2017年4月1日土曜日

183 不如楽之者:活きた知識を得る

 インターネットには知識があふれています。知りたいことに対して、とりあえずの答えを、簡単に得ることができるようになりました。ありがたいことですが、活きた知識にするのには、それなりの工夫が必要でしょう。

 多くの人は、新しいことを知った時に喜びを見出します。特に予想外の知識や、思いもよらぬ知識を得ると、ワクワクして誰かに伝えたくなります。知った喜びを、伝えたい、分かちあいたいという気持ちが湧いてくるためでしょう。知識によって心が刺激され、知識の共有、伝播、コミュニケーションへと心が向かっていくのでしょう。知識を身につけるとは、得(え)も言われぬ快感があるようです。
 情報が流通していない時代には、知識とは、何らかの疑問を解くために、苦労の末、得たものでした。あるいは、誰かがもっている知識に至るまでには、努力や時間を手間暇をかければなりませんでした。そんな時代では、知識とは、一個人、もしくは限られた地域やグループだけで共有してきたものでした。
 文字の発明や本としての記述、印刷などの技術革新により、一人の人間が手にできる知識量は、膨大に増えていきました。ただし、特別な知識は、一部の職能集団や親族だけが、伝承していって、他の人には知らせませんでした。重要な知識は、秘密にして守るべきものでした。流通していたとしても、かつては高価な本を購入できる一部の恵まれた人、その本を読める能力、立場の人だけが、蓄積された知識を手に入れることができました。知識が力となりえ時代だったのです。
 いつの時代であっても、ひとりの人間が生み出せる知識の量は、そうそう増えるわけではありません。時代に進歩によって、多くの知識を流通させる条件は整って、共有する人や組織、コミュニティが広がっていくと、知識の量が爆発的に増えていきます。知識が増えてきたら、それを共有するため、得るために、基礎的な素養が必要になります。そのような素養を身につけるためには、訓練や教育が必要になります。
 かつては、それらの基礎訓練は、辛く理不尽なものも多かったのです。小さな子どもにひたすら素読をさせ、今はわからなくても、将来わかるはずだ、となんの根拠も検証もない方法で教えたこともありました。また、教えるのではなく、技術は見て盗み取れというような、伝承をする気もない方法もありました。人材を養成していくため、教えるための方法も、教育学として進んでくると、より効率的な知識の伝達方法が取り入れられました。
 子どもはものを覚えるのは早いのですが、理解ができる内容は、年齢に応じた脳の発達状況によって違ってきます。子どもや人の発達を理解して、発達段階に応じた手法を用いて教育する必要性もわかってきました。
 膨大な知識をひたすら博物誌的に羅列して示しました。量が質を生むと考えていまし。系統性を持たない、体系化がなされていない知識をひたすら与えたこともありました。このようなバラバラの知識は、なかなか活用できませんでした。しかし、知識の体系化がなされてくると、その体系を学ぶことにより、おのおのの知識の位置づけが理解でき、知識の吸収がしやすくなります。
 今では、学校での教育は非常に工夫を凝らされた体系だったものになってきました。ですから、義務教育として与えられる教育は、子どもでも効率よく、そして楽しみながら学ぶことができるようになってきました。
 年齢が上がるとともに、人ぞれぞれの嗜好が生まれ、望む知識体系も異なってきます。学ぶ側にとっては、一般的な学校教育では、必要と感じない知識も含まれています。しかし教育する側では、より広い教養と専門性が必要と考え、複雑な知識の体系を伝えようとします。現代の高度な技術や複雑な社会を生きていくためには、そのような体系が必要だと考えられているからです。高校から大学での学びが、これに相当するのでしょう。
 このとき生じるミスマッチが、学ぶ意欲の低下などにつながっているのかもしれません。同じ知識を得るにしても、好奇心や自発性がなければ、苦しみになってしまいます。試験や入試や資格テストなど、必要に迫られて身につけようとする知識は、苦痛となります。一方、好奇心、自発性や能動性をもっていれば、喜びをもって知識を身につけることができます。
 多くの人は、両方の経験を持っているはずです。基本的に、人は、学ぶことを好んでいると思います。この学ぶ喜びは、多くの先哲が述べています。
 アリストテレスは「形而上學」の冒頭に、「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」と述べています。12世紀のオック語抒情詩のトゥルバドール(Troubadour)と呼ばれた詩人たちは、自分たちの詩をつくる方法を、オック語で「la Gaya Scienza」と呼びました。英語にすると、“The gay science”となり、savoirやscienceは、科学でもいいのですが、より広く、学問や知識という意味になります。後に、ニーチェはこの言葉を「悦ばしき知識」(1882年)という大作にしました。澁澤龍彥(しぶさわ たつひこ)は、新聞紙上で「学問や知恵とは、苦しみながら摂取するものではなく、むしろ楽しく悦ばしき含蓄をもったものであるべきことを、ニーチェはこの言葉によって暗示したのであろう」としています。1968にはゴダールの映画のタイトル“Le Gai savoir”としても使われました。
 近年、スマートフォーンの普及により、簡単にインターネットを通じて検索することができるようになりました。現在では古今東西、世界中の人が蓄積してきた無尽蔵の知識が、瞬時に簡単に参照できるようになりました。大抵のわかないことには、答えを簡単に得、知ることができるようになりました。だから人はネットを通じて検索するのです。
 そのように瞬間的に得た学ぶ喜びは、その場限りのものになってしまうことが多くなってきたような気がします。また、知識自体も、その場限りの死んだ知識、あるいは泡沫(うたかた)の知識となってしまったようです。
 現在社会におて、知識はその気になれば簡単に手に入ります。しかし、知識とは活きて使えるものにしなくはなりません。そのために、学ぶことに楽しみをもっていなくてはならないはずです。回り道をしても、苦労しても、学ぶ喜びを経てこそ、知識の値打ちが生みだされるはずです。
子曰く、
知之者不如好之者
好之者不如楽之者
これを知る者は、これを好む者に如かず
これを好む者は、これを楽しむ者に如かず
『論語』雍也第六より

・入学式・
新年度になりました。
我が大学では、4月1日が入学式なっています。
区切りがよくてわかりやすい日にちの設定です。
北海道も、日に日に春めいてきました。
まだまだ雪は残っていますが
温かい春の日差しにもなってきて
入学式をするにふさわしい季節となりました。
新学期を迎える態勢も整ってきています。
1週間ほど、新入生のガイダンスなどがありますが、
授業もすぐにはじまります。
受け入れる大学のスタッフも心を一新しなければなりません。

・3月は・
3月は早く過ぎました。
そして、3月中旬からは、
ほとんど仕事がストップして進みませんでした。
まあ、いろいろ慌ただしい行事が続いきました。
ですから、仕方がないのでしょうが、
少々焦りを感じます。
授業がはじまってしばらくしないと
落ち着きは取り戻せないかもしれません。