2016年5月15日日曜日

137 小樽:軟石の建物

 石材を使った建築物は、重厚で格調を感じます。石材は重く加工が難しいので、技術も資金も必要になります。その中でも軟石と呼ばれる石材は、柔らかく加工がしやすく、石としての性質ももっています。軟石は、なかなか便利な素材です。

 ゴールデンウィークも終わり、日常の日々が戻ってきことだと思います。ゴールデンウィークは、しっかりと楽しまれたでしょうか。私は、野外調査が熊本地震で中止したため、ポッカリと時間があきました。そのおかげで、研究はだいぶ進みました。一日だけ家内と散策に出かけました。それは、小樽でした。5月2日は月曜日で平日だったのと、大学の講義が振替休日になっていたので、でかけることにしました。
 晴れで散策するにはいい天気でしたが、少々風の強い日となりました。平日で少しはマシかと思ってこの日にしたのですが、さすがに有名な観光地なので、多くの人出がありました。これは人混みが嫌いな私だからの感想で、多分これでも混み方はましで、この時期の休祝日には、もっとごった返していたことでしょう。
 今回の小樽は、まったくの観光で石や地質とは関係がありませんでした。若いころに、小樽周辺の地質の見学(地質巡検と呼んでいます)を何度かしたことがあります。数年前にも、学会の案内で小樽の街に来たことがありました。子どもたちは、小学校の修学旅行でいろいろ楽しんできました。家族旅行の時は、車で通り過ぎたことが何度かありました。ところが、家内は一度も小樽の街を歩いたことがないので、いい機会ですから、散策をすることにしました。
 さて、小樽の街は港街です。港としてのスタートは、札幌の市境の小樽内川にありました。その港、季節風が強い時にはなかなか接岸できないという弱点がありました。季節風が避けられる場所として、現在の場所に移動しました。町や港の場所が、もとあった場所から、移動したのですが、名称もそのまま移動してしまいました。
 港としては、松前藩によってオタルナイ場所という交易所が開かれ栄ました。小樽には、北前船も立ち寄っていました。明治の初期(1880年)には北海道で最初の鉄道も開通し、日本初の本格的コンクリート製の防波堤をもった北防波堤が整備されました(1908年)。19世紀末から20世紀前半にかけて、小樽は、北海道の石炭の積出港として、さらに日露戦争で手に入れた南樺太やロシアとの交易のための、物質の中継地として非常に栄えました。
 小樽は、地形として、南に急峻な山地があり、そこからなだらかん丘陵地になります。小樽の街の前は平坦でなだらかな海岸線ですが、その面積は狭く限られています。周辺には複雑で険しい海岸となっています。
 これらの地形は、もちろん地質の影響を受けてます。険しい山地は安山岩溶岩でできていて、丘陵は火砕岩や火山砕屑岩からできていて、平野は海岸段丘の堆積物、河川による沖積層からなり、複雑な海岸部は安山岩の水中火山岩、水中火砕岩(ハイアロクラスタイトと呼ばれています)からできます。地質が地形をつくっています。
 小樽は斜面から狭い平野しかない港街でした。平地が少なかったところに、急激に商業的に栄えてきたので、手狭になってきました。丘陵を切り崩し、埋立地が作られました。丘陵は流紋岩質凝灰岩で崩しやすい岩石でした。1914年には、埋めて地の中に小樽運河も作られました。当時の小樽(108,113人)は、人口も札幌にも劣らない(102,580人)を要する、大きな商業都市に発展してました。
 しかし戦後になると(1960年代以降)、石炭から石油へのエネルギー転換が起こり、北海道内の炭鉱が各地で閉山し、樺太やソ連との貿易も激減してきました。それに加えて、太平洋側の苫小牧港や石狩湾新港の整備などにより、港町としての発展も衰え、商業都市としての活気が急激になくなっていきました。海運業がさびれるとともに、運河もドブのような状態になり、活気のない街となってきました。
 小樽が発展していた時、巨額の資金を投じて建築された石造りの近代建築や港湾の倉庫などが、急激な商業の衰退によって取り壊すことなく残されていたいました。古いまま残された栄華の残骸が、手を入れて再利用できる有望な観光資源になりました。運河も再整備され、きれいな町並みに生まれ変わったのです。再整備された近代建築の街、小樽は、観光の街として再び繁栄を取り戻してきました。私がいったときも、中国、韓国、台湾などからの観光客が多数来られていました。
 小樽の西洋風近代建築の素材となっているのが、木と石です。倉庫などは木造の大きな空間をつくっていますが、火災予防のために、石材が多数利用されています。木造建築の長所は安いコストと建築期間の短さです。弱点は火災です。倉庫群は、両方を利点をいかして、木造築、石壁というつくりなっています。一方、西洋建築物は費用を惜しまず立派な石材でできています。市内の近代建築の石の多くは、軟石と呼ばれるものからできています。
 軟石とは、軽石や凝灰岩などの火山砕屑物が固化したものです。名前の通り、柔らかい石材で、加工のしやすい素材です。しかも石として特徴も持っていますので、使い道の多い素材だったようです。大谷石に似た岩石ですが、大谷石より細粒で硬度もあり、それでいて通常の岩石より切り出しやすく、軽くて保温性もあり、耐火性もあったので、石材として便利だったのです。
 小樽で使われている軟石には、産地の違いがあり、小樽軟石、札幌軟石、桃内(ものない)軟石などあることがわかっています。小樽軟石は、小樽の北、鉄道博物館の近くにある手宮洞窟周辺と、南にある奥沢村の2ヶ所から切り出されていました。桃内軟石とは、小樽の西の忍路(おしょろ)の近くの海岸沿いにあります。現在、桃岩と呼ばれう海に突き出た岩礁ありますが、かつてはそれに連なる尾根がありました。その尾根が桃内軟石でできていたため、その尾根が現在ではなくなってしまうほど、すべて切りだされてしまいました。札幌軟石は、札幌の南で、なかり奥に入った石山あたりで採られていました。
 石材は便利ですが、使用量が多くなると、木材よりは重いので運送が大変になります。費用もかさみます。ですから、石材は地元のものを使うことが基本的な考え方になります。しかし、権力や資金があると希望する理想的な石材を日本、現在では世界各地から取り寄せられます。権力の象徴は大阪城の城壁の巨大な石材でしょう。信じられないくらい大きな石が、小豆島から運ばれてきました。これは秀吉の権力を象徴するものでしょう。小樽の建築物には、札幌軟石もかなり使われているようです。小樽は急激な発展をしたため、かなり大量に石材が必要とされことと、資金も豊富だったため、札幌の奥地から大量に石材を取り寄せられたようです。
 繁栄した時代の資金力によって作られた街が、栄光の衰えとともにさびれてきました。しかし今では過去の栄華を、観光資源として活かすことで、復活を遂げようとしています。そんな過去の栄華を、小樽の札幌軟石に見ることができます。

・アイヌ・
北海道の先住民であるアイヌの人々は、
狩猟採集で暮らし、文字で記録することがなかったので、
必ずしも詳しい歴史が残されていません。
北海道の自然の中で長く生き抜くための知恵を持ち
北に自然に馴染んだ独自文化をもっていました。
江戸時代の松前藩はアイヌとの交易をし
明治政府は、北海道を西洋の近代化した考え方で開拓していきます。
近代化の波は急激なもので、
その影響でアイヌの文化がかなり消えていきました。
現在では、アイヌ文化は守られるようになってきていますが、
消え去ったものも多数あるかと思います。
アイヌに関する情報はリニューアルした
北海道博物館(旧開拓記念館)で学ぶことができ、
現在、企画テーマ展「アイヌ民族資料を守り伝える力」が
開催されています。
私は、2月に常設展を見学にいったのですが、
再度、企画展を見学したいと思います。

・請負所・
エッセイにあったオタルナイ場所とは
請負所のことを意味しています。
江戸時代、松前藩は函館周辺を領地としていました。
ご存知用に、江戸時代、武士は、米を経済の中心にしていました。
米が取れない松前藩では、
家臣を養うために他の方法が必要でした。
その方法として、家臣に請負所を許可することで
アイヌとの交易による商業収入にて、知行としました。
しかし、武士にはそれほどの商才がないため
商人に仕事を代行させ
その利益を運上金として納めさせることにしました。
それが、場所請負制度で、その地のひとつがオタルナイ場所でした。
小樽も商人が発展させてきた地でした。