2008年2月1日金曜日

73 化石は過去の生物?:実在と実証(2008.02.01)

 実証できることと実証できないこと、あるいは実在していたのか実在していなかったのかについて、長年考えています。しかし、なかなか答えの出ない難解な問題です。その一端を紹介しましょう。

 化石は、定義の上では、昔の生物の遺骸や生活の跡などをいいます。化石は、言葉に反して、必ずしも石でなくて(石化していない)もいいことになっています。まあしかし、古い化石は、一般的には石化していますが。
 恐竜の歯の化石があるとします。大きさは10cmほどあるとしましょう。かなり大きな歯の化石です。この歯の化石を現在の生物と比べると、これほどの大きさをもつものは、そうそういなはずです。大型の肉食動物の犬歯にあたるサイズです。もし、そのような現在の生物と比べて、形も大きさも違っているとしたとき、この化石をさらに調べるには、どうすればいいでしょうか。
 比較形態学(あるいは比較解剖学)の考え方を適用すれば、生物を判別する時には、構造や形態を生物種ごとの差や共通点を重視することになります。差や共通点には、そのものの大きさより、形態の各部位の比率の方が重要になります。
 サイズだけに、着目するのではなく、歯の形態をよくみるということです。表面の模様や、稜のぎざぎざ、反り具合、根本から先端への太さの変化などに着目して、特徴を比べていくということです。もしこの化石の歯が、大きさは違いますが、ある爬虫類の歯に似ているとしましょう。大きさが化石より、ずっと小さくても、その爬虫類との類似性に着目していくことになります。
 もし、この化石が、今まで見つかっている爬虫類のどれとも違うものであっても、あるいは最初に発見された種類の歯の化石であっても、どのような動物のものであったかを、比較形態学からある程度推測することが可能になります。
 このような比較形態学による知識の蓄積、あるいはいろいろな化石への記載の集積があれば、まったく今まで未知の新しい化石であっても、それなりに信頼できる生物像も確立されていきます。例えば、先ほどの歯の化石が、「新種の肉食恐竜の歯だ」という判定も可能になります。
 さて、このようなアプローチの方法は、動物だけでなく植物に対しても、生物全般に対してとられているものです。まあいってみれば古生物学の典型的な化石同定法というべきものです。このような手法のおかげで、たとえ新種であっても、たった一つの歯の化石から、大きな恐竜の骨格が復元され、イメージ図さえも描かれていきます。
 乱暴ないいかたですが、化石の研究とは、比較や類似の集積から成り立っているといえます。数学のように緻密な論証を積み上げた論理のように見えません。では、上で述べたような化石の同定手法を見た時、どこまで確かな方法、あるいは信頼できる方法だといえるでしょうか。古生物学者は、「当たり前の方法なのに、いまさらなにを」といわれるかもしれません。でも、私は、そんな当たり前のことに、疑問を感じてしまうのです。
 化石とは、定義上では、過去の生物の生活痕も含みますが、生活痕を一緒に扱うとややこしくなるので、ここでは、化石を過去の生物一部として話を進めましょう。
 そもそも生物か無生物かは、生きていてこそ、はじめて生物と判断できます。無生物とは、生きてはいないものです。化石の歯は、生物の器官として特徴のある形態を持っていますが、今生きている生物ではありません。なのに、どうして、生きている生物の一部であったのかを判断できるのでしょうか。
 別の例を出しましょう。貝殻の化石が、かつては生きていた貝の殻ということを証明できるかどうかです。もっと単純化していえば、海岸で見つけた貝殻は、もともと生きていた貝の一部だと、どうやって証明するかとういうことです。私には、これは難しい問題にみえます。
 死体の一部から、全体像、あるいは機能していたであろう全メカニズムを含む総体(まだ生物とは判定されていないもの)と、生物(生きているもの)との間の「失われた鎖」を見つけることはできるのかということです。
 実証主義の立場でいえば、「失われた鎖」を実証することは不可能です。サン・シモンによれば、実証主義とは「観察された事実」だけによって理論をつくりあげるものだからです。実証主義による手法とは、一種の帰納法とみませます。
 生きている貝と、海岸に落ちている貝殻には、多数の類似性はあります。しかし、「類似」と「同一」とは違います。生きている貝と貝殻における一番の違いは、「生きているか」どうかです。実証的立場に立つのなら、貝殻の生きていたという事実を見つけられるかどうかです。生きている貝が死んで貝殻になるのを見届けられたものだけが、生きていた貝と貝殻が「同一」であるとみなせるものでしょう。それ以外は、どんなに「類似性」が一杯あっても、「同一」にはなりえません。ですから、貝殻が生きていた貝であったという事実を示して実証することは不可能です。
 実証主義に対して、批判はあります。そもそも「事実」などというものが、本当に存在するのかという批判です。カール・ポッパーは、「事実」を観察することや収集すること自体が、もはや何らかの考え方や仮説に基づいたものであって、信頼に足るものではないと考えました。ですから、そのような事実をいくら集積しても、帰納的に理論を生むことはできないし、事実によって理論が証明されたとはいえないとして、実証主義を批判しました。
 今まで苦労してデータを集めても導き出してきた事実すら、信頼ならんというのです。しかし、ポッパーは、信頼すべき方法も提示しています。まず、ある仮説が科学的かどうかの基準として「反証可能性」を持っていること、そして反証のための「テスト」を受けて耐えた仮説ほど信頼性が高いとみなすのです。反証可能性とは、ある仮説をだしたとき、その仮説が間違っていることを示せるような実験や観察などを提示できるかどうかです。
 先ほどの貝殻が生きている貝の殻でないことを示すには、自然界で起こりうる無生物による作用で、貝殻そっくりのものできる可能性を反証として示せばいいのです。でも、そのようなものはすぐには思いつけませんし、ありそうにもありません。「反証可能性」を示すことができません。となると、先ほどの仮説、「貝殻は生きていた貝の殻」であるというのは、信頼できない仮説なのでしょうか。多分、いやきっと「本当」だと思います。でも、こんな当たり前ことが、納得するような説明ができないのです。
 実証主義あるいは反証主義にこだわっていると、前に進めなくなります。単純に、私たちが感じ、見て聞きし、経験している通りのもの(事実)が、存在していると考えればどうでしょうか。これならば、案外簡単に貝殻がもとは生きていた貝であったことや、歯の化石は今はもういない恐竜のものであったことも、解決できます。これは、実在論(素朴実在論と呼ばれる)の立場になります。
 そこまで素朴あるいは楽観的に考えると、あまりに主観的過ぎるので、もう少し客観的になるべきでしょう。こうすればどうでしょうか。
 私たちが知覚し経験していることを、計測、測定、分析などの再現性のある、科学的にみえる操作を経て、多数の類似のものと比較対照し、抽象や捨象することで客観性を出すのです(広義の実在論あるいは批判的実在論の立場)。こうすれば、科学的な手続きを経た多数のデータを比較検討して導き出したもの、つまり多数の「類似性」という事実は、「同一」に転化できるのです。多数の類似性という客観的事実、が同一の実在を保障するとみなすのです。
 これもやはり、いくら多数のという条件をつけても、「類似性」から「同一」というところに論理の飛躍があります。
 貝殻とは生きていた貝の殻であり、歯の化石が昔生きていたはずの恐竜のものだといいたいのです。もっとえば、化石とは昔の生物であったということを証明したのです。古生物学者は当たり前だと思っている論理が、納得できないのです。納得するための方法は、あるのでしょうか。
 私には今のところ納得のできる解決策は、まだ見出せていません。私なりに、このテーマをもっと考えていきたいと思っています。

・長年の疑問・
今回のエッセイは、もともと化石と生物の関係について
考えていることを書くつもりでした。
そしてその視点を、実は不可知論に置くつもりでいました。
しかし、実際に書き進めていくと、
実在論と実証論へと話が展開していきました。
実は、化石が生物であったのかどうかという問は
長年私の中にありました。
その中には、生物と生命というものについて定義、
あるいは生命とはという命題もありました。
当たり前に思えることが、深く考えていくと
どうも当たり前ではないことに気づきます。
そうなると、地質学の根底を疑いたくなります。
化石によって気づかれた過去の地球の姿、イメージは
単に空想上のものに過ぎないのかもしれません。
そうならないことを祈りつつも、
納得できる答えをまだ得られないでいます。
まだまだ道は遠そうですね。

2008年1月1日火曜日

72 進歩よ止まれ:ムーアの法則(2008.01.01)

 明けましておめでとうございます。昨年の御愛読ありがとうございました。今年も、よろしくお願いします。今年最初のエッセイは、科学の進歩と自分の進歩について考えてみました。

 ITやコンピュータの世界は、日進月歩で進歩しています。半年ごとにパソコンの新機種が発売され、その性能は増していきます。ありがたいことに、値段はそれほど変わりません。このような新機種の定期的な発売が、当たり前に思えるほど、IT関連の技術はとどまることなく発展しています。
 私事になりますが、私のコンピュータとの付き合いを紹介していきます。
 私が、はじめてコンピュータを使ったのは、修士課程の大学院生としてO大学のO研究所にいた時です。EPMAと呼ばれる鉱物の化学組成を分析する装置を使っていました。その装置によって測定した数値データを処理するために、大型計算機を使った時がコンピュータとの最初の出会いでした。
 その研究所には鉱物の分子動力学(Moleculer Dynamics、MDと略されています)の実験を計算機を使ってされているM先生がおられました。M先生が作成されたEPMA用の補正計算のプログラムを使用させていだきました。その大型計算機は、M先生が一人で使われていたものでした。四六時中、大型計算機はMDの計算を続けていました。大型計算機を中断する方法を聞いていたので、私の補正計算を終われば、またMDの計算をスタートさせるということで、使用させていただきました。
 分析装置からの未加工のデータは、紙テープに打ち出されていました。紙テープを大型計算機のテープリーダに読み込ませて、計算をさせていました。地質学で野外調査を主な手法としていた私が、はじめて出合ったコンピュータは、富士通の大型計算機でした。今思えば、少々変わったコンピュータとの出会いかもしれません。
 その後、H大学の博士課程に進んだ頃には、パソコンが普及し始めて、NECのPC9800やPC8800シリーズが大学の研究室に導入されはじめていました。やがて、私もパソコンを購入できるようになりました。はじめは、BASICという言語で、プログラムを自分で作成をして、計算をはじめました。自分が出したデータや、比較検討のために文献から集めた大量のデータを入力して、グラフにしてプロットすることも行っていました。しかし、成果発表のための図は手書きでしたし、コンピュータを使って打ち出した図も、手で清書していました。
 この時期が、文章(英語論文)を、タイプライターで打つかワープロで書くかの狭間の時代だったようです。私の最初と2番目の論文は、タイプライターで打ちました。その後は、WordStarというパソコンのワープロを用いて、3編目と博士論文を書きました。当時、私は研究室ではじめてワープロを使って博士論文を仕上げたことになりました。
 WordStarにはスペルチェックの機能があり、博士論文の副査のH先生から、ミス・スペルがない論文なので驚いたといわれました。今では、スペルチェックは、ワープロには当たり前についている機能ですが、当時は知らない方もおられ、驚かれました。本当は、研究内容で、驚かれるべきなのでしょうが。
 その頃より後は、私、少なくとも理工系の研究者は、コンピュータなしで研究がやっていけない時代へと変化しました。分析装置の制御、データ処理、データ整理、グラフ作成、画像処理、作図、作表、文章作成などの研究や論文作成にかかわることだけでなく、学会の連絡や学会発表、研究者同士の連絡も、インターネットやメールを使っています。その窓口は、すべてコンピュータとなっています。
 研究者の必需品ともいうべきコンピュータは、日進月歩としていますから、研究をするにしても、研究成果をまとめるにも、学会へ報告するにも、新しいシステムやアプリケーションがでてくれば、対処しなければなりません。分析装置が導入され、それが新しいシステムやアプリケーションで動くのであれば、いやおうなしに、進歩につき合わされていきます。
 私は、コンピュータの専門家ではないですが、その進歩には驚かされます。コンピュータの進歩のスピードを考えた人がいます。Intelの創業者の一人であるゴードン・ムーアが最初に提唱したものです。彼らの名前をとって、「ムーアの法則」と呼ばれていますが、ICやLSIなどの集積回路の集積密度は、18から24ヶ月ごとに倍になる、という経験則です。現在までの数値をみると、2年で2倍になっているように見えます。これは、進歩という視点でみても、驚異的なスピードといえるものです。
 高速のコンピュータを必要とする人にとっては、技術の進歩は福音になります。でも、まだ使えるはずのコンピュータを数年ごとに買い換えて使い捨てるような風潮は、果たしていいことなのでしょうか。多分多くの人は疑問を感じているはずです。使い捨てを育むような思想が、将来のために資産を食い尽くしそうな気がします。
 でも、研究者は、成果を出さなければなりません。そのために必要悪ともいうべき、進歩への対処が迫られます。たとえ現状の環境で満足している人にとっても、常に自分の仕事に使っている道具であるコンピュータは、壊れる心配があります。もし壊れて本体を買い換えれば、新しいコンピュータには、新しいシステムやアプリケーションが入っています。それを使わざる得ない事情もあります。
 コンピュータが普及して間もない頃は、自分のやりたいことを、コンピュータがあるいはアプリケーションが行えない、できても遅いという不満がありました。その頃は、もっと速く処理ができないかと、ユーザは願っていました。ユーザの希望を受け入れてバージョンが続けられ、それを待ちわびて進歩を喜んで迎え入れていました。
 現在では、コンピュータは充分な能力を持っているのではないでしょうか。ですから、進歩より、耐久性を持って欲しいものです。「進歩よ、止まれ」、「コンピュータよ、耐久品になれ」といいたい気分です。
 私は、現状のコンピュータの能力で充分満足していますし、やっていけます。今まで使っているアプリケーションが動く限り、それで不自由はないのですが、もしコンピュータが壊れれば、新しいものに買い換えなければなりません。その時、新しいバージョンのシステムが導入されることになります。
 私は、新しいシステムを気にしながらも、4年前に購入したパソコンを古いシステムで使っています。今、使わなければ仕事ができなくなるアプリケーションが、新しいシステムに対応しているかどうか不明です。さらに、今まで使っていたアプリケーションだけでなく、蓄積したデータ、過去のファイルが使えなくなると、おおいに困ります。
 そのために、常にファイルの互換性には気を配っています。文章はできる限りテキストファイルにしています。データも、MSエクセルやMSワードのシンプルなファイルしていますし、ホームページもHTMLだけのシンプルなものにしています。しかし、どうしても特別なファイルを扱わなければならないこともあります。例えば、ドロー系や数値地図用のアプリケーションなどですが、新しいシステムで動くという保証がないものもあります。
 かつては、初期の日本語ワープロは、単漢字で入力していました。今のワープロは、スペルミスだけでなく、日本語の間違いを指摘してくれます。必要とあれば、類語も出してくれます。各種辞典や百科事典も利用できます。データベースも利用できます。フリーの百科事典であるウィキペディア(Wikipedia)もあります。こんなに、大量の情報が手軽に利用できるとは、初期のパソコンを使っていた時代からは、想像もできません。隔世の感があります。
 非常に便利になったのですが、では、私の研究は、ムーアの法則に則って、深まりを増したでしょうか。いや、実際のところ、薄まってきたのような気がします。今は、年に数編の論文を書きますが、以前は1年から数年に1編しか書かなかった時期もありました。このような時期は、論文を書くより、研究をすること、考えることに時間を割いていたような気がします。そして、自然の不思議さを研究することに、わくわくしていました。そして、自然の奥深さに感動していたような気がします。
 研究や論文に対する思い入れは、時間を書けた分、大きくなっていたようです。時間をかけて研究していた時代の論文には、好奇心や研究への強い気持ちが込められているのかもしれません。業績や評価からすると、こんなのは数字に表れない、取るに足らない些細なことかもしれません。でも、使い捨てのコンピュータのように、義務的な研究、早く論文にできる研究、論文数だけを考えた研究、論文を書けば終わりの研究、になってきているような気がします。
 これは、単なる過去へのノスタルジーや単なる思い過ごしでしょうか。でも、せめて年の初めくらいは、今までの自分の仕事への取り組み方、思い入れの強さ、初心などに、考えをめぐらせることも必要かもしれませんね。

・母の訪問・
年の初めは、心も改まるような気がします。
気がするだけかも知れません。
我が家はあわただしい、暮れと正月を過ごします。
それは、母が暮れから我が家に来て、
正月の元旦に帰るためです。
元旦は交通機関がすいているのと、
母は、我が家と自宅でも正月が祝えるからです。
ここ数年、母と我が家の恒例になっています。
暮れには、母を連れて、近くの温泉のはしごをすることになります。
冬の北海道は、雪と温泉だけはこと欠きませんから、
いっぱい味わってもらいたいものです。

・進歩もほどほどに・
私は、DOS、そしてある時期はMacを使ってました。
しかし、いろいろな理由から
現在は再びWindowsに戻りました。
ただし、Windowsは、もちろんVistaではなく、XPです。
今年購入したノートパソコンも
わざわざXPバージョンのものを購入しました。
現在メインに使っているデスクトップのパソコンの容量が
そろそろいっぱいになってきました。
外付けハードディスク500GBと1TBをつけて
データ保存とバックアップ用として使っています。
コンピュータのハードディスク(150GB)には
アプリケーションと必要なデータ、ファイルだけを入れています。
その空き容量が、だんだん残り少なくなってきています。
ですから、将来を考えると、不安ですが、
まだ、即座に乗り換える気がしません。
今使っているソフトが動くことを確かめてからです。
そんなとき、いつも思うのは、パソコンに関して、
ムーアの法則を、本当に多くの人が喜んでいるのかという疑問です。
それとも、私たちは、進歩という魔法で踊らせているに過ぎないのでしょうか。
道具の進歩は、喜ぶべきことなのですが、
ほどほどがいいのではないでしょうか。

2007年12月1日土曜日

71 テセウスの船:同時性と同一性(2007.12.01)

 地質学では同時性と同一性が、悩ましい問題となることがあります。そのような問題を表す言葉として同時異相というものがあります。今回は、同時異相について考えていきます。

 皆さんは、テセウスの船というものを御存知でしょうか。
 テセウスの船は、1世紀から2世紀にかけて活躍したギリシアの著述家プルタルコスが著したギリシアの伝説の中に、登場する話です。
 テセウスは、クレタ島にいたミノタウルスを倒し、アリアドネの糸を頼って迷宮から抜け出しました。そして、助けた若者と共に、船でアテネに引き上げてきました。そのときテセウスらが乗ってきた船が、後の時代まで残されていました。時がたつと共に、船をつくっていた木材が腐ってきたので、新しい木に置き換えられながら、船は保存されていました。このテセウスの船の木材が、順次新しいものに入れ替えられていって、もしすべて新しい木材で置き換えられたら、果たしてこの船は、テセウスの船と呼べるのでしょうか。
 プルタルコスは、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものといえるのかという疑問を投げかけています。このテセウスの船は、同一性を考えるための一種のパラドクスとして知られるものです。
 地質学では、自分が調査している地域内に見つかった同じような地層があったとき、それが同一で連続した地層であることを示さなければならないことがあります。地層の同一性を示すには、いろいろな方法があります。
 例えば、地層を構成する岩石が同じであること、地層から産する化石が同じ種類のものであること、地層の時代が同じであること、上か下の地層で特徴あるものを見つけてそれを鍵にして対比することなど、いろいろな同一性の手がかりから証明していきます。
 しかし、これらの証明法は、間接的で傍証というべきものです。論理的には、同一であることを直接示しているわけではありません。一番確実な証明方法は、一つの地層を、比べたい地点まで、追跡していくことです。一つの地層が見える限り追跡しています。もし露頭が地下で見えなくても、現在の技術をもってすれば、ボーリングなどをすれば、見ることができます。もし断層などがなくて、大地が連続しているならば、地層を追いかけていけば、最終的に目的の地点まで地層が連続しているかどうか確認できるはずです。
 まあ、現実的あるいは技術的にはそのような追跡は困難ですから、両地点の間に露頭をできる限り見つけて、そこで連続性を追いかけることになります。追跡のときに手がかりになるのが、化石や特徴を持った地層です。このような特徴的な地層を、鍵層(key bed)と呼びます。
 鍵層にはいろいろなものが使われますが、一番有効なものとして、特徴的な火山灰層があります。特徴的な火山灰層とは、ある火山のある時代の噴火によって放出されたものという意味です。火山灰の堆積は、地質学的には同時とみなせる現象です。ですから、火山灰の鍵層は、同一時間面つまり同時性を示すものなのです。
 もし、2つの火山灰層に挟まれた地層があるなら、2つの火山活動の間に溜まったものですが、厳密には同時とはいえませんが、かなり限定された期間に溜まった地層とみなせます。ですから、同一性を証明するために、鍵層は非常に重要な手がかりとなります。
 2枚の鍵層があり、その2つの間の地層を比べたとします。地層には特徴的な化石も含まれているとしましょう。ただし、比べたい両地点の間の関係は、不明です。
 さて、2つの地点で地層を比べたところ、2つの鍵層が両地点から見つかりました。しかも、間の地層からも同じ化石も見つかりました。しかし、自然現象では、時々不思議なことが起こります。比べたい地層がみるからに違うものだったのです。さて、この地層は同一といえるのでしょうか。
 地質学的には、同一としていいような証拠があり、しかし同じとするには、地層の内容が違いするぎるという場合です。実は、このようなことは、距離が離れた地層の対比をする場合には、よくあることなのです。
 これは、テセウスの船のパラドクスと似ていると思いませんか。このパラドクスを解くには、地層のでき方を理解していく必要があります。
 一般に一つの地層は、土砂が海底に流れ込んでできます。土砂が流れ込むと、傾斜のゆるい海底では土石の流れは弱まり、やがては流れがとまり、一枚の地層ができます。地層の形成は、短時間に限られた範囲で堆積します。似たように時期に、別の川で発生した土石流が、同じ堆積場に流れ込んだ場合、上の例のような地層の関係ができます。これは、地質学においては、それほど特別な現象ではありません。なぜなら、堆積場がそのような環境であることが多いからです。
 一つの地層に注目すれば、周辺では薄くなってやがては消えていきます。逆に他方の地層が、だんだん厚さを増していくことがあります。このように地層がだんだん薄くなってやがてなくることを尖滅(せんめつ)と呼んでいます。時には、2つの地層が指を組ませたような入り組んだ関係(指交関係)になっていることもがあります。同時代に近くで溜まった地層で、両者の性質が違うものは同時性を持っていますが、同一性を欠いています。このような地層の関係を地質学では「同時異相」と呼んでいます。
 地層とは、無限に続いていくものではなく、どこかでやがては消えていくものなのです。しかし、両者を橋渡しをするような鍵層や化石があれば、同時性を手がかりにして、対比することが可能となります。
 このような地層の同時性と同一性の検証の繰り返しによって、その地域のある時代の特徴を編むことができます。それらの時代ごとの特徴を積み重ねていけば、その地域の地質学的歴史、つまり「地史」が出来上がっていきます。
 テセウスの船は、同一性を考えるためのパロドクスでした。同一性は同一律や自同律、同一原理などと呼ばれ、論理学では正しい思考をするために従うべき基本的な法則の一つとされています。
 同一性とは、AとBがあったとき「A=B」のことですが、古くから哲学では、重要な問題とされています。
 ライプニッツの考えによれば、識別できない2つの個体は存在せず、それを同一とするというもので、「不可識別者同一の原理」と呼んでいます。この原理は、Aの持つ全ての性質をBが持ち、またBが持つ全ての性質をAが持つとき、「A=B」が成り立つというものです。同一性は、神と人間を区別したり、実体を判別したりするために、非常に重要な役割をもってきました。
 一見当たり前のようにみえる同一性も、厳密に考えていくと、いろいろややこしい問題を含んでいることがわかります。テセウスの船のパラドクスへの答えも、考え方によって違ってきます。
 アリストテレスのテセウスの船に対する考えを紹介しましょう。アリストテレスは、事象の原因を4つに分け(四原因説)て考えました。その原因に基づいて解釈すれば、このパラドクスは解ける考えました。
 テセウスの船が「何であるか」(形相因)を考えるのであれば、設計などの本質が変わっていないため、「同じ」とみなされます。「何のためものか」(目的因)という点で考えれば、テセウスが使った船という目的は変わっていないので、「同じ」とみなされます。「誰がどのように作ったか」(動力因)とみれば、最初に船を作った職人と同じ道具や技法を使って修理(部品の置換)をしたのだから、「同じ」と考えることができます。ただ、「何からできているか」(質料因)と考えれば、時と共に材質が変わっているので、全部置き換われば、もはや「同一」とはいえなくなります。
 これが、アリストテレスの答えです。
 地質学では、「何からできいるか」という質料因や「何であるか」という形相因を問うものなので、同時性が保障されたとしても、同一性の証拠になりません。
 「同じ」というのは、一見当たり前のことに思えますが、よくよく考えると、そこには複雑な問題があるのです。

・心の余裕が必要・
いよいよ師走になりました。
今年も残すところ、あと1年となりました。
北海道は例年になく寒い冬を迎えています。
今年は、暑い夏と寒い冬でした。
特に原油の値上げという
北海道にはなかなか厳しい冬になります。
それでもなんとか私たちは暮らしています。
現状を、悲観的に捕らえてしまうのは、
私たちが経済に影響を受けすぎているためではないでしょうか。
経済にだけ極度に敏感になりすぎているようです。
季節の変化や自然の変化に
もっと目を向ける必要があるのではないでしょうか。
自然に目を向ける心の余裕が必要ではないでしょうか。
師走の初めにそんなことを感じています。

・困難さ・
今回紹介したのは、地質学でも地層だけの話です。
上で述べたように、地層においても、
同時性や同一性を厳密に認定するのは
なかなか困難な検証を必要とします。
火山岩や変成岩では、同時性や同一性は
もっと複雑な様相を呈します。
火成岩の同一性とは何なのか。
変成岩の同時性とはどの現象を指すのか。
なかなか判断できない
一筋縄でいかない困難さがあります。
大地の生い立ちを探るのは、一苦労です。
ですから、それを解いた感激は
何物にも変えがたいものなのです。

2007年11月1日木曜日

70 バウハウスの原則:アンモナイトの渦巻き(2007.11.01)

 アンモナイトの渦巻きには不思議な美しさがあります。かたや人間の作り上げた極地として人工の機能美があります。そんな関係を探っていきましょう。

 だいぶ以前ですが、オーストラリアに行った時、田舎の小さな土産店でオームガイの貝殻を見つけました。私は、それまでオームガイを博物館や本でしか見たことがありませんでした。値段もそんなに高くなかったので、すぐさま「そのノーチラスを下さい」(オームガイは英語でノーチラスといいます)といって買いました。そのオームガイは、自宅の居間に飾ってあります。オームガイは、今ではそれほど珍しいものではないようです。
 オームガイは、南太平洋からオーストラリア近海の水深100m~600mに棲んでいます。その祖先は古生代のオルドビス紀に誕生しましたが、それ以降ほとんど形態的には進化していない、「生きた化石」と呼ばれています。
 オームガイは絶滅したアンモナイトと近縁だと考えられていましたが、最近では、少し違った考え方が出ているようです。アンモナイトは、オームガイよりも、現在のイカやタコに近いとされています。しかし、オームガイと似た生活をしていたと考えられています。
 アンモナイトは、古生代のデボン紀から中生代の白亜紀末まで生きていた海棲の生物です。殻をもつ頭足類ですが、絶滅種です。殻は、オームガイではあまり多様性を持たないのですが、アンモナイトは多様な進化をとげ、1mを越える直径を持つ大きなものも発見されています。こんな大きくて重い殻をもっていて、本当に泳ぐことができたのか心配になるほどです。
 そこには、自然の巧みな仕掛けがありました。普通の巻き貝では内部が一つにつながっているのですが、オームガイやアンモナイトでは多数の小部屋に分かれています。一番外の小部屋を住みかとしていて、奥の小部屋はカラになっていて、その空き部屋が浮力を生み出していたと考えられます。その浮力によって、海中を自由に動き回れたと考えられています。
 さて、オームガイやアンモナイトの貝が巻き方は、規則的で非常に「きれい」に見えます。「きれい」とは、人をひきつける何かがあるということです。その「きれいさ」を科学することはなかなか難しいのですが、オームガイやアンモナイトの貝が巻き方は解明されています。
 オームガイやアンモナイトは成長するとき、常に同じ形(相似形)を保ちながら成長しようとします。うずまき状の曲線として、ある規則性が発生します。その規則性は、対数らせん(螺旋)と呼ばれるものです。対数らせんは、どこで切ってもすべて相似な曲線となります。対数らせんは、黄金比の長方形に内接するものです。
 黄金比とは、最も均斉のとれた美しい長方形といわれるものが持っている比率です。その比率は、長方形の短い方を1とすると、(1+√5)/2(約1.618)という値になります。これはギリシア時代から知られている比率です。少々ややこしい値ですが、詳しく見ると不思議な規則性があります。
 黄金比を持つ長方形は、短い辺を一辺とする正方形を取り除くと、残った長方形もやはり黄金比を持つ、つまり相似の長方形が現われます。それを繰り返していき、正方形の対角線上に滑らかな曲線を引くと、そこに対数らせんが現われます。
 黄金比や対数らせんの「きれいさ」は、多くの芸術家や建築家が無意識に使っています。ギリシャのパルテノン神殿やミロのビーナスには、いたるところに、黄金比が用いられています。また、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にはらせんの構図が用いられています。
 対数らせんは、生物の成長と重要なかかわりがあります。例えば貝の殻や爪、髪、角、甲羅などは、少し伸びても全体としての形が変わらない様に、常に相似形を保ちながら伸びていきます。このような自然界の「きれいさ」の規則性を解き明かせたのは、まだホンの一部にすぎません。
 もっともっと深い何かが自然界のいたるところにあるはずです。そんな自然界の機能美を見る時、私は「バウハウスの原則」というものを思い浮かべてします。
 「バウハウスの原則」というのを御存知でしょうか。バウハウスとはドイツ語のBauhausのことで、Bauとは「建築」という意味で、hausは「家」のことで、「建築の家」という訳になります。
 何のことかわからないと思いますが、バウヒュッテ(Bauhutte)をもじった言葉です。バウヒュッテとは、「建築の小屋」の意味で、中世の建築職人組合のことでした。それをドイツの建築家のヴァルター・グロピウスがもじって、バウハウスというものを用いました。
 バウハウスとは、1919年にドイツのワイマールに設立された美術学校の名前です。この美術学校では、工芸・写真・デザインや建築に関する総合的な教育がされた学校でした。しかし、学校として教育が続けられたのは、1933年まででした。たった14年間しか開校していませんでした。閉校に追いやったのは当時ナチスでした。
 建築は、一般にアーキテクチャーという言葉が使われています。しかし、庶民的な言葉であるバウ(建築)という言葉を使ってるところに、深い意味があります。つまり、芸術あるいは建築は、特権的階級に対してではなく、全ての人に通じ、利用されるものだという意思表示なのでしょう。
 たった14年ですが、バウハウスは、モダニズム建築に大きな影響を与え、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともります。そのようなバウハウスの芸術精神が「バウハウスの原則」と呼ばれるものです。
 「バウハウスの原則」とは一言でいうと、「形は機能に従う」というものです。特権階級が好むような贅を尽くしたような装飾や虚飾を取り去り、機能や構造を追及すれば、そこには自ずから美が生まれるという精神です。
 これは、何も芸術の世界だけではないように思えます。先ほどのオームガイやアンモナイトなどの生物の形態などは、その好例ではないでしょうか。生物の形態には、無駄で意味のないものはなく、何らかの必然性に基づいて生まれているのです。
 先ほど挙げたアンモナイトの対数らせんや黄金比の規則性は、成長しても形が変わらないために生まれた必然でした。それが黄金比というものを利用しているために、「きれいな」渦巻きに見えたわけです。
 自然界には、人が見ても「きれい」と思えるものはいろいろあります。詳しく見ると二つとして同じものはないはずなのに、そこには隠された規則性、機能美があるのです。私たちは、自然界の造形美を科学で解き明かすには、まだまだ時間が必要なようです。「きれいさ」、美とは奥深いものですね。

・オームガイ・
オームガイは、今では南国の日本の土産物屋さんでも
見かけることがあります。
海外から輸入しているのでしょうけれど、
その美しさには、なかなか目が惹かれます。
装飾用に栄えように、磨いて銀色していることがあります。
あるいは半分に切断して、
隔壁をよく見えるようにしているものもあります。
オームガイは自然物ですから、
その美しさはバウハウスの原則に則っています。
しかし、それを見栄えをよくためだけに磨いたり切断するのは、
虚飾の一種ですから、明らかにバウハウスの原則に反します。
しかし、手は加えていますが、
自然の美を強調しているだけという見方もできます。
美とはなかなか奥が深いようです。

・知的パズル・
黄金比は、ギリシアの彫刻家ペイディアスが
初めて使ったといわれています。
黄金比をレオナルド・ダ・ヴィンチも
発見していた記録が残っているそうです。
「黄金比」は1835年にドイツの
数学者マルティン・オームの著書でだったそうです。
美しさを多くの人が古くから知っているのに、
その美しさが数学的に解明されるには、
長い時間が必要だったようです。
アンモナイトの規則性を見ると、
美という、数値では非常に示しにくいものが、
いったん数式として解明されると、
そこには単純で「きれいな」規則性があったということです。
「きれいさ」を追求したら、そこに数学的美しさがあった。
これは、非常に不思議な気がします。
その意外な「きれいさ」を知った時、
多くの人が自然の奥深さに感心するでしょう。
美の解明とは、自然が人類に与えれくれた、
非常に難しい知的パズルのような気がします。

2007年10月1日月曜日

69 価値ある研究者(2007.10.01)

 研究とは本来好奇心に基づくものです。しかし、捻じ曲げられてきているような気がします。独創性を巡る優先権の争いも、そんな表れでしょう。素直に好奇心に基づく研究など、現在では、もはや夢の話なのでしょうか。

 なぜ、研究者は、研究をするのでしょうか。それはもちろん、自分の好奇心にかられて、好奇心を満たすために研究をするのでしょう。研究を続けるためには、好奇心を自分の心の中に持ち続けていなければなりません。
 ところが、職業として研究者になると、好奇心に導かれて自由に好きなだけ研究をすればいいというわけではありません。いろいろな「しがらみ」があります。まず、研究成果を出すことが求められます。その成果に対して、いろいろな評価を受けます。
 その成果や評価によって、研究テーマや手法、方向性が変わったり、好奇心が抑えられたり、捻じ曲げられたりすることが起こってきます。まあ研究者とはいえ、社会的生活を営んでいますから、これは仕方ないことでしょう。
 もちろん、研究成果を社会に反映することは重要です。今まで研究者があまりそのための努力をしてこなかったので、研究成果の社会への還元が重要であると認識されてきました。その成果の重要度を客観的に示すための方法がいろいろ公開されています。たとえば、他の人の論文にどれくらい自分の論文が引用されたかを示す指数(citation index)や投稿した雑誌のランク(impact factorなど)によって判断されます。
 研究者には、自分の意思と関係なく、論文数やその評価が出されます。誰でも、他人が自分のことをどうみているかは、それなりに気になります。できれば、いい評価を受けたいのは、誰でも同じです。そのような評価を良くするために、たくさん論文を書こう、どうせ論文を投稿するならランクの高い雑誌にしよう、などという配慮が働きます。
 もっといえば、いい評価がでるようなテーマ、いい評価のある指導者につく、有能な研究者を集める、研究資金を調達するなど、本来の研究動機とはかけ離れた目的で研究が進むことがあります。若手研究者でいいポストに異動しようと考えている人、先端の研究をする人、多くの研究費をとろうと狙っている人などの、論文数と共にそのような指数なども気にして研究しています。これは、当然の傾向といえるでしょう。そうしないと、仕事も見つからないし、いい研究者も資金も集まらないし、評価も良くなりません。
 研究とはもともと好奇心に駆られて行ったことですから、こんなに面白いことがわかったと、それを世間の人に知らせたい、という非常に単純で純粋な動機があったはずです。今までの好奇心の整理として、成果報告がなされてきたはずです。今や、このような好奇心に基づいた研究はなかなかしづらくなってきているようです。
 研究の評価におて一番重要なのは、その独創性とその優先権です。どんな研究でも、好奇心に基づいて行っていることであれば、その興味を持ったものに、すでに他の人が答えを出しているのであれば、その答えをみれば自分が手を下すことなく好奇心を満たすことができます。
 先行研究を調べることが研究のスタート、つまり好奇心を満たすためのスタートです。今までどれほどのことが知られているのかを、調べなかればなりません。もし、それを怠って、すでに誰かが行っているようなことを、自分の独創的成果として公表すると、自分にとっても人類にとっても無駄なことです。十分調べれはそのようなことはないはずなのですが、科学者が増えていること研究論文数も多くなり、先行研究をすべて調べるとこは不可能になります。時に、すでに成果を出している人がいると優先権を侵害することにもなります。もしその独創性に特許などの利害が絡んでいると、問題は複雑になります。
 最近私は、地質調査や記載における新手法の開発や、地質学や科学の教育にいろいろ工夫を加え、新しい手法や方法論を提示することを中心に研究しています。先月末にも論文を書き上げ投稿しました。その論文では、新しい電子機器の使用による地層記載の新手法を開発することが内容となっていました。
 論文には、先行研究の引用文献が不可欠となります。現在、多くの人が興味を持って研究している分野は、関連した多くの研究があります。今回の論文は、新しい視点での手法開発ですので、ほとんど先行研究がありません。自分自身が以前行った研究も重要な先行研究になります。自分の研究を引用しても、文献が少なくなります。それだけ独創性がある研究(?)のはずなのですが、引用文献が少ないと、「これで大丈夫かな」という不安な気持ちになります。
 自分が興味をもって行った研究の成果を、世間に公開するのが研究論文です。論文とは、人類の知的資産に今までなかった成果を加えることが重要な目的となっています。ですから、今まで誰も出してない独創的なものであるべきです。研究者とは新たな知的資産を加えることが重要な任務であります。
 でも、この独創性や優先権とは何かと考えると、非常に難しい問題になります。
 例えば、ある一人の地質学者が、今までだれも行ったことのないところで、だれも見たことがない化石を発見したとしましょう。誰も見たことのない化石を記載すれば、大発見の非常に高い独創性のある研究成果となります。この化石の記載報告には、先行研究は少ないでしょうから引用文献も、それほど多くないはずです。
 本当にその研究成果は、その研究者だけによるものでしょうか。その地域で地質調査するための経験、化石を記載するための技術、その化石が新発見であると識別する知識などは、彼の独創性によるものではないはずです。つまり、科学者として一人前になるために、多くの指導者の教育を受け、専門の知識や技術を身につけたはずです。そのような経験や知識は、彼自身が生み出したものではなく、人類が長年かかって積み上げてきた知的資産の上になり立っているのです。ですから、彼の独創性は多くの知的資産の元に成り立っています。彼の成果は、その化石を発見して、人類の古生物の知識に新たな化石を一つ付け加えただけにすぎないのです。大発見かもしれませんが、一つの成果に過ぎません。
 新たな知識や独創性に、高低や貴賎があるのでしょう。評価を気にする人にとっては、その高低こそが重要と考えるでしょう。しかし、評価は相対的なものです。長い目で見れば、時間が経過すれば、評価も変化するはずです。今は評価が低くても、後の時代に高い評価が出るものもあります。成果の高低よりも、新たな知識や独創性を一つ付け加えた事実を重くとらえるべきではないでしょうか。
 人類にとって価値ある研究者とは、好奇心を維持し、その好奇心によって新たな知見を得て、それを一つずつ公表し続けている人をいうのではないかと思います。さてさて、私は、そんな研究者といえるのでしょうか?私は、年に数編の論文を書いてますので、数を云々かんぬんいわれることはないと思いますが、好き勝手な研究ばかりしているので、評価は低いんでしょうね。

・秋・
いよいよ10月です。
先週の連休に北海道の最高峰の旭岳に登ってきました。
紅葉が始まっていました。
しかし、登山の翌日の夜には初冠雪があったとニュースで報じられていました。
もし、一日ずれていたら登山はできなかったでしょう。
快晴の天気にも恵まれ、旅館も連泊でき、幸運でした。
その紅葉は一気に平野に下りてきそうです。
近所のナナカマドも色づいてきました。
北海道は、9月中旬まで結構暑かったので、
9月下旬から急激に涼しくなり、一気に秋めいてきました。
体調を壊す人もでています。
我が家では家内と長男が風邪を引きました。
皆さんの地域は、もう秋めいてきましたか。
我が家では、今年の冬に備えて
先週ストーブをオーバーホールに出しました。
考えることは誰も同じなので、整備会社も混んでいます。
しばらく時間がかかりそうですが、今週には出来上がります。
厚着さえすれば、それほど寒くないのですが、北海道では
寒いと暖房が当たり前なので、季節にかかわらず暖房を点けてしまいます。
家全体を暖め凍結を防ぐということもあるのですが、それはいいわけでしょう。

2007年9月1日土曜日

68 知の集積:デジタル図書館(2007.09.01)

 古今東西の書籍、雑誌が、いつもで手軽に自由に閲覧できたらいいなと、だれもが思います。それは、まさに人類の知を、手に入れたと同じことになります。ただそこには著作権、営利、費用など、非常に人間的な配慮が必要な問題も横たわっています。今回は、デジタル図書館について考えてみます。

 ある研究者が、何か新しいことを思いついて、そのことについて詳しく調べたり実験をしたりしたとします。その結果、何らかの新しいことがわかったとしましょう。それを成果として公表しようとするのが、研究者としての重要な責務です。
 ただし、成果を公表するときには、いくつか注意すべきことがあります。その成果が、はたしてオリジナリティがあるのかどうか、他人の優先権を犯していないかなどを、よく調べておく必要があります。
 そのために研究者は、先行研究としてどのようなものがあるのか、自分の成果のどのような点が独創的で新しい成果なのかなどを明確にして示す必要があります。まずは、先行研究を十分調べる必要があります。
 先行研究を調べる時、図書館での調べものが重要になります。論文や書籍を実際に当たって、自分の研究に関連する情報を可能な限り集めていきます。そして、誰もそのような成果を出したことがない時、はじめてオリジナリティが生まれ、自分の優先権を示すことができます。
 実際に先行研究を調べることは、非常に労力が必要になります。時には、研究や実験以上に手間がかかることもあります。特に自分にとって新しい分野での研究を始めるときは、その手間は大変となります。
 文献を読む大変さはさておき、文献を手にすること自体に、私は非常に苦労した経験が何度かあります。まずはある重要な先行研究の論文をいくつか読みます。それらの論文に引用されている文献には、非常に重要そうなものが、たいていいくつかはあります。それは、次なる必読文献となります。そのような文献が、自分の属する大学の図書館ですべてそろえることができればいいのですが、どんな大きな大学の図書館でも、すべての文献をそろえるのは不可能です。
 ですから、どこか他の大学図書館が所蔵する文献で調べる必要が出てきます。。近くの図書館なら行けばいいのですが、同じ国内でも、遠くなら入手するのは大変になります。現在では、大学図書館同士の文献の借用、複写サービスがあり、時間はかかりますが、現地に行くことなく論文を手にすることができます。また、文献の豊富な他の大学の図書館で、閲覧するための紹介状も所属大学の図書館は発行してくれます。
 そのような便宜があったとしても、すぐにはそろえられない文献もあります。直接著者に別刷り請求をしたりできればいいのですが、古いものであれば、それを所蔵している図書館に行くしかありません。文献が古ければ古いほど、所蔵図書館は限定されます。優先権は非常に重要な問題ですから、研究の種類によっては、そこまでの努力をしなければならないこともあります。
 もし、世界中の図書館のもっている大量の文献が、デジタル化され、インターネットを通じて、どこからでも、いつでも、いくらでも閲覧することができれば、こんな素晴らしいことはありません。
 このような閲覧システムができたら、今回例にした個人の研究の優先権の確認のためだけでなく、人類の知を、すべての人類が共有できることになるわけです。
 少し前ですが、2007年7月6日、慶應義塾は、Googleが世界規模で展開している「Googleブック検索図書館プロジェクト」と連携するというニュースが報道されました。
 どういう意味があるのかという、慶應義塾図書館がもっている蔵書のうち、著作権保護期間がきれた約12万冊を、デジタル化して、Googleブック検索を通じて、世界に公開するということです。明治初期までの和装本と、明治・大正・昭和前期の図書が、デジタル化の対象となります。その中には、慶應義塾の創始者である福澤諭吉の数々の著書も含まれます。
 「Googleブック検索図書館プロジェクト」とは、Googleが資金と技術、公開の場を提供して勧めているもので、図書情報の集積とデジタル化です。このプロジェクトには、ドイツのバーバリアン州図書館、ハーバード大学、カタロニア国立図書館、ニューヨーク図書館、オックスフォード大学、スタンフォード大学、カリフォルニア大学、マドリード・コンプルテンセ大学、米国の12大学で構成するコンソーシアムであるCommittee on Institutional Cooperation(CIC)、ローザンヌ大学図書館、ミシガン大学、テキサス大学、ヴァージニア大学、ウィスコンシン大学、コーネル大学など、25の機関の図書館が参加しています。今回、日本で最初に慶應義塾図書館がそのプロジェクトに参加したということです。
 Googleブック検索に登録されている書籍は、著作権があるものは、図書カードのような書籍の情報が登録されます。さらに、版権を持つ出版社が提供する書籍の抜粋や数ページを閲覧可能にして、書籍販売を促進をすることも目的となっています。入力された検索語を含む文章の一部を示され、ユーザーが購入するときの参考とできます。著作権保護期間が終わっているものは、全文を見ることができます。
 古い本を大量に保管していのは、古くから続いている図書館です。本を傷めずにスキャンするには、特別装置が必要で、手間も資金も必要です。それをGoogleが提供しているのです。
 日本の文献も、慶應義塾図書館がもっている明治以降だけでなく、もっと古い文献や図書も、デジタル化してもらいたいものです。古い古典に属する文献は、他のプロジェクトで行われています。しかし、データが一元化されていることが望ましいです。
 しかし、データの一元化は、どのような組織がおこなうかは、大きな問題です。現在Googleという民間企業が大規模におこなっています。Googleは御存知のように、インターネットの検索エンジンで急成長した企業です。Googleでは、さまざま新しい試みも行っています。その多くは、ユーザーからは料金をとることなく、企業からの広告収入で利益を出している企業です。
 Googleは世界的な企業で、サーバも安全のために、いたるところに分散して、多重にバックアップもされています。多分、世界でもっとも大きなサーバとデータを保持しているのではないでしょうか。そこに、図書館の書籍情報が加わることは、世界中のユーザーにとって非常にありがたいことです。
 このような大規模な事業は、Googleだからできることなのかもしれません。データベースの構築だけでなく、サーバの維持管理にも膨大な手間と費用、ノーハウが必要になるはずです。いまのところ、このようなことを、採算を考えずにできるのは、Google以外にはないのでしょう。
 どんなに大規模なサーバをもっていたとしても、世界中に関連会社があるとしても、Googleは一企業です。経営が成り立たなくなれば、このような文化的な事業は、終わってしまうかもしれません。倒産すればデジタルデータなど一瞬で消えてしまいます。
 かといって、一国の公官庁に、このよう大規模な国際的なプロジェクトを行うことは、荷が重いはずです。そして何ヶ国にも及ぶデータを、一元管理することは、なかなか困難でしょう。
 以上のような現状を考えると、Googleが進めるのはいいことでしょう。継続性を考えると、それでいいのかという不安もがあります。それがジレンマでもあります。とりえずは、Googleブック検索図書館プロジェクトが進行していくのを見守っていきましょうか。

・ブック検索・
Googleブック検索は
http://books.google.co.jp/
にあります。
しかし、残念ながら、全文閲覧ができるものは、
日本語では、なかなかひっかかりません。
まあ、これから時間が立てば、いろいろ増えてくるでしょうが、
著作権切れの読みものは、青空文庫のほうが、
充実しているかもしれません。
海外の文献は、古いものがたくさん全文閲覧できます。
ダーウィンやニュートンの文献も、見ることができます。
もちろん、このような古典と呼ばれる文献は、
新しい印刷物で読むことができます。
しかし原本を見るというのも時には必要です。
また楽しいものであります。
そのような原本は、古くからある図書館で保管されています。
文献が貴重になればなるほど、一般の閲覧は制限されます。
でも、デジタルであれば、一度記録すれば、
閲覧で痛むことも劣化することもありませんから、
自由にだれでもみることができます。
そのような意味で、Googleのプロジェクトは、非常に楽しみでもあります。

・アナログ情報・
海外の地質調査を見に行くと、いつも思うのですが、
デジタル化進んだ現代でも、
やはりアナログの情報も多いということです。
そんな地域の地質に関するアナログ情報は、
地元の博物館などの関連施設には、情報がたくさんあります。
その情報は、現地でしか手に入らないものです。
ですから、ある地域での調査は、
現地の野外調査をするだけでなく、
文献や資料の収集も同時にすることになります。
それは大変でもありますが、
知的好奇心を湧きおこすことでもあります。

2007年8月1日水曜日

67 知識と知の会得(2007.08.01)

 インターネット上の情報は簡単に手に入ります。しかし、その簡単さが落とし穴になっているかもしれません。知とは、知識を編集する過程において、手間をかけ深く考えることによって身に付くのではなでしょうか。

 あるテーマについて調べたい時、皆さんはどうしますか。
 例えば、生物の進化について調べることにしましょう。まずは、高校の生物で習ったことを思い出すのではないでしょうか。手元に、高校の教科書や参考書があれば見ることもできるでしょう。もっと詳しく調べたければ、図書館や大きな本屋さんにいって関連する本を探して読むでしょう。
 これは、多くの人が今もおこなっている一般的な調べ方です。最近では、インターネットをうまく使って調べていく人も多くなってきます。インターネットを含むネットワークの検索が、今では調べ物の中で重要な手段を占めているかもしれません。
 IT嫌いの人も、今やネットワークなしで社会生活を送ることはできません。ここでいうネットワークとは、インターネットはもちろん、携帯電話、銀行やカード会社のオンライン、交通網の安全や運行管理のために情報収集など、コンビニエンスストアやスパーマーケット、書店の在庫や流通情報の管理などなど、無駄なく、効率よく情報や物資、人員を移動、管理するために利用されています。その手段も、有線や無線回線、あるいは一般の電話の公共回線から専用回線、海底ケーブル、人工衛星を使うものまでいろいろあります。ですからネットワークを利用しないで生活することは不可能ともいえます。
 でも、ネットワークやITを上手く利用すれば、多くの情報を得ることも可能となります。インターネットなどを利用すれば、大量のそして上質の情報も得ることができます。しかも、ネットワークにつながっているコンピュータや携帯電話さえあれば、検索すれば、それらの情報を手軽に得ることができます。
 学生たちに「進化」というテーマで調べてレポートを書きなさいと指示したとしましょう。ここで架空の2名の学生に登場してもらいましょう。
 ひとりは、コンピュータが好きで、いつもインターネットを渡り歩いて楽しんでいる学生A君です。もう一人は普通の学生です。もちろんコンピュータもインターネットも使えるのですが、必要がないとわざわざ使わない学生B君としましょう。
 A君は、早速レポートのテーマである「進化」についてインターネットを使って調べることにしました。A君は、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」でとりあえず調べました。ここにくれば、かなり専門的な知識が体系的にまとめられていることを、彼は知っています。
 ウィキペディアで「進化」を調べると、A君の予想通り、いろいろ情報が手に入りました。これを利用して編集すれば、レポートはできると考えました。A君は、その充実した内容の文章を、ワープロにコピー・アンド・ペーストし、適当に入れ替えたり、削除したりして、編集することにしました。
 でもこのままじゃ、自分の文章でないとわかっているので、A君は、最初と最後にその情報を読んだときに考えたことを、数行ずつ付け加えることにしました。そして、A君は、あっという間に、専門家も顔負けのレポートが仕上げてしまいました。
 一方、B君は、もともと進化に興味がありました。ですから、彼は、この機会にできる限り進化について調べて見ようと思いました。A君が大学のコンピュータ室にいった頃、B君は大学の図書館にいって、図書館の検索用のコンピュータで調べて、本に当たることにしました。
 実際に私のいる大学の図書館で「進化」をキーワードにして検索すると、図書727件、雑誌26件、論文13件もヒットします。私の大学は文系の大学ですから、理系の文献は極端に少ないのですが、これだけでてくるのです。
 B君は、コンピュータの検索結果のページを次々と繰りながら、大量のリストの眺めながら、大量すぎるリストにうんざりしました。彼は、リストを眺めながら、進化論はダーウィンが最初に考えたと高校時代に習ったことを思い出しました。
 進化とダーウィンについて調べてみようと考えました。キーワードを「進化」と「ダーウィン」の2つにして検索してみました。すると図書で34件に絞ることができました。4ページに減ったリストを調べながら、B君は、ダーウィンは進化論を「種の起源」という本で書いたことも思い出しました。
 そこで、彼は、「ダーウィン」と「種の起源」をキーワードにして検索したら、単行本と文庫本が、この図書館にあることがわかりました。文庫本のある場所がわかり、それを彼は手にすることができました。
 その頃、A君は編集作業を終わり、自分の文章をどこに何に書き加えていこうか考えていました。
 B君は、原典ともいうべきダーウィンの「種の起源」は上中下の3冊になっていました。とりあえず上巻をとりだして、ページをパラパラめくりながら、文字ばっかりで読むのが大変だなと思いました。
 でも、本の扉に書かれたタイトルをよく見ると「自然選択の方途による種の起源」となっていることに気づきました。それをみて、B君は、ダーウィンが自然選択によって生物に変化が起こり、それが新しい種を生み出し、進化をすると考えたのじゃないかなと思いました。上巻の目次をみても、どうもそういうことを書きたかったようだと思いました。
 「訳者まえがき」で、「種の起源」という本は、6版まで書き換えられているけど初版を訳したものだと知りました。次に、ダーウィン自身の書いた「種の起源」の「序言」を読んでみました。すると面白いことが書かれていました。興味が出たのです、関連する内容を訳者の解題でも書かれているので読みました。
 そのころA君はレポートを仕上げて、印刷をしていました。
 B君の興味をもって読んだ内容は、どうも次のようになっていることを知りました。
 ダーウィンは、進化に関するアイディアを1837年い思いついたようです。そのアイディアを1844年に300ページ以上にもなる概要としてまとめ、1857年アメリカの植物学者のグレー宛てにまとめたことを示した手紙を書いていました。その後、完全版とも言うべき、すごい量になるはずの大著の準備をはじめていたようです。
 ところが、1858年、ウォーレスという博物学者が、ダーウィンに論文を送ってきて、ダーウィンの恩師である地質学者のライエルに渡して学会報に出して欲しいといってきました。その論文は、ダーウィンが得た考えと同じ自然選択による進化を書いたものでした。
 ライエルとフーカー博士の計らいで、リンネ学会で1858年7月1日にウォーレスとダーウィンの自然選択が発表され、リンネ学会報の第3巻として印刷されました。ただしダーウィンの報告は、1844年の概要からの抜粋とグレーあての手紙の一部が論文の代わりに印刷されていました。このような配慮のおかげで、かろうじてダーウィンが進化論の考えで先を越されずにすみました。そのため、ダーウィンは、まとまったものを早急に書き上げ出版しなければならなくなりました。大著の準備を一切なげうって、ダーウィンが抄本と呼んでいる「種の起源」が、翌年の1859年11月に出版されました。
 そんな事情が、ダーウィン自身の序論や訳者の解題で紹介されていました。B君は進化論の内容よりも、ダーウィンとウォーレスのアイディアの優先権争いが面白いと思いました。今まで偉い生物学者だと思っていたダーウィンが、自分のアイディアの占有権をめぐってうろたえていることを文章から感じました。人間ダーウィンがそこにいるように思えました。
 なぜ進化論の提唱者としてウォーレスの名前が残ってないのだろうと不思議に思いました。しかし、その方向に進むと話が、進化からはずれるので、さらにダーウィンの「種の起源」について調べていくことにしました。
 そころA君は、印刷の終わったレポートを、大学のレポートボックスに投函をしていました。B君のレポートの作成には、まだまだ時間がかかりそうです。
 A君とB君の調べ方を見ていて、大切なことがいくつかあります。
 第一に、両者とも既存の知識を探していることです。研究者でない限り、自分で生物に進化について調べようという人はいません。誰かがすでに調べたことや、学問の世界で定説になっていることを調べるはずです。そのプロセスが調べることの始まりです。
 第二に、既存の知識を得て、そのデータを元に、自分の考えを作り上げていくのに、両者の違いがあることです。
 確かに見た目には、A君のレポートは充実していて、まとまったものになっているかもしれません。でも、A君はがんばって調べものをしてレポートを書いたのではなく、適切な知識の貯蔵庫があり、それを利用することでレポートを仕上げたのです。A君は既存の知識を得る点のみを要領よくやって、そこに自分の考えらしく見せるために最初と最後に自分の文章をつけて、レポートを終わらせたのです。もともと情報がデジタルですから、編集が楽で、レポーを簡単に終わらせて、出したのです。多分A君は進化について、短時間の一過性のことですから、レポートを仕上げ提出すれば、すぐに忘れてしまうことでしょう。知識は一時的に得たのですが、それを編集しただけで終わらせて、実際には自分の考えを作り上げるプロセスがほどんどなく、自分自身のものにはならないでしょう。
 もし、テーマを出した教員が、ウィキペディアの存在やインターネット内の知識の質を知らなければ、A君はすごくがんばってレポートを書いたと評価するかもしれません。しかし本当は、A君が偉いわけではなく、ウィキペディアがすごいのです。
 一方、B君は、図書館に行っても、カードや図書館の検索システムで調べ、そして本にいきついて、本を広げてどこに自分の必要な知識があるかを調べていきました。これから、自分のテーマをさらに深めるために、必要ならいくつかの本を借り出し、関連する部分を熟読して、重要な部分はメモをしていくはずです。
 B君の調べ方では、行動をともない、それなりの時間が必要となります。A君と比べれば、一見無駄に時間を使っているように見えます。でも実は、調べる行動に時間をかけている間に、B君は考えているはずです。それが実は一番重要な自分の考えを生み出す時間を確保していることにならないでしょうか。断片的に仕入れた知識をどうまとめるのかは、自分がどのようなテーマを持って調べているかによって違ってくるはずです。そのテーマ自体を時間をかけて調べている時に深めていくのではなでしょうか。
 第三に、最終的に知識が知として身に付くか付かないは、どれだけ深く考えたかということに関わるのではないでしょうか。
 A君はいい評価をとるかもしれません。でも本当に考えることをほとんどしなかったので、評価ほどには知識は知としては身に付いてないはずです。
 B君は既存の知識を得る過程で、自分のテーマを絞り、ダーウィンと進化論について考えました。進化に関する多数ある知識の中から、テーマに関係のあるものを選択しました。そして、ウォーレスというダーウィンと同じ考えを持った同時代の人がいること、ウォーレスの論文によって、ダーウィンがあわてて書いた本が「種の起源」であること、本当は文献や事実を多数集めた大著を書きたかったがそれが世に出ることはなかったこと、などの知識を得て、彼は進化論のできかたについていろいろ考えされられたはずです。またレポートを書く時もいろいろ悩みながら長い時間をかけていくはずです。
 A君からすれば、B君は要領の悪い人となります。しかし、今後、A君は進化という言葉を聞いても、書いたレポートのことすら忘れているでしょう。ところが、B君は進化という言葉をきくと、自分が調べた知識だけでなく、そのプロセス、そのとき考えたことを思い出すことでしょう。ダーウィンやウォーレスのことを、人生訓とするかもしれません。そこにこそ、知識から知とするプロセスがあるのではないでしょうか。
 楽して得た知識はなかなか身に付かないということではないでしょうか。急がば回れということでしょうか。

・基礎文献・
情報は十分すぎるほどあります。
ダーウィンの進化論は、
ケンブリッジ大学のインターネットのサイトの
The Complete Work of Charles Darwin Online
http://darwin-online.org.uk/
というところに、進化論のすべての版の
文字データと書籍の画像が公開されています。
インターネットのおかげで
ケンブッリジ大学まで行かなくても
基礎文献が入手できる時代になりました。
素晴らしいことです。
進化論が誕生して150年以上もたっています。
でも、生物はどうして進化するのか、
なぜ今のような種構成になっているのか、
いろいろな進化論があるがどうれが本当なのか、
まだまだ解決できないことが多数あります。
本当に生物の進化は解決できるテーマなのでしょうか。
インターネットをいくら探しても
その答えはありません。
考えることによってのみ、答えが得られるはずです。

・秋田青森・
8月1日から7日まで秋田から青森の海岸を巡ります。
何度か訪れているのですが、
最近はしばらくいっていません。
ですから、景観撮影と砂、岩石の標本をとってこようと考えています。
目的は、なんと言っても、その地の自然に直接触れ、
感じることが一番重要なことだと考えています。
さてさて、野外調査となると、天候と問題ですが、
8月の青森はねぶた祭りの混雑も気になります。
これは私にはどうしようもありません。
祭りはさっと通り抜けて混雑を避けようと考えています。
ただ、私は予定通り行くしかありません。