2007年2月1日木曜日

61 推定と創造:地質図に織り込まれた4次元(2007.02.01)

 野外調査をするとき、地質学者はどんなことをしているのでしょう。そして野外調査をしたデータは、どのような処理がされるのでしょうか。

 地質学者の仕事の始まりは、野外で調査をすることです。地質調査では、大地を構成している石や地層がむき出しになっている川底や崖を詳しく調べてきます。柔らかい地層では掘り出すこともあります。そのような石や地層が出ているところとを、露頭といいます。
 調査をするとき、地質学者は露頭に向かってとして、いったい何をしているのでしょうか。もしろん露頭を構成している石や地層を詳しく眺めていきます。
 以前、私は、先生から、大きな露頭に向かうときの心構えを教わりました。まず、タバコの一本も吸う間くらい、露頭の全貌を離れてじっくりと眺めなさいということでした。遠目で大きな露頭を眺めると、細かいことは見えません。でも、大きな変化は見ることができます。大きな露頭での大きな変化は、その露頭だけの現象でなく、より広域の現象となる可能性が大きいからです。
 では、変化とは何かでしょうか。変化を知るには、まず普遍を知らなければなりません。普遍とは、その露頭を代表する石を見つけ、よく観察することです。そして、次に、なぜ変化をしているかを見ていくことになります。もちろん、代表的な石を目的に応じて、採取していきます。変化とは、普遍でないこと、連続していないことです。不連続には、境界がある場合と漸移する場合があります。いずれも変化です。
 漸移して変化する場合は、連続的に試料を採取して、その変化の原因や成因などを探っていきます。
 境界がある変化は、地層面、侵食面、不整合面、断層面などで起こります。境界面が重要な意味を持つことになります。そのため、境界面を測定していかなければなりません。面とは、3次元空間に存在する2次元の曲面もしくは平面です。
 平面の場合は、走行と傾斜と呼ばれるものを、クリノメーターという道具で測定します。傾いた地層面があるとします。その地層面の水平線を求めます。その水平線の方位(走行)を測ります。次に、その水平線に直行する下る方向の傾斜の線の方向と角度をクリノメーターで測定します。
 クリノメーターには、コンパス(方位磁石)の針と傾けると自由に動く針がついています。ただ普通のコンパスとは違って、コンパスの文字盤には、東西が逆に書かれています。クリノメーターを向けた方向は、北のコンパスが指す文字の位置で読み取ります。何も考えなくても、クリノメーターを向けた方位が正確に読み取れます。ですから測りたい面の水平線を見つけて、その方向と平行にクリノメーターを当てると、地層面の方位、つまり走行が読み取れます。
 また、自由に動く針は、クリノメーターを横に立てて使うと、常に下を向きます。その針をぶらぶらさせた位置で文字盤に書かれた、角度の目盛りで読みとれば、面の傾斜角を測定をすることができます。
 クリノメーターの動作原理と使用法は、文章で書くと分かりにくいのですが、実際に操作してみるとそれほど難しくはありません。今では、電子クリノメーターもできてきました。そしてデータも記憶してくれます。あとでコンピュータに取り込むこともできます。
 走行傾斜を測るときの問題は、地層面が平ではなく、でこぼこしていたり、曲がっていることがあるため、その崖の一般的な面を決めることの方が難しいほどです。馴れれば、それほど難しくはありませんが、最初のうちは戸惑います。その馴れが、経験というものでしょうか。
 野外調査で重要なことは、一つの露頭でもよく見ると、多数の地層、侵食、不整合、断層などの面があります。そのうちどれが地質学的に重要であるかの目星を、野外でつけておかなければなりません。できるだけ早い段階に、その目星をつけておくと、露頭の観察でも、重要な点に絞った調査ができ、効率的になります。
 地質学を始めた頃は、私もどの面が重要かわからず、苦労したことがあります。そして室内で作業や実験をして、重要性に気づいて再び調査をしたこともあります。これも経験でしょうか。先生の言葉は、この目星をつける極意を教えてくれていたのかもしれません。
 さて、クリノメーターを使って、大地にある地層、侵食、不整合、断層などの面情報を、広域にわたって記録していきます。野外調査によって得られた走行傾斜の結果を、地図に多数プロットしていきます。面の情報は、地図の上では2次元ですが、もともと3次元情報を読み取ったものです。ですから、3次元的に復元することができます。大地で3次元的とは、地形図が大地を2次元的に表しているものだとすると、3次元目は天地であります。地とは、地下への分布です。天とは、今は削剥や侵食で見ることができませんが、もとはあったはずの石のことになります。
 地下の分布を考えていきましょう。地質学的に重要と思われる面をなんとか見つけたとしましょう。丹念に調査すれば、地図上に調べた露頭ごとに境界線を表すことができます。もちろん露頭がなくて見えないところにも、境界線はあるはずです。
 そのような見えない境界線を正確に推定するには、地質図学という手法で、図面上で求めることができます。
 例えば、お菓子のバームクーヘンがあるとします。バームクーヘンには年輪状の輪があります。この輪ですが、包丁でさまざまな方向に切ってみると、切りようによって、輪に見えたり、放物線に見えたり、直線に見えたりします。地質図学とは、露頭で見た地層の切り口から、地層のもともとの分布を再現したり、境界面がどのように続いているかを推定する方法です。この地質図学は幾何学的なものですから、科学的で客観性があります。
 地形は、地層や石ができてから侵食を受けたものです。ですから、バームクーヘンの年輪模様が地層面にあたり、切り口が露頭あるいは地形などに当たります。ちょっとやってみるとわかるのですが、正確に図学でたどるのは、なかなか大変です。しかし、規則正しく地層が広がっていれば、つまり走行傾斜が変わることがなければ、地質図学は非常に有効です。今ではコンピュータのソフトウェアで行うことも可能です。
 狭い範囲で走行傾斜が安定していても、広域で見ると、走行傾斜はかなり変動することがあります。また、地質学的な境界面には、もともと不安定な面があり、図学では境界線を描けないものもあります。例えば、マグマが貫入したり流れたりした面、断層面、不整合面など、面自体がでこぼこしているものもあります。ですから、どうしても実際の地質図では、図学が通用しないところもあります。
 となると、一応図学を理解しながら、あとは実際に確認した境界面をたどりながら、一番矛盾のない境界線をフリーハンドで描いていくことになります。図学の推定にもとづいて、境界線を野外で新たに探すことも必要となることがあります。それでも辻褄があわなければ、推定断層などの不連続の境界をつくり、描かれることがあります。
 他の地質学者がみて、わかやりすいもの、筋の通っているものが、いい地質図となります。それは、経験や熟練の賜物となります。もちろん地層面などの境界線は、実在すべきものです。ですから、真実は一つのはずです。でも、残念ながら人間は、地下を覗くことができません。できることは、せいぜい地表を歩いて走行傾斜を測るだけです。地下の情報や境界面の地下への広がりは、推定しかできません。
 地質図を作成するということは、想像ではなく、ある根拠に基づいた推定となります。地質図学が使えるところは、その推定の精度は高くなります。そして精度のいい地質図ができれば、そこから地質断面図を作成することが可能です。地質断面図とは、地下へ境界面がどのように延長するかを推定するものです。それは、いよいよ必要となれば地下を探ること(掘ってみたり、ボーリングするなど)で、検証可能なことです。ですから、想像ではなく科学的な推定となります。
 では、天への分布はどうなるでしょうか。地下と同様に、地質図学によって今は亡きものを推定することになります。しかし、もう地層や石はなくなっているのですから検証はできません。ですから残念ながら永遠に検証できない推定となります。
 さて、地質学者は何のために地質をつくるのでしょうか。いろいろな目的がありますが、最終的には大地の歴史を探ることになるはずです。その地層や石は、いつ、どこで、どのようにしてできたのか、ということを解明することです。
 地質図は、2次元の図面でしたが、そこには3次元の情報が盛り込まれていました。しかし、地質図はもっと奥が深く、大地の歴史という時間の流れを読み取ろうという目的があります。時間が第4番目の次元として地質図にはあります。地質学とは、地表の野外調査から、天や地を推定し、過去を探るという4次元の復元を目指す学問です。過ぎ去った過去は、二度と繰り返すことはありません。地質図は、その過去の時間を、地質学推定から創造していくことを意味しています。

・4番目の次元・
私はかつては、上に示したような野外調査をしていました。
今でも、露頭や石を一杯見ますが、露頭で観察と共にすることは、想像です。
その想像は、大地の生い立ちに向けたものであったり、
大地の神秘を解明した科学者への思いであったり、
人と自然へのかかわりであったり、
地球や生命、宇宙の営みであったりします。
そんな多様を思いを感じるために、
歴史的に有名な露頭や、自分が重要だと思う露頭に立ちます。
感じてそして想像するのです。
少し地質学の本来の手法とは違いますが、
4番目の次元を目指す点では、同じだと考えています。

・野外調査のデジタル化・
今ではデジタルのクリノメーターができています。
そのデータはコンピュータに日時と共に取り込むことができます。
あるいは野外で地図をGPS付のPDAに入れ、
測定したクリノメーターのデータを入力するソフトもあります。
デジタルクリノメーターは、地層に当てるだけで走向・傾斜が
コンパスの針の振れが収まるまで待つという
煩わしさからも開放されます。
またそれらのデータをコンピュータで取り込み、
境界面の地質図学を使って自動で計算してくれるソフトもあります。
このように野外調査のデジタル化も進んできました。
何もかもデジタル化で地質学者の出番が
なくなっていくように思えますが、
人間にしかできない作業に
重点が置けるようになったと見るべきでしょう。
普遍と変化を読み取り、境界を見極めて測定点を決め、
境界の重要度を判断するのは地質学者の仕事です。
その重要性はどんなに時代が進んでもなくなることはないでしょう。
そして大地の生い立ちを解明するということも
地質学者しかできないことでしょう。
地質学者が他の分野んの科学者と比べて苦労していた点を
最新機器が手助けしてくれているのです。

2007年1月1日月曜日

60 自明の是非:複雑なものは複雑なまま(2007.01.01)

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 日ごろ当たり前と思っていること、誰でもわかるはずと思っていることで、本当はわかっていないときがあるのではないか、ということに思い至りました。そんな話です。

 富士山は、カレンダーの1月の写真としてよく使われています。たしかに悠然と風格があり、独立峰として孤高の美しさを感じます。多くのプロやアマチュアのカメラマンが、いまだに富士山を被写体にしているのは、尽きない魅力があるからでしょう。
 日本人なら、写真を示せば、説明がなくても、富士山であることが誰でも分かります。富士山の雪の状態や、周辺の景色から季節もすぐにわかります。ほんの一枚の写真から、非常の多くの情報を、私たちは読み取ることができます。富士山の写真をみせれば、富士山であること自明です。しかし、本当に自明なのでしょうか。
 例えば、北海道に住む小学生に、富士山の写真を見せたら、羊蹄山(ようていざん)と答えるかもしれません。なぜなら形が似ているからです。一目瞭然と思える写真でも、似たような形のものがあると、誤解を招くこともありうるということです。富士山は、日本人なら誰もが知っていると思うのは、早計です。
 普通の北海道の小学生は、富士山を見たこともないでしょう。大きくなって、経験や知識を得た後、そのような自明という前提を持つようになっていくはずです。
 富士山を小さい頃から見ている日本人は、日本でも少数派ではないでしょうか。とすれば、日本人の多くは、いつか、どこかで、「これが富士山だ」という理解をしたはずです。その経験を経てない人には、「自明」という前提は通じないのです。その経験の有無を確かめた上での自明なのです。自明にも前提があるのです。つまり、「誰でも自明」とは、必ずしも「自明ではない」のです。
 富士山は、非常に単純な例でした。いいたいことがわかりにくでしょうから、もう少しわかりやすい例を出しましょう。わかりやすい例とは、複雑な場合です。
 富士山の地質学的生い立ちを説明するときを考えましょう。生い立ちを言葉であれこれ説明をするより、富士山を構成する火山岩や火山噴出物など、活動年代の違うものを、地層境界として入れた断面図を示すことがよくあります。そんな地質断面図があれば、「富士山は、図のようにいろいろな時代に火山活動をした結果、今の形になりました。このようなものを成層火山といいます」と、説明すればよくわかります。
 必要なら図を指し示しながら、「断面の下から、小御岳火山は約70万年前から活動し、古富士火山が約8万年前に、そして現在の富士火山(新富士火山)が1万年前から活動しました」、あるいはそれぞれの石の性質や、火山灰がどこまで飛び散ったのか、溶岩の流れがどこまで達したのかなどを、一つ一つをそれぞれの図や写真を示しながら説明していけば、富士山の形成史がよく理解できるはずです。まさに百聞は一見にしかずです。
 では、図がなければ、説明できないでしょうか。もちろん図がなくても順番に丁寧に説明していけば、複雑なことでも説明できるはずです。でも、図を指し示すことによって、その複雑なプロセスを簡単に説明してしまってないでしょうか。そこに問題があるのではないかというのが、私の考えていることです。
 科学の世界では、説明のために図やイラストが多用されます。一般向けの科学雑誌では、写真やイラストのないものはありません。イラストを中心とした「ニュートン」のような月刊誌もあります。イラストがあればわかりやすいし、説明を読まなくても、わったような気になります。そう、わったような気になるのです。そこには、本当にわかった場合、本当はわかってないのにわかったような気分になっているだけ、の2つの場合が混じっているはずです。
 科学だけでなく、新聞や雑誌でも、説明のために図やイラストなどが当たり前に利用されます。あるいは図がなければ、説明できないものもあるかもしれません。
 デジタル製品や家電製品の取扱説明書などは、イラストや写真入りで、わかりやすく説明されています。デジタルカメラの説明では、各部分の名称からはじまって、バッテリー充電からはじまって、簡単な撮影、再生、保存、印刷などの方法を図入りで示し、そのカメラが持っているもっと高度な性能を活かすための操作法、トラブルがあった時の対処法などもイラスト入りで詳しく説明されています。昔の取扱説明書と比べれば、格段に分かりやすくなりました。それは、ソフトウェアの説明書のように、実際の画面に現われる図が付けられて、説明不足による操作ミスがないように配慮されています。
 図をみることで一目瞭然だから、説明するまでもないということですが、本当に、図を見て説明抜きでわかるのでしょうか。その「わかった」には、誤解はないでしょうか。
 説明とはある程度前提をおきます。特に科学の世界では、科学的素養をもっていることを前提とします。その素養とは、いろいろなレベルのものがあります。例えば、大学の専門教育では、大学の教養的なもの、専門の基礎となるような素養のあることが前提で進められることになります。大学の教養課程では、中学校・高校レベルの素養を持っているという前提の上で講義を進めます。理系の学生では、分数や少数の扱い(微積分も)や、元素記号、等速直線運動と加速度、生物の分類、地球の内部構造などは、基礎素養としてすでに身につけているものとして前提に講義が進みます。まあ、最近はそうでもないこともあるようですが。そもそも教育とは、あるいは知識とは、そのような知的積み上げのものに成立しているはずです。
 一般的な科学雑誌では、一般市民が対象ですので、大学の教養のような知的前提は置けませんが、科学に興味があるという前提をおきます。その前提があれば、できるだけわかりやすくと心がけられますが、数字やグラフ、少々複雑な内容も伝えられます。でも、そこには読者の理解したいという意欲をもっているという前提があるからです。考えてみると、伝え手はすべて、なんらかの知的レベル、前提を置いた聞き手を想定して、説明をしています。
 もし複雑な内容を伝えたいとしましょう。相手の素養の程度がわからないときは、できるだけ簡単なレベルからの内容を前提で進めることが無難でしょう。もし、伝える手段が会話あるいは文章だけであれば、想定している聞き手にわかってもらえるように、非常に基礎的な知識、内容を確認しながら、丁寧に説明していくでしょう。そして相手が説明の順番に内容を理解しながらついてきているかを確かめていくはずです。
 最初から図やイラスト、グラフなどが利用できるのであれば、それらを指し示しながら「内容をわかりやすく」説明をすることができるでしょう。もしいい図があれば、その図を見せれば、「説明など最小限にして」、理解してもらえるでしょう。時には、図を見れば、一目瞭然、自明として説明などいらないかもしれません。
 と、普通ならこのように図の効用が示せるのですが、実はそこに落とし穴がないでしょうか。難しい内容を、いい図があれば説明抜きにわかってもらえるというのは、伝え手の思い過ごしではないでしょうか。複雑な内容であるからわかりにくのであって、図があるからといって、内容が単純になるわけではありません。わかってい人(伝え手)が見るから、その図はわかりやすいものであるかもしれません。
 何も知らない人(聞き手)にとっては、初めてのわけのわからないことです。もし、一目瞭然の図があり、それからすぐに内容を理解できるということは、非常に単純にその内容を説明できるということではないでしょうか。つまり自分の理解が足りないのかもしれません。伝えたい内容はそもそも複雑な内容ではないということです。
 もし本当に複雑な内容であれば、聞き手は図を見ることによって内容を単純なことと誤解している可能性があります。複雑な内容なら、図からも複雑なものであると理解できなければなりません。そのためには、たとえ図を使ったとしても、丁寧な説明が必要ではないでしょうか。複雑な内容は、複雑なものとして説明しべきではないでしょうか。その複雑さを伝えるために図が利用されていればいいのですが、複雑なものを単純かのよう誤解を与える利用をしていないでしょうか。もしそうなら図の使用は間違ったものとなっています。
 最初に単に富士山の写真を見せたものと、富士山の地質学的生い立ちの例を出しましたが、明らかに地質の生い立ちの方が複雑な内容です。富士山の写真ですら、前提が通じなければ誤解を招きました。より複雑であるはずの地質断面による生い立ちが、図を見ながら説明したらわかりやすいといいましたが、そこにはもっといくつもの複雑な前提を置いているはずです。
 例えば、断面図はあくまでも推定されているものであること、地層の重なりはできた時間の順番を示し、その順番が断面として現れるというなどの前提をおいています。
 断面は、地表調査の結果、描かれるものです。もし、地表のどこにも現れていない層があれば、それは推定できません。また、断面の境界線が本当にそこを通るというのは、現実でもないし、確実でもないということです。断面図はあくまでも、そこを調べた地質学者が推定したものなのです。そのような不確かが前提とされている断面図なのです。
 断面に現れる順番ができた順番を現るという「考え」は、これは地層累重の法則と呼ばれるものです。下の地層や先にでき、上の地層が後にできます。下が古く、上が新しいのです。このようなことは、当たり前のように思えますが、実はこの地層累重の法則は、ステノ(Nicolas Steno、1638-1686年、デンマーク生まれ)によって発見されたものです。この前提は、科学的に検討されたものなのです。
 そのような学問的前提を聞き手に自明として求めるのは、いいことでしょうか。まして火山で断面図や地層累重の法則が利用できるには、火山に関するいろいろな知識を持った上で理解できるもののはずです。それを図を見たから説明なしに理解できるとは思えません。北海道の小学生に富士山の写真をみせて、富士山を自明として説明をしてくようなものです。子供たちは、羊蹄山の生い立ちを思ってしまっていることでしょう。
 前提抜きに語られたおかげで、重要な地質学的前提を理解せずに、「わかったような気」になっているのではないでしょうか。説明は、現状の一番最もらしいことに過ぎず、もしかすると新しい発見で簡単に書き換えられることもあるということも、一緒に理解すべきではないでしょうか。
 ここで示した例が、私の言いたいことを伝えるためにいいかどうかわかりません。でも、私の言いたいのは、図を利用することで、複雑なことを単純に伝えてしまってないかという不安、前提を間違ってしまうと、自明が通じなくなるという不安があるということです。
 自明が通じてないなら、理解できない聞き手を生みます。もし複雑なものが単純だと伝わっていれば、誤解をした聞き手を生み出しているかもしれませんす。もしかすると、わからない聞き手をつくりより、誤解した聞き手を生むほうが、問題かもしれません。それは、聞き手に、不利益を与えるかもしれないからです。
 大学の授業では、レジメを使ったり、黒板も使うことができますから、必要に応じて図を描くことがよくあります。私は、いつも図を描くようにしています。図を描きながら説明をしていきます。そして、「この図からわかるように」といいながら、講義を進めることが、ごく当たり前にあります。今までそれにあまり疑問を感じなかったのです。
 今回、上で述べたような疑問を感じたのです。人に複雑な内容を伝えるときは、複雑であるということも、内容とともに伝わらなければならないというこに、気づいたのです。これは、非常に大切なことをだと思います。そして、これを行うのは非常に大変な労力が必要だということも悟りました。伝える側も聞く側も大変です。
 伝える側の私にできることは、複雑な内容の説明には、逃げ道、近道、迷い道となるような図に頼りすぎず、遠回りでも、わかりにくくても、ただ着実に、一歩ずつ説明していくしかないのです。誠意を持って、着実にやるしかできないです。
 これが、私が気づいたことでした。そして、これに気づいたからには、これから人に伝えるときに大変になるということです。まあ1年の計として元旦に考えることとしては、少々重過ぎる課題だったかもしれませんが。

・前提・
今回の話にも出てきましたが、
すべての説明には、聞く人に、どこかに前提をおきます。
しかし、インターネットのWEBやメールマガジンのようなものは、
作者側に想定した読者を置くことがあっても、実際の読者は不特定多数です。
ですから、どんな前提も置けないのが本当のところです。
伝える側は、できるだけわかりやすく説明することが求められるわけです。
メールマガジンの性格上、文字だけで説明しなければならないのです。
図が使えれば一目瞭然なのに思うことがたびたびあります。
でも、それは明らかに近道を選ぼうということになります。
丁寧に説明すれば、きっと伝わるはずです。
その前提がなければ、誤解を与える危険性があのですから。
ですから、できるだけ丁寧に説明するようにしていきます。
このメールマガジンの想定読者は、大人です。
ある程度の漢字、言い回しなど、大人なら理解できる日本語を利用します。
そして、複雑なことも理解しようと読んでくれる読者であると信じています。
それが私の前提としている読者です。
でも、これは私の側の都合で、作り上げた読者像です。
メールマガジンの性格からして、
この想定読者は、そんなに外れたものではないでしょう。
もちろん、想定読者に合わない方もおられるかもしれません。
しかし伝え手としては、見えない読者には、なかなか対処できません。
でも、精一杯誠意を持って、
回り道でも手を抜くことなく努力することなのでしょう。

・年の初め・
毎年迎える正月ですが、
正月には過ぎた年、来る年について考えてしまいます。
そして昨年の反省とともに、今年の決意を固めます。
そして挫折を経験します。
そんな繰り返しをしています。
だったら最初から高望みしなければと思ってしまいます。
元旦とは、2006年と2007年という人為的に決めた時間の境目です。
国境なども人為的に決めたものです。
境界に立つと、人は、ものを思ってしまうようです。
人がつくった境界なのに、いや人がつくった境界だからこそ、
何かを考えてしまうのかもしれません。
年の初めとは、時間の区切りとして境界で
もの思うところなのかもしれません。

2006年12月1日金曜日

59 要素還元主義:可能性の低いことも起こる(2006.12.01)

 今回は要素還元主義というものを見てきます。そこに含まれている危険性を考えていきます。

 皆さんはミステリーが好きでしょうか。私は時間がなくて、ほとんど読まなくなりましたが、もともとミステリーは好きでした。家内は、推理小説を読み、テレビのサスペンスドラマもたくさん見ています。私がミステリーが好きな理由は、論理と証拠という、科学と同じような手法で、謎解きがなされるからです。ですから非常に論理的で面白いからです。
 では、架空のミステリーを紹介しましょう。それは殺人事件のミステリーです。
 ある山奥の工事現場で地下を掘り返していたところ、人骨が見つかりました。工事関係者は、もちろんすぐに警察に届けました。警察が来て、付近一帯の詳しい捜査が行われました。
 すると、その人骨は、首が鋭利な刃物で切られて、頭骨と刃物が体のすぐ近くに埋められていました。このような状況証拠から、警察は殺人事件とみて捜査を始めました。ところが、警察の懸命の捜査にかかわらず、事件は解決できませんでした。いわゆる迷宮入りです。
 皆さんは、なぜ迷宮入りしたのか、わかりますか。何が問題だったのでしょうか。情報は上記のものだけです。
 人骨が発見されるとは、死んだ人、つまり死体があったことを意味します。そこには、人の死があったことが確かです。人の死には、いくつかの可能性があります。もしその死が、自殺や自然死なら警察は問題にしなかったでしょう。もし、なんらかの事件による不慮の死であれば、それは殺人事件として、警察が調査をはじめることでしょう。
 殺人事件として、決定的な証拠になったのが、切り落とされた頭骨と、その首を切り取ったであろう刃物が一緒に発見されたということです。
 この単純はところに、どんな誤謬が入るというのでしょうか。現場に残された証拠は、犯人を探るのに重要な役割を持っています。最初の証拠から殺人事件が起こったことを推定して、その推定を裏付けるためにさらに証拠を探し、最終的に犯人にたどり着こうというのです。科学だって同じやり方をします。科学で、証拠から論理が組み立ていくプロセスそのものです。
 さてこのミステリーですが、事実は、もともと近くにあった村が平家の落人部落で、変わった風習があったのですが、その村は廃村となったので、その風習を今では誰も知らなくなったのです。平家の末裔として源氏を打たずに死ぬのは未練だから、せめて武士の無念を示すために儀式を執り行っていたのです。その変わった風習とは、死んだ人の首を切断して、その切った刃物と共に埋葬するというものだったのです。
 もしこんなミステリーを書いたら、読者は皆、怒り出すことでしょう。死体の首を切って埋葬するなんて可能性はほとんどないことだし、そもそもそんな風習は聞いたことがありません。ですから、そんな誰も思いもよらないことを最初から考えて警察は動きません。警察は可能性の一番高い殺人事件としたのです。迷宮入りしたのは、警察の責任ではなく、犯人がいなかったためなのです。
 でも、この架空の殺人事件の真相が、誰も考え付かないことであっても、本当にあったことであれば、仕方がありません。
 私が、このような架空の話をしたのは、科学的に考えていこうとするとき、実は無意識の前提をもっているのではないかという、注意を促すためでした。その「無意識の前提」とは、
・可能性の高いものが起こるはず
・結果と証拠にはならかの因果関係があるはず
というものです。私たちは、このような先入観を持って物事をみてしまっているのです。そして、その先入観を「無意識の前提」として、真実と思い込んでしまうのです。
 「無意識の前提」は、科学の重要な考え方である(要素)還元主義と呼ばれるものでもあります。還元主義とは、「結果は原因から」あるいは「原因から結果へ」というものが、一義的な因果関係で説明できるという考えです。その因果関係とは、法則や規則、あるいは理論などというものです。
 還元主義は、19世紀から20世紀にかけて科学の世界で広く展開されている考え方です。もちろん今の科学も、還元主義でなされています。科学の成したものをみると、還元主義的手法がいかに強力で、私たちに快適さ、便利さをもたらしたかがよくわかります。現在も、一番よく利用されている考え方です。いや、科学的な論文は、還元主義的に書かないと、不備があるとされます。取るに足らない可能性だけを議論して、一番の可能性を無視しているようでは、科学的論文と認められません。
 何か起こった結果があれば、そこには必ず原因が存在するという考えは、当たり前です。逆に、原因がそろっていれば結果は自明となり、きっと起こるということも信じられます。
 還元主義では、何事かを成し遂げたければ、努力すればゴールにいけるということを保障してくれます。ゴールに行けないときは、その原因追求し、原因を克服すれば、きっとゴールは到達できるはずなのです。これは物事を成すときに、非常に重要な動機を与えてくれます。還元主義では、きっとゴールへは行けるという前提があるので、がんばれるのです。
 さらに還元主義では、複雑な現象を解明したいときは、複雑なものを単純化していきます。不要な要素を除き、より根本的な要素だけを選び、さらにどれが主たる原因かを検討していきます。それらの要素の中から、一番根源的な原因を見つけていくのです。このような還元主義が、近代の科学や技術を支えてきたともいえるのです。
 ところが、私たちには知りえない真実、あるいは稀な出来事では、可能性の高いものが起こるという論理が選ばれるとは限らないのです。特に歴史的な現象や事件は、一度だけしか起こらないことです。そこで小さな可能性を選んだことがあったとしたら、私たちは間違った結論をずっと信じていることになるのです。
 あるいは原因究明をいくらしても解明できない場合、そもそも可能性の高いほうに原因がないのかもしれません。だから、いくら可能性の高い方を探しても、答えが見つからないのかもしれません。
 もし可能性の低いものが選ばれた結果も、私たちの信じている科学の体系に混じっていたら、科学とは危ういものに見えてきませんか。
 探しても答えが見つからないときは、答えを探す場所がまったく違っているのかもしれません。真っ先に捨て去った少ない可能性の中に、答えがあるのかもしれません。
 還元主義を使わなければ、科学は成り立ちません。しかし、還元主義にも限界があることを知っているべきです。そして、もし還元主義が行き詰ったときには、捨て去った可能性を省みることもしなければなりません。そして、なにより科学自体には、そのような不備があることを承知して使っていく必要があるのではないでしょうか。

・「早わかり 地球と宇宙」出版しました・
2006年12月1日に「早わかり 地球と宇宙」 という本が発行されました。
見本刷りは11月半ばに入手していました。
12月に入ってから書店に並ぶというのを聞いていたので、
それからメールマガジンなどで紹介しようと考えていました。
しかし、先週町にでかけて書店を見たら、
すでに置いてあったのを見つけました。
そしてメールマガジンの読者からも見つけたという連絡を受けました。
そこで、宣伝を始めることにします。
この本は久しぶりに書いたものであったのと、
今回は出版まで結構苦労したので、満足感はなかなか大きいです。
1年前の10月に出版社には完成稿を入稿していました。
しかし、シリーズで出すということなので、
化学の原稿が出てくるまで作業は止まっていました。
春から本格的な編集作業がスタートしました。
私は、夏休みに主として校正作業をしました。
図版の修正作業に手間取ったり、
ページ変更があり、かなりのページで修正を要したり、
新たにコラムの10ページほど書くことになったり、
最後の最後で縦組みから横組みに変更したりで、
いろいろあわただしかったのです。
それに今年は新学科の授業が始まっていたので、
時間のない中、修正作業をやったので、なかなか大変でした。
夏休みもこの本に忙殺されることになりました。
でも思い入れもそれなりにあります。
資料を提供した方々に献本をしたのだが、なかなか評判はいいようです。
地学に関する本がいくつかでているのですが、
一般の人には、私の書いたものの方が、分かりやすいのではないかと
編集の方ともども自賛しています。
興味ある方は書店で手にしていただければ幸いです。

2006年11月1日水曜日

58 ニュルンベルク綱領:科学の倫理(2006.11.01)

 「許容されうる危険の程度は、その実験で解決されるべき問題の人道的重要さの程度を上回ってはならない。」ニュルンベルク綱領の一節です。今回は科学者の倫理について考えていきます。

 ニュルンベルク綱領というものをご存知でしょうか。実は、私も最近まで知りませんでした。ここには、重要な内容が書かれています。
 ニュルンベルグ(Nuremberg)は、ドイツのバイエルン州にある都市の名前です。人口約50万人(2004年現在)を擁するニュルンベルグは、バイエルン州の北部のフランケン地方の代表的な都市で、ミュンヘンに次いで大きい都市です。中世から栄えた街で、現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている美しい町並みを残しています。この古い町並みは、第二次世界大戦によってほどんど破壊されたのですが、戦後再建されたものです。
 ニュルンベルクは、ドイツのナチ党の大会を1933年から1938年にかけておこわれたところで、ナチス・ドイツにとっては、中心的な街です。1935年の党大会では、ユダヤ人から市民権を剥奪する法律も、この街で決定されました。戦後になると、ナチの戦争責任に関する裁判は、この街でおこなわれニュルンベルク裁判と呼ばれています。ニュルンベルク裁判では、ナチス・ドイツによるユダヤ人に対する行為を犯罪として裁かれたのですが、人体実験そのものを禁ずるものではありませんでした。
 1947年のニュルンベルク裁判の結果を受けて、研究目的の医療行為において、厳守すべき基本原則を示したものが、ニュルンベルク綱領です。ニュルンベルク綱領は、医学的研究のための被験者の意思と自由を保護する原則を示したものです。
 考えてみると人命に関する医学には、古くから守るべきことが唱えられてきました。医師の倫理・任務についてギリシア神への誓いを立てる「ヒポクラテスの誓い」は、古くからあり、現在も生きています。それにならって看護師の戴帽式や卒業式におこなわれるナイチンゲール誓詞は、1893年ナイチンゲールの偉業を讃え作成された看護師としての必要な考え方、心構えを誓うものです。1964年6月のフィンランドのヘルシンキで採択されたヒトを対象とする医学研究の倫理的原則を示したヘルシンキ宣言、1947年の世界医師会総会でなされたジュネーブ宣言などもあります。
 医者も看護師も、近代社会では、資格をもった人だけがなれる職業です。かつては、そのような資格制度がなくても医者になれました。しかし、医者になるためには、大変な努力をし、勉学をし、技術を磨き、経験をつんだ人だけが、人の治療にあたってきたはずです。
 医療の効果は、たちどころに人の体や命に、その結果として現れます。もし失敗をしたら、遺族が納得してもらえるどうかは、その医者の人間性によるところが大きいのではないでしょうか。そんな最悪の事態も考えた治療が必要となるはずです。まさに医は仁術なのです。
 医学における宣誓は、人の命を大切に思う気持ちから生まれたのでしょう。一方、憎しみ、争い、貧富の差、戦争など、必ずしも人命が最優先にしていると思えないことも人類は行っています。皮肉なものです。
 ニュルンベルク綱領の8に「実験は、科学的有資格者によってのみ実施されなくてはならない」というものがあります。しかし、現実に科学者や技術者になるためには、資格は必要ありません。また、科学において、医者のような誓いをすることはありません。少なくとも、私は知りません。なぜ、宣誓することなく、科学がそれこそ気軽にできるのでしょうか。私は、そんなことを考えたことが何度あります。
 一般に科学に関する職業をしている人を科学者、科学技術に関する職業をしている人を技術者と呼んでいます。医学と違って、科学は基本的には自分の好奇心に基づく行為です。技術も似たような側面がありますが、さらに、より快適に、より便利に、より儲かるようになどの利便性や経済性の追求があります。科学や技術には、直接の対人関係は、医学よりは薄れていきます。
 ですから科学者は宣誓などしないで、興味の赴くまま科学をしていればいいのです。戦争など非常事態のとき、科学や技術は著しい進歩を遂げてきました。飛行機、爆弾、原子力、兵器、レーダーなど、あげればきりがないほど、戦争を契機に生まれたものや進歩してきたものがあります。本当に好奇心だけでなく、国家や政治に左右される使命感、愛国心、敵愾心などによって科学が行われていることも事実です。
 現在の科学には、非常事態ではなくても、人の生存、人類の将来を脅かすような結果を生みだしうることが起こり始めてきました。まさに興味の赴くまま進めたことが、知らないうちに加害者になっているという事態です。さまざまな特性を持つ人工の化合物(例えばフロン、DDT、PCBなど)、遺伝子操作、快適さを生み出すさまざまな装置などなど、どれも好奇心に導かれ、人のためによかれと思って生み出され、考案されたものでしょう。
 もちろん、一人の科学者や技術者だけがそれをしたとしても問題は大きくならなったでしょう。しかしいいものであれば、現在の科学や技術で、大規模、広域、大量におこなうことでになります。それが結果として、人類に被害を与えることがあります。複雑ですがそんな構図が繰り返し起こっています。
 科学者や技術者は、これからの社会では、自分の出した成果、予測、発言にもっと慎重になり、そして責任を持たなければならない時代になってきたのかもしれません。無謀な実験や、明らかに被害を与えるような成果の公表、人に危険な道具の開発など、科学者や技術の行き過ぎを抑止する方法を考えなければなりません。そのためには、科学者としての倫理観を強める必要があります。現在では科学者の倫理や技術者の倫理について、いろいろなところで議論されるようになってきました。
 しかし考えてみると、なにも科学者や技術者にだけ、倫理が必要なのではなく、いろいろな場面で倫理観が問題となります。立派な宣誓や考えがある医学界でも、倫理観のない医者や看護師もいます。これは、近年になって倫理観のない人間が増えてきたのではなく、そのような人は昔も今と同じようにいたはずです。犯罪が起こりそれを裁き抑止するために法律があるのは、倫理観のない人間が常にいることを示しているのでしょう。
 ただ現在は、昔と違い一人の倫理観の欠如の影響が大きくなる場合が増えたように思えます。メディアからの刺激でマネをする犯罪者が急増すること、技術によって大量、大規模、広域に行うことで被害が拡大するなど、現代社会固有の問題があります。ネット犯罪、各種の捏造事件、電話による詐欺事件などは、複雑な要因があるのでしょうが、やはり基本的には一個人の倫理観によって抑止できるものが、抑止できなくなり、現代的なメディアによって被害が拡大しているのでしょう。
 どちらも加害者が人間の行為なのですが、医学と科学の違いは、被害者が人間なのか自然というより大きなものなのかです。被害者が人間であれば人間という種の中での問題です。しかし、被害者が自然や地球全体となれば、人間が責任をとれないものへと広がります。一見人的被害がないく責任がないに見えますが、環境問題のように人間に被害が及びだしたらもう取り返しがつかない状態になっていることもあります。
 科学者も倫理観をしっかりと持つべき時代となってきたのを感じます。
 最後にニュルンベルク綱領の2を示します。「実験は、他の研究方法や手段では得られず、かつ行き当たりばったりの無益な性質のものではなく、社会的善のための実り多い結果をもたらすべきものでなくてはならない。」戒めとしましょう。

・声明・
このエッセイを書いて気づいたのですが、
2006年10月3日金澤一郎日本学術会議会長の名前で
「科学者の行動規範について」声明が出されていました。
しかし、これは近年頻発した科学者の不正事件に端を発しているようです。
声明発表の時期がよくないよくないよう気がします。
もっと以前から問題があったはずです。
もっと素直に科学者という職業が、今や人類だけでなく自然や環境に
大きなダメージを与えるものになっていることを認識し、
その認識に基づいて倫理観の必要性を持たなければならないという
声明として欲しかったですね。
ことが起きたから対処したという観が否めません。
まあ、何もしないよりはしたほうが良いいいわけですから、
みんなで内容を吟味すべきでしょう。
あとは、科学あるいは科学者のあるべき姿として
倫理観を実際にもてるかどうかが問題です。
医師と同じように、その職業によって生み出された結果は、
もはや個人の責任を越えることがあるので、
そんなことを成果を生まないように、
倫理観を持つようになってもらいたいものです。

・冬支度・
いよいよ11月です。
北海道は短い秋が終わろうとしています。
10月後半になって一気に秋が深まりました。
ひと風、吹くたびに、大量の枯葉が舞い散ります。
道路を歩くと枯葉の乾いた音がします。
こんな時期も雪と共に終わります。
先日手稲の山並みに初冠雪がありました。
根雪まではまだですが、街に雪が降るものもうすぐですね。
冬支度が急ぎ足でされています。

2006年10月1日日曜日

57 アリアドネの糸:還元主義の限界(2006.10.01)

 科学は客観的だと考えられています。本当に客観的でしょうか。客観的などというものは、存在しないかもしれません。そんなことを考えて見ました。

 ギリシア神話に「アリアドネの糸」というのがあります。次のような話です。
 クレタのミノス王の子供に、ミノタウロスというのがいました。ミノタウロスは牛頭人身の怪物でした。ミノス王は、迷宮ラビュリントスを作ってミノタウロスを閉じこめました。このミノタウロスが入れられた迷宮は、足を踏み入れたら出ることができないといわれていました。
 ミノス王はアテネ市民に対し、ミノタウロスのエサとして、9年ごとに7名ずつの若者と乙女を生贄を差し出すように命じました。
 それに抵抗するために、アテネの英雄テセウスが立ち上がりました。テセウスは生贄に混じって迷宮に侵入し、ミノタウロスを退治しました。このとき迷宮から出れるように、糸玉を入り口から伸ばしながら進んでいったのです。そして糸を手繰って無事迷宮から脱出しました。
 この糸玉は、ミノス王の娘アリアドネが渡してくれたものです。アリアドネはテセウスに恋していたため、助けるためにしたことです。彼女は、この糸玉を渡し、脱出の方法を教えたのです。
 この神話に基づいて、迷宮から抜けれるための方法を「アリアドネの糸」といわれています。
 さて、話は変わります。
 科学では、観察や実験が研究のスタートです。観察や実験をすることは、完全に客観的な行為だと考えられています。観察や実験なくしては、科学の素材、データ、証拠集めができません。科学では、このような観察や実験で、客観的なデータをとることが重要となります。
 しかし、本当の客観的な観察、実験、あるいはデータなどあるのでしょうか。
 観察するということは、観察している系に、観察者が関与することになります。
 例えば、ある程度知能の高い動物を観察するとしましょう。観察者の存在は、観察対象である動物は、認識するでしょう。すると、動物によっては、観察者を意識した行動をするはずです。
 このような問題点を解決するために、現在の野生動物の観察方法の一つに、観察者が繰り返し動物に接するようにして、動物に観察者を馴れさせるものがあります。最終的には、動物に観察者を意識させない状態にまでしてから、本格的な観察をすることになります。
 しかし、どんなに動物が観察者に馴れたとしても、やはり日常とは違った条件をそこに持ち込んでの観察となります。その非日常的条件に馴れてしまった野生動物は、本当に野生状態といえるのでしょうか。そこから得られたデータは、本当に客観的な観察とはいえないのではないでしょうか。
 地質学では露頭を観察をします。その時、写真をとるのはもちろんですが、重要な露頭ではスケッチをします。なぜなら、スケッチのほうが露頭の特徴を捉えやすいからです。しかし、そのスケッチとは、地質学者の目的に応じてなされます。必要となる地層境界、重要な岩石分布など、目的に応じた取捨選択がなされ、必要なものだけ描き出されます。このとき、客観的ではなく、研究目的に応じた取捨選択は、研究者の主観によるものではないでしょうか。
 また、露頭から、研究室で実験をしてデータを得るために、試料を採取します。その試料は、地質学者の目的に応じたものが、多数ある露頭の中から選択されます。その選択のときに、客観的におこなうとが可能なのでしょうか。高いところより手の届くところ、固くて岩石が取れないところより採取しやすりところからとるはずです。また、実験材料としてふさわしい試料や、経験的にいいデータがでない部分は選択肢から省かれています。もし本当に客観的におこなうなら、露頭全体でもれなく平均的に採取することが理想となります。しかし、現実的には不可能なことです。
 物理の実験でも、客観性を出すために、繰り返し実験をします。そのとき、原因は不明ですが、とんでもない値が出たとしましょう。そのデータは、たいていの場合は、測定ミスとして捨て去れます。特に分析機器を用いた繰り返し測定では、そのような処理が自動的になされることもあります。本当に客観的なら、原因が特定されない限り、すべてのデータは同等に扱うべきではないでしょうか。
 あるいは、ある規則や法則があり、その規則に目的の実験が合っているかどうかを確かめるとき、理想的な状態を考えて行われます。例えば、摩擦や空気抵抗などがないのようなものです。そのような条件で実験を考えないと、本当に知りたい法則が、誤差に埋もれて見つからなくなるからです。目的としない条件で、値を変化させるようなものは、誤差として方程式とのずれがおこっても、仕方がないと考えられます。つまりある程度の誤差は、目をつぶるのです。
 私たちの信じている多くの論理は、このような一見「客観的」にみえる前提の上に成り立っています。しかし、その実体は、主観や誤差などは入らない条件という前提を置いて、論理が組み立てられているのです。これは、明らかに還元主義的な考えです。
 還元主義的な考えでおこなえば、さまざまな未知のこと、複雑なことは排除されていきます。そして、非常に単純化された条件で得られたデータに基づいて、論理が組み立てられます。これでは、ありのままの自然を総体として捉えていないような気がします。
 科学が還元主義的は方法を用いている限り、論理を組み立てやすい条件を選択するに当たって主観が常に混入しているということになります。ですから、科学が客観的などというのは、非常に主観的な見方だということになります。
 しかし、実は科学が発展するには、このような還元主義的な手法をとらなければならないのです。なぜなら、最初に論理を見つけるとき、自然のありのままを総体として捉えようとするには、あまりにも複雑すぎるからです。複雑なものを最初から一つの論理で記述することは非常に困難なことです。ですから、どうしても還元主義的に簡略化した条件で、自然を見るしかありません。これは必要に迫られてやる応急的な方法ともいえます。
 自然という迷宮を知るためには、まずは「アリアドネの糸」として還元主義的な方法が不可欠なのです。還元主義的な方法で一番単純な道として最初の理論をつくっていきます。さらに、アリアドネの糸を手がかりに、迷宮の次の経路へも入ってきます。そんな繰り返しをして、自然の迷宮の奥へはいっていって、少しずつ全体を探っていく必要があります。
 現在の科学は、自然の迷宮のいろいろな部分へ入っていきました。そして、かなり迷宮を解明してきました。しかし、アリアドネの糸では、迷宮の全貌を知るには十分ではありません。イカロスの翼をもって、上空から迷宮の全貌を眺めなければならない時期に来ているのではないでしょうか。そう、自然をありのまま、総体としてとらえる視点です。

・イカロスの翼・
アリアドネの糸の伝説には後日談があります。
糸玉の方法をアリアドネに教えたのは、
迷宮の製作者ダイダロスでした。
そのことを知ったミネス王は怒り、
ダイダロスとその息子イカロスを
迷宮に閉じ込めてしまいました。
しかし、父子は蝋で固めた翼で空へと舞い上がり、
迷宮からの脱出に成功します。
ところが、イカロスは、父の忠告をきかずに
空高く舞い上がりすぎました。
蝋が太陽の熱で溶けてしまい、
海に転落、死んでしまいました。
ですから、上空から迷宮を見るのもいいのですが、
あまり上がりすぎるとよくないという教訓です。
目的を忘れず、我を忘れずにということでしょうか。

・行事の秋・
10月となりました。
北海道では紅葉や初雪の便りを聞くようになりました。
日に日に、朝夕の冷え込みが深まります。
特に快晴の日の朝の冷え込みは格段です。
しかし、そんな日こそ快晴の朝のすがすがしさを味わえます。
昔は運動会といえば秋の行事でしたが、
今は多くの小中学校では、
春に運動会をして、秋には学芸会のようです。
大学では運動会はありませんが、大学祭があります。
しかし、これも春と秋に分かれているようです。
わが大学は秋にあります。
家の近くにある別の大学では春に行われます。
北海道の10月は、短い秋を惜しむかのように
いろいろな行事があります。
そして行事も、秋共にあわただしく過ぎていきます。

2006年9月1日金曜日

56 盲点を見る:背理法(2006.09.01)

 素晴らしいアイディアの思いつくには、数学の世界で使われるているものを使ってみることもいいましれません。

 世の中には素晴らしいアイディアがあります。そんな素晴らしいアイディアに触れたとき、感動してしまいます。そんな素晴らしいアイディアを思いつく人の偉大さを思いながら、そして自分もそんなことを思いつきたいなと考えてしまいます。そんないいアイディアを簡単に思いつくことはなかなか難しいこともわかっています。簡単に思いつけるようなものであれば、感動するようなものにはならないでしょう。
 素晴らしいアイディアを思いつく方法はないでしょうか。一般的な方法はありません。素晴らしいアイディアは、数学の中でたくさん見つけることができます。ですから数学の素晴らしいアイディアをたくさんみていき、そこから上手くいく方法を見つけ出せばいいのです。数学では、そのような方法を一般化していますので、それを利用すればいいのです。
 「素数は無限個ある」という証明に、私が感動したアイディアがあります。
 「無限個ある」ということを証明することは、非常に難しいことです。ひとつひとつことで「ある」ということを証明していっても、無限個あるはずなのですから、証明に終わりがなく、結局は証明できません。つまり正攻法で証明をしようとしても、証明できないのです。
 まあ前置きはこれくらいにして、証明を示しましょう。
(証明)
有限個の素数p1、p2、・・・、pnしかないとする。
そのとき
X=p1×p2×・・・×pn+1
となるような自然数Xの素因数分解を考える。
Xは素数ではないから
p1、p2、・・・、pn
のどれかで割り切れるはずである。
ところがXはどの素数で割っても1余ってしまう。
これは最初の有限個あるという前提と矛盾する。
したがって、素数は無限個ある。
(QED)
どうですか。非常に短い証明ですが、論理的に成立しています。
 この証明方法は、最初に「素数は無限個ある」という命題が成り立たないと仮定しています。ですから、「有限個の素数しかない」という前提から出発しています。その前提で証明のプロセスを進めていき、最終的に矛盾が生じることを示していくのです。
 矛盾が生じたとすれば、どこかに論理的におかしいところがあるわけです。もし証明のプロセスにおかしいところがないのであれば、おかしいのは最初の仮定です。このようにして証明したいないようを否定した仮定が、間違っているということをし示して、証明するという理屈です。
 ここでは、「有限個の素数しかない」という仮定が間違っていることになります。「有限個の素数しかない」が間違いであるのなら、「素数は無限個ある」ということになるという証明です。
 このような証明法を、背理法と呼びます。
 背理法とは、上手くいけば、上で示したような素晴らしいものが生まれます。しかし、これを思いつくのは非常に困難です。なぜなら、人間の普通の考え方からはなかなか生まれないものだからです。逆にいうと数学のような論理の世界だからこそ、思いつけ、素晴らしいと思えるのかもしれません。
 背理法のように、素晴らしい思えるものが、数学の世界にはたくさんあることがわかります。
 別の例を示しましょう。
 ある数列を探るゲームです。ある規則で並べられた3つの数字があります。その規則は、出題者(私)が決めて、私だけが知っているものです。その数字の規則を知るために、質問者(読者)が、自分が考えた規則で作られた数列を提示することができます。出題者は、質問者の数列が正しかかどうか、YesかNoだけで答えるとします。
 ではゲームをはじめましょう。
  2 → 4 → 8
規則にしたがった数列です。
いくつかの質問者の例を示し、私の答えを示しておきましょう。
  4 → 8 → 16:Yes
  8 → 16 → 32:Yes
  2 → 4 → 6:Yes
「おやっ」と思われた方がいると思います。そんな方は、すぐに別の規則を思い浮かべたでしょう。
  1 → 2 → 4:Yes
「なんだ、これは」と思われたことでしょう。
  1 → 3 → 5:Yes
「ああ、もうわからない」となっていませんか。
 私が思い浮かべた規則は、「整数を小さいものから大きいものへと順に並べる」というすごく簡単なものでした。
 このゲームで伝えたかったのは、日常や自然のなかの規則を探ろうとするとき、答えが事前わかっているわけではありません。ですから、答えを得る方法として、なんらかの答え(この場合は規則)を予想して、その答えに合うものを考えて質問すると、例のように単純な規則にたどり着くのは、難しいということです。
 もし上の例のように、2の何乗という規則を思い浮かべて、その規則の範疇で質問をする限り、私はすべてYesと答えます。それで、質問者は2の何乗という規則が正しいと、確信してしまいます。でも、それは、間違った答えなのです。そのんなことをこのゲームで伝えたかったのです。
 可能性をすべて、網羅的に考えないと、正しい答えにはたどり着けないのです。増加する数は、偶数も、2の指数乗も含んでいます。
 正しい答えにたどり着きたいときは、いろいろな規則を想定して、その規則に基づいて質問を繰り返すだけでなく、その規則が間違っている場合、つまりNoとなるような場合を想定して質問すれば、遠回りかもしれませんが、確実にもれなく答えにたどり着くはずです。時には、一番の近道となる場合があるかもしれません。
 このような考え方は、一種の背理法といえます。単純で算数のゲームのような論理の世界でも、このようは背理法を思いつくのは、大変なのに、自然の中の規則性を探るとき、反証性を考慮に入れることは非常に困難です。
 多くの人は、規則にあった正しい場合を前提として、質問をするということが、認知心理学の分野で検証されています。つまり、規則に反するものを考えて、規則を探ろうとするのは、人にとって非常に難しいことなのです。
 数学や論理学で用いられている論理体系を、日常や自然界に用いるのが難しいかもしれません。背理法の他にも、数学的帰納法や対偶などは、なかなか難しい考え方ですが、一種の盲点を取り除いてくれる役割を果たします。何かものごとを探るのに、行き詰ったとき、背理法や帰納法などの方法を用いると、答えを得られることがあるかもしれません。これ上手くいったとき、素晴らしいアイディアとなるかもしれません。でも、それが大変なのですが。

・四国城川へ・
いよいよ9月になりました。
8月の蒸し暑さと比べる、
北海道は乾燥してきてだいぶ涼しくなってきました。
強い日差しの下は暑くても、
日陰を通る風は心地よいものとなっています。
私は、9月2日から6日まで、
愛媛県西予市城川に出かけています。
帰りに東京で別件で1泊します。
城川へ出かけるのは、毎年のことで、
今年もでかけることになりました。
今回は博物館にじっとしていて、
室内作業することになります。
まだ城川は暑いかもしれませんが、
四国の山国の静かな自然を味わって仕事ができます。
それで心がリフレッシュできるはずです。
ただ心配は、私の滞在中、よく台風に見舞われます。
ですから、それだけが気がかりです。

2006年8月1日火曜日

55 一枚の地層に:地球に流れる時間(2006年8月1日)

 以前、沖縄に行ったときに見た地層の写真を、必要があって詳しく見直しました。そんな時ふと、ひとつの地層のでき方から、地球の時間へのいろいろな思いが巡りました。

 地層というの、どんなものを想像しますか。だれもが、どこかで、地層を見たことがあるでしょう。海岸に広がる地層、川底に見えている地層、山の崖に出ている地層、道路の工事でできた崖、どこかで地層をみたことがあるはずです。あるいは、地層で、化石探しをした人、鉱物を探した人、授業で習った人は、地層を詳しく見たことがあるはずです。でも、人それぞれに、思い描く地層は違っているでしょう。
 思い浮かべた地層の様子も、人それぞれでしょう。ある人はその層が水平でしょう。またある人は垂直でしょう。あるいはぐにゃぐにゃに曲がりくねったものかもしれません。しかし、思い浮かべた地層として共通しているのは、何枚もの層が重なったものでしょう。それらひとつひとつの層は、どのようにしてでき、何を物語っているのでしょうか。一枚の地層から考えていきましょう。
 地層とは、どのようなものでしょうか。詳しく見ていきましょう。まず、私の思い浮かべた地層を紹介しましょう。沖縄の東海岸で見た四万十層群嘉陽層とよばれている地層です。この地域の地層は曲がりくねっているのですが、海岸でみた地層を詳しく見ていきましょう。
 海岸の崖で写真にとったものは、水平よりやや陸側に傾いている地層でした。見える範囲はすべて地層の崖です。地層全体の厚さにする、数100mはありそうです。地層の枚数は100枚どころではありません。層の厚さは色々ですが、40~50cmほどの厚さものが多いようです。その中の代表的な一枚の地層をよく見ていきましょう。
 ここで注目した地層は、上の方が粒のあらい砂からできています。砂の部分は、表面が茶色く風化していますが、割れたり新鮮な面を見ると、中は灰色の砂岩となっています。砂岩の部分が地層の大部分を占めています。一番下には、黒っぽい緻密で粒の細かい泥岩からできています。泥岩の部分は、もろくて侵食を受けやすく、くぼんでいます。泥岩の部分は、4~5cmほどで、厚さは場所によって違っていますが、10cmにはなりません。
 砂岩から泥岩の境界は、はっきりしないで移り変わっています。ところが泥岩から砂岩への境界は、明瞭ではっきりと変わっています。ただし、その境界の面は、必ずしも平らではありません。時には砂岩が泥岩をかなり削り込んでいるように見えるところもあります。
 遠めで見ると、このような平均的な様子が、地層から伺うことができます。地層は自然のものですから、このような平均的でないところもたくさんあります。たとえば、地層の厚さはまちまちです。1m近いところもありますし、10cmもないようなところあります。砂岩ばかりの層もありますし、泥岩だけのところもあります。小石がたくさん混じっていることもあります。このように平均的ではないところも、地層にはたくさんあり、多様な様子がうかがえます。
 遠めで見ると、同じような地層が繰り返して連なっているようにみえ、一般的な地層を示すことができますが、近づいて詳しく見ると、どうも一様でないこともわかります。では、このような一見一様にみえる繰り返しで、中身はさまざまな多様性を持っている地層を、どのようにすればつくることができるのでしょうか。
 地層を構成している砂や泥、時には小石は、石が砕かれ、小さくなったものです。そのような作用が行われるのは、陸地です。風化や浸食によって大地を形成している岩石が砕かれてきます。川によって、砕かれた岩石が運ばれていきます。石は小さく砕かれ、やがて砂や泥のような細かい粒になります。
 川は上流から下流に向けて、その作用をしていきますが、川が下流で流れや緩やかになると、大きな粒は運べなくなり、川原に堆積します。下流域では細かい粒だけが運ばれます。ところが海に注ぐ川は、にごった水ではなく透き通っています。ですから、目に見えるような粒は、ほとんど、川が海のたどり着くまでに、川で堆積してしまっているのです。しかし、川原のどこにも海岸で見たような何枚も繰り返すような地層ができていません。ですから、通常の川の営みでは、このような地層ができそうもありません。
 砂や泥、時には小石が運ばれ、地層ができそうなときとは、どのような時でしょうか。すぐに思い浮かべられるのは、洪水や土石流です。激しい洪水や土石流であれば、大きな石でも流してしまうことがでるはずです。洪水や土石流も平野部にでると、そこに川が広がって、土砂を堆積してしまいます。にごった水は海まで達しますが、多くの土砂は平野に堆積します。今ではダムや堤防で平野の洪水は減りましたが、今年の梅雨の大雨のように短時間でたくさんの雨量があり、それが想定以上のものになると、自然の川の営みが復活します。このようにして、扇状地や平野が、形成されていることは、社会科や地理の時間に習ったものです。
 でも、これは土砂が場所によって不規則にたまることができますが、規則正しい地層のようなものや、泥まで整然と溜まるには、どうもいい仕組みとはいえません。また、数mの地層なら洪水の繰り返しでできそうですが、数100mの地層の積み重ねは、できそうもありません。
 砂(時には小石)から泥がゆっくりと溜まるには、土石流や大洪水が、海底まで達し、その後は穏やかに泥を堆積すればいいのです。あるいは、洪水で河口の沿岸に溜まった土砂が、地すべりでさらに深い海に流れこんでいけば、一枚の地層ができそうです。そのような場が、大陸棚にでもあれば、繰り返し地層ができ、数100mの地層の連なりもできそうです。
 地すべりの位置は色々なところで起こるでしょう、地すべりによって土石流ができ、その本体が流れてくれば、小石まである砂がたまり、土石流がおさまれば、やがて泥がゆっくりと沈殿しているでしょう。
 あるいは、同じところで土石流の本体が通ると、すでに溜まっていた地層の上部を削り取ってく行くこともあるでしょう。もし、土石流の少し離れたところを通れば、砂のほとんどない泥だけの層ができるでしょう。
 このような土石流が頻繁に起こるような場所が、今回想定した地層の堆積場所となりそうです。でもそのような土石流が起こり地層が溜まるという事件は、頻繁に起こりそうもありません。大きな地震をきっかけにして海底地すべりが起こったり、未曾有の大洪水で海まで大量の土砂が流れ込むとかの事件です。このような事件は、めったに起きそうもありませんが、長い時間間隔でみれば、きっと起こりそうなものです。ですから、ひとつの場所で考えると、何十年、何百年、あるいは何千年に一度のような出来事によって一つの地層ができることになります。
 海底に流れ込んだ土砂は、一気にたまります。学校の理科の実験で、ペットボトルに土砂と水を入れてかき混ぜると、重い小石や砂が早く沈んで、細かな泥が沈むには時間がかかりまず。でも、数時間、あるいは一晩も置いておけば、泥も沈んで、水は透明になります。海では、ペットボトルより大規模で、波や水の流れがあるため、もっと時間がかかると思いますが、せいぜい数日すれば、溜まるべきものは地層として沈むはずです。
 一つの地層は、大地に流れている時間からすれば、あっという間にできてしまうということになります。大半の時間は、泥と砂の間に挟まれていることになります。ですから、地層とは、テープレコーダーのように時間を連続的に記録しているのではなく、ある事件を記録してカードのようなものなのです。そんな事件の記録カードを積み重ねたものが、地層なのです。
 海底に流れていたはずの大半の平穏な時間は、ほとんど記録されていないのです。これは、過去の記録のされ方としては、ごく普通のことなのです。私たちの昔の記憶もそうなっているます。記憶に残っているのは、自分にとって、事件的な出来事が多いはずです。毎日同じようにしていることや振舞っていることなど、日常ともいうべきことは、ほとんど忘れ去れています。大地の記録も同じなのです。事件によって大地に物質して刻印されたものだけが、記録となります。
 最初に思い浮かべた地層は、上に砂があり、泥へと連続的に変化してきました。ですから、この地層は、もともと溜まった時は上下が逆転します。周辺の地層は曲がりくねっているといいましたが、ここでは地層が完全に逆転しているのです。これも大地に流れている長い時間によって形成されたものです。硬い岩石でも割れて砕けることなく、ゆっくりと時間をかけていけば、地層を崩すことなく、くねくねに曲がったものが形成されるのです。大地の歴史には、短時間のダイナミックさ、長時間のダイナミックさ、そして大半の何もおこらない平穏が時が流れているのです。大地の時間とは、不思議なものです。そんなことを私は地層から感じました。

・夏休み・
北海道はやっと夏らしい暑い日が訪れました。
7月は停滞した梅雨前線の影響で
北海道も雲の多いどんよりとした天気が続きました。
大学も夏休みになり、学生が減り、静かになりました。
でも、教員は汗をたらたら流しながら、
採点と成績の整理に追われています。
でも息抜きのために、私は、
2日~4日はアポイ岳
8日~9日は登別のクッタラ湖
に出かけます。
アポイ岳は7月の連休に調査に行こうとしていたのですが
次男が水疱瘡を発病したので行けなかったものです。
クッタラ湖は、今年の春にいったのですが、
大量の積雪で、いけなかったところです。
今回は、遣り残したところの調査となります。
本当は、8月上旬は忙しい時期なのですが、
定期試験が終わって、やはり少しはリフレッシュしたいので、
出かけることにしました。
しかし、そのために、忙しくなりますが、仕方がありません。
がんばりましょう。