科学的でないことと科学的なことは、論理的に考えれば見分けられるように思えます。しかし、その境界は必ずしも明らかではありません。仮説に反例が出た時、素直に認める姿勢、修正していく姿勢が問われます。
朝のワイドショーや雑誌などでは、星占い、星座占いなどが今でも紹介されています。血液型による性格区分が会話のきっかけにされたり、星座なども話題にされることがあります。占いの指示に従った結果、うまくいったとか、危険を回避できた、などの経験をした人は、占いを信じてよかったと思うでしょう。
多数の人間を数個の区分で分類すると、同じ属性をもったことになったり、同じような運命をたどったりするのは、あまりに大雑把過ぎます。もっと多様性があるはずです。そのような単純な区分にもとづく考え方は、多くの人が「あやしい」と思っているでしょう。しかし、そのような真偽を気にせずに、ついつい聞いてしまい、気にして、従う人もいるのでしょう。これらは、科学的に考えればあやしそうなことも、世の中には流布することがある例といえるでしょう。
科学的ではないことは、非科学、似非科学、疑似科学などと呼ばれていますが、ここでは非科学としましょう。
科学に携わってきて長くなりますが、科学は面白いから、続けれられているのだと思います。自然科学に従事していると、自然の中にみられる不思議を見出して、なぜだろうと興味を持ち、その不思議の理由を知りたい、謎を解き明かしたいと考えます。自身で解き明かした時の喜びは大きく、記憶にも残ります。苦労や労力、時間に比例して満足度も大きくなるようです。
ところが、非科学であっても、それに従事している人は、興味を持ち、大きな労力をかけて為しているはずです。そこには科学者と同等、時にはより多くの満足感をえているかもしれません。結果の享受に関しては、科学であれ非科学であれ、同様に感じることになります。
従事している人の気持ちでは、科学と非科学の判断できないようです。科学的な判断は、人の感性や主観ではできないことになります。科学と非科学とを見分けることは、どうすればいいのでしょうか。
これは、線引き問題(境界設定問題、境界確定問題)と呼ばれ、なかなかむつかしい問題となっています。なぜ問題になっているのでしょうか。科学は証拠や論理によって積み上げれたものです。正しさは保証され、検証されているはずです。しかし、すべての科学の法則や規則には、論理的な問題があるのです。
自然科学では帰納法によって法則や規則などが抽象されていきます。帰納された法則や規則は仮説ですので、演繹法によって検証されていきます。検証の結果から、仮説が間違っていることがわかれば、修正されたり破棄されたりします。この作業を繰り返してよりよい法則や規則としていきます。この方法が、仮説演繹法と呼ばれ、現在の自然科学の一般的なものとなります。
仮説演繹法によって示された仮説は、検証される前の仮説よりは、よいものになっているはずです。カルナップは、意味のある命題(科学的な命題)とは、経験(演繹)によって確からしさが増す可能性がなければならないという、規準を示しました。自然科学の仮説演繹法はそれに則ってます。この仕組みが導入されているかどうかが、科学と非科学を区分されるでしょう。しかし、仮説演繹法をとっている非科学も多数あります。
仮説は、検証された範囲で確かさは保障できますが、それ以外のところでは、正しいことが検証されていません。自然界のすべてで検証することは不可能です。ですから、どこかに仮説に合わないものがあるかもしれません。
自然科学では、帰納法から抽象した仮説が、暗黙に「すべての・・・」という前提のもとに、語られていきます。このようなものを、論理学では「全称命題」と呼びます。全称命題は、母集団が限定されていれば、検証可能ですが、母集団が限定できない、できても調べることが不可能な自然界では、検証不能となります。帰納されたどんな科学的な法則や規則(仮説)も、全称命題となるため、検証の不能性となります。これが論理的問題です。
反例がひとつでも出てくれば、その仮説は否定されることになります。つまり、科学的手法自体に、論理的に正しいことを示せないというジレンマ、論理矛盾を抱えているわけです。実際に反例や仮説の否定された事例が、科学では多く知られています。
例えば、天動説から地動説へ、ニュートンの古典力科学から相対性理論へ、地向斜造山運動からプレートテクトニクスなど、大きな仮説(パラダイム)の転換が起こりました。また、生物学でも、無生物から発生(自然発生説)の否定、遺伝の発見、DNAという遺伝物質の発見などでも、それ以前の仮説が大きく変更を迫られました。
しかし、どんなに新しく、どんなによいパラダイムであっても、科学的仮説である限り、全称命題で表現されるので、検証不能性が残ります。どうすれば、いいのでしょか。カール・ポパーは、科学的仮説には、間違っていることが証明される可能性がなければならないという「反証可能性」を提唱しました。科学的仮説では、反証できる個別命題も示せるものもあり、現在まだ検証できない条件や現状の条件では偽となっているにすぎません。この反証可能性により、非科学的仮説の何割かは引っかかるでしょう。ただし、科学的仮説も否定されてきました。
反証が出ない限り、あるいは反証が出るまでは、仮説は有効です。科学的仮説は、いつまでたっても仮説のままでいることになります。反証可能性も、仮説を演繹的に検証するための方法となり、新規性、創造性をもっていません。仮説を否定するための方法にすぎず、生産性はありません。これは自然科学の仮説がもっている宿命的欠陥です。反証可能性を示した非科学もあるでしょう。そうなれば、反証されるまでは、その非科学も利用されていくことになり、科学と対等になります。そこに再度、線引き問題が現れてきます。
線引き問題は解決不能の宿命です。しかし、ポパーの反証可能性は、仮説に対する、科学者としての姿勢を示したとみるべきでしょう。現在の科学的仮説は不完全なので、反証可能性を常に意識して科学に従事していること、時には仮説を反証する努力もすること、そして反証がでたときよりよい仮説を生み出す機会到来と考えること、次なる仮説に向けて努力していくこと。論理に生きる科学者として、そんな姿勢が必要です。しかし、そんな姿勢を貫く勇気、これまでの仮説を捨て去れる勇気が問われています。それこそが、線引き問題の解決方法かもしれません。
・師走・
もう師走に入りました。
11月中は校務でバタバタしていたため、
師走への年中行事も気持ちが向かいません。
例年だとおこなっている年賀状の準備として
宛先の整理や文面なども全く手つかずの状態です。
12月にも校務がいろいろ押し寄せてきます。
まあ、まだ時間はあります。
順番にこなしていきましょう。
・最終講義・
来年度は非常勤として少し講義を担当しますが、
今年度で大学教員が最後になります。
先日、最終講義について開催形式や
日時の問い合わせがありました。
講義期間外に実施してもらうことにしました。
できるだけ大学の行事と重ならないような
日程を選びました。
どんな講義内容にするのかを
これから考えていくことになりますが、
研究者として過ごしてきた
ライフヒストリーとして語ろうと考えました。
内容を作るのになんとなくワクワクしています。
次々とアイディアが湧いてきます。
このワクワク状態を
しばらく楽しんでいきたいと思っています。