経済が低迷している世の中ですが、IT産業だけが、好調な売れ行きを示しています。これは、多くの人の需要が、いまだに健在であるからでしょう。コンピュータの売れ行きは落ち着いているようで、多くの人にコンピュータはいきわたってきたらかでしょうか。あとは、更新の需要、子供や新社会人での需要、教育現場での需要が主要なものになるのかもしれません。
なかでも、携帯電話の普及とその高性能化には目を見張るものがあります。動画撮影、100万画素クラスの映像を撮れるもの、電子メールの送受信、インターネットに接続できるもの、まさにウェイラブル・パソコンとも呼ぶべきものとなっています。
今やパソコンや携帯電話にしても、インターネットに接続できることが不可欠な機能になりつつあります。インターネット環境も、常時接続、固定料金制が定着し、通信のスピードもパソコンでは64kbが普通になり、8Mbや12MbのADSLが普及し、100Mbの光ファイバーも使われはじめてきました。
こうなると、以前の課金制のように使用時間や通話料を気にすることなく、心行くまでインターネットの世界を楽しむことになります。もし、なにか趣味や興味を持っているものがあると、それをインターネットで調べていくと、実にさまざまな情報を接することになります。興味が深まれば、深まるほど、接する情報は、高度で専門性の高いものになってきます。
趣味だけでなく、社会人として公の業務で、日本だけにとどまらない活動や仕事、海外や外国人との接触が多くなってきているのではにでしょうか。あるいは、社会的要請により、一般市民も、さまざまな学問が複合した学際的、全地球というような総合的な考え、学識が必要となっています。
多くの人がさまざまな場面で、今までになかった分野の専門知識、あるいは最先端の知識、幅広い知識が必要となってきました。そのような場面に対応するには、市民も新たな学識を教養として吸収していく必要があります。そんな機会が、以前より多くなったのではないでしょうか。
そんなとき、従来は専門書や論文などから情報を得て身につけていました。しかし、近年では、インターネットを通じた情報も重要な役割を果たすようになってきました。ところが、インターネットの情報は、玉石混交となっており、必ずしも市民自身の知識レベルにあったもの、つまり必要とするレベル、理解できるレベルの情報が供給されているとは限りません。むしろ、自分にあった情報は少ないのかもしれません。つまり、平易すぎるか、難解すぎるかです。市民の要求を満たす情報が、なかなか手に入りにくいということです。
情報を供給する側を見ると、専門情報は専門家が発信することになります。そして、最先端の科学技術による情報は、専門家から専門家向けに発信されていす。それは、いまではインターネットを通じて行われることが多くなっています。そんな専門情報は、誰でも利用できるということを謳って公開されていることも多いのですが、煩雑な手続きや解読専用のソフトの使用、英文の専門家向けのマニュアル、会員登録など、多くのバリアがあり、気軽に市民が利用できるとは限りません。
このように未加工の一次情報を市民が簡単に閲覧できる状態になっています。でも、そんな一次情報を利用できるのは、専門家がほとんどで、市民にはなかなか利用できるものではありません。
つまり、専門情報を発信する側は、多くの専門情報を専門化向けに公開しています。利用できる技量、知識があれば、市民でもそれは利用可能となっています。つまり、専門的とはいえ、多くの情報は供給されいるのです。その情報は、市民でも希望すれば利用することが可能ですが、現実としてむつかしいのではないでしょうか。となる、市民の要求は、結局、満たされないことになります。
供給される情報が充分あるのに、その情報が市民にわかるかたちに加工されることがないために、要求を満たさないのです。このようなアンバランスをなくすには、専門家が、市民のためにわかりやすく情報を発信していく、つまり市民への科学普及、科学教育をしていくしかないのです。各専門分野において、科学普及をもっとしなかればならない、という当たり前の結論にたどり着きます。
現代では、学問は多くの分野に細分されています。最先端の特殊な分野では、非常に小数の専門家しかいないこともあります。そんな分野の科学教育をするには、少数しかいない専門家のだれかが、市民向けに解説をしなければならないのです。それが無理なら、やや専門が違っても、その情報を利用できる立場の人が、市民にわかる形に解読していくということをしなければならないのです。
そのような方法論は、商業ベースでおこなわれる書籍のかたちでは、不可能でしょう。なぜなら、市民の要求も多様化しているため、一つの専門分野の情報を必要としている市民は、商業ベースにのるほど、多くないかもしれないからです。そんなとき、インタ-ネットの世界でその需要を満たせばいいと考えています。
専門家の科学普及をインターネットでおこなえばいいのです。インターネットのホームページやメールマガジンなどを利用すれば、小数の需要にも対応化のです。商業ベースには乗らないものも、このようなシステムなら解決できます。
インターネットが招いた高度情報化による問題は、インターネット内で解決できるのです。このような方法論は、なにも新しいものを必要としません。心有る専門家が、必要なのです。そんな専門家が、市民のために専門情報をわかりやすく解説すればいいのです。そこでは金銭は動きません。インターネット特有のボランティア精神が発揮されるのです。専門家も、ボランティア精神の恩恵をインターネットから得ているはずです。そもそもインターネットの発祥自身にもボランティア精神があふれていたのです。その精神を継承すればいいのです。
こんな精神は、日本古来の「思いやり」、「無私」というような言葉で表されていた精神を、今、思い出せばいいのです。私は、インターネットで情報を発信するようになって、このような心を多くの人から学びました。こんな心を、より多くの人に広めたいと考えています。ぜひ、あなたも、そんな心を思い起こしてください。
・私の実践・
私は、ERSDACと共同で、ASTERという資源探査衛星が撮影した画像を利用して、地質学的な視点での地球の見方を紹介しています。これも、私は、無償でおこなう科学教育であると考えています。そして、なにより私自身が面白いと思っています。そして、その私の面白いと思っていることが、日本のどこかのだれかの役に立っていればいればいいと思います。
いまの世の中は、成果や結果を求めすぎます。地道に、心をこめて、どこかのだれか、お互い名も知らないもの同士が、知識や好奇心をやり取りすることは可能だと思います。そしてお互いそれを心を基準ですればいいのではないでしょうか。
もしろん、このメールマガジンもそのつもりです。
・光ファイバーへ・
夏前に、新居へ引っ越しました。同じ市内の違う町です。今まではインターネットをするのにADSLを使っていました。しかし、今回引っ越したところは、ADSLが使えません。いまさらISDNにもどる気がしません。それに、我が家にとってはADSLの大きな利点としてIP電話の利用がありました。我が家は長距離通話をすることが多く、IP電話の威力を発揮していました。電話代だけで、ADSLのもとが取れるほどです。ですから、新居でもADSLとIP電話が使えればと思っていましたが、だめになりました。
そうなると選択肢は、光ファイバーを利用したBフレッツにするか、昔のままの電話とISDNにするかです。そこで思案の末、Bフレッツにすることにしました。それが先日開通し、IP電話、インターネット、無線LANという今まで自宅で構築していたのと同じ通信環境が整いました。
Bフレッツは公称100Mb/sですが、実測すると40Mb/sほどです。これでも、ADSLの4倍から10倍ほどのスピードがでています。でも実際には、このスピードで通信できるわけではなく、回線のどこかに遅いところが大抵あるので、もっと遅くなるのが現状です。でも、充分早く、大学より快適なほどです。
それに、光ファイバーにすれば、今後ADSLよりは道具として長持ちしそうです。
スピードの増加に伴って、月々の通信費がADSLに比べて3倍ほどになります。これは痛いです。でも我が家は携帯電話は以前、一時使っていましたが、今ではやめていますので、その使用料を考えると、それほど高くなってないかもしれません。
でも、考えると通信費やそれに関する装置も非常に安くなりました。電話代だって、昔と比べると各段位に安くなりました。多分、今やアメリカ合衆国より通信費は安くなったのではないでしょうか。これは、通信の利用が爆発的に多くなったための効果だと思います。
2003年9月1日月曜日
2003年8月1日金曜日
19 地質学的時間(2003年8月1日)
人間の歴史における時間と地球の歴史における時間は、人間の時間が速く流れ、地質学の時間がゆっくりと流れると思ってしまいます。ゆっくりとしたことが地球の日常的出来事であるということです。しかし、視点を変えていくと日常的が二転三転していきます。
岩石や地層の形成に要した時間は、一般には長い年月がかかっているように思われます。しかし、必ずしもそうではありません。多くの岩石や地層は、地質学的な時間で見れば、ある時に、ある作用によって、非常に短い時間、つまり人間が見ても「あっという間」にできたといってもいいような時間で形成されているものがあります。それは例外的ではなく、かなりの量に及びます。
そんな例をいくつか紹介しましょう。
ごくわかりやすい例では、溶岩です。溶岩は火山が噴火して流れ出たマグマが固まったものです。このようなマグマが固まる現象は、非常に短い時間で起こります。海底でも溶岩の活動があります。海底は地表よりもっとはやくマグマが固まります。海底は玄武岩のマグマでできていることを考えると、その量は、地表の7割が「あっという間」の出来事の繰り返しでできたことになります。
地層は、数百年や数千年に一度しか起こらないような大洪水や大地滑りなどによって、大量に運ばれてくる土砂によって形成されます。非常に稀な大洪水や大地滑りでも、その現象自体は、数時間や数日の時間で起こり終わってしまう現象です。地質学的な見方をすれば、まさに「あっという間」の現象です。
地層の積み重なったガケを見たことがあると思います。多くの教科書では、それらの地層がたまるには、長い時間かかったと説明されています。しかし、見方によっては、それほどの時間を要せず、あっという間にできたともいえます。
あるガケを想定しましょう。50メートルの厚さの地層が見えるガケがあるとしましょう。そのガケは、平均すると1メートルの厚さの地層からできているとしましょう。つまりここには、50枚の地層があるわけです。さて、この地層をためるのにどれくらいの時間がかかるのでしょうか。
地層ができるのには、例えば5,000年に一度の大洪水や大地滑りなどの現象によってできるとしましょう。するとこのガケ全体をつくるには、5,000年×50枚で、25万年の時間がかかったことになります。かなりの時間がかかってできたことになります。
つぎに、物質をためるだけの時間が考えましょう。上で述べたように、一つの地層をつくるために必要な土砂は、ほんの数日の事件でできます。例えばその事件を1週間、7日間かかるとしましょう。その地層が50枚あるのですから、7日×50枚で、350日です。つまり、約1年分の時間があれば、この地層をつくる物質が集めることができることなります。いいかえると、この地層をつくっている物質は1年分の時間で集まったもの、あるいは1年分の時間しかここには記録されていないことになります。まさに「あっという間」の出来事となります。
この「あっという間」というの非常に情緒的な表現ですが、地質学的に時間差が検出できないという意味です。年代測定では、調べる時代や測定方法によりますが、「あっという間」とは、古い時代では数万年、新しい時代では数百年の時間は、検出限界以下、つまり誤差範囲といえます。
ここまでは、地層を物質といいう面からみてきましたが、時間という面から見ると、地層はまったく別の見方ができます。時間でみるときに大切なのは、物質のないところです。地層と地層の間の、ものがほとんどない境界にあたるところに、じつは時間が詰め込まれているのです。
地層というのは、往々にして、物質面からしか見ませんが、時間という面から見るとまったく様相を異にします。時間から見ると、地層として見えているところは、つまりは、物質に置き換えられているところは、ささやかな一部にすぎず、時間の本体は、物質に見えてない部分にあります。
地層の中に流れている時間の本質は、大部分が物質をためない穏やかな時間、つまり「日常」なのです。数百年や数千年に一度のような非日常的時間が、地層の物質的部分を構成しています。日常的時間は物質に置き換えられないのです。ですから、地層の物質面からは、日常を読み取るではなく、非日常を読み取ることになります。
地質学では、地層の中から見つかる構造、岩石片、化石などから、その当時の歴史や環境を読み取ります。でも、これは、非日常的現象でできた非日常的時間を地層から読み取っているのです。地質学者でも、この事実をついつい忘れてしまっています。地層から読み取れのは、当時の日常的なものだと勘違いしてしまっているのです。地層の中の物質には、非日常が織り込まれ、物質になっていない境界部に日常が織り込まれているのです。
視点を広げると、逆の結論がでてきます。累々と続く地層は、数百年や数千年に一度のような稀な現象でも、地質学的時間で見ると、何度も繰り返し起こっていることを示しています。もしかすると、上で述べたような議論は、人間の時間スケールでのものであって、地質学的時間で見ると、人間にとって非日常的現象が、日常的現象になっているのかもしれません。地層は地球の時間では日常的現象としてつくられたものとみなすことも可能です。
さらに視野を広げると、またまた逆の結論がでてきます。上で述べたガケも地球の表層のごく一部に過ぎません。地層をためるという現象も、地球全体に及ぶ現象ではなく、局所的におこるものです。地層をためる場とは、同時代の地球では、陸の近くの海だけで、それは地球の表層のほんの一部なのです。ということは、この地層の形成自体が、局所的な一時代、一地域の特殊なものに収斂させられるかもしれません。つまり、日常的というとり非日常的なものといべきなのです。
などなど、視点を変えることによって、日常と非日常の判断が、次々と入れ替わります。さてさて、「日常的」とは、「非日常」とは、いったい何を意味するのでしょうか。わからなくなてきました。
・初心と感謝・
この「Terra Incognita」は、今回で19号になります。毎月はじめに発行しています。御存知かもしれませんが、この月刊メールマガジン「Terra Incognita」には、前身があります。それは、「地球のつぶやき」というもので、不定期に、ある特定の人だけに発行していました。50名まで限定のメーリングリストで発行していました。その「地球のつぶやき」は7号発行しました。これも、ホームページに公開しています。その第1号は、2001年9月20日に発行されています。やく2年前のことになります。
このエッセイを書きながら、その当時、あるいは「Terra Incognita」の初心を思いこしていました。
私は、この「Terra Incognita」を書くのを楽しんでいます。少し高度な地質学あるいは哲学的内容になっていますが、自分のいちばん面白いと思っているところを盛り込んだものです。内容としては、今までの地質学が気づいてない視点、見落としている視点など、あるいはどうでもいいことにこだわりながら書き続けています。自分自身で、深く、しつこく考えています。これは、私自身のオリジナルな考えです。
もしかするとピンとはずれなこと、もしかすると非常識な考えかもしれません。もしかすると同じことをどこかで誰かが言っているかもしれません。でも少なくとも、私は、それを知りませんので、独自に考え出したものです。
インターネットの発達した現在、情報は氾濫しています。ですから、がんばって探せば、必要な情報はどこかにあります。あるときは、その情報量に圧倒される程充実したものがあります。もちろん、私もインターネットを重要は情報源としてます。
こんなインターネット時代で重要なことは、オリジナリティ、独創性の発信ではないでしょうか。自分しか創り出せないものを発信する。これがインターネットにおけるアイデンティティではないでしょうか。もちろん、独創性を発信することだけでが、独創性の確立、確認ではないでしょう。独創性の発揮は、なにもインターネットだけが発信手段ではありません。人それぞれさまざまな方法があっていいと思います。でも、インターネットは手軽な情報発信装置です。ですから、私は、自分の方法として、いまのところインターネットが重要な手段となっています。
私がメールマガジンとして発行しているのは、自分自身の考えをまとめ、独りよがりでなくするために、読者を想定しています。それは不特定ひとりでいいのです。そんな読者にたいして私の考えを発表しています。反応はなくていもいいのです。購読している人がいるという事実が、私の不特定ひとりの読者の前提となっています。もちろん、意見、議論は大歓迎です。
私のわがまま考えを聞いてくださっている方々、ありがとうございます。これからも御支援よろしくお願いします。御支援といっても、購読し下さるだけでいいのですよ。
岩石や地層の形成に要した時間は、一般には長い年月がかかっているように思われます。しかし、必ずしもそうではありません。多くの岩石や地層は、地質学的な時間で見れば、ある時に、ある作用によって、非常に短い時間、つまり人間が見ても「あっという間」にできたといってもいいような時間で形成されているものがあります。それは例外的ではなく、かなりの量に及びます。
そんな例をいくつか紹介しましょう。
ごくわかりやすい例では、溶岩です。溶岩は火山が噴火して流れ出たマグマが固まったものです。このようなマグマが固まる現象は、非常に短い時間で起こります。海底でも溶岩の活動があります。海底は地表よりもっとはやくマグマが固まります。海底は玄武岩のマグマでできていることを考えると、その量は、地表の7割が「あっという間」の出来事の繰り返しでできたことになります。
地層は、数百年や数千年に一度しか起こらないような大洪水や大地滑りなどによって、大量に運ばれてくる土砂によって形成されます。非常に稀な大洪水や大地滑りでも、その現象自体は、数時間や数日の時間で起こり終わってしまう現象です。地質学的な見方をすれば、まさに「あっという間」の現象です。
地層の積み重なったガケを見たことがあると思います。多くの教科書では、それらの地層がたまるには、長い時間かかったと説明されています。しかし、見方によっては、それほどの時間を要せず、あっという間にできたともいえます。
あるガケを想定しましょう。50メートルの厚さの地層が見えるガケがあるとしましょう。そのガケは、平均すると1メートルの厚さの地層からできているとしましょう。つまりここには、50枚の地層があるわけです。さて、この地層をためるのにどれくらいの時間がかかるのでしょうか。
地層ができるのには、例えば5,000年に一度の大洪水や大地滑りなどの現象によってできるとしましょう。するとこのガケ全体をつくるには、5,000年×50枚で、25万年の時間がかかったことになります。かなりの時間がかかってできたことになります。
つぎに、物質をためるだけの時間が考えましょう。上で述べたように、一つの地層をつくるために必要な土砂は、ほんの数日の事件でできます。例えばその事件を1週間、7日間かかるとしましょう。その地層が50枚あるのですから、7日×50枚で、350日です。つまり、約1年分の時間があれば、この地層をつくる物質が集めることができることなります。いいかえると、この地層をつくっている物質は1年分の時間で集まったもの、あるいは1年分の時間しかここには記録されていないことになります。まさに「あっという間」の出来事となります。
この「あっという間」というの非常に情緒的な表現ですが、地質学的に時間差が検出できないという意味です。年代測定では、調べる時代や測定方法によりますが、「あっという間」とは、古い時代では数万年、新しい時代では数百年の時間は、検出限界以下、つまり誤差範囲といえます。
ここまでは、地層を物質といいう面からみてきましたが、時間という面から見ると、地層はまったく別の見方ができます。時間でみるときに大切なのは、物質のないところです。地層と地層の間の、ものがほとんどない境界にあたるところに、じつは時間が詰め込まれているのです。
地層というのは、往々にして、物質面からしか見ませんが、時間という面から見るとまったく様相を異にします。時間から見ると、地層として見えているところは、つまりは、物質に置き換えられているところは、ささやかな一部にすぎず、時間の本体は、物質に見えてない部分にあります。
地層の中に流れている時間の本質は、大部分が物質をためない穏やかな時間、つまり「日常」なのです。数百年や数千年に一度のような非日常的時間が、地層の物質的部分を構成しています。日常的時間は物質に置き換えられないのです。ですから、地層の物質面からは、日常を読み取るではなく、非日常を読み取ることになります。
地質学では、地層の中から見つかる構造、岩石片、化石などから、その当時の歴史や環境を読み取ります。でも、これは、非日常的現象でできた非日常的時間を地層から読み取っているのです。地質学者でも、この事実をついつい忘れてしまっています。地層から読み取れのは、当時の日常的なものだと勘違いしてしまっているのです。地層の中の物質には、非日常が織り込まれ、物質になっていない境界部に日常が織り込まれているのです。
視点を広げると、逆の結論がでてきます。累々と続く地層は、数百年や数千年に一度のような稀な現象でも、地質学的時間で見ると、何度も繰り返し起こっていることを示しています。もしかすると、上で述べたような議論は、人間の時間スケールでのものであって、地質学的時間で見ると、人間にとって非日常的現象が、日常的現象になっているのかもしれません。地層は地球の時間では日常的現象としてつくられたものとみなすことも可能です。
さらに視野を広げると、またまた逆の結論がでてきます。上で述べたガケも地球の表層のごく一部に過ぎません。地層をためるという現象も、地球全体に及ぶ現象ではなく、局所的におこるものです。地層をためる場とは、同時代の地球では、陸の近くの海だけで、それは地球の表層のほんの一部なのです。ということは、この地層の形成自体が、局所的な一時代、一地域の特殊なものに収斂させられるかもしれません。つまり、日常的というとり非日常的なものといべきなのです。
などなど、視点を変えることによって、日常と非日常の判断が、次々と入れ替わります。さてさて、「日常的」とは、「非日常」とは、いったい何を意味するのでしょうか。わからなくなてきました。
・初心と感謝・
この「Terra Incognita」は、今回で19号になります。毎月はじめに発行しています。御存知かもしれませんが、この月刊メールマガジン「Terra Incognita」には、前身があります。それは、「地球のつぶやき」というもので、不定期に、ある特定の人だけに発行していました。50名まで限定のメーリングリストで発行していました。その「地球のつぶやき」は7号発行しました。これも、ホームページに公開しています。その第1号は、2001年9月20日に発行されています。やく2年前のことになります。
このエッセイを書きながら、その当時、あるいは「Terra Incognita」の初心を思いこしていました。
私は、この「Terra Incognita」を書くのを楽しんでいます。少し高度な地質学あるいは哲学的内容になっていますが、自分のいちばん面白いと思っているところを盛り込んだものです。内容としては、今までの地質学が気づいてない視点、見落としている視点など、あるいはどうでもいいことにこだわりながら書き続けています。自分自身で、深く、しつこく考えています。これは、私自身のオリジナルな考えです。
もしかするとピンとはずれなこと、もしかすると非常識な考えかもしれません。もしかすると同じことをどこかで誰かが言っているかもしれません。でも少なくとも、私は、それを知りませんので、独自に考え出したものです。
インターネットの発達した現在、情報は氾濫しています。ですから、がんばって探せば、必要な情報はどこかにあります。あるときは、その情報量に圧倒される程充実したものがあります。もちろん、私もインターネットを重要は情報源としてます。
こんなインターネット時代で重要なことは、オリジナリティ、独創性の発信ではないでしょうか。自分しか創り出せないものを発信する。これがインターネットにおけるアイデンティティではないでしょうか。もちろん、独創性を発信することだけでが、独創性の確立、確認ではないでしょう。独創性の発揮は、なにもインターネットだけが発信手段ではありません。人それぞれさまざまな方法があっていいと思います。でも、インターネットは手軽な情報発信装置です。ですから、私は、自分の方法として、いまのところインターネットが重要な手段となっています。
私がメールマガジンとして発行しているのは、自分自身の考えをまとめ、独りよがりでなくするために、読者を想定しています。それは不特定ひとりでいいのです。そんな読者にたいして私の考えを発表しています。反応はなくていもいいのです。購読している人がいるという事実が、私の不特定ひとりの読者の前提となっています。もちろん、意見、議論は大歓迎です。
私のわがまま考えを聞いてくださっている方々、ありがとうございます。これからも御支援よろしくお願いします。御支援といっても、購読し下さるだけでいいのですよ。
2003年7月1日火曜日
18 証拠と論理(2003年7月1日)
地質学は、自然科学の一分野です。ですから、科学である限り、証拠と論理に基づいて、その論理体系は成り立っているはずです。しかし、証拠と論理によってなりたっている世界は、本当に正しいのでしょうか。そして、本当に正しい世界を見つけるにはどうすればいいでしょうか。
セールスマンや言葉巧みな人のいうことにつられて、ついついその誘導にはまってしまうことがあります。ものごとを深く考えていても、どうしても、自分自身でそのわなにはまってしまうことや、あるいは、他人をだますためにその論理を意図的に利用することもあります。簡単な場合は、その論理のおかしさ、矛盾を見抜くことができますが、複雑な論理、あるいは、説得力のありそうな証拠、上手な話術、などが展開されると、ついついはまってしまいます。これは、誰でも陥るわなですし、だれもが逃れなれないものなのかもしれません。
こんな例を出しましょう。恐竜の化石の発掘現場を見せられたとします。そこには、恐竜が横たわっている化石があります。そして、その恐竜のお腹には付近には、まるでその恐竜が守っていたように、卵の化石があります。こんな化石が見つかったとしましょう。
この化石のでかた(産状)は、恐竜が子育てをしていたという有力な根拠、証拠となります。もし子育てしていた恐竜がいたとしたら、子供の教育をしていた、つまり、かなり高度な社会性を持っていた可能性があります。それが草食性の恐竜であれば、そのような社会性は、肉食性の恐竜から自分たちや仲間を守るために、群れとしてして行動をしていた可能性があります。肉食性の恐竜、つまり攻める側かららすると、これらの防御を打ち破って、食料にするには、ティラノザウルスのように、巨大で強力になるか、小型のものは、チーターのようにスピードで対処するか、オオカミのように群れをなして戦略で立ち向かうでしょう。
などという、論理が展開されることがあります。でも、これは、たった一つの化石の発掘から展開されたものです。もし、この化石という証拠の解釈が間違っていたらどうなるのでしょうか。すべてのストーリーつまり論理は破綻してしまいます。
化石となるときには、土砂に卵や恐竜が埋まらなければなりません。ですかた、たまたま卵の殻のあるところに、まったく関係のない恐竜の死体が埋まって、それが発掘されたとしらどうでしょうか。あるいは、化石になった恐竜は基本的には、草食性なのですが、卵なども食べることがあり、実はその卵をたまたま食べにきたとき、土砂に埋まったのだとしたら、どうでしょうか。上で展開した論理は、成り立ちません。あるいは、後者の場合だと、まったく逆の違う論理を立てなければなりません。
これは、比較的簡単な例でしたので、反対の解釈がすぐに了承できますが、もっと、複雑に入り組んでいると、どうでしょうか。あるいは、別の証拠がたくさん提示されたら、どうなるでしょうか。実は、いったん信じてしまうと、あるいは信じれば、信じるほど、その論理からは抜け出しにくくなります。まして、そこに利害や、自分の心情などが絡んできると、もはや、反証を挙げた側を、根拠なく批判してしまうこともあるでしょう。
これを強烈におこなたものが、洗脳でしょう。そこまでいかなくても、思い込み、確信、信念、常識などは、もしかすると、このような状態にあるのかもしれません。
洗脳状態に陥らないようにするには、どうすればいいのでしょうか。やはり、証拠に対しては証拠、論理に対しては論理で対処するしかないようです。今まである証拠を根拠にしていたとき、その証拠を否定するような証拠が出てきたとき、どちらの証拠が、より証拠能力があるか、あるいは別の論理を用いれば、両者の一見矛盾する証拠を説明することができないか。論理的に考えて、今まで信じていた論理がおかしいとわかれば、間違った論理を捨てる勇気が必要です。そんなチェックを、常に行えるこころの柔軟性が必要です。あるいは、この柔軟性がなくなったら、もはや洗脳されていることになります。
その教義と運命を共にするか、常に、正しいものを求めて、正しいほうへ転進できる姿勢を持ち続けるか。これは、その人の活き方にかかわることです。これ以上は、他人がとやかくいうものではないでしょう。それ以上いって、介入すると、こんどは、自分が押し売り、洗脳する側なります。
さて、このような論理ですが、論理ですべて解決できるでしょうか。論理とは、皆がこれは絶対正しいということ(公理、原理、前提、仮定など)から出発して、正しい手順で証明されたことだけで構築されるものです。そんな論理的に組み立てられた世界(体系、システム、系など)は、もちろん正しいはずです。
ところが、そんな世界が、その世界の中では、正しことは(無矛盾である)判定することができないとわかったのです。それも、数学のある分野でのことでした。
ゲーデルという数学者は、ある数学体系では、どんなに論理的に積み上げられた世界であっても、その世界の中では、無矛盾ということが判定できないということを、数学的証明したのです。大変なことになりました。この証明は、「ゲーデルの不完全性定理」と呼ばれ、その数学の分野では、この証明の正しいことがわかっています。そして、その「不完全性定理」の世界は、いろいろなところで見つかるようになってきました。
昔から知られている例として、自己言及のパラドックスというものがあります。
「この文章は、ウソである」
というよなものです。相互言及というものもあります。
A氏「B氏の言うことは、正しい」
B氏「A氏の言うことは、ウソである」
さて、これらの文章は正しいでしょうか。短い文章ですから、その異常さに簡単に気づきます。このようなパラドックスを、より論理的に、より深く考えていったのが「ゲーデルの不完全性定理」です。つまり、論理的に正しいものだけでできている世界でも、このようなパラドックスが含まれていることが証明されたのです。
このようなパラドックスが、複雑な論理体系の中に仕込まれていたら、複雑でなくても、巧みに論理の中に組み込まれていたら、見抜けないかもしれません。数学という非常に論理的な世界でも、なかなか見抜けなかったほどですから。
論理的に考えるということにも、限界があるということです。では、論理や証拠にだまされないようにするには、どうすればいいでしょうか。いまのところ、人類は、「完全」な論理の体系を手にしていません。数学の世界で不完全を見抜いたのも、やはり論理でした。ですから、論理と証拠を用いるという方法が、いちばんいいようです。この論理と証拠によって、論理体系のおかしさが判明しました。ですから、面倒かもしれませんが、「不完全」かもしれませんが、論理と証拠を用いるのが一番確実でしょう。そしてろの論理と証拠を扱うのは、人間です。それも不完全な人間です。ですから、論理と証拠を頼りにして、騙されながらも、こりずに、心の柔軟性を失うことなくいることが大切なようです。やはり、最後はこころの持ちようでしょうか。
セールスマンや言葉巧みな人のいうことにつられて、ついついその誘導にはまってしまうことがあります。ものごとを深く考えていても、どうしても、自分自身でそのわなにはまってしまうことや、あるいは、他人をだますためにその論理を意図的に利用することもあります。簡単な場合は、その論理のおかしさ、矛盾を見抜くことができますが、複雑な論理、あるいは、説得力のありそうな証拠、上手な話術、などが展開されると、ついついはまってしまいます。これは、誰でも陥るわなですし、だれもが逃れなれないものなのかもしれません。
こんな例を出しましょう。恐竜の化石の発掘現場を見せられたとします。そこには、恐竜が横たわっている化石があります。そして、その恐竜のお腹には付近には、まるでその恐竜が守っていたように、卵の化石があります。こんな化石が見つかったとしましょう。
この化石のでかた(産状)は、恐竜が子育てをしていたという有力な根拠、証拠となります。もし子育てしていた恐竜がいたとしたら、子供の教育をしていた、つまり、かなり高度な社会性を持っていた可能性があります。それが草食性の恐竜であれば、そのような社会性は、肉食性の恐竜から自分たちや仲間を守るために、群れとしてして行動をしていた可能性があります。肉食性の恐竜、つまり攻める側かららすると、これらの防御を打ち破って、食料にするには、ティラノザウルスのように、巨大で強力になるか、小型のものは、チーターのようにスピードで対処するか、オオカミのように群れをなして戦略で立ち向かうでしょう。
などという、論理が展開されることがあります。でも、これは、たった一つの化石の発掘から展開されたものです。もし、この化石という証拠の解釈が間違っていたらどうなるのでしょうか。すべてのストーリーつまり論理は破綻してしまいます。
化石となるときには、土砂に卵や恐竜が埋まらなければなりません。ですかた、たまたま卵の殻のあるところに、まったく関係のない恐竜の死体が埋まって、それが発掘されたとしらどうでしょうか。あるいは、化石になった恐竜は基本的には、草食性なのですが、卵なども食べることがあり、実はその卵をたまたま食べにきたとき、土砂に埋まったのだとしたら、どうでしょうか。上で展開した論理は、成り立ちません。あるいは、後者の場合だと、まったく逆の違う論理を立てなければなりません。
これは、比較的簡単な例でしたので、反対の解釈がすぐに了承できますが、もっと、複雑に入り組んでいると、どうでしょうか。あるいは、別の証拠がたくさん提示されたら、どうなるでしょうか。実は、いったん信じてしまうと、あるいは信じれば、信じるほど、その論理からは抜け出しにくくなります。まして、そこに利害や、自分の心情などが絡んできると、もはや、反証を挙げた側を、根拠なく批判してしまうこともあるでしょう。
これを強烈におこなたものが、洗脳でしょう。そこまでいかなくても、思い込み、確信、信念、常識などは、もしかすると、このような状態にあるのかもしれません。
洗脳状態に陥らないようにするには、どうすればいいのでしょうか。やはり、証拠に対しては証拠、論理に対しては論理で対処するしかないようです。今まである証拠を根拠にしていたとき、その証拠を否定するような証拠が出てきたとき、どちらの証拠が、より証拠能力があるか、あるいは別の論理を用いれば、両者の一見矛盾する証拠を説明することができないか。論理的に考えて、今まで信じていた論理がおかしいとわかれば、間違った論理を捨てる勇気が必要です。そんなチェックを、常に行えるこころの柔軟性が必要です。あるいは、この柔軟性がなくなったら、もはや洗脳されていることになります。
その教義と運命を共にするか、常に、正しいものを求めて、正しいほうへ転進できる姿勢を持ち続けるか。これは、その人の活き方にかかわることです。これ以上は、他人がとやかくいうものではないでしょう。それ以上いって、介入すると、こんどは、自分が押し売り、洗脳する側なります。
さて、このような論理ですが、論理ですべて解決できるでしょうか。論理とは、皆がこれは絶対正しいということ(公理、原理、前提、仮定など)から出発して、正しい手順で証明されたことだけで構築されるものです。そんな論理的に組み立てられた世界(体系、システム、系など)は、もちろん正しいはずです。
ところが、そんな世界が、その世界の中では、正しことは(無矛盾である)判定することができないとわかったのです。それも、数学のある分野でのことでした。
ゲーデルという数学者は、ある数学体系では、どんなに論理的に積み上げられた世界であっても、その世界の中では、無矛盾ということが判定できないということを、数学的証明したのです。大変なことになりました。この証明は、「ゲーデルの不完全性定理」と呼ばれ、その数学の分野では、この証明の正しいことがわかっています。そして、その「不完全性定理」の世界は、いろいろなところで見つかるようになってきました。
昔から知られている例として、自己言及のパラドックスというものがあります。
「この文章は、ウソである」
というよなものです。相互言及というものもあります。
A氏「B氏の言うことは、正しい」
B氏「A氏の言うことは、ウソである」
さて、これらの文章は正しいでしょうか。短い文章ですから、その異常さに簡単に気づきます。このようなパラドックスを、より論理的に、より深く考えていったのが「ゲーデルの不完全性定理」です。つまり、論理的に正しいものだけでできている世界でも、このようなパラドックスが含まれていることが証明されたのです。
このようなパラドックスが、複雑な論理体系の中に仕込まれていたら、複雑でなくても、巧みに論理の中に組み込まれていたら、見抜けないかもしれません。数学という非常に論理的な世界でも、なかなか見抜けなかったほどですから。
論理的に考えるということにも、限界があるということです。では、論理や証拠にだまされないようにするには、どうすればいいでしょうか。いまのところ、人類は、「完全」な論理の体系を手にしていません。数学の世界で不完全を見抜いたのも、やはり論理でした。ですから、論理と証拠を用いるという方法が、いちばんいいようです。この論理と証拠によって、論理体系のおかしさが判明しました。ですから、面倒かもしれませんが、「不完全」かもしれませんが、論理と証拠を用いるのが一番確実でしょう。そしてろの論理と証拠を扱うのは、人間です。それも不完全な人間です。ですから、論理と証拠を頼りにして、騙されながらも、こりずに、心の柔軟性を失うことなくいることが大切なようです。やはり、最後はこころの持ちようでしょうか。
2003年6月1日日曜日
17 過去と記録(2003年6月1日)
地質学とは、過去の地質現象で、現在に残されているものだけから、解読することが重要な作業となっています。しかし、その過去と記録の関係を考えてみると、どうも一筋縄でいかないもののような気がしてきました。
現在とは、私たちとって、一度しか経験できないことです。過ぎ去った現在は、過去となります。過去は、2度とは繰り返されません。でも、幸いにも、私たちには、脳内に貯蔵された記憶というものによって、現在に過去を蘇らすことができます。
しかし、脳内の記憶だけでは、あまりにも儚いものなので、私たちにとって大切なこと、重要なことは、記録として残します。私たち自分自身の最初の記録は、母がつけてくれた母子手帳の記録でしょうか。最近では、超音波エコーによる胎児の映像も残されています。この世に生を受ける前の自分の姿すら記録に残すことが可能なのです。これが私たち自身のはじまりです。
母子手帳に医者や母が書いた文字から、超音波エコーの記録まで、自分の過去についての記録が残されるようになってきました。技術の進歩によって、親の記憶だけでなく、文字という記録になり、文字から画像となりました。なにも母子手帳だけの話だけでなく、私たちの記録は、写真という画像、8mm、ビデオ、最近ではデジタルビデオでしょうか、動画として、市民でも、よりリアルな記録を残す時代となりました。
しかし、このような過去の記録でも、2人目、3人目の子供ともなると、記録の量はぐっと減っていきます。そして、結局は、入学式、卒業式、運動会、誕生会などの何らかの行事、事件、出来事があるときの記録となっています。考えてみると自分の記憶も、日常的のものより、非日常的な行事、事件、出来事がたくさん残っています。つまり、記録するという行為自体も、非日常的なことを主となっていきます。
さて、こんな話からはじめましたが、記録から読み取る過去について考えて見ました。自分の生まれるより以前の出来事、つまり歴史、あるいは、文字ができる以前の歴史、ヒトとしての歴史、生命の歴史、自然界の歴史などを読み取るということは、はたして、どの程度、本当の過去をみているのでしょうか。そんなことをふと考えました。
日本の歴史、、文明の歴史、人類の歴史、生命の歴史、地球の歴史、なんでもいいです。過去の記録しか残っていない時代を、その記録からたどるとき、過去の実体は、ほんの断片しか残されていません。
その過去の断片も、記録に残ったものは、幸運であったものか、特別なもの、あるい特異なものであったはずです。いずれにしても、過去がそのまま残ることはありえないのですから、過去とは、「記録」という特殊なフィルターを通してしか見れないのです。
また、その「記録」が読み取りにくいものであったら、どうでしょう。記録が、古文書、あるいは古代文字、土器のカケラ、骨の破片、地層の中の異変、岩石の中の小さな鉱物に、記録されているものだとしたら、だれでもが読み取れるものでは、ないはずです。特別な訓練を受けた、いわゆる専門家という人たちが、その記録の一部を「解読」できるに過ぎません。
その「解読」は、完全なものとは限りません。一部しか読み取れなくても、そこから論理、推定、類推、推理、想像、でたらめ、思い込み、などによって、専門家は、ある「解釈」をします。彼らの「解読結果」、つまりあるひとつの「解釈」は、彼らの得意とする方法によって表現されます。
そして、その「解読結果」が専門的であるなら、わかりやすく解説できる人によって、さらに「解説」されます。それは、教科書だったり、参考書だったり、普及書だったり、新聞だったり、テレビだったり、雑誌だったりします。そして、目に触れやすい、読みやすいメディアとなったものが、多くの人にとって、過去の記録となっていきます。
過去は、多くのフィルターのもとに、現在の私たちの知るところとなるのです。もし、上で述べたどこかのフィルターに個性や特異性があると、過去の事実、真実よりも、そのフィルター自身を過去として、誤って読み取っていることもあるかもしれません。いや、もしかすると、大部分の過去は、そうかもしれません。自分自身の記憶だって、嫌なことは嫌なまま覚えるのではなく、いちばん気持ちが楽になるように記憶しているはずです。つまり、自分自身の記憶さえ、無意識のうちに改竄されているのです。同じ経験をしたもの同士が同じ記憶をもっているかというと、話してみると、結構違っているものです。
自分の記憶ですら、そうですから、他人や時間、偶然というフィルターを通った記録が、過去の真実を伝えているとは、到底思えません。私たちの知ることのできる過去とは、このようなフィルターの集積、つまり本当の過去ではなく、虚構としての過去なのかもしれません。私たちは、過去を読んでいるつもりが、実は、フィルターを読んでいるにすぎないのかもしれません。
ということは、過去を知ることとは、自分自身で、過去の記録を、意のままに、自分にいいように読み取ることが、いちばんの醍醐味かもしれません。こんなことをしても、過去は私たちに何も文句をいうわけではありません。せいぜいフィルターがクレームをつけるだけでしょう。
現在とは、私たちとって、一度しか経験できないことです。過ぎ去った現在は、過去となります。過去は、2度とは繰り返されません。でも、幸いにも、私たちには、脳内に貯蔵された記憶というものによって、現在に過去を蘇らすことができます。
しかし、脳内の記憶だけでは、あまりにも儚いものなので、私たちにとって大切なこと、重要なことは、記録として残します。私たち自分自身の最初の記録は、母がつけてくれた母子手帳の記録でしょうか。最近では、超音波エコーによる胎児の映像も残されています。この世に生を受ける前の自分の姿すら記録に残すことが可能なのです。これが私たち自身のはじまりです。
母子手帳に医者や母が書いた文字から、超音波エコーの記録まで、自分の過去についての記録が残されるようになってきました。技術の進歩によって、親の記憶だけでなく、文字という記録になり、文字から画像となりました。なにも母子手帳だけの話だけでなく、私たちの記録は、写真という画像、8mm、ビデオ、最近ではデジタルビデオでしょうか、動画として、市民でも、よりリアルな記録を残す時代となりました。
しかし、このような過去の記録でも、2人目、3人目の子供ともなると、記録の量はぐっと減っていきます。そして、結局は、入学式、卒業式、運動会、誕生会などの何らかの行事、事件、出来事があるときの記録となっています。考えてみると自分の記憶も、日常的のものより、非日常的な行事、事件、出来事がたくさん残っています。つまり、記録するという行為自体も、非日常的なことを主となっていきます。
さて、こんな話からはじめましたが、記録から読み取る過去について考えて見ました。自分の生まれるより以前の出来事、つまり歴史、あるいは、文字ができる以前の歴史、ヒトとしての歴史、生命の歴史、自然界の歴史などを読み取るということは、はたして、どの程度、本当の過去をみているのでしょうか。そんなことをふと考えました。
日本の歴史、、文明の歴史、人類の歴史、生命の歴史、地球の歴史、なんでもいいです。過去の記録しか残っていない時代を、その記録からたどるとき、過去の実体は、ほんの断片しか残されていません。
その過去の断片も、記録に残ったものは、幸運であったものか、特別なもの、あるい特異なものであったはずです。いずれにしても、過去がそのまま残ることはありえないのですから、過去とは、「記録」という特殊なフィルターを通してしか見れないのです。
また、その「記録」が読み取りにくいものであったら、どうでしょう。記録が、古文書、あるいは古代文字、土器のカケラ、骨の破片、地層の中の異変、岩石の中の小さな鉱物に、記録されているものだとしたら、だれでもが読み取れるものでは、ないはずです。特別な訓練を受けた、いわゆる専門家という人たちが、その記録の一部を「解読」できるに過ぎません。
その「解読」は、完全なものとは限りません。一部しか読み取れなくても、そこから論理、推定、類推、推理、想像、でたらめ、思い込み、などによって、専門家は、ある「解釈」をします。彼らの「解読結果」、つまりあるひとつの「解釈」は、彼らの得意とする方法によって表現されます。
そして、その「解読結果」が専門的であるなら、わかりやすく解説できる人によって、さらに「解説」されます。それは、教科書だったり、参考書だったり、普及書だったり、新聞だったり、テレビだったり、雑誌だったりします。そして、目に触れやすい、読みやすいメディアとなったものが、多くの人にとって、過去の記録となっていきます。
過去は、多くのフィルターのもとに、現在の私たちの知るところとなるのです。もし、上で述べたどこかのフィルターに個性や特異性があると、過去の事実、真実よりも、そのフィルター自身を過去として、誤って読み取っていることもあるかもしれません。いや、もしかすると、大部分の過去は、そうかもしれません。自分自身の記憶だって、嫌なことは嫌なまま覚えるのではなく、いちばん気持ちが楽になるように記憶しているはずです。つまり、自分自身の記憶さえ、無意識のうちに改竄されているのです。同じ経験をしたもの同士が同じ記憶をもっているかというと、話してみると、結構違っているものです。
自分の記憶ですら、そうですから、他人や時間、偶然というフィルターを通った記録が、過去の真実を伝えているとは、到底思えません。私たちの知ることのできる過去とは、このようなフィルターの集積、つまり本当の過去ではなく、虚構としての過去なのかもしれません。私たちは、過去を読んでいるつもりが、実は、フィルターを読んでいるにすぎないのかもしれません。
ということは、過去を知ることとは、自分自身で、過去の記録を、意のままに、自分にいいように読み取ることが、いちばんの醍醐味かもしれません。こんなことをしても、過去は私たちに何も文句をいうわけではありません。せいぜいフィルターがクレームをつけるだけでしょう。
2003年5月1日木曜日
16 「本当のこと」と「信じること」(2003年5月1日)
まず、最初におことわりします。ここでは、「本当のこと」などというものなど、あるのかという議論はしません。「本当のこと」あるいは「本当のこと」に類するものがあるかもしれないという仮定をおきます。その前提のもとで、それを求める方法として、どれがいちばんいいものか、考えていきます。
ある「本当のこと」があったしましょう。でも、その「本当のこと」を、すべての人が、信じるとは限りません。何を信じ、何を信じないかは、人がそれぞれ個別に判断していくものだからです。ある人が信じるものがあったとき、その信じるものは、ある人にとって「本当のこと」といえるものになるはずです。
たとえば、ここに石ころがあるとしましょう。その石ころの中には、化石があります。その化石は、恐竜の歯の一部で、ティラノザウルスのものと同定されています。ティラノザウルスとは、ご存知のように、白亜紀後期に生存していたの肉食の恐竜のことです。
ここまでが、ある専門家が太鼓判を押している「本当のこと」だとしましょう。でも、これを信じるかどうか、また別の問題です。すこし詳しく見ていきましょう。
まず、石ころがあるところまでは、誰もが直接確認できることですから、真理としましょう。さらに、石ころの中に、人のものではないが歯のようなものがあるところまでは、これも、確認できるから真理としましょう。
でも、石ころの中の化石についていは、それが化石というものかどうかは、別の判断が必要です。例えば、化石というものの概念を知っていたとしても、その概念が、この石の中にある異質なもの場合に適用できるかどうかが問題です。
この場合は、化石と判断できたとしましょう。化石と判断できたとしても、これが、歯であるかどうかは別問題です。専門家でも、意見違ってくることだってありえます。いや専門家になればなるほど、いろいろん例外があることを知っています。ですから、この化石に関しては、素人や専門家の区別なく、異論が生じえます。つまり、ある専門家は、一見歯に似ているけれど、違う生物の化石の一部、例えば魚の骨の一部としましょう、であると判断したとしましょう。
最初のティラノザウルスと判断した専門家が信じていることと、別の専門家が信じていることは違っています。つまり、考えが積み重なっていくにつれて、「本当のこと」というものが不確かになっていきます。
疑う気になれば、この化石の入った石だって、どこから取ってきたものか不明だし、誰かが作った贋物かもしれません。ですから、「本当のこと」などというものは、最終的には、それを「本当のこと」だと思うかどうかに、収斂できるのかもしれません。
最初に「本当のこと」があるという前提を設けました。しかし、その前提をここでは撤回しなければなりません。「本当のこと」などというものは、不確かで、最終的には、ある人が「本当のこと」と思うかどうかにかかっているのです。
さらに「本当のこと」とについて考えを進めましょう。「本当のこと」とは、主観的にみるか、客観的にみるかか、よって、おおきくわかれていきます。
主観的に「本当のこと」とは、「自分」が「本当と信じること」です。一方、客観的に「本当のこと」とは、「多くの人」が「本当と信じること」です。
主観的に「本当のこと」とは、ウソであろうが、本当であろうが、自分が「本当のこと」と「信じること」です。その内容の評価は、自分の評価だけで、ほかの人がなんと評価しようと、関係ないわけです。
例えば先ほどの化石の例でいえば、その化石がほとんどの専門家はティラノザウルスの歯の一部だと判断しました。でも、そうではなくじゃないという一人の専門家にとっては、自分の判断の方が「本当のこと」と信じているのです。
本当の「本当のこと」は、どちらか、あるいは、別の生物の化石かも、あるいは誰かがいたずらで作った偽者かもしません。でも、それを知りえない人にとっては、本当の「本当のこと」は藪の中です。
主観的に「本当のこと」とは、これ以上、議論は進めません。議論できなのというのは、否定するのではなく、それを認めているからです。個人の思想、信条の自由にあたります。そして、他者の主観的「本当のこと」を認めるということは、自分の主観的「本当のこと」を認めてもらうことにつながります。
どんなに客観的と判断しても、最終的に自分が信じなければなりません。「信じる」ということは、最終的は主観的なものです。客観的に本当でなくても、客観的にウソでもいいわけです。本当だと思い込み、疑わなければ、それは「本当のこと」になるのです。つまり、客観的に「本当のこと」も、主観的に「信じること」にできないと、「本当のこと」とはならないのです。
ちょっと、言葉上のいいまわしがむつしくなっていますが、個人の主観的「本当のこと」を認めるという前提がないと、客観的な「信じること」も存在できないと考えられるからです。
では、客観的「本当のこと」とは、どのようにして評価すればいいのでしょうか。その方法として、
・証拠があるかどうか
・論理的に正しいかどうか
という調べ方があります。
「証拠があるかどうか」とは、客観的「本当のこと」が、「事実」で裏づけされていることです。多くの人が認めるような「事実」という証拠をもっているかどうかです。
ところが、「事実」とは、言い換えると「本当のこと」という意味です。でも、ここでは客観的「本当のこと」を考えているので、この「事実」とは、同義反復になってしまいます。つまり、あいまいになってしまいます。ですから、ここでは、「事実」とは、実験、実物、現象など、なんでもいいですから、他人が客観的に判断できるための証拠を提示することとしましょう。
実験による証拠とは、第3者が追試(同じ実験を、別の人が、別のところで試してみること)をしても、同じデータや結果が出てくるものでないといけません。つまり、再現性があるものでなければいけないということです。
実物による証拠とは、他人がその実物を手にでき、追試や分析できることです。1個しかない実物で、第3者が追試や分析できないのなら、客観的に評価するための写真、スケッチ、測定値などの定量的データを示すことで代用することもあります。
現象による証拠とは、何度も起きることなら、第3者が追試や分析可能な再現性があるものでなければなりません。一度しか起きなかった現象や、めったに起きない現象ならなら、1個しかない実物と同じように、客観的に評価するための写真、スケッチ、測定値などの定量的データを示すことが必要です。
客観的「本当のこと」は、証拠の提示をすることで確かめられます。証拠とは、再現性のあるものか、定量的データなどによって、第3者が同じデータを得て、第3者独自の判断できるようにすることです。そして、どの第3者からも、同じ結果がでてくれば、それは、客観的「本当のこと」となります。つまり、客観的真理といえます。
もう一つの「本当のこと」を調べる方法は、「論論理的に正しいかどうか」です。あることやある考えが、論理という形式を満たせば、それは、「本当のこと」としていい、ということです。論理的であるかどうか、論理性をもつかどうか、という点だけを重視して、評価するのです。そして、多くの人が、論理的であると認めたら、それは、「本当のこと」となります。
以上、まとめますと、客観的に「本当のこと」とは、「証拠の提示」と、「論理性」によって、見分けることができるのです。
もし、すべての人が、「自分自身の信じること」をもち、それぞれが違っていたり、統一がとれてなかったり、ウソや、デタラメだったりすると、社会は成り立ちにくく、あるいは成り立たなくなります。社会的なレベルでは、ある共通する統一的な「信じること」が必要です。
それは、常識、世間の目、法律、憲法などの、理性に訴えかけるような何かによって、トンでもないことを「信じない」ための、ハドメとして働いているのです。
ところが、法律によって治められている社会で、「本当のこと」とされていることでも、別の時代、別の民族、別の国、別の社会では、「本当でない」「正しくない」、「間違っている」、「違反している」ということだってありうるのです。
昔の日本では、今ではいけないようなことが正しいこと、今はよいことが悪いこととされていたときが、ありました。
たとえば、生まれながらに身分の違いがあったり、侍は人を殺してもゆるされたり、戦争は正しいとしていたり、動物は食べてはいけない時代があり、犬が人間より大切にしなければならない、など、今とは違ったことをしていました。でも、その時代では、それは社会的に信じるべき「本当のこと」だったのです。
社会的レベルの「本当のこと」は、どんな時代、どんな社会、どんな国、どんな民族にも通じる「本当のこと」とはかぎらないのです。
もっと、普遍性をもった「本当のこと」があるはずです。普遍性とは、時代、社会、国、民族の違いも越えた、つまり、どんな時代、どんな社会、どんな国、どんな民族にも共通するのでなければなりません。普遍性とは、その時点で、一番「本当のこと」らしいことといえるものです。
上で述べたように、「本当のこと」は、「証拠の提示」と、「論理性」によって、見分けることができることができます。ただし、それは、形式をみたしているだけの確かさであって、本当に「本当のこと」かどうかは、検証できません。それに本当の「本当のこと」があったとしても、長い時間を経て、歴史のなかで、多くの人が検証して、裏づけできなければなりません。本当の「本当のこと」の追求には、長い知的検証の期間が必要です。
いろいろなレベルの「本当のこと」を考えてきました。ここでは、個人のレベルのほうが、劣っているように感じられたかもしれませんが、それは、違います。
一人ひとりにとっては、いうまでもなく個人の「本当のこと」が、一番大切なものです。そして、普遍的「本当のこと」においても、個人の「本当のこと」が存在するから成立するのです。
個人のレベルでは、何を信じても、何を信じなくても、それは、自由だということです。また、他人がなにをいおうと、自分の信じることを押しとおすこと、あるいは守ること、それが、個人のレベルでは重要です。社会的にもそれを守ることが大切です。なぜなら、それが、個人の自由を守ることにつながるからです。
自分の「本当のこと」が、一番大切な「信じるべきこと」なのです。それは、人生において見つけるべき目標でもあり、もし見つけたとしたら、自分で一番は大切なこととして、なにをさしおいても優先すべきでこととなりうるのです。
もし、個人レベルで、「何を信じればいいのか」という疑問が生まれたとき、ここで「本当のこと」追究につかった手法は役に立ちます。
「本当のこと」に近づく有用なやり方は、上で述べたように、
・証拠があるのかどうか
・論理的であるかどうか
を充分、吟味することです。そうすれば、その時点で、個人のレベルにおいても、重要な意思決定の方法になるに違いありません。あとは、もはやそれは個人のレベルとなった自分の判断を「信じて」、その道を進むのみではないでしょうか。
ある「本当のこと」があったしましょう。でも、その「本当のこと」を、すべての人が、信じるとは限りません。何を信じ、何を信じないかは、人がそれぞれ個別に判断していくものだからです。ある人が信じるものがあったとき、その信じるものは、ある人にとって「本当のこと」といえるものになるはずです。
たとえば、ここに石ころがあるとしましょう。その石ころの中には、化石があります。その化石は、恐竜の歯の一部で、ティラノザウルスのものと同定されています。ティラノザウルスとは、ご存知のように、白亜紀後期に生存していたの肉食の恐竜のことです。
ここまでが、ある専門家が太鼓判を押している「本当のこと」だとしましょう。でも、これを信じるかどうか、また別の問題です。すこし詳しく見ていきましょう。
まず、石ころがあるところまでは、誰もが直接確認できることですから、真理としましょう。さらに、石ころの中に、人のものではないが歯のようなものがあるところまでは、これも、確認できるから真理としましょう。
でも、石ころの中の化石についていは、それが化石というものかどうかは、別の判断が必要です。例えば、化石というものの概念を知っていたとしても、その概念が、この石の中にある異質なもの場合に適用できるかどうかが問題です。
この場合は、化石と判断できたとしましょう。化石と判断できたとしても、これが、歯であるかどうかは別問題です。専門家でも、意見違ってくることだってありえます。いや専門家になればなるほど、いろいろん例外があることを知っています。ですから、この化石に関しては、素人や専門家の区別なく、異論が生じえます。つまり、ある専門家は、一見歯に似ているけれど、違う生物の化石の一部、例えば魚の骨の一部としましょう、であると判断したとしましょう。
最初のティラノザウルスと判断した専門家が信じていることと、別の専門家が信じていることは違っています。つまり、考えが積み重なっていくにつれて、「本当のこと」というものが不確かになっていきます。
疑う気になれば、この化石の入った石だって、どこから取ってきたものか不明だし、誰かが作った贋物かもしれません。ですから、「本当のこと」などというものは、最終的には、それを「本当のこと」だと思うかどうかに、収斂できるのかもしれません。
最初に「本当のこと」があるという前提を設けました。しかし、その前提をここでは撤回しなければなりません。「本当のこと」などというものは、不確かで、最終的には、ある人が「本当のこと」と思うかどうかにかかっているのです。
さらに「本当のこと」とについて考えを進めましょう。「本当のこと」とは、主観的にみるか、客観的にみるかか、よって、おおきくわかれていきます。
主観的に「本当のこと」とは、「自分」が「本当と信じること」です。一方、客観的に「本当のこと」とは、「多くの人」が「本当と信じること」です。
主観的に「本当のこと」とは、ウソであろうが、本当であろうが、自分が「本当のこと」と「信じること」です。その内容の評価は、自分の評価だけで、ほかの人がなんと評価しようと、関係ないわけです。
例えば先ほどの化石の例でいえば、その化石がほとんどの専門家はティラノザウルスの歯の一部だと判断しました。でも、そうではなくじゃないという一人の専門家にとっては、自分の判断の方が「本当のこと」と信じているのです。
本当の「本当のこと」は、どちらか、あるいは、別の生物の化石かも、あるいは誰かがいたずらで作った偽者かもしません。でも、それを知りえない人にとっては、本当の「本当のこと」は藪の中です。
主観的に「本当のこと」とは、これ以上、議論は進めません。議論できなのというのは、否定するのではなく、それを認めているからです。個人の思想、信条の自由にあたります。そして、他者の主観的「本当のこと」を認めるということは、自分の主観的「本当のこと」を認めてもらうことにつながります。
どんなに客観的と判断しても、最終的に自分が信じなければなりません。「信じる」ということは、最終的は主観的なものです。客観的に本当でなくても、客観的にウソでもいいわけです。本当だと思い込み、疑わなければ、それは「本当のこと」になるのです。つまり、客観的に「本当のこと」も、主観的に「信じること」にできないと、「本当のこと」とはならないのです。
ちょっと、言葉上のいいまわしがむつしくなっていますが、個人の主観的「本当のこと」を認めるという前提がないと、客観的な「信じること」も存在できないと考えられるからです。
では、客観的「本当のこと」とは、どのようにして評価すればいいのでしょうか。その方法として、
・証拠があるかどうか
・論理的に正しいかどうか
という調べ方があります。
「証拠があるかどうか」とは、客観的「本当のこと」が、「事実」で裏づけされていることです。多くの人が認めるような「事実」という証拠をもっているかどうかです。
ところが、「事実」とは、言い換えると「本当のこと」という意味です。でも、ここでは客観的「本当のこと」を考えているので、この「事実」とは、同義反復になってしまいます。つまり、あいまいになってしまいます。ですから、ここでは、「事実」とは、実験、実物、現象など、なんでもいいですから、他人が客観的に判断できるための証拠を提示することとしましょう。
実験による証拠とは、第3者が追試(同じ実験を、別の人が、別のところで試してみること)をしても、同じデータや結果が出てくるものでないといけません。つまり、再現性があるものでなければいけないということです。
実物による証拠とは、他人がその実物を手にでき、追試や分析できることです。1個しかない実物で、第3者が追試や分析できないのなら、客観的に評価するための写真、スケッチ、測定値などの定量的データを示すことで代用することもあります。
現象による証拠とは、何度も起きることなら、第3者が追試や分析可能な再現性があるものでなければなりません。一度しか起きなかった現象や、めったに起きない現象ならなら、1個しかない実物と同じように、客観的に評価するための写真、スケッチ、測定値などの定量的データを示すことが必要です。
客観的「本当のこと」は、証拠の提示をすることで確かめられます。証拠とは、再現性のあるものか、定量的データなどによって、第3者が同じデータを得て、第3者独自の判断できるようにすることです。そして、どの第3者からも、同じ結果がでてくれば、それは、客観的「本当のこと」となります。つまり、客観的真理といえます。
もう一つの「本当のこと」を調べる方法は、「論論理的に正しいかどうか」です。あることやある考えが、論理という形式を満たせば、それは、「本当のこと」としていい、ということです。論理的であるかどうか、論理性をもつかどうか、という点だけを重視して、評価するのです。そして、多くの人が、論理的であると認めたら、それは、「本当のこと」となります。
以上、まとめますと、客観的に「本当のこと」とは、「証拠の提示」と、「論理性」によって、見分けることができるのです。
もし、すべての人が、「自分自身の信じること」をもち、それぞれが違っていたり、統一がとれてなかったり、ウソや、デタラメだったりすると、社会は成り立ちにくく、あるいは成り立たなくなります。社会的なレベルでは、ある共通する統一的な「信じること」が必要です。
それは、常識、世間の目、法律、憲法などの、理性に訴えかけるような何かによって、トンでもないことを「信じない」ための、ハドメとして働いているのです。
ところが、法律によって治められている社会で、「本当のこと」とされていることでも、別の時代、別の民族、別の国、別の社会では、「本当でない」「正しくない」、「間違っている」、「違反している」ということだってありうるのです。
昔の日本では、今ではいけないようなことが正しいこと、今はよいことが悪いこととされていたときが、ありました。
たとえば、生まれながらに身分の違いがあったり、侍は人を殺してもゆるされたり、戦争は正しいとしていたり、動物は食べてはいけない時代があり、犬が人間より大切にしなければならない、など、今とは違ったことをしていました。でも、その時代では、それは社会的に信じるべき「本当のこと」だったのです。
社会的レベルの「本当のこと」は、どんな時代、どんな社会、どんな国、どんな民族にも通じる「本当のこと」とはかぎらないのです。
もっと、普遍性をもった「本当のこと」があるはずです。普遍性とは、時代、社会、国、民族の違いも越えた、つまり、どんな時代、どんな社会、どんな国、どんな民族にも共通するのでなければなりません。普遍性とは、その時点で、一番「本当のこと」らしいことといえるものです。
上で述べたように、「本当のこと」は、「証拠の提示」と、「論理性」によって、見分けることができることができます。ただし、それは、形式をみたしているだけの確かさであって、本当に「本当のこと」かどうかは、検証できません。それに本当の「本当のこと」があったとしても、長い時間を経て、歴史のなかで、多くの人が検証して、裏づけできなければなりません。本当の「本当のこと」の追求には、長い知的検証の期間が必要です。
いろいろなレベルの「本当のこと」を考えてきました。ここでは、個人のレベルのほうが、劣っているように感じられたかもしれませんが、それは、違います。
一人ひとりにとっては、いうまでもなく個人の「本当のこと」が、一番大切なものです。そして、普遍的「本当のこと」においても、個人の「本当のこと」が存在するから成立するのです。
個人のレベルでは、何を信じても、何を信じなくても、それは、自由だということです。また、他人がなにをいおうと、自分の信じることを押しとおすこと、あるいは守ること、それが、個人のレベルでは重要です。社会的にもそれを守ることが大切です。なぜなら、それが、個人の自由を守ることにつながるからです。
自分の「本当のこと」が、一番大切な「信じるべきこと」なのです。それは、人生において見つけるべき目標でもあり、もし見つけたとしたら、自分で一番は大切なこととして、なにをさしおいても優先すべきでこととなりうるのです。
もし、個人レベルで、「何を信じればいいのか」という疑問が生まれたとき、ここで「本当のこと」追究につかった手法は役に立ちます。
「本当のこと」に近づく有用なやり方は、上で述べたように、
・証拠があるのかどうか
・論理的であるかどうか
を充分、吟味することです。そうすれば、その時点で、個人のレベルにおいても、重要な意思決定の方法になるに違いありません。あとは、もはやそれは個人のレベルとなった自分の判断を「信じて」、その道を進むのみではないでしょうか。
2003年4月1日火曜日
15 無限の宇宙(2003年04月01日)
私たちは、いろいろなことを考えます。そして、いろいろと考えていく時、不思議なことがおこることがあります。たとえば、「考えること」自体について、考えるような場合です。このような考え方は、メタ(meta-)という前置詞をつけて表現されています。ここでは、宇宙とメタ宇宙について考えてみます。
宇宙について考えていく時、宇宙の定義をすべきです。でも、じつは宇宙の定義にはさまざまなものがあるはずです。天文学的な定義は、一つの見方にすぎません。人それぞれに宇宙の定義があっていいわけです。
科学は、定義が曖昧だと誤解を招きやすいので、定義を厳密にしていきます。ところが、宇宙などという科学では最も基本的な術語に関しては、案外、曖昧な定義しかなされていません。
例えば、天文学辞典では、「宇宙」とは、「すべての天体を含む全空間」となっています。理化学事典では、「存在する限りの全空間、全時間およびそこに含まれている物質、エネルギーをいう」とあります。漠然としています。
それならいっそ、広辞苑の定義のように、「世間または天地の間。万物を包容する空間」や「森羅万象」という定義のほうがしっくり来るような気がします。宇宙の定義も、こうなると好みに問題ともいえます。
さて、宇宙の定義について考えたのですが、宇宙の定義は、頭の中で、言葉を使ってなされています。宇宙をどんなに厳密に、科学的、論理的におこなうにしても、この頭と言語という前提から逃れることができません。宇宙を定義するには、頭という場、言語という道具が不可欠となります。いってみれば宇宙とは、頭と言語の中にあるともいえるわけです。
この考えは、ひとつの真理を示していると思います。それは、自分で知ることや感じることができてはじめて、その存在を認知することができます。そして、その宇宙を認知したことを他者に伝えるためには言語に変換する必要があります。あるいは、自分の頭の中で考える時に言語を利用しているはずです。言語も頭の中にあるわけです。つまり、宇宙とは、頭、つまりは脳の中にあると定義できるのではないでしょうか。ですから、脳の数だけ、定義が存在していいわけです。
もし、脳がなければ、知ることも感じることもできず、存在しているかどうかすら、わからないのです。そして、いったん、脳の中に記憶として固定されると、もともとの存在や現象が、あろうが、なかろうが、脳のなかで記憶された宇宙は存在し続けていくのです。
さて、ここからメタ宇宙にいきましょう。不思議で悩ましいメタ宇宙をひとつ紹介しましょう。無限の宇宙が誕生します。
脳の中の宇宙は、現実の宇宙より「拡大された宇宙」をもつくることだってできます。それは、想像力と呼ばれるものによってなされます。そうなると、現実の宇宙からは、かけ離れた、もっと大きな宇宙が出来上がってしまいます。それも脳が認知してしまいえば、脳の中では存在し得る宇宙となります。
そんな想像上の宇宙を、新たに頭の中には、作り上げることができます。
以下文章を注意深くお読みください。
脳の中の宇宙は、脳の数、つまり人の数だけあるはずです。現在、地球には60億以上の人がいます。ですから、現時点で60億個の別々の宇宙、プラス1個の「現実の宇宙」が存在します。「現実の宇宙」とは、天文学が研究対象としているものです。さらに加えるべき宇宙があります。400万年前に人類という種が生まれて現在にいたるまで、何人の人が存在したかわかりませんが、かつて存在した人の数だけ、宇宙があったことになります。なんと多くの宇宙があるのでしょうか。
もっともっと考えを広げていきましょう。今、人類だけを取り上げましたが、霊長類、つまりチンパンジーやゴリラ、オランウータンにも、それぞれ脳があり、記憶があるはずです。彼らすべてに、それぞれの宇宙があると考えられます。なぜなら、彼らも頭で感じ、知り、考え、そして記憶します。このような作用をする脳には、宇宙が宿ります。
脳は、なにも霊長類だけのものではありません。動物、植物、微生物まで、脳を想定することができます。脳という形態ではなく、感じ、知り、反応し、記憶するというような作用のするものを脳と定義すれば、それは生命活動をすることそのものと読み替えることもできます。そうすると、地球の生きとし生けるものすべてに、それぞれ宇宙があると考えていいはずです。
さらに、生命誕生から現在まで、地球上に存在したすべての細菌、微生物から私たちまで、いったいくつの生命がこの世に存在したのでしょか。その生命の数だけ宇宙があった、そしてあるのです。
あるいは、私たちが知り得ない宇宙のどこかに生命の宿る星があるとすると、そこに生息し、さらに生息していた生命の数だけ、宇宙の数がさらに加わります。数はわかりりませんが、多数ですが有限の個数の宇宙ができます。その数をUとしましょう。
そのような考えを進めていくと、「現実の宇宙」とは、ほんのちっぽけな一つの宇宙に過ぎないものといえます。
さてさて、つぎにもっとすごい数の宇宙に、はなしを展開していきましょう。今まで考えた非常に大くの宇宙は、実は私の頭の中の想像力によって作られたものです。つまり、私の頭の中という入れ物の中だけ存在する宇宙です。そして、これを読んでそうかもしれないという思った人がいれば、その人の頭の中にも同じ数だけ今宇宙が新たに形成されたことになります。そして、もし、全人類にこの考えがいきわたれば、宇宙の数は、掛ける人口の数となり、60億倍になり、つまりU×6×10^9個(10の9乗のことをこう書きましょう)となります。これをMUと書きましょう。
これは、一種の「入れ子状態」です。その入れ子状態を考えるたのは私ですから、いまいったすべての宇宙が私の頭の中に形成されたのです。「入れ子状態」の存在を意識したとき、宇宙が爆発的に形成されます。
その入れ子状態を繰り返し想像すると、宇宙形成の連鎖が起きます。その連鎖は、想像した「入れ子」の数が、指数となって増えていきます。このように頭の中の宇宙の数は、想像するといくらでも増えていきます。
MU^n
ここで、nは想像した入れ子の数
となります。そして、無数の入れ子を想像したとすると、宇宙の数は、まさに無限となります。
無限の宇宙が、頭の中には存在します。その無限の宇宙をも、たった一個しかない小さな頭が飲み込んでしまうのです。
最後にこの無限の宇宙を収斂させる方法を示しましょう。それは、どんな想像をしようが、「現実の脳」あるいは「現実の私」は、1個の「現実の宇宙」の中にいるということです。そして、私が死ねば、今考えたような無限の宇宙は、私とともに消えていくのです。
想像力の威力と、かたやむなしさを感じます。そして、「現実の宇宙」の確かさも同時に感じます。
これが、宇宙とメタ宇宙というものです。どうですか、宇宙が爆発しましたか。そして無限の宇宙が想像できましたか。
・想像力の威力・
このエッセイは、Uenさんのメールに端を発しています。Uenさんは、「私の宇宙は私の脳の中」とされました。「脳内の宇宙」は、自分の感情や気持ちによって収縮し、「自分でもどうなっているのか謎の部分が一杯」といわれました。それに私が答えたメールを大幅に修正・加筆してこのエッセイとしました。
メタ的宇宙、それは、入れ子状態の宇宙ともいえます。あるいは、ある体系をそれより外から眺めるということにもなります。そこには不思議な世界が展開されますが、こんな思索の世界を散策できるのも、私たちがもっている想像力の威力です。想像力はすばしいものです。
例えば、こんな例を出しましょう。
宇宙の直径は約300億光年です。宇宙を直径を1mの大きさであるとします。
と、いったとたんに、直径は20cmほどの頭の中に、宇宙が一瞬のうちに想像できます。300億光年の大きさのものを、一瞬にして、頭の中に描き、それを外から眺めているのです。
これが想像力の威力です。メタ的になるといことは、想像力が豊かになるということではないでしょうか。
宇宙について考えていく時、宇宙の定義をすべきです。でも、じつは宇宙の定義にはさまざまなものがあるはずです。天文学的な定義は、一つの見方にすぎません。人それぞれに宇宙の定義があっていいわけです。
科学は、定義が曖昧だと誤解を招きやすいので、定義を厳密にしていきます。ところが、宇宙などという科学では最も基本的な術語に関しては、案外、曖昧な定義しかなされていません。
例えば、天文学辞典では、「宇宙」とは、「すべての天体を含む全空間」となっています。理化学事典では、「存在する限りの全空間、全時間およびそこに含まれている物質、エネルギーをいう」とあります。漠然としています。
それならいっそ、広辞苑の定義のように、「世間または天地の間。万物を包容する空間」や「森羅万象」という定義のほうがしっくり来るような気がします。宇宙の定義も、こうなると好みに問題ともいえます。
さて、宇宙の定義について考えたのですが、宇宙の定義は、頭の中で、言葉を使ってなされています。宇宙をどんなに厳密に、科学的、論理的におこなうにしても、この頭と言語という前提から逃れることができません。宇宙を定義するには、頭という場、言語という道具が不可欠となります。いってみれば宇宙とは、頭と言語の中にあるともいえるわけです。
この考えは、ひとつの真理を示していると思います。それは、自分で知ることや感じることができてはじめて、その存在を認知することができます。そして、その宇宙を認知したことを他者に伝えるためには言語に変換する必要があります。あるいは、自分の頭の中で考える時に言語を利用しているはずです。言語も頭の中にあるわけです。つまり、宇宙とは、頭、つまりは脳の中にあると定義できるのではないでしょうか。ですから、脳の数だけ、定義が存在していいわけです。
もし、脳がなければ、知ることも感じることもできず、存在しているかどうかすら、わからないのです。そして、いったん、脳の中に記憶として固定されると、もともとの存在や現象が、あろうが、なかろうが、脳のなかで記憶された宇宙は存在し続けていくのです。
さて、ここからメタ宇宙にいきましょう。不思議で悩ましいメタ宇宙をひとつ紹介しましょう。無限の宇宙が誕生します。
脳の中の宇宙は、現実の宇宙より「拡大された宇宙」をもつくることだってできます。それは、想像力と呼ばれるものによってなされます。そうなると、現実の宇宙からは、かけ離れた、もっと大きな宇宙が出来上がってしまいます。それも脳が認知してしまいえば、脳の中では存在し得る宇宙となります。
そんな想像上の宇宙を、新たに頭の中には、作り上げることができます。
以下文章を注意深くお読みください。
脳の中の宇宙は、脳の数、つまり人の数だけあるはずです。現在、地球には60億以上の人がいます。ですから、現時点で60億個の別々の宇宙、プラス1個の「現実の宇宙」が存在します。「現実の宇宙」とは、天文学が研究対象としているものです。さらに加えるべき宇宙があります。400万年前に人類という種が生まれて現在にいたるまで、何人の人が存在したかわかりませんが、かつて存在した人の数だけ、宇宙があったことになります。なんと多くの宇宙があるのでしょうか。
もっともっと考えを広げていきましょう。今、人類だけを取り上げましたが、霊長類、つまりチンパンジーやゴリラ、オランウータンにも、それぞれ脳があり、記憶があるはずです。彼らすべてに、それぞれの宇宙があると考えられます。なぜなら、彼らも頭で感じ、知り、考え、そして記憶します。このような作用をする脳には、宇宙が宿ります。
脳は、なにも霊長類だけのものではありません。動物、植物、微生物まで、脳を想定することができます。脳という形態ではなく、感じ、知り、反応し、記憶するというような作用のするものを脳と定義すれば、それは生命活動をすることそのものと読み替えることもできます。そうすると、地球の生きとし生けるものすべてに、それぞれ宇宙があると考えていいはずです。
さらに、生命誕生から現在まで、地球上に存在したすべての細菌、微生物から私たちまで、いったいくつの生命がこの世に存在したのでしょか。その生命の数だけ宇宙があった、そしてあるのです。
あるいは、私たちが知り得ない宇宙のどこかに生命の宿る星があるとすると、そこに生息し、さらに生息していた生命の数だけ、宇宙の数がさらに加わります。数はわかりりませんが、多数ですが有限の個数の宇宙ができます。その数をUとしましょう。
そのような考えを進めていくと、「現実の宇宙」とは、ほんのちっぽけな一つの宇宙に過ぎないものといえます。
さてさて、つぎにもっとすごい数の宇宙に、はなしを展開していきましょう。今まで考えた非常に大くの宇宙は、実は私の頭の中の想像力によって作られたものです。つまり、私の頭の中という入れ物の中だけ存在する宇宙です。そして、これを読んでそうかもしれないという思った人がいれば、その人の頭の中にも同じ数だけ今宇宙が新たに形成されたことになります。そして、もし、全人類にこの考えがいきわたれば、宇宙の数は、掛ける人口の数となり、60億倍になり、つまりU×6×10^9個(10の9乗のことをこう書きましょう)となります。これをMUと書きましょう。
これは、一種の「入れ子状態」です。その入れ子状態を考えるたのは私ですから、いまいったすべての宇宙が私の頭の中に形成されたのです。「入れ子状態」の存在を意識したとき、宇宙が爆発的に形成されます。
その入れ子状態を繰り返し想像すると、宇宙形成の連鎖が起きます。その連鎖は、想像した「入れ子」の数が、指数となって増えていきます。このように頭の中の宇宙の数は、想像するといくらでも増えていきます。
MU^n
ここで、nは想像した入れ子の数
となります。そして、無数の入れ子を想像したとすると、宇宙の数は、まさに無限となります。
無限の宇宙が、頭の中には存在します。その無限の宇宙をも、たった一個しかない小さな頭が飲み込んでしまうのです。
最後にこの無限の宇宙を収斂させる方法を示しましょう。それは、どんな想像をしようが、「現実の脳」あるいは「現実の私」は、1個の「現実の宇宙」の中にいるということです。そして、私が死ねば、今考えたような無限の宇宙は、私とともに消えていくのです。
想像力の威力と、かたやむなしさを感じます。そして、「現実の宇宙」の確かさも同時に感じます。
これが、宇宙とメタ宇宙というものです。どうですか、宇宙が爆発しましたか。そして無限の宇宙が想像できましたか。
・想像力の威力・
このエッセイは、Uenさんのメールに端を発しています。Uenさんは、「私の宇宙は私の脳の中」とされました。「脳内の宇宙」は、自分の感情や気持ちによって収縮し、「自分でもどうなっているのか謎の部分が一杯」といわれました。それに私が答えたメールを大幅に修正・加筆してこのエッセイとしました。
メタ的宇宙、それは、入れ子状態の宇宙ともいえます。あるいは、ある体系をそれより外から眺めるということにもなります。そこには不思議な世界が展開されますが、こんな思索の世界を散策できるのも、私たちがもっている想像力の威力です。想像力はすばしいものです。
例えば、こんな例を出しましょう。
宇宙の直径は約300億光年です。宇宙を直径を1mの大きさであるとします。
と、いったとたんに、直径は20cmほどの頭の中に、宇宙が一瞬のうちに想像できます。300億光年の大きさのものを、一瞬にして、頭の中に描き、それを外から眺めているのです。
これが想像力の威力です。メタ的になるといことは、想像力が豊かになるということではないでしょうか。
2003年3月1日土曜日
14 常識と非常識(2003年03月01日)
今回は、常識と非常識について考えます。地質学の世界では、両者が混在していることがあります。地質学の分野でいうと、常識が「地層累重の法則」で、非常識が「付加体」となります。
突然、述語を出しましたが、現在、地質学の世界では、この常識と非常識が混在しています。そして、この混在のおかげで、研究者は、非常に慎重に自然をみるようになっているという話題です。
まず、常識についてです。ここでいう常識とは、地質学だけに通用するものでなく、日常生活においても、あるいは、感覚的に常識と思えるということです。
こんな人をよく見かけます。自分の机が、いつも書類の山となっている人です。書類の山には、そのうち読もうと思って買っておいた書籍、読みかけの週刊誌、通勤で読んできた新聞紙、ちょっと気になる郵便物などなど、積み重なっています。そして、山が崩れそうになったり、とうとう崩れたりすると、かたずけられます。捨てられないものは、保存すべき場所に収まります。そしてめでたく、机は本来の広さをとりもどします。しかし、なん日かたつと、また同じような山ができます。
書類の山をよくみてみると、古いもの(整理して最初に置いたもの)が下にあり、新しいもの(今日置いたもの)がいちばん上に乗っています。新聞は規則的に挟まっています。新聞には日付がありますので、整理した日付から、一日にどれほど書類がたまるかわかるほどです。
ここでいいたいのは、常に上にものが積み重なるようにして置かれるという環境では、古いものが下、新しいものが上、という規則性があるということです。わざわざ述べるまでもないほど、当たり前のことです。この規則は、非常に常識にかなったものです。ここでは、古いものが下、新しいものが上という規則性はすなおに納得できます。
地層でも同じことが起こっています。陸から河川によって運ばれた土砂が、海に流れ込むと、今まであった海底に、新しい土砂がたまり、ひとつの地層となります。その海底も、かつて、土砂が流れ込んでできた一つの地層です。地層とは、この繰り返しによってできます。つまり、より新しいものが、古いものの上に積み重なってできていきます。地質学ではこのような規則を、「地層累重の法則」と呼んでいます。「累重」の「累」も「重」も、次々とかさなるという意味です。
ある崖に地層が出ているとしましょう。そして、その地層は、垂直に立っています。まるで、本を立てて並べたように整然と地層がでているとします。この地層の上下を調べます。
まず、調べるべきことは、ひとつの地層の中で、地層がたまったときの重力の方向を知ることです。どういうことかといいますと、現在の上下ではなく、地層がたまったときの上下を知ることです。
こんな実験をするとよくわかります。ペットボトルに土砂と水を入れて、ふたをして、よく振ります。そして、静かにおいておくと、大きな石ころが、いちばん先に沈み、つぎに、粒の大きな砂から小さな砂がたまっていきます。最後に長い時間がたってから、粘土のような粒の小さなものがたまります。その粒の大きさは、下から上に向かって、大きいものから小さいものへと変化していきます。
これは、ペットボトルの中の話ですが、一つの地層でも、同じことがおこります。このような現象(級化層理(きゅうかそうり)とよびます)を利用すれば、ひとつの地層の中で、どちらが上か下か判定できます。ひとつの地層の上下は、もちろん、その上の地層にも、下の地層にも、重力の方向は適用可能です。つまり、ひとつの地層の上下がわかれば、連続する地層全体の上下関係がわかるわけです。
一つで不安ならば、いくつかの地層を検討して比べればいいのです。すべておなじ結果なら、めでたし、めでたしです。もし、結果がばらつくようなら、どちらかの上下判定が間違っています。実際には、簡単に上下判定もできない場合も多くあります。そんなときは、別の証拠を探します。
上下判定に利用できるものが、いくつかありますが、生物の生活跡などは有効です。当時住んでいた生物が這った跡は、当時の海底面にあたります。海底面とは、その当時の地層の一番表面にあたります。這い跡のある面が、地層の表面と判定できます。気をつけなければいけないのは、這い跡はくぼんでいるということです。あとから覆った地層は、出っ張っています。それを間違えないようにしなければなりません。
穴を掘って棲家とする生き物もいます。そんな生物の巣穴は、海底面から下に向かって掘られていきます。ですから、巣穴の跡があれば、上下判定ができます。
さて、いくつかの上下判定の方法を用いて、先ほどの崖にあった地層は、右側が下、左側が上とわかったとします。すると、この地層全体の上下判定もできたことになります。ここで例としてあげた調べたい崖の右側が下、左側が上だになるわけです。となると、右側の地層が古く、左側の地層が新しいものとなります。
ここで用いた原則が、「地層累重の法則」です。非常に常識にかなった法則です。しかし、この常識的な「地層累重の法則」が、すべての地層で、普遍的に使えるととは限らないことがわかってきました。
それはプレートテクトニクスという考え方の登場からです。プレートテクトニクスという考え方は、地球表面でに10数枚のプレートがあり、それが、移動しているという考えです。中央海嶺で海洋プレートは生成され、海溝で海洋プレートは沈み込みます。大陸プレートは、分裂や合体はしますが、沈み込むことはありません。
プレートテクトニクスで、海洋プレートが、大陸プレートの下に沈み込むところでは、海洋プレートの上にたまっていた地層が、プレートに伴ってもぐりこもうとします。しかし、堆積物は、軽いため、沈み込めず、プレートからはがされて、陸側のプレートにくっつきます。これを「付加」といいます。
プレートの沈み込みが続く限り、付加は続きます。前に付加した地層の下側に、つぎの地層がもぐりこんでは、付加していきます。つまり、古い地層の下に、新しい地層が入り込むのです。それが、長い間繰り返されて、大きな地質体となったものを、「付加体」と呼びます。
付加体で形成された地層は、堆積順序が「地層累重の法則」を守っていないのです。「地層累重の法則」を守っている地層と、守っていない地層は、見かけや構成が全く違っていることもあるのですが、ときには、砂岩から泥岩という、河川が運んで「地層累重の法則」にしたがってたまった地層と同じものものがあります。
それに、「地層累重の法則」を守らない付加体で、上の地層と下からくっついた地層との境界は、薄いかみそりの刀も入らないないほどぴったりくっついていることもあります。だれが見ても、そこには時代のギャップ、それも逆転した(古いものが上、新しいのが下)ものがあるなどとはわかりません。でも、付加体では、そのような常識はずれのこと、非常識なことがおこっているのです。
では、そんな見てもわからないようなものを、どうして見分けたのでしょうか。
それは、微化石とよばれる非常に小さな化石の研究と、詳細な地質調査(センチメートル、ミリメートルのオーダーの調査や資料採集をすること)によってわかってきました。
微化石は、顕微鏡や電子顕微鏡などで見なければ判別できないほど、小さな化石のことです。微化石の研究では、日本の研究者が大いに貢献しました。
微化石は、コノドント(ヤツメウナギに近い動物の食物を選別し、すりつぶす器官)や有孔虫や放散虫、珪藻などがあります。このような多種多様な微化石を用いて、一枚一枚の地層の詳細な年代決定をおこなって、どの地層の間に時代間隙があるのかを見極めてきました。非常に根気のいる研究です。
ですから、地層をみたとき、それが、「地層累重の法則」でたまったものなのか、それとも「付加体」でたまったものなのかを見分けなければなりません。地質学者は、常識と非常識を、いつも意識して、調査することが求められているのです。
・付加体・
付加体は、上で述べたものより、実は、もっと多様なものから構成されています。もともとの構成物の順番(層序(そうじょ)といいます)でみますと、下から、海洋地殻とその上にたまった遠洋性堆積物(固まるとチャートや頁岩になります)、そして一番上に海溝付近でたまる陸源の堆積物から構成されます。この陸源の堆積物が、「地層累重の法則」でたまるものと同じ種類なのです。
海溝の陸側は、沈み込むプレートと平行な多数の断層によって、ずたずたに切りきざまれて、プリズム状の断面をもったものとなっています(このような構造をデコルマンとよぶことがあります)。このような付加体の内部の断層は、逆断層の一種の衝上(しょうじょう)断層といます。
ですから、付加体とは、厳密に言えば、「地層累重の法則」をやぶっているのではないのです。「地層累重の法則」を守ってたまった地層が、プレートの沈み込み帯という特殊な環境で、もともとあった構造が、ある一定の法則に則って改変されたのです。
地質学者が地層を陸で見るときは、形成された環境を見ているのではありません。ですから、詳細ささ観察と、広域を把握する視点、つまり個々の地層を詳細に、かたや広域に周辺の地質を見るしかありません。そして、詳細で広域に及ぶ地質調査で、その地層ができた環境を割り出すことができるのです。
付加体で形成された地層だと判明したら、そこには、かつて沈み込み帯、海溝があったわけです。つまり、そこは、かつてのプレートの境界があったわけです。それが、海洋プレート同士の境界か、海洋プレートと大陸プレートの境界かだったはずです。それは、さらに広い視点で地質を眺めれば見極められるかもしれません。
地質学者は、地を這う調査をしながら、何億年、何十億年前の地球の姿を想像しながら、歩いているのです。
・自然の神秘・
常識的に考えることは、楽です。すでにある考え方をそのまま、別のもに適応するだけですから。
でも、非常識的に考えることは、最初は抵抗があります。地質学者もそうです。でも、非常識が知識として頭にはいり、野外でそんな現象を目の当たりにするとも、もはや、その非常識も、地質学者では、常識となってしまいます。
ぱっと見て目にみえる自然の姿があります。しかし、そのもう一つ奥に隠された神秘を垣間見ることができるのです。それは、自然を知る醍醐味でもあるわけです。
自然は、どんな神秘をもっていようとも、黙っています。見る側が、その神秘を見つける努力をしない限り、見ることはかないません。でも、自然は誰も分け隔てをしません。努力をした人には、誰にでも、その神秘を見せてくれます。
自然は、心が広いのです。
突然、述語を出しましたが、現在、地質学の世界では、この常識と非常識が混在しています。そして、この混在のおかげで、研究者は、非常に慎重に自然をみるようになっているという話題です。
まず、常識についてです。ここでいう常識とは、地質学だけに通用するものでなく、日常生活においても、あるいは、感覚的に常識と思えるということです。
こんな人をよく見かけます。自分の机が、いつも書類の山となっている人です。書類の山には、そのうち読もうと思って買っておいた書籍、読みかけの週刊誌、通勤で読んできた新聞紙、ちょっと気になる郵便物などなど、積み重なっています。そして、山が崩れそうになったり、とうとう崩れたりすると、かたずけられます。捨てられないものは、保存すべき場所に収まります。そしてめでたく、机は本来の広さをとりもどします。しかし、なん日かたつと、また同じような山ができます。
書類の山をよくみてみると、古いもの(整理して最初に置いたもの)が下にあり、新しいもの(今日置いたもの)がいちばん上に乗っています。新聞は規則的に挟まっています。新聞には日付がありますので、整理した日付から、一日にどれほど書類がたまるかわかるほどです。
ここでいいたいのは、常に上にものが積み重なるようにして置かれるという環境では、古いものが下、新しいものが上、という規則性があるということです。わざわざ述べるまでもないほど、当たり前のことです。この規則は、非常に常識にかなったものです。ここでは、古いものが下、新しいものが上という規則性はすなおに納得できます。
地層でも同じことが起こっています。陸から河川によって運ばれた土砂が、海に流れ込むと、今まであった海底に、新しい土砂がたまり、ひとつの地層となります。その海底も、かつて、土砂が流れ込んでできた一つの地層です。地層とは、この繰り返しによってできます。つまり、より新しいものが、古いものの上に積み重なってできていきます。地質学ではこのような規則を、「地層累重の法則」と呼んでいます。「累重」の「累」も「重」も、次々とかさなるという意味です。
ある崖に地層が出ているとしましょう。そして、その地層は、垂直に立っています。まるで、本を立てて並べたように整然と地層がでているとします。この地層の上下を調べます。
まず、調べるべきことは、ひとつの地層の中で、地層がたまったときの重力の方向を知ることです。どういうことかといいますと、現在の上下ではなく、地層がたまったときの上下を知ることです。
こんな実験をするとよくわかります。ペットボトルに土砂と水を入れて、ふたをして、よく振ります。そして、静かにおいておくと、大きな石ころが、いちばん先に沈み、つぎに、粒の大きな砂から小さな砂がたまっていきます。最後に長い時間がたってから、粘土のような粒の小さなものがたまります。その粒の大きさは、下から上に向かって、大きいものから小さいものへと変化していきます。
これは、ペットボトルの中の話ですが、一つの地層でも、同じことがおこります。このような現象(級化層理(きゅうかそうり)とよびます)を利用すれば、ひとつの地層の中で、どちらが上か下か判定できます。ひとつの地層の上下は、もちろん、その上の地層にも、下の地層にも、重力の方向は適用可能です。つまり、ひとつの地層の上下がわかれば、連続する地層全体の上下関係がわかるわけです。
一つで不安ならば、いくつかの地層を検討して比べればいいのです。すべておなじ結果なら、めでたし、めでたしです。もし、結果がばらつくようなら、どちらかの上下判定が間違っています。実際には、簡単に上下判定もできない場合も多くあります。そんなときは、別の証拠を探します。
上下判定に利用できるものが、いくつかありますが、生物の生活跡などは有効です。当時住んでいた生物が這った跡は、当時の海底面にあたります。海底面とは、その当時の地層の一番表面にあたります。這い跡のある面が、地層の表面と判定できます。気をつけなければいけないのは、這い跡はくぼんでいるということです。あとから覆った地層は、出っ張っています。それを間違えないようにしなければなりません。
穴を掘って棲家とする生き物もいます。そんな生物の巣穴は、海底面から下に向かって掘られていきます。ですから、巣穴の跡があれば、上下判定ができます。
さて、いくつかの上下判定の方法を用いて、先ほどの崖にあった地層は、右側が下、左側が上とわかったとします。すると、この地層全体の上下判定もできたことになります。ここで例としてあげた調べたい崖の右側が下、左側が上だになるわけです。となると、右側の地層が古く、左側の地層が新しいものとなります。
ここで用いた原則が、「地層累重の法則」です。非常に常識にかなった法則です。しかし、この常識的な「地層累重の法則」が、すべての地層で、普遍的に使えるととは限らないことがわかってきました。
それはプレートテクトニクスという考え方の登場からです。プレートテクトニクスという考え方は、地球表面でに10数枚のプレートがあり、それが、移動しているという考えです。中央海嶺で海洋プレートは生成され、海溝で海洋プレートは沈み込みます。大陸プレートは、分裂や合体はしますが、沈み込むことはありません。
プレートテクトニクスで、海洋プレートが、大陸プレートの下に沈み込むところでは、海洋プレートの上にたまっていた地層が、プレートに伴ってもぐりこもうとします。しかし、堆積物は、軽いため、沈み込めず、プレートからはがされて、陸側のプレートにくっつきます。これを「付加」といいます。
プレートの沈み込みが続く限り、付加は続きます。前に付加した地層の下側に、つぎの地層がもぐりこんでは、付加していきます。つまり、古い地層の下に、新しい地層が入り込むのです。それが、長い間繰り返されて、大きな地質体となったものを、「付加体」と呼びます。
付加体で形成された地層は、堆積順序が「地層累重の法則」を守っていないのです。「地層累重の法則」を守っている地層と、守っていない地層は、見かけや構成が全く違っていることもあるのですが、ときには、砂岩から泥岩という、河川が運んで「地層累重の法則」にしたがってたまった地層と同じものものがあります。
それに、「地層累重の法則」を守らない付加体で、上の地層と下からくっついた地層との境界は、薄いかみそりの刀も入らないないほどぴったりくっついていることもあります。だれが見ても、そこには時代のギャップ、それも逆転した(古いものが上、新しいのが下)ものがあるなどとはわかりません。でも、付加体では、そのような常識はずれのこと、非常識なことがおこっているのです。
では、そんな見てもわからないようなものを、どうして見分けたのでしょうか。
それは、微化石とよばれる非常に小さな化石の研究と、詳細な地質調査(センチメートル、ミリメートルのオーダーの調査や資料採集をすること)によってわかってきました。
微化石は、顕微鏡や電子顕微鏡などで見なければ判別できないほど、小さな化石のことです。微化石の研究では、日本の研究者が大いに貢献しました。
微化石は、コノドント(ヤツメウナギに近い動物の食物を選別し、すりつぶす器官)や有孔虫や放散虫、珪藻などがあります。このような多種多様な微化石を用いて、一枚一枚の地層の詳細な年代決定をおこなって、どの地層の間に時代間隙があるのかを見極めてきました。非常に根気のいる研究です。
ですから、地層をみたとき、それが、「地層累重の法則」でたまったものなのか、それとも「付加体」でたまったものなのかを見分けなければなりません。地質学者は、常識と非常識を、いつも意識して、調査することが求められているのです。
・付加体・
付加体は、上で述べたものより、実は、もっと多様なものから構成されています。もともとの構成物の順番(層序(そうじょ)といいます)でみますと、下から、海洋地殻とその上にたまった遠洋性堆積物(固まるとチャートや頁岩になります)、そして一番上に海溝付近でたまる陸源の堆積物から構成されます。この陸源の堆積物が、「地層累重の法則」でたまるものと同じ種類なのです。
海溝の陸側は、沈み込むプレートと平行な多数の断層によって、ずたずたに切りきざまれて、プリズム状の断面をもったものとなっています(このような構造をデコルマンとよぶことがあります)。このような付加体の内部の断層は、逆断層の一種の衝上(しょうじょう)断層といます。
ですから、付加体とは、厳密に言えば、「地層累重の法則」をやぶっているのではないのです。「地層累重の法則」を守ってたまった地層が、プレートの沈み込み帯という特殊な環境で、もともとあった構造が、ある一定の法則に則って改変されたのです。
地質学者が地層を陸で見るときは、形成された環境を見ているのではありません。ですから、詳細ささ観察と、広域を把握する視点、つまり個々の地層を詳細に、かたや広域に周辺の地質を見るしかありません。そして、詳細で広域に及ぶ地質調査で、その地層ができた環境を割り出すことができるのです。
付加体で形成された地層だと判明したら、そこには、かつて沈み込み帯、海溝があったわけです。つまり、そこは、かつてのプレートの境界があったわけです。それが、海洋プレート同士の境界か、海洋プレートと大陸プレートの境界かだったはずです。それは、さらに広い視点で地質を眺めれば見極められるかもしれません。
地質学者は、地を這う調査をしながら、何億年、何十億年前の地球の姿を想像しながら、歩いているのです。
・自然の神秘・
常識的に考えることは、楽です。すでにある考え方をそのまま、別のもに適応するだけですから。
でも、非常識的に考えることは、最初は抵抗があります。地質学者もそうです。でも、非常識が知識として頭にはいり、野外でそんな現象を目の当たりにするとも、もはや、その非常識も、地質学者では、常識となってしまいます。
ぱっと見て目にみえる自然の姿があります。しかし、そのもう一つ奥に隠された神秘を垣間見ることができるのです。それは、自然を知る醍醐味でもあるわけです。
自然は、どんな神秘をもっていようとも、黙っています。見る側が、その神秘を見つける努力をしない限り、見ることはかないません。でも、自然は誰も分け隔てをしません。努力をした人には、誰にでも、その神秘を見せてくれます。
自然は、心が広いのです。
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