提示します。その一連の過程を科学的手順といいます。

 近年、多くの装置は、科学技術の進歩やコンピュータやアプリケーションの発展で、より簡単な操作で、より精度の高いものがえられるようになってきました。科学技術の進歩は眼を見張るものがあります。しかしかつては、専門の訓練を受け、ひとつのデータを出すために長い日数がかかったり、データの精度が科学者の腕によって変わったりしていました。それが現在では、訓練を受けていない学生でも、コンピュータ制御で大量に高精度のデータが出せる時代になりました。これは、昔、苦労してきた研究者が、こうなれと望んできたことなので、喜ぶべきことでしょう。

 苦労が軽減したら、科学者は、その分、なにをなすべきでしょうか。それは、装置や研究条件を活用する研究テーマを考え、成果を挙げていくことでしょう。その条件が、他の研究室にないものであれば、最もその利点を活かすテーマを考えていくことになるでしょう。

 研究でえられたこれまでにない新知見には、本来は優劣はないはずです。しかし、その成果(論文のこと)が、科学的に正しいかを学会発表で議論したり、世に残すに値するかを評価して(査読制度)、客観的に成果を判断をする仕組みがつくられています。そのような科学的評価の仕組みが、各分野の学会として存在しています。

 現代は、科学を職業としている人口が増えているので、科学の成果を評価する仕組は、より強化されます。学会誌のレベル、あるいは成果が他の研究者にどの程度の役立っているのか(引用)によるランクを付けなどをして、客観的評価としています。

 優秀な研究者でもあって、一生のうちに一級の研究成果を、多数、報告をすることはほとんどありません。また、どれが一級の研究成果になるかは、テーマ設定の段階で、事前にわからないことも多く、最先端や新分野のテーマほど、なかなか予定通り、予想通りにはいかないことも多くなります。

 それでも、数年のテーマとして取り組んだ研究であれば、なんらかの成果報告をしていきます。今後の研究の持続性を考えると、成果として報告をしたという実績、そして質より量がものをいう場面も多々あります。いきおい質より量の業績数も稼ぐことが重要になっていきます。

 業績を稼ぐには、研究の戦力になるを人材を集めていくことも重要でしょう。人材とは、学生や大学院生、期限付き研究者、研究助手、技術支援者、あるいは共同研究者などです。研究で好条件があれば、優秀な人材も集まるでしょう。結果として、成果もたくさん挙げることができるしょう。成果が多ければ、時には一級の結果もえることがあるでしょう。すると、さらによい装置、より優秀な人材などが集まり、より多くの成果を出せることになるでしょう。成果が挙がれば、研究費も増え、ますます優秀な人材も集めることができるでしょう。

 この好循環が続けば、その研究室は一流となっていき、優秀な人材を輩出でき、他の組織へも供給することになり、共同研究者も増えていくことなるでしょう。これが、多くの科学者、研究室が目指す状態でしょう。

 現代の科学者にとって重要な役割は、研究室の装置や条件をよくして、優秀な人材を多数集めて、最先端のテーマで多くの成果を出していくことでしょう。現代科学では、このような進め方をしたり、目指していることでしょう。成果を上げている研究者は、充実感、達成感もあり、名誉欲も満たせ、新しい好条件がえられることになるでしょう。

 このように見ていくと、大きな研究を進めるためにには、純粋に科学の営みとはいえないような政治的、経済的、組織的な要素も多くなってきていくようです。中心的な研究者は、純粋に研究能力だけでなく、そのような能力にも長けていければならないのでしょう。現代の科学の多くは、このような方向に進んでいます。これまでの経緯や「しがらみ」から、致し方ないことなのでしょうか。

 そのような科学の「しがらみ」の影には、研究費確保で提示したテーマを限られた期間内で達成するため、組織が疲弊していくこともあるでしょう。中には、ストレスのため潰れていく人材もいるでしょう。目標を達成できず、好循環が切れることもあるでしょう。時には、不正を働く人も出てくるかもしれません。ニュースになっていることもありました。大きな研究を進めていくには、このような影の部分もあるようです。

 自分の立ち位置を確認するために、科学の原点、根本的問題に立ち返ることが重要ではないでしょうか。それは、このエッセイの一番最初に書いたように、科学とは好奇心に基づいておこなわれる、という地点です。不思議だと思うこと、興味を持ったこと、面白いと思うことだからこそ、困難があっても乗り越えられるのでしょう。そんな純朴な好奇心は、多くの研究者は、ずっと心の中に持っているはずなのです。でも、「しがらみ」のために、心のどこか奥底に埋もれしまってるのではないでしょうか。時には、その地点まで戻る必要があるのかもしれません。多くの科学者に、このような好奇心がどこかにいってしまったように見えてしまうのは、私だけでしょうか。


・歪んだ科学への対応・

今回のエッセイは、少々長くなりました。

地震と原子力に続いて、最近はCOVID-19でも

科学の無力を、日々、見せつけられています。

科学や技術などに携わっている人は、

最終的には人や社会のためになることを

願って進めているはずです。

そんな科学の成果が歪められていること、

経済や政治に誤用、御用化されていること

メディアのネタや悪意にさらされていること、

そんあことを忸怩たる思いをしているはずです。

そんな歪んだ科学への対応が心配です。


・初心を思い出せ・

コロナウイルスの第4波が全国に広がっています。

中途半端の対策での封じ込めの失敗、

病院や医療従者の手当や援助、人手の不足、

ワクチンの手配の遅れ、など、

原因をあげればキリがないほどの

失策が繰り返されているようです。

国民の反対を押し切って

オリンピックはおこなうと立場だけは堅持しています。

どこでこんな状態が生まれたのでしょうか。

このエッセイで述べたように

研究者のしがらみと初心のズレと

同じ構図がみてきそうです。

政治や行政を志す人も

初心を思い出していただきたいものです。

2021年4月1日木曜日

230 べき乗則:想定外を想定

 ものごとの起り方は、正規分布だけではありません。自然現象には、べき乗則で起こるものが多く見つかっています。自然現象、特に自然災害は、想定外を想定しておく必要性がわかります。


 一般的な様子を知るため、ものごとの性質を定量化して、その平均をとることがよくされています。入試や定期試験の点数、年齢ごとの身長や体重、などいろいろなところで用いられています。かつては、平均値の計算は手作業や電卓でしていたのですが、今では表計算ソフトを用いれば、データを入力すれば、間違うことなく、即座に求めことができます。データの特徴を表すために、今や平均値はありふれたものとなっています。

 点数や身長の例では、一人にひとつの点数や身長のデータがあり、人数分の個々の値がありました。それを平均した値が、点数や身長の平均値となります。平均値が、その集団の点数や身長の特徴となります。

 ところが、その値が数値ではない場合、例えば確率で示されるもの、関数で示されるものなどもあります。それぞれの場合によって、平均値の考え方は変わってきます。

 確率で示されるものであれば、平均値の意味するのは、その集合の期待値となります。関数の場合で、ある区間で微分可能ならば、平均値の式は直線の式となり、その式に平行な接線、つまり微分した値がその区間に存在するということを意味します。「ラグランジュの平均値の定理」と呼ばれて、利用されています。

 ラグランジュの平均値の定理を、2つの関数の関係へと拡張していくと、平均値の定理は、2つの関数の微分の比が存在するという「コーシーの平均値の定理」になります。また、コーシーの平均値の定理で極限をとると、「ロピタルの定理」(ベルヌーイの定理とも呼ばれます)になります。

 つまり、平均値を求めるという数学的操作も、拡張していくと、いろいろな側面があることがわかります。

 さて、本題です。最初に示した一番単純な平均値、例えば大人の身長の平均値とは、平均値の周りに測定した値が、分散していることになります。その分散の様子は、平均値に対して、左右対称に釣鐘型になっています。平均値の付近が多く、離れると少なくなっていきます。このような値のばらつき方は、統計では「正規分布」と呼んでいます。

 正規分布するものは、左右の裾野は平均から外れていくことになります。離れれば、そのような値はなくなります。2020年の文部科学省のデータによると、日本人の20歳から24歳の男性の身長の平均は171.5cmで、女性は158.49cmとされています。正規分布なので、身長2mの人は稀ですがいます。しかし3mの身長の人はいなくなります。つまり、正規分布とは、ある平均的な値を中心に、データが集まっている状態に対して、特徴を捉えるためには有効な方法といえます。

 正規分布は重要な分布なので、統計学ではいろいろと性質が研究されているので、さまざまな利用ができるようになっています。また、左右対称ではなくても、分布の特徴が関数化できれば、統計学的処理によって、正規分布に変換する手法もあります。正規分布に変換できれば、さまざまな手法が利用できます。

 しかし、自然界には正規分布にならない現象も多くあります。例えば、地震のマグニチュードの大きさと頻度の関係、火山噴火や斜面崩壊、雪崩、河川氾濫などの自然災害の規模と頻度の関係は、正規分布が当てはまりません。

 これらの現象に一致する関数を当てはめていくと、べき乗分布になっています。べき乗分布とは、現象の2つの観測量(規模と頻度、あるいはサイズと頻度)が、べき乗で比例するという関係です。このようなものをべき乗則、あるいはスケーリング則(scaling law)と呼ばれています。その式は

  y=x^-a

となります。ここでxは現象の規模やサイズ、yは頻度です。aをマイナスにしたのは、規模が大きなものが少なくるというグラフにするためです。このaは、スケーリング指数と呼ばれるものです。

 べき乗関数と似たものに指数関数があります。

  y=e^-x

と表せます。似ていますが、x(規模やサイズ)が指数となっており、底がネイピア数(e)となっています。

 べき乗関数と指数関数の違いは、数学的には対数をとると明瞭になります。指数関数の両辺の対数をとると、yが対数になりますが、xは対数ではなく1次式になります。その結果、y軸だけを対数(片対数)にすると、グラフは直線になります。べき乗関数では、両辺の対数をとると、直線の式の形になり、直線の傾きの値がスケーリング指数(a)となります。

 これは、両関数の減少の仕方の違いを示しています。指数関数は、一気に減少するため、はずれた値の出てくることは、急激に小さくなっていきます。一方、べき乗関数は、最初が減少が大きのですが、だんだんと減少の傾向は小さくなっていきます。指数関数よりクラフの裾野が、緩やかになっています。つまり、べき乗関数の現象では、規模の大きなものは、頻度は小さいのですが、起こる確率は、下がりにくいという特徴になります。このような減少のしかたは、ロングテール(long tail)とも呼ばれています。稀ですが、とんでもなく大きな値の現象が、起こることになります。

 べき乗則に従っている自然現象では、これまで起こらなかったとしても、今後も起こらないとはいえないということになります。自然現象にはいいことばかりでなく、巨大地震、巨大火山噴火、隕石の衝突など、「想定外」の規模のものが起こりうるという、当たり前のことが導き出されたことになります。

 自然現象でも地震や火山などでは、有史以降起こったことがなくても、過去をずっと遡っていくと、超巨大の規模のものが起こっていることが検証されています。自然現象でべき乗則になるもの、重要な意味をもっています。想定外の規模の自然現象は、稀ではあるが、起こる可能性があることを、常に意識しておかなければならないということです。「想定外」は「想定」可能であることが、数学的にわかっているのです。


・緊急事態の解除・

緊急事態の解除と新年度や花見の時期と重なりました。

それまで多くの人が抑圧されていたので、

開放されたい気分になるはずです。

多くの人が出歩くことは、想定できたはずです。

そんな簡単な想定ができないはずはありません。

大規模な火山噴火や地震は想定外とするのは

間違っていることが、数学的にわかっているのに

起こらないと「想定」して安全対策をしていました。

今回のコロナへの緊急事態の解除から

起こる事態も想定できるはずですが、

想定してないのでしょうか。

政府は、どうもちぐはぐな対処をしていますね。


・対面授業・

大学は新年度を迎えました。

今年こそ、新入生は大学生活を謳歌してもらいたのですが、

まだ先になりそうです。

コロナへの対象法は整ってきたので、

まったくの遠隔授業の状態ではありません。

それでも、通常の大学生活とは、大きく異なっています。

早く国民全員にワクチン接種が普及して、

一日も早く、通常の対面授業が戻って欲しいものです。

対面授業の重要性、ありがたさを痛感しています。

2021年3月1日月曜日

230 反証可能性:悪魔の代弁者

 日常生活では、何事もなくなくても、特別な状態、条件の時には、通用しないことがありえます。そのような落とし穴に落ちないために、悪魔の代弁者という考え方があります。


 ものごとを、ひとつの方法論や考え方で突き詰めていくことは重要です。しかし、そこに大きな落とし穴が潜んでいることもあります。そんな落とし穴について考えいきます。

 まずは、以前、紹介した例からはじめましょう。

 数列を探るというクイズです。出題者がある規則で3つの数字を並べます。解答者は、その規則を探っていきます。その方法は、解答者が3つの数列を提示し、その数列が出題者の規則に合ってればYesと答え、違っていればNoと答えることにします。その繰り返しで、解答者が主題者の数列を探るというクイズです。

 まず、出題者が次の数列を提示しました。2 → 4 → 8 そして、解答者Aは、4→8→16:Yes、8→16→32:Yes と答えました。解答者Aは、偶数、もしくは2の何乗が規則だと考えるはずです。両者のどちらかを決めるためには、2→4→6、1→2→4 という数列を順番に出していけば、決定できるはずです。

 しかし、もし出題者が、両方ともYesと答えらたどうしましょう。あるいは、もうひとり別の解答者Bが、同じ出題に対して、1→3→5 という数列を出して、Yesという答えが帰ってきたら、どう考えますか。混乱をきたすでしょう。

 よく考えた人が、3→8→100 という数列を出して、出題者がYesと答えたら、その規則性は、小さいものから大きいものへと順に並べるというもののはずです。

 これらのことから、クイズの答えをえるためには、規則性を予想して、それに合った数列をつくり、質問していくことになります。もし、出題者の規則性が、解答者の想定した規則性を含む、もっと広いものであればどうなるでしょうか。いくら数列を出してもYesとなり、本当(真)の答えはえられません。先程の例でいうと、2の指数乗(1は例外として含む)、偶数、増加する数、という規則性は、順により広いものになっていました。

 ここまでは、以前紹介したものを変形したものでした。

 解答者の想定した規則性が本当かどうかを確かめるためには、想定した規則性に反する数列を示して、出題者のNoの答えをえらえれば、検証になります。ちなみに、9→3→8 という数列も、Yesです(この規則の答えは下のLettersにて)。このようは考え方は、「逆問題」や背理法と呼ばれる考え方です。

 なぜ、このような考え方が必要なのでしょうか。正しいと考えられていることを確かめるために、その規則性の中で検証をしていたとしたら、それは真に正しい答えではありません。このようなことが、日常生活のなかで起こっていれば、避けられないような落とし穴となるでしょう。

 「検証されているから」と、「規則性から外れるようなことは起こらない」という前提ができていると、そこから大きな間違いが生じることがあります。真ではない規則性に基づいて、ものごとの考えられたり、組織や社会が運営されていたとしたら、そんなことは起こらないという前提でシステムが組まれていたら・・・。

 そのような事態が起こったときには、「想定外」となって対処ができないことになります。日本の政治や行政システムにはこのような落とし穴がありました。2011年3月11日以降の原発事故のとき「想定外」という言葉を度々聞きました。他にもありそうで、不安ですね。

 そんな落とし穴を回避するためには、どうすればいいでしょうか。

 アメリカでは、大統領候補者同士が議論するディベート(debate)と呼ばれる方法があります。両者の考え方の違いをはっきりとさせること、また議論を通じでどちらの考えがいいか、などの判断に利用されています。学校の教育の一環として、ディベートで競うという訓練がなされ、議論の技術を磨いています。ディベートのテクニックとして、「悪魔の代弁者(devil's advocate)」と呼ばれる方法があります。ある意見の側に対して、反対や批判する側の役割を担う人たちのことです。

 悪魔の代弁者とは、もともと西洋では、宗教的な方法論としてありました。信心深い信者や故人に対して、聖人などの地位を与えるのを審議するために、その人の至らない点を指摘していく人のことを指しました。そんな指摘を受けることで、客観的に、そして公正に選ばれたとことを示していました。まあ、起こりは宗教的な儀式ではあるので、論理的正しさはないのですが、その方法論や視点は重要です。

 このような方法は、科学哲学者のポパーが提案した「反証可能性」というものに繋がります。それは、自身の考えを否定するような仮説を立てて、その仮説が否定されることで、検証していこうという考えです。ポパーがこの説を唱えるために影響を受けた例として、アインシュタイン自身の一般相対性理論に対して、真偽を確かめるための実験を提示したことがありました。この実験は、難しいもので、すぐには実現できませんでしたが、日食のとき観測されたことで、理論の正しさが検証されました。

 実際の場合には、反証可能性を提示してものごとを考えたり、反証を検証することはありません。なぜなら、人は自分の考えを、あえて否定するような考えを提示することは、生理的に嫌うからです。背理法も、数学ではテクニックとして用いますが、実社会や生活に導入するには抵抗があります。ですから、多くのものごとは、自身の考えている規則性で、その考えの中だけで検証された規則性から成り立っています。私たちは、そんな世界に住んでいます。

 ですから、せめて、今「正しい」と思っていることは、危うい砂上の楼閣であることを心して置く必要があります。至るところに、悪魔が潜んでいる可能性があり、落とし穴がありそうです。

 最後に一言、もし、反証可能性の考え方も、論理的に反証されれば、この方法論も間違っているということになります。これは、自分の示した方法で、自分の方法論を否定することになる、という自己矛盾を孕んでいます。いったい何が正しいのでしょうか。混乱してきます。


・解答・

本文で示した3つの数字の規則性を当てるというクイズは、

なかなか含蓄がありました。

本文の例、数列 9→3→8がYesでした。

その答えは、ばらばらの数字を並べるというものでした。

では、もし出題者が 9→9→9 にもYesと

答えたらどうでしますか。

その規則性は、もう見抜けますよね。

ご自身で考えて下さい。


・新しい生活様式・

3月になり、東京周辺はまだ緊急事態宣言の中ですが、

それ以外のところでは、解除され、

感染がだいぶ治まってきたように見えます。

その結果、規制もだんだんゆるまってきました。

北海道も一部地域では時短が要請されていますが、

そのような地域への不要不急の往来は自粛となっていますが

それ以外のところでは、感染リスクを回避する行動をしながら

通常の生活に戻るようになってきています。

自粛生活が当たり前となっている間、

不要不急の行動が、以下に多かったかに気付かされました。

活動的な若い人には、自粛は厳しいでしょうが、

私には、淡々としたシンプルな生活で

十分なような気もしてきました。

これは、Withコロナの生活でしょうか。

ワクチン接種がはじまり、広く接種が行われれば、

Withoutコロナの生活が戻ってくるのでしょうか。

それとも新しい生活様式が生まれるのでしょうか。

2021年2月1日月曜日

229 はじまりを尋ねて:LUCAは身近に

「はじまり」をの探求は、興味深い話題です。ところが、深く追求していくと、推定や仮説の世界にたどり着きます。生命のはじまりも、仮説の世界になりますが、ここ数年新たな展開が生まれてきました。


 ものごとの「はじまり」については、多くの人が興味を持っていることと思います。しかし、すべてのものの「はじまり」を問いつめていくと、答えにたどり着けないものが出てくきます。例えば、自分の「はじまり」を尋ねていくと、両親、祖父母、曽祖父母、・・・・・と遡り、顔どころが名前さえしない親族へ、さらには過去帳、家系図と文字や文書だけの存在へと繋がっていくことでしょう。さらに「はじまり」と尋ねていくと、人類の「はじまり」であるヒト(分類でいうと「科」になる)となっていきます。さらに遡ると、霊長類(目)、哺乳類(網)、脊椎動物、動物(界)、真核生物(ドメイン)となります。最終的な由来を訪ねていくと、生命の起源へと繋がります。自分の「はじまり」の究極の問は、生命の「はじまり」へたどり着きます。生命の起源も、だれもが興味を持つ「はじまり」ではないでしょうか。

 生命の誕生は、地球創成の時代の出来事だと考えられています。そして、最初の生物は、小さく、単純な単細胞だったはずです。その生物の化石は、硬組織がないのと、形成環境も、確率的にも見つからないと考えなければなりません。現在、遡れている化石は、34.8億年前までは確実なのですが、あとは化学的証拠として38億年前まで遡る可能性はありますが、まだ確定していません。

 現状では、地球創成の時代、冥王代(45~40億年前)の化石探しは、地層も稀で、化石を見つけるのはなかなか困難となりそうです。化石以外で、なんらかの根拠を手がかりして調べていくことになります。どのような方法があるでしょうか。

 古い化石を探し、そこからより原始的な生物を推定する方法。現在いる生物から最も原始的なものを見つけて探る方法。その遺伝子から探る方法。生物をつくっている有機物などの素材の形成から考える方法。などいろいろなものがあります。いずれも、最初の生物を「共通祖先」として、推定していきます。

 「共通祖先」の名称として、最終共通祖先(LUCA : Last universal common ancestor)、コモノート、センアンセスター、プロゲノートなど、いろいろなものが提案されています。意味するところも、重なっていたり、異なっていたりします。ここでは、LUCAと呼ぶことにします。LUCAは、もともとはバクテリア(細菌のこと)や古細菌、真核生物が共通の祖先から進化してきたと考えた時のものですが、「共通祖先」として用います。

 LUCAなどの研究から、もっとも原始的な生物の性質として、好熱(45℃以上、時には80℃以上)の条件で生育し、遺伝子の数もDNAも小さいと考えられます。低温より高温のほうが、化学反応が活発に起こりますが、あまりにも高温だと形成される有機物が限定されていきます。

 環境としては、高温の熱水が冷たい海水(数℃)に噴き出すようような噴出孔を考えると、どんなに高温の熱水(例えば500℃)であっても、周りの海水が冷たいと、500℃から数℃までの温度の範囲をもった領域ができ、適切な条件のところが、化学合成が進めればいいわけです。広い温度範囲であれば、多様な化学合成が可能かもしれません。現在の海水の条件では、溶存成分が少なくて生命の合成はできなくても、地球初期であれば、溶存成分の多い海水も想定できます。

 また、原始の地球では、形成時のエネルギーがまだたくさん内部に蓄えられていたはずなので、現在よりもっと活発に火山活動が起こっていたと考えられます。海洋では、海嶺や火山などでは、多数の熱水噴出孔があったはずです。

 地球のエネルギーを用いた化学反応で、生物としての必要最低限の素材を利用して生物が誕生したと考えるものです。その後、当時としては、地球でもっとも安定した環境でもあった深海の海水中で、進化していったはずです。それがLUCAです。

 ここまでの考え方は、地球初期を想定した条件に斉一説に加えて、生命の「はじまり」が考えられてきました。ところが、最近、地球初期の条件を重視して、その条件に固有の環境から生物が誕生したと考える研究がでてきました。斉一説の適用より、境界条件の変更して、まったく異なった誕生の場が考えられました。

 地球初期にあったと考えられる少々特異な岩石と水との化学反応と、濃度の高いウラン鉱床の近くの熱水溜まりで、放射壊変の熱エネルギーを利用して、化学合成を考えていこうとアイディアです。

 このような新しいモデルの背景には、CPR群と呼ばれるバクテリアの仲間の実態が少し解明されてきたことがあります。2015年の報告で、これまでの方法では把握できないバクテリア系統群が大量にいることがわかってきました。

 CPR群とは、詳細がわかっていない生物ですが、遺伝子サイズが小さく、通常の生物がもつ化学合成の遺伝子を持たず、特異なタンパク質の合成をおこなっています。

 そんなことから、他の生物に依存して生きているらしいことがわかります。しかし、かなり多くの種類数に登る(15%以上)こと、他の多くのバクテリアと近縁であることから、特異な孤立した生物群ではなく、多くの生物と関連をもつことが考えられます。最近、日本にある白馬地域で、蛇紋岩地帯から湧き出ている温泉に、CPR群が伴われ、その中に「白馬OD1」と呼ばれるものが見つかっています。この生物の研究から、LUCAに近いのではないと提案されています。

 日本の白馬の温泉という卑近な場の正体不明のバクテリア群、ウラン鉱山、最初の生命という、想像を越えた連鎖から面白い仮説が展開されています。身近なところから、新しい学問体系が生まれつつあるようです。

 一方、LUCAの誕生について、一連の反応で生まれたのではなく、いくつかの生物の前段階のものの組み合わせでできたと考える仮説もあります。生物の前駆的物質に何度かのウイルス感染を通じて、LUCAができたと考える、ウイルス進化説と呼ばれるものもあります。本当に多様な仮説があります。

 さらに、疑問もあります。生物の「はじまり」が、ひとつ生命のタイプに収斂するのでしょうか。もしかすると、複数の、あるいは多数のLUCA類似のものがいて、生存競争や突然変異、共生(ウイルス感染)などを繰り返しながら生まれたかもしれません。まさに混沌とした「はじまり」ではなかったかという疑問です。それを、どう実証していくかは問題ですが。過去に起こったことで、直接の証拠が入手できない時代の話しです。


・ラニーニャ現象・

真冬日が続く北海道では、1月下旬に雨が降りました。

最も寒い時期ですので、驚かされました。

しかし、翌日にはまた真冬日になり

道路だけんでなく、あちこちが、

つるつる、ガリガリに凍りつきました。

目まぐるしく変わる天候です。

昨年夏から続いているラニーニャ現象の影響でしょうか。


・コロナ対策下での入試・

1月下旬から2月上旬にかけては

私立大学は、入試のシーズンとなります。

今年は、コロナ禍で入試もいろいろ制限を受けています。

国公立大学で、筆記試験を実施しないという

ところもいくつかでてきました。

我が大学は、ルールに則って、

コロナ対策をしながら、試験を実施します。

そのため、教室数が多くなり、

試験対策の人数も多く必要になります。

まあ、致し方ないことでしょうね。

2021年1月1日金曜日

228 不特定一人のために To the interest few

 明けましておめでとうございます。今年、最初のエッセイをお送りします。エッセイをはじめた頃の初心を振り返りました。そして、心を新たにして取り組む決意をしました。


 今年のはじめのエッセイは、"To the happy few" という言葉について考えていきます。スタンダールの小説「赤と黒」と「パルムの僧院」の作品の最後に書かれている言葉として有名です。訳すと「幸せな少数の人へ」となるでしょうか。最後に書かれているので、この本を読でくださった人が、「少数 few」かもしれませんが「幸福 happy」になれたら、という気持ちで「献辞(けんじ)」を捧げたのではないでしょうか。

 この言葉、献辞として書かれているようですが、その意味を考えていきましょう。少々不思議な書き方がされているのですが、意味深いものです。

 献辞とは、その本を特定の人に捧げるために書かれるものです。個人の名を示さなくても、ある特定の人に感謝を述べたり、捧げたりするものです。ただし、本の内容に関わった人に礼を述べるときは、「謝辞」として「序文」や「あとがき」の中で示されていくことになります。ですから、スタンダールのこの言葉は献辞となるはずです。

 この言葉は、献辞に見えるので、誰かに宛てたものになりそうなのですが、"few" という不特定で少数の人に宛てられています。この点が、少し奇異なことになります。もう一つは、献辞は、一般には本の最初に置かれるもので、最後に書かれていることも、少々奇異に見えます。

 この言葉が気になったのは、私がこの月刊エッセイ「地球のつぶやき」をはじめる時に、同じような気持ちを持っていたことを思い出したからです。

 「地球のつぶやき」をはじめる前に、スペシャル版として不定期に7回エッセイを発行した後、2002年2月から毎月1回定期発行するメールマガジンにしました。スペシャル版は、定期発行できるかどうかを試すための助走期間でもありました。

 そのスペシャル版の購読者とのメールのやり取りを通じて、メールマガジンを配信する対象がはっきりと定まりました。その時の経緯を振り返りましょう。

 2001年10月23日に発行した特別版エッセイ「special3 分類と類型」の中で、読者のKojさんとやり取りをしていたのですが、その経緯を了承を得て掲載しました(エッセイの本文はホームページに掲載されています)。Kojさんも、あるメールマガジンで、自身のエッセイを配信されていました。お互いのメールマガジンを購読していたことをきっかけに、メールで連絡を取り合うようになりました。

 その時、私は、「不特定の一人のために」エッセイを送ることを意識するようになりました。関係している部分を再録します。

(注)なお「」でくくった部分は、お互いのメールの中の文章を意味します。読みやすいように一部修正を加えています。


【以下、再録】

・不特定一人のために(Kojさんへ)・

 Kojさんの書かれるエッセイは、量も多く、なんといっても内容が硬派な感じがします。欧米の知識人が書くようなタイプの科学的文章のようです。私もそのようなものを書きたいと望んでいるのですが、なかなか難しいです。でもそのKojさんのエッセイが、定期的なものから不定期のものになりました。残念だったのですが、それを惜しみながら、メールをやり取りしました。

 Kojさんは、「小出さんがおっしゃっていたように、そのときそのときの取り組みを精一杯やっておくべきで、そこから何かが生まれて、さらに発展してゆくのだと思います。人と人とのつながりは絶対に無駄になることはないですし。」「人の心は生き物なので、変化していきますが、それにともなってネットワークも変化してゆくかもしれません。でも、つながったまま変化してゆく。ネットワークも生きていますね。生きている心やネットワークは思い通りにならないこともありますが、その分思いがけない変化をして発展してゆくかもしれませんね。それがまた面白かったりして。」とおっしゃいました。

 それに対して、私は、「そうですよね。だから、多くの人の声が、私の活動の支えとなっています。私は、一人に向けても可能限り時間をかけて説明することにします。心に感じるところがありました。」と答えました。

 このようなメール交換のあと、私は、メールマガジンを、「不特定一人のため」に出すことにしました。その結果の一つが「地球のつぶやき」でもあるのです。そして、頂いたメールに対しても、そのつもりで対応していきます。

【以上】


 これから、新しい月刊「地球のつぶやき」エッセイを、「不特定一人のため」に発行することにしました。スタンダールの言葉、"To the happy few" を使わせもらうと、"To the reading few" となるでしょうか。その意味は、「読んでいただいた少数の方へ」というものになります。でも、やはり "To the happy few" の方が、より良いですね。

 スタンダールは、この言葉を使った意図は、現在となっては想像するしかないですが、いつか探れる情報があるようです。

 スタンダールは、小説がまだ売れていない不遇の頃、友人宛てた書簡で、「今、自分が出版しようとしている『イタリア絵画史』を皇帝ナポレオンに捧げたい。しかし、それがどうしても不可能ということであれば、その代わりにこの書物の巻頭に To the happy few という言葉を置きたい」と書いているようです。

 実際のこの言葉が世に出たのは、それから10年後の「赤と黒」でした。そしてこの言葉は同じものですが、ナポレオンに捧げられたものかどうかはわかりません。もし捧げるのなら本の最初に掲載するはずなのに、本の最後に掲載されています。10年という時間の経過と、本の最後という点で、ナポレオンではなく、この本を読み終えた読者に対し、幸せや楽しいと感じた少数の読者に捧げたのだと考えたくなります。そう考えたほうが、この言葉がより輝くのではないでしょうか。少数というところには、日本的な謙譲の姿勢があるのしょうか。

 私は、科学教育の実践として、地質学の解説について週刊エッセイ「地球のささやき Earth Essay」を発行しています。それでは、わかりやすさを旨としています。ですから、「不特定一人のために To the happy few」がふさわしいもでしょう。

 この月刊エッセイ「地球のつぶやき Monolog」を発行しているのは、違う目的があります。少々長くて、そして少々難しいエッセイでは、「不特定一人のために」という対象を定めました。地質学に関連するエッセイですが、哲学的思索とその発信の意図を持って書いています。

 地質哲学という新しく難解な内容になりそうなエッセイですから、それを最後まで読んでくださった読者は少数でしょう。さらに面白いと思っくださった読者はもっと少数になるでしょう。

 ですから、このエッセイをはじめる時に持った対象となる読者へ、スタンダールに倣って、感謝の意味を込めて、今後のエッセイの最後に「不特定一人のために To the interest few」掲載していくことにします。

 年頭に初心を思い出しました。


・初心不可忘・

初心忘るべからず、という言葉は

古くから用いられているものです。

世阿弥「花鑑」の中に

「当流に万能一徳の一句あり。初心不可忘」

という言葉があります。

能の修行のために使われたものですが、

諸般に通じる戒めの言葉でしょう。

人は、長い時間が経過すると、

どうしても最初の心を忘れしまいます。

このエッセイは2001年9月から発行していますので、

今年でちょうど20年目に当たります。

その節目で、初心不可忘としましょう。


・Kojさんへ・

いつの頃からかKojさんとやり取りはしなくなました。

現在は、Kojさんの状況も掴んでいません。

以前、解説されていたサイトを探したのですが、

もう閉鎖されており、近況もわからず連絡もとれません。

ネット上の付き合いだから、連絡が続けていないと

仕方がないのかもしれません。

Kojさん、もし、このエッセイを読んでおられたら

連絡をいただければと思います。