2016年11月1日火曜日

178 南方マンダラ

 秋に和歌山県田辺にいったとき、南方熊楠顕彰館を訪れました。その時、熊楠のマンダラに再会しました。以前にも興味を持っていたのですが、改めてその重要性に気づきました。

 マンダラとは、仏の悟りや聖域、仏教の世界観などを図化したものです。狭義には密教におけるものを意味しますが、いろいろな宗教でもマンダラが作成されており、表現やその表している内容は、広義になっています。英語でもMandalaと示され、漢字では「曼荼羅」と書きます。マンダラは、広くその宗教や思考の世界観を意味しています。
 密教では、金剛界曼荼羅と大悲胎蔵曼荼羅というふたつのマンダラがあり、前者は金剛頂経、後者は大日経と呼び、密教の一番重要な経典に基づいています。ですから、日本の密教の本尊とされる大日如来が図の中心となり、その他の尊像が首位に配置されています。
 なぜ、マンダラの話からはじめたのかいうと、南方熊楠(みなかた まぐす)の文献を読んでいるためです。熊楠の思想の中に、マンダラが重要な意味をもつものがありす。熊楠の名前は聞いたことがある人も多いと思います。奇人変人、博覧強記、民俗学や粘菌の研究者などというイメージは、すでにお持ちでしょうか。その実像は、あまり知られていないかもしれません。少し略歴をみてきましょう。
 1867(慶応3)年5月18日に生まれ、1941(昭和16)年12月29日に、74歳で亡くなっています。和歌山城下で生まれ、和歌山中学校を卒業し、東京の大学予備門(現・東京大学)に入学しますが中退、その後いくつかの学校に入りますが、卒業することなくすべて退学してしまいます。学校は嫌いでしたが、子どもの頃から晩年まで、いろいろな書籍を入手して独習を続けています。覚えるために書き写すことがいいとして、生涯抜書を続けました。このような弛まぬ努力が博覧強記を生み出したようです。野外調査と著作(書翰を書くことも含む)を日夜関係なく続けることが、一生の生活パターンとなっていきます。
 1887(明治20)年、20歳で渡米して、幾つかの学校を経ながらも、すぐにやめて独習に入ります。動植物に興味を持ち、隠花植物の採集をしていきます。その後キューバにも行き、採集しています。1892(明治25)年にはイギリスのロンドンに渡ります。大英博物館に出入りして、図書館などで文献を読み、最新の学問や古典などを独習していきます。そこで西洋学問の方法論や議論の仕方を身につけていきます。1900(明治33)年に帰国し、3年間那智勝浦に住んで後、田辺に住み続けます。
 大英博物館にいた時代に、子どものころや大英博物館の東洋図書目録編纂中に身につけた知識にもとづき、西洋の学問体系にない視点での論説を進めていきます。熊楠の論説した分野は、民俗学や博物学、植物学など幅広く、Natureに多数の論文(約50報)を書き、「ノーツ・アンド・クィアリーズ(Notes and Queries)」にも多数の寄稿(300以上)をしています。
 熊楠の研究業績は比較民俗学で、柳田國男とともに日本の民俗学を起こした中心人物でもありました。柳田が見ていたのは日本の学界でしたが、熊楠は世界の知識人が相手でした。しかし、面白いことに熊楠の思想に根幹には、子どものころに身に着けていた大乗仏教の真言密教に根ざしていたものがありました。その哲学的は深まりは、土宜法龍(どき ほうりゅう)との議論でした。
 土宜は、日本の近代の仏教を代表する学者であり僧侶でした。高野山学林長、仁和寺門跡、真言宗御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを大きな任務を歴任しました。熊楠はロンドン滞在時代に、土宜と出会い、意気投合し、その間ほんの数日ですが濃密な交流をおこないます。その後、晩年までその交流は続きましたが、会うことは少なかったのですが、多くの書翰が交されました。
 熊楠の科学あるいは学問に関する哲学は、法龍との書簡によって展開されていきました。熊楠は、西洋の科学の限界を察知して、それを乗り越えるためには、東洋思想に古くからある曼荼羅や密教の思考法が有効だという論を展開しました。
 残念ながらその思考は、熊楠存命中に論文や書物として発表されることはありませんでした。土宜法龍との書簡は、一部は熊楠に戻されており、熊楠没後、全集や日記(一部)、書翰集として公開されてきました。さらに、2004年に栂尾山高山寺から新たに熊楠の書翰が発見され、2010年に解読されたものが出版されています。熊楠は日記魔でかなり詳しく日記をつけているのですが、その解読は現在も進行中で、それも今後解読の手がかりとなるでしょう。
 熊楠と私が専門としている地質学とは、全く接点がないように思えるかもしれませんが、関係があるように思えます。熊楠の考えた科学哲学は、実はまだ充分理解していません。いくつか理解したことは、科学の因果関係を重視した還元主義には限界があること、必然である因果ではなく、偶然から生まれる因縁、縁起を考える必要があること、物と心、両者の交わる「事」の重要性、さらにもっと大きく総合化する必要性を述べています。このような展開を考えるとき、大乗仏教の密教などの先哲の深い思索が役立つとしています。
 そのあたりの考えが書翰に、熊楠一流の書き方で綴られています。手紙には図を使って説明しているのですが、「南方マンダラ」とよばれる有名な図があります。ぐちゃぐちゃ線の集まりに見えるのですが、実は深い意図をもって描かれています。線はこの世のあらゆる現象(熊楠は「理事」と呼んだ)を意味して、線が交わるところができると、人ははじめて因果を見出しはじめることになる(可知)いいます。そして線が多数交差する付近を萃点(すいてん)と呼んで、もっとも早く理解が進むといいます。萃点から離れるにつれて、気づきにくく(不可知)なってきます。しかし、交点がなくても、理事はあるはずです。そのような不可知を理解するには、西洋科学の還元的な見方では到達できず、密教の達した金剛や大日のような大きな考えを導入する必要があるといいます。
 熊楠の書翰の書き方は、話題がポンポンと飛びながら展開していくのが基本です。ですからついていくのがなかなか難しい部分もあるのですが、その話題の飛び方が読んでて面白いところ、下ネタ、法龍を小馬鹿にしたような文章もあり、笑みながら読めるとこともあります。そんな中に重要な思索の展開が紛れ込んできます。熊楠の頭のなかではつながっていたのでしょうが、書翰を書き進めながら、思考を深めていったようです。重要な論点を述べていることはわかるのですが、前後の文脈を理解するのが難しくなっています。
 熊楠のこのような思索を調べた研究があるのですが、中沢新一は「森のバロック」を、鶴見和子は「萃点」を、橋爪博幸は「事の学」を、松居竜五は「一切智」をキーワードにして熊楠の思想を読み解いています。また、中沢は熊楠の哲学に関する思索が那智勝浦にた短い時間に集中的に起こったことに注目して、その期間を「星の時間」と呼びました。
 私には多分今後「星の時間」が訪れることはないようです。しかし自分が目指す地質学を進めながら、熊楠の哲学を読み解いていければと思っています。

・書翰の文章・
秋に和歌山へ調査に行った時、
田辺にある南方熊楠顕彰館を訪れました。
それまで南方マンダラの存在は知っていて、
いくつかの本は読んでいました。
未読の文献もいつかは手元にありました。
熊楠の哲学は詳しくは知りませんでした。
顕彰館にいって、熊楠を知るにつれて
私が考えている科学の考え方より
熊楠はもっと深く考えていることを知りました。
そこでまずは熊楠に関する研究を
一通り読むことにしました。
今もまだ読んでいるのですが、
主だったものは目を通しました。
現在は、熊楠の書翰を読み進めつつあります。
なかなか難解で手強いです。
でも読んでいて面白いのが救いです。

・読みきれない資料・
南方熊楠に関する書籍類はだいぶ収集しました。
今では古本でしか入手できない
全集や日記、書翰もありました。
土宜以外の書翰など関連のない
資料には手を出していませんが。
それでも、一通り読むのは大変です。
熊楠の研究は本業ではないので、
まずは関連のある部分だけを
ここ1年ほど集中して目を通したいと考えています。
そして自分なりの思索をまとめていければと思っています。
まあ、あとの部分は老後の楽しみにしましょうか。