2002年4月4日木曜日

03 学について(2002年4月4日)

 「学」について、考えます。「学」はマナブではなく、ガクの方です。学が必要か、不要かについて、ここ数年、悩んでいます。つい最近まで、私は不要と考えていたのですが、「学」があった方がいいのではないのかと考えるようになりました。今回は、「学」について考えます。
 ことの起こりは、私が書いた論文からでした。私は、地質学を研究しながら、教育、それも自然史教育というものも研究しています。その内容については、別の機会にして、自然史教育に関する考えを一連の論文として発表していたのですが、関連する学会のシンポジウムで講演した時のことです。
 その時まで、私はあまり意識せず、「自然史学」という用語を使っていました。それに対して、ある人から質問を受けました。「自然史」は、英語で、natural historyといいます。それでは、「自然史学」はどう英訳するのですか、という指摘でした。「学」をどう英語に反映するのかということでした。
 その時の答えは、「no idea」でした。しかし、考えた後の判断は、「学」のあるなしは、英語には反映できない、というものでした。だから、自然史に関しては、「学」を付けずに、「自然史」で統一しようと考えました。それ以降、私の論文では、「自然史」という用語で、「自然史学」という意味も、文脈で読み取ってもらうということにしました。ずっと、そういう用法を守ってきました。
 論文の査読で、何人かの人に、「自然史」に、「学」を付けたほうがいい場合があるという指摘をされたことがありました。しかし、その場合は、以下のような説明をしていました。
 「自然史」の英語表記、natural historyという用語には、「自然史」と「自然史学」の両方の意味がある。私は論文では、「自然史」をnatural historyと同様の使い方をしている。したがって、意味としては、「自然史」と「自然史学」両方の意味の場合があるが、私の論文では英語表記にならって、「自然史」に統一した。という回答をしてきました。そう説明すると、査読者は、この説明を納得して、受け入れられてきました。そして、何篇かの私の「自然史」と書いた論文が印刷されました。一応、学会的にも、この「自然史」という使い方は、小出風かもしれませんが、認知されたということになるわけです。
 このような事例は、いくつかの用語であります。英語のgeologyも、「地質」と「地質学」の両方の意味で用いられています。例えば、「日本の地質」と「日本の地質学」とは、全く違ったものを指します。「日本の地質」は、日本列島がどのような時代の岩石や地層からできているかを記述したものです。一方、「日本の地質学」とは、日本の地質学という学問の歴史や特徴を記述したものになります。
 どちらも英語にすれば、Geology of Japanで表すことができます。あえて、後者用にStudies(あるいはResearches)of Japanese Geologyというような使い方をすれば、区別することが可能です。これでも、両方の意味に取ることも可能です。これは、geologyという用語に、「学」のある、なし、両方の意味があるために生じる混乱といえます。文脈によって判別できるのですが、論文や本の題名となる時は、注意が必要です。
 Physicsも物理と物理学の両方の意味を持ちます。しかし、chemistryとbiologyは少し違います。Chemistryは、化学という一通りの訳で、学のありなしの両方に使います。つまり、英語の同じ用法です。Biologyは生物学だけに用い、生物としてはlifeやorganismなどという別の単語があります。
 つまり、英語も日本語も「学」のある、なしが、概念として統一されているわけではないのです。ということは、慣例にしたがって用いればいい、あるいは自国の言葉でわかりやすいよう表現すればいいということになりそうです。
 言語は、それぞれの国や民族の長い時間、歴史を背景にしています。ですから、2つの言語の完全に1対1の対応をした翻訳や訳語は在りえないはずです。日本語の意味を英語に訳すとき、日本語では一つの単語で済むのに、英語でその意味を表すには長い言いまわしが必要なこともあります。逆のことだってあるはずです。でも、これは、文化の違いだからしょうがないことなのです。でも、文化の違いさえ認めれば、すむことなのです。長たっらしい言いまわしにこそ、異聞化の接点を見出すべきでしょう。
 そして、話しは、再び、自然史にもどるわけです。そもそも自然史は、自然の記述と、自然史という学問の二通りの意味を持つ用語でした。しかし、私は、英語を意識しすぎたため、自然史と自然史学の二通りの意味を、自然史という一つの用語に請け負わせようとさせました。しかし、これは少し不自然で、無理があったわけでした。Geologyに対して、「地質」と「地質学」の2つの日本語が用意されたように、natural historyにも、「自然史」と「自然史学」の2つを用意してもいいのです。これは、今まであまり意識されず、行われてきた方法です。
 私は、まだ、それらを区別した論文は書いていません。このエッセイを書きながら、考えをまとめつつあるため、このエッセイが最初の区別する文章なのです。多分、私は、今後、これらを区別しながら、使い始めるでしょう。そして、私の論文を読んだ人の多くは、その変化に気づかないでしょう。なぜなら、「学」を必要に応じて付けたほうが、自然で、すんなりと読めるはずだからです。
 今回は、「学」を付けた場合と付けない場合は、意味が違うのに、英語では一つの用語でしか使っていないという、ごくありふれた言語の相違について考えた。結局は、それぞれの国の言語でいいように使う、というごく当たり前の結論になりました。

・尊敬される「学」・
「学」は、あるべきか、なくてもいいか。
それは、問題です。

エッセイで述べたような「学」の使用の場合は、
用語として意味が違う場合には、「学」はあったほうがわかりいいと思います。

単純に「知識」という意味の「学」は、あったほうがいいでしょう。
ただ、あっても困りませんが、必要以上に時間をかけて覚えこむのも考えものです。
読者の方も、受験時代に興味のない科目の暗記に、
苦労された経験があるかと思います。
このような事前の暗記による知識も、それなりの効用はあるのですが、
必要に迫られた時や興味のある時に、覚える知識は、同じ暗記でも身につきます。

一方、「教養」に類する「学」は、あった方がいいと思います。
これは、リテラシーと呼ぶべきものだと思います。
リテラシーのような「学」は、単に知識の過多ではありません。
知識はなくとも、「学」のある人はいます。
優れた職人や優れたビジネスマンは、学歴や暗記や教科書のような知識がなくても、
人を惹きつけ、尊敬を得て、リーダシップを発揮します。
それは、充分な経験によって「学」を身に付けたためではないでしょうか。
リテラシーのような「学」は、経験や個性、生き方に裏づけされた
人格や人間性にまで及ぶもので、社会生活では非常に重要です。

では、そんな「学」は、どこで、誰に教えてもらえるのでしょうか。
あるいは、どうすれば身につくのでしょうか。
それが、わからないのです。
多分、どこでも、だれでも、「学」は、身につけられる可能性があるはずです。
ただ、それをなしうるのは、ほんの一部の人だけです。
そんな「学」を身につけた人が少ないから、尊敬に値するのでしょう。

我、まだまだ、「学」成り難し。

・表示方法・
メールの表示法について、いろいろ考えたのですが、
やはり、現状の方法で表示し、配信します。

それは、いくらインターネットとはいえ、文体があります。
このエッセイのような内容は、細かく分かち書きをするより、
段落を明瞭にしたほうが、論旨を汲みやすいと考えます。
もちろん、多くの改行をして分かち書きをしたほうが分かりやすい文章もあります。

また、苦情のない多く人は、もしかすると、
この文体の方が、読みやすいかもしれません。
それに、印刷して読みたい人もいるかもしれません。
そうすると、書籍や新聞の文章のよう、段落がはっきりしたほうがいいと思います。

もし、見づらい人は、メーラーの表示で、文字を大きくするか、
印刷で文字を大きくするかして下さい。
ただし、レターの部分は、できるだけ改行を多くして、見やすくしかます。
御了承ください。