2012年2月1日水曜日

121 乱世の生き方:隠遁者の教え

今の日本の世がどうみえますか。幸せでな世にはみえません。戦争はしていないので平和でしょうし、個人のレベルでも物質的にも恵まれているはずです。でも、幸せ感はどうでしょうか。庶民が幸せと思える時代とは、ほど遠い気がします。でも、人は過去から学ぶことができます。似たような時代を生きた先達から、乱世の生き方を学びましょう。

 日本社会は、3.11以前から乱れていました。こんな乱れた世の中を、あえて乱世と呼びましょう。でも、3.11を境に、乱世の度合いは深まっているように見えます。そんな乱世を、私たちはどう生きればいいのでしょうか。平安から鎌倉の乱世を生きた先人というべき鴨長明の世界観をみていきましょう。彼もまた、先達から学んでいるのです。鴨長明の世界観は、「方丈記」からさぐれます。
  行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
  よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
  世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
(私訳:川は流れは絶えることなく、その水はもとのものではない。よどみに浮かんでいる泡は、消えてはできて長く留まることもない。世にある人と住みかも、これに同じようなものだ。)
 鴨長明の「方丈記」の有名な出だしの文です。高校時代に岩波文庫で原典を読みました。その内容は、正確ではありませんが、おぼろげに理解できました。昔読んだ「方丈記」の中で印象に残った内容は、もちろん上記の出だしの部分です。ほかにも、前半では次々と悲惨な出来事が、紹介されていたこと、後半の隠遁暮らしの様子も、なんとなく印象に残っていました。
 その後も、出だしの文は有名なので、聞くことも目にすることもあったのですが、原著に触れることはありませんでした。先日、「方丈記」を読み直しました。原文ではわからいところは、現代語訳を見ながら、読みました。
 なぜ、「方丈記」を再び読んだのかというと、長明が生きていた時代と、現代が、なんとくなく似ている気がしたからです。乱世を、長明は何を感じ、どのような生活指針を立てたのかを知りたいと思ったからです。長明の文章と私訳、そして私流の解釈をつけて、考えていきましょう。
 長明は、賀茂神社の高い身分の出で、7歳にして、従五位下という高い地位に叙せられます。教養(漢文、詩歌、楽器など)も身につけて、優雅な人生をスタートしました。しかしながら、晩年、神職としての出世の道を閉ざされて、50歳で出家し、隠遁しました。
 長明(1155年から1216年)が生きていたのは、平安時代末期から鎌倉時代にかけての動乱の時代でした。800年ほどの前の時代です。長明が生まれた頃には天皇家や藤原家の抗争が起こり、青年期には武士の台頭による平家と源氏の抗争による戦乱(保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱)が起こります。さらに、自然災害が連続し、疫病や大火も重なり、人心が乱れ、政治も乱れ、すさんだ時代、まさに乱世でした。
 方丈記にも描かれていますが、平治の乱のあと、1166年に京都で大火、1177年に再び京都で大火(安元の大火)、1180年につむじ風(竜巻、治承の辻風)、1181年から2年ほどは全国で飢饉(養和の飢饉)が起こり、京にも餓死者が多数でます。そのために京中には盗賊が横行しました。そして、疫病大流行が流行ります。さらに、1185年には京都で大地震(元暦の大地震)が起こります。20年ほどの間に、つぎつぎと災難が襲います。本当にひどい時代だったことがうかがわれます。
 戦乱、自然災害や人災などの凶事が続きます。それを一新するために、400年も続いた京の都から、兵庫県神戸の福原への遷都がおこなわれます。新しい都では、落ち着かない生活がスタートします。
  ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。
  元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、
  今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。
(私訳:誰もかれも、みんな浮雲のような思いをしている。もともとこの地に住んでいた人は、土地を失くして悲しみ、移ってきた人は土木の煩わしさを嘆く。)
 そして、その年の11月には、再度京都へ遷都という政治の混乱が起こります。疲弊している人民に、さらなる苦労を強いります。今の日本の状況に似ていませんか。当時も現在も、政治も人心も混乱を極めます。長続きのしない指導者、約束を守らない権力者、重要度をわきまえない為政者、私欲に走る強者・・・
 長明も、このような乱世を嘆き、先人の賢者の政(まつりごと)に教えをみます。
  ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代には、
  あはれみをもて國ををさめ給ふ。
  則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。
  煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。
  これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。
  今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
(私訳:伝え聞くところによれば、昔の賢き御代には、憐みをもって国を治めておられた。御殿の茅はふいても、そのすそを整えることはされず、市井に煙の立たないような貧しさをご覧になられた時は、税も徴収されなかった。民に恵み、世をお助けくださったためである。今の世のありさまは、昔に比べて知るべきだ。)
 まさに、今の世に通じる教えではないでしょうか。国の中枢の人たちも言葉だけでなく実のある行動をしてもらいたいものです。肝心の人材がでてこないのは国力の限界なのでしょうか。それとも時代なのでしょうか。知識や技術は明らかに平安時代より現代が勝ります。でも、犯している過ちは同じようなものです。そして、いずれの時代も、しわ寄せは庶民、弱者にいきます。そんな弱者の中においても、その心は正常に機能します。
  さりがたき女男など持ちたるものは、
  その思ひまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。
  そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、
  いたはしく思ふかたに、たまたま乞ひ得たる物を、
  まづゆづるによりてなり。
  されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。
(私訳:離れがたい男女をもっているものは、その愛情の強く、心が深いほうがからならず先に死んだ。それは、我が身を次にしてり、男でも女であっても、不憫に思って、たまに乞(こ)いてえた物を、まず譲ってしまうからである。だから、父子ではかならず親が先に死ぬ。)
 現代に置き換えても、似たようなことが起こっています。津波に追われながらも老いた母を助ける子供、子供を心配して学校に向かい津波に飲まれた親、自分の死を顧みず避難放送を続けた市の職員。語り尽くせないほどの事例があったはずです。
 母親が子どもを守るために必死になって放射能から逃れようする様を、利己的、不評被害という人もいます。被害者と加害者(津波、原発の放射能)を間違えている報道も多くあります。理性の通じない、まさに乱世という時代になっています。
 科学や技術がいくら進んでも、人の知性や行動は進歩していないようです。800年くらいでは生物は進化しないのでしょう。
 そんな乱世に、鴨長明はどう生きたのでしょうか。長明は晩年、隠遁(いんとん)生活に入ります。政争に敗れたためでしょうか、それとも世をはかなんででしょうか、京都の東山で隠遁生活をします。長明、50歳の時です。
 隠遁生活は、今の人には不可能かもしれません。方丈記によれば、従者もいず、蓄えもなく、小さな庵で暮らします。野山でその日の食料を調達しながら暮らしていたようです。採取による自給自足の生活だったのです。最低限の食料で一人で生きていたようです。豊かな山があったからこそ可能なことなのでしょう。当時、飢饉が起こること、人々は山に入って餓えをしのいでいたようです。
 長明の家の広さは、方丈(3m四方)、高さは七尺(2m余り)、東にひさしをつけてその下で柴を燃やして煮炊きをしていました。権勢を誇っていたころは、10倍、100倍の広さの家に住んでいたようですが、小さな小部屋のような庵で満足していました。葉を開いた蕨(わらび)を敷いて寝床としています。質素極まりない生活です。
 神職の出でありながら出家していますので、阿彌陀(あみだ)や普賢菩薩像、法華経をかざり、日々読経をして過ごします。農作はしなかったようです。経験がなく、土地もないためできなかったのでしょうか。方丈記の記述によれば、山菜や木の実をとって、時々托鉢(乞食とも呼ばれる)に出て暮らを立てていたようです。
 そんな質素な隠遁生活のなかでも、また文化人として楽しんで暮らしています。竹の吊り棚に黒い皮行李を3つおいて、和歌・管絃・往生要集などの抄物を入れ、箏(しょう)と琵琶もおいてあります。それらを楽んでいたのでしょう。
 時間があれば、あちこち散歩に出かけてたようです。近くの家にいた10歳の子供とも時々遊んでいたようです。孤独で質素ですが、豊かな時間が流れているように見えます。
  心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。
  今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。
  おのづから都に出でゝは、乞食となれることをはづといへども、
  かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。
  もし人このいへることをうたがはゞ、魚と鳥との分野を見よ。
  魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。
  鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。
  閑居の氣味もまたかくの如し。
  住まずしてたれかさとらむ。
(私訳:心が安かでないのならば、どんな宝物でも意味がなく、宮殿楼閣も望みとはならない。いまのさびしい住まい、一間の庵を、私は愛している。時として、都に出ては、乞食をすることを恥じてはいても、帰ってここにいるときは、他の人が俗塵にまみれていることを憐れに思う。もし、人が私のいってることを疑うのなら、魚や鳥のことをみよ。魚は水に飽きないが、魚でないものにはその心はどうして知ることができよう。鳥は林を願うが、鳥でなければその心は知れない。閑居もまた同じだ。住まずして、だれが悟ることができるものか。)
 一人の質素な生活ですが、ただ生きるためだけでなく、精神の拠り所、そして生きがい(趣味)などをもって暮らしていることが想像できます。まさに、「人は食うために生きるにあらず 生きるために食うなり」を実践しています。そして、すさんだ世にあっても、長明には心の安らぎがあったようです。それこそが生きるために必要なもののようです。
 さて、翻って、現代の私たちはどうでしょうか。長明の生活と比べれば、物質的には恵まれています。便利さ、快適さ、安全さは比べるべくもないでしょう。現代人の自宅には、持てるものが多くあります。そんな持てるものを切ることができないのが、不幸の始まりかもしれません。欲というべきでしょうか。
 豊かさ、便利さ、快適さ、安全さを求めても、尽きることがありません。常に飢餓感が生じます。政治や乱世を批判しても、安らぎは訪れません。豊かさを追求してもキリがありません。最終的には不満が残ります。心の安らぎは、自分の心の持ちよう、心の置き方によるものです。豊かさや貧しさなどの比較ではなく、自身の心の安らぎを見つけることこそ大切だと、長明はいっている気がします。
  月影は入る山の端もつらかりきたえぬ光を見るよしもがな
(私訳:月の光が入る山の端も恨めしく思える。絶えぬ光を見つづけることはできればいいのだが)
 この歌の「月影」は「豊かさ」の象徴に、私には思えます。

(注)原文は、青空文庫から引用しました。また、その解釈は、私が独自にしているので、間違っているかも知れません。ご容赦ください。

・揺るぎないもの・
長明の生活は、自身にすれば、
本当に質素で慎ましいものであったのでしょう。
しかし、当時の庶民からすれば、
贅沢といはいえないまので、
豊かなものではなかったのではないでしょうか。
3m四方の家とは、6畳分ほどの広さです。
そこに書物や楽器をおき、読経をしながら暮らせるのは、
幸せだったのでしょう。
一人暮らしで、乞食をしてもそれなりに得るものが
あったのかもしれません。
長明からすると権勢を誇った頃と比べれば、
清貧の暮らしでしたでしょう。
そこで心の安らぎにたどりついたのでしょう。
当たり前の結論かもしれませんが、
苦労の末えたものは、揺るぎないものでしょう。

・人の無力さ・
寒波は全国的にあったでしょうが、
北海道も、何度も大雪と寒波に見舞われています。
北海道でも大雪には苦労します。
古い家では、雪下ろしをしないと
潰れることもあります。
また、一定量以上積もったら
除雪もしないと交通が遮断してしまいます。
昔と比べれば、家も除雪もよくなりました。
しかし、いまだに大雪にはとまどいます。
いくら技術は進んでも、
激しい自然の前には、
人は無力であることを
教えてくれているのかも知れませんね。