石材を使った建築物は、重厚で格調を感じます。石材は重く加工が難しいので、技術も資金も必要になります。その中でも軟石と呼ばれる石材は、柔らかく加工がしやすく、石としての性質ももっています。軟石は、なかなか便利な素材です。
ゴールデンウィークも終わり、日常の日々が戻ってきことだと思います。ゴールデンウィークは、しっかりと楽しまれたでしょうか。私は、野外調査が熊本地震で中止したため、ポッカリと時間があきました。そのおかげで、研究はだいぶ進みました。一日だけ家内と散策に出かけました。それは、小樽でした。5月2日は月曜日で平日だったのと、大学の講義が振替休日になっていたので、でかけることにしました。
晴れで散策するにはいい天気でしたが、少々風の強い日となりました。平日で少しはマシかと思ってこの日にしたのですが、さすがに有名な観光地なので、多くの人出がありました。これは人混みが嫌いな私だからの感想で、多分これでも混み方はましで、この時期の休祝日には、もっとごった返していたことでしょう。
今回の小樽は、まったくの観光で石や地質とは関係がありませんでした。若いころに、小樽周辺の地質の見学(地質巡検と呼んでいます)を何度かしたことがあります。数年前にも、学会の案内で小樽の街に来たことがありました。子どもたちは、小学校の修学旅行でいろいろ楽しんできました。家族旅行の時は、車で通り過ぎたことが何度かありました。ところが、家内は一度も小樽の街を歩いたことがないので、いい機会ですから、散策をすることにしました。
さて、小樽の街は港街です。港としてのスタートは、札幌の市境の小樽内川にありました。その港、季節風が強い時にはなかなか接岸できないという弱点がありました。季節風が避けられる場所として、現在の場所に移動しました。町や港の場所が、もとあった場所から、移動したのですが、名称もそのまま移動してしまいました。
港としては、松前藩によってオタルナイ場所という交易所が開かれ栄ました。小樽には、北前船も立ち寄っていました。明治の初期(1880年)には北海道で最初の鉄道も開通し、日本初の本格的コンクリート製の防波堤をもった北防波堤が整備されました(1908年)。19世紀末から20世紀前半にかけて、小樽は、北海道の石炭の積出港として、さらに日露戦争で手に入れた南樺太やロシアとの交易のための、物質の中継地として非常に栄えました。
小樽は、地形として、南に急峻な山地があり、そこからなだらかん丘陵地になります。小樽の街の前は平坦でなだらかな海岸線ですが、その面積は狭く限られています。周辺には複雑で険しい海岸となっています。
これらの地形は、もちろん地質の影響を受けてます。険しい山地は安山岩溶岩でできていて、丘陵は火砕岩や火山砕屑岩からできていて、平野は海岸段丘の堆積物、河川による沖積層からなり、複雑な海岸部は安山岩の水中火山岩、水中火砕岩(ハイアロクラスタイトと呼ばれています)からできます。地質が地形をつくっています。
小樽は斜面から狭い平野しかない港街でした。平地が少なかったところに、急激に商業的に栄えてきたので、手狭になってきました。丘陵を切り崩し、埋立地が作られました。丘陵は流紋岩質凝灰岩で崩しやすい岩石でした。1914年には、埋めて地の中に小樽運河も作られました。当時の小樽(108,113人)は、人口も札幌にも劣らない(102,580人)を要する、大きな商業都市に発展してました。
しかし戦後になると(1960年代以降)、石炭から石油へのエネルギー転換が起こり、北海道内の炭鉱が各地で閉山し、樺太やソ連との貿易も激減してきました。それに加えて、太平洋側の苫小牧港や石狩湾新港の整備などにより、港町としての発展も衰え、商業都市としての活気が急激になくなっていきました。海運業がさびれるとともに、運河もドブのような状態になり、活気のない街となってきました。
小樽が発展していた時、巨額の資金を投じて建築された石造りの近代建築や港湾の倉庫などが、急激な商業の衰退によって取り壊すことなく残されていたいました。古いまま残された栄華の残骸が、手を入れて再利用できる有望な観光資源になりました。運河も再整備され、きれいな町並みに生まれ変わったのです。再整備された近代建築の街、小樽は、観光の街として再び繁栄を取り戻してきました。私がいったときも、中国、韓国、台湾などからの観光客が多数来られていました。
小樽の西洋風近代建築の素材となっているのが、木と石です。倉庫などは木造の大きな空間をつくっていますが、火災予防のために、石材が多数利用されています。木造建築の長所は安いコストと建築期間の短さです。弱点は火災です。倉庫群は、両方を利点をいかして、木造築、石壁というつくりなっています。一方、西洋建築物は費用を惜しまず立派な石材でできています。市内の近代建築の石の多くは、軟石と呼ばれるものからできています。
軟石とは、軽石や凝灰岩などの火山砕屑物が固化したものです。名前の通り、柔らかい石材で、加工のしやすい素材です。しかも石として特徴も持っていますので、使い道の多い素材だったようです。大谷石に似た岩石ですが、大谷石より細粒で硬度もあり、それでいて通常の岩石より切り出しやすく、軽くて保温性もあり、耐火性もあったので、石材として便利だったのです。
小樽で使われている軟石には、産地の違いがあり、小樽軟石、札幌軟石、桃内(ものない)軟石などあることがわかっています。小樽軟石は、小樽の北、鉄道博物館の近くにある手宮洞窟周辺と、南にある奥沢村の2ヶ所から切り出されていました。桃内軟石とは、小樽の西の忍路(おしょろ)の近くの海岸沿いにあります。現在、桃岩と呼ばれう海に突き出た岩礁ありますが、かつてはそれに連なる尾根がありました。その尾根が桃内軟石でできていたため、その尾根が現在ではなくなってしまうほど、すべて切りだされてしまいました。札幌軟石は、札幌の南で、なかり奥に入った石山あたりで採られていました。
石材は便利ですが、使用量が多くなると、木材よりは重いので運送が大変になります。費用もかさみます。ですから、石材は地元のものを使うことが基本的な考え方になります。しかし、権力や資金があると希望する理想的な石材を日本、現在では世界各地から取り寄せられます。権力の象徴は大阪城の城壁の巨大な石材でしょう。信じられないくらい大きな石が、小豆島から運ばれてきました。これは秀吉の権力を象徴するものでしょう。小樽の建築物には、札幌軟石もかなり使われているようです。小樽は急激な発展をしたため、かなり大量に石材が必要とされことと、資金も豊富だったため、札幌の奥地から大量に石材を取り寄せられたようです。
繁栄した時代の資金力によって作られた街が、栄光の衰えとともにさびれてきました。しかし今では過去の栄華を、観光資源として活かすことで、復活を遂げようとしています。そんな過去の栄華を、小樽の札幌軟石に見ることができます。
・アイヌ・
北海道の先住民であるアイヌの人々は、
狩猟採集で暮らし、文字で記録することがなかったので、
必ずしも詳しい歴史が残されていません。
北海道の自然の中で長く生き抜くための知恵を持ち
北に自然に馴染んだ独自文化をもっていました。
江戸時代の松前藩はアイヌとの交易をし
明治政府は、北海道を西洋の近代化した考え方で開拓していきます。
近代化の波は急激なもので、
その影響でアイヌの文化がかなり消えていきました。
現在では、アイヌ文化は守られるようになってきていますが、
消え去ったものも多数あるかと思います。
アイヌに関する情報はリニューアルした
北海道博物館(旧開拓記念館)で学ぶことができ、
現在、企画テーマ展「アイヌ民族資料を守り伝える力」が
開催されています。
私は、2月に常設展を見学にいったのですが、
再度、企画展を見学したいと思います。
・請負所・
エッセイにあったオタルナイ場所とは
請負所のことを意味しています。
江戸時代、松前藩は函館周辺を領地としていました。
ご存知用に、江戸時代、武士は、米を経済の中心にしていました。
米が取れない松前藩では、
家臣を養うために他の方法が必要でした。
その方法として、家臣に請負所を許可することで
アイヌとの交易による商業収入にて、知行としました。
しかし、武士にはそれほどの商才がないため
商人に仕事を代行させ
その利益を運上金として納めさせることにしました。
それが、場所請負制度で、その地のひとつがオタルナイ場所でした。
小樽も商人が発展させてきた地でした。
2016年5月15日日曜日
2016年5月1日日曜日
172 ポパーのサーチライト
科学的に考えることは、科学だけでなく、いろいろな場面で重要な役割を果たします。科学的考え方で科学は営まれています。しかし、科学の実験や観察は、本当に科学的に考え方にもとづいているのでしょうか。そこには、人間的な主観や感情は入っていないでしょうか。
現代社会に生きていくためには、科学的な考え方は、重要です。科学的な考え方は、日本のような経済大国、技術立国では不可欠な能力です。科学的考え方が身につけられるように、教育システムに組み込まれています。小学校でも理科だけでなく、いろいろな教科で科学的考え方を学びます。教育機関では、科学的に考える重要性を常に伝えています。
学びの場から、社会に出て、日々の業務や生活に追われはじめると、科学的な考え方をしていないことが、多くなるような気がします。しかし、長年学んできた科学的な考え方の重要性は、理解してるはずです。でも、学びの場から離れて長い年月がたつと、ついつい科学的な考え方を忘れてしまい、感覚的、常識的な考え方で済ましてしまうことが、多くなってはいないでしょうか。
私のように科学の世界に長くいると、普通の人とは違って、科学的な考え方が日常を完全に侵略しています。これは、いいことか、悪いことかはわかりません。私の家族からすると、日常的な考え方からすると、私は少々常識はずれの意見を述べているようです。家内や子どもたちと話していても、私は科学的に考えで対処しようとしますが、彼らは常識的な対処をしようとします。場合にはよっては、相反する考えになることがあります。そんな時、馴れでしょうか、家族は常識的対処を各自で選択することになっています。つまり私の考えは無視されます。なぜなら、そのほうが社会生活で波風を立てないからです。ただし、家族が経験したことがない場面、常識ができていない状況では、私の科学的考え方が役に立つことがあります。
私も、家族との間に波風を立てるつもりはありません。だから家族の選択は尊重します。私の場合においても、論理的には正しいことや正論でも、社会や日常、常識では、通らないことがごく普通にある経験を一杯しているからです。これが世の習いでもあります。日本の政治を見ていると、その例に枚挙の暇がないでしょう。
ところで、科学的な考え方とは、どういうものでしょうか。証拠に基づき論理的な結論を得ること、だと私は思っています。証拠と論理に基づいた考え方が、科学的な考え方といえます。簡単にいえば、もっともらしい証拠に基づいて、筋道をたてて考える、といえるでしょう。
証拠は、自然科学の世界では、実験、観察、観測、シミュレーションなど誰もが再現できるような方法で集められた客観的な情報です。その情報は定量値であったり、定性的なものであったりすることがあります。通常は、再現性があるものが証拠となります。ただし、一度しかない起こらない現象(隕石による大絶滅)、1つしかない証拠(最古の化石、稀な化石)など、再現性のないものも科学の対象にされています。
論理とは、論理学的に正しいことだけでなく、単に筋道が納得できかどうか、証拠があるかどうか、証拠の強力さなどで優劣が付けられています。したがって、論理には、正しいものだけでなく、現状で一番有力なもの、もっともらしいという人間的の判断に基づくものもあります。そのような確定してない論理では、ある日、全く新しい強力な証拠がでてくると、否定されたり、別の論理に入れ替わることがあります。
科学的方法は、証拠と論理によるといいましたが、実はこれがなかなか一筋縄ではいかない代物です。自然科学における証拠とは、観察や実験によってえられるデータです。その観察、実験をどう捉えるかということが、実は難しい問題をはらんでいるのです。
観察や実験をするとき、先入観をもたず、客観的な姿勢でおこなうべきだというのは、だれものが教わり、必要と認めている考え方です。自然が存在し、それを私たちが観察や実験を通じて調べていきます。まずは自然を素直に見よう、先入観を持たずに観察、実験をしようという考えです。存在している自然が、ア・プリオリにもっている属性や情報を、私たちは読み取るだけなのです。まるで、バケツに水が入るようには、私たちは受け入れるだけの存在である、と考えます。これは、よくある考え方です。実験や観察で受け入れたもの(知識)の他にも、理論、法則もバケツに中に入っている、自然に中に組み込まれていると考えます。それを見つけられるかどうかは、私たち側の問題となります。
カール・ポパーは「客観的知識―進化論的アプローチ」の中で、このような考え方を、「バケツ理論」と呼びました。ポパーは、観察、実験をするためには、「つねに特殊な関心、問い、問題が先行する」といいます。つまり、観察、実験には、観察にいたるまでに問題意識を生み出すための「理論」(なんらかの考え)が、事前に存在するはずだというのです。一種の先入観にあたるものがあるというのです。いいかえると、純粋に客観的な観察、実験などできない、何らかの「理論」が前提としてあるはずだというのです。観察する前に存在する「理論」を、ポパーは「サーチライト理論」と呼びました。
「サーチライト理論」の「理論」は、ここでは先入観や、仮説というべきでしょう。「いかなる観察をなすべきかをわれわれが学びとるのは、もっぱら仮説からだけである」とポパーはいいます。
確かに、私たちが観察や実験をするときには、当然何らかの目的をもって、何らかの条件を設定しておこないます。無目的に無条件に観察、実験をすることはありません。観察や実験とは、何か知りたいことがあり、それを解明するためにおこなわれるものですから、「何か」がサーチライトとして利用しているはずです。それがポパーのいう「サーチライト理論」です。
ポパーの考えが出てくるまで、最初に述べたように、観察、実験は客観的におこなうものとして、客観性を重視していました。ところが、観察、実験には仮説が介在していることが、いわれはじめたのです。仮説には、当然、研究者の主観が混入します。客観性を重視するあまり、観察、実験に主観が混入していることに、今まで気づか振りをしていたのです。「科学は仮定から自由であるとは決していえない」のです。
ポパーのいうように、すべての科学の実験、観察が、サーチライトが先行しているかというと、私は必ずしも、そうでもない気がします。特に現在の私の研究手法では、そう感じています。私が野外調査にでかけるとき、ある目的をもって、ある地域のある露頭である岩石を観察しに行きます。しかし、時には魅力的な露頭をみつけると、何度もそこを訪れたくなり、実際に何度も通っている露頭がいくつかあります。これは、仮説、理論などなく、感性がそこに行きたいという衝動に生み出すのです。そんなとき、サーチライトではない、バケツの中の何かからの思念が、私に呼びかけている気がします。
私だけでなく、失敗した実験、予想外の観察結果、予定外の現象、予期せぬ発見など、いろいろなサーチライトの当てていないものがあります。それをうまく捉えることで、思わぬ大発見があります。セレンディピティ(serendipity)と呼ばれているものです。セレンディピティで、思わぬ発見があり、大きな成果が生まれることは、よく知られています。
科学をおこなうのは人間で、科学的方法は理性的な行為です。そしてすべての分野で、確かに「今日の科学は昨日の科学の上に築かれ」ています。それでも、人間は理性だけで振る舞うものではなく、感性に基づく止むに止まれない行動、振る舞いも、そこには含まれています。
人間としての科学者のおこなっている科学は、バケツとサーチライトのいずれでしょうか。人間が複雑な思考をするように、科学も複雑な側面をもっているような気がします。いかがでしょうか。
・サクラ・
ゴールデンウィークになりました。
北海道はこれからが桜の見頃となります。
少々寒い日が繰り返しくるのですが、
順調に花の芽が成長しているようです。
桜の満開が今年はゴールデンウィークの最中になりそうです。
少々見られることが少ないときですが、
私は、大学に来ていますので、見ることができそうです。
・熊本地震・
当初、このゴールデンウィーク中に
私は野外調査にでかける予定を組んで、
研究予算を確保し、チケット、宿泊の準備を
すべて終わらせていいました。
その調査地は、熊本から大分にかけての中央構造線で
その周辺に分布する地層を観察する予定でした。
今回に地震で当然それは中止としました。
飛行機とレンタカーはキャンセルできました。
一軒だけは、電話がつながったのですが、
被害を受け宿泊は受けられないということでした。
他のホテルは、電話がつながらずに、
キャンセルができませんでした。
地震から10日ほどたって時、
やっとその他のホテルも電話ができ、キャンセルできました。
すべてのホテルは被害はあったが、
宿泊できる状態にあるとのことでした。
なによりでした。
今は、位置にも早い復興を願っています。
現代社会に生きていくためには、科学的な考え方は、重要です。科学的な考え方は、日本のような経済大国、技術立国では不可欠な能力です。科学的考え方が身につけられるように、教育システムに組み込まれています。小学校でも理科だけでなく、いろいろな教科で科学的考え方を学びます。教育機関では、科学的に考える重要性を常に伝えています。
学びの場から、社会に出て、日々の業務や生活に追われはじめると、科学的な考え方をしていないことが、多くなるような気がします。しかし、長年学んできた科学的な考え方の重要性は、理解してるはずです。でも、学びの場から離れて長い年月がたつと、ついつい科学的な考え方を忘れてしまい、感覚的、常識的な考え方で済ましてしまうことが、多くなってはいないでしょうか。
私のように科学の世界に長くいると、普通の人とは違って、科学的な考え方が日常を完全に侵略しています。これは、いいことか、悪いことかはわかりません。私の家族からすると、日常的な考え方からすると、私は少々常識はずれの意見を述べているようです。家内や子どもたちと話していても、私は科学的に考えで対処しようとしますが、彼らは常識的な対処をしようとします。場合にはよっては、相反する考えになることがあります。そんな時、馴れでしょうか、家族は常識的対処を各自で選択することになっています。つまり私の考えは無視されます。なぜなら、そのほうが社会生活で波風を立てないからです。ただし、家族が経験したことがない場面、常識ができていない状況では、私の科学的考え方が役に立つことがあります。
私も、家族との間に波風を立てるつもりはありません。だから家族の選択は尊重します。私の場合においても、論理的には正しいことや正論でも、社会や日常、常識では、通らないことがごく普通にある経験を一杯しているからです。これが世の習いでもあります。日本の政治を見ていると、その例に枚挙の暇がないでしょう。
ところで、科学的な考え方とは、どういうものでしょうか。証拠に基づき論理的な結論を得ること、だと私は思っています。証拠と論理に基づいた考え方が、科学的な考え方といえます。簡単にいえば、もっともらしい証拠に基づいて、筋道をたてて考える、といえるでしょう。
証拠は、自然科学の世界では、実験、観察、観測、シミュレーションなど誰もが再現できるような方法で集められた客観的な情報です。その情報は定量値であったり、定性的なものであったりすることがあります。通常は、再現性があるものが証拠となります。ただし、一度しかない起こらない現象(隕石による大絶滅)、1つしかない証拠(最古の化石、稀な化石)など、再現性のないものも科学の対象にされています。
論理とは、論理学的に正しいことだけでなく、単に筋道が納得できかどうか、証拠があるかどうか、証拠の強力さなどで優劣が付けられています。したがって、論理には、正しいものだけでなく、現状で一番有力なもの、もっともらしいという人間的の判断に基づくものもあります。そのような確定してない論理では、ある日、全く新しい強力な証拠がでてくると、否定されたり、別の論理に入れ替わることがあります。
科学的方法は、証拠と論理によるといいましたが、実はこれがなかなか一筋縄ではいかない代物です。自然科学における証拠とは、観察や実験によってえられるデータです。その観察、実験をどう捉えるかということが、実は難しい問題をはらんでいるのです。
観察や実験をするとき、先入観をもたず、客観的な姿勢でおこなうべきだというのは、だれものが教わり、必要と認めている考え方です。自然が存在し、それを私たちが観察や実験を通じて調べていきます。まずは自然を素直に見よう、先入観を持たずに観察、実験をしようという考えです。存在している自然が、ア・プリオリにもっている属性や情報を、私たちは読み取るだけなのです。まるで、バケツに水が入るようには、私たちは受け入れるだけの存在である、と考えます。これは、よくある考え方です。実験や観察で受け入れたもの(知識)の他にも、理論、法則もバケツに中に入っている、自然に中に組み込まれていると考えます。それを見つけられるかどうかは、私たち側の問題となります。
カール・ポパーは「客観的知識―進化論的アプローチ」の中で、このような考え方を、「バケツ理論」と呼びました。ポパーは、観察、実験をするためには、「つねに特殊な関心、問い、問題が先行する」といいます。つまり、観察、実験には、観察にいたるまでに問題意識を生み出すための「理論」(なんらかの考え)が、事前に存在するはずだというのです。一種の先入観にあたるものがあるというのです。いいかえると、純粋に客観的な観察、実験などできない、何らかの「理論」が前提としてあるはずだというのです。観察する前に存在する「理論」を、ポパーは「サーチライト理論」と呼びました。
「サーチライト理論」の「理論」は、ここでは先入観や、仮説というべきでしょう。「いかなる観察をなすべきかをわれわれが学びとるのは、もっぱら仮説からだけである」とポパーはいいます。
確かに、私たちが観察や実験をするときには、当然何らかの目的をもって、何らかの条件を設定しておこないます。無目的に無条件に観察、実験をすることはありません。観察や実験とは、何か知りたいことがあり、それを解明するためにおこなわれるものですから、「何か」がサーチライトとして利用しているはずです。それがポパーのいう「サーチライト理論」です。
ポパーの考えが出てくるまで、最初に述べたように、観察、実験は客観的におこなうものとして、客観性を重視していました。ところが、観察、実験には仮説が介在していることが、いわれはじめたのです。仮説には、当然、研究者の主観が混入します。客観性を重視するあまり、観察、実験に主観が混入していることに、今まで気づか振りをしていたのです。「科学は仮定から自由であるとは決していえない」のです。
ポパーのいうように、すべての科学の実験、観察が、サーチライトが先行しているかというと、私は必ずしも、そうでもない気がします。特に現在の私の研究手法では、そう感じています。私が野外調査にでかけるとき、ある目的をもって、ある地域のある露頭である岩石を観察しに行きます。しかし、時には魅力的な露頭をみつけると、何度もそこを訪れたくなり、実際に何度も通っている露頭がいくつかあります。これは、仮説、理論などなく、感性がそこに行きたいという衝動に生み出すのです。そんなとき、サーチライトではない、バケツの中の何かからの思念が、私に呼びかけている気がします。
私だけでなく、失敗した実験、予想外の観察結果、予定外の現象、予期せぬ発見など、いろいろなサーチライトの当てていないものがあります。それをうまく捉えることで、思わぬ大発見があります。セレンディピティ(serendipity)と呼ばれているものです。セレンディピティで、思わぬ発見があり、大きな成果が生まれることは、よく知られています。
科学をおこなうのは人間で、科学的方法は理性的な行為です。そしてすべての分野で、確かに「今日の科学は昨日の科学の上に築かれ」ています。それでも、人間は理性だけで振る舞うものではなく、感性に基づく止むに止まれない行動、振る舞いも、そこには含まれています。
人間としての科学者のおこなっている科学は、バケツとサーチライトのいずれでしょうか。人間が複雑な思考をするように、科学も複雑な側面をもっているような気がします。いかがでしょうか。
・サクラ・
ゴールデンウィークになりました。
北海道はこれからが桜の見頃となります。
少々寒い日が繰り返しくるのですが、
順調に花の芽が成長しているようです。
桜の満開が今年はゴールデンウィークの最中になりそうです。
少々見られることが少ないときですが、
私は、大学に来ていますので、見ることができそうです。
・熊本地震・
当初、このゴールデンウィーク中に
私は野外調査にでかける予定を組んで、
研究予算を確保し、チケット、宿泊の準備を
すべて終わらせていいました。
その調査地は、熊本から大分にかけての中央構造線で
その周辺に分布する地層を観察する予定でした。
今回に地震で当然それは中止としました。
飛行機とレンタカーはキャンセルできました。
一軒だけは、電話がつながったのですが、
被害を受け宿泊は受けられないということでした。
他のホテルは、電話がつながらずに、
キャンセルができませんでした。
地震から10日ほどたって時、
やっとその他のホテルも電話ができ、キャンセルできました。
すべてのホテルは被害はあったが、
宿泊できる状態にあるとのことでした。
なによりでした。
今は、位置にも早い復興を願っています。
2016年4月1日金曜日
171 Anthropoceneは必要か
地質学は、地球が経てきた時代を、45億年前から現在まで、いくつもに区分して使っています。地質学は、過去を探る学問でもあるのでが、未来を見通す道具として有用なものになります。
地質学があつかう時間は、約45億年におよぶ長いものです。そして現実に流れる時間の物理学の扱うように可逆性はないものです。一度きりの現象となります。そんな時間の流れの中で、地球に起こったさまざまな現象を解き明かしていくのが地質学です。
人類は500万年前にチンパンジーから分かれました。私たち人間にとっては、気の遠くなるような500万年という時間でも、地質学的時間スケールでは500万年/45億年となり、地球の歴史の中で占める割合は、ほんの0.1%ほどにしかなりません。ですから、地質学者は、現在の歴史学があつかっている時代を「つい最近」と考えてしまいます。
これは、間違った考え方だと思います。時代を区切るとは、時間を区切るに足る根拠が必要なはずです。これまで、時代の区切りは、地球規模の大きな変化が起こった時期に置かれてきました。地球規模の大きな変化とは、環境、生物相、岩相などで、広域に見られる現象です。それぞれの変化は、独自のイベントとして識別され、因果関係や連続性がないものであるべきです。さらに重要なことは、その変化が地質学的記録として読み取れるものでなければなりません。この区切りの考えには、地球における変化に重きが置かれ、時間間隔には左右されないものです。
これらの条件を満たし、地質学者の合意を得たものが、時代区切りとなります。
時代区分は、定期的に地質学的根拠の正当性がチェックされ、必要に応じて変更がなされています。時代境界の年代値がより正確になったときなどは、問題もなく、迅速に変更されます。しかし、時代区分の再編や新規の区分の導入には、充分な検討必要になります。それまでの学問の蓄積と継承を考えて、整合性をもっていなければなりません。そのため、全く新しく提唱された時代区分がすんなりと合意されることがありません。そして、今では意味をなさなくなった時代名称(たとえば三畳紀、古第三紀、新第三紀など)も、そのまま残されたまま使用されています。大きな時代区分の提唱、承認には、十分な議論が必要になります。
そんな中、現在、新しい時代区分が提唱され、議論されています。
Anthropoceneという言葉を聞いたことがあるでしょうか。Anthropoceneは、新しく提唱された時代区分で、日本語としては「人新世(じんしんせい)」という言葉が使われているようですが、学術的にはまだ正式に認められていないものです。
Anthropoceneとは、オゾンホールの研究でノーベル賞を受賞したクルッツェン(Paul Crutzen)が、2000年に提唱した言葉です。「anthropo」とは「人間」の意味で、「cene」とは「新しい」という意味です。一番現代に近い、最近の時代を、Anthropocene、人新世として、区分しようという提案です。近年、人類が地球の生態系や環境に大きな影響を及ぼすようになってきたため、新しい地質時代として区分した方がいいという考えによるものです。
今年1月にはScineceという科学雑誌でも話題になり、1月末には国立科学博物館で人新世にかんする国際シンポジウムがおこなわれ、最近(2015年3月12日)もNature(519号)でもニュースにされています。現在、地質学でもホットな話題となっています。
人新世は、新生代の第四紀は、更新世(158万年前から)と完新世(1万1700年前から)に区分されるのですが、その次の時代に位置づけられることになります。人新世が確定すれば、スタートの年代で、完新世は終わります。そして、次なる人新世がはじまり、現在の人新世、そして未来へと続きました。地質学的には、時代境界をどこに置くか、識別すべき根拠が地層に残されているか、などが吟味され、研究者の合意が得られれば、承認されていくはずです。
人新世のはじまりの年代として、いくつかの提案がなされています。古いものから順に示すと、約1万2000年前、AC1610年、AC1964年などの3つが主なものです。
約1万2000年前は、新石器時代あるいは農業のはじまりとされる時代ですが、完新世と同じ時期なので、これでは完新世の名称変更となってしまいます。現在では、完新世が定着しているので、今までの慣習上、名称変更はあまりしないほうがいいはずです。ですから、この時代区分はないことになります。
AC1610年は、二酸化炭素の濃度が急激に低下した時期です。18世紀中頃からはじまる産業革命以降、大気中の二酸化炭素は増加していきます。この増加は人為だとされていますので、増加の前の自然状態の二酸化炭素濃度の中に、できるだけわかりやすい区切り見つけて設定しようというものです。二酸化炭素が増加に転じる前にあった、目立って低い時代として1610年を区切りとしようという提案です。
AC1964年は、人類の核実験の影響に基づく時代区分です。人類は、1945年7月16日、アメリカ合衆国が人類史上初の原子爆弾を製作して実験(トリニティ実験)ました。そして、1945年8月6日に広島で最初の使用されました。この年以降、大気中に人工的な放射性物質が放出されました。1951年までは試験場の付近だけで検出された放射性物質が、1952年から1980年までは、地球的規模で放出され検出されています。1964年にこのような放射性核種(主に炭素14)の濃度が最大値になり、その後急激に減衰していく時代です。実際の地層や氷床から放射性物質が検出されています。
ただし、炭素同位体による年代測定のデータとして、「今から○○年前」の「今」を、1950年に設定して使用されています。その時代から、大気中の炭素同位体組成が、人為によって変化していくため年代測定に誤差が生じるから定められ、実用されていて、データが蓄積されています。しかし、今回の提案は、1964年です。少々混乱を招く年代設定となります。
いずれの提案も、人類が地球規模でなしたことが、地層や氷床中の記録として識別できます。どの提案も、それなりの根拠があります。ただ考えるべきは、地質学的に重要性があり、区切りを設けるレベルのものかどうかという判断が必要です。それが地質学的に他の時代と対等の重要性を持つかどうかです。提案されている人新世の区切りが、完新世のもの以上に重要でしょうか。完新世を、その提唱された区切りで終わらせ、人新世を新たに設ける必要性があるでしょうか。その点を十分考えるべきでしょう。
私は、完新世で十分に用をなすのではなかと考えています。そして、完新世に人新世の意味合いを加え、必要があるならば、細分程度にすべきでないでしょうか。完新世はすでに定着している用語で、流布しています。それを書き換えるのは、今までの時代区分の習慣に馴染みません。
あまりに性急な時代区分の提唱は、後の学問に大きな影響を与えます。今回の新しい時代区分の導入の機運は、明らかに人類の文明、科学技術至上主義への警鐘を鳴らそうという意図があります。そこには、時代区分における科学的合理性はないように見えます。科学と政治的主義主張は、分離すべきです。地質学で人新世を用語として承認する作業は、今年の国際地質科学連合の国際層序委員会(International Commission on Stratigraphy)でおこわれるようです。理性的、冷静なる判断を期待しています。
さて、私には、完新世(あるいは人新世でもいいのですが)に、地質学がもっている重要な機能を適用していくことの方が、重要だと考えています。地質学とは、地球の過去を総合的に(学際的に)記録し、そこから一般則、普遍則を導こうする学問です。その普遍則は、45億年という時間軸を基準に記述されています。地質学が導く普遍則は、古生物から現世生物にも当てはまるものもあるでしょう。大気や海洋循環などの表層環境の変遷、プレートやプルームのテクトニクスなどの地球内部の運動像、太陽や月、隕石などの地球への影響など、長いスケールの時間軸で語られるものもあるでしょう。その区切りの呼び名として、時代名が存在します。
時代名も重要ですが、底流として存在する思想「長い時間軸で記述された地質現象の普遍則」が重要です。なぜなら、その時間軸を、現在から延長すれば、未来へと伸ばすことができるからです。未来を見通す総合科学的な視座を得ることができるのです。その意味で完新世(人新世)は、人類がなしている現象の未来予測として、重要な意味があります。その点を忘れないようにしたいものです。
・科学的合理性・
時代名称は、科学の進歩とともに変わっていいもです。
いや、変わるべきものです。
やがて歴史が詳細に記述できれば、
完成する日がくるでしょう。
それまでは変わり続けていいのです。
ただし、科学的合理性があればの話です。
人間側の都合で変化をさせれば、
将来の科学できっと修正されるはずです。
その原則も、当然、科学的合理性のはずです。
現在に生きる同時代人として、できれば、
未来人に恥じない判断をしたいものです。
・入学の季節に・
いよいよ4月になりました。
北海道は、例年にない暖かさです。
4月1日が大学の入学式ですが、
今年は、久しぶりに雪のない入学式になりそうです。
新しい学生たちに、会えるのは楽しみです。
彼ら彼女らは、緊張におののきながらも
期待に胸膨らませているはずです。
少しでも緊張を和らげ、
期待に応えるようにしたいと思っています。
大学や学部、学科、それぞれに行事を用意しています。
少しも多くの仲間づくりをして、
一日も早く、馴染んでいただければと思います。
地質学があつかう時間は、約45億年におよぶ長いものです。そして現実に流れる時間の物理学の扱うように可逆性はないものです。一度きりの現象となります。そんな時間の流れの中で、地球に起こったさまざまな現象を解き明かしていくのが地質学です。
人類は500万年前にチンパンジーから分かれました。私たち人間にとっては、気の遠くなるような500万年という時間でも、地質学的時間スケールでは500万年/45億年となり、地球の歴史の中で占める割合は、ほんの0.1%ほどにしかなりません。ですから、地質学者は、現在の歴史学があつかっている時代を「つい最近」と考えてしまいます。
これは、間違った考え方だと思います。時代を区切るとは、時間を区切るに足る根拠が必要なはずです。これまで、時代の区切りは、地球規模の大きな変化が起こった時期に置かれてきました。地球規模の大きな変化とは、環境、生物相、岩相などで、広域に見られる現象です。それぞれの変化は、独自のイベントとして識別され、因果関係や連続性がないものであるべきです。さらに重要なことは、その変化が地質学的記録として読み取れるものでなければなりません。この区切りの考えには、地球における変化に重きが置かれ、時間間隔には左右されないものです。
これらの条件を満たし、地質学者の合意を得たものが、時代区切りとなります。
時代区分は、定期的に地質学的根拠の正当性がチェックされ、必要に応じて変更がなされています。時代境界の年代値がより正確になったときなどは、問題もなく、迅速に変更されます。しかし、時代区分の再編や新規の区分の導入には、充分な検討必要になります。それまでの学問の蓄積と継承を考えて、整合性をもっていなければなりません。そのため、全く新しく提唱された時代区分がすんなりと合意されることがありません。そして、今では意味をなさなくなった時代名称(たとえば三畳紀、古第三紀、新第三紀など)も、そのまま残されたまま使用されています。大きな時代区分の提唱、承認には、十分な議論が必要になります。
そんな中、現在、新しい時代区分が提唱され、議論されています。
Anthropoceneという言葉を聞いたことがあるでしょうか。Anthropoceneは、新しく提唱された時代区分で、日本語としては「人新世(じんしんせい)」という言葉が使われているようですが、学術的にはまだ正式に認められていないものです。
Anthropoceneとは、オゾンホールの研究でノーベル賞を受賞したクルッツェン(Paul Crutzen)が、2000年に提唱した言葉です。「anthropo」とは「人間」の意味で、「cene」とは「新しい」という意味です。一番現代に近い、最近の時代を、Anthropocene、人新世として、区分しようという提案です。近年、人類が地球の生態系や環境に大きな影響を及ぼすようになってきたため、新しい地質時代として区分した方がいいという考えによるものです。
今年1月にはScineceという科学雑誌でも話題になり、1月末には国立科学博物館で人新世にかんする国際シンポジウムがおこなわれ、最近(2015年3月12日)もNature(519号)でもニュースにされています。現在、地質学でもホットな話題となっています。
人新世は、新生代の第四紀は、更新世(158万年前から)と完新世(1万1700年前から)に区分されるのですが、その次の時代に位置づけられることになります。人新世が確定すれば、スタートの年代で、完新世は終わります。そして、次なる人新世がはじまり、現在の人新世、そして未来へと続きました。地質学的には、時代境界をどこに置くか、識別すべき根拠が地層に残されているか、などが吟味され、研究者の合意が得られれば、承認されていくはずです。
人新世のはじまりの年代として、いくつかの提案がなされています。古いものから順に示すと、約1万2000年前、AC1610年、AC1964年などの3つが主なものです。
約1万2000年前は、新石器時代あるいは農業のはじまりとされる時代ですが、完新世と同じ時期なので、これでは完新世の名称変更となってしまいます。現在では、完新世が定着しているので、今までの慣習上、名称変更はあまりしないほうがいいはずです。ですから、この時代区分はないことになります。
AC1610年は、二酸化炭素の濃度が急激に低下した時期です。18世紀中頃からはじまる産業革命以降、大気中の二酸化炭素は増加していきます。この増加は人為だとされていますので、増加の前の自然状態の二酸化炭素濃度の中に、できるだけわかりやすい区切り見つけて設定しようというものです。二酸化炭素が増加に転じる前にあった、目立って低い時代として1610年を区切りとしようという提案です。
AC1964年は、人類の核実験の影響に基づく時代区分です。人類は、1945年7月16日、アメリカ合衆国が人類史上初の原子爆弾を製作して実験(トリニティ実験)ました。そして、1945年8月6日に広島で最初の使用されました。この年以降、大気中に人工的な放射性物質が放出されました。1951年までは試験場の付近だけで検出された放射性物質が、1952年から1980年までは、地球的規模で放出され検出されています。1964年にこのような放射性核種(主に炭素14)の濃度が最大値になり、その後急激に減衰していく時代です。実際の地層や氷床から放射性物質が検出されています。
ただし、炭素同位体による年代測定のデータとして、「今から○○年前」の「今」を、1950年に設定して使用されています。その時代から、大気中の炭素同位体組成が、人為によって変化していくため年代測定に誤差が生じるから定められ、実用されていて、データが蓄積されています。しかし、今回の提案は、1964年です。少々混乱を招く年代設定となります。
いずれの提案も、人類が地球規模でなしたことが、地層や氷床中の記録として識別できます。どの提案も、それなりの根拠があります。ただ考えるべきは、地質学的に重要性があり、区切りを設けるレベルのものかどうかという判断が必要です。それが地質学的に他の時代と対等の重要性を持つかどうかです。提案されている人新世の区切りが、完新世のもの以上に重要でしょうか。完新世を、その提唱された区切りで終わらせ、人新世を新たに設ける必要性があるでしょうか。その点を十分考えるべきでしょう。
私は、完新世で十分に用をなすのではなかと考えています。そして、完新世に人新世の意味合いを加え、必要があるならば、細分程度にすべきでないでしょうか。完新世はすでに定着している用語で、流布しています。それを書き換えるのは、今までの時代区分の習慣に馴染みません。
あまりに性急な時代区分の提唱は、後の学問に大きな影響を与えます。今回の新しい時代区分の導入の機運は、明らかに人類の文明、科学技術至上主義への警鐘を鳴らそうという意図があります。そこには、時代区分における科学的合理性はないように見えます。科学と政治的主義主張は、分離すべきです。地質学で人新世を用語として承認する作業は、今年の国際地質科学連合の国際層序委員会(International Commission on Stratigraphy)でおこわれるようです。理性的、冷静なる判断を期待しています。
さて、私には、完新世(あるいは人新世でもいいのですが)に、地質学がもっている重要な機能を適用していくことの方が、重要だと考えています。地質学とは、地球の過去を総合的に(学際的に)記録し、そこから一般則、普遍則を導こうする学問です。その普遍則は、45億年という時間軸を基準に記述されています。地質学が導く普遍則は、古生物から現世生物にも当てはまるものもあるでしょう。大気や海洋循環などの表層環境の変遷、プレートやプルームのテクトニクスなどの地球内部の運動像、太陽や月、隕石などの地球への影響など、長いスケールの時間軸で語られるものもあるでしょう。その区切りの呼び名として、時代名が存在します。
時代名も重要ですが、底流として存在する思想「長い時間軸で記述された地質現象の普遍則」が重要です。なぜなら、その時間軸を、現在から延長すれば、未来へと伸ばすことができるからです。未来を見通す総合科学的な視座を得ることができるのです。その意味で完新世(人新世)は、人類がなしている現象の未来予測として、重要な意味があります。その点を忘れないようにしたいものです。
・科学的合理性・
時代名称は、科学の進歩とともに変わっていいもです。
いや、変わるべきものです。
やがて歴史が詳細に記述できれば、
完成する日がくるでしょう。
それまでは変わり続けていいのです。
ただし、科学的合理性があればの話です。
人間側の都合で変化をさせれば、
将来の科学できっと修正されるはずです。
その原則も、当然、科学的合理性のはずです。
現在に生きる同時代人として、できれば、
未来人に恥じない判断をしたいものです。
・入学の季節に・
いよいよ4月になりました。
北海道は、例年にない暖かさです。
4月1日が大学の入学式ですが、
今年は、久しぶりに雪のない入学式になりそうです。
新しい学生たちに、会えるのは楽しみです。
彼ら彼女らは、緊張におののきながらも
期待に胸膨らませているはずです。
少しでも緊張を和らげ、
期待に応えるようにしたいと思っています。
大学や学部、学科、それぞれに行事を用意しています。
少しも多くの仲間づくりをして、
一日も早く、馴染んでいただければと思います。
2016年3月1日火曜日
170 ウイルス:源流か支流か
ウイスルは生物か無生物か。簡単そうであって、実は難しい問題です。そしてウイルスは生物進化の源流にいるのか、それとも支流なのかという、根本的な問題もあります。今回は、ウイルスという存在について考えていきます。
福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」という著書があります。今回の話題は、「生物と無生物のあいだ」にいるものについて考えていきます。ただし、福岡氏の著書のテーマとは関係はなく、言葉どおり、生物と無生物の境界にいるものを考えていきます。
私は生物学者ではないので、生物の定義したり、生物と無生物かどうかの判断を直接下すことはできないのですが、常々疑問に思っていることがあります。それはウイルスの生物としての処遇についてです。ウイルスは、まさに生物を無生物のあいだの存在ではないではないか、それも限りなく生物の根源に近い存在ではないかという疑問です。今日はそんな話をしましょう。
ウイルスとは、核酸(DNA)が殻に入っているだけの存在で、そのままでは生物活動をしないものです。ウイルスが他の細胞の中に入ると、自分のDNAから命令を発し、他の細胞が保持している機能を使って、ウイルス自身の複製を開始していきます。まあ、他力本願な生き方ですが、非常に効率的でもあります。
ウイルスは、通常の細胞として機能をもっていないこと、ウイルスでいるときは生物活動をしていないことから、生物学者からは、無生物や非生物とされることがよくあります。ウイルスは、生物の定義を満たさない存在なのです。
私の考えでは、ウイルスは生物としては特異ですが、生物の仲間と考えています。なぜならウイルスを研究しているのは、「生物学者」だからです。これでは、充分な理由にはなっていないですね。いいかえると、ウイルスの研究は生物学的手法が用いられており、生物学的視点でなされ、生物との関係を抜きには語れない存在であります。
なぜウイルスが地球に存在しているのかは、生物学的観点で考えていくべきでしょう。生物でないとするにしても、生物はこういうものだから、あるいは生物とは進化の上でまったく関係がないとするのなら、無生物、非生物として扱っていいのですが、多分そうはならないであろうと思えます。ウイルスと生物は不可分の存在となっています。無関係の存在というには、あまりに共通するものがありすぎます。生物として扱っていくべきだと思います。私から言わせれば、だから生物学者やウイルス学者が、生物学的手法で、生物学視点で研究していていいのです。
次にウイルスの誕生の道筋についてみていきます。ウイルスがどのような起源をもつのかということです。ウイルスの起源には、いくつも説があるようですが、大きく3つに分かれます。
ひとつ目は、かつて普通の単細胞生物であったものから、いろいろな器官や機能を捨て去り、必要最小限のものまで、そぎ落としたとき、ウイルスが誕生したというのです。ウイルスは、生物の究極の姿、進化の極限として生まれたとするものです。生物がまず存在して、そこからウイルスが進化してできたという考え方です。ウイルスは、あるとき生物進化の本流から枝分かれして、本流の生物の痕跡を残していはいるが、支流の袋小路のような末端にあたる、という考え方です。
二つ目は、他の生物、たとえばバクテリアなどの内部に存在する、自己複製ができるなんらかの器官だけが、細胞の外にでて、それがウイルスになったというものです。細胞内にあるプラスミドやウイロイドなどは、小さくて自己複製する能力をもっています。これらが細胞から飛び出せばウイルスとなれます。この考えも、ウイルスは細胞から派生して誕生したという考えです。生物進化が、洪水のような乱れによって、本流から飛び出した流れが、そのまま三日月湖として残った、進化の飛び地的なところに当たるという考えです。
三つ目は、ウイルスは生物にとって根源的な存在ではないかというものです。今までの2つの考えとは、進化の時間では、全く逆のところに位置する見方です。前の2つは生物からウイルスが派生してきたと考えられるのですが、この説ではウイルスが生物より先に生まれていたという考えです。ウイルスは生物進化の源流に当たるという考え方です。
生物の誕生は、最初から細胞として完成していたのではなく、その前にいくつかのステップを経ながら進んできたと考えられています。細胞を構成するためには、遺伝情報を保持しているDNAと、生物活動をおこなうに不可欠なタンパク質が重要なステップになります。もちろん細胞の入れ物となる膜も必要ですが、膜はそれほど難しい課題ではないようです。
DNAとタンパク質のいずれかでは生物にはなれず、どちも必要になります。タンパク質は、リボ核酸(RNA)によって合成がおこなわれています。RNAは、DNAから情報を読んできて(mRNA)、それにもとづいてタンパク質を合成する(tRNAやrRNA)という一連のプロセスを分担していました。遺伝情報を見ると、一方通行の流れで、上流にDNAがあるという考え方でした。このような考え方は、生物のセントラル・ドグマ(中心教義)と呼ばれています。生物の進化もこの流れの通りにできたと考えられ、生物の誕生は「DNAワールド」からはじまったという考え方です。
セントラル・ドグマにおいてRNAは、DNAとタンパク質を橋渡しをする上で、非常に重要な役割があります。DNAが主でRNAは従の関係です。ところがRNAには遺伝情報を読むだけでなく、遺伝情報を保持したり、DNAに書き込む機能(逆転写)もあることがわかってきました。DNAより簡単な構造のRNAがあれば、生物の基本的な機能を営めるのではないかという「RNAワールド仮説」が生まれました。
「RNAワールド」から生物の誕生がスタートすると、次のステップとしてDNAだけが殻にはいった生物の前駆体「DNAレプリコン(replicon)」というものが想定できます。実は、このDNAレプリコンが、ある種のウイルスに近い存在であることがわかってきました。DNAレプリコンから現存するウイスルへの流れが生まれたのではないか、と考えられるようになりました。生物進化の源流となるいくつかの流れうちのひとつとして、ウイルスが位置づけられるのではないかというのです。
DNAとRNAが、細胞膜に取り込まれ、それぞれの機能分担をするという、複雑なプロセスを経て、生物も生まれてきました。細胞には、自律性があり、安定した生物活動としての代謝、そして効率的な複製ができました。これが私たちへと繋がる生物の起源となります。ウイルスは、その細胞をうまく利用して生きてきたという見方です。
もしウイルスの誕生がこの三つ目の説だとすると、ウイルスは私たち生物のもっとも源流に近いところに位置する存在なのです。そして「生物と無生物のあいだ」の存在ともなっているのかもしれません。
さて、ウイルスが生物の源流か支流か、まだ答えは出ていません。私の理屈を越えた願望として、生物の源流としてウイルスが位置づくことが理想です。源流であった方が、得るものが多くなるからです。そうなれば、多様なウイルスに関する研究が、ますます進んでいくことになるはずです。
・冬最後の嵐・
いよいよ3月になりました。
2月末は北海道は警報がでる嵐になりました。
時々雷も鳴るような荒天でした。
春の前に冬に逆戻りのような天気でした。
しかし、今年は雪が少な目です。
とてつもなく暖かい日もあり、
例年にない暖冬となりました。
これも観測史上最大のエルニューニョのためでしょうか。
れこが冬最後の嵐であればいいのですが。
・優先順に・
この時期は、いつもなら、もう少し自分の研究のための
時間がとれる時期なのですが、
今年は校務が多すぎて、忙しい日々を過ごしています。
役職についているために、
研究のために重要な時期に校務に忙殺されています。
年齢的に仕方がないのかもしれませんが
人によって仕事量に差があるのは
納得できないものがもありますが。
誰かに文句をいって、
うさを晴らす時間はないので
仕事に励んだほうがいいようです。
優先順に、次々と仕事をこなすしかないのです。
福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」という著書があります。今回の話題は、「生物と無生物のあいだ」にいるものについて考えていきます。ただし、福岡氏の著書のテーマとは関係はなく、言葉どおり、生物と無生物の境界にいるものを考えていきます。
私は生物学者ではないので、生物の定義したり、生物と無生物かどうかの判断を直接下すことはできないのですが、常々疑問に思っていることがあります。それはウイルスの生物としての処遇についてです。ウイルスは、まさに生物を無生物のあいだの存在ではないではないか、それも限りなく生物の根源に近い存在ではないかという疑問です。今日はそんな話をしましょう。
ウイルスとは、核酸(DNA)が殻に入っているだけの存在で、そのままでは生物活動をしないものです。ウイルスが他の細胞の中に入ると、自分のDNAから命令を発し、他の細胞が保持している機能を使って、ウイルス自身の複製を開始していきます。まあ、他力本願な生き方ですが、非常に効率的でもあります。
ウイルスは、通常の細胞として機能をもっていないこと、ウイルスでいるときは生物活動をしていないことから、生物学者からは、無生物や非生物とされることがよくあります。ウイルスは、生物の定義を満たさない存在なのです。
私の考えでは、ウイルスは生物としては特異ですが、生物の仲間と考えています。なぜならウイルスを研究しているのは、「生物学者」だからです。これでは、充分な理由にはなっていないですね。いいかえると、ウイルスの研究は生物学的手法が用いられており、生物学的視点でなされ、生物との関係を抜きには語れない存在であります。
なぜウイルスが地球に存在しているのかは、生物学的観点で考えていくべきでしょう。生物でないとするにしても、生物はこういうものだから、あるいは生物とは進化の上でまったく関係がないとするのなら、無生物、非生物として扱っていいのですが、多分そうはならないであろうと思えます。ウイルスと生物は不可分の存在となっています。無関係の存在というには、あまりに共通するものがありすぎます。生物として扱っていくべきだと思います。私から言わせれば、だから生物学者やウイルス学者が、生物学的手法で、生物学視点で研究していていいのです。
次にウイルスの誕生の道筋についてみていきます。ウイルスがどのような起源をもつのかということです。ウイルスの起源には、いくつも説があるようですが、大きく3つに分かれます。
ひとつ目は、かつて普通の単細胞生物であったものから、いろいろな器官や機能を捨て去り、必要最小限のものまで、そぎ落としたとき、ウイルスが誕生したというのです。ウイルスは、生物の究極の姿、進化の極限として生まれたとするものです。生物がまず存在して、そこからウイルスが進化してできたという考え方です。ウイルスは、あるとき生物進化の本流から枝分かれして、本流の生物の痕跡を残していはいるが、支流の袋小路のような末端にあたる、という考え方です。
二つ目は、他の生物、たとえばバクテリアなどの内部に存在する、自己複製ができるなんらかの器官だけが、細胞の外にでて、それがウイルスになったというものです。細胞内にあるプラスミドやウイロイドなどは、小さくて自己複製する能力をもっています。これらが細胞から飛び出せばウイルスとなれます。この考えも、ウイルスは細胞から派生して誕生したという考えです。生物進化が、洪水のような乱れによって、本流から飛び出した流れが、そのまま三日月湖として残った、進化の飛び地的なところに当たるという考えです。
三つ目は、ウイルスは生物にとって根源的な存在ではないかというものです。今までの2つの考えとは、進化の時間では、全く逆のところに位置する見方です。前の2つは生物からウイルスが派生してきたと考えられるのですが、この説ではウイルスが生物より先に生まれていたという考えです。ウイルスは生物進化の源流に当たるという考え方です。
生物の誕生は、最初から細胞として完成していたのではなく、その前にいくつかのステップを経ながら進んできたと考えられています。細胞を構成するためには、遺伝情報を保持しているDNAと、生物活動をおこなうに不可欠なタンパク質が重要なステップになります。もちろん細胞の入れ物となる膜も必要ですが、膜はそれほど難しい課題ではないようです。
DNAとタンパク質のいずれかでは生物にはなれず、どちも必要になります。タンパク質は、リボ核酸(RNA)によって合成がおこなわれています。RNAは、DNAから情報を読んできて(mRNA)、それにもとづいてタンパク質を合成する(tRNAやrRNA)という一連のプロセスを分担していました。遺伝情報を見ると、一方通行の流れで、上流にDNAがあるという考え方でした。このような考え方は、生物のセントラル・ドグマ(中心教義)と呼ばれています。生物の進化もこの流れの通りにできたと考えられ、生物の誕生は「DNAワールド」からはじまったという考え方です。
セントラル・ドグマにおいてRNAは、DNAとタンパク質を橋渡しをする上で、非常に重要な役割があります。DNAが主でRNAは従の関係です。ところがRNAには遺伝情報を読むだけでなく、遺伝情報を保持したり、DNAに書き込む機能(逆転写)もあることがわかってきました。DNAより簡単な構造のRNAがあれば、生物の基本的な機能を営めるのではないかという「RNAワールド仮説」が生まれました。
「RNAワールド」から生物の誕生がスタートすると、次のステップとしてDNAだけが殻にはいった生物の前駆体「DNAレプリコン(replicon)」というものが想定できます。実は、このDNAレプリコンが、ある種のウイルスに近い存在であることがわかってきました。DNAレプリコンから現存するウイスルへの流れが生まれたのではないか、と考えられるようになりました。生物進化の源流となるいくつかの流れうちのひとつとして、ウイルスが位置づけられるのではないかというのです。
DNAとRNAが、細胞膜に取り込まれ、それぞれの機能分担をするという、複雑なプロセスを経て、生物も生まれてきました。細胞には、自律性があり、安定した生物活動としての代謝、そして効率的な複製ができました。これが私たちへと繋がる生物の起源となります。ウイルスは、その細胞をうまく利用して生きてきたという見方です。
もしウイルスの誕生がこの三つ目の説だとすると、ウイルスは私たち生物のもっとも源流に近いところに位置する存在なのです。そして「生物と無生物のあいだ」の存在ともなっているのかもしれません。
さて、ウイルスが生物の源流か支流か、まだ答えは出ていません。私の理屈を越えた願望として、生物の源流としてウイルスが位置づくことが理想です。源流であった方が、得るものが多くなるからです。そうなれば、多様なウイルスに関する研究が、ますます進んでいくことになるはずです。
・冬最後の嵐・
いよいよ3月になりました。
2月末は北海道は警報がでる嵐になりました。
時々雷も鳴るような荒天でした。
春の前に冬に逆戻りのような天気でした。
しかし、今年は雪が少な目です。
とてつもなく暖かい日もあり、
例年にない暖冬となりました。
これも観測史上最大のエルニューニョのためでしょうか。
れこが冬最後の嵐であればいいのですが。
・優先順に・
この時期は、いつもなら、もう少し自分の研究のための
時間がとれる時期なのですが、
今年は校務が多すぎて、忙しい日々を過ごしています。
役職についているために、
研究のために重要な時期に校務に忙殺されています。
年齢的に仕方がないのかもしれませんが
人によって仕事量に差があるのは
納得できないものがもありますが。
誰かに文句をいって、
うさを晴らす時間はないので
仕事に励んだほうがいいようです。
優先順に、次々と仕事をこなすしかないのです。
2016年2月1日月曜日
169 啓蒙するは我にあり
啓蒙はあまりいい意味あいではないので、使われなくなっています。しかし、ここでは、啓蒙という言葉には、歴史的に重要な意味があり、自分自身に使っていこうと考えています。成人するためには、啓蒙が必要なのです。
成人式が1月15日から、1月の第2月曜日(ハッピーマンデー)になっています。2000年より、変わったのでだいぶたちました。今年は、126万人が新成人になったそうです。もともと、成人の日が1月15日にされていたのは、元服の儀がこの日におこなわれたためでした。その日付自体に歴史的、文化的意味がありました。15日の成人式は、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としているそうです。ですから、今回のエッセイでも、成人を励ます内容にしましょう。そしてその励ましは、自分にも戻ってくることになります。
現在、高校や大学では入試の時期を迎えています。今では、高校や大学は義務教育ではありませんが、多くの人が進学するようになりました。かつては、義務教育を終えて社会にでることが、多くの人たちの進路でした。ほんの一部の人たちだけが、進学をして、さらに教養教育や専門教育を受けて、それを活かす道に進みました。
今では多くの人が大学生として成人式を迎えるようになりました。新しい選挙権制度により18歳が成人という考えもできそうです。すると高校3年生で成人を迎えることになり、大学生は全員成人と扱う必要があるのかもしれません。
大学への進学率の上昇は、日本社会が豊かになったためだけでなく、複雑化、グローバル化、情報化した現代社会で生きていくためには、多様な技能、教養、専門について学ばねばなりません。それらを身につけるためには、長い教育期間が必要になります。そのための大学教育でしょう。
多くの大学生をみていると、多様な学生がいるのですが、必ずしも大学で受けた教育が身についてないようにも見えます。わからない時はインターネットで調べ、知識の不足を補い、レポートの作成などはそれなりできます。これも現代社会では、重要な能力でしょう。
本当に重要なことは、技能、教養、専門ではなく、その先にある力ではないでしょうか。そんな力があまり身についていない気がします。もっと人として本質的な力を身につけることではないでしょうか。そんな力とはなんでしょうか。
ここまで偉そうに、若き成人を批判的に書いてきたのですが、この批判は、私への戒めともなります。その力が重要なのです。その力について説明していきましょう。
啓蒙という言葉があります。「啓」は「ひらく」という意味で、「蒙」は「くらい」という意味です。「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」ともいい、蒙昧な状態から、知識などを与えて啓発するという意味です。ですから、あまりいい意味でつかわれることはありませんでした。啓蒙される側が劣ったり、愚かで、啓蒙する側が上位、偉い、権威者のようにして使われることが多くなっていました。そのため、現代ではあまり使われなくなりました。
「啓蒙」は、英語で「Enlightenment」となり、もともとは「光(light)で照らされること」という意味です。
西洋の中世では、強力な宗教的支配があったのですが、庶民には神秘主義が根深く残り、魔術や迷信を信じる土壌がまだ強くありました。ルネッサンスの時代でも、その影響はまだ残っていました。しかし、その後の科学の発展や近代哲学の展開により、宗教的権威から離れ、合理性や理性を重んじる考えが生まれました。そのような考えを啓蒙思想と呼んでいます。
このような時代においては、庶民を啓蒙する必要がありました。17世紀後半にイギリスで生まれた啓蒙思想は、18世紀のヨーロッパにおいて発展していきます。啓蒙思想は、政治や社会まで及び、フランス革命にも影響を及ぼしました。西洋で起こった啓蒙思想は、世界に広がりました。日本でも、明治維新は一種の啓蒙思想的側面もあるのでしょう。啓蒙思想は、近代教育にも影響を与えています。
現代の文明社会においては、子どものころから教育を受けているので、啓蒙という言葉をあまり使う必要なないかもしれません。しかし、啓蒙は、教育の先にあるものに思えます。
科学や哲学の進展により、理性や合理性の重要さが強調されるようになってきました。そして、啓蒙はより深い意味を持つようになりました。光で照らされることから、偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味になり、そこから「理性により正しく見る」という意味に用いられるようになりました。
ドイツの哲学者、カント(Immanuel Kant、1724.4.22-1804.2.12)の「啓蒙とは何か」という文章にあります。カントは、啓蒙とは「それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ」といっています。
「未成年の状態」とは、自分で考えて行動することができない、「他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ない」状態だといいます。そんな状態を「みずから招いた」のです。それは、その人に理性が備わっていないのではなく、「自分の理性を使う決意も勇気ももてないから」だといいます。これは、社会や教育の問題ではなく、「みずからの責任」によるもので、自分自身で未成年の状態にとどまっていることになります。
未成年から成人するためには、どうすればいいのでしょうか。カントはいいます。「自分の理性を使う勇気をもて」と。自分自身にすでに備わっている理性の力を、決意と勇気もって使っていくことです。理性を使うことが成人であることの証なのです。カントのいっていることは、当たり前のことです。「理性を使う」という当たり前のことが実行できるかどうかが、実は重要なのです。
インターネットからの情報や他人の受け売りを、あたかも自分が述べた意見や考えとしていないでしょうか。メディアから一方的に大量に送られてくる情報に溺れて、自分自身を見失っていませんか。他人の考えを自分の考えと思い込んでいませんか。
自分自身の理性で考えているでしょうか。判断を、周りの意見に流されず、理性に基いておこなっていますか。理性に基づいた発言、行動をしているでしょうか。理性的に考え、間違った行動をしていませんか。そんな目でみると、私は、自分の未成人さに思い至ります。「啓蒙するは我にあり」
私たちは、みずからを啓蒙できているでしょうか。成人しているでしょうか。「自分の理性」を使っているでしょうか。私を含めてすべての未成人にいいます。「自分の理性を使う勇気をもて」と。
・悟性・
かつてカントなどの哲学書の翻訳では
「悟性」という言葉が使われていました。
今では、日常的には悟性とい言葉はあまり見かけなくなり
理性という言葉になりました。
同じニアンスで使っているでしょうか。
悟性はもともと善の言葉から来ているようで、
対象を理解し概念を把握する力のことです。
一方、理性は、合理性に基づいて判断する力です。
哲学では、理性の意味で用いることが
本来の意味に沿っているようです。
・自戒の言葉・
大学3年生の多くは、成人式のため故郷に帰りました。
久しぶりに会う同級生と旧交を温めたことでしょう。
毎年一部の地域の荒れた成人式が報道されますが、
そんな報道が彼らをエスカレートさせていないでしょうか。
そんなさまざまな思いが巡る中で、
半月遅れの新成人に贈る言葉として書くつもりでしたが、
偉そうに、まさに「啓蒙」的発想で語っていました。
書いているうちに、本来の「啓蒙」の重要性に気づきました。
書いていながら、自分自身の未熟さに思いが至りました。
まさに、「啓蒙するは我にあり」となりました。
この自戒の言葉をエッセイのタイトルとしました。
成人式が1月15日から、1月の第2月曜日(ハッピーマンデー)になっています。2000年より、変わったのでだいぶたちました。今年は、126万人が新成人になったそうです。もともと、成人の日が1月15日にされていたのは、元服の儀がこの日におこなわれたためでした。その日付自体に歴史的、文化的意味がありました。15日の成人式は、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことを趣旨としているそうです。ですから、今回のエッセイでも、成人を励ます内容にしましょう。そしてその励ましは、自分にも戻ってくることになります。
現在、高校や大学では入試の時期を迎えています。今では、高校や大学は義務教育ではありませんが、多くの人が進学するようになりました。かつては、義務教育を終えて社会にでることが、多くの人たちの進路でした。ほんの一部の人たちだけが、進学をして、さらに教養教育や専門教育を受けて、それを活かす道に進みました。
今では多くの人が大学生として成人式を迎えるようになりました。新しい選挙権制度により18歳が成人という考えもできそうです。すると高校3年生で成人を迎えることになり、大学生は全員成人と扱う必要があるのかもしれません。
大学への進学率の上昇は、日本社会が豊かになったためだけでなく、複雑化、グローバル化、情報化した現代社会で生きていくためには、多様な技能、教養、専門について学ばねばなりません。それらを身につけるためには、長い教育期間が必要になります。そのための大学教育でしょう。
多くの大学生をみていると、多様な学生がいるのですが、必ずしも大学で受けた教育が身についてないようにも見えます。わからない時はインターネットで調べ、知識の不足を補い、レポートの作成などはそれなりできます。これも現代社会では、重要な能力でしょう。
本当に重要なことは、技能、教養、専門ではなく、その先にある力ではないでしょうか。そんな力があまり身についていない気がします。もっと人として本質的な力を身につけることではないでしょうか。そんな力とはなんでしょうか。
ここまで偉そうに、若き成人を批判的に書いてきたのですが、この批判は、私への戒めともなります。その力が重要なのです。その力について説明していきましょう。
啓蒙という言葉があります。「啓」は「ひらく」という意味で、「蒙」は「くらい」という意味です。「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」ともいい、蒙昧な状態から、知識などを与えて啓発するという意味です。ですから、あまりいい意味でつかわれることはありませんでした。啓蒙される側が劣ったり、愚かで、啓蒙する側が上位、偉い、権威者のようにして使われることが多くなっていました。そのため、現代ではあまり使われなくなりました。
「啓蒙」は、英語で「Enlightenment」となり、もともとは「光(light)で照らされること」という意味です。
西洋の中世では、強力な宗教的支配があったのですが、庶民には神秘主義が根深く残り、魔術や迷信を信じる土壌がまだ強くありました。ルネッサンスの時代でも、その影響はまだ残っていました。しかし、その後の科学の発展や近代哲学の展開により、宗教的権威から離れ、合理性や理性を重んじる考えが生まれました。そのような考えを啓蒙思想と呼んでいます。
このような時代においては、庶民を啓蒙する必要がありました。17世紀後半にイギリスで生まれた啓蒙思想は、18世紀のヨーロッパにおいて発展していきます。啓蒙思想は、政治や社会まで及び、フランス革命にも影響を及ぼしました。西洋で起こった啓蒙思想は、世界に広がりました。日本でも、明治維新は一種の啓蒙思想的側面もあるのでしょう。啓蒙思想は、近代教育にも影響を与えています。
現代の文明社会においては、子どものころから教育を受けているので、啓蒙という言葉をあまり使う必要なないかもしれません。しかし、啓蒙は、教育の先にあるものに思えます。
科学や哲学の進展により、理性や合理性の重要さが強調されるようになってきました。そして、啓蒙はより深い意味を持つようになりました。光で照らされることから、偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味になり、そこから「理性により正しく見る」という意味に用いられるようになりました。
ドイツの哲学者、カント(Immanuel Kant、1724.4.22-1804.2.12)の「啓蒙とは何か」という文章にあります。カントは、啓蒙とは「それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ」といっています。
「未成年の状態」とは、自分で考えて行動することができない、「他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ない」状態だといいます。そんな状態を「みずから招いた」のです。それは、その人に理性が備わっていないのではなく、「自分の理性を使う決意も勇気ももてないから」だといいます。これは、社会や教育の問題ではなく、「みずからの責任」によるもので、自分自身で未成年の状態にとどまっていることになります。
未成年から成人するためには、どうすればいいのでしょうか。カントはいいます。「自分の理性を使う勇気をもて」と。自分自身にすでに備わっている理性の力を、決意と勇気もって使っていくことです。理性を使うことが成人であることの証なのです。カントのいっていることは、当たり前のことです。「理性を使う」という当たり前のことが実行できるかどうかが、実は重要なのです。
インターネットからの情報や他人の受け売りを、あたかも自分が述べた意見や考えとしていないでしょうか。メディアから一方的に大量に送られてくる情報に溺れて、自分自身を見失っていませんか。他人の考えを自分の考えと思い込んでいませんか。
自分自身の理性で考えているでしょうか。判断を、周りの意見に流されず、理性に基いておこなっていますか。理性に基づいた発言、行動をしているでしょうか。理性的に考え、間違った行動をしていませんか。そんな目でみると、私は、自分の未成人さに思い至ります。「啓蒙するは我にあり」
私たちは、みずからを啓蒙できているでしょうか。成人しているでしょうか。「自分の理性」を使っているでしょうか。私を含めてすべての未成人にいいます。「自分の理性を使う勇気をもて」と。
・悟性・
かつてカントなどの哲学書の翻訳では
「悟性」という言葉が使われていました。
今では、日常的には悟性とい言葉はあまり見かけなくなり
理性という言葉になりました。
同じニアンスで使っているでしょうか。
悟性はもともと善の言葉から来ているようで、
対象を理解し概念を把握する力のことです。
一方、理性は、合理性に基づいて判断する力です。
哲学では、理性の意味で用いることが
本来の意味に沿っているようです。
・自戒の言葉・
大学3年生の多くは、成人式のため故郷に帰りました。
久しぶりに会う同級生と旧交を温めたことでしょう。
毎年一部の地域の荒れた成人式が報道されますが、
そんな報道が彼らをエスカレートさせていないでしょうか。
そんなさまざまな思いが巡る中で、
半月遅れの新成人に贈る言葉として書くつもりでしたが、
偉そうに、まさに「啓蒙」的発想で語っていました。
書いているうちに、本来の「啓蒙」の重要性に気づきました。
書いていながら、自分自身の未熟さに思いが至りました。
まさに、「啓蒙するは我にあり」となりました。
この自戒の言葉をエッセイのタイトルとしました。
2016年1月1日金曜日
168 ミネルヴァの梟は、いつ飛ぶのか
2016年の年頭にあたり、「ミネルヴァの梟」という言葉に関連して、ひとの知恵について考えました。自然科学と人文科学との違いに端を発し、私の考えは、二転三転していきました。そんな思考の流転を紹介していきましょう。最終的には、ひとつのところに落ち着きましたが。
日本ではあまり梟(ふくろう)を重視していなかったようなのですが、アイヌの人たちは、梟を守り神としています。アイヌ神話では、天神と地神が、この国を統治する神をどうするか、と悩んでいたところに、梟が飛んできて、目を瞬きました。神々はそれで気づいて、沢山の神々を生み出したというものです。そのよな神話に基づき、アイヌは梟(シマフクロウ、コタンコロカムイ)を守り神として大切にしています。アイヌの彫刻にも、梟がよくモチーフに用いられています。我が家の玄関に、4匹の梟がかかっています。
ヨーロッパでは、梟は知恵の象徴とされています。それをもとに重要な言葉が生まれました。「ミネルヴァの梟」という言葉です。まずは、その語の意味を考えていきましょう。
ローマ神話にミネルヴァ(Minerva)という女神がいます。この女神は、詩や知恵、技術・職人(医学、製織、商業工芸)などを司っていました。ギリシア神話のアテナという女神に対応していると考えられています。ローマでは、かなり信奉されていたようで、「千の仕事の女神」(goddess of a thousand works)と呼ばれていました。ミネルヴァは、知恵を司る女神でもあったので、古くから彫像などの芸術作品にもなったり、欧米の教育機関や政府、協会、公共機関の紋章や勲章などに取り入れられています。
ミネルヴァの聖なる動物が、梟(ふくろう)とされていました。その影響でで、西洋では梟は知恵の象徴でもあるとされています。ミネルヴァとともに梟が描かれることも多かったようです。
西洋では、そのような知的背景があり、それをもとにした有名な言葉として、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」というものがあります。これは、ヘーゲルの「法の哲学」という著作の序文に書かれた文言です。本文に入る前に、哲学とは何かを語っているものです。ヘーゲルのいう哲学とは、「理性的なものの根本を究めること」といっています。当たり前のことをいっているようです。続けて「現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものをうち立てることではない」といいます。ものごとの現実的な本質を考えていくということです。
そして、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」という言葉が用いられます。なかなか含蓄のある言葉なのですが、ヘーゲルは、「哲学はもともと、いつも来方が遅すぎるのである」といいます。そして、「現実がその形成過程を完了して、おのれを仕上げたあとで初めて、哲学は時間のなかに現れる」としています。哲学は現実より遅く、現実が終わってしまった後に、哲学が現れるといいます。それを象徴した言葉として「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」と表現したと考えられています。哲学は現実の本質を把握するためのものなに、現実が終わってしまったあとにできてくるものなのです。自己矛盾をしていように見えますが。
哲学(知恵、学問)は、時代を総括するものです。ひとつの時代が終わる時、古い知恵が黄昏を迎える時、梟が飛び立つのです。時代に固執しすぎれば、教条的になっていく恐れもあります。梟は活動時間のはじまりである黄昏に飛び立つように、時代の束縛から解き放たれ、新しい知恵を求めるためだ、という解釈もあります。
ミネルヴァの梟は、哲学者の言葉です。哲学や人文科学は、人の思考や社会の営みから重要なものを抽象していくものです。この言葉を聞いた時、自然科学では、知識や知恵に対して、違った見方、取り組み方をしているので、ミネルヴァの梟は、違った行動をするのではないだろうかと考えました。それでは、どんな行動になるのだろうかと考えました。
自然科学は、自然から規則性を抽象していくものです。知りたいひと(科学者)の欲求や目的に応じて、自然から知識をえようとします。知りたいことがあれば、目的に応じた手段を用いて、なんらかの知識や知恵を抽象しています。それを公開していくことが、科学の営みといえます。それは、科学の新しい時代や分野の始まりであろう、爛熟期であろうと、衰退期であろうと、過渡期であろうと、新しい情報や知見が継続的に積み上げられています。ミネルヴァの梟は、いつも目を見開いて、知恵を吸収していくのではないでしょうか。梟に寝ている暇がなく、忙しく思えました。
ここまで考えてきた時、いやいやもっと深く考えると、違ってくるのではないかという思いに至りました。自然科学にも大きな転換期があることに気づいたのです。新しい知識がたくさん積み重なっていくと、従来の原則では説明できないことがあり、それを説明するとき、大きな転換期が訪れるというものです。質的変化やコペルニクス的転回、パラダイム転換などと呼ばれているものです。この考えを取り入れると、実は過去の集積の後に大きな視座の変化が起こります。そんなときミネルヴァの梟は飛び立つのです。パラダイム転換期は、古い分野の黄昏と呼べるのかもしれません。
さらに、自然科学にかんする深い思索も、やはりヘーゲルのいうように、「いつも来方が遅すぎる」といえそうです。ですから、自然科学の知恵を司る梟も、やはり黄昏に飛び立つのでしょう。
梟は昼も目を見開き、黄昏にはやはり飛び立つのです。ミネルヴァの梟は、自然科学では、なかなか忙しいようです。
ヘーゲルはいいます。
「理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。」
と。さてさて、理性と現実、なかなか難しい課題です。
・今年もよろしく・
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年も、いろいろ考えたことを
書いていきたいと思います。
このエッセイは、私にとっては、
いろいろな考えをまとめたり、
新しいことを考える時のきっかけに
利用されてもらっています。
私は考えるという行為を、
基本的に一人でおこなっています。
考えをまとめる前に、まとめる途中で、
人に聞いてもらうという行為は
いいきっかけになっています。
そんな場に、今年もしていきたいと思います。
よろしければ、
今年もお付き合いをいただければと思います。
・自分の歩み・
齢を積み重ねるに連れて
少しずつ、肩から力が抜けていくようです。
その意味は、
自分の決めた道を、
自分の歩き方で、
自分の足で、
急がず、焦らず、
しかし休むことなく、淡々と
進むことだと
思えるようになってきということです。
今年もそのように歩みたいと思っています。
日本ではあまり梟(ふくろう)を重視していなかったようなのですが、アイヌの人たちは、梟を守り神としています。アイヌ神話では、天神と地神が、この国を統治する神をどうするか、と悩んでいたところに、梟が飛んできて、目を瞬きました。神々はそれで気づいて、沢山の神々を生み出したというものです。そのよな神話に基づき、アイヌは梟(シマフクロウ、コタンコロカムイ)を守り神として大切にしています。アイヌの彫刻にも、梟がよくモチーフに用いられています。我が家の玄関に、4匹の梟がかかっています。
ヨーロッパでは、梟は知恵の象徴とされています。それをもとに重要な言葉が生まれました。「ミネルヴァの梟」という言葉です。まずは、その語の意味を考えていきましょう。
ローマ神話にミネルヴァ(Minerva)という女神がいます。この女神は、詩や知恵、技術・職人(医学、製織、商業工芸)などを司っていました。ギリシア神話のアテナという女神に対応していると考えられています。ローマでは、かなり信奉されていたようで、「千の仕事の女神」(goddess of a thousand works)と呼ばれていました。ミネルヴァは、知恵を司る女神でもあったので、古くから彫像などの芸術作品にもなったり、欧米の教育機関や政府、協会、公共機関の紋章や勲章などに取り入れられています。
ミネルヴァの聖なる動物が、梟(ふくろう)とされていました。その影響でで、西洋では梟は知恵の象徴でもあるとされています。ミネルヴァとともに梟が描かれることも多かったようです。
西洋では、そのような知的背景があり、それをもとにした有名な言葉として、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」というものがあります。これは、ヘーゲルの「法の哲学」という著作の序文に書かれた文言です。本文に入る前に、哲学とは何かを語っているものです。ヘーゲルのいう哲学とは、「理性的なものの根本を究めること」といっています。当たり前のことをいっているようです。続けて「現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものをうち立てることではない」といいます。ものごとの現実的な本質を考えていくということです。
そして、「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」という言葉が用いられます。なかなか含蓄のある言葉なのですが、ヘーゲルは、「哲学はもともと、いつも来方が遅すぎるのである」といいます。そして、「現実がその形成過程を完了して、おのれを仕上げたあとで初めて、哲学は時間のなかに現れる」としています。哲学は現実より遅く、現実が終わってしまった後に、哲学が現れるといいます。それを象徴した言葉として「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」と表現したと考えられています。哲学は現実の本質を把握するためのものなに、現実が終わってしまったあとにできてくるものなのです。自己矛盾をしていように見えますが。
哲学(知恵、学問)は、時代を総括するものです。ひとつの時代が終わる時、古い知恵が黄昏を迎える時、梟が飛び立つのです。時代に固執しすぎれば、教条的になっていく恐れもあります。梟は活動時間のはじまりである黄昏に飛び立つように、時代の束縛から解き放たれ、新しい知恵を求めるためだ、という解釈もあります。
ミネルヴァの梟は、哲学者の言葉です。哲学や人文科学は、人の思考や社会の営みから重要なものを抽象していくものです。この言葉を聞いた時、自然科学では、知識や知恵に対して、違った見方、取り組み方をしているので、ミネルヴァの梟は、違った行動をするのではないだろうかと考えました。それでは、どんな行動になるのだろうかと考えました。
自然科学は、自然から規則性を抽象していくものです。知りたいひと(科学者)の欲求や目的に応じて、自然から知識をえようとします。知りたいことがあれば、目的に応じた手段を用いて、なんらかの知識や知恵を抽象しています。それを公開していくことが、科学の営みといえます。それは、科学の新しい時代や分野の始まりであろう、爛熟期であろうと、衰退期であろうと、過渡期であろうと、新しい情報や知見が継続的に積み上げられています。ミネルヴァの梟は、いつも目を見開いて、知恵を吸収していくのではないでしょうか。梟に寝ている暇がなく、忙しく思えました。
ここまで考えてきた時、いやいやもっと深く考えると、違ってくるのではないかという思いに至りました。自然科学にも大きな転換期があることに気づいたのです。新しい知識がたくさん積み重なっていくと、従来の原則では説明できないことがあり、それを説明するとき、大きな転換期が訪れるというものです。質的変化やコペルニクス的転回、パラダイム転換などと呼ばれているものです。この考えを取り入れると、実は過去の集積の後に大きな視座の変化が起こります。そんなときミネルヴァの梟は飛び立つのです。パラダイム転換期は、古い分野の黄昏と呼べるのかもしれません。
さらに、自然科学にかんする深い思索も、やはりヘーゲルのいうように、「いつも来方が遅すぎる」といえそうです。ですから、自然科学の知恵を司る梟も、やはり黄昏に飛び立つのでしょう。
梟は昼も目を見開き、黄昏にはやはり飛び立つのです。ミネルヴァの梟は、自然科学では、なかなか忙しいようです。
ヘーゲルはいいます。
「理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。」
と。さてさて、理性と現実、なかなか難しい課題です。
・今年もよろしく・
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今年も、いろいろ考えたことを
書いていきたいと思います。
このエッセイは、私にとっては、
いろいろな考えをまとめたり、
新しいことを考える時のきっかけに
利用されてもらっています。
私は考えるという行為を、
基本的に一人でおこなっています。
考えをまとめる前に、まとめる途中で、
人に聞いてもらうという行為は
いいきっかけになっています。
そんな場に、今年もしていきたいと思います。
よろしければ、
今年もお付き合いをいただければと思います。
・自分の歩み・
齢を積み重ねるに連れて
少しずつ、肩から力が抜けていくようです。
その意味は、
自分の決めた道を、
自分の歩き方で、
自分の足で、
急がず、焦らず、
しかし休むことなく、淡々と
進むことだと
思えるようになってきということです。
今年もそのように歩みたいと思っています。
2015年12月1日火曜日
167 地質の唯物史観
地質学という学問は、唯物史観にそって進められているようにみえます。唯物史観の背景になっている唯物論や弁証法は特別なものではなく、ごく普通にある、当たり前の考え方でもあります。
唯物史観という考え方があります。「唯物論的歴史観」の略で、史的唯物論と呼ばれることもありますが、ここでは唯物史観と呼ぶことにします。唯物史観は、19世紀にカール・マルクスの唱えた歴史の見方です。マルクス本人はこの用語を使用することなく、後に用いられるようになったそうです。マルクス主義に基づいた歴史の見方のことなので、思想的な背景もあり、なかなか使いづらい用語かもしれません。しかし、本稿では、「唯物論的歴史観」という原意にそって使うことにします。政治的、思想的な考えをもっているものではありませんので、ご了承ください。
そもそも唯物史観は、唯物論と弁証法を背景にしています。
唯物論とは、すべての根源は物質にあるという考え方です。現在の自然科学は、基本的に唯物論の立場をとっているといえます。自然現象は、根源が精神や心にあるという観念論に立つと、科学的論証や検証が難しいためです。観念論では白黒がつかないものが多く、自然科学の方法論には馴染みません。唯物論であれば、事物や事象が論証の対象となるので、成否や正誤の区別がしやすくなります。
自然科学だけでなく、科学技術も唯物論的立場で進んでいることになります。科学技術に依存している現在社会も、かなり唯物論的状況にあると言えるのでしょう。ところが人文科学や社会科学は、かならずしも唯物論的ではありません。デジタルやインターネットを通じたバーチャルの世界もかなり比率を占めています。そこで使用しているのは科学技術なのですが、営みは社会性、人間の関与、精神への反映などもあり、唯物論ではすまない観念論的部分も多くなります。金や資本が大きな要素になっている経済や人の集合にかかわる政治や社会もまた、唯物論では治まらないようです。
本題にもどりましょう。唯物論とは古くからある考え方で、古代インドや中国にもありました。また、古代ギリシアの哲学者の唱えた、万物は原子や元素からできている、という考え方は、明確に唯物論といえます。知覚・思考すら元素に還元しました。したがって唯物論は、観念論にたっているキリスト教とは相容れず、批判する立場になっていきます。その後の近世では、フランスのデカルトらの機械論なども唯物論の継承しています。そして、ヘーゲルなどの哲学に取り込まれるようになり、唯物論の重要性が認識されてきました。つまり、現在までさまざまな形態をとりながらも、人の思考には唯物論は絶えず現れている考え方といえます。
次に弁証法をみていきます。弁証法とは、ものごとの発展様式のことです。ある事物や思考(テーゼ、定立)があったとき、やがてそれと相対するもの(アンチテーゼ、反定立)が出てきて、それら対立、矛盾したものを解消するためによりよいもの(アウフヘーベン、止揚)へと発展していくというものです。それを哲学的構築したのが、ヘーゲルでした。この考え方は、変化しながらも発展、継続していくものに適用可能です。変わりゆくものは、弁証法的変化はよく起こるものです。
マルスクは、歴史を唯物論的に捉え、弁証法的に発展していくものだとして、唯物史観を考え出しました。現状の国家運営では社会主義がすたれ、共産主義が崩壊しそうで、唯物史観はあまり話題になりませんが、唯物論も弁証法も実は、あちこちに見え隠れしている気がします。
地質現象も、その好例となっていると思います。
例えば、地層です。ある時に海底にたまった土砂が、長い時間かかって堆積岩となります。土砂は、過去の時空間で占めていたものが、堆積岩という物質として現在に残されます。それを地質学では、過去を知る研究素材としています。堆積岩は、現在の時空間に存在する「物質」に過ぎません。過去の時空間において形成された「物質」ですが、過去の時空間を形成場としてているもので過去の時空を見ているのではありません。あくまでも物質で、時空間そのものではありません。しかし、地層は、時空間を読み解くために唯物論的アプローチが適用されています。また、土石流のような土砂と水の混じった未固結の物質から、固結した岩石へと変化したものです。物質としても、変化したものから、変化前(過去)の堆積場、堆積環境や後背地を読み取る素材とみなしています。これは堆積岩を唯物史観的視点で見ていることになります。
化石も似た見方がされています。過去の生物の一部が石化して堆積岩に取り込まれたのが、化石です。化石は堆積岩の一部の構成物であり、「生きている生物」ではありません。論理的には「化石=過去の生物」は検証不能です。なぜなら化石に生物の定義をまったく適用できないからです。しかし、「過去の生物」の一部だったとみなして、過去の生命を探る素材にしています。化石に対して、唯物論を適用しています。さらに、現在見つかっている化石を、過去の生物の一部とした上で、過去の生態、環境を探る手段として利用されています。化石から、過去の生物、そして暮らしていた生態系へと、弁証法的見方があります。化石の研究にも、唯物史観があるように見えます。
火成岩にも唯物史観が適用されています。過去の既存の岩石が、温度圧力などの条件変化によって溶融したものがマグマです。マグマが固まったものが火成岩です。固体(既存の岩石)から液体(マグマ)を経て、別の固体(火成岩)になるという過程は、弁証法的変化です。火成岩を用いて、マントルや地殻下部の様子や地球の過去の状態を探るのは唯物論的です。
さらに、岩石の成因として、火成岩、堆積岩そして変成岩があります。3つの成因の中で岩石の多様性を広げる作用として、火成岩が一番大きくなります。それは一番弁証法的変化が起こっているためです。また、地球でできた最初の岩石を考えるとき、弁証法で突き詰めていくことが可能です。地球オリジナルの岩石として最初にできたのは、マグマオーシャンからできた火成岩となります。詳しくは別の機会にしましょう。
地質学は、過去の時空間で形成された物質から、過去を読み取ります。研究者は、現在手に入る岩石を通じて過去を読み解きます。時間に伴ってさまざまに変化した岩石を扱うので、常に唯物史的視点で岩石を見ていることになります。その手段として、たとえ物理学、化学、数学などの原理を使っていても、過去へ適用するときには、唯物史観が働きます。地質学者は、無意識に唯物史的に自然現象を眺めていることになっています。
・走り続ける・
火成岩の弁証法的変遷については、
以前論文に書いた内容でした。
その後、最初の岩石についても考えを進めていますが、
その前に考えなければならないことが多々あり、
なかなか研究が進みません。
アイディアを簡単に述べるのは楽なのですが、
深く考えていくと、いろいろなことが頭をよぎり
なかなか一筋縄ではいかないテーマだと思えます。
それでも、どこかで割りきって
進めていくほうがいいのでしょう。
完璧主義では、終わりがないからです。
走りながら考えましょう。
ということは、私はこれからも
ずっと走り続けなければならないということでしょうね。
・根雪か・
今年も最後の月、師走となりました。
慌ただしさはいつもなります。
11月末には、激しい雪となり、
その後雨に変わったり
目まぐるしく変化した月末でした。
そして雪で師走ははじまりました。
まさか根雪にはまだならないと思いますが、
心配したくなる雪景色です。
唯物史観という考え方があります。「唯物論的歴史観」の略で、史的唯物論と呼ばれることもありますが、ここでは唯物史観と呼ぶことにします。唯物史観は、19世紀にカール・マルクスの唱えた歴史の見方です。マルクス本人はこの用語を使用することなく、後に用いられるようになったそうです。マルクス主義に基づいた歴史の見方のことなので、思想的な背景もあり、なかなか使いづらい用語かもしれません。しかし、本稿では、「唯物論的歴史観」という原意にそって使うことにします。政治的、思想的な考えをもっているものではありませんので、ご了承ください。
そもそも唯物史観は、唯物論と弁証法を背景にしています。
唯物論とは、すべての根源は物質にあるという考え方です。現在の自然科学は、基本的に唯物論の立場をとっているといえます。自然現象は、根源が精神や心にあるという観念論に立つと、科学的論証や検証が難しいためです。観念論では白黒がつかないものが多く、自然科学の方法論には馴染みません。唯物論であれば、事物や事象が論証の対象となるので、成否や正誤の区別がしやすくなります。
自然科学だけでなく、科学技術も唯物論的立場で進んでいることになります。科学技術に依存している現在社会も、かなり唯物論的状況にあると言えるのでしょう。ところが人文科学や社会科学は、かならずしも唯物論的ではありません。デジタルやインターネットを通じたバーチャルの世界もかなり比率を占めています。そこで使用しているのは科学技術なのですが、営みは社会性、人間の関与、精神への反映などもあり、唯物論ではすまない観念論的部分も多くなります。金や資本が大きな要素になっている経済や人の集合にかかわる政治や社会もまた、唯物論では治まらないようです。
本題にもどりましょう。唯物論とは古くからある考え方で、古代インドや中国にもありました。また、古代ギリシアの哲学者の唱えた、万物は原子や元素からできている、という考え方は、明確に唯物論といえます。知覚・思考すら元素に還元しました。したがって唯物論は、観念論にたっているキリスト教とは相容れず、批判する立場になっていきます。その後の近世では、フランスのデカルトらの機械論なども唯物論の継承しています。そして、ヘーゲルなどの哲学に取り込まれるようになり、唯物論の重要性が認識されてきました。つまり、現在までさまざまな形態をとりながらも、人の思考には唯物論は絶えず現れている考え方といえます。
次に弁証法をみていきます。弁証法とは、ものごとの発展様式のことです。ある事物や思考(テーゼ、定立)があったとき、やがてそれと相対するもの(アンチテーゼ、反定立)が出てきて、それら対立、矛盾したものを解消するためによりよいもの(アウフヘーベン、止揚)へと発展していくというものです。それを哲学的構築したのが、ヘーゲルでした。この考え方は、変化しながらも発展、継続していくものに適用可能です。変わりゆくものは、弁証法的変化はよく起こるものです。
マルスクは、歴史を唯物論的に捉え、弁証法的に発展していくものだとして、唯物史観を考え出しました。現状の国家運営では社会主義がすたれ、共産主義が崩壊しそうで、唯物史観はあまり話題になりませんが、唯物論も弁証法も実は、あちこちに見え隠れしている気がします。
地質現象も、その好例となっていると思います。
例えば、地層です。ある時に海底にたまった土砂が、長い時間かかって堆積岩となります。土砂は、過去の時空間で占めていたものが、堆積岩という物質として現在に残されます。それを地質学では、過去を知る研究素材としています。堆積岩は、現在の時空間に存在する「物質」に過ぎません。過去の時空間において形成された「物質」ですが、過去の時空間を形成場としてているもので過去の時空を見ているのではありません。あくまでも物質で、時空間そのものではありません。しかし、地層は、時空間を読み解くために唯物論的アプローチが適用されています。また、土石流のような土砂と水の混じった未固結の物質から、固結した岩石へと変化したものです。物質としても、変化したものから、変化前(過去)の堆積場、堆積環境や後背地を読み取る素材とみなしています。これは堆積岩を唯物史観的視点で見ていることになります。
化石も似た見方がされています。過去の生物の一部が石化して堆積岩に取り込まれたのが、化石です。化石は堆積岩の一部の構成物であり、「生きている生物」ではありません。論理的には「化石=過去の生物」は検証不能です。なぜなら化石に生物の定義をまったく適用できないからです。しかし、「過去の生物」の一部だったとみなして、過去の生命を探る素材にしています。化石に対して、唯物論を適用しています。さらに、現在見つかっている化石を、過去の生物の一部とした上で、過去の生態、環境を探る手段として利用されています。化石から、過去の生物、そして暮らしていた生態系へと、弁証法的見方があります。化石の研究にも、唯物史観があるように見えます。
火成岩にも唯物史観が適用されています。過去の既存の岩石が、温度圧力などの条件変化によって溶融したものがマグマです。マグマが固まったものが火成岩です。固体(既存の岩石)から液体(マグマ)を経て、別の固体(火成岩)になるという過程は、弁証法的変化です。火成岩を用いて、マントルや地殻下部の様子や地球の過去の状態を探るのは唯物論的です。
さらに、岩石の成因として、火成岩、堆積岩そして変成岩があります。3つの成因の中で岩石の多様性を広げる作用として、火成岩が一番大きくなります。それは一番弁証法的変化が起こっているためです。また、地球でできた最初の岩石を考えるとき、弁証法で突き詰めていくことが可能です。地球オリジナルの岩石として最初にできたのは、マグマオーシャンからできた火成岩となります。詳しくは別の機会にしましょう。
地質学は、過去の時空間で形成された物質から、過去を読み取ります。研究者は、現在手に入る岩石を通じて過去を読み解きます。時間に伴ってさまざまに変化した岩石を扱うので、常に唯物史的視点で岩石を見ていることになります。その手段として、たとえ物理学、化学、数学などの原理を使っていても、過去へ適用するときには、唯物史観が働きます。地質学者は、無意識に唯物史的に自然現象を眺めていることになっています。
・走り続ける・
火成岩の弁証法的変遷については、
以前論文に書いた内容でした。
その後、最初の岩石についても考えを進めていますが、
その前に考えなければならないことが多々あり、
なかなか研究が進みません。
アイディアを簡単に述べるのは楽なのですが、
深く考えていくと、いろいろなことが頭をよぎり
なかなか一筋縄ではいかないテーマだと思えます。
それでも、どこかで割りきって
進めていくほうがいいのでしょう。
完璧主義では、終わりがないからです。
走りながら考えましょう。
ということは、私はこれからも
ずっと走り続けなければならないということでしょうね。
・根雪か・
今年も最後の月、師走となりました。
慌ただしさはいつもなります。
11月末には、激しい雪となり、
その後雨に変わったり
目まぐるしく変化した月末でした。
そして雪で師走ははじまりました。
まさか根雪にはまだならないと思いますが、
心配したくなる雪景色です。
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