2012年3月1日木曜日

122 ラーゲルシュテッテンと価値観

ラーゲルシュテッテンとは、大地のある露頭に対するに対する地質学から与えた称号といえるものです。地球への感謝を込めて、地質学者が贈ったものです。ところが、地質学者の価値観は、ひとつの見方に過ぎません。立場が違う人には、別の価値観があります。そんな価値観の違いを、ラーゲルシュテッテンから考えました。

 だれもが、むやみに乱開発をすることは、よくないことだと思っています。悪意をもっておこなうことは、誰が見ても悪や罪といえます。しかし、行為者側にも「それなりの事情」もあっての開発、破壊なのかもしれません。開発者側にとっては「それなりの事情」とは、生活基盤、明日の糧のためかもしれません。
 開発者の「それなりの事情」とは、地質学者にとっては理解しがたい経済的事情かもしれません。どんなに重要な露頭であっても、守れないことによって、生活できなくなる地質学者はいないはずです。
 人類の知的資産を守るために、後世に残すために大金を使うのは、納税者や多数の利益を考えたとき、必要以上の負担を不利益を与えるかも知れません。納税に四苦八苦している人にとっては、露頭などに税金を使うのは、無駄遣いにしか見えないかもしれません。
 価値観は人によってさまざまです。全員の満足、同意を得るのはなかなか困難なことです。そんな場合、妥協的な解決が各所でなされます。仕方がないことなのもしれません。妥協案とは、価値観の違うものを「痛み分け」で解決することかも知れません。
 以前訪れたカナダの田舎で、町のゴミ捨て場であったところが、地質学的に重要な露頭であることがわかりました。それで、あわててゴミ回収をするということになりました。費用がどこから出たのかは知りませんが、もしその費用を、その地の住民が負担することになったら、反対する人がいたかも知れません。一部の者、外部の人しか利用しない、ほんの小さな露頭を守るために、関係のない自分たちの税金が使われるのです。余裕がある人の住んでいる豊かな町であったらいいのですが、その地域はそうはみえません。どうなったかはもうわかりませんが、考えせられた記憶がある。
 今まで、自由にもしくはある目的で使っていたものを、ある日突然、保護するということになれば、それなりの負担を関係者に強いることになります。このような負担の根源は、価値基準の違うものを比較して判断していることに由来しているのかもしれません。通常は、基準の違うものを、比較することはしません。今回の場合のように、社会では、強いてしなければならないことがあります。そんなことを、「ラーゲルシュテッテン」から考えたときでした。
 「ラーゲルシュテッテン」という言葉を、ご存じの方は少ないと思います。地質学者でも知らない人がいるかもしれません。ドイツ語のLagerstätteの日本語表記です。本来ならラーゲルシュテッテとすべきですが、複数形のLagerstättenを用いて、ラーゲルシュテッテンが用語となっています。
 LagerstätteのLagerは「大きい」という意味で、stätteは「場所」を意味します。地質学の用語では「鉱床」という意味で使われています。鉱床という日本語がありまし、英語でも「ore deposit」という用語を使います。
 地質学では、今でもラーゲルシュテッテンという言葉を使うことがあります。英語でも、Lagerstätteがそのまま使われています。同じ意味を、英語では、「exceptional fossil preservation(例外的な化石の保存)」、「extraordinary fossil completeness(異常に完全な化石)」などと表現していますが、定まった言葉ではありません。ニアンスも少々違う気がします。やはり、英語でも、Lagerstätteがふさわしいのです。
 ラーゲルシュテッテンの意味は、「化石が濃集している場所」です。ただ、化石が多いだけではなく、化石の保存状態がよく、個体数も種類も豊富でなければ、ラーゲルシュテッテンにはなりません。そのようなものにだけを、ラーゲルシュテッテンと呼びます。研究においても重要な場所という意味もあります。ラーゲルシュテッテンとは、地質学における、露頭に対する一種の称号といえるのかもしれません。
 保存状態のよい化石とは、生物の生前の状態を、よりよく残しているものです。ラーゲルシュテッテンでは、一つではなく、多数の化石が産出するところです。もちろん化石ですから、生きたたままの状態が保存されるということは、一部の例外を除いてありえません。化石だという前提での保存状態を意味します。ラーゲルシュテッテンというのは、稀なことです
 その稀さかげんは、例を挙げるとわかりやすいでしょう。
 恐竜が死んだとしましょう。通常であれば、肉は残ることはないでしょう。なぜなら、死後に他の生物に食いあさられるからです。ラーゲルシュテッテンでは、個体がそのまま残って化石になっているものでなければなりません。生き埋めになるような場合です。また、化石になっても、通常は微生物が肉を分解していき、骨だけになります。骨もやがては溶けて、ほとんどなくなってしまいます。さらに困難なのは、ラーゲルシュテッテンでは、一体ではなく多数、そして複数の種が残っていなければなりません。こんな条件は、非常に稀だと考えられます。
 どのような条件かを考えてみましょう。火山噴火や土石流などによって、大量の生物が、生き埋めに近い状態で埋没しなければなりません。生き埋めされた場所は、微生物などの分解や、骨や貝の溶融をまぬがれるところでなければなりません。そんな都合のよい条件が、本当にあるのでしょうか。
 そんな稀な条件を満たすところがあるのです。地球は偉大です。地球は広く長い時間が流れています。そんな広大さと長い時間を利用して、地球は各地、各時代にラーゲルシュテッテンを残してくれました。
 ラーゲルシュテッテンとして有名なのは、先カンブリア紀のオーストラリアのエディアカラやカナダ、ニューファンドランド州のミステイク・ポイント、カンブリア紀では、中国の澄江、オーストラリアのエミュ・ベイ、グリーンランドのシリウス・パセット、カナダのバージェスなどが有名です。また、ドイツのバイエルン地方のジュラ紀のゾルンホーフェン、同じくドイツのヴュルテンベルク地域のジュラ紀のホルツマーデンも有名です。
 ラーゲルシュテッテンというのは、厳密は定義があるわけでもありません。地質学者が、貴重さからそう呼んでいるにすぎません。もっと地球に感謝の意を込めて、ラーゲルシュテッテンを用いたほうがいいのかも知れません。
 地球は、さらに私達に素晴らしいプレゼントを残してくれました。上で、生きたたままの状態が保存される例外的だといいましたが、その例外とは、コハクの中の昆虫やタール漬けの生物、氷漬けマンモスなどがあります。そこでは、生物の肉の部分も、非常によく保存されています。
 タール漬けのラーゲルシュテッテンとして、新生代始新世のメッセル(ドイツ)や新生代鮮新世のランチョ・ラ・ブレア(カリフォルニア州)が有名です。このようなラーゲルシュテッテンには、生物の肉体をも残してくれているのです。地球に感謝すべきでしょう。
 そんな貴重なラーゲルシュテッテンを、私たちは乱獲することなく、慎重に採掘し、資料保存すべきでしょう。露頭自体も保存すべきです。現在の技術で採掘すると、将来新しい技術が開発されたとき、発掘という行為で貴重な情報を捨ててしまうことになるかも知れません。そんな、愚かな失敗をしてしまわないように、露頭の保存もおこなうべきでしょう。そんな重要性を忘れることのないように、ラーゲルシュテッテンという称号を与えるべきなのかもしれません。
 さて、これは地質学者、研究者の立場でラーゲルシュテッテンというものを考えたものです。利害のない人にも、ラーゲルシュテッテンの重要性は理解できるでしょう。今までその化石を商品として販売してた人、別の目的でその地を利用していた人、彼らは露頭の保護によって、実害を被ることがあるかもしれません。
 国際的なラーゲルシュテッテンでだれもの重要だと思えば、国の保証があるでしょう。しかし、国際的なレベルに達していないものは、保護か開発の選択を迫られるでしょう。少数の研究者が、自分たちの研究の便のために、重要などと声高に叫ぶ場合もあるかも知れません。もちろん本人たちは、人類のために、将来への遺産として行動しているのでしょうが。
 これは特別なことではなく、至る所で起こっている問題です。開発と保護は、よくある問題です。妥協的解決ができないとき、誰かが一方的に不利益を被ります。これは、学術と経済、生活、生存、権利などという違った価値観を比較していることによる悲劇なのかも知れません。
 もしかしたらラーゲルシュテッテンや化石に関しては、私の杞憂かもしれません。でかい地球です。私達がまだ採掘していないラーゲルシュテッテンを含む地層が、地下にはまだまだいっぱい埋もれているはずです。それらは、今後も時間さえ経れば、地表に顔を出すはずです。乱獲する無節操な人類がいなくなるまで、次の知的生命が必要とするまで、地球が保存してくれているのかも知れませんね。

・あっという間に・
もう3月になりました。
1月、2月、そして3月はあっという間に
過ぎ去る気がします。
1月は正月や冬休みで、
2月は28日(今年は29日)しかなく、
3月は卒業は春休みで、
短く感じるのかも知れません。
まあ、それをいい出せば、
多くの月で、それなりに
短く感じる理由をあげることができます。
過ぎ去った日々は、早く、短いのでしょう。
そんな日々の速さに負けないためには、
当たり前ですが、
一日一日を大切にいきることなのでしょう。
一日一日を大切に生きることは、
一生を大切に生きることにつながるはずです。
当たり前のことでした。

・教員免許・
私のいる学科の多くの卒業生は
教員のコースをとり、教員免許を手にします。
そのうちの何割かは教員になります。
ただし今春になる人は少なく、
数年かけてもなろうという人が
かなり多くなります。
それでも強い意志があれば
その夢は実現できるはずです。
問題は、強い意志がない人たちです。
彼らは4年生で就職活動ができなかったので、
免許を利用して非常勤や臨時採用の教員になります。
それでも、教員という職業に興味がでてくれば、
教員採用試験に数年かけて真剣に取り組めばいいのです。
もし教員が自分に会わないと思った人は、
別の職種に向かいます。
教員は非常勤や臨時採用でも、
単なるフリーターとは違う扱いになるようです。
それほど教員免許は重いということなのでしょう。
たくさんの講義、実習を経て手に入れた資格です。
有効に利用をしてくれればと思います。