2006年5月1日月曜日

52 循環からの脱出:生命の起源(2006.05.01)

 ニワトリと卵から生命の起源を考えてみましょう。はたして、どこで、どのように結びついているのでしょうか。そこには、不思議な論理と複雑な歴史があります。

 ニワトリと卵はどちらが先か、という問いがあります。ニワトリが先だと答えると、ニワトリは何から生まれるかと聞かれます。すると、卵と答えるしかありません。だから、卵が先ということになります。では、その卵はどうして生まれたかというとニワトリが産むということになり、ニワトリが先という答えになります。これは、同じ質問がぐるぐると回って、決着を見ないことになります。議論が同じところをぐるぐる回っているので、循環論法といえます。
 この循環から脱出するには、循環に入りこんではだめです。ちょっと視点を変える必要があります。時間の流れによる変化や、生物の進化というものを考えていくと、話は変わってきます。
 ニワトリと卵をもう少し上位の概念で考えていきます。ニワトリは子孫を残すことのできる生物と考え、卵は卵という形態から成長する生物とします。これらのどちらが先かという質問に置き換えてみましょう。
 生物の特徴の中で、子孫を残すことは重要なものです。生物とは子孫を残すものいってもいいくらい重要な属性です。ですから生物というものが地球に誕生したときから、子孫を残すという性質をもっていたはずです。逆に、物質が子孫を残せるような機能を持ったとき、それを生物の誕生といえるのかもしれません。
 初期の生物は、自分自身が2つに分裂することで、子孫を残してきました。その方法は自分自身とまったく同じコピー、分身をつくることでもありました。ところがこれでは、まったく同じものがそのまま子孫になります。ですから、環境の変化があると子孫を残せなかったり、他の生物の生存競争に負けると子孫を残すことはできません。これは、生物全体にとっても、いい方法とはいえません。
 まったく同じものを子孫とするだけでなく、時々違ったものが生まれてくる仕組みも組み込んでおくほうが有利となります。それのような変化が蓄積されれば、祖先とは違った種類のものとなりえます。これを進化といます。子孫を残す方法に、このような進化のメカニズムが組み込まれました。
 その後、子孫を残す方法として、同じ種でも別の個体と生命の設計図というべき遺伝子を交換しあうことによって、変化や多様性を生む方法がとられました。現在の細胞分裂で増えるような生物でも、苛酷な環境になってくると、遺伝子を交換をすることがあります。これは、進化を促すためのメカニズムといえます。
 やがて、恒常的にオスとメスという区別をもって生きる種がでてきました。オスとメスが遺伝子交換をすることを前提とした子孫を残す方法です。有性生殖とよばれるものです。ある生物は、合成した遺伝子を卵という形態にして、産むようになりました。すると子孫の量産ができ、生存競争に有利に働きます。
 このように生物の進化をみていくと、ニワトリと卵を象徴するものとして、「子孫を残すことのできる生物」と「卵という形態から成長する生物」がどちらが先かという見方をすれば、ニワトリが先という結論になります。このような視点を変えることで、循環からの脱出をはかることができました。
 では、そのニワトリつまり生物自体はどのようにして誕生したのでしょうか。この問題は長く議論されてきました。宗教や哲学としてではなく、科学として答えを探っていきましょう。
 現在、多くの支持を得ているシナリオは、次のようなものです。
 初期地球の深海底の熱水噴出孔が、生物誕生の舞台です。化学反応によって生物に必要な有機物が形成されます。その中に、ある有機物や分子だけを取り入れ、いらない分子を外に出すという膜ができました。
 その膜の中で、生物としての機能を持つたんぱく質かあるいはRNAが入り込みます。もし、膜の中にたんぱく質が先に入ったなら、多様なたんぱく質の中にRNAをつくる機能を持つものができ、膜の中でRNAが形成され、生物として活動します。またRNAが先なら、RNAはたんぱく質をつくる重要な機能を持っていますから、膜の中の有機物からRNAの機能によってたんぱく質がつくられます。
 いずれにしても、このような化学的な合成段階を経て、つぎに膜が2つに分かれて、増えるという機能を持ちます。その増える機能に、進化するという機能も加えられたとき、生物が誕生したといえます。あとは、増殖と進化によって、多様で複雑な生物が生まれ、多様な環境に進出していきます。
 進化によって生物は、大規模な環境変化があっても、どれかが生き残れば、時間さえかければ、多くの場所にまた進出して元通り生物のあふれる環境となります。このような繰り返しが、地表の広く分布し、多様性を持つ現在の生物になったと考えられてます。
 これは、いってみれば一番ポピュラーな生命起源のシナリオです。これに対して、まったく意表をつく説があります。パンスパーミア説 (panspermia)と呼ばれるものです。胚種広布説と訳されています。
 パンスパーミア説とは、地球の生物は、別の天体から飛来したという説です。誕生の場が地球ではないというのです。ちょっとSF的で信じられないかもしれませんが、科学者がこの説を考えたのです。
 パンスパーミア説は、古くはアルヘニウスが 1908年に提唱しました。最近では、現在版パンスパーミア説というものも提唱されています。パンスパーミア説は、生物は地球外から飛来したというものですが、現在ではその内容は多様で生物の地球外起源説の総称としてパンスパーミア説が使われています。
 パンスパーミア説の起こりは、パスツールの実験がきっかとなりはじまります。
 パスツールは1861年の「自然発生説の検討」という著書で、発酵という作用が微生物の増殖であることを示しました。さらに、牛乳などを熱することで、その中の微生物を殺すことができること(加熱殺菌法とよばれます)を知りました。それまで微生物は、いつでも自然の中で発生していると考えられていました。その考えを否定した、フラスコを使った有名な実験があります。
 フラスコの口を白鳥の首のように長く伸ばし、ほこりが入らず空気だけが出入りするような装置を作成しました。加熱殺菌した肉汁をそのフラスコの中に入れます。長い時間、置いていても、そのフラスコ中の肉汁からは何も発生しませんでした。この実験によって、生物の自然発生説が否定されたのです。そして、今まで自然発生に見えていたものは、細菌によるものであることを示しされました。
 パスツールの研究によって、生物が自然にできることはないということがわかったため、生物の起源が謎となったのです。それを打開するために、地球外に生物の由来を求め、パンスパーミア説が生まれました。
 現代版のパンスパーミア説として、DNAの2重らせんの発見者であるクリックらが1973年に、他の文明生物が地球に生命を打ち込んできたという考えを示しました。ホイルらも1973年に、彗星で発生した生命が、地球に降ってきたという説を出し、今も地球に降っており、病原微生物の一部は地球外生物が含まれていると考えました。
 多くの説は、根拠が不充分であったり、実証されてなかったりで、信頼性が低いのですが、パンスパーミア説は否定されているわけではありません。
 なぜなら、太陽系は、宇宙ではごくありふれた化学成分から構成されており、元素組成に特異性は見られないことから、地球外生命も似たような元素組成でできているかもしれないのです。地球外知的生命が、タネが育ちやすい天体として地球を選び、送り込まれたとしても区別できないのです。
 1996年、マッケイら火星起源の隕石から生物の化石を発見したという報告が出て、大騒ぎになりました。もし火星に生物が発生したなら、地球でも生物はできる可能性もありました。あるいは、それが火星固有の生物なら、火星の生物が地球に飛んできたかもしれません。誰もが認めている火星起源の隕石があるのですから、もっと小さな微生物が火星から飛んで来ることは可能なはずです。現在のところ、火星生物は否定的ですが、今後の火星探査が待たれます。
 火星に生物が見つかっても、パンスパーミア説が否定されたわけではありません。実は、パンスパーミア説を論理的に否定することは難しいのです。証明することは簡単です。証拠を一つでも見つければいいのです。ですから、常にパンスパーミア説は、可能性として残ります。しかし、科学者は地球での自然発生を前提として研究しています。なぜでしょうか。
 そこで、ニワトリと卵がの考え方がでてきます。もし、本当にパンスパーミア説が正しく、地球生物の起源が他の天体だとしましょう。すると、「その生物の起源は」という問いになります。それも他の天体から由来した可能性があるということになり、「その生物の起源は」という問いが永遠と続きます。しかし、宇宙にはビックバンという始まりがありますので、どこかで生物の起源があったことになります。それは、宇宙の誕生のころにあった天体ということになり、それは遠く今は亡き天体ですので実証できそうもありません。それが真実であっても、生物の起源は謎となってしまいます。
 科学ではそんな実証できそうもない謎は扱えません。それなら、実証できる可能性のあるものとして、地球での生物の自然発生を前提として考えることにします。同じ可能性として、パンスパーミア説と地球起源説があるのなら、実証性のある地球起源説をとるわけです。もし、地球起源説で多くの証拠を集めることができれば、パンスパーミア説の可能性はゼロにすることはできなくても、相対的に下げることができます。こんな論理から、生物誕生のシナリオが生まれているのです。
 科学者は、今日も、ニワトリがどうしてできたかを、実証しようとして、研究を続けているのです。

・峠越え・
5月といえばゴールデンウィークです。
ゴールデンウィークを皆さんは、
どう過ごされるでしょうか。
私は、3日から4泊5日で道東の調査に出ます。
移動距離が長く、十分な時間が取れないので、
あわただしい調査になりそうです。
ポイントだけ見るようにして、
道東を急ぎ足で駆け抜けることになります。
しかし、なんといっても心配なのは、雪です。
今年の春は寒く、いつまでも雪が降っています。
4月下旬にも大雪のニュースがありました。
道東行くには、どうしても、北海道の中央部を南北に走る
山脈を越さなければなりません。
その峠には雪が降る可能性があります。
先日車のタイヤをスタットレスから
ノーマルタイヤに変えたばかりです。
調査の都合上、北の方の峠を越えなければなりません。

・しらふの論理・
ニワトリと卵の話をしましたが、
これは非常に2つのものの間を行ったり来たりする単純な例です。
もっと複雑なものがいろいろあります。
循環するのが5、10個となると
もう循環であることが分からなくなります。
酔っ払いの話はこのような複雑な循環をよくすることあります。
まして飲むたびに同じ話題になって循環すると
それは、酔っ払いの繰言となります。
まともな論理でも、一方通行のような流れに見えても、
どこかで循環していることあり、それを見落としていれば、
その論理の流れが正しいかどうか、怪しくなります。
そんな論理の流れを見抜くことは、なかなか大変です。
しらふであるだけではダメで、冷静に論理的でなければなりません。
論理とは、なかなか大変ですね。