常識がなくては生きていけません。しかし、その常識には正しいことも間違ったこともあります。そんな正否を判別してくれるのが科学でです。しかし、科学の知識も使う人が賢くないと思わぬ落とし穴にはまってしまいます。
私は、常識の世界に生きています。私だけでなく、多くの人も常識の住んでいることでしょう。常識のある社会でないと、安全が確保されません。多くの人が常識を持っていることが重要です。しかし、常識には思わぬ落とし穴があります。
常識的に振舞っていれば、安心できます。子どものころから、常識的に生きるように教育されてきました。もしそのような常識のある社会で、自分だけ常識を気にせずに振舞まってしまうと、何かとトラブルを起こしたり、生きづらくなくことでしょう。それに、非常識を取り締まる法律や警察などもあるので、犯罪者にもなりかねません。
人は、大きく常識を外れなくても、常識的に考えずに振舞ってしまった経験があるはずです。そんな時、自分だけが他の人と違い、恥じをかいたり、損をしたりした経験が、常識から外れる損得を教えてくれます。そんな不安にかられるくらいなら、常識的に振舞ったほうがましです。
そんなもろもろのことから、私も含めて多くの人は常識的考え、振舞っているのでしょう。
しかし、その常識が正しいという保障はどこにもありません。もちろん、中には正しさが証明されていることもあるでしょう。しかし、常識的に判断しているとき、深く考えていませんから、そこには思わぬ落とし穴があるかもしれません。
そんな常識の落とし穴を見つけて正していくのに有効なのが科学です。科学は、論理や証拠によってのみ、構築されています。「そう思う」、「皆そうしている」というような日常的には許されていることでも、科学では許してくれません。常識的判断も科学では通じないのです。ですから、ものごとを深く考えるときには、科学的に考えることが有効です。
科学が作り上げている知識体系は、論理と証拠によって構築されたもので、信頼に足るものです。しかし、その知識も間違った運用をすると、とんでもないことになります。刃物、ダイナマイトや核融合は、人類の役に立ちますが、人を傷つけることもできます。科学的知識もうまく使えるかどうかが、問題となります。
それはやはり、知識を使う側である人間が、賢いかどうかでしょう。まあ、大事にいたらなくても、ちょっとしたことでも科学的知識と常識がうまくかみ合わないと、思わぬ落とし穴があります。つまり知っていても、それを運用できなかったり、うまく運用できなければならないのです。
私は、そんな落とし穴に気づかず、間違っていたことに最近気づきましたので、紹介します。ことの起こりは、視覚障害者の方との話でした。
私は、なにかを伝えるとき、もし言葉でそれを伝えることができるのなら、イメージする力さえあれば、視覚障害者だろうが健常者だろうが、同じものを伝えられると考えていました。そして、もし伝えたいものが、実在するものでも、常識的なスケールを越えるものであればあるほど、視覚より重要なのはイメージする能力であると考えていました。その考えは今でも変わっていません。
さて、イメージするとき、具体的な例として地球を用いて説明してきました。地球は大きなスケールなので最適でした。それは、次のような内容からはじまりました。
地球は丸い球になっています。その大きさは半径約6400kmです。非常に大きなもので、その大きさはなかなか想像できません。もし、地球の大きさを10万分の1にすると、大人が両腕を広げて抱えられるほどの大きさとなります。1.6mの人間の身長を10万分の1にすると、0.016mmになり、砂粒より小さくなります。ちなみに砂の大きさは2mmから0.063mmで、砂より小さな0.016mmは、シルトと呼ばれる粘土の仲間になります。
この大きな地球は、岩石と鉄からできます。外側が岩石で、内側に鉄があります。岩石の地球の一番外側にあるのが、地殻と呼ばれるところです。地殻は海では5km、陸でも50kmほどの厚さしかありません。地球全体と比べれば、地殻は本当に薄いものに過ぎません。
さて地殻では、地下になるほど地表の温度変化を受けず、暖かくなります。10mの深くなれば、年中一定の温度なります。しかもその温度は、地球の内部にいくに従って上がります。・・・・
という説明をしていました。ここまでは前置きで、本題は次からです。
健常者に説明するときは、言葉よりイラストを描いた方が分かりやすいので、イラストを用いて説明していました。そして、そのイラストを描くとき、色をどうつけるかで、よく迷っていました。
地球の深部になるつれて、温度が高くなります。ですから、イラストの色をだんだんと濃い赤にしていくべきなのか、それとも赤からだんだん白っぽくしていくのかとなどを、悩んだりしていました。しかし最終的には、実際には地下の岩石の色など見えないのだから、何色でもいいのだと考えていました。
問題はそこでした。地下は暗いところだと思っていたのです。
地下の鉱山や鍾乳洞は、太陽の光が当たることなく、人工の明かりなしでは、真っ暗なところです。これは、多く人が経験的に、そして常識的に知っていることでもあります。そんなところを自由に動き回れるのは、視覚障害者のような光のないところに馴れた人だけだと思っていました。
そこに落とし穴がありました。太陽光のとどかないところは暗い、という常識に惑わされたのです。私達の経験している地下とは、地殻のほんの浅い場所だけです。ですから、ほんの一部の経験や情報を、地球のような大きなもの全体に当てはめるのは、非常に危険であることは、ちょっと考えればわかるはずです。でも、深く考えず、ささやかの経験による常識によって、地中は暗いと思い込んでいたのです。
さらに、科学的知識とも結びつけることができませんでした。
物質は、その温度が上がるに伴ってエネルギーを放射をします。それは、現実には物質の性質によって多少変化しますが、黒体と呼ばれる理想的な物質では、温度と放射エネルギーは相関があります。厳密にいうと、黒体表面の単位面積、単位時間当たりに放出される電磁波のエネルギーは、黒体の絶対温度の4乗に比例するというものです。これは、シュテファン=ボルツマンの法則と呼ばれています。
高温のものは、温度に応じて似たような色の光を発することを、知識として私は知っていました。また、太陽もその原理で温度に応じた光を放射していることも知っていました。しかし、そのような科学的知識が使われず、地下は暗いところという常識で、先入観を持ってしまっていたのです。
自分のほんの少しの経験に基づいた間違った常識をだったのです。そして、その常識が先入観となって、科学的知識を使うことができなくなっていたのです。知恵が足りませんでした。
太陽の光が届かないところでも、温度が高ければ光を放射しているのです。地球内部でも、高温であれば、その温度の応じた放射をしているはずです。ですから、地球内部になるほど明るく色を変えていくはずです。
地殻下部からマントルになると、800から1000度くらいの温度になり、岩石もオレンジ色になります。マントルの深くなると岩石の色は、オレンジ色から黄色、青っぽい色にまでなっていたはずです。地球の一番深部では鉄は6000度にも達します。そこで太陽のようにまばゆさに、目も開けられないほどでしょう。
これが私の気づいた落とし穴です。この落とし穴は、深くなればなるほどまばゆく輝いていたのです。
・移動の季節・
いよいよ4月になりました。
移動された方は、忙しい日々を過ごされていると思います。
私は、大学の学部再編で移動することになりました。
そこに配属され、今までの学部から、
別の学部の新設学科に新しい配属されます。
昨年の夏から予定されていて、
昨年後半はその準備に明け暮れました。
やっと新学科で新入生を迎えることになります。
でもこれからが、私たちの本当の仕事のはじまりです。
・待ち遠しい春・
今年の冬は体調不良の連続でした。
つぎつぎと風邪をひいていました。
重いのを3回、軽いのを2回ほどひいたようです。
今年の冬は雪も多く、寒いものでしたが、
暖かさも早くやってきました。
すぐに春になるかと思っていたら、
3月下旬には、北海道で湿った大雪となり、
ぐずついた天気となりました。
早く春になればと思っていますが、
入学式の方が早く来てしまいそうです。
今年は、春が待ち遠しいですね。
2006年4月1日土曜日
2006年3月1日水曜日
50 捏造:科学と人の心(2006.03.01)
高名な研究者が捏造事件を起こし、マスコミを騒がせています。なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか。考えてみました。
人の営みを考えると、大半の人は、善良に暮らしています。悪いことをしそうなときも、理性や良心、心が止めます。しかし、人の行為ですから、中には、悪意を持って、あるいはやむにやまれぬ事情があって、悪いことをする一握りの人がいます。悪いことをした人が、罰せられるのは当然です。
数例の悪い人の行為をもって、そのグループ、そのコミュニティが悪いと決め付けるのは、間違いです。しかし、世論をつくるのも人ですから、少数の例を持って、そのグループ、コミュニティを悪者に仕立てることがあります。これも、人の営みなのもしれませんが、当事者以外を、必要以上に追求するのは、大きな労力をかける割に、得るものは少ないはずです。
湯川秀樹、朝永振一郎などのノーベル賞受賞者たちを育てた仁科芳雄は、「日本の現代物理学の父」と呼ばれることがあります。仁科芳雄は、中央公論社「自然」(1971年3月20日発行)の中で、「科學は呪うべきものであるという人がある」からはじまる「ユネスコと科學」いう文章を掲載しています。
「呪うべき」理由として、仁科氏は次のように書いています。
「原始人の鬪爭と現代人の戰爭とを比較して見ると,その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある.個人どうしの掴み合いと,航空機の爆撃とを比べて見るがよい.さらに進んでは人口何十萬という都市を,一瞬にして壞滅させる原子爆彈に至っては言語道斷である.このような殘虐な行爲はどうして可能になつたであろうか.それは一に自然科學の發達した結果に他ならない.」
確かにこの理由には、一理あります。科学が「呪うべき」悪であれば、その科学を生み出し、運用している科学者も、悪のコミュニティの一員といえます。科学者も人間ですから、時には悪いことをすることがあるのです。
そんな例として、最近の論文の捏造事件が、韓国や日本でも、ニュースをにぎわしています。
2005年末に発覚した韓国の黄禹錫教授の捏造事件は、共同研究者が「卵子を違法に入手している」と公表したことから発覚しました。黄教授は、ヒトのES細胞(胚性幹細胞)の研究を世界に先駆け成功させ、「韓国の誇り」ともいわれていました。2006年1月10日、韓国のソウル大学調査委員会は、黄教授の2004年と2005年の論文が「ES細胞作成に成功したといういかなる科学的根拠もない」という最終調査結果を発表しました。その結果、研究は捏造であると結論付けられました。
東大の多比良和誠教授らのおこなったRNAに関する研究で、12の論文について、日本RNA学会は、異例のこととして2005年4月に「実験結果の再現性に疑義がある」として、東大に調査を依頼しました。東大調査委員会は2006年1月27日「現段階で論文の実験結果の再現には至っていない」とする報告書を発表しました。つまり、同じ結果が得られず、研究に信頼性がないことになりました。まだ捏造につていは灰色ですが、研究室の学生全員の移籍も正式に公表され、研究活動は事実上、停止することになりました。
少し前になりますが、2000年11月5日の毎日新聞朝刊がスクープした旧石器捏造事件は、アマチュア考古学研究家の藤村新一氏によるものでした。彼は、次々と前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡を発見していきました。しかし、それがすべて捏造だと判明しました。その結果、登録された遺跡の抹消や教科書の書き直しなど、大きな社会問題になりました。
このような捏造事件は、今回の韓国と日本のことだけではなく、世界各地でも、起こっていることなのです。
2002年には、「超伝導」の捏造事件がアメリカの名門ベル研究所でおこりました。シェーン氏は、超伝導に転移する温度の最高記録を次々と塗り替え、2年間で「Science」と「Nature」という権威のある雑誌に16の論文を含む、4年間で80本あまりの論文が報告されました。一時はノーベル賞確実とまでいわれながら、捏造事件として決着しました。
過去にも、このような捏造事件は、繰り返しありました。有名なところでは、ピルトダウン事件でしょうか。
1912年11月にドーソンらがイギリスのロンドン郊外にあるピルトダウンで発見した人類頭骨が発見されました。一緒に発見された化石などから、その人骨は旧石器時代のものとされました。しかし、同年代の人類化石と共通点が少ないことから、議論の的になっていました。その後、1949年に大英博物館による年代測定で、その骨が1500年より新しいものであることが判明しました。1953年にはオックスフォード大学の調査で、オランウータンの頭骨が加工がされたものと判明しました。40年もたった後、人骨化石の捏造が発覚しました。
このような捏造事件の背景には、ねたみ、名誉欲、愉快犯など、いろいろな理由があるのでしょう。大規模な研究費投入によって研究の成果を迫られる状況、大学の研究に対する評価など、やむにやまれぬ事情もあるでしょう。科学も人の営みですから、間違いもあるでしょう。しかし、間違いでなく、捏造を行うということは、あきらに良心、つまり自分の心に反することを行っています。韓国の黄教授、東大の多比良教授、考古学の藤村氏、ベル研究所のシェーン氏は、繰り返し捏造の作業をおこなっています。
このあたりの心理的な作用はよくわかりませんが、一度でも不正を行うと、何度も行うとことになってしまうのは、人間の性なのでしょうか。もしそうなら、人間とは弱く、悲しいものです。
仁科氏はいいます。「われわれ科學者の中には今日までただ科學の進歩を目指して進み,その社會に與える結果に對しては比較的無關心なものが多かつたのであるが,今後はその結果が如何に使用されるかについて監視する必要がある.」と。
科学者とは、ある国、ある時代、人間の知性をリードすべき階層に属する人たちです。そんな人は、進歩的と考えられる国からたくさん輩出しているはずです。高等教育も受けているはずです。それでも、捏造は起こるのです。事実かどうかは分かりませんが、ある人に言わすと、このような科学における捏造は氷山の一角だといいます。
捏造した個人を罰することは必要でしょうが、個人が属したグループやコミュニティを批判することは、生産的な道ではないでしょう。再発を防止する対策として、仁科氏のいうように、監視を強くすることも必要でしょう。しかし、監視も人間の営みですから、どこから抜け道があるでしょう。そんな抜け道がないように、監視を一層強化することになるでしょう。これではイタチゴッコで、結局は自分たち自身が、科学をやりづらくなることでしょう。
それよりも、「科學者の中には今日までただ科學の進歩を目指して進み,その社會に與える結果に對しては比較的無關心なものが多かつた」という反省の方を重視すべきでしょう。捏造は、もはや科学者の倫理のレベルではないかもしれません。人としてやっていいこと、やっていけないことの正常の判断をどんな状況でもできること。やむにやまれぬ事情があっても、悪いことはしないという、強い心を持てること。いってみれば、人間として基本的資質を問うことが必要なのではないでしょうか。
間違いや誤解は、人間ですから起こります。どんなに慎重に見直したつもりの論文でも起こります。私も何度か論文や本でミスをしたことがあります。でも、間違いや誤解は、自分の心を欺いていません。捏造は、人を欺く前に、自分自身の心を欺きます。自分の心を人間として基本的資質と位置づけるべきではないでしょうか。当たり前の結論ですが、自分の心を基準にすることが、科学者としてはもちろん、人間として一番大切なことです。
捏造事件から学ぶべき教訓は、一度でも心を欺くと、二度目の捏造は一度目より心が楽になり、三度目は当たり前になり、四度目は繰り返さなければ存在できない自分がある、という人間の弱さではないでしょうか。ですから、最初の一回目の捏造と良心の葛藤で負けない心が重要になります。
最後にまた、仁科氏の言葉を引用しましょう。
「科學を呪うべきものとするか,禮讃すべきものとするかは,科學自身の所爲ではなくて,これを驅使する人の心にあるのである.」
科学者も人間です。人間ですから弱い心もあります。でも、越えてはいけない最後の一線を越えない心だけは、なんとしても持ち続けたいものです。
・仁科芳雄・
ここで引用した仁科芳雄の「ユネスコと科學」の文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られたものを、利用させていただきました。青空文庫を、私は時々利用させてもらっています。デジタルとして文章が必要なときや、手元に古い書籍がないときなどに、ここで読みたいものが見つかることがあるからです。
それに原典を読むと、あるフレーズしか覚えてなかったことが、ある時代のある社会状況で書かれたいたことが、文脈からよくわかります。
私も、「科學は呪うべきものであるという人がある」というのをどこかの本で読んだのですが、うろ覚えでした。今回、原典を読んで、いろいろ思うことがありました。そして、今回のエッセイのタイトルの副題である「科学と人の心」という言葉も、そこから出てきました。仁科氏は、この文章を、UNESCOの設立趣旨を戦争と科学の関係で述べていました。
しかし、この文章の趣旨は、現在日本で話題になっている捏造事件のニュースを聞くものにとっては、新鮮に感じるのは私だけでしょうか。
・雪解け・
北海道だけでなく、全国的に雪が降る冬でした。今年は北海道も、昨年の冬に続いて雪の多い年でした。しかし、北海道にも暖かい日がめぐってきました。雪の多い年だっただけに、春が待ち遠しいものです。まだ大学は入試を行っている時期なのですが、雪解けを見ると、ついついその先の春を思い浮かべてしまいます。しかし、目の前の大切なことをまず、ひとつひとつ行っていきましょう。
人の営みを考えると、大半の人は、善良に暮らしています。悪いことをしそうなときも、理性や良心、心が止めます。しかし、人の行為ですから、中には、悪意を持って、あるいはやむにやまれぬ事情があって、悪いことをする一握りの人がいます。悪いことをした人が、罰せられるのは当然です。
数例の悪い人の行為をもって、そのグループ、そのコミュニティが悪いと決め付けるのは、間違いです。しかし、世論をつくるのも人ですから、少数の例を持って、そのグループ、コミュニティを悪者に仕立てることがあります。これも、人の営みなのもしれませんが、当事者以外を、必要以上に追求するのは、大きな労力をかける割に、得るものは少ないはずです。
湯川秀樹、朝永振一郎などのノーベル賞受賞者たちを育てた仁科芳雄は、「日本の現代物理学の父」と呼ばれることがあります。仁科芳雄は、中央公論社「自然」(1971年3月20日発行)の中で、「科學は呪うべきものであるという人がある」からはじまる「ユネスコと科學」いう文章を掲載しています。
「呪うべき」理由として、仁科氏は次のように書いています。
「原始人の鬪爭と現代人の戰爭とを比較して見ると,その殺戮の量において比較にならぬ大きな差異がある.個人どうしの掴み合いと,航空機の爆撃とを比べて見るがよい.さらに進んでは人口何十萬という都市を,一瞬にして壞滅させる原子爆彈に至っては言語道斷である.このような殘虐な行爲はどうして可能になつたであろうか.それは一に自然科學の發達した結果に他ならない.」
確かにこの理由には、一理あります。科学が「呪うべき」悪であれば、その科学を生み出し、運用している科学者も、悪のコミュニティの一員といえます。科学者も人間ですから、時には悪いことをすることがあるのです。
そんな例として、最近の論文の捏造事件が、韓国や日本でも、ニュースをにぎわしています。
2005年末に発覚した韓国の黄禹錫教授の捏造事件は、共同研究者が「卵子を違法に入手している」と公表したことから発覚しました。黄教授は、ヒトのES細胞(胚性幹細胞)の研究を世界に先駆け成功させ、「韓国の誇り」ともいわれていました。2006年1月10日、韓国のソウル大学調査委員会は、黄教授の2004年と2005年の論文が「ES細胞作成に成功したといういかなる科学的根拠もない」という最終調査結果を発表しました。その結果、研究は捏造であると結論付けられました。
東大の多比良和誠教授らのおこなったRNAに関する研究で、12の論文について、日本RNA学会は、異例のこととして2005年4月に「実験結果の再現性に疑義がある」として、東大に調査を依頼しました。東大調査委員会は2006年1月27日「現段階で論文の実験結果の再現には至っていない」とする報告書を発表しました。つまり、同じ結果が得られず、研究に信頼性がないことになりました。まだ捏造につていは灰色ですが、研究室の学生全員の移籍も正式に公表され、研究活動は事実上、停止することになりました。
少し前になりますが、2000年11月5日の毎日新聞朝刊がスクープした旧石器捏造事件は、アマチュア考古学研究家の藤村新一氏によるものでした。彼は、次々と前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡を発見していきました。しかし、それがすべて捏造だと判明しました。その結果、登録された遺跡の抹消や教科書の書き直しなど、大きな社会問題になりました。
このような捏造事件は、今回の韓国と日本のことだけではなく、世界各地でも、起こっていることなのです。
2002年には、「超伝導」の捏造事件がアメリカの名門ベル研究所でおこりました。シェーン氏は、超伝導に転移する温度の最高記録を次々と塗り替え、2年間で「Science」と「Nature」という権威のある雑誌に16の論文を含む、4年間で80本あまりの論文が報告されました。一時はノーベル賞確実とまでいわれながら、捏造事件として決着しました。
過去にも、このような捏造事件は、繰り返しありました。有名なところでは、ピルトダウン事件でしょうか。
1912年11月にドーソンらがイギリスのロンドン郊外にあるピルトダウンで発見した人類頭骨が発見されました。一緒に発見された化石などから、その人骨は旧石器時代のものとされました。しかし、同年代の人類化石と共通点が少ないことから、議論の的になっていました。その後、1949年に大英博物館による年代測定で、その骨が1500年より新しいものであることが判明しました。1953年にはオックスフォード大学の調査で、オランウータンの頭骨が加工がされたものと判明しました。40年もたった後、人骨化石の捏造が発覚しました。
このような捏造事件の背景には、ねたみ、名誉欲、愉快犯など、いろいろな理由があるのでしょう。大規模な研究費投入によって研究の成果を迫られる状況、大学の研究に対する評価など、やむにやまれぬ事情もあるでしょう。科学も人の営みですから、間違いもあるでしょう。しかし、間違いでなく、捏造を行うということは、あきらに良心、つまり自分の心に反することを行っています。韓国の黄教授、東大の多比良教授、考古学の藤村氏、ベル研究所のシェーン氏は、繰り返し捏造の作業をおこなっています。
このあたりの心理的な作用はよくわかりませんが、一度でも不正を行うと、何度も行うとことになってしまうのは、人間の性なのでしょうか。もしそうなら、人間とは弱く、悲しいものです。
仁科氏はいいます。「われわれ科學者の中には今日までただ科學の進歩を目指して進み,その社會に與える結果に對しては比較的無關心なものが多かつたのであるが,今後はその結果が如何に使用されるかについて監視する必要がある.」と。
科学者とは、ある国、ある時代、人間の知性をリードすべき階層に属する人たちです。そんな人は、進歩的と考えられる国からたくさん輩出しているはずです。高等教育も受けているはずです。それでも、捏造は起こるのです。事実かどうかは分かりませんが、ある人に言わすと、このような科学における捏造は氷山の一角だといいます。
捏造した個人を罰することは必要でしょうが、個人が属したグループやコミュニティを批判することは、生産的な道ではないでしょう。再発を防止する対策として、仁科氏のいうように、監視を強くすることも必要でしょう。しかし、監視も人間の営みですから、どこから抜け道があるでしょう。そんな抜け道がないように、監視を一層強化することになるでしょう。これではイタチゴッコで、結局は自分たち自身が、科学をやりづらくなることでしょう。
それよりも、「科學者の中には今日までただ科學の進歩を目指して進み,その社會に與える結果に對しては比較的無關心なものが多かつた」という反省の方を重視すべきでしょう。捏造は、もはや科学者の倫理のレベルではないかもしれません。人としてやっていいこと、やっていけないことの正常の判断をどんな状況でもできること。やむにやまれぬ事情があっても、悪いことはしないという、強い心を持てること。いってみれば、人間として基本的資質を問うことが必要なのではないでしょうか。
間違いや誤解は、人間ですから起こります。どんなに慎重に見直したつもりの論文でも起こります。私も何度か論文や本でミスをしたことがあります。でも、間違いや誤解は、自分の心を欺いていません。捏造は、人を欺く前に、自分自身の心を欺きます。自分の心を人間として基本的資質と位置づけるべきではないでしょうか。当たり前の結論ですが、自分の心を基準にすることが、科学者としてはもちろん、人間として一番大切なことです。
捏造事件から学ぶべき教訓は、一度でも心を欺くと、二度目の捏造は一度目より心が楽になり、三度目は当たり前になり、四度目は繰り返さなければ存在できない自分がある、という人間の弱さではないでしょうか。ですから、最初の一回目の捏造と良心の葛藤で負けない心が重要になります。
最後にまた、仁科氏の言葉を引用しましょう。
「科學を呪うべきものとするか,禮讃すべきものとするかは,科學自身の所爲ではなくて,これを驅使する人の心にあるのである.」
科学者も人間です。人間ですから弱い心もあります。でも、越えてはいけない最後の一線を越えない心だけは、なんとしても持ち続けたいものです。
・仁科芳雄・
ここで引用した仁科芳雄の「ユネスコと科學」の文章は、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られたものを、利用させていただきました。青空文庫を、私は時々利用させてもらっています。デジタルとして文章が必要なときや、手元に古い書籍がないときなどに、ここで読みたいものが見つかることがあるからです。
それに原典を読むと、あるフレーズしか覚えてなかったことが、ある時代のある社会状況で書かれたいたことが、文脈からよくわかります。
私も、「科學は呪うべきものであるという人がある」というのをどこかの本で読んだのですが、うろ覚えでした。今回、原典を読んで、いろいろ思うことがありました。そして、今回のエッセイのタイトルの副題である「科学と人の心」という言葉も、そこから出てきました。仁科氏は、この文章を、UNESCOの設立趣旨を戦争と科学の関係で述べていました。
しかし、この文章の趣旨は、現在日本で話題になっている捏造事件のニュースを聞くものにとっては、新鮮に感じるのは私だけでしょうか。
・雪解け・
北海道だけでなく、全国的に雪が降る冬でした。今年は北海道も、昨年の冬に続いて雪の多い年でした。しかし、北海道にも暖かい日がめぐってきました。雪の多い年だっただけに、春が待ち遠しいものです。まだ大学は入試を行っている時期なのですが、雪解けを見ると、ついついその先の春を思い浮かべてしまいます。しかし、目の前の大切なことをまず、ひとつひとつ行っていきましょう。
2006年2月1日水曜日
49 化石:生命と物質の狭間(2006.02.01)
化石は、過去の生物の姿や形を知り、生活を探り、生物の進化を考えるために重要な証拠となります。そんな化石について、今回は考えていきましょう。
人は、いつの頃からかは分かりませんが、古くから化石を見出し、化石に関心をもってきたようです。古い記録では、クロマニョン人が化石に興味を抱いていたことは分かっています。それは、遺跡から出土した首飾りに貝化石が使われていることからもうかがわれます。今では、化石というと、過去の生物と誰もが思い描きます。でも、化石が過去の生物であったというのは、正しいのでしょうか。その点について、考えていきましょう。
学術的な化石の定義は「過去の生物の一部や痕跡」(古生物学事典)となっています。この定義を少し詳しく見ていきましょう。
まず、「生物の一部」というのは、化石は、生物そのものではありません。ですから、化石とは生物の体の一部だけが、残っているものです。例えば、歯や骨、殻、葉、種、花粉など、長い時間を経ても残りやすいものが石化して、化石となります。まあ、石化していなくても化石と呼びますが。
次に「痕跡」とは、2つの意味合いがあります。まず、足跡、はった跡、巣穴、食べた跡、排泄物など、生物がつくった、成したものが残っている場合です。生物の体の一部ではないのですが、化石に含めます。もう一つは、もともとは体の一部であったのですが、例えば、貝殻が長い時間のうちになくなってしまったの場合です。もとの化石がなくなっても、その貝の形が地層に残ったり、別の物質や鉱物に置き換わったものも化石としています。
このようにいろいろなものが化石に入れて定義されています。過去の生物を調べるために化石は、非常に重要な素材です。ですから、化石の定義を広くして、過去の生物を調べる手がかりを増やそうとという配慮されているからです。
なんと言っても、化石では、過去の生物の一部ということが、重要な点であります。しかし、実はそこが一番問題でもあります。
過去の生物とは、過去のある時点に生きていたものということです。つまり、化石のとは、過去に生命をもっていたものの一部であったかということです。単純化して書くと、「化石=生命」となります。この命題が正しいかどうか、ということです。
少なくとも、化石は、現在、生きていません。だですから、現在、化石は生命ではありません。では、今は亡き生命を化石から探ることが可能でしょうか。言い換えると、化石という過去の生物らしき物質に対して、もともとその物質は生命を宿していたかどうかは、どうして調べていくのでしょうか。非常に困難です。現段階では、化石からその答えを出すことは不可能です。生命とは、現在生きている生物だけ有する属性で、死んだものは持ち得ないものだからです。ですから、化石から、過去のその物質に生命を宿していたかどうかを検証することはできません。つまり、知りえない不可知のことがらとなります。式で書くと「化石(不可知)生命」となります。
生命論は、現在の生物学でも結論の出ていないものです。ですから不可知論的な議論を持ち込むと、訳がわからなくなるので、この方向で考えるのはやめましょう。したがって、以下では、生命よりは実態のある生物というもので、考えていきましょう。
では、「化石=生物」という命題は本当に正しいのでしょうか。少なくとも、化石は、現在、生命を宿していないので、定義の上では生物ではありません。つまり、「化石≠生物」となります。
では、化石の定義でもある「化石=過去の生物」という命題は、大丈夫でしょうか。実はこれも、論理的には、化石に対して、かつて生きていたかどうかを問うことになるので、論証不可能です。「化石(論証不能)過去の生物」となります。
なにか堂々巡りしているようです。多くの科学者が「化石=過去の生物」と認めているのだからいいのではないかという人もいるでしょう。でも、こんな反論があったとしたらどうしましょう。
今私たちが見ている化石は、すべて自然の営みによってできた、生物と関係のない、無機的産物にすぎないのではないか、というものです。いってみれば「偶然の産物」あるいは「自然のいたずら」で、化石の成因を説明しようという反論です。
これは、実は、なかなか手ごわい反論なのです。この反論を、完全に否定するためには、化石が過去の生物であったという証拠を出さなければなりません。過去の生物とは、今はもういない絶滅してしまった生物です。絶滅したから、過去の生物なのです。だから、絶滅した生物を出すことはできない相談です。ですから上で述べた論証不可能な命題となります。つまり、「偶然の産物」説や「自然のいたずら」説を否定しきれないのです。
ここで出した「偶然の産物」説や「自然のいたずら」説は、「造形力説」と呼ばれるもので、アリストテレスが唱え、西洋では長く信じてこられた考え方です。この考えは、キリスト教と結びついて、自然のかわりに神が使われていました。化石は、「神の戯れ」や「神のいたずら」と考えられていたのです。この造形力説に立てば、過去の化石として、何が出てきても不思議ではなかったのです。
この造形力説は、最終的に決着をみていません。つまり、完全に否定されていないのです。ただ、ダーウィンの進化論やハットンの斉一説によって、長い時間をかけて生物は進化してきた、地球は今起こっている現象、作用によって過去も作られたという考えが受け入れられてきました。
その結果、生物は進化してきた。生物の進化を調べるには、「化石=過去の生物」前提をおけば、化石を調べれば生物が進化してきたという証拠が集まると考えられてきました。化石は、進化論にとって、有力な証拠となりました。しかし、残念ながら「化石(論証不能)過去の生物」のままなのです。
現在の科学は、この論証不能を切り抜けるために、いくつか苦肉の策を講じています。
まず、大量の化石と現生生物を多くの観点での比較おこない、似ているという傍証を大量に提示します。その量を持って、「過去の生物であった」と仮定をもっとらしく見せています。量をもって、一見質的に正しいという錯覚を起こさせています。でも、論理的には、論証不能なのです。
多くの科学者は論証不能なのですが、「化石=過去の生物」という関係を信じています。そして、多分これは正しいのでしょう。ですから、「化石=過去の生物」という関係を前提に築き上げられた体系は大丈夫でしょう。でも、どこかに一抹の不安が残ります。そんな不安を少々することが時々起こります。
1996年、モージスたちが、グリーンランドにある約38億年前の堆積岩(地球最古の堆積岩)中の燐酸塩鉱物(アパタイト)中の炭素組成を調べて、生命活動の痕跡だと指摘しました。炭素組成とは、バイオマーカー(生物指標化合物)と呼ばれるもので、炭素同位体や化学的に安定(2006.02.01)
化石は、過去の生物の姿や形を知り、生活を探り、生物の進化を考えるために重要な証拠となります。そんな化石について、今回は考えていきましょう。な炭化水素(炭素と水素の化合物)を、生物の指標にできると考えられているものです。
このデータが本当の生物かどうかについては、いろいろ議論されました。なにせ、生物どころでなく、化石でもなく、化学組成だけで、過去の生物であったかどうかということを議論するわけです。そんなとき、生物とはなにか、生物の活動とは、何を持って証拠とするのか、などが問い直されます。しかし、これは、なかなか答えのでない、堂々巡りのような議論を生みます。
この問題は、思わぬことから決着をみました。それは、2002年に出された報告で、モージスたちが分析した岩石は、マグマからできた火成岩で、堆積岩でないことがわかったのです。マグマからできた火成岩から、どんなデータ、証拠が出たとしても、それは生物の痕跡とは認定されません。これによって問題は一件落着しました。
この例のように、生物の起源や初期の生物を考えるとき、やはり、「化石と生命」や「化石と生物」の関係や根拠ということが問題になります。化石とは、生物とは、生命とはという、原点にもどされるような問いを、どうしても突きつけられます。そんな時不可知論的な問題を考えざる得ない状態になっていきます。古生物学者で最古の生物化石を探すとき、いつもこの点が論点となっていきます。
・最古の生命探し・
グーリンランドは、約38億年前の堆積岩がでます。ですから、地球最初の生命を探すのであれば、グリーンランドとなります。ですから、1996年のモージスたちの報告が最初ではなく、過去に何度か調べられています。
1978年に、ドイツのフラッグは、イースト菌状の丸いものをたくさん見つけ、化石と同定して学名までつけました。しかし、その後、その丸いものは、石英という結晶ができるときに取り込まれた液体であることが判明しました。これが最古の生命発見と間違いの物語です。
ドイツのシドロウスキーは、グリーンランドの堆積岩から抽出した石墨の炭素同位体組成が、生物起源の炭素であるとしました。しかし、そのような炭素同位体は無機的(生物によらず)に合成できることが証明されました。また、最古の生命の発見は失敗となりました。
そして、1996年のモージスたちの報告へとつながります。これが3度目の間違いでした。
多分、今日も誰かが新しい手法や新しい考え方で、グリーンランドの堆積岩を調べていることでしょう。まだ、最初の生命痕跡の発見は聞いていませんが、いつその報告がでるかわかりません。楽しみでもありますが、また決着のみない議論がおこるのではなかというむなしさもあります。でも、プラス思考で、今度こそ確実なものができるのではないと期待していたいものです。
・教員とは・
大学は、昨年暮れの推薦入試に続いて、これから一般入試がはじまります。国立大学の入試は3月ですが、私立大学は2月が山場です。そこで、応募者がどれくらいか、受験者は、合格者は、入学手続き者はと、数字を見ながら一喜一憂するわけです。
しかし、そんな数字は事務サイドの関心事で、教員は入学した学生をいかに育てるかが問われているのだと思います。学生たちが、大学を卒業して社会に巣立つとき、この大学で学んでよかった思えるような教育をしてきたいものです。
でも、すべての学生に対して達成することは困難です。毎年退学者がある一定の比率いることが、その困難さを示しています。これは、私立大学だけでなく、国公立や一流大学でも同じことが起こっています。
でも、困難だからといって、教員は手の抜くわけにはいかないのです。卒業する学生にはこの大学を選んでよかったと思えるものがきっといるはずだからです。言葉として聞けなくてもいいのです。教員はそんな学生がいることを信じて教育しているのですから。そして、一人でも多くの学生に満足できるように努力するしかないのですね。
人は、いつの頃からかは分かりませんが、古くから化石を見出し、化石に関心をもってきたようです。古い記録では、クロマニョン人が化石に興味を抱いていたことは分かっています。それは、遺跡から出土した首飾りに貝化石が使われていることからもうかがわれます。今では、化石というと、過去の生物と誰もが思い描きます。でも、化石が過去の生物であったというのは、正しいのでしょうか。その点について、考えていきましょう。
学術的な化石の定義は「過去の生物の一部や痕跡」(古生物学事典)となっています。この定義を少し詳しく見ていきましょう。
まず、「生物の一部」というのは、化石は、生物そのものではありません。ですから、化石とは生物の体の一部だけが、残っているものです。例えば、歯や骨、殻、葉、種、花粉など、長い時間を経ても残りやすいものが石化して、化石となります。まあ、石化していなくても化石と呼びますが。
次に「痕跡」とは、2つの意味合いがあります。まず、足跡、はった跡、巣穴、食べた跡、排泄物など、生物がつくった、成したものが残っている場合です。生物の体の一部ではないのですが、化石に含めます。もう一つは、もともとは体の一部であったのですが、例えば、貝殻が長い時間のうちになくなってしまったの場合です。もとの化石がなくなっても、その貝の形が地層に残ったり、別の物質や鉱物に置き換わったものも化石としています。
このようにいろいろなものが化石に入れて定義されています。過去の生物を調べるために化石は、非常に重要な素材です。ですから、化石の定義を広くして、過去の生物を調べる手がかりを増やそうとという配慮されているからです。
なんと言っても、化石では、過去の生物の一部ということが、重要な点であります。しかし、実はそこが一番問題でもあります。
過去の生物とは、過去のある時点に生きていたものということです。つまり、化石のとは、過去に生命をもっていたものの一部であったかということです。単純化して書くと、「化石=生命」となります。この命題が正しいかどうか、ということです。
少なくとも、化石は、現在、生きていません。だですから、現在、化石は生命ではありません。では、今は亡き生命を化石から探ることが可能でしょうか。言い換えると、化石という過去の生物らしき物質に対して、もともとその物質は生命を宿していたかどうかは、どうして調べていくのでしょうか。非常に困難です。現段階では、化石からその答えを出すことは不可能です。生命とは、現在生きている生物だけ有する属性で、死んだものは持ち得ないものだからです。ですから、化石から、過去のその物質に生命を宿していたかどうかを検証することはできません。つまり、知りえない不可知のことがらとなります。式で書くと「化石(不可知)生命」となります。
生命論は、現在の生物学でも結論の出ていないものです。ですから不可知論的な議論を持ち込むと、訳がわからなくなるので、この方向で考えるのはやめましょう。したがって、以下では、生命よりは実態のある生物というもので、考えていきましょう。
では、「化石=生物」という命題は本当に正しいのでしょうか。少なくとも、化石は、現在、生命を宿していないので、定義の上では生物ではありません。つまり、「化石≠生物」となります。
では、化石の定義でもある「化石=過去の生物」という命題は、大丈夫でしょうか。実はこれも、論理的には、化石に対して、かつて生きていたかどうかを問うことになるので、論証不可能です。「化石(論証不能)過去の生物」となります。
なにか堂々巡りしているようです。多くの科学者が「化石=過去の生物」と認めているのだからいいのではないかという人もいるでしょう。でも、こんな反論があったとしたらどうしましょう。
今私たちが見ている化石は、すべて自然の営みによってできた、生物と関係のない、無機的産物にすぎないのではないか、というものです。いってみれば「偶然の産物」あるいは「自然のいたずら」で、化石の成因を説明しようという反論です。
これは、実は、なかなか手ごわい反論なのです。この反論を、完全に否定するためには、化石が過去の生物であったという証拠を出さなければなりません。過去の生物とは、今はもういない絶滅してしまった生物です。絶滅したから、過去の生物なのです。だから、絶滅した生物を出すことはできない相談です。ですから上で述べた論証不可能な命題となります。つまり、「偶然の産物」説や「自然のいたずら」説を否定しきれないのです。
ここで出した「偶然の産物」説や「自然のいたずら」説は、「造形力説」と呼ばれるもので、アリストテレスが唱え、西洋では長く信じてこられた考え方です。この考えは、キリスト教と結びついて、自然のかわりに神が使われていました。化石は、「神の戯れ」や「神のいたずら」と考えられていたのです。この造形力説に立てば、過去の化石として、何が出てきても不思議ではなかったのです。
この造形力説は、最終的に決着をみていません。つまり、完全に否定されていないのです。ただ、ダーウィンの進化論やハットンの斉一説によって、長い時間をかけて生物は進化してきた、地球は今起こっている現象、作用によって過去も作られたという考えが受け入れられてきました。
その結果、生物は進化してきた。生物の進化を調べるには、「化石=過去の生物」前提をおけば、化石を調べれば生物が進化してきたという証拠が集まると考えられてきました。化石は、進化論にとって、有力な証拠となりました。しかし、残念ながら「化石(論証不能)過去の生物」のままなのです。
現在の科学は、この論証不能を切り抜けるために、いくつか苦肉の策を講じています。
まず、大量の化石と現生生物を多くの観点での比較おこない、似ているという傍証を大量に提示します。その量を持って、「過去の生物であった」と仮定をもっとらしく見せています。量をもって、一見質的に正しいという錯覚を起こさせています。でも、論理的には、論証不能なのです。
多くの科学者は論証不能なのですが、「化石=過去の生物」という関係を信じています。そして、多分これは正しいのでしょう。ですから、「化石=過去の生物」という関係を前提に築き上げられた体系は大丈夫でしょう。でも、どこかに一抹の不安が残ります。そんな不安を少々することが時々起こります。
1996年、モージスたちが、グリーンランドにある約38億年前の堆積岩(地球最古の堆積岩)中の燐酸塩鉱物(アパタイト)中の炭素組成を調べて、生命活動の痕跡だと指摘しました。炭素組成とは、バイオマーカー(生物指標化合物)と呼ばれるもので、炭素同位体や化学的に安定(2006.02.01)
化石は、過去の生物の姿や形を知り、生活を探り、生物の進化を考えるために重要な証拠となります。そんな化石について、今回は考えていきましょう。な炭化水素(炭素と水素の化合物)を、生物の指標にできると考えられているものです。
このデータが本当の生物かどうかについては、いろいろ議論されました。なにせ、生物どころでなく、化石でもなく、化学組成だけで、過去の生物であったかどうかということを議論するわけです。そんなとき、生物とはなにか、生物の活動とは、何を持って証拠とするのか、などが問い直されます。しかし、これは、なかなか答えのでない、堂々巡りのような議論を生みます。
この問題は、思わぬことから決着をみました。それは、2002年に出された報告で、モージスたちが分析した岩石は、マグマからできた火成岩で、堆積岩でないことがわかったのです。マグマからできた火成岩から、どんなデータ、証拠が出たとしても、それは生物の痕跡とは認定されません。これによって問題は一件落着しました。
この例のように、生物の起源や初期の生物を考えるとき、やはり、「化石と生命」や「化石と生物」の関係や根拠ということが問題になります。化石とは、生物とは、生命とはという、原点にもどされるような問いを、どうしても突きつけられます。そんな時不可知論的な問題を考えざる得ない状態になっていきます。古生物学者で最古の生物化石を探すとき、いつもこの点が論点となっていきます。
・最古の生命探し・
グーリンランドは、約38億年前の堆積岩がでます。ですから、地球最初の生命を探すのであれば、グリーンランドとなります。ですから、1996年のモージスたちの報告が最初ではなく、過去に何度か調べられています。
1978年に、ドイツのフラッグは、イースト菌状の丸いものをたくさん見つけ、化石と同定して学名までつけました。しかし、その後、その丸いものは、石英という結晶ができるときに取り込まれた液体であることが判明しました。これが最古の生命発見と間違いの物語です。
ドイツのシドロウスキーは、グリーンランドの堆積岩から抽出した石墨の炭素同位体組成が、生物起源の炭素であるとしました。しかし、そのような炭素同位体は無機的(生物によらず)に合成できることが証明されました。また、最古の生命の発見は失敗となりました。
そして、1996年のモージスたちの報告へとつながります。これが3度目の間違いでした。
多分、今日も誰かが新しい手法や新しい考え方で、グリーンランドの堆積岩を調べていることでしょう。まだ、最初の生命痕跡の発見は聞いていませんが、いつその報告がでるかわかりません。楽しみでもありますが、また決着のみない議論がおこるのではなかというむなしさもあります。でも、プラス思考で、今度こそ確実なものができるのではないと期待していたいものです。
・教員とは・
大学は、昨年暮れの推薦入試に続いて、これから一般入試がはじまります。国立大学の入試は3月ですが、私立大学は2月が山場です。そこで、応募者がどれくらいか、受験者は、合格者は、入学手続き者はと、数字を見ながら一喜一憂するわけです。
しかし、そんな数字は事務サイドの関心事で、教員は入学した学生をいかに育てるかが問われているのだと思います。学生たちが、大学を卒業して社会に巣立つとき、この大学で学んでよかった思えるような教育をしてきたいものです。
でも、すべての学生に対して達成することは困難です。毎年退学者がある一定の比率いることが、その困難さを示しています。これは、私立大学だけでなく、国公立や一流大学でも同じことが起こっています。
でも、困難だからといって、教員は手の抜くわけにはいかないのです。卒業する学生にはこの大学を選んでよかったと思えるものがきっといるはずだからです。言葉として聞けなくてもいいのです。教員はそんな学生がいることを信じて教育しているのですから。そして、一人でも多くの学生に満足できるように努力するしかないのですね。
2006年1月1日日曜日
48 未来を目指して:未来予測は可能か(2006.01.01)
明けまして、おめでとうございます。一年のはじめには、その年に何をしようか、どう過ごそうかなどいろいろ思いを巡らせます。これから来る一年という未来を予測しながら立てられた目標もあるでしょう。今年は未来予測の話題からはじめましょう。
未来とは「未だ来てないとき」ですから、どうなるか分からないものです。でも、未来を知りたいのは誰でも同じです。避けることのできない未来で、自分に不利になるような未来ならあまり知りたくないと思うでしょう。未来とは、知りたいような、知りたくないような、それでも怖いもの見たさで覗きたい気がする不思議なものではないでしょうか。
もし、未来が知ることができ、その未来を変更できる可能性があるのであれば、知りたい気がします。いや、悪い未来なら早めに知っておいて、回避する努力をしたほうが賢明ではないでしょうか。
では、現実に未来予測はできるのでしょうか。ここでは、未来予測というのは、占いや超能力者の予言などではなく、科学的に可能な予測について考えていきましょう。しかし、不確かさも、そこにはもちろんあります。それも考慮したものです。
実は、未来予測は、ある状況下では、誰でもしていることなのです。ある状況下とは、因果関係がはっきりとしているときです。
信号のない道路を渡るときを考えてみてください。普通の人は、道路を渡るときは、車が来ないか左右を確かめてから渡ります。このとき何をしているかというと、自分が道路を渡る間に車とぶつからないかを予測しているのです。遠くに車が見えても、自分が渡る間に近くには来ないと予測できれば渡るはずです。大抵の人はこれをしているはずですから、未来予測を無意識にしていることになります。
そのような予測ができない人は、道路をいつまでたっても渡れないか、車は来ないものと決めて渡っているはずです。予測が不得意の人は、道路をいつまで経っても渡れないので、行動範囲は非常に狭くなっていくでしょう。また、予測などしないで生きている人は、今はもう事故で死んでいるか、今生きている人は非常に幸運な人生を送っていることになります。
この例だけでなく、人が行動するとき、あるいは動くというときは、誰もが未来予測をしているといえます。階段を登るときも、段を予測して足を上げています。曲がり角があれば、その位置と角度を予測して曲がっているでしょう。そうしないと行動できないといえます。
このような未来予測は、人間だけがしていることではなく、動物や生き物でも、極普通におこなっていることなのです。肉食獣が向かって迫ってくる状況の草食獣を想像してください。このとき草食獣は、肉食動物に向かうものはいないはずです。そんな草食獣は、肉食獣の格好の獲物として、この世からもういなくなっていることでしょう。肉食獣が迫ってくれば、草食獣は逃げます。少なくとも向かってくる方とは反対側には逃げるでしょう。もっと予測をうまくするものは、肉食獣が追いつきにくように進路の変えながら逃げるでしょう。これは、未来予測です。
哺乳類だけではありません。土の中の種が芽を出すとき、重力を感じて重力の方には根を伸ばし、芽は重力と反対側に伸ばすでしょう。種は、重力を感じて、養分や太陽の光がどこにあるのかを予測しているのです。生物の感覚器官の多くは、未来予測のための道具ともいえるのはないでしょうか。
遠くの車を意識しないで行動すると起こる未来は、自分にとって不幸であることを直感的に予測しています。その不幸な未来を回避するために、遠くの車のスピードを予測し、自分の道路を渡る時間を予測し、それら予測の基づいて行動することができます。敵から逃げないと起こる未来予測は、不幸な未来です。それを避けるために、草食動物は相手のスピードと自分の脚力から逃げる方向を本能的に判断して行動します。種にとって太陽は光合成をし、栄養をため、子孫を残すために不可欠です。また、同時に水や土壌にある栄養も不可欠です。そのような生きるために不可欠なものを得るには、自分のおかれている位置を重力から上と下を判断できるということを、種は利用しているのです。
このような例は、因果関係がある程度はっきりしている場合です。因果関係が明らかな場合は、未来予測ができるということを示しています。因果関係がはっきりとした未来なら、予測はある程度可能ですが、予測された未来は、確定したものではありません。予測された未来が自分の望むものであれば、よりよいものへと改善できるし、望まないものであれば、いいものへと変更することも可能です。予想される因果関係を破ることも可能なの場合、未来予測が有効となります。
因果関係のはっきりしないものは、予測が難しくなります。しかし、複雑で予測不可能な未来であるからこそ、そんな未来の予測を、多くの人が昔から望んでいたのでしょう。それが占星術や各種の占いなどを発展してきた原因でしょう。
科学で扱う未来には、因果関係がはっきりしているものから、不明瞭なものまであります。でも、それなりの確かさや不確かさを持ちながらも予測することは可能となっています。
因果関係がはきっりとしているものとして、理論予測があります。時間変化の理論がわかっている場合です。過去から現在まで、一定の計測可能な状態で変化しているものごとで、その理由あるいは理論がはっきり分かっているものです。一定の計測可能なというのは、検証可能という意味です。そしてその理論は、未来に延長しても維持されると考えられるものであれば、未来予測は可能となります。
物理法則には、そのような理論予測できるものがたくさんあります。しかし、その予測も、理想的な条件を設定していることがあり、現実には誤差や不確かさが紛れ込んできます。摩擦や空気の抵抗、重心の位置、物質の表面の状態、物資の均質さなど、現実にはさまざまな誤差が紛れ込みます。ですから、長時間かかる現象、何回も繰り返される現象では、理論は正しくても、誤差が蓄積していって予測からだんだん外れることも起こります。
個々の生物が関係する現象や、地質学、気象学、海洋学などが扱う自然現象は、個々の原理は物理や化学に起因する原理でも、大きな自然としてみると、なかなか一筋縄でいかないものがたくさんあります。つまり、誤差や関与する条件が多すぎて、非常に複雑になり、理論化ができない現象です。
しかし、もし地球に関する科学で精度のよい理論予測ができれば、それは、非常に面白いものとなるはずです。そんな理論予測の例としてプレートテクトニクスというものがあります。プレートテクトニクス理論に基づくプレートの移動は、非常に精度良くできる予測です。それは、年間数センチメートルという非常にゆっくりとした観測された動きに基づいています。小さいな動きの積み重ねが、何百万年、何千万年という単位の未来予測を可能とします。その予測の時間単位が長すぎて、有用なのかどうか分からないほどです。
その他に、傾向予測というものがあります。理論ははっきりとしていないですが、そうなる傾向が、経験的に起こりそうだと分かることもあります。地震や火山は、いつ、どこで、どの程度ものが起こるかを、事前に正確に予測することはなかなか困難です。正確な規模や日時、場所がわからなくても、だいたいの検討はつけられます。
地震ならば、大地の圧力が常にかかっている地域で、ある場所で大きな地震があり、別のところではまだ大きな地震がないときは、おなじ圧力がその地域の岩石に蓄積されているはずです。その圧力が岩石の強度の限界に達っすれば、破壊が起こります。まだなのに地震が起こっていないのであれば、いつ起こってもおかしくありません。また、過去の現象からもその事実は裏づけされるでしょう。そこから、どの程度の地震が、どの程度の時間間隔で、その程度の確率で起こるかを予測しています。あまりに誤差が大きくて対処ができないほですが、これは、地震発生の危険度として考えることができます。
火山でも、一般的な火山は、あるプロセスを経ながら、火山として一生を過ごします。そのプロセスに要する時間や規模は、まだ詳細は十分解明されていませんが、概要は分かっています。例えば、富士山のような大きな成層火山は、やがては山体崩壊を起こすような噴火をして、カルデラを形成し、あとは中央や外輪山での火山活動となります。しかし、火山のある場所、プレート運動などによって、地域差もあり、本当にそのような一生を送るという保障はありません。あくまでも一般論としてです。でも、一般論に基づいて、富士山は今後もまだ活動する火山であると考えておいて対処した方が、危険回避できる可能性が大きくなります。
今問題になっている温暖化や温暖化を原因とする気候変動は、理論ではなく、傾向といっていいものかもしれません。本当に温暖化が起こっているのか、温暖化によって本当に気候変動が起こるのかなどは、まだ不確か部分がたくさん含まれています。研究者によっても気候変動の予測もかなり違いがあります。そもそも温暖化自体も疑っている研究者もいます。しかし、危険が予測できるのであれば、たとえ起こるかどうかわからなくても、予想に基づいて回避策をとったほうが安全でしょう。
その対策が間違っていれば困りますが。現在の温暖化の対策は、二酸化炭素の排出量の削減です。二酸化炭素こそが、温暖化という未来予測の重要な根拠となっており、現在もこの傾向は続いています。つまり、二酸化炭素は、実際に人類は大量に排出しているので、化石に燃料の使用を減らそうという考えが間違っていません。たとえ未来予測が間違っていても、問題はなく、化石燃料の温存につながります。
最後に、未来予測は不能なのですが、確率的に、歴史的にきっと起こりそうなものがあります。もちろん理論はありません。そんな現象として、地磁気の逆転、隕石の衝突、生物の絶滅などがあります。
地球の地層に記録された歴史を見ていくと、地磁気が何度も逆転しているこがわかります。その原因はまだ十分解明されていませんが、今後も地球は地磁気の逆転を起こしそうです。なぜならこれから地磁気の逆転が起きないという兆候はどこにもないからです。そのとき、どんなこが起こるか、あまり十分は予測はされていません。また、研究者の間でも、あまり議論されていないことです。ですから、現在、地磁気の逆転という現象の予測も対策も、公的には誰も対策していません。
また、隕石の衝突も小さなものは、しょっちゅう起こっています。日本でも数年に一度は、ニュースになるような隕石落下の事件が起こります。もし、このような衝突が、大きな隕石によるものであったら、その被害は甚大なものになります。恐竜の絶滅を思い起こしてください。恐竜の絶滅は、直径10kmほどの隕石が地球にぶつかったため、起こったと考えられています。もし同じ規模ものが起きれば、人類も滅亡することでしょう。しかし、その対策は、まだとられていません。観測体制すら未だ完備されていません。
生物の絶滅も必ず起こると考えられます。何億年も生き続けてきた生物は稀です、多くの種は、絶滅してきたことを地球の歴史は教えてくれます。その中で、人類だけを例外だと考える甘い人はそうそういないでしょう。しかし、生物がなぜ絶滅するのかは、本当のところはよく分かっていません。生存競争、環境変化、いろいろな原因があるのでしょうが、この生物はこの原因で絶滅したというのが分かっているのは、案外少ないのです。ですから、人類もあるとき突然絶滅へと向かうことだってあるかもしれません。それに対して私たちは、今のところ、何もするすべをもっていません。
このような科学的な未来予測は、まだまだ不十分です。しかし、もし科学的に未来予測ができたとすると、非常に論理的であるが故に、その結果は感情や温情などない非常の厳しいものとなります。そして、その予測された未来が、自分や人類に対して、過酷で耐えがたいものであったら、なんとか現在から、その危機を回避する手段を講じるべきでしょう。それこそ人類の知恵の見せ所ではないでしょうか。
・私にとってのメールマガジン・
明けまして、おめでとうございます。
2002年2月より、このメールマガジン「Terra Incognita 地球のつぶやき」はスタートしました。しかし、その前身は、2001年9月20日から「地球のつぶやき Monolog of the Earth」として、不定期ですが、100名限定の読者に配信し、7回まで公開していました。その頃から数えると5回目の新年となります。
思い起こせばいろいろな状況を経ながら、このマガジンを発行してきました。月に一度のことですから、それほど大変でないように思えます。確かに時間的余裕があり、書きたいことがあれば、2、3時間もあれば、発行できます。しかし、忙しさにかまけて、ついつい時間がない時もあります。そんなときは、あせりながら書いたこともあります。
現在では、いくつもネタ、つまり書きたいことが溜まっています。ただ、時間があるかどうかは、別です。その時その時の状況によって、発行の状況は違ってきます。このような状況の違いが、私にとっては思い出深いものとなっているのでしょう。
メールマガジンは、もちろん読者がいるので成立するシステムです。しかし、もしかすると、書くことを義務付けられることによって、自分自身が一番儲けているのかもしれません。
私にとってこのメールマガジンは、深く考えるということをいろいろ試行錯誤する場となっています。ですから、私は少なくとも毎月一つのことは、深く考えることを義務付けられているのです。どんなに忙しいときでも書き続けるということは大変ですが、そのノルマを果たせることを意味しています。だから、このメールマガジンは、私にとって非常にありがたい存在であります。そして、その先には読者がいるという緊張感が、いい加減さを戒めます。
年頭にそんなことを考えました。これは、未来予測ではなく、現状の確認でしょうかね。
未来とは「未だ来てないとき」ですから、どうなるか分からないものです。でも、未来を知りたいのは誰でも同じです。避けることのできない未来で、自分に不利になるような未来ならあまり知りたくないと思うでしょう。未来とは、知りたいような、知りたくないような、それでも怖いもの見たさで覗きたい気がする不思議なものではないでしょうか。
もし、未来が知ることができ、その未来を変更できる可能性があるのであれば、知りたい気がします。いや、悪い未来なら早めに知っておいて、回避する努力をしたほうが賢明ではないでしょうか。
では、現実に未来予測はできるのでしょうか。ここでは、未来予測というのは、占いや超能力者の予言などではなく、科学的に可能な予測について考えていきましょう。しかし、不確かさも、そこにはもちろんあります。それも考慮したものです。
実は、未来予測は、ある状況下では、誰でもしていることなのです。ある状況下とは、因果関係がはっきりとしているときです。
信号のない道路を渡るときを考えてみてください。普通の人は、道路を渡るときは、車が来ないか左右を確かめてから渡ります。このとき何をしているかというと、自分が道路を渡る間に車とぶつからないかを予測しているのです。遠くに車が見えても、自分が渡る間に近くには来ないと予測できれば渡るはずです。大抵の人はこれをしているはずですから、未来予測を無意識にしていることになります。
そのような予測ができない人は、道路をいつまでたっても渡れないか、車は来ないものと決めて渡っているはずです。予測が不得意の人は、道路をいつまで経っても渡れないので、行動範囲は非常に狭くなっていくでしょう。また、予測などしないで生きている人は、今はもう事故で死んでいるか、今生きている人は非常に幸運な人生を送っていることになります。
この例だけでなく、人が行動するとき、あるいは動くというときは、誰もが未来予測をしているといえます。階段を登るときも、段を予測して足を上げています。曲がり角があれば、その位置と角度を予測して曲がっているでしょう。そうしないと行動できないといえます。
このような未来予測は、人間だけがしていることではなく、動物や生き物でも、極普通におこなっていることなのです。肉食獣が向かって迫ってくる状況の草食獣を想像してください。このとき草食獣は、肉食動物に向かうものはいないはずです。そんな草食獣は、肉食獣の格好の獲物として、この世からもういなくなっていることでしょう。肉食獣が迫ってくれば、草食獣は逃げます。少なくとも向かってくる方とは反対側には逃げるでしょう。もっと予測をうまくするものは、肉食獣が追いつきにくように進路の変えながら逃げるでしょう。これは、未来予測です。
哺乳類だけではありません。土の中の種が芽を出すとき、重力を感じて重力の方には根を伸ばし、芽は重力と反対側に伸ばすでしょう。種は、重力を感じて、養分や太陽の光がどこにあるのかを予測しているのです。生物の感覚器官の多くは、未来予測のための道具ともいえるのはないでしょうか。
遠くの車を意識しないで行動すると起こる未来は、自分にとって不幸であることを直感的に予測しています。その不幸な未来を回避するために、遠くの車のスピードを予測し、自分の道路を渡る時間を予測し、それら予測の基づいて行動することができます。敵から逃げないと起こる未来予測は、不幸な未来です。それを避けるために、草食動物は相手のスピードと自分の脚力から逃げる方向を本能的に判断して行動します。種にとって太陽は光合成をし、栄養をため、子孫を残すために不可欠です。また、同時に水や土壌にある栄養も不可欠です。そのような生きるために不可欠なものを得るには、自分のおかれている位置を重力から上と下を判断できるということを、種は利用しているのです。
このような例は、因果関係がある程度はっきりしている場合です。因果関係が明らかな場合は、未来予測ができるということを示しています。因果関係がはっきりとした未来なら、予測はある程度可能ですが、予測された未来は、確定したものではありません。予測された未来が自分の望むものであれば、よりよいものへと改善できるし、望まないものであれば、いいものへと変更することも可能です。予想される因果関係を破ることも可能なの場合、未来予測が有効となります。
因果関係のはっきりしないものは、予測が難しくなります。しかし、複雑で予測不可能な未来であるからこそ、そんな未来の予測を、多くの人が昔から望んでいたのでしょう。それが占星術や各種の占いなどを発展してきた原因でしょう。
科学で扱う未来には、因果関係がはっきりしているものから、不明瞭なものまであります。でも、それなりの確かさや不確かさを持ちながらも予測することは可能となっています。
因果関係がはきっりとしているものとして、理論予測があります。時間変化の理論がわかっている場合です。過去から現在まで、一定の計測可能な状態で変化しているものごとで、その理由あるいは理論がはっきり分かっているものです。一定の計測可能なというのは、検証可能という意味です。そしてその理論は、未来に延長しても維持されると考えられるものであれば、未来予測は可能となります。
物理法則には、そのような理論予測できるものがたくさんあります。しかし、その予測も、理想的な条件を設定していることがあり、現実には誤差や不確かさが紛れ込んできます。摩擦や空気の抵抗、重心の位置、物質の表面の状態、物資の均質さなど、現実にはさまざまな誤差が紛れ込みます。ですから、長時間かかる現象、何回も繰り返される現象では、理論は正しくても、誤差が蓄積していって予測からだんだん外れることも起こります。
個々の生物が関係する現象や、地質学、気象学、海洋学などが扱う自然現象は、個々の原理は物理や化学に起因する原理でも、大きな自然としてみると、なかなか一筋縄でいかないものがたくさんあります。つまり、誤差や関与する条件が多すぎて、非常に複雑になり、理論化ができない現象です。
しかし、もし地球に関する科学で精度のよい理論予測ができれば、それは、非常に面白いものとなるはずです。そんな理論予測の例としてプレートテクトニクスというものがあります。プレートテクトニクス理論に基づくプレートの移動は、非常に精度良くできる予測です。それは、年間数センチメートルという非常にゆっくりとした観測された動きに基づいています。小さいな動きの積み重ねが、何百万年、何千万年という単位の未来予測を可能とします。その予測の時間単位が長すぎて、有用なのかどうか分からないほどです。
その他に、傾向予測というものがあります。理論ははっきりとしていないですが、そうなる傾向が、経験的に起こりそうだと分かることもあります。地震や火山は、いつ、どこで、どの程度ものが起こるかを、事前に正確に予測することはなかなか困難です。正確な規模や日時、場所がわからなくても、だいたいの検討はつけられます。
地震ならば、大地の圧力が常にかかっている地域で、ある場所で大きな地震があり、別のところではまだ大きな地震がないときは、おなじ圧力がその地域の岩石に蓄積されているはずです。その圧力が岩石の強度の限界に達っすれば、破壊が起こります。まだなのに地震が起こっていないのであれば、いつ起こってもおかしくありません。また、過去の現象からもその事実は裏づけされるでしょう。そこから、どの程度の地震が、どの程度の時間間隔で、その程度の確率で起こるかを予測しています。あまりに誤差が大きくて対処ができないほですが、これは、地震発生の危険度として考えることができます。
火山でも、一般的な火山は、あるプロセスを経ながら、火山として一生を過ごします。そのプロセスに要する時間や規模は、まだ詳細は十分解明されていませんが、概要は分かっています。例えば、富士山のような大きな成層火山は、やがては山体崩壊を起こすような噴火をして、カルデラを形成し、あとは中央や外輪山での火山活動となります。しかし、火山のある場所、プレート運動などによって、地域差もあり、本当にそのような一生を送るという保障はありません。あくまでも一般論としてです。でも、一般論に基づいて、富士山は今後もまだ活動する火山であると考えておいて対処した方が、危険回避できる可能性が大きくなります。
今問題になっている温暖化や温暖化を原因とする気候変動は、理論ではなく、傾向といっていいものかもしれません。本当に温暖化が起こっているのか、温暖化によって本当に気候変動が起こるのかなどは、まだ不確か部分がたくさん含まれています。研究者によっても気候変動の予測もかなり違いがあります。そもそも温暖化自体も疑っている研究者もいます。しかし、危険が予測できるのであれば、たとえ起こるかどうかわからなくても、予想に基づいて回避策をとったほうが安全でしょう。
その対策が間違っていれば困りますが。現在の温暖化の対策は、二酸化炭素の排出量の削減です。二酸化炭素こそが、温暖化という未来予測の重要な根拠となっており、現在もこの傾向は続いています。つまり、二酸化炭素は、実際に人類は大量に排出しているので、化石に燃料の使用を減らそうという考えが間違っていません。たとえ未来予測が間違っていても、問題はなく、化石燃料の温存につながります。
最後に、未来予測は不能なのですが、確率的に、歴史的にきっと起こりそうなものがあります。もちろん理論はありません。そんな現象として、地磁気の逆転、隕石の衝突、生物の絶滅などがあります。
地球の地層に記録された歴史を見ていくと、地磁気が何度も逆転しているこがわかります。その原因はまだ十分解明されていませんが、今後も地球は地磁気の逆転を起こしそうです。なぜならこれから地磁気の逆転が起きないという兆候はどこにもないからです。そのとき、どんなこが起こるか、あまり十分は予測はされていません。また、研究者の間でも、あまり議論されていないことです。ですから、現在、地磁気の逆転という現象の予測も対策も、公的には誰も対策していません。
また、隕石の衝突も小さなものは、しょっちゅう起こっています。日本でも数年に一度は、ニュースになるような隕石落下の事件が起こります。もし、このような衝突が、大きな隕石によるものであったら、その被害は甚大なものになります。恐竜の絶滅を思い起こしてください。恐竜の絶滅は、直径10kmほどの隕石が地球にぶつかったため、起こったと考えられています。もし同じ規模ものが起きれば、人類も滅亡することでしょう。しかし、その対策は、まだとられていません。観測体制すら未だ完備されていません。
生物の絶滅も必ず起こると考えられます。何億年も生き続けてきた生物は稀です、多くの種は、絶滅してきたことを地球の歴史は教えてくれます。その中で、人類だけを例外だと考える甘い人はそうそういないでしょう。しかし、生物がなぜ絶滅するのかは、本当のところはよく分かっていません。生存競争、環境変化、いろいろな原因があるのでしょうが、この生物はこの原因で絶滅したというのが分かっているのは、案外少ないのです。ですから、人類もあるとき突然絶滅へと向かうことだってあるかもしれません。それに対して私たちは、今のところ、何もするすべをもっていません。
このような科学的な未来予測は、まだまだ不十分です。しかし、もし科学的に未来予測ができたとすると、非常に論理的であるが故に、その結果は感情や温情などない非常の厳しいものとなります。そして、その予測された未来が、自分や人類に対して、過酷で耐えがたいものであったら、なんとか現在から、その危機を回避する手段を講じるべきでしょう。それこそ人類の知恵の見せ所ではないでしょうか。
・私にとってのメールマガジン・
明けまして、おめでとうございます。
2002年2月より、このメールマガジン「Terra Incognita 地球のつぶやき」はスタートしました。しかし、その前身は、2001年9月20日から「地球のつぶやき Monolog of the Earth」として、不定期ですが、100名限定の読者に配信し、7回まで公開していました。その頃から数えると5回目の新年となります。
思い起こせばいろいろな状況を経ながら、このマガジンを発行してきました。月に一度のことですから、それほど大変でないように思えます。確かに時間的余裕があり、書きたいことがあれば、2、3時間もあれば、発行できます。しかし、忙しさにかまけて、ついつい時間がない時もあります。そんなときは、あせりながら書いたこともあります。
現在では、いくつもネタ、つまり書きたいことが溜まっています。ただ、時間があるかどうかは、別です。その時その時の状況によって、発行の状況は違ってきます。このような状況の違いが、私にとっては思い出深いものとなっているのでしょう。
メールマガジンは、もちろん読者がいるので成立するシステムです。しかし、もしかすると、書くことを義務付けられることによって、自分自身が一番儲けているのかもしれません。
私にとってこのメールマガジンは、深く考えるということをいろいろ試行錯誤する場となっています。ですから、私は少なくとも毎月一つのことは、深く考えることを義務付けられているのです。どんなに忙しいときでも書き続けるということは大変ですが、そのノルマを果たせることを意味しています。だから、このメールマガジンは、私にとって非常にありがたい存在であります。そして、その先には読者がいるという緊張感が、いい加減さを戒めます。
年頭にそんなことを考えました。これは、未来予測ではなく、現状の確認でしょうかね。
2005年12月1日木曜日
47 科学的ということ(2005.12.01)
科学的に考えるといういい方は、よく聞きますし、よくします。なにも研究者間でなくても、日常会話にも出てきます。しかし、科学的に考えるということは、どういうことでしょうか。少し、科学的に考えて見ましょう。
科学的に考えることは、大切です。特に科学者は、科学的に考えられなければなりません。しかし、科学者でなくても、だれでも、複雑なことを考えるとき、ものごとを深く考えるとき、人と議論するときなどは、科学的に考えなければなりません。多くの人は、科学的に考えることが大切だと思っているはずでしょう。
「科学的に考える」とは、どういうことか、考えてみましょう。科学的に考えることは、分かりやすくいうと「すじ」が通ってるかどうかということです。論理的であるかどうかと、いい換えられます。論理学で論理というものが整理されていますが、そんなことを使わなくても、簡単に分かります。
すじが通っているということを、次のような例で紹介しましょう。
「この火山が危険だ」という人がいたとしましょう。この火山が、今現在は平穏で何の異変も感じないようなものなら、多くの人はどう思うでしょうか。あまり信じないかもしれません。なぜ、危険か聞きたくなるでしょう。
ですから、この危険性を訴えている人は、この火山の危険性を、他の人が納得できるように、説明しなければなりません。そんな時、すじの通る説明をしなければなりません。
まず、「この火山は、○○という理由で、危険だ」という言い方にすべきでしょう。もし、○○という理由が、誰でも納得できるもので、その理由と「危険だ」という結論に、だれでもわかるような因果関係や法則、規則などがあればいいわけです。これを、すじが通っていると呼んでいます。科学的検証にも耐えられるもの、耐えたものが、科学的ということになります。ですから、科学的と呼べるものは、多くの人が信じることができるものであるわけです。
しかし、多くの人が信じているからといって、科学的であるとはいえません。これは、重要なことです。だれも信じていなくても科学的なことがたくさんあります。いや、大発見とは、誰も信じていない、思いもしない結論から生まれることが多いのです。
ですから、科学的とは、結論の価値を評価するのではなく、すじが通ってるか、いないかが、最優先されることになります。もしすじが通っていれば、そのすじから生まれた結論は、価値にかかわりなく認めるという立場にいなければなりません。だから、どんなに、非常識なすじや論理であっても、その論理が否定できない限り、結論は受け入れられるべきです。認めたくない内容であっても、論理的には成立します。これが、科学的のいいところでもあり、悪いところでもあります。
自然の中には、分からないことがいっぱいあります。現状の科学では、どんなに科学的に考えても、解決できないこと、結論の出ないことがいっぱいあるということです。そんな肯定もできないし、否定できない考えかた(仮説)は、未解決問題として存在を許すべきです。それを否定するということは、分からないことは受け入れないということです。これでは、創造性の芽や発見のチャンスをなくてしてしまいます。
否定できないことは結論が出せない、という例として「幽霊が存在するか」ということで考えましょう。この話題は、メディアでたびたび取り上げられて、公開で討論されることもよくあります。しかし、科学的に考えれば、どのような議論になるかが、議論する前から分かります。少し考えてみましょう。
幽霊が存在するということに関して、意見を持っている人を、擁護派(人情的?)と否定派(科学的?)に分けることにしましょう。この問題に対して、科学的に決着をみるには、幽霊の存在を否定するか証明するか、幽霊の不在を証明するか否定するか、という4つの場合分けができます。擁護派がしたいことは、「幽霊の存在の証明」と「幽霊の不在の否定」です。否定派のしたいことは、「幽霊の存在の否定」と「幽霊の不在の証明」です。
それぞれの場合の難易度を考えて見ましょう。
擁護派の「幽霊の存在の証明」と「幽霊の不在の否定」とは実は同等で、同じ意味のことを、言い換えているだけです。擁護派は、幽霊が存在するという証拠を一つでも出せは、証明できます。一方、否定派の「幽霊の存在を否定」と「幽霊の不在の証明」とは同等で、「ない」ことを証明することになります。このないの証明は実に困難で、現実的にはこの世のありとあらゆる場所、もので幽霊がいないことを証明していかなければなりません。現実的には不可能なことです。
少々ややこしくなってしまいました。整理すると、幽霊擁護派は、非常に有利な立場にいます。擁護派が「存在する」ということを、科学的、論理的に証明するためには、原理的には簡単です。幽霊がいるという証拠を、万人が納得できるものを、1つでいいから提示すればいいのです。そんな証拠を提示できれば議論は終結します。しかし、現実は、その確たる証拠が、擁護派からは出せない状態でいます。
逆に、否定派が、科学的に「幽霊」を否定するには、「存在しない」ことを証明することです。しかし、科学的に「存在しない」という証明は、非常に難しく、現実にはできないのです。負けたくない擁護派の打つべき次善の策は、擁護派の出す幽霊の証拠をことごとく否定していくことになります。
かくして、幽霊がいるかいないかの議論は、擁護派が確たる証拠が出せず、幽霊否定派は幽霊擁護派の出す怪しい証拠を否定するという対処的な議論に終始します。これが、繰り返しおこなわれています。いってみれば、水掛け論になっていきます。これは、議論始める前から予想できます。
この幽霊の例から、次のようなことが分かってきます。幽霊の存在は、現状では、論理的に否定できません。そうであれば、「幽霊が存在する」という考えを仮定として認める姿勢が必要です。
もちろん、常識人にとって「幽霊が存在する」というこを受け入れるということは、非常識に類することかもしれません。しかし、これが幽霊だけではなく、存在証明のできない一般的なものだったらどうでしょう。否定してしてしまうでしょうか。
未知の地球外生命、未知の地球生物、未知の力、未知の粒子、未知の現象など、現在灰色のゾーンにあるものは、すべて同列に扱うべきではないでしょうか。これらは現状で、すべて論理的には否定できないということになります。これらの中には科学者が研究テーマとしてしているものもあります。そして、その中から新しい発見が生まれるはずです。
論理的であるのに、結論が非常識に見えるものに対しては、多数派である世間の風は冷たいものです。結論が独創的であればあるほど、非常識に見えることでしょう。ですから、非常識なことを考えるには、それなりの覚悟が必要となります。
でも、そんな常識の外、非常識の中に大発見があります。一般に、非常識な考えの大部分は、やはり「非常識」である場合が多いです。しかし、大発見と呼べるものは、少ないが故に、値打ちがあり「大」がつくのです。多数の本当の非常識の中には、ほんの少しだけ大発見が埋もれているのです。それを見逃していけません。それを受け入れる心の広さが必要です。
革命的、飛躍的な理論の出現は、一見非常識なことから生まれることがよくあります。科学の大発見も、同じです。そんな例として、アインシュタインの相対性理論の非常識を紹介しましょう。
アインシュタインは、当時の科学としては、非常識なことを考えました。それは、光の速度はいつでもどこでも一定ということや、空間が重力によって曲がるなどというものでした。現在でも、常識の世界で考えれば、これらは、非常識に思えます。しかし、このような非常識なことが、論理的には成立していることを、アインシュタインは数学的手法で証明しました。私たちの日常感覚では感じられない現象でした。
アインシュタインの偉大な点は、この仮説が他のものより優れていることを証明する方法として、ある科学的予測をしました。1911年、相対性理論に基づいて、日食の時、太陽の近辺に見える星が、太陽の重力空間が曲がり、天文学的に予測できる位置よりずれる(後にアインシュタイン効果と呼ばれた)ということを予想したのです。空間が歪むということの証明が、相対性理論の証明にもなります。このような予測は、従来の論理では、決して導けない現象です。しかし、このような予測は、両刃の刃です。もしその現象が観測できなければ、自分の理論の間違いを証明することにもなります。
その重大さを理解したエディントンは、1919年の日食時に、イギリスの王立天文学会と王立協会の天文チームを率いて、アインシュタイン効果の観測を苦労の末成し遂げました。その結果、アインシュタインの予測が正しいこと、そして相対性理論の正しいことの両方の証明に成功しました。
その後、素粒子の世界では、時間が延びるというアイシュタインの相対性理論の効果があることもわかってきました。現在では、相対性理論でなければ説明できない現象が一杯現れてきたため、相対性理論が、常識となっています。
非常識なことまで、考慮に入れるのは、大変です。たとえ受け入れたとしても、それを外に向けて公言し、実行することは勇気のいることです。もしそれが本当に非常識なものであれば、社会で、あるいは科学の世界では生きていけないかもしれません。ですから、このような重要な決断は、自分が決して譲れない時、場面にだけですることになりそうです。
以上考えてきたことから、科学の世界でも、科学的に考えても、決して答えの出ないこともあることがわかります。つまり科学は万能ではありません。もちろん、これも科学の成果でです。科学は万能でないことが、科学的に考えることからわかるのです。
・私の信条・
科学的に考えるということを、私は信条としています。もちろん、常に科学的に考えることが、ベストの選択とは限りません。時と場合に応じて、科学的に考える度合いを、調整しなければなりません。なぜなら、日常生活が、科学的に考えられ、すべて合理的なものだけで成り立っているわけではないからです。もし、日常生活を科学的に考えてだけいくと、ひどく生きづらい生活になりるはずです。
私の信条も、ですから、科学的に考えていい場合だけに適用するものにしています。日常生活を、常に科学的に考えているわけではありません。ちょっと優柔不断に見えますが、これは、経験上そうなったのです。
実は、私も、若い時には科学的に考える姿勢が結構徹底していたのですが、社会人になり、家族を持ち、他の人とのかかわり多くなると、そうもできなくなりました。平和に暮らすための知恵が付いたのでしょうか。
たとえば、SF小説、落語、ドラマ、どれも架空のもので、不合理なことがたくさん前提になったり起こったりしています。また、人間の生活や行動にも不合理なことが一杯あります。社会的な、憲法、法律、規則などにも、根拠がなく取り決められていることが一杯あります。
身内や友人の不合理な行動をいちいち否定していては、人間関係が成立しません。それに自分自身の行動にも不合理なものが一杯あります。それをいちいち否定していては、一歩も踏み出せなくなります。
ですから科学的に振舞うのは、ほどほどにすべきだと考えています。非常識な結論が出た場合、それに沿って振舞うのは、自分が一番大切にしている世界だけにしたほうがいいと考えています。
でも、自分の住む世界で、非常識なでもすばらしい結論が出たとしたら、私はそれに乗っかります。そしてその心積もりはしています。でも、問題があります。それは、そんなアイディアや大発見ができないことです。こればかりは、どうしようもありませんね。
科学的に考えることは、大切です。特に科学者は、科学的に考えられなければなりません。しかし、科学者でなくても、だれでも、複雑なことを考えるとき、ものごとを深く考えるとき、人と議論するときなどは、科学的に考えなければなりません。多くの人は、科学的に考えることが大切だと思っているはずでしょう。
「科学的に考える」とは、どういうことか、考えてみましょう。科学的に考えることは、分かりやすくいうと「すじ」が通ってるかどうかということです。論理的であるかどうかと、いい換えられます。論理学で論理というものが整理されていますが、そんなことを使わなくても、簡単に分かります。
すじが通っているということを、次のような例で紹介しましょう。
「この火山が危険だ」という人がいたとしましょう。この火山が、今現在は平穏で何の異変も感じないようなものなら、多くの人はどう思うでしょうか。あまり信じないかもしれません。なぜ、危険か聞きたくなるでしょう。
ですから、この危険性を訴えている人は、この火山の危険性を、他の人が納得できるように、説明しなければなりません。そんな時、すじの通る説明をしなければなりません。
まず、「この火山は、○○という理由で、危険だ」という言い方にすべきでしょう。もし、○○という理由が、誰でも納得できるもので、その理由と「危険だ」という結論に、だれでもわかるような因果関係や法則、規則などがあればいいわけです。これを、すじが通っていると呼んでいます。科学的検証にも耐えられるもの、耐えたものが、科学的ということになります。ですから、科学的と呼べるものは、多くの人が信じることができるものであるわけです。
しかし、多くの人が信じているからといって、科学的であるとはいえません。これは、重要なことです。だれも信じていなくても科学的なことがたくさんあります。いや、大発見とは、誰も信じていない、思いもしない結論から生まれることが多いのです。
ですから、科学的とは、結論の価値を評価するのではなく、すじが通ってるか、いないかが、最優先されることになります。もしすじが通っていれば、そのすじから生まれた結論は、価値にかかわりなく認めるという立場にいなければなりません。だから、どんなに、非常識なすじや論理であっても、その論理が否定できない限り、結論は受け入れられるべきです。認めたくない内容であっても、論理的には成立します。これが、科学的のいいところでもあり、悪いところでもあります。
自然の中には、分からないことがいっぱいあります。現状の科学では、どんなに科学的に考えても、解決できないこと、結論の出ないことがいっぱいあるということです。そんな肯定もできないし、否定できない考えかた(仮説)は、未解決問題として存在を許すべきです。それを否定するということは、分からないことは受け入れないということです。これでは、創造性の芽や発見のチャンスをなくてしてしまいます。
否定できないことは結論が出せない、という例として「幽霊が存在するか」ということで考えましょう。この話題は、メディアでたびたび取り上げられて、公開で討論されることもよくあります。しかし、科学的に考えれば、どのような議論になるかが、議論する前から分かります。少し考えてみましょう。
幽霊が存在するということに関して、意見を持っている人を、擁護派(人情的?)と否定派(科学的?)に分けることにしましょう。この問題に対して、科学的に決着をみるには、幽霊の存在を否定するか証明するか、幽霊の不在を証明するか否定するか、という4つの場合分けができます。擁護派がしたいことは、「幽霊の存在の証明」と「幽霊の不在の否定」です。否定派のしたいことは、「幽霊の存在の否定」と「幽霊の不在の証明」です。
それぞれの場合の難易度を考えて見ましょう。
擁護派の「幽霊の存在の証明」と「幽霊の不在の否定」とは実は同等で、同じ意味のことを、言い換えているだけです。擁護派は、幽霊が存在するという証拠を一つでも出せは、証明できます。一方、否定派の「幽霊の存在を否定」と「幽霊の不在の証明」とは同等で、「ない」ことを証明することになります。このないの証明は実に困難で、現実的にはこの世のありとあらゆる場所、もので幽霊がいないことを証明していかなければなりません。現実的には不可能なことです。
少々ややこしくなってしまいました。整理すると、幽霊擁護派は、非常に有利な立場にいます。擁護派が「存在する」ということを、科学的、論理的に証明するためには、原理的には簡単です。幽霊がいるという証拠を、万人が納得できるものを、1つでいいから提示すればいいのです。そんな証拠を提示できれば議論は終結します。しかし、現実は、その確たる証拠が、擁護派からは出せない状態でいます。
逆に、否定派が、科学的に「幽霊」を否定するには、「存在しない」ことを証明することです。しかし、科学的に「存在しない」という証明は、非常に難しく、現実にはできないのです。負けたくない擁護派の打つべき次善の策は、擁護派の出す幽霊の証拠をことごとく否定していくことになります。
かくして、幽霊がいるかいないかの議論は、擁護派が確たる証拠が出せず、幽霊否定派は幽霊擁護派の出す怪しい証拠を否定するという対処的な議論に終始します。これが、繰り返しおこなわれています。いってみれば、水掛け論になっていきます。これは、議論始める前から予想できます。
この幽霊の例から、次のようなことが分かってきます。幽霊の存在は、現状では、論理的に否定できません。そうであれば、「幽霊が存在する」という考えを仮定として認める姿勢が必要です。
もちろん、常識人にとって「幽霊が存在する」というこを受け入れるということは、非常識に類することかもしれません。しかし、これが幽霊だけではなく、存在証明のできない一般的なものだったらどうでしょう。否定してしてしまうでしょうか。
未知の地球外生命、未知の地球生物、未知の力、未知の粒子、未知の現象など、現在灰色のゾーンにあるものは、すべて同列に扱うべきではないでしょうか。これらは現状で、すべて論理的には否定できないということになります。これらの中には科学者が研究テーマとしてしているものもあります。そして、その中から新しい発見が生まれるはずです。
論理的であるのに、結論が非常識に見えるものに対しては、多数派である世間の風は冷たいものです。結論が独創的であればあるほど、非常識に見えることでしょう。ですから、非常識なことを考えるには、それなりの覚悟が必要となります。
でも、そんな常識の外、非常識の中に大発見があります。一般に、非常識な考えの大部分は、やはり「非常識」である場合が多いです。しかし、大発見と呼べるものは、少ないが故に、値打ちがあり「大」がつくのです。多数の本当の非常識の中には、ほんの少しだけ大発見が埋もれているのです。それを見逃していけません。それを受け入れる心の広さが必要です。
革命的、飛躍的な理論の出現は、一見非常識なことから生まれることがよくあります。科学の大発見も、同じです。そんな例として、アインシュタインの相対性理論の非常識を紹介しましょう。
アインシュタインは、当時の科学としては、非常識なことを考えました。それは、光の速度はいつでもどこでも一定ということや、空間が重力によって曲がるなどというものでした。現在でも、常識の世界で考えれば、これらは、非常識に思えます。しかし、このような非常識なことが、論理的には成立していることを、アインシュタインは数学的手法で証明しました。私たちの日常感覚では感じられない現象でした。
アインシュタインの偉大な点は、この仮説が他のものより優れていることを証明する方法として、ある科学的予測をしました。1911年、相対性理論に基づいて、日食の時、太陽の近辺に見える星が、太陽の重力空間が曲がり、天文学的に予測できる位置よりずれる(後にアインシュタイン効果と呼ばれた)ということを予想したのです。空間が歪むということの証明が、相対性理論の証明にもなります。このような予測は、従来の論理では、決して導けない現象です。しかし、このような予測は、両刃の刃です。もしその現象が観測できなければ、自分の理論の間違いを証明することにもなります。
その重大さを理解したエディントンは、1919年の日食時に、イギリスの王立天文学会と王立協会の天文チームを率いて、アインシュタイン効果の観測を苦労の末成し遂げました。その結果、アインシュタインの予測が正しいこと、そして相対性理論の正しいことの両方の証明に成功しました。
その後、素粒子の世界では、時間が延びるというアイシュタインの相対性理論の効果があることもわかってきました。現在では、相対性理論でなければ説明できない現象が一杯現れてきたため、相対性理論が、常識となっています。
非常識なことまで、考慮に入れるのは、大変です。たとえ受け入れたとしても、それを外に向けて公言し、実行することは勇気のいることです。もしそれが本当に非常識なものであれば、社会で、あるいは科学の世界では生きていけないかもしれません。ですから、このような重要な決断は、自分が決して譲れない時、場面にだけですることになりそうです。
以上考えてきたことから、科学の世界でも、科学的に考えても、決して答えの出ないこともあることがわかります。つまり科学は万能ではありません。もちろん、これも科学の成果でです。科学は万能でないことが、科学的に考えることからわかるのです。
・私の信条・
科学的に考えるということを、私は信条としています。もちろん、常に科学的に考えることが、ベストの選択とは限りません。時と場合に応じて、科学的に考える度合いを、調整しなければなりません。なぜなら、日常生活が、科学的に考えられ、すべて合理的なものだけで成り立っているわけではないからです。もし、日常生活を科学的に考えてだけいくと、ひどく生きづらい生活になりるはずです。
私の信条も、ですから、科学的に考えていい場合だけに適用するものにしています。日常生活を、常に科学的に考えているわけではありません。ちょっと優柔不断に見えますが、これは、経験上そうなったのです。
実は、私も、若い時には科学的に考える姿勢が結構徹底していたのですが、社会人になり、家族を持ち、他の人とのかかわり多くなると、そうもできなくなりました。平和に暮らすための知恵が付いたのでしょうか。
たとえば、SF小説、落語、ドラマ、どれも架空のもので、不合理なことがたくさん前提になったり起こったりしています。また、人間の生活や行動にも不合理なことが一杯あります。社会的な、憲法、法律、規則などにも、根拠がなく取り決められていることが一杯あります。
身内や友人の不合理な行動をいちいち否定していては、人間関係が成立しません。それに自分自身の行動にも不合理なものが一杯あります。それをいちいち否定していては、一歩も踏み出せなくなります。
ですから科学的に振舞うのは、ほどほどにすべきだと考えています。非常識な結論が出た場合、それに沿って振舞うのは、自分が一番大切にしている世界だけにしたほうがいいと考えています。
でも、自分の住む世界で、非常識なでもすばらしい結論が出たとしたら、私はそれに乗っかります。そしてその心積もりはしています。でも、問題があります。それは、そんなアイディアや大発見ができないことです。こればかりは、どうしようもありませんね。
2005年11月1日火曜日
46 道具考:こだわり(2005.11.01)
現代社会では「もったいない」という言葉は死語に近くなっています。しかし、荷物を整理していたら「もったいない」という言葉をふと思い出しました。そんな話をしましょう。
皆さんには、「こだわり」のものがあるでしょうか。ある人は車にこだわっているかもしれません。たとえ買えなくても、いつも新車の情報には敏感になっていることでしょう。またある人は、ゴルフに凝っているかもしれません。ゴルフに出かける日には、どんなに早くても、眠くても、起きて出かけ、家族に嫌味を言われているかもしれません。他にも、いろいろなものにこだわりを持っている人がいることでしょう。スキー、カメラ、映画、旅行、温泉、最近では、パソコンや携帯電話、Blogなどもあるかもしれません。
もちろん私も、例外ではありません。こだわりのものがあります。
先日、研究室の片隅にあった箱を整理しました。箱を再利用したいので、中身を整理したのです。箱には、かつて使っていた地質調査の道具が入っていました。中には、地質調査で長年愛用してきた薄汚れた調査カバン、調査用のベスト(チョッキ)などが入ってました。いらないものは捨てて、いるものは別のところにしまって、箱だけを使いたいのです。
真っ先に捨てる決断をしたのは、ベストでした。ベストは釣り道具屋さんで見つけた安いものでした。しかし、10年以上着慣れていたせいか、少々のくたびれていましたが、結構最近も使っていました。あちこち破れているのですが、その度に自分で繕ってきました。もちろん繕い方は下手くそで、見苦しいのですが、山の中の調査ですから、気にせず使っていました。でも、もうそのような調査をすることはありませんので、捨てることにしました。思い出は一杯詰まっていますが、必要がないので捨てました。十分使ったという気持ちがありました。
もう一つの地質調査用カバンです。調査用カバンのといっても特別なことはありません。キャンバス地で作られたショルダーバックです。地質調査の専門店に行けば、市販品があります。しかしこれは、市販品ではありませんでした。特注品でした。特注品といっても、そんなに高価なものではありません。
大学の近くには、何軒か山道具店がありました。中には自分の店で、リュックサックなどを作っているところがあり、頼めばリュックも、結構自由に改造してくれました。以前、そこで売っていたリュックの細工を変えてもらったことがありました。その費用は忘れましたが学生時代ですからほとんどお金もかからなかったと思います。
その後その店で、自分が使いやすい調査カバンを、特別に注文して作ってもらうことにしました。一人で頼むと高くなるというので、安くするために、友人たちと一緒に数個注文することにしました。
この特注で一番注意を払ったのは、頑丈であることと、防水加工です。地質調査では、道無き所をヤブコギをしながら調査することも多く、石など一杯入れることもあるので、頑丈であることが重要でした。また、地質調査では沢沿いを歩くことが多いので、濡れることもあります。ですから、少々雫が飛んでも、雨が降っても、中が濡れないようになっていることが大切です。この特注の調査カバンは、頑丈さと防水という条件を満たすように、作ってただきました。
このカバンは、市販の調査カバンより少々高かった記憶があります。しかし、なんと言っても自分が考えたデザインで、自分が使いやすいものです。もともと白い色をしていたのですが、長年の野外調査で使ってきたので、汚れもひどく、金属の部分はところどころサビが出ています。
今では研究テーマの変更に伴って、以前のような地質調査はしなくなりました。川や海に調査に出かけますが、車でいけるところが主な調査地になっています。現在は、市販のショルダーバックにカメラの撮影道具を入れて使っています。もちろん、石や砂も入れます。しかし、なかなかいいカバンがなくて、いくつか使い比べてみたのですが、まだ満足するものに出会えません。
実は、このカバンは捨てることができませんでした。次に使う機会がないかもしれませんが、とりあえず、しまってあります。このカバン以上の良いカバンが見つからないことと、やはりこだわりがあったからでしょう。
この調査カバンに、最近、自分はこだわっているなと感じたものです。前置きが長くなりましたが、こだわりがもうひとつあります。それは、私の研究と生き方に関するものです。
私は、田舎が好きです。できれば田舎で、自分の好きなことをして生きていければ最高だと思っています。現状はベストではありませんが、ベターな環境であると考えています。私にとって暮らしやすい田舎という環境で自分の研究を進め、そこから全国に向けてその成果を発信したいと考えています。これが、私にとって、一番の、そして生涯かけてのこだわりであります。
今では、パソコンとインターネットさえあれば、いいものさえ発信すれば、世界にその存在を示すことできます。そのためには、電気があり、インターネット、できれは高速回線があり、食べるための働き口、できれば自分の好きなことで給料がもらえるという環境さえあれば、どこでもいいのです。もしそうなら、自分のとって暮らしやすいところがベストの環境になります。私にとって、その条件を満たす環境が田舎でした。
現実はそう甘くはありません。田舎にはハンディがあります。インターネットだけが、自分の成果をアピールをする場ではないからです。やはり人の多いところで、その成果を発表しなければなりません。学問や研究の世界では、学会やシンポジウム、研究会などにマメに顔を出して、成果をアピールすることです。
また、最新情報が田舎には流れにくいという弱点もあります。インターネットに流れない情報もたくさんあるからです。それを収集するには、人の集まるところに行かなければなりません。つまり学会など、同じ分野の研究者が集まるところです。それは、大抵は東京近辺の都会で行われます。学会での人の意見や議論から、その分野の先端や問題点などが見えてきます。あるいはキーマンと話をすれば、もっと確実は情報を得られます。彼らは大抵都会に住んでいます。
理想的には、実力と実績があれば、たとえ田舎にいても、その存在感をアピールすることはできるでしょう。その点でも、私はまだまだです。
ただ、学問の世界は、比較的フェアな評価を受けます。研究論文を定期的に書き、その内容がよければ、それなりの評価を受けます。立場や肩書きは関係ありません。私は、独自の学問世界を、何とか作り上げられないかと考えています。それは、いろいろ実践的に試しながら、深く考えながら、さまざまな経験をつまなければなりません。もちろん、私はまだ途上です。
これは自分の信条ですが、同じようなこだわりをもった人がいるとついつい応援したくなります。そんな人と最近知り合いになりました。
北海道の襟裳岬に近い浦河町にある小さな三栄堂という電気店の店主、三上さんという方です。新聞記事で三上さんが開発したソフト「PC Letter」というものを知りました。早速そのホームページをみて、そのPC Letterというソフトを体験しました。体験といったのは、このソフトは、音声ファイルとカーソルの動きを記録して、一緒に一つのファイルにして、コンパクトに送るものです。ですから聞いて見なければならないのです。
もともとはこのソフトは、手軽に心のこもった返事を送りたいという発想から生まれたようですが、このソフトに、私は2つの点で心を動かされました。それは、田舎からの発信であることと、私の研究の欠点をこのソフトが補ってくれるのではないかということです。
上で述べたように、私自身が田舎からの発信を理想としていて、それにはハンディがあることも経験しています。三上さんも同じ境遇にいるのですが、めげることなくがんばっている姿が私の励みになりました。そして、なにより彼のこのソフトに対するこだわりを感じました。
また、研究の道具として、このソフトは使えると純粋に感じました。今まで私は、科学教育をインターネットを活用して行ってきました。文字と画像がその主な伝達手段です。この文字と画像というメディアは、受身の人にとっては、簡単に切り捨てられるものです。もっと心のこもったもの、これは面白いという気持ち、自分の教えたい熱意が、どうすれば伝わるようなメディアがなかい以前から探していました。
そんなメディアとして映像がいいことは分かっています。でも、自分自身で映像を扱う気になりませんでした。映像をインターネットで配信するストリーミングの技術があり、私の大学でも実用化されてきています。それを使えばいいのですが、一人でするには、大掛かりすぎるし、だれでも見られるものではありません。それにその効果も不確かです。
そんなとき、このPC Letterというソフトに出会ったのです。このソフトは、動画を送信するものではありません。静止画と音声、そしてカーソルの動きの記録を、一つのファイルとして作成します。そのファイルは、コンパクトになります。しかし、音声があり、カーソルが動き、そのカーソルで字が書けます。それらによって臨場感が伝わります。送り手の感情が直接伝わります。そして、ストリーミングには、決してマネのできない手軽さです。さらに、手ごろな価格でソフトは手に入ります。
私は以前やっていた「Terraの科学」という地球科学の講義を、この「PC Letter」というソフトを使ってやってみたいと考えました。もっと多くの人が私の伝えたい学問を聞いてい欲しいと考えたからです。そのためには、現状のソフトの仕様のままでは、いくつか問題がありました。それを改良する必要があります。
私自身がこのソフトで作られたものを聞いていいと感じてから、2005年4月はじめに三上さんに連絡を取り、制作のために試用させていただきました。つくる側を経験することで、このソフトが私の目的に合うかどうかを試したのです。やはり予想通りに素晴らしいものでした。ただし、講義を配信するには、今の仕様ではいろいろ使いづらいところがありました。そこで、私が使いやすいように、ソフトの改良をお願いしました。三上さんは快くその願いを聞いていただきました。
そのかいあって、満足のいく仕様になって来ました。そして、PC Letterを用いて「Terraの科学(Part 2)」というタイトルの講義を11月から始めることにしました。この講義は半年がかりで準備してきたことになります。PC Letterは、今でも、使い方が分からなくなることがあり、しょっちゅう三上さんに問い合わせをしています。習うより慣れろですね。
やっと研究に使える良い道具にめぐり合えました。あとは、PC Letterを使い込んで、良いコンテンツを作り上げることです。良いコンテンツができれば、このPC Letterというソフトの宣伝にもなると思っています。それが三上さんの私への助力に対するお返しになると考えています。
お互い田舎というハンディをメリットに変わる日が来るように、がんばっていくことになります。まだ、私の新しい試みは始まったばかりです。でも、良い道具、良い人にめぐり合えたと思っています。このめぐり合いを大切にして、PC Letterを長く使い込んで「こだわりの道具」にしたいものです。
・新しいメールマガジン・
ここで紹介したPC Letterは、百聞は一見に如かずのことわざ通り、試してみるしかありません。このPC Letterのソフトを聞くためには、専用のプレイヤーが必要となります。詳しくは、次のホームページを見てください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、三上さんのPC LetterのBlogは
http://pcltr.com/blog/
です。
このPC Letterを使って新しい週刊メールマガジン「Terraの科学」を発行しています。よろしければ、お読みください。登録は次のところからできます。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
宣伝になりましたが、こだわりの道具自慢と思ってください。
・こだわり一品・
現在は消費社会といわれ、壊れれば捨てるという社会です。いやいや、壊れてなくても、いらないから捨てることだってあります。後発の工業製品は、便利になおかつ安くという理念のもとに、すでに持っているものでも、買い替えを促すような販売戦略をとります。消費者はそれに乗っかっています。経済効率を考えると、これがいいのかもしれません。
いつからこんな社会になったのでしょう。普通の感覚では、使い捨てはダメ、使えるものを捨てるのはダメ、ものを大切にしようという気持ちは、誰だって持っています。でも、どうせ使うなら安くていいものにしたいと、ついつい考えています。
そんなとき、今回のエッセイで紹介した捨てることのできなかった調査カバンが箱の中から出てきました。十分使える状態です。特注の頑丈にという機能が、まだ生きています。多分私より長持ちしそうです。
そんなカバンに新たな使い方で、新たな付き合いができればと考えています。今は物置にしまっていますが。今回のエッセイを書きながら、取り出してきれいにして、今後の調査に使えないか試してみたと考えました。なにせ、こだわり一品ですから。
皆さんには、「こだわり」のものがあるでしょうか。ある人は車にこだわっているかもしれません。たとえ買えなくても、いつも新車の情報には敏感になっていることでしょう。またある人は、ゴルフに凝っているかもしれません。ゴルフに出かける日には、どんなに早くても、眠くても、起きて出かけ、家族に嫌味を言われているかもしれません。他にも、いろいろなものにこだわりを持っている人がいることでしょう。スキー、カメラ、映画、旅行、温泉、最近では、パソコンや携帯電話、Blogなどもあるかもしれません。
もちろん私も、例外ではありません。こだわりのものがあります。
先日、研究室の片隅にあった箱を整理しました。箱を再利用したいので、中身を整理したのです。箱には、かつて使っていた地質調査の道具が入っていました。中には、地質調査で長年愛用してきた薄汚れた調査カバン、調査用のベスト(チョッキ)などが入ってました。いらないものは捨てて、いるものは別のところにしまって、箱だけを使いたいのです。
真っ先に捨てる決断をしたのは、ベストでした。ベストは釣り道具屋さんで見つけた安いものでした。しかし、10年以上着慣れていたせいか、少々のくたびれていましたが、結構最近も使っていました。あちこち破れているのですが、その度に自分で繕ってきました。もちろん繕い方は下手くそで、見苦しいのですが、山の中の調査ですから、気にせず使っていました。でも、もうそのような調査をすることはありませんので、捨てることにしました。思い出は一杯詰まっていますが、必要がないので捨てました。十分使ったという気持ちがありました。
もう一つの地質調査用カバンです。調査用カバンのといっても特別なことはありません。キャンバス地で作られたショルダーバックです。地質調査の専門店に行けば、市販品があります。しかしこれは、市販品ではありませんでした。特注品でした。特注品といっても、そんなに高価なものではありません。
大学の近くには、何軒か山道具店がありました。中には自分の店で、リュックサックなどを作っているところがあり、頼めばリュックも、結構自由に改造してくれました。以前、そこで売っていたリュックの細工を変えてもらったことがありました。その費用は忘れましたが学生時代ですからほとんどお金もかからなかったと思います。
その後その店で、自分が使いやすい調査カバンを、特別に注文して作ってもらうことにしました。一人で頼むと高くなるというので、安くするために、友人たちと一緒に数個注文することにしました。
この特注で一番注意を払ったのは、頑丈であることと、防水加工です。地質調査では、道無き所をヤブコギをしながら調査することも多く、石など一杯入れることもあるので、頑丈であることが重要でした。また、地質調査では沢沿いを歩くことが多いので、濡れることもあります。ですから、少々雫が飛んでも、雨が降っても、中が濡れないようになっていることが大切です。この特注の調査カバンは、頑丈さと防水という条件を満たすように、作ってただきました。
このカバンは、市販の調査カバンより少々高かった記憶があります。しかし、なんと言っても自分が考えたデザインで、自分が使いやすいものです。もともと白い色をしていたのですが、長年の野外調査で使ってきたので、汚れもひどく、金属の部分はところどころサビが出ています。
今では研究テーマの変更に伴って、以前のような地質調査はしなくなりました。川や海に調査に出かけますが、車でいけるところが主な調査地になっています。現在は、市販のショルダーバックにカメラの撮影道具を入れて使っています。もちろん、石や砂も入れます。しかし、なかなかいいカバンがなくて、いくつか使い比べてみたのですが、まだ満足するものに出会えません。
実は、このカバンは捨てることができませんでした。次に使う機会がないかもしれませんが、とりあえず、しまってあります。このカバン以上の良いカバンが見つからないことと、やはりこだわりがあったからでしょう。
この調査カバンに、最近、自分はこだわっているなと感じたものです。前置きが長くなりましたが、こだわりがもうひとつあります。それは、私の研究と生き方に関するものです。
私は、田舎が好きです。できれば田舎で、自分の好きなことをして生きていければ最高だと思っています。現状はベストではありませんが、ベターな環境であると考えています。私にとって暮らしやすい田舎という環境で自分の研究を進め、そこから全国に向けてその成果を発信したいと考えています。これが、私にとって、一番の、そして生涯かけてのこだわりであります。
今では、パソコンとインターネットさえあれば、いいものさえ発信すれば、世界にその存在を示すことできます。そのためには、電気があり、インターネット、できれは高速回線があり、食べるための働き口、できれば自分の好きなことで給料がもらえるという環境さえあれば、どこでもいいのです。もしそうなら、自分のとって暮らしやすいところがベストの環境になります。私にとって、その条件を満たす環境が田舎でした。
現実はそう甘くはありません。田舎にはハンディがあります。インターネットだけが、自分の成果をアピールをする場ではないからです。やはり人の多いところで、その成果を発表しなければなりません。学問や研究の世界では、学会やシンポジウム、研究会などにマメに顔を出して、成果をアピールすることです。
また、最新情報が田舎には流れにくいという弱点もあります。インターネットに流れない情報もたくさんあるからです。それを収集するには、人の集まるところに行かなければなりません。つまり学会など、同じ分野の研究者が集まるところです。それは、大抵は東京近辺の都会で行われます。学会での人の意見や議論から、その分野の先端や問題点などが見えてきます。あるいはキーマンと話をすれば、もっと確実は情報を得られます。彼らは大抵都会に住んでいます。
理想的には、実力と実績があれば、たとえ田舎にいても、その存在感をアピールすることはできるでしょう。その点でも、私はまだまだです。
ただ、学問の世界は、比較的フェアな評価を受けます。研究論文を定期的に書き、その内容がよければ、それなりの評価を受けます。立場や肩書きは関係ありません。私は、独自の学問世界を、何とか作り上げられないかと考えています。それは、いろいろ実践的に試しながら、深く考えながら、さまざまな経験をつまなければなりません。もちろん、私はまだ途上です。
これは自分の信条ですが、同じようなこだわりをもった人がいるとついつい応援したくなります。そんな人と最近知り合いになりました。
北海道の襟裳岬に近い浦河町にある小さな三栄堂という電気店の店主、三上さんという方です。新聞記事で三上さんが開発したソフト「PC Letter」というものを知りました。早速そのホームページをみて、そのPC Letterというソフトを体験しました。体験といったのは、このソフトは、音声ファイルとカーソルの動きを記録して、一緒に一つのファイルにして、コンパクトに送るものです。ですから聞いて見なければならないのです。
もともとはこのソフトは、手軽に心のこもった返事を送りたいという発想から生まれたようですが、このソフトに、私は2つの点で心を動かされました。それは、田舎からの発信であることと、私の研究の欠点をこのソフトが補ってくれるのではないかということです。
上で述べたように、私自身が田舎からの発信を理想としていて、それにはハンディがあることも経験しています。三上さんも同じ境遇にいるのですが、めげることなくがんばっている姿が私の励みになりました。そして、なにより彼のこのソフトに対するこだわりを感じました。
また、研究の道具として、このソフトは使えると純粋に感じました。今まで私は、科学教育をインターネットを活用して行ってきました。文字と画像がその主な伝達手段です。この文字と画像というメディアは、受身の人にとっては、簡単に切り捨てられるものです。もっと心のこもったもの、これは面白いという気持ち、自分の教えたい熱意が、どうすれば伝わるようなメディアがなかい以前から探していました。
そんなメディアとして映像がいいことは分かっています。でも、自分自身で映像を扱う気になりませんでした。映像をインターネットで配信するストリーミングの技術があり、私の大学でも実用化されてきています。それを使えばいいのですが、一人でするには、大掛かりすぎるし、だれでも見られるものではありません。それにその効果も不確かです。
そんなとき、このPC Letterというソフトに出会ったのです。このソフトは、動画を送信するものではありません。静止画と音声、そしてカーソルの動きの記録を、一つのファイルとして作成します。そのファイルは、コンパクトになります。しかし、音声があり、カーソルが動き、そのカーソルで字が書けます。それらによって臨場感が伝わります。送り手の感情が直接伝わります。そして、ストリーミングには、決してマネのできない手軽さです。さらに、手ごろな価格でソフトは手に入ります。
私は以前やっていた「Terraの科学」という地球科学の講義を、この「PC Letter」というソフトを使ってやってみたいと考えました。もっと多くの人が私の伝えたい学問を聞いてい欲しいと考えたからです。そのためには、現状のソフトの仕様のままでは、いくつか問題がありました。それを改良する必要があります。
私自身がこのソフトで作られたものを聞いていいと感じてから、2005年4月はじめに三上さんに連絡を取り、制作のために試用させていただきました。つくる側を経験することで、このソフトが私の目的に合うかどうかを試したのです。やはり予想通りに素晴らしいものでした。ただし、講義を配信するには、今の仕様ではいろいろ使いづらいところがありました。そこで、私が使いやすいように、ソフトの改良をお願いしました。三上さんは快くその願いを聞いていただきました。
そのかいあって、満足のいく仕様になって来ました。そして、PC Letterを用いて「Terraの科学(Part 2)」というタイトルの講義を11月から始めることにしました。この講義は半年がかりで準備してきたことになります。PC Letterは、今でも、使い方が分からなくなることがあり、しょっちゅう三上さんに問い合わせをしています。習うより慣れろですね。
やっと研究に使える良い道具にめぐり合えました。あとは、PC Letterを使い込んで、良いコンテンツを作り上げることです。良いコンテンツができれば、このPC Letterというソフトの宣伝にもなると思っています。それが三上さんの私への助力に対するお返しになると考えています。
お互い田舎というハンディをメリットに変わる日が来るように、がんばっていくことになります。まだ、私の新しい試みは始まったばかりです。でも、良い道具、良い人にめぐり合えたと思っています。このめぐり合いを大切にして、PC Letterを長く使い込んで「こだわりの道具」にしたいものです。
・新しいメールマガジン・
ここで紹介したPC Letterは、百聞は一見に如かずのことわざ通り、試してみるしかありません。このPC Letterのソフトを聞くためには、専用のプレイヤーが必要となります。詳しくは、次のホームページを見てください。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/index.html
また、三上さんのPC LetterのBlogは
http://pcltr.com/blog/
です。
このPC Letterを使って新しい週刊メールマガジン「Terraの科学」を発行しています。よろしければ、お読みください。登録は次のところからできます。
http://terra.sgu.ac.jp/pclecture/regist.html
宣伝になりましたが、こだわりの道具自慢と思ってください。
・こだわり一品・
現在は消費社会といわれ、壊れれば捨てるという社会です。いやいや、壊れてなくても、いらないから捨てることだってあります。後発の工業製品は、便利になおかつ安くという理念のもとに、すでに持っているものでも、買い替えを促すような販売戦略をとります。消費者はそれに乗っかっています。経済効率を考えると、これがいいのかもしれません。
いつからこんな社会になったのでしょう。普通の感覚では、使い捨てはダメ、使えるものを捨てるのはダメ、ものを大切にしようという気持ちは、誰だって持っています。でも、どうせ使うなら安くていいものにしたいと、ついつい考えています。
そんなとき、今回のエッセイで紹介した捨てることのできなかった調査カバンが箱の中から出てきました。十分使える状態です。特注の頑丈にという機能が、まだ生きています。多分私より長持ちしそうです。
そんなカバンに新たな使い方で、新たな付き合いができればと考えています。今は物置にしまっていますが。今回のエッセイを書きながら、取り出してきれいにして、今後の調査に使えないか試してみたと考えました。なにせ、こだわり一品ですから。
2005年10月1日土曜日
45 想像力:地球を拡大する(2005.10.01)
人には想像力という偉大な力があります。そんな想像力を駆使して地球を考えていきましょう。
人はいろいろなことを想像できます。しかし、想像した結果は、人それぞれで、場合や状況によっても、経験や知識によっても、違ってくるでしょう。人間がせっかく持っている能力ですから、想像する力を有効に使うべきでしょう。
こんな質問をしましょう。この世で一番大きいものは何か想像してください。いろいろなものがあるでしょう。それはなんでもいいのです。きっと手のひらに乗るようなものではないでしょう。
でもその想像したもの、例えば「宇宙」としましょう、が手のひらサイズであったとしましょう。するとどうでしょう。頭の中では、創造した瞬間に宇宙が手のひらサイズになります。それは、この世で一番大きいもののはずです。宇宙であれば、半径は光がたどり着くのに137億年もかかる大きさなのです。それを、頭の中では一瞬にして想像できるのです。すばらしい力です。
でも、孫悟空が筋斗雲(きんとうん)に乗って遠くまでいったのですが、それは所詮お釈迦様の手のひらの中であったという話に似ていますね。
もう一つ質問です。この世で一番大切なものはなんですか。これはそれこそ人それぞれでしょう。金、名誉、感情、愛、理性、家族などいろいろなものがあったでしょう。さまざまな答えがありうるのですが、誰でも一番大切なものは「自分」であるはず。すべて「自分」が存在するから金が必要で、名誉を守なければならず、感情、愛、理性は「自分」があるから存在します。「自分」がなければ、その家族はもやは「自分」の家族でありません。
このような考えは、誰もわかっているのことなのですが、いわれるまで、ついつい忘れていることです。このように忘れていることを思い出さしてくれるのも想像力ではないでしょうか。
では次に、地球を想像しましょう。
ある人は、自分が立っている大地を地球を想像したかもしれません。その人が想像した地球は、もっと一般的な言葉でいえば、固体の地球(固体地球といういいかたをします)です。これも地球の姿です。
またある人は、宇宙から見た青い地球を想像したかもしれません。青い地球には、よく見ると青だけでなく、白や茶色、緑などの色も混じっています。青は海の色です。白は雲と氷、雪の色です。茶色は大地の色です。緑は大地を覆う植物の色です。
宇宙から見た地球には、大地、つまり固体だけでなく、液体や気体、生命も含まれています。液体とは海洋のことです。気体とは大気のことです。目に見える部分として、海や雲、生命も地球に含まれていると見なしているのです。
さて、今まで地球について想像してきたことは、実は、地球を拡大解釈してきたことになります。物理的に地球の定義を拡大してきたのです。内側から順番に書いていくと、
(固体)から成る地球
(固体+液体)から成る地球
(固体+液体+生命)から成る地球
(固体+液体+生命+気体)から成る地球
という順番でしょうか。
ここまでは見える地球でした。さて、地球とは見えるものだけでしょうか。地球に詳しい人なら、地磁気の影響を考えたかもしれません。磁気は目に見えません。しかし、地球は大きく強い磁石ですから、地球の周りには強い磁場があります。この磁場が地球を取り巻いて、大部分の宇宙線をはじき返しています。そのおかげで、生命は地表で過ごすことができます。
目に見え磁気を加えると、地球は次のようになります。
(固体+液体+生命+気体+磁気)から成る地球
まあここまで来ると、内側からという順番はなくなります。
ご存知かもしれませんが、地球の磁気は、地球の中心にある融けた金属鉄核(コアと呼びます。外核が融けていて内核は固体)の流動によって発生しています。ですから、内側から順番という規則は成り立ちません。
重要なことは、順番ではなく、想像力によって地球が拡大されてきたことです。
地球の拡大はここまででしょうか。いえいえもっと拡大は可能です。想像してください。磁気は目に見えませんでした。しかし、目に見えなくても、科学的に存在が証明されており、地球の一部とみなしていいのであれば、磁気と同じように地球に加えるべきです。
例えば、光や電波などの電磁波、重力なども加えるべきでしょう。それらを磁気も含めて「見えないが存在するもの」と呼びましょう。すると上の地球は、次のように書き換えることができます。
(固体+液体+生命+気体+見えないが存在するもの)から成る地球
これによって、磁気だけよりも地球は拡大されました。
もっと拡大できます。私たちの科学は進歩しましたが、まだまだ未知のことがたくさんあります。科学者という職業が成り立っているのもそのためです。科学がこれからもいろいろなことを解き明かすでしょう。しかし、現在はまだ未知ですが、存在するはずのものも地球に加えるべきです。
(固体+液体+生命+気体+不可視の存在+未知の存在)地球
長ったらしいので言葉を省略しました。
だいぶ広がってきました。存在すら不明で、知ることができるかどうかもわからないものも加えましょう。そんなものがあるでしょうか。こんな例はどうでしょうか。神や霊、魂、超常現象などは、人によって信じる信じないがあります。信じる人にとっては見えないが存在を確信しているはずです。信じない人にとっては、存在しないものです。いってみれば、現在の科学が手が出せないグレーゾーンの存在です。
想像力を広くして、それも地球に加えましょう。
(固体+液体+生命+気体+不可視の存在+未知の存在+不可知の存在)地球
となりました。
いかがでしょうか。大きな地球になりました。いつのまにか、よく想像されている地球の領域をはるかに超えてしまっています。宇宙より大きなものにもなっています。また、ここで想像した地球は、物理的な構造だけでなく、人類の知的な構造も示しているようです。知的構造は階層性をもっていることがわかります。そして、この階層性は、人類の地球認識の発展様式をも示しています。さらに、地球には、このような階層性の存在を知覚する人類の知性というものがあります。
「自分」は人類の知性の象徴でもあります。「自分」は自分にとって、広い宇宙の中で唯一の存在です。「自分」とは、宇宙にくべると非常にちっぽけな存在ですが、偉大なる想像力をもち、この世に一つしかなく、これ以上大切で偉大なものがものはありません。そして、「自分」を大切にするには、家族、感情、愛、理性、地球、宇宙など、「自分」とつながりをもつものも守らなければなりません。
私が想像できた地球は、ここまでです。人によってはもっと想像たくましく、いろいろな地球に思い至ったかもしれません。地球について、人それぞれのイメージがあっていいはずです。あるいはそのイメージにまつわる感情もあっていいはずです。いろいろ想像を膨らませてみてはいかがでしょうか。
・時と場合を選んで・
想像を膨らませなさいといいましたが、それはもちろん時と場合をわきまえるべきです。日常生活で常にこのように想像を膨らませてばかりしていると、それは誇大妄想癖とか嘘つきと呼ばれかねません。創造力を発揮する時と場所には注意する必要があります。
使うべき時とは、創造力を発揮すべき時です。素材があってそれを何ができるか、どうするか、などを考える時です。例えば芸術では独創性を発揮する時、科学ではいろいろな仮説を考える時などです。そのときには、妄想や嘘をはるかに越える想像力を働かせましょう。
自分が納得できるような新しい芸術作品、自分には独創的ですばらしいと思えるような仮説などが生まれれば、少なくとも自分にとって想像力は有効に働いたことになります。できれば、その想像の結果が、他の人にとっても心動かされたり、感心したりできるものであればいいのです。そんな時、想像はうまくいくったことになります。
さて、私が上で述べたような想像力の話の展開はいかがだったでしょうか。誇大妄想や嘘つきのように映ったでしょうか。もしそうなら、私もまだまだ修行が足りないようです。まだまだ、孫悟空のように、お釈迦様の手のひらの上でもがいているだけなのかもしれませんね。
人はいろいろなことを想像できます。しかし、想像した結果は、人それぞれで、場合や状況によっても、経験や知識によっても、違ってくるでしょう。人間がせっかく持っている能力ですから、想像する力を有効に使うべきでしょう。
こんな質問をしましょう。この世で一番大きいものは何か想像してください。いろいろなものがあるでしょう。それはなんでもいいのです。きっと手のひらに乗るようなものではないでしょう。
でもその想像したもの、例えば「宇宙」としましょう、が手のひらサイズであったとしましょう。するとどうでしょう。頭の中では、創造した瞬間に宇宙が手のひらサイズになります。それは、この世で一番大きいもののはずです。宇宙であれば、半径は光がたどり着くのに137億年もかかる大きさなのです。それを、頭の中では一瞬にして想像できるのです。すばらしい力です。
でも、孫悟空が筋斗雲(きんとうん)に乗って遠くまでいったのですが、それは所詮お釈迦様の手のひらの中であったという話に似ていますね。
もう一つ質問です。この世で一番大切なものはなんですか。これはそれこそ人それぞれでしょう。金、名誉、感情、愛、理性、家族などいろいろなものがあったでしょう。さまざまな答えがありうるのですが、誰でも一番大切なものは「自分」であるはず。すべて「自分」が存在するから金が必要で、名誉を守なければならず、感情、愛、理性は「自分」があるから存在します。「自分」がなければ、その家族はもやは「自分」の家族でありません。
このような考えは、誰もわかっているのことなのですが、いわれるまで、ついつい忘れていることです。このように忘れていることを思い出さしてくれるのも想像力ではないでしょうか。
では次に、地球を想像しましょう。
ある人は、自分が立っている大地を地球を想像したかもしれません。その人が想像した地球は、もっと一般的な言葉でいえば、固体の地球(固体地球といういいかたをします)です。これも地球の姿です。
またある人は、宇宙から見た青い地球を想像したかもしれません。青い地球には、よく見ると青だけでなく、白や茶色、緑などの色も混じっています。青は海の色です。白は雲と氷、雪の色です。茶色は大地の色です。緑は大地を覆う植物の色です。
宇宙から見た地球には、大地、つまり固体だけでなく、液体や気体、生命も含まれています。液体とは海洋のことです。気体とは大気のことです。目に見える部分として、海や雲、生命も地球に含まれていると見なしているのです。
さて、今まで地球について想像してきたことは、実は、地球を拡大解釈してきたことになります。物理的に地球の定義を拡大してきたのです。内側から順番に書いていくと、
(固体)から成る地球
(固体+液体)から成る地球
(固体+液体+生命)から成る地球
(固体+液体+生命+気体)から成る地球
という順番でしょうか。
ここまでは見える地球でした。さて、地球とは見えるものだけでしょうか。地球に詳しい人なら、地磁気の影響を考えたかもしれません。磁気は目に見えません。しかし、地球は大きく強い磁石ですから、地球の周りには強い磁場があります。この磁場が地球を取り巻いて、大部分の宇宙線をはじき返しています。そのおかげで、生命は地表で過ごすことができます。
目に見え磁気を加えると、地球は次のようになります。
(固体+液体+生命+気体+磁気)から成る地球
まあここまで来ると、内側からという順番はなくなります。
ご存知かもしれませんが、地球の磁気は、地球の中心にある融けた金属鉄核(コアと呼びます。外核が融けていて内核は固体)の流動によって発生しています。ですから、内側から順番という規則は成り立ちません。
重要なことは、順番ではなく、想像力によって地球が拡大されてきたことです。
地球の拡大はここまででしょうか。いえいえもっと拡大は可能です。想像してください。磁気は目に見えませんでした。しかし、目に見えなくても、科学的に存在が証明されており、地球の一部とみなしていいのであれば、磁気と同じように地球に加えるべきです。
例えば、光や電波などの電磁波、重力なども加えるべきでしょう。それらを磁気も含めて「見えないが存在するもの」と呼びましょう。すると上の地球は、次のように書き換えることができます。
(固体+液体+生命+気体+見えないが存在するもの)から成る地球
これによって、磁気だけよりも地球は拡大されました。
もっと拡大できます。私たちの科学は進歩しましたが、まだまだ未知のことがたくさんあります。科学者という職業が成り立っているのもそのためです。科学がこれからもいろいろなことを解き明かすでしょう。しかし、現在はまだ未知ですが、存在するはずのものも地球に加えるべきです。
(固体+液体+生命+気体+不可視の存在+未知の存在)地球
長ったらしいので言葉を省略しました。
だいぶ広がってきました。存在すら不明で、知ることができるかどうかもわからないものも加えましょう。そんなものがあるでしょうか。こんな例はどうでしょうか。神や霊、魂、超常現象などは、人によって信じる信じないがあります。信じる人にとっては見えないが存在を確信しているはずです。信じない人にとっては、存在しないものです。いってみれば、現在の科学が手が出せないグレーゾーンの存在です。
想像力を広くして、それも地球に加えましょう。
(固体+液体+生命+気体+不可視の存在+未知の存在+不可知の存在)地球
となりました。
いかがでしょうか。大きな地球になりました。いつのまにか、よく想像されている地球の領域をはるかに超えてしまっています。宇宙より大きなものにもなっています。また、ここで想像した地球は、物理的な構造だけでなく、人類の知的な構造も示しているようです。知的構造は階層性をもっていることがわかります。そして、この階層性は、人類の地球認識の発展様式をも示しています。さらに、地球には、このような階層性の存在を知覚する人類の知性というものがあります。
「自分」は人類の知性の象徴でもあります。「自分」は自分にとって、広い宇宙の中で唯一の存在です。「自分」とは、宇宙にくべると非常にちっぽけな存在ですが、偉大なる想像力をもち、この世に一つしかなく、これ以上大切で偉大なものがものはありません。そして、「自分」を大切にするには、家族、感情、愛、理性、地球、宇宙など、「自分」とつながりをもつものも守らなければなりません。
私が想像できた地球は、ここまでです。人によってはもっと想像たくましく、いろいろな地球に思い至ったかもしれません。地球について、人それぞれのイメージがあっていいはずです。あるいはそのイメージにまつわる感情もあっていいはずです。いろいろ想像を膨らませてみてはいかがでしょうか。
・時と場合を選んで・
想像を膨らませなさいといいましたが、それはもちろん時と場合をわきまえるべきです。日常生活で常にこのように想像を膨らませてばかりしていると、それは誇大妄想癖とか嘘つきと呼ばれかねません。創造力を発揮する時と場所には注意する必要があります。
使うべき時とは、創造力を発揮すべき時です。素材があってそれを何ができるか、どうするか、などを考える時です。例えば芸術では独創性を発揮する時、科学ではいろいろな仮説を考える時などです。そのときには、妄想や嘘をはるかに越える想像力を働かせましょう。
自分が納得できるような新しい芸術作品、自分には独創的ですばらしいと思えるような仮説などが生まれれば、少なくとも自分にとって想像力は有効に働いたことになります。できれば、その想像の結果が、他の人にとっても心動かされたり、感心したりできるものであればいいのです。そんな時、想像はうまくいくったことになります。
さて、私が上で述べたような想像力の話の展開はいかがだったでしょうか。誇大妄想や嘘つきのように映ったでしょうか。もしそうなら、私もまだまだ修行が足りないようです。まだまだ、孫悟空のように、お釈迦様の手のひらの上でもがいているだけなのかもしれませんね。
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