2019年1月1日火曜日

204 不立文字の多義性

 今年最初のエッセイは、文字にできないことについてです。言葉できないことも、多々あるはずです。大切なことであっても、言葉にすると多義性が生まれてくることがあります。ですからそれは感じ、悟るしかありません。

 人は、さまざま物事や感情、思いなどを伝えるために言葉を利用しています。言葉とは不思議なものです。鳥類や哺乳類のように、鳴き声でそれなりのコミュニケーションをしているものもいます。人の言葉を話す鳥もいます。ただし、自身の意図を言葉として組み立て、他者がその意図を解することができるのは、人だけです。人が操る言葉を、ここでは「言語」と呼びましょう。
 人と他の生物、特に類人猿との差をDNAでみていくと、非常に小さいといわれています。ところが、両者の形態や機能における差は、非常に大きなものに見えます。この意味するところは、人の特徴である言語の獲得は、遺伝的には大きな差ではなく、ささやかな差と推察できます。
 人の進化として、600~700万年前に脳容積の増大と二足歩行が起こります。その後、複雑な音声を生み出すために必要な、口腔(口の中の空間)と咽頭腔(喉と声帯の間の空間)が直角になって、咽頭が下に移動するという生物学的変化がありました。これらの生物学的変化は、DNAに記録されているはずです。この変化の結果、人は4~5万年前に言語を操れるようになったといわれています。言語の獲得は、人類の歴史からすると、それほど前ではないということです。
 コミュニケーションの手段として言語を手に入れて(発明、発見?)以降、文明の発達、人の活動の多様化にともない、言語は複雑化、高度化を遂げてきました。その変化は、現在も継続中です。ただし、言語能力の変化は、DNAに遺伝情報として書き込まれた変化ではなく、文明や文化として学習することで継承してきたと考えられます。文化とともに言語を修得するために、子どもの教育には、多く時間が必要になってきました。現在では、文化の複雑化、高度化によって修得には、ますます長い期間が必要になってきました。
 一方、文化や知的資産を伝達、継承するために、言語を文字にして書き留めてもきました。文字が紙に記録され、それが長く保存されることで、資料となり、歴史が編まれてきました。言語はコミュニケーションをとるため、そして文字は人の知的営みを記録し資産とするために、重要なツールとなりました。言語が人という種を特徴づけ、そして地球で繁栄を遂げるのに、重要な特性であったことは確かです。
 知的資産とは、言い換えると言語化できるものということになります。では、そこからこぼれ落ちたものはないでしょうか。ここからが本題となります。
 「不立文字」と書いて、「ふりゅうもんじ」と読みます。禅の言葉で、
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」
(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん、
じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)
という言葉の一部になります。言語や文字で伝えることのできないもの(不立文字)があり、それは書かれたり伝えられたりしたもの以外から学ぶもの(教外別伝)であって、それは自身の心で直感的につかみとるべきもの(直指人心)で、その本質をつかみとれば悟を得たことにとなる(見性成仏)ということです。昔の賢人は、言語にはできないけれども、大切なことも多々あると考えたのです。達観ではないでしょうか。それは、一部の人にしか悟れないものでしょうか。いろいろな悟りがあり、その一端は多くの人は経験がしていることと思います。
 科学は論理性を重んじます。論理なき科学はありえません。ここでいう論理とは、数式を含む言語によって構築されたものです。しかし、論理が人類の知恵や創造性のすべてを網羅しているのでしょうか。論理化できない「なにか」も多々あるはずです。多くの人は、それを知っています。ただし、その論理化できない「なにか」には、多くの人が共通に理解できるものと、共通理解が成り立たないものがあります。
 「なにか」を伝える(訴える)芸術作品を例にみていきましょう。これは、一部の芸術家のみが使用できる手段ですが、すぐれた作品は、多くの人に「なにか」を訴えています。絵や音楽などのように、言語化できなくとも、感情を動かす(感動させる)ことができます。動かされる感情には、多くの人が共通して抱くものもあります。これは共通理解を生み出す作品でしょう。
 一方、芸術作品の中には、人によって、あるいは精神状況によって、異なる感情を生み出すものもあります。例えば、ダビンチのモナリザや能面の表情などは、見方によって、条件によって、いろいろな感情の生みます。つまり共通理解は成り立たず、理解に多義性が生まれることになります。
 また言語できるものにも、芸術作品としての小説や詩歌などにも、論理的に解釈が難しいですが、感動させるものもあります。その感動にも、共通理解の生まれるものと、多義理解を生むものもあります。
 では、それらが「なにか」のすべてでしょうか。大切なことにも、一部の人にしか理解できない「なにか」もあるかもしれません。それが不立文字たる悟りのようなものでしょう。悟りというと一部の努力した人にのみに適用できないものに思えますが、
 身体的なものを思い浮かべるとその例となるでしょう。身体的なものではコツというとわかりやすいかもしれません。例えば、自転車に乗れる瞬間などは、突然そのコツが体得(教外別伝)できます。そのコツは体が覚えており、長年自転車に乗っていなくても、体は忘れません。
 ここで示したコツは技術や体感での例ですが、より深い思索、より抽象的概念などの理解においても、このような「なにか」があるのではないでしょうか。それは教わるものではなく(教外別伝)、自身が感じること(直指人心)で悟れる(見性成仏)もののはずです。多分、その「なにか」とは、一通りに解釈されるものではなく、時と場合によって、さまざまな見え方がする多義性を持つものでしょう。
 私は、なかなかその境地に立てませんが、まずは文字にできない不立文字があることから、スタートですね。

・年頭の挨拶・
あけましておめでとうございます。
旧年中はこのメールマガジンの購読をいただき、
ありがとうございました。
本年も購読をよろしくお願いします。
昨年1年は、研究に没頭できる有意義な年となりました。
成果は例年並でしたが、集中できる時間が確保できたので、
達成感、満足感は例年にない充実したものとなりました。
願わくば、新しい1年も同じようでありたいものです。

・そこに「なにか」が・
このエッセイは、地質学やその周辺にある感じたこと
文字によって、できるだけ「論理的」に示しすことを意図してきました。
しかし、新年最初のエッセイは、その論理性の限界と
その先に文字にできない何かがあるのではないか
という内容になりました。
文字化できないものを、文章で論理的に示しました。
表現と内容が矛盾しているのですが、
そこに「なにか」があるように思えます。