2017年1月1日日曜日

180 悦ばしき知恵:生涯学ぶ

 明けましておめでとうございます。今年最初のエッセイは、「悦ばしき知恵」というめでたいタイトルです。ただし正月早々、熊楠とニーチェの登場となります。難しい内容ではありませんので、お付き合いただければと思います。

 昨年は例年にない異常気象がつぎつぎと起こり、不安定な気候状況でした。今年は穏やか一年であることを願っています。
 新年早々のエッセイでは、今興味の持っていることを、少々深めて書こうと思ったのですが、少々専門的すぎるので、関連するのですが皆様に興味を持ってもらえそうな話題にしました。最初から優柔不断な話ですが、皆様にとっても「悦ばしき」話題になればと思っています。
 私は、南方熊楠(1867.5.18-1941.12.29)に以前から興味をもっていました。昨年から熊楠自身の文献、関連する文献を可能な限り集め、少しずつ読み始めています。このあたりの事情は、昨年11月のエッセイ「178 南方マンダラ」で書きました。
 熊楠は、不思議な人物で奇人変人扱いをされているのですが、調べていくと、なかなか面白い人で、共感覚えます。熊楠は、思索を深めながらも、フィールドワークを非常に重要視していました。その思索も独自のものを展開しています。世界を相手に一歩も引けを取らない気概も感じます。私が共感を覚えるところはこのような点です。
 フィールドワークで粘菌類や菌類の採取をして、自宅で詳細なスケッチと記載をしています。資料提供はするのですが、自身では粘菌の論文は、あまり書きませんでした。一方、思索では伝承や伝説などの民俗学については、特に日本、東洋の思想を西洋の思想を比較研究するという分野で大きな貢献がありました。一流の科学雑誌である「Nature」誌にも51本の論文が掲載されており、他にも国内外の研究誌に非常に多くの業績を残しています。熊楠には抜群の記憶力と語学力があり、若い時代に14年に及ぶ海外生活があり大英博物館に出入りしました。そのような能力、人脈を持っている上に、持ち前に負けず嫌いの正確で、超人的な研究者生活を送っています。
 彼の持ち味は、膨大な書翰にあります。送る相手に合わせて、いろいろな思想を展開しています。以前、熊楠の曼荼羅は紹介しましたが、土宜法竜との手紙は圧巻です。ただし、読むのは熊楠の癖を理解していないと、なかなか大変作業ですが。
 手紙でも、研究でも、いずれも大変だと思うような方法をとっているのですが、いったてオーソドックスな正攻法で研究を進めています。素晴らしい姿勢です。熊楠のさらにすごい点は、そんな大変なフィールドワークや文献調査なども、楽しんでいるところです。晩年も衰えを感じながらも、生涯学び続けています。学ぶことに常に悦びを感じているところこそが、熊楠の魅力です。
 ここから、話題が変わります。
 ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844.10.15-1900.8.25)が登場します。ニーチェは、ドイツの哲学者です。名前を聞いた人も多いのではないでしょうか。彼の偉大さは、神、真理、理性、自我などの概念を、従来のものとは全く違った解釈をしました。さらに、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰など、ニーチェ固有の概念を提示しました。
 ニーチェを出したのは、1882年に出版した「悦ばしき知識」という書籍を話題にするためです。私は読んだことがないのですが、この本では、永劫回帰説と、宗教からの別離を意味する「神は死んだ」という有名な主張をしています。
 さて今回のエッセイで注目したいのは、本のタイトルでもある「悦ばしき知識」という言葉です。「悦ばしき知識」とは、「gai savoir」とも書かれ、もともとはフランス南部プロヴァンスで使用されているプロヴァンス語「la gaya scienza」に由来するもので、思索法を表すものだそうです。英語では著書名は、「Gay Sicence」、あるいは「Joyful Wisdom」と訳されています。「悦ばしき知識」とは、如何なるものでしょうか。
 澁澤龍彥(しぶさわ たつひこ)によりますと、ニーチェの「悦ばしき知識」とは、「学問や知恵とは、苦しみながら摂取するものではなく、むしろ楽しく悦ばしき含蓄をもったものであるべきことを、ニーチェはこの言葉によって暗示したのであろう。」と述べています。同感です。
 学ぶことは、元来、面白いもののはずです。そして、知ったことは他の人に伝えたくなるものです。正確によく伝えるには、深い理解が必要になります。断片的ではなく、体系的な知識。ただし、体系的に学び、理解するときには、難解な書物の読破、ときには基礎知識の吸収からはじめなければならないかもしれません。しかし、辛さの先には、学ぶ「悦び」が待っているのです。澁澤は、これこそが「悦ばしき知識」の意味だというのです。
 そこに最初に述べた熊楠の学問の姿勢の通じるものがあります。熊楠は、多数の書翰を書いています。膨大な彼の著作(全集の12巻+日記4巻+その他)があるのですが、そこには書翰も多く再録されていますが、本来の量はその何倍にもなると考えられます。近年でも熊楠の書翰が発見され、新たし本や論文として紹介されています。
 書翰にも、いや書翰にこそ、彼の思想のさまざまな展開がなされています。相手により議論や思索の内容を変えています。書翰ですから日の目を見ないはずのものであっても、思索には手心を加えていません。高尚に深く思索がめぐらされています。そんな書翰を、熊楠は、興が乗れば、不眠不休で書き続けます。澁澤は、そんな様子を、「南方熊楠は生まれながらにして、この「悦ばしき知恵」の体得者であったように思われる。」としています。私もそう思います。私は、しばらく熊楠を読むつもりです。

・終わりなきもの・
熊楠の書籍を読んでいると、
自分は、まだまだ学び足りないと思ってしまいます。
特に学ぶ姿勢が不足していると思います。
どんなにつらい状況であっても、
フィールドワークを続けようと思います。
学ぶ内容には貴賤やタブーはなく、
すべての知識は「悦ばしき」ものとして
対等に同じ姿勢で取り組んでいきます。
自分が面白いと思えることは、
最大限の努力と誠意をもって取り組むべきでしょう。
いくつくになっても、与えられた状況で
与えられた自身の能力で、精一杯に学んでいくべきです。
現在の私が与えられた職業、環境として
大学教員というものがあります。
この職業は、「悦ばしき知恵」を具現化できるものであります。
学ぶことは「悦ばしき」ことで、終わりなきものです。

・悔いのない日々を・
今年こそとは、思うことはなくないのですが、
それを全面に出すことはないでしょう。
やるべきことを、計画を立て、修正しながらも
淡々と進めていくことが大切です。
ただし、私に残された時間はあまりないことは確かです。
ただし、終わりを心配しながら生きていくのではなく、
どんなときに終わったとしても、
悔いのない日々を送ることが重要ではないでしょうか。
そんなことを年のはじめに考えています。