現在の科学は仮説演繹法でなされていますが、意識的にすることを、カントは「コペルニクス的転回」と呼びました。最近、アブダクションという方法を導入して研究していますが、これもコペルニクス的転回になりそうです。
現在進行中の論文で、科学や哲学の歴史を概観しています。科学は好奇心に基づいて進められているのですが、人の営みでもあるので、宗教や政治などの権力と大きく関わっていたことがよくわかります。
ある時代に科学に携わっていた人たちは、その時代に翻弄されたり、迎合したり、回避したり、人それぞれのやり方で対処してきました。現在でも、科学者は、基本的に自身の好奇心に基づいて研究をしています。しかし、研究費の削減、過度の業績評価、研究以外の業務の増加など、現代という時代の影響を受けています。純粋な好奇心だけで進むことはできません。もちろん、科学だけでなく、すべての人の営みは、時代や世相の影響を受けているのでしょうが。
人類の歴史において、科学的な考え方などないところから、科学は発展がしてきました。ここでは、17世紀から18世紀のかけて起こった科学革命という、現在の科学的考え方に至る歴史を概観していきます。当然、それはひとりの人によって達成されるわけではなく、多くの人の考え方、時に対立もしながら進められてきました。
現在の科学の方法論は、帰納法と演繹法が基礎となり、それらを組み合わせた仮説演繹法が進められています。そこには、論理的欠点もあることもわかっているのですが、仮説演繹法が用いられています。そのあたりを詳しく見ていきましょう。
帰納法とは、実験したり、観察したりして、具体的な事実を収集して、それらの事実をすべて満たした一般則を導いていきます。これら実験や観察など実施された事実が経験を通じて獲得されていきます。経験を重視しているので、経験論とも呼ばれています。フランシス・ベーコンを祖として、ジョン・ロックやジョージ・バークリー、デイヴィッド・ヒュームなど、イギリスの哲学者が中心になっていました。
演繹法は、まず普遍的な原理があると考えます。普遍的な原理とは、フランスのルネ・デカルト「我思う、ゆえに我在り」という言葉で象徴されるように、私たちには、理性が平等に生得的に備わっているので、理性的に考えることから普遍的原理がえられると考えています。普遍的原理に基づけば、個別の結論も導き出されていきます。フランスのデカルトから、ドイツのゴットフリート・ライプニッツ、オランダのバールーフ・スピノザなど、大陸で発展していったので、大陸合理論とも呼ばれれます。
両者は、経験論と合理論として、認識論の上で異なった思想体系となっていました。それを、イマヌエル・カントは統合していきました。これを天動説から地動説への見方を変えたニコラウス・コペルニクスにちなんで、「コペルニクス的転回」と呼びました。
従来の経験論(知識)や合理論(理性)のいずれも、対象(客観)が人間(主観)に従うことで成り立っています。カントは、「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」といい、両者を分けることはできないと考えました。いずれも認識の主体が人間となり、感覚的な経験なしには考えることができないし、逆に理性的な概念なしには経験を理解することができません。経験論の経験も重要で、合理論の理性も不可欠となります。
認識は、感覚的な経験をもとに、それを理性的に構造化するという相互作用によって成立すると考えました。経験に根ざしながらも、普遍的で必然的な知識となるためには、人間(主観)が知識や理性などを対象(客観)にして従わせることが必要だと主張しました。これは、帰納法で抽出した法則(仮説)を、演繹して真偽を検証する仮説演繹法ともみなせます。
帰納法と演繹法には、問題があることは知られています。
帰納法では、事実から法則を導きます。その法則は、これまで知られていなかったもので、新規性、独創性が生まれてきます。一方、演繹法では、事前に存在している法則にもどついて、未知の事象の結果を推測していきます。その事象が法則が成立するための条件を満たしていれば真、満たさければ偽となるはずです。そんな真偽の結果を予測することができます。
見方をかえると、欠点も見えてきます。
帰納法だけでは、えられた事実は満たす法則です。ところが、未知の事実については、検証されていないので、法則が適用できるという普遍性はありません。法則の真偽が確定ができません。演繹法では、いくらでも検証ができ、既存の法則の信頼性の確認はできるのですが、法則が存在を前提にしているので、新規の法則を見出すことはできません。
これらの両者の利点を活かし、弱点を補ったのが、仮説演繹法となります。帰納法のえられた法則を仮説として、演繹法で検証していくという方法になります。仮説演繹法では、法則の適用範囲をチェックすることができます。
ただし、帰納法の法則の普遍性を示せないという弱点はつきまといます。そのため、帰納法や仮説演繹法でえられる法則は、仮説に過ぎません。仮説をつくるだけなら、必ずしも多数の事実をもとにした帰納法の頼る必要はありません。たくさんの事実を集めなくても、いくつかの事実だけを満たす仮説、あるいは事実がなくても思いつきを仮説としてスタートしてもいいのです。いかなる仮説であっても、「作業仮説」として、あとは検証のための演繹法に入ればいいのです。そして、検証作業を進めながら作業仮説を修正していくというサイクルを繰り返せばいいのです。
このような帰納法によらない作業仮説のたてる方法を、チャールズ・サンダース・パースは「アブダクション」と呼びました。アブダクションは、アリストテレスの論理学の中でも述べられており、中世スコラ哲学でも「帰納と演繹の間にある推論」として、その存在は知られていました。
アブダクションの導入も、一種の「コペルニクス的転回」といえるのではないでしょうか。実は、アブダクションは、多くの人、もちろん科学者も含めて、「おもいつき」や「作業仮説」として無意識に用いているものです。多くの人は、なんらかの事象が起こったら、特にいつもと違ったこと、はじめのことがあったら、もっともらしい説明をしていこうとします。そこには根拠も検証もないので、アブダクションとなります。
科学では、アブダクションでえられた作業仮説から、検証を進めていきます。もし仮説に合わない検証結果が出てくれば、よりよい仮説に修正していけばいいのです。帰納法だと、多くの事実の縛りがあるので、仮説の修正は大変ですが、アブダクションでは事実の縛りがゆるいので、仮説の修正の容易にできます。
そのようにアブダクションを軽快に使っていくことも、「コペルニクス的転回」ではないでしょうか。
・秋きたる・
9月中旬から、一気に秋めいてきました。
黒岳の初雪のニュースもすでに届きました。
これが例年の北海道の秋です。
9月下旬には、秋物のコートにして、
ストールを使いはじめました。
冷え込んだ朝には、もう必要になりました。
薄手の手袋も出したのですが、
まだ使うことはありません。
これから紅葉が一気に進んでいきそうです。
・リセット・
毎日、研究に集中しています。
主には論文を書くことに時間を費やしています。
データ集めや思索を、心ゆくまでできます。
在職中も、校務以外の時間を
すべてを研究に使っていたのですが、
退職して校務が激減したため、
論文執筆にほぼすべての時間が使えます。
しかし、問題があります。
集中力が続かないのです。
午前中で集中が切れてしまいます。
校務や講義があるときは、
その時間には、集中が分断します。
研究に戻った時、集中力のリセットができました。
そんなリセットのチャンスがなくなったのが悩みです。
まあ、贅沢な悩みでしょう。
このエッセイを書くものリセットになります。