2016年1月1日金曜日

168 ミネルヴァの梟は、いつ飛ぶのか

 2016年の年頭にあたり、「ミネルヴァの梟」という言葉に関連して、ひとの知恵について考えました。自然科学と人文科学との違いに端を発し、私の考えは、二転三転していきました。そんな思考の流転を紹介していきましょう。最終的には、ひとつのところに落ち着きましたが。

 日本ではあまり梟(ふくろう)を重視していなかったようなのですが、アイヌの人たちは、梟を守り神としています。アイヌ神話では、天神と地神が、この国を統治する神をどうするか、と悩んでいたところに、梟が飛んできて、目を瞬きました。神々はそれで気づいて、沢山の神々を生み出したというものです。そのよな神話に基づき、アイヌは梟(シマフクロウ、コタンコロカムイ)を守り神として大切にしています。アイヌの彫刻にも、梟がよくモチーフに用いられています。我が家の玄関に、4匹の梟がかかっています。
 ヨーロッパでは、梟は知恵の象徴とされています。それをもとに重要な言葉が生まれました。「ミネルヴァの梟」という言葉です。まずは、その語の意味を考えていきましょう。
 ローマ神話にミネルヴァ(Minerva)という女神がいます。この女神は、詩や知恵、技術・職人(医学、製織、商業工芸)などを司っていました。ギリシア神話のアテナという女神に対応していると考えられています。ローマでは、かなり信奉されていたようで、「千の仕事の女神」(goddess of a thousand works)と呼ばれていました。ミネルヴァは、知恵を司る女神でもあったので、古くから彫像などの芸術作品にもなったり、欧米の教育機関や政府、協会、公共機関の紋章や勲章などに取り入れられています。
 ミネルヴァの聖なる動物が、梟(ふくろう)とされていました。その影響でで、西洋では梟は知恵の象徴でもあるとされています。ミネルヴァとともに梟が描かれることも多かったようです。
 西洋では、そのような知的背景があり、それをもとにした有名な言葉として、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」というものがあります。これは、ヘーゲルの「法の哲学」という著作の序文に書かれた文言です。本文に入る前に、哲学とは何かを語っているものです。ヘーゲルのいう哲学とは、「理性的なものの根本を究めること」といっています。当たり前のことをいっているようです。続けて「現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものをうち立てることではない」といいます。ものごとの現実的な本質を考えていくということです。
 そして、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」という言葉が用いられます。なかなか含蓄のある言葉なのですが、ヘーゲルは、「哲学はもともと、いつも来方が遅すぎるのである」といいます。そして、「現実がその形成過程を完了して、おのれを仕上げたあとで初めて、哲学は時間のなかに現れる」としています。哲学は現実より遅く、現実が終わってしまった後に、哲学が現れるといいます。それを象徴した言葉として「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」と表現したと考えられています。哲学は現実の本質を把握するためのものなに、現実が終わってしまったあとにできてくるものなのです。自己矛盾をしていように見えますが。
 哲学(知恵、学問)は、時代を総括するものです。ひとつの時代が終わる時、古い知恵が黄昏を迎える時、梟が飛び立つのです。時代に固執しすぎれば、教条的になっていく恐れもあります。梟は活動時間のはじまりである黄昏に飛び立つように、時代の束縛から解き放たれ、新しい知恵を求めるためだ、という解釈もあります。
 ミネルヴァの梟は、哲学者の言葉です。哲学や人文科学は、人の思考や社会の営みから重要なものを抽象していくものです。この言葉を聞いた時、自然科学では、知識や知恵に対して、違った見方、取り組み方をしているので、ミネルヴァの梟は、違った行動をするのではないだろうかと考えました。それでは、どんな行動になるのだろうかと考えました。
 自然科学は、自然から規則性を抽象していくものです。知りたいひと(科学者)の欲求や目的に応じて、自然から知識をえようとします。知りたいことがあれば、目的に応じた手段を用いて、なんらかの知識や知恵を抽象しています。それを公開していくことが、科学の営みといえます。それは、科学の新しい時代や分野の始まりであろう、爛熟期であろうと、衰退期であろうと、過渡期であろうと、新しい情報や知見が継続的に積み上げられています。ミネルヴァの梟は、いつも目を見開いて、知恵を吸収していくのではないでしょうか。梟に寝ている暇がなく、忙しく思えました。
 ここまで考えてきた時、いやいやもっと深く考えると、違ってくるのではないかという思いに至りました。自然科学にも大きな転換期があることに気づいたのです。新しい知識がたくさん積み重なっていくと、従来の原則では説明できないことがあり、それを説明するとき、大きな転換期が訪れるというものです。質的変化やコペルニクス的転回、パラダイム転換などと呼ばれているものです。この考えを取り入れると、実は過去の集積の後に大きな視座の変化が起こります。そんなときミネルヴァの梟は飛び立つのです。パラダイム転換期は、古い分野の黄昏と呼べるのかもしれません。
 さらに、自然科学にかんする深い思索も、やはりヘーゲルのいうように、「いつも来方が遅すぎる」といえそうです。ですから、自然科学の知恵を司る梟も、やはり黄昏に飛び立つのでしょう。
 梟は昼も目を見開き、黄昏にはやはり飛び立つのです。ミネルヴァの梟は、自然科学では、なかなか忙しいようです。
 ヘーゲルはいいます。
 「理性的であるものこそ現実的であり、
 現実的であるものこそ理性的である。」
と。さてさて、理性と現実、なかなか難しい課題です。

・今年もよろしく・
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年も、いろいろ考えたことを
書いていきたいと思います。
このエッセイは、私にとっては、
いろいろな考えをまとめたり、
新しいことを考える時のきっかけに
利用されてもらっています。
私は考えるという行為を、
基本的に一人でおこなっています。
考えをまとめる前に、まとめる途中で、
人に聞いてもらうという行為は
いいきっかけになっています。
そんな場に、今年もしていきたいと思います。
よろしければ、
今年もお付き合いをいただければと思います。

・自分の歩み・
齢を積み重ねるに連れて
少しずつ、肩から力が抜けていくようです。
その意味は、
自分の決めた道を、
自分の歩き方で、
自分の足で、
急がず、焦らず、
しかし休むことなく、淡々と
進むことだと
思えるようになってきということです。
今年もそのように歩みたいと思っています。