2017年9月1日金曜日

188 規矩不可行尽

 昔の賢者たちは、多くの名言を残しています。その名言は、現在においても十分役立つものも多々あります。「規矩不可行尽」という名言を、現在の社会情勢に適用していくと、どのようなことが見えるでしょうか。

 中国の宋の時代に、法演(ほうえん)(?~1104年)という禅師がいました。法演は、弟子の仏鑑が寺の住職になることが決まった時に、4つの戒(いまし)めを与えました。それを「法演の四戒」と呼んでいます。そのうち3番目が、
 規矩不可行尽 行尽人必之繁
 規矩(きく)行い尽くすべからず
 行い尽くせば人必ずこれを繁(はん)とす
というものです。規矩とは、規則のことです。あまりに規則を厳格に決めて、その通り実行しようとすると、人は息苦しくなってしまいます。また、規則さえ守っていれば、それ以上のことはしなくなります。このようなことを戒めとして、弟子に与えました。
 「法演の四戒」には、今回のエッセイとは関係がないのですが、他の3つは次のものを上げておきましょう。
1 勢不可使尽 使尽禍必至(勢い使い尽くすべからず 尽くせば禍(わざわい)必ず至る)
 勢いにのりすぎると、周囲に災いを生じる。
2 福不可受尽 受尽縁必孤(福受け尽くすべからず 受け尽くせば縁(えん)必ず孤(こ)なり)
 福を受け尽くすと、縁がなくなり孤立する。
4 好語不可説尽 説尽人必之易(好語(こうご)説き尽くすべからず 説き尽くせば人必ずこれを易(あなど)る)
 良いことばかりいっていると、周り人は深く考えなくなったり、感服しなくなる。
 いずれも、どんなに良いものであっても、度が過ぎると良くないということです。まさに「過ぎたるは猶及ばざるが如し」でしょうか。こちらの言葉は、孔子が弟子の師(子張)と商(子夏)の二人を比較して言った言葉で、中庸がいいという考えを示したものでした。
 さて、話題は変わります。
 近年、メディアの放送姿勢に対して、報道内容が偏っていることを指摘する声もあります。一方、権力側の報道規制や、メディア内での報道倫理などの規制も厳しくなって、報道の自由が束縛されているような状況を危惧する論調もあります。規制が進んでいくと、是々非々両面が生まれていきます。たしかに一昔前の自由な番組作りは、乱暴で一部の人や組織を根拠もなく批判したり、良識を欠くようなこともあったので、規制して抑制することは多くの人が納得するでしょう。
 規制が行き過ぎて、不自由になっていくのは問題です。現在の状況は、不自由で「統制」されているような気がするのは、私だけでしょうか。このようなメディアが置かれている状況は、もしかすると氷山の一角かもしれません。
 あちこちの分野や場面で、自由が制限されているように見えます。自由の規制が問題というより、規制が優先されたいる事態が長期化することにより、規制の中でしか発想することができなくなり、自由だけでなく、独創性、創造性も奪われているのではないかと危惧しています。
 例えば、研究において、起こっているように見えます。本来好奇心によって、自由にテーマを選んで、研究を進めていくのが理想です。でも、それは昔の話になったのでしょうか。かつて、研究者の中には、研究も教育もいい加減にしか行っていない人もいました。私もそのような大学教員を何人か見てきました。なんとかならないかと思っていました。
 そのような教員を反面教師にして、研究者たるもの、成果や業績を出すべきもの、と強く望まれくるようになりました。ここまで良いでしょう。しかし、本来優先すべき好奇心よりも、業績、論文になるものを優先して研究することが多くなっていきているようです。論文を量産することが、研究者のステイタスとなってきています。論文の数だけではだめで、引用数や重要度などを重視する風潮が強くでてきました。本当に現在重要な論文だけが、人類にとって有用な資産なのでしょうか。もっと長い目で、研究成果を蓄積するという視座はとれないでしょうか。
 業績を出している人は、少なくとも数の上での自己満足を得られます。しかし、研究が本人の好奇心に基づいて行われずに、成果を出すことのためにおこなわれているのは主客転倒です。研究者が、業績のために自分の心身を馬車馬の如く酷使して、走り続けさせているような状況になっていないでしょうか。走り続けている研究者は、マグロのように止まれば息絶えるという脅迫概念にの襲われながら、業績のために研究に明け暮れているということはないでしょうか。本当にその研究は、自分のすべきこと、自分が望んでいるものでしょうか。一度立ち止まって、研究者としての自分の来し方、行く末に思いを巡らしてはどうでしょうか。
 メディアは、研究の成果に対して、「それはどんな役に立つのでしょうか」と聞いてきます。それは、研究者が考える必要もあるのでしょうが、その成果を社会がどう利用するのかを考えるのは、市民と研究者をつなぐ、メディアが果たすべき役割ではないでしょうか。メディアももっと見識をもって研究を見ていく必要があるでしょう。そして、研究成果が社会にとって危険なものであれば、抑止する機能も持つべきでしょう。これは、政治や権力に対する抑止力と同じ構図でしょう。
 研究の分野を例に見てきましたが、いろいろな場面で、暗黙、あるいは明瞭な圧力、世論などで、規制が生まれてきています。その規制が、「良識」の範囲でなされ、健全なレベルであればいいのです。ただ、その「良識」は、人それぞれで違っています。どのあたりを規制のラインとするのかの兼ね合いが難しいところです。まして、「良識」という名のもとに、前例や「より良く」ということで、実質的に規制を強めていくのは、良識のないやり方ではないでしょうか。
 まさに「規矩不可行尽 行尽人必之繁」、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。
 規制には、悪い方向に進まない、多くの人に災いをもたらさないという視点が色濃くあります。そのようなマイナスを生まないという考えも必要ですが、規制を受ける側に不自由を強いるようでは、これも主客転倒です。好奇心を満たし、純粋な研究目的を達成し、創造性を生む方向に進むことが望ましいはずです。規制をするには、本当の良識が必要です。でも、本当の良識があれば、規制などいらないのかもしれませんが。

・賢者・
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉は、
「論語」の「先進」の項にあるものです。
孔子の弟子である子貢が、他の二人の弟子である
師と商について、どちらが優れているかを問われた時の答えです。
師は「過ぎたり」、商は「及ばず」と評価しました。
子貢は、それなら師が勝っているのですねと尋ねると、
孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と答えました。
これは、やり過ぎも及ばずと同じということです。
昔の賢者は、短いやり取りで核心をついていますね。

・秋めいて・
9月になりました。
北海道は、お盆前後から、
一気にぶ涼しくなってきました。
8月下旬になるとさらに秋めいてきました。
夜は窓を閉め、タオルケットでは寒いので
薄い掛け布団に変えました。
暑いより、涼しいのは助かるのですが、
大学が休みのうちに
調査や研究を進めなければならないのですが、
野外調査は日程を入れれば、出ることになりますが、
研究の方が、校務に追われて滞っています。