2005年2月1日火曜日

37 石ころの還元論(2005年2月1日)

 多様な石ころの中にも共通する何かがあります。石ころの共通性を探る考え方に、還元論というものが役に立つと考えています。石ころに対して、還元論的な見方で考えていきましょう。

 石ころには、いろいろなものがあります。まったく同じものというものは、決して見つかりません。同じ質の石ころがあったとしても、形や大きさが違うでしょう。形が同じでも、石ころの質やつくりがどこか違うはずです。ぱっと見ただけでは違いがわからなくても、よく見たり、虫眼鏡で見たり、顕微鏡で見ると、きっと何らかの違いが見えてくるはずです。石ころは、実に多様です。
 もし、何の前提もなく、たくさんの石ころを与えられ、2つに分けなさい、といわれたら、どうするでしょうか。
 ある人は、数を重視して、正確に半分に分けるでしょう。また、ある人は、数だでけでなくて、大きさも重視して、大きいものから順に並べて、数がちょうと半分のところで、大きいものと小さいものとに分けたとしました。他にもいろいろな分け方ができるでしょう。形、色、模様、つくり、重さ、手触り、など、いろいろと分ける基準があるでしょう。これらの分ける基準は、集められた石ころという集合に対して、なんらかの共通する性質や特徴に基づいて、分けられたものです。
 これらは非常に簡単でわかりやすい基準です。この石ころの集合に対しては、それぞれ根拠のはっきりした分け方であるといえます。しかし、同じ集合を用いても、人それぞれによって分け方が違ってきます。これは、仕方がないことなのです。なぜなら、石ころ自体に、境界線がないからです。このような分け方を人為分類といいます。
 ある石ころが、白い鉱物と黒い鉱物からできているとしましょう。その白と黒の鉱物の量比は、0から100%の範囲でとりえます。ですから、原理的には、鉱物の組み合わせによっては、灰色にも城に近いものから黒に近いものまで境界なくとりえます。もともと石には境界がないのです。ですから、人為的にどこかに境界を置いて、それを区分の目安とする方法です。
 それに対して生物は、人がどう考えようが、種(しゅ)というものがあり、どんなに姿かたちが似ていようとも、別種になることもあります。逆にどんなに姿かたちが違っていても、同種ということがあります。このような分類体系を、自然分類といいます。
 石ころに対しては、人為分類で分けるしかありません。いってみれば、人それぞれで、勝手な分け方が可能であるということです。しかし、それでは、知識を積み上げていく時に困ります。何らかの分類の仕方があったほうがいいと考えられます。できれば、誰もが納得できるようなものが必要です。
 そのためには、石ころの本質に基づいた基準がいいはずです。それも、誰でも納得でき、特別な道具などなくても、ぱっと見て使える方法が望ましいはずです。でも、実はそんな便利な分類方法はありません。これが、石ころの難しさでもあり、面白さでもあります。石ころとは、なかなかどうして奥深いものです。
 いい分類方法がありませんといって開き直っているわけにはいきませんので、なんらかの方法を考える必要があります。この際、見分けるのが少々大変でも、本質的な分け方を採用しようというのが、次善の策です。
 形や大きさ、重さなどは、もともと同じ崖にあった同じ質の石ころが、砕かれる途中に、たまたまそのようなものが違っているに過ぎないかもしれません。もしかすると、形や大きさ、重さなどは、同じ石ころが、変化の過程において、さまざまな要因によって、偶然に多く左右されながら、たまたま得た属性かもしれません。ですから、そのような偶然性をはらんだ属性に基づいた分類方法は、あまり本質的でありません。
 では、どのような方法が本質的でしょうか。そのときに使われているのが、石ころの起源に基づく方法です。石ころの起源は、大きく3つに分けられています。マグマからできたもの、石ころが砕かれてできたもの、ある石が高温や高圧などの条件で別の石にかわったもの、の3つです。マグマからできたものは火成岩、石ころが砕かれてできたものは堆積岩、ある石が高温や高圧などの条件で別の石にかわったものは変成岩です。
 このように分けていけば、理屈の上では、本質的な分け方であるといえます。しかし、実際に野外で石ころをみたとき、その石ころがどのような起源であったのかを、即座に判断するのはなかなか困難なことです。地質学者でも、見慣れていない石だと、判断できないときがあります。特に、粒子の細かい岩石では、難しいことがあります。
 野外で即座に利用できない困難さがあるのに、なぜ、起源を石ころの分類の一番本質的なものとして使っているかというのは、上で述べたように、石ころは人為分類しか使えない対象だからです。
 本質を見ていていくときに、変化しやすい、移ろいやすい性質は、ばっさりと切り捨てていくのです。そして、最後に残った性質を、分類の基準としています。そのときには、本質的性質という観点で、取捨選択をしていますので、どのような石が多いかとか、どこにあるのかなどという副次的な属性は切り捨てられていきます。また、野外で見分けやすい、使いやすいなどいうきわめて人間的な要求は却下されていきます。
 そして、最後に残ったのが、火成岩、堆積岩、変成岩という3つの区分だったのです。分類基準としてさまざまなものがある中で、より基本的と考えられるものだけにしぼり、使ってきました。このようにある本質的な要素に着目して、そこから考えを始める方法を、還元主義、あるいは要素還元主義と呼んでいます。
 もちろん、この火成岩、堆積岩、変成岩という3つの区分だけでは、少なすぎますから、つぎの段階として、細分がされていきます。そのときも、それぞれの分類のなかで、より本質的と考えられる方法でなされていきます。しかし、細分化していくにしたがって、研究者ごとにさまざまな考え考え方が生まれます。これは、人為分類ですから、仕方のないことなのです。
 ここで終わらず、さらに還元主義を進めていきましょう。
 火成岩は、マグマが固まったものです。マグマとは、液体です。火成岩とは液体から固体へと変化したものといえます。ここでは「液体起源岩」とでも呼びましょう。もちろんこのような呼び方の専門語はありません。私の造語です。では、同じような視点で他の2つ分類区分を見てきましょう。
 堆積岩は、ある岩石が風化や侵食によって砕かれ、移動して、集まったものが、再び固まり岩石となったものです。どんなに砕かれたとはいえ、固体の石が集まったものが、堆積岩です。ですから、固体が再編されて新たな固体へと変わってきたものが堆積岩といえます。つまり、固体から固体への変化です。「液体起源岩」に習えば、「固体起源岩」というべきでしょう。
 変成岩は、ある岩石が地下深部で、高温になったり、高圧になったり、あるいは高温高圧になって、溶けることなく、別の石に変わっていくものです。ですから、固体から固体への変化となります。やはり「固体起源岩」になります。
 起源による3つに区分は、液体から固体になった火成岩「液体起源岩」と、固体が変化して固体になった堆積岩、変成岩の「固体起源岩」との2つに分けられます。この2つの分類体系も、還元論的には、より進んだ分類方法といえます。
 さらに進めましょう。「固体起源岩」である堆積岩と変成岩について見てきます。変成岩も堆積岩も、元の固体を問いませんでした。どんな岩石もいいわけです。元の岩石は、火成岩、堆積岩、変成岩のいずれかのはずです。もし、元の岩石が火成岩なら、「液体起源岩」という別の分類体系の岩石にたどり着きます。もし、堆積岩か変成岩のいずれかであれば、「固体起源岩」にたどり着きます。では、その固体起源はなにからできているのということを問い続ければ、やがてはすべて「液体起源岩」にたどりつきます。
 つまり、地球上のすべての岩石は、「液体」つまりマグマを起源としているわけです。でも、そのマグマは、「固体」つまり岩石が溶けたものです。「液体」か「固体」か、どちらが先かという問題に発展します。これでは、「ニワトリとタマゴ」のような水掛け論になってしまいます。還元論が水掛け論になっては無意味です。
 しかし、石ころの場合は、答えが出せます。地球の起源にまで遡れば、答えにたどりつきます。
 地球の誕生とは、小さいな石ころが衝突、合体をしながら、大きな惑星へと成長してきました。そして、地球形成時の衝突が激しかったため、地球表面の岩石が溶けてマグマの海ができるほどの状態を経験しています。つまり、地球表層の岩石を問題にするなら、マグマ「液体」から始まったのです。地球全体を問題にするなら、地球の起源物質である石ころ「固体」から始まったとなります。
 さらに地球の起源物質を遡ることも可能ですが、それは、もはや地球外、あるいは地球誕生以前という別の舞台での話となります。違ったカテゴリーでの話です。石ころの分類を還元的にたどるのは、ここまでにしておきましょう。
 さて、還元論と分類ということに戻りましょう。還元論的に分類を深めていくのは、ある一定のところで止めておかなければ、役に立たないものとなります。たとえば、ある石ころの集合が、火成岩だけからできているとすると、「火成岩とは基本的な分類なので、もうこれ以上分類できません」という立場は、分類を放棄することになります。ですから、還元論に基づく体系ではなく、より、細分する分類体系へと進むべきなのです。
 何事も、ほどほどに、中庸がいいようです。

・読者への感謝・
 この「Terra Incoginita」という月刊のメールマガジンを始めて、もう3年がたちました。このメールマガジンを通じて、私は、地質学的な素材や考え方を深く推し進めることによって、哲学的思索へと入れないかと考え、書き続けているものです。
 もちろん、十分に深まってない内容、テーマもあったことでしょう。ある時は、独善的なものもあったかもしれません。でも、月に一度、どんなに忙しくてもこのメールマガジンを書くとき、私のライフワークたるべくテーマとして選んだ「地質哲学」に対する自分の進捗を振り返ることになります。ある時は曲がりになりにも歩んでいるのだという自覚、またある時にはその歩みがあまりにも小さく遅いことを反省していることもあります。いずれにしても、私の研究のバロメーターとして見ることができます。
 原稿用紙10枚程度の分量を目安に書いているのですが、これほどの分量になると、ある思いつきだけで書くことはなかなか難しいものです。書く以前に何らかの思索をしています。そんな思索がある程度できていると、半日ほどで一気に書けますが、考えながら書くと何日も書き続けていきます。
 今回の石ころの還元論と次回予定している石ころの弁証法は、以前から考えているものです。ですから、一気に書き進めることができます。もちろん、書きながらも考えを修正したり、自信を深めたり、さまざまな思いを巡らしながら書き綴っています。
 それも、読者がおられるから成立する行為であります。ですから、読者の方に感謝します。これからもよろしくお願いします。