2008年11月1日土曜日

82 生きていた証を残すには:存在証明(2008.11.01)

 生きているということについて、ここ数回のエッセイで考えています。今回は、「生きていた証」について考えていきます。「生きていた証」と「生きている証」は、言葉としては似ていますが、実はその意味には大きな違いがあります。「生きていた証」を残すことの難しさと重要性について考えていきます。

 「80 生きているとは:生命の定義(2008.09.01)」と「81 生命の宿るもの:生命論(2008.10.01)」で、「生きている」ということについて考えてきました。「生きている」とは、生物学的に考えても、なかなか難しい問題でした。そして、哲学的にも同様に難しい問題でした。
 ヨーロッパでは、近世まで、宗教を絶対的なものと考えている社会でした。宗教的な社会では、信仰によってのみすべての「真理」が得られると考えられていました。このような1000年以上にわたる伝統的な考え方は、スコラ哲学として体系化されていました。
 ところが近世になり、デカルトが「方法序説」(1637)の中で、「我思う、ゆえに我あり」(Cogito ergo sum:ラテン語)という言葉に象徴されるように、「自己を確立しろ」と唱えました。ラテン語の「コギト・エルゴ・スム」が有名ですが、実は「方法序説」はフランス語で書かれていました。当時の学術書はラテン語で書かれるのが慣例でしたが、デカルトはあえて母国語であるフランス語で書いたのです。「コギト・エルゴ・スム」は、デカルトの親友のメルセンヌ神父がラテン語訳した言葉なのです。閑話休題。
 デカルトの「コギト・エルゴ・スム」の意味するところは、真理の追究を、人間が本来持っている理性(自然の光と呼んだ)によっておこなうべきだという姿勢を表すものでした。それに共感して、宗教から自己を解き放ち、自己の確立が、この時からはじまったのです。
 では、自己が確立されると、次に何がおこるでしょうか。それは、「自分は何のために生きているのか」という自己の生存の目的が重要になってきます。つまり、自分が「生きている証(あかし)」を求めるようになるはずです。「生きている証」とは、自分の「存在証明」であり、「生きがい」ともいえます。言い換えると、一種の自己顕示ともなります。
 「生きている」とは、物理的、生物学的に考えれば、自分自身のために、自身の肉体を未来においても存続することで、「生」を少しでも永らえる活動といえます。そのためには、食べなければなりません。「食べる」とは、見方を変えると、今の空腹を満たすという意味のほかに、未来に向けて自己の生を永らえるという重い意味もあります。
 人が自分自身を生き永らえるための原動力となるものこそが、「生きがい」と呼ぶべきものではないでしょうか。そして、本当の自己の「生きがい」の発見は、自己の確立から始まるのです。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」には、そのような意味があると思われます。
 「生きがい」が昂じると、自分が「この世」に生きているという証を、他人に示したくなります。自分の「存在証明」は、対外的に社会に対しておこなうのですが、最終的には自分の心における満足感を得るためのものです。「死」が訪れれば、自分の「存在証明」は、無になってしまいます。
 「生きている証」とは、生きている自分自身のためで、個人の生存期間しか保持できないものです。ところが「生きていた証」は、生が過去になってから、つまり当人が死んでからのことです。「生きている証」は、本人の死とともにすべて消えていきます。「生きていた証」は、本人の意志に関わりなく、残ったり消えたりします。そこには、必然だけでなく、偶然も働きます。本人が生きている間に「生きている証」を残す努力をいくらしても、後の時代にまで、「生きていた証」が残るかどうかはわからないのです。
 たとえば、ある研究やある作品などとして「生きている証」が示されたものは、後の時代に「生きていた証」として残るかどうかは、本人には判断できません。同時代の人にも判断できません。その時点で、どんなに「生きている証」が評価されていても、10年後、100年後、1000年後に同じ評価が下されているとは限らないのです。100年前の研究や作品、1000年前の研究や作品で、現代に残っているものが、どれほど少ないかを考えれば、「生きていた証」が残ることの難しさがわかります。
 逆に本人が生きているときに「生きていた証」としての評価が低くても、後の時代にその重要性が高く評価され、歴史に名を残すこともあります。
 ドイツ人の気象学者ウェゲナー(A.L. Wegener, 1880~1930)は、1912年に、「大陸と海洋の起源」のという著書の中で、「大陸漂移説」を唱えました。彼の大陸漂移説の根拠として、大西洋の両岸の海岸線の類似性、氷河や古気候の連続性、南半球の古生代末の化石の共通性などを挙げ、大陸が分かれて現在の位置に移動したことを主張しました。
 現在の科学の基準と照らし合わせても、この根拠は立派に通用するものです。
 大西洋をはさんで南アメリカ大陸とアフリカ大陸の海岸線の形が似ているのは、地図を見れば誰でもわかることです。しかし、当時の地質学者たちは、それは偶然の産物としました。
 また、氷河の痕跡や古気候も、同緯度、似た標高であれば、氷河はできるし、似た気候帯もできるのだから、それが大陸が移動したという根拠にはならないとされました。
 化石は、当時も重要な根拠でした。化石は、現在でも離れたところの地層を対比するために使われる地質学の基本的な手法でもあります。当時の地質学者も、当然両大陸に似た化石があることを知っていました。しかし、大陸は動くはずもない考えていた地質学者たちは、「陸橋説」で説明していました。
 陸上植物や陸上動物などが移動するためには、陸地が必要です。海で隔たった大陸で似た化石があるのならば、大陸間を橋のように細くてもいいから一時的に陸地つづきであったと考えたのです。そのような陸地の橋を陸橋と呼んだのです。陸橋説は、地質学ではよく使われている説明方法で、実際に一時的に陸続きなっていた地域もあり、実用的でもありました。実際には、大西洋はあまりに広く、陸橋の証拠もありませんでした。当時は海底の情報がなく、消えた陸橋の痕跡なというような反論をすることもできませんでした。
 地質学者ではなく気象学者だというハンディだけでなく、ウェゲナーの不幸であった点は、当時の地質学者が、そろって大陸漂移説を否定するか無視をしたことでした。反論としては、ウェゲナーの漂移説の最大の問題点である大陸移動の原動力が証明できないことが指摘されました。ウェゲナーはマントル対流を理由としてあげていましたが、証拠がなく説得できませんでした。
 ウェゲナーは、大陸漂移説が評価されることなく、1930年におこなったグリーンランドの5回目の調査中に遭難して、50歳で死にました。翌年遺体が見つかりました。ウェゲナーの死とともに、大陸漂移説は正当な評価を受けることなくこの世から忘れ去られたのです。
 ところが1950年代に、プレートテクトニクスの出現によって、ウェゲナーの大陸漂移説は復活し、評価されました。今では、当時ウェゲナーを批判した多数の地質学者の名前は歴史から消えましたが、ウェゲナーの名前は歴史に残り、今も彼の書いた「大陸と海洋の起源」は再出版され、何度も翻訳され、多くの人に古典として読まれています。
 ウェゲナーの「大陸と海洋の起源」は、自分が生きている間は、非難の矢面に立たせる「生きている証」であったのです。しかし、「大陸と海洋の起源」を書いたからこそ、彼は「生きていた証」として蘇ったのです。同じ本が、ウェゲナーに時間経て批判と賞賛の両方を与えたのです。
 「生きていた証」は意図して残ることはできませんが、「生きている証」は意図して残すことはできます。生きている人間にとって、「生きている証」を残す努力はできるのです。人間社会において「生きている証」を残さないことには、「生きていた証」として残る可能性はゼロに近いのです。もし、「生きている証」を残せば、そこには、「意図しない評価」が生じることもあります。だから、私たちは、対外的に自分の「存在証明」を残し続けていかなければならないのです。
 ところが自然界は、意図しされた存在証明などありません。そこには意図されない存在証明しかないのです。古生物学という学問は、過去を探る手法として、化石を用います。古生物学では、過去の生物の一部を「生きていた証」として用いて研究をしていきます。化石は、生物が生きていたという証拠になります。生物の死が、科学の素材となるのです。しかし、化石なった生物は、意図して死んだわけではありません。でも、その死が無駄になることなく、存在証明として、私たちの科学で蘇ったのです。死が資料として、本人は「意図しない評価」が生じるのです。古生物学とは、死の蓄積の上に築かれているのです。化石の元になった生物の死は、古生物学にとってなくてはならないものとなっています。
 化石は、生物が、その時代に、その地で、生きていたという存在証明です。存在証明こそ「生きていた証」なのです。

・累々たる死・
以前、私は自然史博物館に勤務していました。
博物館には、恐竜の化石、大きなアンモナイト化石、
動物の骨格、剥製、植物の押し葉標本、昆虫の標本など
わくわくするようなものがいろいろありました。
もちろん今も展示されています。
考えてみると自然史博物館とは、死の蓄積、展示所ともいえます。
見事な死体が、子供たちや市民に、
昔の不思議な生物、現在の多様な生物を教えてくれるのです。
展示場でそのような状態ですから、
収蔵庫は、もっと死が満ち満ちています。
累々たる死の山が、彼らが生きていた証として
科学を進めているのですね。

・秋も終わり・
北海道は、いよいよ秋も終わりに近づいてきました。
近隣の山並みにも、初冠雪がありました。
通勤途中の道から、白くなった山並みを見ることができました。
里でも、冷たい風が吹くようになってきました。
例年、札幌市内では、10月下旬から11月上旬に初雪が観察されます。
もう11月ですから、いつ初雪があってもおかしくない状態です。
朝夕の通勤で寒さがこたえるようになって来ました。
冬のコートを着なければならないほど
冷え込みに強くなりました。