2025年2月1日土曜日

277 デカルトの哲学の木

 デカルトの「哲学の木」という言葉があります。著書の本文ではなく、序に当たる書簡に書かれている比喩です。この比喩は、デカルト哲学の全体像を象徴しています。


 デカルトは、近世のはじまりと告げる偉大な哲学者とされています。著書の中でも、「方法序説」が最も有名ですが、正式の書名は「みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)」となっています。
 以前、この「方法序説」を興味深く読みしましたが、関連した文献を見ていくと、いろいろ興味深い哲学者であることがわかってきました。デカルトについて調べたことを紹介していきます。
 デカルトの「哲学原理」の中に「仏訳者への著者の書簡―序文にも役立ち得るー」に、次のような記述があります。
「哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します、即ち医学、機械学および道徳、ただし私の言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるとこの、最高かつ最完全な道徳のことです。」(岩波文庫、1964年 桂寿一訳)
ここでの喩えを、「デカルトの哲学の木」と呼んでいます。
 デカルトの時代は、現在の学問体系とは少し異なり、名称も違っています。もっとも根本にある学問を「形而上学」としています。形而上学とは、感覚や経験ではとらえられず、理性によってでしか認識できない普遍的な真理を探求する学問です。普遍的な真理としては世界の根源、人間の存在理由など、アリストテレスが「第一哲学」と呼んだものです。
 「形而上学」を基礎(根)にして、「自然学」が幹となるといいます。「自然学」の上に、医学、「機械学」、そして「道徳」が枝となるといいます。
 「形而上学」は共通した訳になっているのですが、「自然学」と「機械学」については、訳者によっては、異なった術語が使われています。
 「ワイド版 世界の大思想03」の中の「哲学の原理」の桝田啓三郎の訳では、「自然学」は「物理学」と訳されています。デカルトの意図としては、力学的世界観、つまり「基礎的な物理学」を意味しているようです。ただしその内容は、物理学と化学を含み、生物も一種の機械とみなしていることから、広く「自然科学」、あるいは「自然史学」と呼ぶのがいいのかもしれません。
 「機械学」は、桝田啓三郎の訳では「力学」とされていますが、内容として、応用科学となる「工学」や「科学技術」に相当しそうです。「道徳」とは、「他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵」といっていますので、現在では「教養」に当たるかもしれません。
 デカルトは、独自の方法論で一人でこの木の全てを作り上げていきます。方法論は、理性を正しく導くために、明証、分析、総合、枚挙の4つの規則を定めています。「明証」とは真であると証明された前提から進めていくこと、「分析」とは問題を小さな部分に分解し還元していくこと、「総合」とは要素からだんだんと複雑なものへと進めていくこと、「枚挙」とはすべてをもれなく取り上げていくこと、となります。この方法論は、要素還元主義を取り込んだ演繹法といえます。
 明証的な原理に達するまで、方法序説で有名となった「方法的懐疑」で論理を展開していきます。方法的懐疑では、あららゆる疑わしきものは取り除いていきました。そして、最後に残ったのが、第一原理として有名な「我思う、ゆえに我あり」(cogito ergo sum)に達しました。すべてを懐疑しても、「我」だけは残ると考えました。
 デカルトは、第一原理となる「我思う、ゆえに我あり」から、すべての議論をはじめ、4つの規則にもどついた要素還元主義的な演繹法で進めていきす。
 方法序説には、「序説」とされているように、「省察」や「哲学原理」などの議論が網羅的に要約されています。本来であれば、自然科学は、「世界論」として公表する予定であったのですが、ガリレオの宗教裁判があったことを知り、その出版を取りやめました。そして、屈折光学、気象学、幾何学だけを出版することに同意したと書いています。
 「序説」にあった「屈折光学」、「気象学」、「幾何学」の3つは、「世界論あるいは光論」という原稿が実在していました。しかし、ガリレオの影響で、生前は出版されることなく、死後に発行されました。
 デカルトは、たった一人で第一原理からはじめていきます。「省察」では、形而上学的なテーマが、1日ずつの省察(meditation)として考えられていきます。
 上で述べた「方法的懐疑」がまとめられ(第一省察)、「我思う、ゆえに我あり」に関する議論(第二省察)となっています。
 神の存在証明(第三省察)では、デカルトは、「神という名で私が意味するものは、ある無限な、独立な、全知かつ全能な、そして私自身をもーもし私のほかにも何ものかが存在するならー他のすべてのものをも創造した、実体である」としていることから、キリスト教的な神ではなく、自然をつくった存在というように意味になりそうです。
 次に、真と偽に関する判断(第四省察)、物体の本性と神の存在証明(第五省察)、物体の存在と心身の区別(第六省察)となっていきます。
 「哲学原理」は、4つに別れており、「人間的認識の原理について」、「物質事物の原理について」、「目に見える世界について」、「地球について」、となっています。自然哲学とから自然科学にまたがった内容になっていますが、自然科学に関する内容が少しもの足りなく思えます。
 それは、第四部の第一八八節に、
「私はもうこれ以上、哲学の原理のこの第四部に何も書き加えようとは思わない。ただ(始め私が考えていたように)なお二つの部を、すなわち、生物つまり動物と植物と〈の本性〉に関する第五部と、人体〈の本性〉に関する第六部と、この二つだけは私は書きたいと思っているのではあるが、・・・」
と書いているように、初期の構想としては、「動物と植物」と「人間の本性」も書く予定でだったようです。しかし、実験も時間の足りず、出版をこれ以上遅れさせないために、ここまででまとめたようです。
 人間の本性について、後に「情念論」として、死の直前に出版されました。他にも、生きている時は出版できていないものもいくつかありましたが、原稿が残されていたため、後に出版されました。
 こうして概観していくと、デカルトは、当初目指した自身の哲学体系「哲学の木」の全体を、生涯かけて完成していったことになります。素晴らしいことです。今後、デカルトの主要著書を読んでいこうとも思っています。

・第二哲学を・
アリストテレスの第一哲学は形而上学でしたが
第二哲学は自然哲学となり、
今日でいうところの自然科学でした。
デカルトの自然観、あるいは自然科学の体系を
理解するためには、
「方法序説」、「哲学原理」、「世界論」が
重要になってきます。
暇をみて、これらを読んでいこうと思ます。

・私学の入試・
私立大学の入試の最中になっています。
地方会場の入試が担当となっており
出張することになります。
久しぶりの入試での出張となります。
冬の北海道ですから、
交通機関の遅延運休が心配です。
受験生も大変ですが、
主催者のその判断に迷うことがあります。
穏やかに実施できればいいのですが。