人の信念や宗教的悟りのようなものは、なかなか言語化できないものです。それぞれの人の信念や悟りが、同じかどうかを比べることができません。密教では、悟りの探求が、古くからなされてきました。
現在、科学と宗教に関する論文の草稿を執筆しています。そこでは、両者の関係の歴史的変遷と現在の課題をまとめていこうとしています。日本(人)の宗教への寛容さと、多様な文化の受容性、その上での融合力が、対立を回避してきたのではないかと考えています。そんな日本的な宗教観から、不可知のものへの対処が見いだせるのではないかと考えています。
まだ、執筆途中なので、今後、内容や結論は変化していくと思います。日本では、特異な宗教的背景や風土があり、大きな対立もなく、多くの宗教を受容してきことは確かです。
前回のエッセイで書いたように、「冥王代前期」という科学的検証が困難な「不可知」の時代への方法論を模索していました。この論文では、「不可知」の探求が興味の中心となっているのですが、言語化できない真理(悟り)の探求に似ているのではないかと考えています。悟りにたどり着くためのアプローチとして、仏教の密教の思索の方法論が使えるのではないかと考えました。そんな経緯で、現在論文を書いています。
今回のエッセイでは、宗教的「悟り」への興味を、若い時を振り返りながら紹介していこうと考えています。
実家の宗教は、仏教(浄土真宗)の仏壇(金ピカ)があり、過去帳も置いてありました。そして、仏壇の中には、故人の位牌が多数ありました。また、別の部屋には神道の神棚もありました。母は、生前、毎日どちらにも水を変え、ご飯を供えて祀っていました。祖父が健在の時には、神道の儀式らしき、正月の飾りをしていました。いくつかの宗教行事が混在していることが、当たり前として立ち会っていた。
調べると、浄土真宗では、金ピカの仏壇で過去帳をつけるようです。ですが、位牌は真言宗のものらしいです。その仏壇の前で、浄土真宗の僧侶は、檀家の我が家の仏壇でお教を上げて、法名も付けてくれていました。このような折衷が当たり前に存在するようです。
高校生時代、禅宗への興味がありました。自力での「悟り」に憧れがありました。現在では、言語化できな真理への到達方法ということができるでしょう。悟りに至るための手段として、ヨガや坐禅を書籍を通じて、見様見真似で、自己流でやっていました。ヨガは健康のためでもありましたが、坐禅は精神統一やリフレッシュのためもあり、毎日続けていました。
坐禅から、禅宗の悟りへの興味もでてきました。禅宗の曹洞宗では、悟りへの方法論として坐禅をしていたからです。その関連で、般若心経や鈴木大拙の著書などを読んでいました。禅宗には悟りへの方法として問答を中心とする臨済宗もあるのですが、一人で取り組むには、曹洞宗の坐禅による方法がよさそうに思えました。
現在は、科学的探求の限界への対処として、密教の方法論がいいのではないかと考えています。これは、若い時の興味の持ち方とは、まったく別のアプローチからの発想でした。
仏教には、上座部仏教と大乗仏教との2つがあり、上座部仏教が出家や苦行した者だけが救われ、大乗仏教は誰でも救われると説きます。大乗仏教には、顕教(けんぎょう)と密教があり、顕教は仏の教えを現世の言葉で顕せるとし、三密(身密・口密・意密)を通じで本人自身が悟っていこうとするのが密教です。
地質学の研究の延長線で、前述の「検証不能」の「不可知」の時代への方法論と、言語化できない真理探求の方法論には、共通するものがあるように見えます。密教には、「縁起の法」などは、重要な考え方として、「検証不能」の「不可知」への手段として使えるのではないかと考えました。
そもそも私は、自身の考えを言語化するのが苦手でした。口頭よりは文章のほうが、時間をかけてまとめられるので、まだ自分の考えに近いものになっていると思えます。知識や論理的内容であれば、客観性があるので、それなりに伝えたいことが表現できると思えます。
ところが、主観的な内容については、言語として表現することが、今でも困難に感じていました。これは、当たり前なのかもしれません。なぜなら、言語化できない考え、感じ方があるはずです。それを言語化しても、完全に表現できてないように思えることも多々あります。
それは、密教における悟りが言語化できないもので、それぞれの悟りが、同じかどうかもチックできません。言語化しても、本当の悟りとは、異なった表現になっているかもしれないからです。このエッセイも、本当に考えていることがうまく表現できていないなと思いを感じながら、書いています。
・自由な外出の幸せ・
さてさて、7月になりました。
今年も半分過ぎたことになります。
退職して3ヶ月が過ぎました。
前期は週1回の講義となり、
それ以外の6日間は、
研究室で、自分の好きな研究ができます。
時間に縛られることなく、
午前中に集中して、午後には読書
というパターンを作りつつあります。
何より、平日に旅行や街に
出かけられることがいいです。
夫婦で平日に街の施設や公園に
出かけられることに、幸せを感じています。
・のんびりとした旅・
これまで、自分の研究である地質を中心した
野外調査で各地に出かけていました。
春からは、妻も一緒に出かけることになったので
妻がいきたいところを
観光旅行として回っています。
4月は恒例となっている
横浜への帰省にいきました。
義母の墓まりと義父への面会、
ついでに次男とも会食しました。
5月末には沖縄へ、
6月末には羅臼へいきました。
9月には、道央にいきます。
いずれも、あちこち貪欲に回るのではなく、
のんびりと、ゆったりとまわることにしています。
そんなのんびりとした夫婦の旅もいいものです。