研究をするとき、当たり前で科学的な方法だと思って使われているものがあります。今回取り上げる帰納法と演繹法もそのひとつです。当たり前に見える方法でも、よくよく考えていくと、論理的には正しくないものがあります。科学者でも、そのようなミスを簡単に犯してしまいます。ですから、論理的に正しいかどうかは、常に気を配らねばなりません。
科学をおこなうときによく使われる手法として、帰納法と演繹法があります。帰納法とは、多数の実験や観察などによって得られたデータをもとに法則や原理を見出すものです。一方、演繹法は、最初に法則や原理があり、それをもとに個別の現象や他の法則や原理を、論理的な推論で導き出そうというものです。この両者を組み合わせて、多くの科学的な営みがなされています。
地質学者が、ある火山を調べるとします。研究の目的によっていろいろな調査方法がとられますが、一般には、次のような調査がされていきます。
火山全体を丹念に歩き、観察できる限りの露頭を調べます。露頭では、どのような岩石が、どのようにあるかを調べていきます。そして各露頭のデータから、広域的な火山岩や火山砕屑物の特徴や分布、噴出順序などを明らかにしていきます。
簡潔に書きましたが、もう少し説明すると、露頭での作業は、次のようになります。
「どのような岩石」というのは、野外で岩石を観察して、分類し、名称を決めていくことです。野外の肉眼での観察だけで正確に分類が決められなくても、可能な限り特徴を見分けていき、他の岩石と区別できるようにします。時には、正式な岩石名ではなく、その調査のためだけの独自の名称(フィール名と呼ばれています)をつけて区別されることもあります。野外で正確な分類名を決めるためには、事前にいろいろな火山岩を見て経験を積んでいかなければなりません。もしフィールド名でいいのなら、注意深く、根気よく観察できる人なら、はじめてみるような石でも分類は可能です。
「どのように」とは、分類されたそれぞれの火山岩の関係(前後関係や接触関係など)を調べ、それらをもとに溶岩や砕屑物の噴出順序を調べていきます。このようにして露頭ごとの特徴(産状と呼びます)を記録していきます。
それらの露頭ごとのデータに基づいて、分類された火山岩や砕屑物が、地図上で分布する範囲を調べ、噴火した溶岩の順序と性質を明らかにして、火山の噴火史を解明していきます。
野外調査だけではデータが足りませんので、ここまでたどり着くのは困難です。そのために、野外で記載され採集された試料を、研究室に持ち込み詳細に調べられます。岩石を光が通るほど薄くして、岩石専用の顕微鏡で観察します。顕微鏡レベルでのマグマの性質や固まる時の結晶化の順序、マグマだまりの様子などを推定していきます。
さらに、試料の化学分析もしていきます。得られた化学分析のデータを、解析していきます。いくつかの化学成分を基準にして、岩石の化学組成の変化傾向を見ることが重要になります。縦横の軸に化学組成をとって、グラフであらわすことで、その変化傾向を視覚化していきます。
例えば、横軸に火山岩の主成分である二酸化珪素(SiO2という化学組成、火成岩や多くの岩石の主成分でもあります)をとり、縦軸に連続的な変化がみえる化学成分(例えば、酸化マグネシウムMgOや酸化鉄FeO、あるいはそれら比率、アルカリNa2O+K2Oなど)をとり、データをその図に入れてきます。今ではコンピュータで簡単に書けるようになりました。
そのような化学組成の連続的な変化を、地表にマグマが噴出した順にみていくと、マグマだまりでのマグマの変化を捉えることができます。
なぜマグマの化学組成が変化するかというと、マグマが冷えるためです。マグマだまりは熱いのですが、周りの岩石は冷たいままですので、マグマはだんだん冷めていきます。今まで液体として溶けていた成分が、液体ではいることができる固化していきます。その時、結晶がでてきます(晶出といいます)。
でてきた結晶が、マグマと比べて重かったり、軽かったりすると、マグマだまりの底や天井に集まります。するとマグマからそれらの結晶の成分が取り除かれることになります。冷却と共に化学組成を変化させていくマグマが、溶岩として流れていくことになります。溶岩を噴出した順にみていくと、時間と共に、マグマがマグマだまりでどのような化学変化を起こしたかを調べることができるわけです。火山岩の化学組成のデータをうまく活用すると、けっして見ることのできない、過去のマグマだまりを再現することが可能となります。このように、化学組成は、火山を調べる時に重要な基礎データとなります。
余談ですが、昔は化学分析をすべて手作業でしてきました。充分な熟練を要し、馴れないと、とんでもない分析値が出てきたりしました。1週間から10日がんばっても、やっと数個の試料が分析できるだけでした。非常に手間がかかる作業なので、厳選され、必要十分な数の試料だけが化学分析されていました。分析値を用いた後の研究でも、数点や10数点で、火山岩その傾向を見抜くことになります。ところが、現在では分析装置を用いますので、誰でも、大量に、簡便に、そして正確に化学組成のデータが得られるようになって来ました。ですから、大量に得られた分析データで議論することが可能になりました。言い換えると、ひとつのデータの吟味や重みやなくなってきたような気がします。まあこれも時代の流れです。
さて、横軸に二酸化珪素、縦軸に酸化マグネシウムのグラフに、データをプロットしたものができたとしましょう。
さて、ここから今回の本題です。野外で観察した溶岩の噴出順序でグラフを見ると、時間が経過すると、二酸化珪素の量が増え、酸化マグネシウムの量が減っていくことがわかりました。つまり、マグマだまりでは、マグマの成分が、時間とともに、二酸化珪素が増え、酸化マグネシウムが減っていくという変化が起こった推定できます。地質学者は、たぶんカンラン石がマグマだまりで結晶化して、下に沈んでいったため、このような変化が起こったと考えることでしょう。
溶岩の化学組成から推定したマグマだまりの化学成分の時間変化には、帰納法と演繹法が利用されています。
グラフ上にプロットされたデータはあくまでも一つの点にすぎません。それが「マグマの組成変化」と呼ばれるとき、化学組成は連続的な変化として捉えられています。つまり、点を線と読み替えるという帰納法が使われています。
数学的には、位置を示す点が、いくら増えても連続した線にはなりえません。その様子を視覚化するのは、簡単です。どんなに多数の点が集まっていても、グラフを拡大して、点の大きさを小さくしていけば、不連続であることはすぐにわかります。しかし、多くの点が、そのように並んでいるように見えるのは、きっと何らかの規則性があるはずだと考えます。その考え方が帰納法です。多数の個別的事例から普遍化をしていくわけです。
演繹法は、地表で採取された火山岩の化学組成の変化が、マグマだまりの変化と推定しているところです。この例では、地表の火山岩しかありませんから、地下のマグマだまりに直接結びつける論理的な必然性はありません。でも、多くの火山で、似たような変化が観察されて、このような演繹法が利用され、うまくいっているのだから、今回例に出した火山でも一般則として演繹的に適用してよいだろうということが、意識せずに行われているのです。
では、演繹法で用いられる一般法則は、どのようにして生み出されるのでしょうか。今回の例では、かつて行われた帰納法によって導き出された法則や経験則が、適用されている訳です。それを完成させるには、火山とマグマだまりの両方の関係がはっきりとわかっている場所があればいいのですが、確実なものはほとんどありません。マグマだまりが地表に出ている例は、いくつかあり、その解析から帰納されています。溶岩とマグマだまりを関連付ける例がもしあったとしても、その例がどの火山でも適用できるという根拠はありません。
すべての自然科学ではないでしょうが、自然を直接調べるような科学では、このようなに多様な個別事例から、新たな普遍を導きだす方法は、極普通におこなわれています。私も論文を書き、査読者も納得しています。このような考え方は、ベーコンやホッブスが唱えた経験主義的なものの考え方を用いています。一方、演繹的な手法は、前提さえ正しければ、論理的な手続きは筋の通ったもので、デカルトやスピノザなどが考えた合理主義的方法であります。
現在の科学は、このような演繹と帰納が複合、あるいは相補されている一種の論理実証主義にもづいた方法を用いています。では、このような方法が本当に正しいのでしょうか。実は、問題があることは、今までの経過を見てくればわかるでしょう。
演繹法の問題は、突き詰めていくと最初の原理原則、数学でいえば公理にあたるものが必要で、その正否は演繹法、あるいは帰納法を用いても示すことができません。逆に、前提さえ正しければ、推論規則を厳密に適用された演繹法による結論は正しいものといえます。
帰納法の問題は、惑わされやすいのですが、データをいくら集めても証明はできないということです。どんなに正しいデータを多数集めても(前提が真であっても)、結論に論理的必然がないということです。このような帰納法の問題は重要ですが、研究の現場ではあまり配慮されていません。それについての詳細は、別の機会にしましょう。
・帰納法・
帰納法の問題は、カール・ポパーが
「科学的発見の論理」ですでに指摘しています。
それでは科学者も困るので、帰納法の正当化として帰納論理があり、
「帰納法が蓋然性を高める」といういいかたがされています。
しかし、その帰納論理も、論理的に否定できます。
少々ややこしい話になるのですが、別の機会に詳しく説明します。
・旅行・
いよいよ4月、春です。
大学も別れの季節が終わり、出会いの季節になります。
学校では、3月から4月への変化は大きく、
大学にいる人間も心を一新して望むことになります。
そんな3月下旬に、私は家族で
京都から北陸の海岸沿いに旅行に行きました。
私はもちろん調査ですが、家族は観光旅行です。
実は、このエッセイは、出かける前に書いたものを
まぐまぐで予約して配信しています。
ですから、どのような旅行であったかは、
ここで示すことはできません。
でも、私も家族も楽しんでこようと考えています。
2008年4月1日火曜日
2008年3月1日土曜日
74 二分法:2から3への決断(2008.03.01)
決断をする時、その選択肢は少ないほうが、悩みは少なくてすみます。最小の選択肢は、2つです。しかし、人間はたった2つの決断にも悩むことがあります。それは、自然を相手にしても同じなのです。
ディコトミー(ダイコトミーと発音されることがあります)という言葉を聴いたことがあるでしょうか。英語に詳しい人でないと、聞いたことがないかも知れません。ディコトミーとは、英語のdichotomyと書かれるものです。日本語では、「二分法」と呼ばれているものです。
二分法とは、テストなどでは○か×、質問でYesかNoなどの二者選択をする考え方です。思考法としては、非常に単純な、誰でも理解できるものです。二分法は、選択肢が2つなので、命題が2つのどちらからにしかならないもの(論理的には互いに排斥し合うといいます)でなければなりません。普通に使えば、論理的で決断するときには便利なものです。しかし、誤用するととんでもない選択をすることになります。
二分法における有名な誤用の例として、魔女狩りの論理があります。それ次のような手順に行われます。まず「お前は魔女か、魔女でないか」という二者選択の質問をします。「はい」といえば、魔女として処刑されます。「いいえ」と答えると拷問されます。拷問の後、「お前は魔女か、魔女でないか」という二者選択の質問がされます。これを「はい」と答えるまで、繰り返します。いくら拷問をしても「はい」と答えない人は、「これだけの拷問に耐えられるのは、魔女に違いない」として、処刑されます。
このような誤用であれば、すぐに間違いに気づきますが、少々わかりにくい誤用があります。例えば、ある人に「あなたは、男か女か」と問うのは正しい二分法の使い方です。しかし、「あなたは、男らしいか、女らしいか」と問うのは間違っています。あるいは、「戦争か平和か」、「暴力か話し合いか」、「平等か差別か」、「金持ちか貧乏か」と問うのは正しい二分法といえるでしょうか。一見相反する対立している選択肢にみえますが、よく考えると、それ以外の選択肢があることがわかります。
地層を用いた例を出しましょう。通常の地層は、海底で堆積します。地層が堆積する時には、海底だとはいえ、重力の作用を受けます。重力のかかる方向によって、地層の形成時の上下が決まります。地層はほぼ水平にたまります。ですから、地層面にたして垂直方向が上か下になります。これは、すべての地層の上下があることを意味します。
地層が形成後にどのような作用を受けたとしても、形成時の上下関係は変わることはありません。ある崖でたとえ地層が垂直に立っていたとしても、地層面が堆積時の水平方向になり、その堆積面に対して上下関係が決定できるはずです。もし、ある崖の地層の上下が現在の重力に対して逆を向いていれば、その地層は現在の位置に来るまでに何らかの作用で逆転したということになります。
ある崖に地層があるとしましょう。その地層は、崖に向かって、右方向に45度傾いています。つまり、地層面が45度傾いた地層が重なっているわけです。その崖の地層は、断層や不整合などの不連続はなく、規則正しく連なっているとします。
地層を前にして、「この地層の形成時は、どちらが上か下か」を問うことができるはずです。この問いは、正しい二分法だといえます。その地層ができた時の上下関係はもともとあるはずですから、注意して観察すれば、上下の判定できるはずです。
地質学では、いくつかの手がかりを用いて、上下判定をします。一番良く使われる方法は、級化構造とよばれるもので、堆積物の粒度変化をみるものです。地層を構成している堆積物の粒は、大きさが変化することから探る方法です。海底に土砂が流れ込んだ時、水の中で、重力の影響を受けながら、粗い粒が速く沈み、小さい粒ほどゆっくりと沈みます。ですから、一層の地層の中では、粗い粒が下、細かい粒が上になっているはずです。その粒度変化が見出せれば、地層の上下関係が判定できるわけです。
崖でどれか一つ地層で、確実な上下判定ができれば、断層などがない限り、その上下関係は、一連の地層のすべてに適応できます。この例の崖には断層などはないとしていますので、崖の地層全体に上下関係が適用できます。
地層の上下の二分法は、理論的には非常に簡単そうにみえますが、現実の地層を前にするとなかなか簡単にはいきません。そのため、地層の上下判定の手がかりとして、級化構造以外に、荷重痕(ドーロキャストと呼ばれる)や、斜交葉理(クロスラミナ)、底痕(ソールマーク)、フルートキャスト、漣痕(リップルマーク)、生痕化石などが考えられています。いろいろな判別方法があるのは、簡単そうなのですが、実はそう簡単には判別がつけられないこともあるということです。その困難さは、自然の妙というか、複雑さでもあるのでしょう。
地層の上下判定ができた結果が、大きな研究成果につながることもあります。日本の有名な例として、小澤儀明の研究成果があります。彼は、大学の卒論(1923年)で、山口県の秋吉台を調査しました。秋吉台の石灰岩の中に含まれているフズリナの化石を調べていました。フズリナの化石の種類から、時代を決めることができます。研究を進めていくと、秋吉台の標高の高いところに古い化石が、低いところに新しい化石があることが発見できました。これを手がかりにして、彼は、秋吉台の地質構造が大きく逆転していることが発見しました。彼の卒業論文の結果は、世界的な大発見として評価されました。
さて、二分法にもどりましょう。地層は、どちらかが上か下かになっているはずです。問題としては非常に単純明快で、二分法が適用できます。地質学者は、地層を調査する時は、まずは上下判定をしなければなりません。それは、地質学の教育を受けた時、最初に学ぶことでもあります。ですから、単純ですが、非常に重要な二分法による判定をしなければなりません。しかし、その判定ができないことも多いのです。そんな時は、どうすればいいのでしょうか。
私は、あるいは多くの地質学者がするであろうことは、二分法の問題でありながら、「上」と「下」の選択肢の他に、「未定」(あるいは保留)という選択肢を急遽設けることです。「えい、ままよ」と、2分の1の確率に頼って、不確かな選択をするより、「未定」の方がいい選択といえるからです。そして、近隣の崖で、なんとか地層の上下判定をできないかを探ります。もしできれば、その結果を、問題の崖に適用してよいかを判断するわけです。これは、直接に結論を出さずに、間接的に結論を導くという、あまりよい方法ではありません。しかし、間違いの危険性を冒すより、少なくともある程度は根拠のある選択といえます。
ここでは地層を例にしましたが、ものごとを決断する時、それが二分法が適用できる場合であっても、判断が下せない時がよくあります。そんな時は、無理やり決断をしてしまうより、二分法に「未定」を加えた、三分法(trichotomy)に無意識にしていることがあるのではないでしょうか。もちろん、決断すべき時に決断できないのは、優柔不断なことです。しかし、根拠ない選択や納得できない決断をするより、二分法を三分法にする決断の方が、もしかすると大切なこともあるのかもしれません。
・二分法的な気分・
いよいよ3月です。
北海道も一番寒い時期は過ぎました。
今年の冬は前半は暖かかったのですが、
後半は例年通りに寒さや降雪がありました。
3月ともなると大学は、
入試や入試判定、卒業判定、単位認定などの
決定が下るシーズンでもあります。
そして、大学は卒業と入学、
学生は卒業と入社、あるいは進級を迎えます。
そんな年度の変わり目には、
喜びと悲しみ、期待と不安、歓喜と失望、
愛はする二分法的な気持ちが、大学の中を飛び交います。
3月は、そんな季節でもあります。
・卒業研究・
明治から昭和の戦前ことまでは、
卒業研究がそのまま学術的価値が評価され、
その内容は、学会誌に掲載されるほどのものがざらにあったようです。
当時の卒業研究は、非常にレベルが高かった、
つまり学生の能力が高かったといえるのでしょう。
それは、当時の日本の地質学がまだ黎明期で
調べられていない地域も多く、
大発見もしやすかったのでしょう。
しかし現在では、そのような卒業研究をするのは
なかなか困難になっています。
卒業研究とは、大学を卒業するために必要なものであって、
学術的価値はそれほどではないのが現状ではないでしょうか。
学術的価値よりは、野外調査の経験や
研究をまとめるまでのプロセスを学ぶという
教育的意義が重視されています。
今や、野外調査だけで論文が書ける時代ではなくなりました。
試料やデータを持ち帰り、分析や解析をして、
いろいろな機器やテクニックを使わなければ、
研究成果を挙げられなくなりました。
これは、科学の進歩であるのでしょうが、
徒労感や虚しさ感じてしまうのは、私だけでしょうか。
もちろん、昔と今の若者の体力や、調査の条件は違うでしょう。
しかし、1年間、まじめに卒業研究に取り組んでいる
現在の学生の労力や時間、データ量は、
決して昔に劣っているわけではないと思います。
学生が卒業研究にかける情熱や熱意は、
今も昔も変わらないものがあると思います。
その情熱を評価対象にしたいものですね。
ディコトミー(ダイコトミーと発音されることがあります)という言葉を聴いたことがあるでしょうか。英語に詳しい人でないと、聞いたことがないかも知れません。ディコトミーとは、英語のdichotomyと書かれるものです。日本語では、「二分法」と呼ばれているものです。
二分法とは、テストなどでは○か×、質問でYesかNoなどの二者選択をする考え方です。思考法としては、非常に単純な、誰でも理解できるものです。二分法は、選択肢が2つなので、命題が2つのどちらからにしかならないもの(論理的には互いに排斥し合うといいます)でなければなりません。普通に使えば、論理的で決断するときには便利なものです。しかし、誤用するととんでもない選択をすることになります。
二分法における有名な誤用の例として、魔女狩りの論理があります。それ次のような手順に行われます。まず「お前は魔女か、魔女でないか」という二者選択の質問をします。「はい」といえば、魔女として処刑されます。「いいえ」と答えると拷問されます。拷問の後、「お前は魔女か、魔女でないか」という二者選択の質問がされます。これを「はい」と答えるまで、繰り返します。いくら拷問をしても「はい」と答えない人は、「これだけの拷問に耐えられるのは、魔女に違いない」として、処刑されます。
このような誤用であれば、すぐに間違いに気づきますが、少々わかりにくい誤用があります。例えば、ある人に「あなたは、男か女か」と問うのは正しい二分法の使い方です。しかし、「あなたは、男らしいか、女らしいか」と問うのは間違っています。あるいは、「戦争か平和か」、「暴力か話し合いか」、「平等か差別か」、「金持ちか貧乏か」と問うのは正しい二分法といえるでしょうか。一見相反する対立している選択肢にみえますが、よく考えると、それ以外の選択肢があることがわかります。
地層を用いた例を出しましょう。通常の地層は、海底で堆積します。地層が堆積する時には、海底だとはいえ、重力の作用を受けます。重力のかかる方向によって、地層の形成時の上下が決まります。地層はほぼ水平にたまります。ですから、地層面にたして垂直方向が上か下になります。これは、すべての地層の上下があることを意味します。
地層が形成後にどのような作用を受けたとしても、形成時の上下関係は変わることはありません。ある崖でたとえ地層が垂直に立っていたとしても、地層面が堆積時の水平方向になり、その堆積面に対して上下関係が決定できるはずです。もし、ある崖の地層の上下が現在の重力に対して逆を向いていれば、その地層は現在の位置に来るまでに何らかの作用で逆転したということになります。
ある崖に地層があるとしましょう。その地層は、崖に向かって、右方向に45度傾いています。つまり、地層面が45度傾いた地層が重なっているわけです。その崖の地層は、断層や不整合などの不連続はなく、規則正しく連なっているとします。
地層を前にして、「この地層の形成時は、どちらが上か下か」を問うことができるはずです。この問いは、正しい二分法だといえます。その地層ができた時の上下関係はもともとあるはずですから、注意して観察すれば、上下の判定できるはずです。
地質学では、いくつかの手がかりを用いて、上下判定をします。一番良く使われる方法は、級化構造とよばれるもので、堆積物の粒度変化をみるものです。地層を構成している堆積物の粒は、大きさが変化することから探る方法です。海底に土砂が流れ込んだ時、水の中で、重力の影響を受けながら、粗い粒が速く沈み、小さい粒ほどゆっくりと沈みます。ですから、一層の地層の中では、粗い粒が下、細かい粒が上になっているはずです。その粒度変化が見出せれば、地層の上下関係が判定できるわけです。
崖でどれか一つ地層で、確実な上下判定ができれば、断層などがない限り、その上下関係は、一連の地層のすべてに適応できます。この例の崖には断層などはないとしていますので、崖の地層全体に上下関係が適用できます。
地層の上下の二分法は、理論的には非常に簡単そうにみえますが、現実の地層を前にするとなかなか簡単にはいきません。そのため、地層の上下判定の手がかりとして、級化構造以外に、荷重痕(ドーロキャストと呼ばれる)や、斜交葉理(クロスラミナ)、底痕(ソールマーク)、フルートキャスト、漣痕(リップルマーク)、生痕化石などが考えられています。いろいろな判別方法があるのは、簡単そうなのですが、実はそう簡単には判別がつけられないこともあるということです。その困難さは、自然の妙というか、複雑さでもあるのでしょう。
地層の上下判定ができた結果が、大きな研究成果につながることもあります。日本の有名な例として、小澤儀明の研究成果があります。彼は、大学の卒論(1923年)で、山口県の秋吉台を調査しました。秋吉台の石灰岩の中に含まれているフズリナの化石を調べていました。フズリナの化石の種類から、時代を決めることができます。研究を進めていくと、秋吉台の標高の高いところに古い化石が、低いところに新しい化石があることが発見できました。これを手がかりにして、彼は、秋吉台の地質構造が大きく逆転していることが発見しました。彼の卒業論文の結果は、世界的な大発見として評価されました。
さて、二分法にもどりましょう。地層は、どちらかが上か下かになっているはずです。問題としては非常に単純明快で、二分法が適用できます。地質学者は、地層を調査する時は、まずは上下判定をしなければなりません。それは、地質学の教育を受けた時、最初に学ぶことでもあります。ですから、単純ですが、非常に重要な二分法による判定をしなければなりません。しかし、その判定ができないことも多いのです。そんな時は、どうすればいいのでしょうか。
私は、あるいは多くの地質学者がするであろうことは、二分法の問題でありながら、「上」と「下」の選択肢の他に、「未定」(あるいは保留)という選択肢を急遽設けることです。「えい、ままよ」と、2分の1の確率に頼って、不確かな選択をするより、「未定」の方がいい選択といえるからです。そして、近隣の崖で、なんとか地層の上下判定をできないかを探ります。もしできれば、その結果を、問題の崖に適用してよいかを判断するわけです。これは、直接に結論を出さずに、間接的に結論を導くという、あまりよい方法ではありません。しかし、間違いの危険性を冒すより、少なくともある程度は根拠のある選択といえます。
ここでは地層を例にしましたが、ものごとを決断する時、それが二分法が適用できる場合であっても、判断が下せない時がよくあります。そんな時は、無理やり決断をしてしまうより、二分法に「未定」を加えた、三分法(trichotomy)に無意識にしていることがあるのではないでしょうか。もちろん、決断すべき時に決断できないのは、優柔不断なことです。しかし、根拠ない選択や納得できない決断をするより、二分法を三分法にする決断の方が、もしかすると大切なこともあるのかもしれません。
・二分法的な気分・
いよいよ3月です。
北海道も一番寒い時期は過ぎました。
今年の冬は前半は暖かかったのですが、
後半は例年通りに寒さや降雪がありました。
3月ともなると大学は、
入試や入試判定、卒業判定、単位認定などの
決定が下るシーズンでもあります。
そして、大学は卒業と入学、
学生は卒業と入社、あるいは進級を迎えます。
そんな年度の変わり目には、
喜びと悲しみ、期待と不安、歓喜と失望、
愛はする二分法的な気持ちが、大学の中を飛び交います。
3月は、そんな季節でもあります。
・卒業研究・
明治から昭和の戦前ことまでは、
卒業研究がそのまま学術的価値が評価され、
その内容は、学会誌に掲載されるほどのものがざらにあったようです。
当時の卒業研究は、非常にレベルが高かった、
つまり学生の能力が高かったといえるのでしょう。
それは、当時の日本の地質学がまだ黎明期で
調べられていない地域も多く、
大発見もしやすかったのでしょう。
しかし現在では、そのような卒業研究をするのは
なかなか困難になっています。
卒業研究とは、大学を卒業するために必要なものであって、
学術的価値はそれほどではないのが現状ではないでしょうか。
学術的価値よりは、野外調査の経験や
研究をまとめるまでのプロセスを学ぶという
教育的意義が重視されています。
今や、野外調査だけで論文が書ける時代ではなくなりました。
試料やデータを持ち帰り、分析や解析をして、
いろいろな機器やテクニックを使わなければ、
研究成果を挙げられなくなりました。
これは、科学の進歩であるのでしょうが、
徒労感や虚しさ感じてしまうのは、私だけでしょうか。
もちろん、昔と今の若者の体力や、調査の条件は違うでしょう。
しかし、1年間、まじめに卒業研究に取り組んでいる
現在の学生の労力や時間、データ量は、
決して昔に劣っているわけではないと思います。
学生が卒業研究にかける情熱や熱意は、
今も昔も変わらないものがあると思います。
その情熱を評価対象にしたいものですね。
2008年2月1日金曜日
73 化石は過去の生物?:実在と実証(2008.02.01)
実証できることと実証できないこと、あるいは実在していたのか実在していなかったのかについて、長年考えています。しかし、なかなか答えの出ない難解な問題です。その一端を紹介しましょう。
化石は、定義の上では、昔の生物の遺骸や生活の跡などをいいます。化石は、言葉に反して、必ずしも石でなくて(石化していない)もいいことになっています。まあしかし、古い化石は、一般的には石化していますが。
恐竜の歯の化石があるとします。大きさは10cmほどあるとしましょう。かなり大きな歯の化石です。この歯の化石を現在の生物と比べると、これほどの大きさをもつものは、そうそういなはずです。大型の肉食動物の犬歯にあたるサイズです。もし、そのような現在の生物と比べて、形も大きさも違っているとしたとき、この化石をさらに調べるには、どうすればいいでしょうか。
比較形態学(あるいは比較解剖学)の考え方を適用すれば、生物を判別する時には、構造や形態を生物種ごとの差や共通点を重視することになります。差や共通点には、そのものの大きさより、形態の各部位の比率の方が重要になります。
サイズだけに、着目するのではなく、歯の形態をよくみるということです。表面の模様や、稜のぎざぎざ、反り具合、根本から先端への太さの変化などに着目して、特徴を比べていくということです。もしこの化石の歯が、大きさは違いますが、ある爬虫類の歯に似ているとしましょう。大きさが化石より、ずっと小さくても、その爬虫類との類似性に着目していくことになります。
もし、この化石が、今まで見つかっている爬虫類のどれとも違うものであっても、あるいは最初に発見された種類の歯の化石であっても、どのような動物のものであったかを、比較形態学からある程度推測することが可能になります。
このような比較形態学による知識の蓄積、あるいはいろいろな化石への記載の集積があれば、まったく今まで未知の新しい化石であっても、それなりに信頼できる生物像も確立されていきます。例えば、先ほどの歯の化石が、「新種の肉食恐竜の歯だ」という判定も可能になります。
さて、このようなアプローチの方法は、動物だけでなく植物に対しても、生物全般に対してとられているものです。まあいってみれば古生物学の典型的な化石同定法というべきものです。このような手法のおかげで、たとえ新種であっても、たった一つの歯の化石から、大きな恐竜の骨格が復元され、イメージ図さえも描かれていきます。
乱暴ないいかたですが、化石の研究とは、比較や類似の集積から成り立っているといえます。数学のように緻密な論証を積み上げた論理のように見えません。では、上で述べたような化石の同定手法を見た時、どこまで確かな方法、あるいは信頼できる方法だといえるでしょうか。古生物学者は、「当たり前の方法なのに、いまさらなにを」といわれるかもしれません。でも、私は、そんな当たり前のことに、疑問を感じてしまうのです。
化石とは、定義上では、過去の生物の生活痕も含みますが、生活痕を一緒に扱うとややこしくなるので、ここでは、化石を過去の生物一部として話を進めましょう。
そもそも生物か無生物かは、生きていてこそ、はじめて生物と判断できます。無生物とは、生きてはいないものです。化石の歯は、生物の器官として特徴のある形態を持っていますが、今生きている生物ではありません。なのに、どうして、生きている生物の一部であったのかを判断できるのでしょうか。
別の例を出しましょう。貝殻の化石が、かつては生きていた貝の殻ということを証明できるかどうかです。もっと単純化していえば、海岸で見つけた貝殻は、もともと生きていた貝の一部だと、どうやって証明するかとういうことです。私には、これは難しい問題にみえます。
死体の一部から、全体像、あるいは機能していたであろう全メカニズムを含む総体(まだ生物とは判定されていないもの)と、生物(生きているもの)との間の「失われた鎖」を見つけることはできるのかということです。
実証主義の立場でいえば、「失われた鎖」を実証することは不可能です。サン・シモンによれば、実証主義とは「観察された事実」だけによって理論をつくりあげるものだからです。実証主義による手法とは、一種の帰納法とみませます。
生きている貝と、海岸に落ちている貝殻には、多数の類似性はあります。しかし、「類似」と「同一」とは違います。生きている貝と貝殻における一番の違いは、「生きているか」どうかです。実証的立場に立つのなら、貝殻の生きていたという事実を見つけられるかどうかです。生きている貝が死んで貝殻になるのを見届けられたものだけが、生きていた貝と貝殻が「同一」であるとみなせるものでしょう。それ以外は、どんなに「類似性」が一杯あっても、「同一」にはなりえません。ですから、貝殻が生きていた貝であったという事実を示して実証することは不可能です。
実証主義に対して、批判はあります。そもそも「事実」などというものが、本当に存在するのかという批判です。カール・ポッパーは、「事実」を観察することや収集すること自体が、もはや何らかの考え方や仮説に基づいたものであって、信頼に足るものではないと考えました。ですから、そのような事実をいくら集積しても、帰納的に理論を生むことはできないし、事実によって理論が証明されたとはいえないとして、実証主義を批判しました。
今まで苦労してデータを集めても導き出してきた事実すら、信頼ならんというのです。しかし、ポッパーは、信頼すべき方法も提示しています。まず、ある仮説が科学的かどうかの基準として「反証可能性」を持っていること、そして反証のための「テスト」を受けて耐えた仮説ほど信頼性が高いとみなすのです。反証可能性とは、ある仮説をだしたとき、その仮説が間違っていることを示せるような実験や観察などを提示できるかどうかです。
先ほどの貝殻が生きている貝の殻でないことを示すには、自然界で起こりうる無生物による作用で、貝殻そっくりのものできる可能性を反証として示せばいいのです。でも、そのようなものはすぐには思いつけませんし、ありそうにもありません。「反証可能性」を示すことができません。となると、先ほどの仮説、「貝殻は生きていた貝の殻」であるというのは、信頼できない仮説なのでしょうか。多分、いやきっと「本当」だと思います。でも、こんな当たり前ことが、納得するような説明ができないのです。
実証主義あるいは反証主義にこだわっていると、前に進めなくなります。単純に、私たちが感じ、見て聞きし、経験している通りのもの(事実)が、存在していると考えればどうでしょうか。これならば、案外簡単に貝殻がもとは生きていた貝であったことや、歯の化石は今はもういない恐竜のものであったことも、解決できます。これは、実在論(素朴実在論と呼ばれる)の立場になります。
そこまで素朴あるいは楽観的に考えると、あまりに主観的過ぎるので、もう少し客観的になるべきでしょう。こうすればどうでしょうか。
私たちが知覚し経験していることを、計測、測定、分析などの再現性のある、科学的にみえる操作を経て、多数の類似のものと比較対照し、抽象や捨象することで客観性を出すのです(広義の実在論あるいは批判的実在論の立場)。こうすれば、科学的な手続きを経た多数のデータを比較検討して導き出したもの、つまり多数の「類似性」という事実は、「同一」に転化できるのです。多数の類似性という客観的事実、が同一の実在を保障するとみなすのです。
これもやはり、いくら多数のという条件をつけても、「類似性」から「同一」というところに論理の飛躍があります。
貝殻とは生きていた貝の殻であり、歯の化石が昔生きていたはずの恐竜のものだといいたいのです。もっとえば、化石とは昔の生物であったということを証明したのです。古生物学者は当たり前だと思っている論理が、納得できないのです。納得するための方法は、あるのでしょうか。
私には今のところ納得のできる解決策は、まだ見出せていません。私なりに、このテーマをもっと考えていきたいと思っています。
・長年の疑問・
今回のエッセイは、もともと化石と生物の関係について
考えていることを書くつもりでした。
そしてその視点を、実は不可知論に置くつもりでいました。
しかし、実際に書き進めていくと、
実在論と実証論へと話が展開していきました。
実は、化石が生物であったのかどうかという問は
長年私の中にありました。
その中には、生物と生命というものについて定義、
あるいは生命とはという命題もありました。
当たり前に思えることが、深く考えていくと
どうも当たり前ではないことに気づきます。
そうなると、地質学の根底を疑いたくなります。
化石によって気づかれた過去の地球の姿、イメージは
単に空想上のものに過ぎないのかもしれません。
そうならないことを祈りつつも、
納得できる答えをまだ得られないでいます。
まだまだ道は遠そうですね。
化石は、定義の上では、昔の生物の遺骸や生活の跡などをいいます。化石は、言葉に反して、必ずしも石でなくて(石化していない)もいいことになっています。まあしかし、古い化石は、一般的には石化していますが。
恐竜の歯の化石があるとします。大きさは10cmほどあるとしましょう。かなり大きな歯の化石です。この歯の化石を現在の生物と比べると、これほどの大きさをもつものは、そうそういなはずです。大型の肉食動物の犬歯にあたるサイズです。もし、そのような現在の生物と比べて、形も大きさも違っているとしたとき、この化石をさらに調べるには、どうすればいいでしょうか。
比較形態学(あるいは比較解剖学)の考え方を適用すれば、生物を判別する時には、構造や形態を生物種ごとの差や共通点を重視することになります。差や共通点には、そのものの大きさより、形態の各部位の比率の方が重要になります。
サイズだけに、着目するのではなく、歯の形態をよくみるということです。表面の模様や、稜のぎざぎざ、反り具合、根本から先端への太さの変化などに着目して、特徴を比べていくということです。もしこの化石の歯が、大きさは違いますが、ある爬虫類の歯に似ているとしましょう。大きさが化石より、ずっと小さくても、その爬虫類との類似性に着目していくことになります。
もし、この化石が、今まで見つかっている爬虫類のどれとも違うものであっても、あるいは最初に発見された種類の歯の化石であっても、どのような動物のものであったかを、比較形態学からある程度推測することが可能になります。
このような比較形態学による知識の蓄積、あるいはいろいろな化石への記載の集積があれば、まったく今まで未知の新しい化石であっても、それなりに信頼できる生物像も確立されていきます。例えば、先ほどの歯の化石が、「新種の肉食恐竜の歯だ」という判定も可能になります。
さて、このようなアプローチの方法は、動物だけでなく植物に対しても、生物全般に対してとられているものです。まあいってみれば古生物学の典型的な化石同定法というべきものです。このような手法のおかげで、たとえ新種であっても、たった一つの歯の化石から、大きな恐竜の骨格が復元され、イメージ図さえも描かれていきます。
乱暴ないいかたですが、化石の研究とは、比較や類似の集積から成り立っているといえます。数学のように緻密な論証を積み上げた論理のように見えません。では、上で述べたような化石の同定手法を見た時、どこまで確かな方法、あるいは信頼できる方法だといえるでしょうか。古生物学者は、「当たり前の方法なのに、いまさらなにを」といわれるかもしれません。でも、私は、そんな当たり前のことに、疑問を感じてしまうのです。
化石とは、定義上では、過去の生物の生活痕も含みますが、生活痕を一緒に扱うとややこしくなるので、ここでは、化石を過去の生物一部として話を進めましょう。
そもそも生物か無生物かは、生きていてこそ、はじめて生物と判断できます。無生物とは、生きてはいないものです。化石の歯は、生物の器官として特徴のある形態を持っていますが、今生きている生物ではありません。なのに、どうして、生きている生物の一部であったのかを判断できるのでしょうか。
別の例を出しましょう。貝殻の化石が、かつては生きていた貝の殻ということを証明できるかどうかです。もっと単純化していえば、海岸で見つけた貝殻は、もともと生きていた貝の一部だと、どうやって証明するかとういうことです。私には、これは難しい問題にみえます。
死体の一部から、全体像、あるいは機能していたであろう全メカニズムを含む総体(まだ生物とは判定されていないもの)と、生物(生きているもの)との間の「失われた鎖」を見つけることはできるのかということです。
実証主義の立場でいえば、「失われた鎖」を実証することは不可能です。サン・シモンによれば、実証主義とは「観察された事実」だけによって理論をつくりあげるものだからです。実証主義による手法とは、一種の帰納法とみませます。
生きている貝と、海岸に落ちている貝殻には、多数の類似性はあります。しかし、「類似」と「同一」とは違います。生きている貝と貝殻における一番の違いは、「生きているか」どうかです。実証的立場に立つのなら、貝殻の生きていたという事実を見つけられるかどうかです。生きている貝が死んで貝殻になるのを見届けられたものだけが、生きていた貝と貝殻が「同一」であるとみなせるものでしょう。それ以外は、どんなに「類似性」が一杯あっても、「同一」にはなりえません。ですから、貝殻が生きていた貝であったという事実を示して実証することは不可能です。
実証主義に対して、批判はあります。そもそも「事実」などというものが、本当に存在するのかという批判です。カール・ポッパーは、「事実」を観察することや収集すること自体が、もはや何らかの考え方や仮説に基づいたものであって、信頼に足るものではないと考えました。ですから、そのような事実をいくら集積しても、帰納的に理論を生むことはできないし、事実によって理論が証明されたとはいえないとして、実証主義を批判しました。
今まで苦労してデータを集めても導き出してきた事実すら、信頼ならんというのです。しかし、ポッパーは、信頼すべき方法も提示しています。まず、ある仮説が科学的かどうかの基準として「反証可能性」を持っていること、そして反証のための「テスト」を受けて耐えた仮説ほど信頼性が高いとみなすのです。反証可能性とは、ある仮説をだしたとき、その仮説が間違っていることを示せるような実験や観察などを提示できるかどうかです。
先ほどの貝殻が生きている貝の殻でないことを示すには、自然界で起こりうる無生物による作用で、貝殻そっくりのものできる可能性を反証として示せばいいのです。でも、そのようなものはすぐには思いつけませんし、ありそうにもありません。「反証可能性」を示すことができません。となると、先ほどの仮説、「貝殻は生きていた貝の殻」であるというのは、信頼できない仮説なのでしょうか。多分、いやきっと「本当」だと思います。でも、こんな当たり前ことが、納得するような説明ができないのです。
実証主義あるいは反証主義にこだわっていると、前に進めなくなります。単純に、私たちが感じ、見て聞きし、経験している通りのもの(事実)が、存在していると考えればどうでしょうか。これならば、案外簡単に貝殻がもとは生きていた貝であったことや、歯の化石は今はもういない恐竜のものであったことも、解決できます。これは、実在論(素朴実在論と呼ばれる)の立場になります。
そこまで素朴あるいは楽観的に考えると、あまりに主観的過ぎるので、もう少し客観的になるべきでしょう。こうすればどうでしょうか。
私たちが知覚し経験していることを、計測、測定、分析などの再現性のある、科学的にみえる操作を経て、多数の類似のものと比較対照し、抽象や捨象することで客観性を出すのです(広義の実在論あるいは批判的実在論の立場)。こうすれば、科学的な手続きを経た多数のデータを比較検討して導き出したもの、つまり多数の「類似性」という事実は、「同一」に転化できるのです。多数の類似性という客観的事実、が同一の実在を保障するとみなすのです。
これもやはり、いくら多数のという条件をつけても、「類似性」から「同一」というところに論理の飛躍があります。
貝殻とは生きていた貝の殻であり、歯の化石が昔生きていたはずの恐竜のものだといいたいのです。もっとえば、化石とは昔の生物であったということを証明したのです。古生物学者は当たり前だと思っている論理が、納得できないのです。納得するための方法は、あるのでしょうか。
私には今のところ納得のできる解決策は、まだ見出せていません。私なりに、このテーマをもっと考えていきたいと思っています。
・長年の疑問・
今回のエッセイは、もともと化石と生物の関係について
考えていることを書くつもりでした。
そしてその視点を、実は不可知論に置くつもりでいました。
しかし、実際に書き進めていくと、
実在論と実証論へと話が展開していきました。
実は、化石が生物であったのかどうかという問は
長年私の中にありました。
その中には、生物と生命というものについて定義、
あるいは生命とはという命題もありました。
当たり前に思えることが、深く考えていくと
どうも当たり前ではないことに気づきます。
そうなると、地質学の根底を疑いたくなります。
化石によって気づかれた過去の地球の姿、イメージは
単に空想上のものに過ぎないのかもしれません。
そうならないことを祈りつつも、
納得できる答えをまだ得られないでいます。
まだまだ道は遠そうですね。
2008年1月1日火曜日
72 進歩よ止まれ:ムーアの法則(2008.01.01)
明けましておめでとうございます。昨年の御愛読ありがとうございました。今年も、よろしくお願いします。今年最初のエッセイは、科学の進歩と自分の進歩について考えてみました。
ITやコンピュータの世界は、日進月歩で進歩しています。半年ごとにパソコンの新機種が発売され、その性能は増していきます。ありがたいことに、値段はそれほど変わりません。このような新機種の定期的な発売が、当たり前に思えるほど、IT関連の技術はとどまることなく発展しています。
私事になりますが、私のコンピュータとの付き合いを紹介していきます。
私が、はじめてコンピュータを使ったのは、修士課程の大学院生としてO大学のO研究所にいた時です。EPMAと呼ばれる鉱物の化学組成を分析する装置を使っていました。その装置によって測定した数値データを処理するために、大型計算機を使った時がコンピュータとの最初の出会いでした。
その研究所には鉱物の分子動力学(Moleculer Dynamics、MDと略されています)の実験を計算機を使ってされているM先生がおられました。M先生が作成されたEPMA用の補正計算のプログラムを使用させていだきました。その大型計算機は、M先生が一人で使われていたものでした。四六時中、大型計算機はMDの計算を続けていました。大型計算機を中断する方法を聞いていたので、私の補正計算を終われば、またMDの計算をスタートさせるということで、使用させていただきました。
分析装置からの未加工のデータは、紙テープに打ち出されていました。紙テープを大型計算機のテープリーダに読み込ませて、計算をさせていました。地質学で野外調査を主な手法としていた私が、はじめて出合ったコンピュータは、富士通の大型計算機でした。今思えば、少々変わったコンピュータとの出会いかもしれません。
その後、H大学の博士課程に進んだ頃には、パソコンが普及し始めて、NECのPC9800やPC8800シリーズが大学の研究室に導入されはじめていました。やがて、私もパソコンを購入できるようになりました。はじめは、BASICという言語で、プログラムを自分で作成をして、計算をはじめました。自分が出したデータや、比較検討のために文献から集めた大量のデータを入力して、グラフにしてプロットすることも行っていました。しかし、成果発表のための図は手書きでしたし、コンピュータを使って打ち出した図も、手で清書していました。
この時期が、文章(英語論文)を、タイプライターで打つかワープロで書くかの狭間の時代だったようです。私の最初と2番目の論文は、タイプライターで打ちました。その後は、WordStarというパソコンのワープロを用いて、3編目と博士論文を書きました。当時、私は研究室ではじめてワープロを使って博士論文を仕上げたことになりました。
WordStarにはスペルチェックの機能があり、博士論文の副査のH先生から、ミス・スペルがない論文なので驚いたといわれました。今では、スペルチェックは、ワープロには当たり前についている機能ですが、当時は知らない方もおられ、驚かれました。本当は、研究内容で、驚かれるべきなのでしょうが。
その頃より後は、私、少なくとも理工系の研究者は、コンピュータなしで研究がやっていけない時代へと変化しました。分析装置の制御、データ処理、データ整理、グラフ作成、画像処理、作図、作表、文章作成などの研究や論文作成にかかわることだけでなく、学会の連絡や学会発表、研究者同士の連絡も、インターネットやメールを使っています。その窓口は、すべてコンピュータとなっています。
研究者の必需品ともいうべきコンピュータは、日進月歩としていますから、研究をするにしても、研究成果をまとめるにも、学会へ報告するにも、新しいシステムやアプリケーションがでてくれば、対処しなければなりません。分析装置が導入され、それが新しいシステムやアプリケーションで動くのであれば、いやおうなしに、進歩につき合わされていきます。
私は、コンピュータの専門家ではないですが、その進歩には驚かされます。コンピュータの進歩のスピードを考えた人がいます。Intelの創業者の一人であるゴードン・ムーアが最初に提唱したものです。彼らの名前をとって、「ムーアの法則」と呼ばれていますが、ICやLSIなどの集積回路の集積密度は、18から24ヶ月ごとに倍になる、という経験則です。現在までの数値をみると、2年で2倍になっているように見えます。これは、進歩という視点でみても、驚異的なスピードといえるものです。
高速のコンピュータを必要とする人にとっては、技術の進歩は福音になります。でも、まだ使えるはずのコンピュータを数年ごとに買い換えて使い捨てるような風潮は、果たしていいことなのでしょうか。多分多くの人は疑問を感じているはずです。使い捨てを育むような思想が、将来のために資産を食い尽くしそうな気がします。
でも、研究者は、成果を出さなければなりません。そのために必要悪ともいうべき、進歩への対処が迫られます。たとえ現状の環境で満足している人にとっても、常に自分の仕事に使っている道具であるコンピュータは、壊れる心配があります。もし壊れて本体を買い換えれば、新しいコンピュータには、新しいシステムやアプリケーションが入っています。それを使わざる得ない事情もあります。
コンピュータが普及して間もない頃は、自分のやりたいことを、コンピュータがあるいはアプリケーションが行えない、できても遅いという不満がありました。その頃は、もっと速く処理ができないかと、ユーザは願っていました。ユーザの希望を受け入れてバージョンが続けられ、それを待ちわびて進歩を喜んで迎え入れていました。
現在では、コンピュータは充分な能力を持っているのではないでしょうか。ですから、進歩より、耐久性を持って欲しいものです。「進歩よ、止まれ」、「コンピュータよ、耐久品になれ」といいたい気分です。
私は、現状のコンピュータの能力で充分満足していますし、やっていけます。今まで使っているアプリケーションが動く限り、それで不自由はないのですが、もしコンピュータが壊れれば、新しいものに買い換えなければなりません。その時、新しいバージョンのシステムが導入されることになります。
私は、新しいシステムを気にしながらも、4年前に購入したパソコンを古いシステムで使っています。今、使わなければ仕事ができなくなるアプリケーションが、新しいシステムに対応しているかどうか不明です。さらに、今まで使っていたアプリケーションだけでなく、蓄積したデータ、過去のファイルが使えなくなると、おおいに困ります。
そのために、常にファイルの互換性には気を配っています。文章はできる限りテキストファイルにしています。データも、MSエクセルやMSワードのシンプルなファイルしていますし、ホームページもHTMLだけのシンプルなものにしています。しかし、どうしても特別なファイルを扱わなければならないこともあります。例えば、ドロー系や数値地図用のアプリケーションなどですが、新しいシステムで動くという保証がないものもあります。
かつては、初期の日本語ワープロは、単漢字で入力していました。今のワープロは、スペルミスだけでなく、日本語の間違いを指摘してくれます。必要とあれば、類語も出してくれます。各種辞典や百科事典も利用できます。データベースも利用できます。フリーの百科事典であるウィキペディア(Wikipedia)もあります。こんなに、大量の情報が手軽に利用できるとは、初期のパソコンを使っていた時代からは、想像もできません。隔世の感があります。
非常に便利になったのですが、では、私の研究は、ムーアの法則に則って、深まりを増したでしょうか。いや、実際のところ、薄まってきたのような気がします。今は、年に数編の論文を書きますが、以前は1年から数年に1編しか書かなかった時期もありました。このような時期は、論文を書くより、研究をすること、考えることに時間を割いていたような気がします。そして、自然の不思議さを研究することに、わくわくしていました。そして、自然の奥深さに感動していたような気がします。
研究や論文に対する思い入れは、時間を書けた分、大きくなっていたようです。時間をかけて研究していた時代の論文には、好奇心や研究への強い気持ちが込められているのかもしれません。業績や評価からすると、こんなのは数字に表れない、取るに足らない些細なことかもしれません。でも、使い捨てのコンピュータのように、義務的な研究、早く論文にできる研究、論文数だけを考えた研究、論文を書けば終わりの研究、になってきているような気がします。
これは、単なる過去へのノスタルジーや単なる思い過ごしでしょうか。でも、せめて年の初めくらいは、今までの自分の仕事への取り組み方、思い入れの強さ、初心などに、考えをめぐらせることも必要かもしれませんね。
・母の訪問・
年の初めは、心も改まるような気がします。
気がするだけかも知れません。
我が家はあわただしい、暮れと正月を過ごします。
それは、母が暮れから我が家に来て、
正月の元旦に帰るためです。
元旦は交通機関がすいているのと、
母は、我が家と自宅でも正月が祝えるからです。
ここ数年、母と我が家の恒例になっています。
暮れには、母を連れて、近くの温泉のはしごをすることになります。
冬の北海道は、雪と温泉だけはこと欠きませんから、
いっぱい味わってもらいたいものです。
・進歩もほどほどに・
私は、DOS、そしてある時期はMacを使ってました。
しかし、いろいろな理由から
現在は再びWindowsに戻りました。
ただし、Windowsは、もちろんVistaではなく、XPです。
今年購入したノートパソコンも
わざわざXPバージョンのものを購入しました。
現在メインに使っているデスクトップのパソコンの容量が
そろそろいっぱいになってきました。
外付けハードディスク500GBと1TBをつけて
データ保存とバックアップ用として使っています。
コンピュータのハードディスク(150GB)には
アプリケーションと必要なデータ、ファイルだけを入れています。
その空き容量が、だんだん残り少なくなってきています。
ですから、将来を考えると、不安ですが、
まだ、即座に乗り換える気がしません。
今使っているソフトが動くことを確かめてからです。
そんなとき、いつも思うのは、パソコンに関して、
ムーアの法則を、本当に多くの人が喜んでいるのかという疑問です。
それとも、私たちは、進歩という魔法で踊らせているに過ぎないのでしょうか。
道具の進歩は、喜ぶべきことなのですが、
ほどほどがいいのではないでしょうか。
ITやコンピュータの世界は、日進月歩で進歩しています。半年ごとにパソコンの新機種が発売され、その性能は増していきます。ありがたいことに、値段はそれほど変わりません。このような新機種の定期的な発売が、当たり前に思えるほど、IT関連の技術はとどまることなく発展しています。
私事になりますが、私のコンピュータとの付き合いを紹介していきます。
私が、はじめてコンピュータを使ったのは、修士課程の大学院生としてO大学のO研究所にいた時です。EPMAと呼ばれる鉱物の化学組成を分析する装置を使っていました。その装置によって測定した数値データを処理するために、大型計算機を使った時がコンピュータとの最初の出会いでした。
その研究所には鉱物の分子動力学(Moleculer Dynamics、MDと略されています)の実験を計算機を使ってされているM先生がおられました。M先生が作成されたEPMA用の補正計算のプログラムを使用させていだきました。その大型計算機は、M先生が一人で使われていたものでした。四六時中、大型計算機はMDの計算を続けていました。大型計算機を中断する方法を聞いていたので、私の補正計算を終われば、またMDの計算をスタートさせるということで、使用させていただきました。
分析装置からの未加工のデータは、紙テープに打ち出されていました。紙テープを大型計算機のテープリーダに読み込ませて、計算をさせていました。地質学で野外調査を主な手法としていた私が、はじめて出合ったコンピュータは、富士通の大型計算機でした。今思えば、少々変わったコンピュータとの出会いかもしれません。
その後、H大学の博士課程に進んだ頃には、パソコンが普及し始めて、NECのPC9800やPC8800シリーズが大学の研究室に導入されはじめていました。やがて、私もパソコンを購入できるようになりました。はじめは、BASICという言語で、プログラムを自分で作成をして、計算をはじめました。自分が出したデータや、比較検討のために文献から集めた大量のデータを入力して、グラフにしてプロットすることも行っていました。しかし、成果発表のための図は手書きでしたし、コンピュータを使って打ち出した図も、手で清書していました。
この時期が、文章(英語論文)を、タイプライターで打つかワープロで書くかの狭間の時代だったようです。私の最初と2番目の論文は、タイプライターで打ちました。その後は、WordStarというパソコンのワープロを用いて、3編目と博士論文を書きました。当時、私は研究室ではじめてワープロを使って博士論文を仕上げたことになりました。
WordStarにはスペルチェックの機能があり、博士論文の副査のH先生から、ミス・スペルがない論文なので驚いたといわれました。今では、スペルチェックは、ワープロには当たり前についている機能ですが、当時は知らない方もおられ、驚かれました。本当は、研究内容で、驚かれるべきなのでしょうが。
その頃より後は、私、少なくとも理工系の研究者は、コンピュータなしで研究がやっていけない時代へと変化しました。分析装置の制御、データ処理、データ整理、グラフ作成、画像処理、作図、作表、文章作成などの研究や論文作成にかかわることだけでなく、学会の連絡や学会発表、研究者同士の連絡も、インターネットやメールを使っています。その窓口は、すべてコンピュータとなっています。
研究者の必需品ともいうべきコンピュータは、日進月歩としていますから、研究をするにしても、研究成果をまとめるにも、学会へ報告するにも、新しいシステムやアプリケーションがでてくれば、対処しなければなりません。分析装置が導入され、それが新しいシステムやアプリケーションで動くのであれば、いやおうなしに、進歩につき合わされていきます。
私は、コンピュータの専門家ではないですが、その進歩には驚かされます。コンピュータの進歩のスピードを考えた人がいます。Intelの創業者の一人であるゴードン・ムーアが最初に提唱したものです。彼らの名前をとって、「ムーアの法則」と呼ばれていますが、ICやLSIなどの集積回路の集積密度は、18から24ヶ月ごとに倍になる、という経験則です。現在までの数値をみると、2年で2倍になっているように見えます。これは、進歩という視点でみても、驚異的なスピードといえるものです。
高速のコンピュータを必要とする人にとっては、技術の進歩は福音になります。でも、まだ使えるはずのコンピュータを数年ごとに買い換えて使い捨てるような風潮は、果たしていいことなのでしょうか。多分多くの人は疑問を感じているはずです。使い捨てを育むような思想が、将来のために資産を食い尽くしそうな気がします。
でも、研究者は、成果を出さなければなりません。そのために必要悪ともいうべき、進歩への対処が迫られます。たとえ現状の環境で満足している人にとっても、常に自分の仕事に使っている道具であるコンピュータは、壊れる心配があります。もし壊れて本体を買い換えれば、新しいコンピュータには、新しいシステムやアプリケーションが入っています。それを使わざる得ない事情もあります。
コンピュータが普及して間もない頃は、自分のやりたいことを、コンピュータがあるいはアプリケーションが行えない、できても遅いという不満がありました。その頃は、もっと速く処理ができないかと、ユーザは願っていました。ユーザの希望を受け入れてバージョンが続けられ、それを待ちわびて進歩を喜んで迎え入れていました。
現在では、コンピュータは充分な能力を持っているのではないでしょうか。ですから、進歩より、耐久性を持って欲しいものです。「進歩よ、止まれ」、「コンピュータよ、耐久品になれ」といいたい気分です。
私は、現状のコンピュータの能力で充分満足していますし、やっていけます。今まで使っているアプリケーションが動く限り、それで不自由はないのですが、もしコンピュータが壊れれば、新しいものに買い換えなければなりません。その時、新しいバージョンのシステムが導入されることになります。
私は、新しいシステムを気にしながらも、4年前に購入したパソコンを古いシステムで使っています。今、使わなければ仕事ができなくなるアプリケーションが、新しいシステムに対応しているかどうか不明です。さらに、今まで使っていたアプリケーションだけでなく、蓄積したデータ、過去のファイルが使えなくなると、おおいに困ります。
そのために、常にファイルの互換性には気を配っています。文章はできる限りテキストファイルにしています。データも、MSエクセルやMSワードのシンプルなファイルしていますし、ホームページもHTMLだけのシンプルなものにしています。しかし、どうしても特別なファイルを扱わなければならないこともあります。例えば、ドロー系や数値地図用のアプリケーションなどですが、新しいシステムで動くという保証がないものもあります。
かつては、初期の日本語ワープロは、単漢字で入力していました。今のワープロは、スペルミスだけでなく、日本語の間違いを指摘してくれます。必要とあれば、類語も出してくれます。各種辞典や百科事典も利用できます。データベースも利用できます。フリーの百科事典であるウィキペディア(Wikipedia)もあります。こんなに、大量の情報が手軽に利用できるとは、初期のパソコンを使っていた時代からは、想像もできません。隔世の感があります。
非常に便利になったのですが、では、私の研究は、ムーアの法則に則って、深まりを増したでしょうか。いや、実際のところ、薄まってきたのような気がします。今は、年に数編の論文を書きますが、以前は1年から数年に1編しか書かなかった時期もありました。このような時期は、論文を書くより、研究をすること、考えることに時間を割いていたような気がします。そして、自然の不思議さを研究することに、わくわくしていました。そして、自然の奥深さに感動していたような気がします。
研究や論文に対する思い入れは、時間を書けた分、大きくなっていたようです。時間をかけて研究していた時代の論文には、好奇心や研究への強い気持ちが込められているのかもしれません。業績や評価からすると、こんなのは数字に表れない、取るに足らない些細なことかもしれません。でも、使い捨てのコンピュータのように、義務的な研究、早く論文にできる研究、論文数だけを考えた研究、論文を書けば終わりの研究、になってきているような気がします。
これは、単なる過去へのノスタルジーや単なる思い過ごしでしょうか。でも、せめて年の初めくらいは、今までの自分の仕事への取り組み方、思い入れの強さ、初心などに、考えをめぐらせることも必要かもしれませんね。
・母の訪問・
年の初めは、心も改まるような気がします。
気がするだけかも知れません。
我が家はあわただしい、暮れと正月を過ごします。
それは、母が暮れから我が家に来て、
正月の元旦に帰るためです。
元旦は交通機関がすいているのと、
母は、我が家と自宅でも正月が祝えるからです。
ここ数年、母と我が家の恒例になっています。
暮れには、母を連れて、近くの温泉のはしごをすることになります。
冬の北海道は、雪と温泉だけはこと欠きませんから、
いっぱい味わってもらいたいものです。
・進歩もほどほどに・
私は、DOS、そしてある時期はMacを使ってました。
しかし、いろいろな理由から
現在は再びWindowsに戻りました。
ただし、Windowsは、もちろんVistaではなく、XPです。
今年購入したノートパソコンも
わざわざXPバージョンのものを購入しました。
現在メインに使っているデスクトップのパソコンの容量が
そろそろいっぱいになってきました。
外付けハードディスク500GBと1TBをつけて
データ保存とバックアップ用として使っています。
コンピュータのハードディスク(150GB)には
アプリケーションと必要なデータ、ファイルだけを入れています。
その空き容量が、だんだん残り少なくなってきています。
ですから、将来を考えると、不安ですが、
まだ、即座に乗り換える気がしません。
今使っているソフトが動くことを確かめてからです。
そんなとき、いつも思うのは、パソコンに関して、
ムーアの法則を、本当に多くの人が喜んでいるのかという疑問です。
それとも、私たちは、進歩という魔法で踊らせているに過ぎないのでしょうか。
道具の進歩は、喜ぶべきことなのですが、
ほどほどがいいのではないでしょうか。
2007年12月1日土曜日
71 テセウスの船:同時性と同一性(2007.12.01)
地質学では同時性と同一性が、悩ましい問題となることがあります。そのような問題を表す言葉として同時異相というものがあります。今回は、同時異相について考えていきます。
皆さんは、テセウスの船というものを御存知でしょうか。
テセウスの船は、1世紀から2世紀にかけて活躍したギリシアの著述家プルタルコスが著したギリシアの伝説の中に、登場する話です。
テセウスは、クレタ島にいたミノタウルスを倒し、アリアドネの糸を頼って迷宮から抜け出しました。そして、助けた若者と共に、船でアテネに引き上げてきました。そのときテセウスらが乗ってきた船が、後の時代まで残されていました。時がたつと共に、船をつくっていた木材が腐ってきたので、新しい木に置き換えられながら、船は保存されていました。このテセウスの船の木材が、順次新しいものに入れ替えられていって、もしすべて新しい木材で置き換えられたら、果たしてこの船は、テセウスの船と呼べるのでしょうか。
プルタルコスは、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものといえるのかという疑問を投げかけています。このテセウスの船は、同一性を考えるための一種のパラドクスとして知られるものです。
地質学では、自分が調査している地域内に見つかった同じような地層があったとき、それが同一で連続した地層であることを示さなければならないことがあります。地層の同一性を示すには、いろいろな方法があります。
例えば、地層を構成する岩石が同じであること、地層から産する化石が同じ種類のものであること、地層の時代が同じであること、上か下の地層で特徴あるものを見つけてそれを鍵にして対比することなど、いろいろな同一性の手がかりから証明していきます。
しかし、これらの証明法は、間接的で傍証というべきものです。論理的には、同一であることを直接示しているわけではありません。一番確実な証明方法は、一つの地層を、比べたい地点まで、追跡していくことです。一つの地層が見える限り追跡しています。もし露頭が地下で見えなくても、現在の技術をもってすれば、ボーリングなどをすれば、見ることができます。もし断層などがなくて、大地が連続しているならば、地層を追いかけていけば、最終的に目的の地点まで地層が連続しているかどうか確認できるはずです。
まあ、現実的あるいは技術的にはそのような追跡は困難ですから、両地点の間に露頭をできる限り見つけて、そこで連続性を追いかけることになります。追跡のときに手がかりになるのが、化石や特徴を持った地層です。このような特徴的な地層を、鍵層(key bed)と呼びます。
鍵層にはいろいろなものが使われますが、一番有効なものとして、特徴的な火山灰層があります。特徴的な火山灰層とは、ある火山のある時代の噴火によって放出されたものという意味です。火山灰の堆積は、地質学的には同時とみなせる現象です。ですから、火山灰の鍵層は、同一時間面つまり同時性を示すものなのです。
もし、2つの火山灰層に挟まれた地層があるなら、2つの火山活動の間に溜まったものですが、厳密には同時とはいえませんが、かなり限定された期間に溜まった地層とみなせます。ですから、同一性を証明するために、鍵層は非常に重要な手がかりとなります。
2枚の鍵層があり、その2つの間の地層を比べたとします。地層には特徴的な化石も含まれているとしましょう。ただし、比べたい両地点の間の関係は、不明です。
さて、2つの地点で地層を比べたところ、2つの鍵層が両地点から見つかりました。しかも、間の地層からも同じ化石も見つかりました。しかし、自然現象では、時々不思議なことが起こります。比べたい地層がみるからに違うものだったのです。さて、この地層は同一といえるのでしょうか。
地質学的には、同一としていいような証拠があり、しかし同じとするには、地層の内容が違いするぎるという場合です。実は、このようなことは、距離が離れた地層の対比をする場合には、よくあることなのです。
これは、テセウスの船のパラドクスと似ていると思いませんか。このパラドクスを解くには、地層のでき方を理解していく必要があります。
一般に一つの地層は、土砂が海底に流れ込んでできます。土砂が流れ込むと、傾斜のゆるい海底では土石の流れは弱まり、やがては流れがとまり、一枚の地層ができます。地層の形成は、短時間に限られた範囲で堆積します。似たように時期に、別の川で発生した土石流が、同じ堆積場に流れ込んだ場合、上の例のような地層の関係ができます。これは、地質学においては、それほど特別な現象ではありません。なぜなら、堆積場がそのような環境であることが多いからです。
一つの地層に注目すれば、周辺では薄くなってやがては消えていきます。逆に他方の地層が、だんだん厚さを増していくことがあります。このように地層がだんだん薄くなってやがてなくることを尖滅(せんめつ)と呼んでいます。時には、2つの地層が指を組ませたような入り組んだ関係(指交関係)になっていることもがあります。同時代に近くで溜まった地層で、両者の性質が違うものは同時性を持っていますが、同一性を欠いています。このような地層の関係を地質学では「同時異相」と呼んでいます。
地層とは、無限に続いていくものではなく、どこかでやがては消えていくものなのです。しかし、両者を橋渡しをするような鍵層や化石があれば、同時性を手がかりにして、対比することが可能となります。
このような地層の同時性と同一性の検証の繰り返しによって、その地域のある時代の特徴を編むことができます。それらの時代ごとの特徴を積み重ねていけば、その地域の地質学的歴史、つまり「地史」が出来上がっていきます。
テセウスの船は、同一性を考えるためのパロドクスでした。同一性は同一律や自同律、同一原理などと呼ばれ、論理学では正しい思考をするために従うべき基本的な法則の一つとされています。
同一性とは、AとBがあったとき「A=B」のことですが、古くから哲学では、重要な問題とされています。
ライプニッツの考えによれば、識別できない2つの個体は存在せず、それを同一とするというもので、「不可識別者同一の原理」と呼んでいます。この原理は、Aの持つ全ての性質をBが持ち、またBが持つ全ての性質をAが持つとき、「A=B」が成り立つというものです。同一性は、神と人間を区別したり、実体を判別したりするために、非常に重要な役割をもってきました。
一見当たり前のようにみえる同一性も、厳密に考えていくと、いろいろややこしい問題を含んでいることがわかります。テセウスの船のパラドクスへの答えも、考え方によって違ってきます。
アリストテレスのテセウスの船に対する考えを紹介しましょう。アリストテレスは、事象の原因を4つに分け(四原因説)て考えました。その原因に基づいて解釈すれば、このパラドクスは解ける考えました。
テセウスの船が「何であるか」(形相因)を考えるのであれば、設計などの本質が変わっていないため、「同じ」とみなされます。「何のためものか」(目的因)という点で考えれば、テセウスが使った船という目的は変わっていないので、「同じ」とみなされます。「誰がどのように作ったか」(動力因)とみれば、最初に船を作った職人と同じ道具や技法を使って修理(部品の置換)をしたのだから、「同じ」と考えることができます。ただ、「何からできているか」(質料因)と考えれば、時と共に材質が変わっているので、全部置き換われば、もはや「同一」とはいえなくなります。
これが、アリストテレスの答えです。
地質学では、「何からできいるか」という質料因や「何であるか」という形相因を問うものなので、同時性が保障されたとしても、同一性の証拠になりません。
「同じ」というのは、一見当たり前のことに思えますが、よくよく考えると、そこには複雑な問題があるのです。
・心の余裕が必要・
いよいよ師走になりました。
今年も残すところ、あと1年となりました。
北海道は例年になく寒い冬を迎えています。
今年は、暑い夏と寒い冬でした。
特に原油の値上げという
北海道にはなかなか厳しい冬になります。
それでもなんとか私たちは暮らしています。
現状を、悲観的に捕らえてしまうのは、
私たちが経済に影響を受けすぎているためではないでしょうか。
経済にだけ極度に敏感になりすぎているようです。
季節の変化や自然の変化に
もっと目を向ける必要があるのではないでしょうか。
自然に目を向ける心の余裕が必要ではないでしょうか。
師走の初めにそんなことを感じています。
・困難さ・
今回紹介したのは、地質学でも地層だけの話です。
上で述べたように、地層においても、
同時性や同一性を厳密に認定するのは
なかなか困難な検証を必要とします。
火山岩や変成岩では、同時性や同一性は
もっと複雑な様相を呈します。
火成岩の同一性とは何なのか。
変成岩の同時性とはどの現象を指すのか。
なかなか判断できない
一筋縄でいかない困難さがあります。
大地の生い立ちを探るのは、一苦労です。
ですから、それを解いた感激は
何物にも変えがたいものなのです。
皆さんは、テセウスの船というものを御存知でしょうか。
テセウスの船は、1世紀から2世紀にかけて活躍したギリシアの著述家プルタルコスが著したギリシアの伝説の中に、登場する話です。
テセウスは、クレタ島にいたミノタウルスを倒し、アリアドネの糸を頼って迷宮から抜け出しました。そして、助けた若者と共に、船でアテネに引き上げてきました。そのときテセウスらが乗ってきた船が、後の時代まで残されていました。時がたつと共に、船をつくっていた木材が腐ってきたので、新しい木に置き換えられながら、船は保存されていました。このテセウスの船の木材が、順次新しいものに入れ替えられていって、もしすべて新しい木材で置き換えられたら、果たしてこの船は、テセウスの船と呼べるのでしょうか。
プルタルコスは、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものといえるのかという疑問を投げかけています。このテセウスの船は、同一性を考えるための一種のパラドクスとして知られるものです。
地質学では、自分が調査している地域内に見つかった同じような地層があったとき、それが同一で連続した地層であることを示さなければならないことがあります。地層の同一性を示すには、いろいろな方法があります。
例えば、地層を構成する岩石が同じであること、地層から産する化石が同じ種類のものであること、地層の時代が同じであること、上か下の地層で特徴あるものを見つけてそれを鍵にして対比することなど、いろいろな同一性の手がかりから証明していきます。
しかし、これらの証明法は、間接的で傍証というべきものです。論理的には、同一であることを直接示しているわけではありません。一番確実な証明方法は、一つの地層を、比べたい地点まで、追跡していくことです。一つの地層が見える限り追跡しています。もし露頭が地下で見えなくても、現在の技術をもってすれば、ボーリングなどをすれば、見ることができます。もし断層などがなくて、大地が連続しているならば、地層を追いかけていけば、最終的に目的の地点まで地層が連続しているかどうか確認できるはずです。
まあ、現実的あるいは技術的にはそのような追跡は困難ですから、両地点の間に露頭をできる限り見つけて、そこで連続性を追いかけることになります。追跡のときに手がかりになるのが、化石や特徴を持った地層です。このような特徴的な地層を、鍵層(key bed)と呼びます。
鍵層にはいろいろなものが使われますが、一番有効なものとして、特徴的な火山灰層があります。特徴的な火山灰層とは、ある火山のある時代の噴火によって放出されたものという意味です。火山灰の堆積は、地質学的には同時とみなせる現象です。ですから、火山灰の鍵層は、同一時間面つまり同時性を示すものなのです。
もし、2つの火山灰層に挟まれた地層があるなら、2つの火山活動の間に溜まったものですが、厳密には同時とはいえませんが、かなり限定された期間に溜まった地層とみなせます。ですから、同一性を証明するために、鍵層は非常に重要な手がかりとなります。
2枚の鍵層があり、その2つの間の地層を比べたとします。地層には特徴的な化石も含まれているとしましょう。ただし、比べたい両地点の間の関係は、不明です。
さて、2つの地点で地層を比べたところ、2つの鍵層が両地点から見つかりました。しかも、間の地層からも同じ化石も見つかりました。しかし、自然現象では、時々不思議なことが起こります。比べたい地層がみるからに違うものだったのです。さて、この地層は同一といえるのでしょうか。
地質学的には、同一としていいような証拠があり、しかし同じとするには、地層の内容が違いするぎるという場合です。実は、このようなことは、距離が離れた地層の対比をする場合には、よくあることなのです。
これは、テセウスの船のパラドクスと似ていると思いませんか。このパラドクスを解くには、地層のでき方を理解していく必要があります。
一般に一つの地層は、土砂が海底に流れ込んでできます。土砂が流れ込むと、傾斜のゆるい海底では土石の流れは弱まり、やがては流れがとまり、一枚の地層ができます。地層の形成は、短時間に限られた範囲で堆積します。似たように時期に、別の川で発生した土石流が、同じ堆積場に流れ込んだ場合、上の例のような地層の関係ができます。これは、地質学においては、それほど特別な現象ではありません。なぜなら、堆積場がそのような環境であることが多いからです。
一つの地層に注目すれば、周辺では薄くなってやがては消えていきます。逆に他方の地層が、だんだん厚さを増していくことがあります。このように地層がだんだん薄くなってやがてなくることを尖滅(せんめつ)と呼んでいます。時には、2つの地層が指を組ませたような入り組んだ関係(指交関係)になっていることもがあります。同時代に近くで溜まった地層で、両者の性質が違うものは同時性を持っていますが、同一性を欠いています。このような地層の関係を地質学では「同時異相」と呼んでいます。
地層とは、無限に続いていくものではなく、どこかでやがては消えていくものなのです。しかし、両者を橋渡しをするような鍵層や化石があれば、同時性を手がかりにして、対比することが可能となります。
このような地層の同時性と同一性の検証の繰り返しによって、その地域のある時代の特徴を編むことができます。それらの時代ごとの特徴を積み重ねていけば、その地域の地質学的歴史、つまり「地史」が出来上がっていきます。
テセウスの船は、同一性を考えるためのパロドクスでした。同一性は同一律や自同律、同一原理などと呼ばれ、論理学では正しい思考をするために従うべき基本的な法則の一つとされています。
同一性とは、AとBがあったとき「A=B」のことですが、古くから哲学では、重要な問題とされています。
ライプニッツの考えによれば、識別できない2つの個体は存在せず、それを同一とするというもので、「不可識別者同一の原理」と呼んでいます。この原理は、Aの持つ全ての性質をBが持ち、またBが持つ全ての性質をAが持つとき、「A=B」が成り立つというものです。同一性は、神と人間を区別したり、実体を判別したりするために、非常に重要な役割をもってきました。
一見当たり前のようにみえる同一性も、厳密に考えていくと、いろいろややこしい問題を含んでいることがわかります。テセウスの船のパラドクスへの答えも、考え方によって違ってきます。
アリストテレスのテセウスの船に対する考えを紹介しましょう。アリストテレスは、事象の原因を4つに分け(四原因説)て考えました。その原因に基づいて解釈すれば、このパラドクスは解ける考えました。
テセウスの船が「何であるか」(形相因)を考えるのであれば、設計などの本質が変わっていないため、「同じ」とみなされます。「何のためものか」(目的因)という点で考えれば、テセウスが使った船という目的は変わっていないので、「同じ」とみなされます。「誰がどのように作ったか」(動力因)とみれば、最初に船を作った職人と同じ道具や技法を使って修理(部品の置換)をしたのだから、「同じ」と考えることができます。ただ、「何からできているか」(質料因)と考えれば、時と共に材質が変わっているので、全部置き換われば、もはや「同一」とはいえなくなります。
これが、アリストテレスの答えです。
地質学では、「何からできいるか」という質料因や「何であるか」という形相因を問うものなので、同時性が保障されたとしても、同一性の証拠になりません。
「同じ」というのは、一見当たり前のことに思えますが、よくよく考えると、そこには複雑な問題があるのです。
・心の余裕が必要・
いよいよ師走になりました。
今年も残すところ、あと1年となりました。
北海道は例年になく寒い冬を迎えています。
今年は、暑い夏と寒い冬でした。
特に原油の値上げという
北海道にはなかなか厳しい冬になります。
それでもなんとか私たちは暮らしています。
現状を、悲観的に捕らえてしまうのは、
私たちが経済に影響を受けすぎているためではないでしょうか。
経済にだけ極度に敏感になりすぎているようです。
季節の変化や自然の変化に
もっと目を向ける必要があるのではないでしょうか。
自然に目を向ける心の余裕が必要ではないでしょうか。
師走の初めにそんなことを感じています。
・困難さ・
今回紹介したのは、地質学でも地層だけの話です。
上で述べたように、地層においても、
同時性や同一性を厳密に認定するのは
なかなか困難な検証を必要とします。
火山岩や変成岩では、同時性や同一性は
もっと複雑な様相を呈します。
火成岩の同一性とは何なのか。
変成岩の同時性とはどの現象を指すのか。
なかなか判断できない
一筋縄でいかない困難さがあります。
大地の生い立ちを探るのは、一苦労です。
ですから、それを解いた感激は
何物にも変えがたいものなのです。
2007年11月1日木曜日
70 バウハウスの原則:アンモナイトの渦巻き(2007.11.01)
アンモナイトの渦巻きには不思議な美しさがあります。かたや人間の作り上げた極地として人工の機能美があります。そんな関係を探っていきましょう。
だいぶ以前ですが、オーストラリアに行った時、田舎の小さな土産店でオームガイの貝殻を見つけました。私は、それまでオームガイを博物館や本でしか見たことがありませんでした。値段もそんなに高くなかったので、すぐさま「そのノーチラスを下さい」(オームガイは英語でノーチラスといいます)といって買いました。そのオームガイは、自宅の居間に飾ってあります。オームガイは、今ではそれほど珍しいものではないようです。
オームガイは、南太平洋からオーストラリア近海の水深100m~600mに棲んでいます。その祖先は古生代のオルドビス紀に誕生しましたが、それ以降ほとんど形態的には進化していない、「生きた化石」と呼ばれています。
オームガイは絶滅したアンモナイトと近縁だと考えられていましたが、最近では、少し違った考え方が出ているようです。アンモナイトは、オームガイよりも、現在のイカやタコに近いとされています。しかし、オームガイと似た生活をしていたと考えられています。
アンモナイトは、古生代のデボン紀から中生代の白亜紀末まで生きていた海棲の生物です。殻をもつ頭足類ですが、絶滅種です。殻は、オームガイではあまり多様性を持たないのですが、アンモナイトは多様な進化をとげ、1mを越える直径を持つ大きなものも発見されています。こんな大きくて重い殻をもっていて、本当に泳ぐことができたのか心配になるほどです。
そこには、自然の巧みな仕掛けがありました。普通の巻き貝では内部が一つにつながっているのですが、オームガイやアンモナイトでは多数の小部屋に分かれています。一番外の小部屋を住みかとしていて、奥の小部屋はカラになっていて、その空き部屋が浮力を生み出していたと考えられます。その浮力によって、海中を自由に動き回れたと考えられています。
さて、オームガイやアンモナイトの貝が巻き方は、規則的で非常に「きれい」に見えます。「きれい」とは、人をひきつける何かがあるということです。その「きれいさ」を科学することはなかなか難しいのですが、オームガイやアンモナイトの貝が巻き方は解明されています。
オームガイやアンモナイトは成長するとき、常に同じ形(相似形)を保ちながら成長しようとします。うずまき状の曲線として、ある規則性が発生します。その規則性は、対数らせん(螺旋)と呼ばれるものです。対数らせんは、どこで切ってもすべて相似な曲線となります。対数らせんは、黄金比の長方形に内接するものです。
黄金比とは、最も均斉のとれた美しい長方形といわれるものが持っている比率です。その比率は、長方形の短い方を1とすると、(1+√5)/2(約1.618)という値になります。これはギリシア時代から知られている比率です。少々ややこしい値ですが、詳しく見ると不思議な規則性があります。
黄金比を持つ長方形は、短い辺を一辺とする正方形を取り除くと、残った長方形もやはり黄金比を持つ、つまり相似の長方形が現われます。それを繰り返していき、正方形の対角線上に滑らかな曲線を引くと、そこに対数らせんが現われます。
黄金比や対数らせんの「きれいさ」は、多くの芸術家や建築家が無意識に使っています。ギリシャのパルテノン神殿やミロのビーナスには、いたるところに、黄金比が用いられています。また、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にはらせんの構図が用いられています。
対数らせんは、生物の成長と重要なかかわりがあります。例えば貝の殻や爪、髪、角、甲羅などは、少し伸びても全体としての形が変わらない様に、常に相似形を保ちながら伸びていきます。このような自然界の「きれいさ」の規則性を解き明かせたのは、まだホンの一部にすぎません。
もっともっと深い何かが自然界のいたるところにあるはずです。そんな自然界の機能美を見る時、私は「バウハウスの原則」というものを思い浮かべてします。
「バウハウスの原則」というのを御存知でしょうか。バウハウスとはドイツ語のBauhausのことで、Bauとは「建築」という意味で、hausは「家」のことで、「建築の家」という訳になります。
何のことかわからないと思いますが、バウヒュッテ(Bauhutte)をもじった言葉です。バウヒュッテとは、「建築の小屋」の意味で、中世の建築職人組合のことでした。それをドイツの建築家のヴァルター・グロピウスがもじって、バウハウスというものを用いました。
バウハウスとは、1919年にドイツのワイマールに設立された美術学校の名前です。この美術学校では、工芸・写真・デザインや建築に関する総合的な教育がされた学校でした。しかし、学校として教育が続けられたのは、1933年まででした。たった14年間しか開校していませんでした。閉校に追いやったのは当時ナチスでした。
建築は、一般にアーキテクチャーという言葉が使われています。しかし、庶民的な言葉であるバウ(建築)という言葉を使ってるところに、深い意味があります。つまり、芸術あるいは建築は、特権的階級に対してではなく、全ての人に通じ、利用されるものだという意思表示なのでしょう。
たった14年ですが、バウハウスは、モダニズム建築に大きな影響を与え、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともります。そのようなバウハウスの芸術精神が「バウハウスの原則」と呼ばれるものです。
「バウハウスの原則」とは一言でいうと、「形は機能に従う」というものです。特権階級が好むような贅を尽くしたような装飾や虚飾を取り去り、機能や構造を追及すれば、そこには自ずから美が生まれるという精神です。
これは、何も芸術の世界だけではないように思えます。先ほどのオームガイやアンモナイトなどの生物の形態などは、その好例ではないでしょうか。生物の形態には、無駄で意味のないものはなく、何らかの必然性に基づいて生まれているのです。
先ほど挙げたアンモナイトの対数らせんや黄金比の規則性は、成長しても形が変わらないために生まれた必然でした。それが黄金比というものを利用しているために、「きれいな」渦巻きに見えたわけです。
自然界には、人が見ても「きれい」と思えるものはいろいろあります。詳しく見ると二つとして同じものはないはずなのに、そこには隠された規則性、機能美があるのです。私たちは、自然界の造形美を科学で解き明かすには、まだまだ時間が必要なようです。「きれいさ」、美とは奥深いものですね。
・オームガイ・
オームガイは、今では南国の日本の土産物屋さんでも
見かけることがあります。
海外から輸入しているのでしょうけれど、
その美しさには、なかなか目が惹かれます。
装飾用に栄えように、磨いて銀色していることがあります。
あるいは半分に切断して、
隔壁をよく見えるようにしているものもあります。
オームガイは自然物ですから、
その美しさはバウハウスの原則に則っています。
しかし、それを見栄えをよくためだけに磨いたり切断するのは、
虚飾の一種ですから、明らかにバウハウスの原則に反します。
しかし、手は加えていますが、
自然の美を強調しているだけという見方もできます。
美とはなかなか奥が深いようです。
・知的パズル・
黄金比は、ギリシアの彫刻家ペイディアスが
初めて使ったといわれています。
黄金比をレオナルド・ダ・ヴィンチも
発見していた記録が残っているそうです。
「黄金比」は1835年にドイツの
数学者マルティン・オームの著書でだったそうです。
美しさを多くの人が古くから知っているのに、
その美しさが数学的に解明されるには、
長い時間が必要だったようです。
アンモナイトの規則性を見ると、
美という、数値では非常に示しにくいものが、
いったん数式として解明されると、
そこには単純で「きれいな」規則性があったということです。
「きれいさ」を追求したら、そこに数学的美しさがあった。
これは、非常に不思議な気がします。
その意外な「きれいさ」を知った時、
多くの人が自然の奥深さに感心するでしょう。
美の解明とは、自然が人類に与えれくれた、
非常に難しい知的パズルのような気がします。
だいぶ以前ですが、オーストラリアに行った時、田舎の小さな土産店でオームガイの貝殻を見つけました。私は、それまでオームガイを博物館や本でしか見たことがありませんでした。値段もそんなに高くなかったので、すぐさま「そのノーチラスを下さい」(オームガイは英語でノーチラスといいます)といって買いました。そのオームガイは、自宅の居間に飾ってあります。オームガイは、今ではそれほど珍しいものではないようです。
オームガイは、南太平洋からオーストラリア近海の水深100m~600mに棲んでいます。その祖先は古生代のオルドビス紀に誕生しましたが、それ以降ほとんど形態的には進化していない、「生きた化石」と呼ばれています。
オームガイは絶滅したアンモナイトと近縁だと考えられていましたが、最近では、少し違った考え方が出ているようです。アンモナイトは、オームガイよりも、現在のイカやタコに近いとされています。しかし、オームガイと似た生活をしていたと考えられています。
アンモナイトは、古生代のデボン紀から中生代の白亜紀末まで生きていた海棲の生物です。殻をもつ頭足類ですが、絶滅種です。殻は、オームガイではあまり多様性を持たないのですが、アンモナイトは多様な進化をとげ、1mを越える直径を持つ大きなものも発見されています。こんな大きくて重い殻をもっていて、本当に泳ぐことができたのか心配になるほどです。
そこには、自然の巧みな仕掛けがありました。普通の巻き貝では内部が一つにつながっているのですが、オームガイやアンモナイトでは多数の小部屋に分かれています。一番外の小部屋を住みかとしていて、奥の小部屋はカラになっていて、その空き部屋が浮力を生み出していたと考えられます。その浮力によって、海中を自由に動き回れたと考えられています。
さて、オームガイやアンモナイトの貝が巻き方は、規則的で非常に「きれい」に見えます。「きれい」とは、人をひきつける何かがあるということです。その「きれいさ」を科学することはなかなか難しいのですが、オームガイやアンモナイトの貝が巻き方は解明されています。
オームガイやアンモナイトは成長するとき、常に同じ形(相似形)を保ちながら成長しようとします。うずまき状の曲線として、ある規則性が発生します。その規則性は、対数らせん(螺旋)と呼ばれるものです。対数らせんは、どこで切ってもすべて相似な曲線となります。対数らせんは、黄金比の長方形に内接するものです。
黄金比とは、最も均斉のとれた美しい長方形といわれるものが持っている比率です。その比率は、長方形の短い方を1とすると、(1+√5)/2(約1.618)という値になります。これはギリシア時代から知られている比率です。少々ややこしい値ですが、詳しく見ると不思議な規則性があります。
黄金比を持つ長方形は、短い辺を一辺とする正方形を取り除くと、残った長方形もやはり黄金比を持つ、つまり相似の長方形が現われます。それを繰り返していき、正方形の対角線上に滑らかな曲線を引くと、そこに対数らせんが現われます。
黄金比や対数らせんの「きれいさ」は、多くの芸術家や建築家が無意識に使っています。ギリシャのパルテノン神殿やミロのビーナスには、いたるところに、黄金比が用いられています。また、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にはらせんの構図が用いられています。
対数らせんは、生物の成長と重要なかかわりがあります。例えば貝の殻や爪、髪、角、甲羅などは、少し伸びても全体としての形が変わらない様に、常に相似形を保ちながら伸びていきます。このような自然界の「きれいさ」の規則性を解き明かせたのは、まだホンの一部にすぎません。
もっともっと深い何かが自然界のいたるところにあるはずです。そんな自然界の機能美を見る時、私は「バウハウスの原則」というものを思い浮かべてします。
「バウハウスの原則」というのを御存知でしょうか。バウハウスとはドイツ語のBauhausのことで、Bauとは「建築」という意味で、hausは「家」のことで、「建築の家」という訳になります。
何のことかわからないと思いますが、バウヒュッテ(Bauhutte)をもじった言葉です。バウヒュッテとは、「建築の小屋」の意味で、中世の建築職人組合のことでした。それをドイツの建築家のヴァルター・グロピウスがもじって、バウハウスというものを用いました。
バウハウスとは、1919年にドイツのワイマールに設立された美術学校の名前です。この美術学校では、工芸・写真・デザインや建築に関する総合的な教育がされた学校でした。しかし、学校として教育が続けられたのは、1933年まででした。たった14年間しか開校していませんでした。閉校に追いやったのは当時ナチスでした。
建築は、一般にアーキテクチャーという言葉が使われています。しかし、庶民的な言葉であるバウ(建築)という言葉を使ってるところに、深い意味があります。つまり、芸術あるいは建築は、特権的階級に対してではなく、全ての人に通じ、利用されるものだという意思表示なのでしょう。
たった14年ですが、バウハウスは、モダニズム建築に大きな影響を与え、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともります。そのようなバウハウスの芸術精神が「バウハウスの原則」と呼ばれるものです。
「バウハウスの原則」とは一言でいうと、「形は機能に従う」というものです。特権階級が好むような贅を尽くしたような装飾や虚飾を取り去り、機能や構造を追及すれば、そこには自ずから美が生まれるという精神です。
これは、何も芸術の世界だけではないように思えます。先ほどのオームガイやアンモナイトなどの生物の形態などは、その好例ではないでしょうか。生物の形態には、無駄で意味のないものはなく、何らかの必然性に基づいて生まれているのです。
先ほど挙げたアンモナイトの対数らせんや黄金比の規則性は、成長しても形が変わらないために生まれた必然でした。それが黄金比というものを利用しているために、「きれいな」渦巻きに見えたわけです。
自然界には、人が見ても「きれい」と思えるものはいろいろあります。詳しく見ると二つとして同じものはないはずなのに、そこには隠された規則性、機能美があるのです。私たちは、自然界の造形美を科学で解き明かすには、まだまだ時間が必要なようです。「きれいさ」、美とは奥深いものですね。
・オームガイ・
オームガイは、今では南国の日本の土産物屋さんでも
見かけることがあります。
海外から輸入しているのでしょうけれど、
その美しさには、なかなか目が惹かれます。
装飾用に栄えように、磨いて銀色していることがあります。
あるいは半分に切断して、
隔壁をよく見えるようにしているものもあります。
オームガイは自然物ですから、
その美しさはバウハウスの原則に則っています。
しかし、それを見栄えをよくためだけに磨いたり切断するのは、
虚飾の一種ですから、明らかにバウハウスの原則に反します。
しかし、手は加えていますが、
自然の美を強調しているだけという見方もできます。
美とはなかなか奥が深いようです。
・知的パズル・
黄金比は、ギリシアの彫刻家ペイディアスが
初めて使ったといわれています。
黄金比をレオナルド・ダ・ヴィンチも
発見していた記録が残っているそうです。
「黄金比」は1835年にドイツの
数学者マルティン・オームの著書でだったそうです。
美しさを多くの人が古くから知っているのに、
その美しさが数学的に解明されるには、
長い時間が必要だったようです。
アンモナイトの規則性を見ると、
美という、数値では非常に示しにくいものが、
いったん数式として解明されると、
そこには単純で「きれいな」規則性があったということです。
「きれいさ」を追求したら、そこに数学的美しさがあった。
これは、非常に不思議な気がします。
その意外な「きれいさ」を知った時、
多くの人が自然の奥深さに感心するでしょう。
美の解明とは、自然が人類に与えれくれた、
非常に難しい知的パズルのような気がします。
2007年10月1日月曜日
69 価値ある研究者(2007.10.01)
研究とは本来好奇心に基づくものです。しかし、捻じ曲げられてきているような気がします。独創性を巡る優先権の争いも、そんな表れでしょう。素直に好奇心に基づく研究など、現在では、もはや夢の話なのでしょうか。
なぜ、研究者は、研究をするのでしょうか。それはもちろん、自分の好奇心にかられて、好奇心を満たすために研究をするのでしょう。研究を続けるためには、好奇心を自分の心の中に持ち続けていなければなりません。
ところが、職業として研究者になると、好奇心に導かれて自由に好きなだけ研究をすればいいというわけではありません。いろいろな「しがらみ」があります。まず、研究成果を出すことが求められます。その成果に対して、いろいろな評価を受けます。
その成果や評価によって、研究テーマや手法、方向性が変わったり、好奇心が抑えられたり、捻じ曲げられたりすることが起こってきます。まあ研究者とはいえ、社会的生活を営んでいますから、これは仕方ないことでしょう。
もちろん、研究成果を社会に反映することは重要です。今まで研究者があまりそのための努力をしてこなかったので、研究成果の社会への還元が重要であると認識されてきました。その成果の重要度を客観的に示すための方法がいろいろ公開されています。たとえば、他の人の論文にどれくらい自分の論文が引用されたかを示す指数(citation index)や投稿した雑誌のランク(impact factorなど)によって判断されます。
研究者には、自分の意思と関係なく、論文数やその評価が出されます。誰でも、他人が自分のことをどうみているかは、それなりに気になります。できれば、いい評価を受けたいのは、誰でも同じです。そのような評価を良くするために、たくさん論文を書こう、どうせ論文を投稿するならランクの高い雑誌にしよう、などという配慮が働きます。
もっといえば、いい評価がでるようなテーマ、いい評価のある指導者につく、有能な研究者を集める、研究資金を調達するなど、本来の研究動機とはかけ離れた目的で研究が進むことがあります。若手研究者でいいポストに異動しようと考えている人、先端の研究をする人、多くの研究費をとろうと狙っている人などの、論文数と共にそのような指数なども気にして研究しています。これは、当然の傾向といえるでしょう。そうしないと、仕事も見つからないし、いい研究者も資金も集まらないし、評価も良くなりません。
研究とはもともと好奇心に駆られて行ったことですから、こんなに面白いことがわかったと、それを世間の人に知らせたい、という非常に単純で純粋な動機があったはずです。今までの好奇心の整理として、成果報告がなされてきたはずです。今や、このような好奇心に基づいた研究はなかなかしづらくなってきているようです。
研究の評価におて一番重要なのは、その独創性とその優先権です。どんな研究でも、好奇心に基づいて行っていることであれば、その興味を持ったものに、すでに他の人が答えを出しているのであれば、その答えをみれば自分が手を下すことなく好奇心を満たすことができます。
先行研究を調べることが研究のスタート、つまり好奇心を満たすためのスタートです。今までどれほどのことが知られているのかを、調べなかればなりません。もし、それを怠って、すでに誰かが行っているようなことを、自分の独創的成果として公表すると、自分にとっても人類にとっても無駄なことです。十分調べれはそのようなことはないはずなのですが、科学者が増えていること研究論文数も多くなり、先行研究をすべて調べるとこは不可能になります。時に、すでに成果を出している人がいると優先権を侵害することにもなります。もしその独創性に特許などの利害が絡んでいると、問題は複雑になります。
最近私は、地質調査や記載における新手法の開発や、地質学や科学の教育にいろいろ工夫を加え、新しい手法や方法論を提示することを中心に研究しています。先月末にも論文を書き上げ投稿しました。その論文では、新しい電子機器の使用による地層記載の新手法を開発することが内容となっていました。
論文には、先行研究の引用文献が不可欠となります。現在、多くの人が興味を持って研究している分野は、関連した多くの研究があります。今回の論文は、新しい視点での手法開発ですので、ほとんど先行研究がありません。自分自身が以前行った研究も重要な先行研究になります。自分の研究を引用しても、文献が少なくなります。それだけ独創性がある研究(?)のはずなのですが、引用文献が少ないと、「これで大丈夫かな」という不安な気持ちになります。
自分が興味をもって行った研究の成果を、世間に公開するのが研究論文です。論文とは、人類の知的資産に今までなかった成果を加えることが重要な目的となっています。ですから、今まで誰も出してない独創的なものであるべきです。研究者とは新たな知的資産を加えることが重要な任務であります。
でも、この独創性や優先権とは何かと考えると、非常に難しい問題になります。
例えば、ある一人の地質学者が、今までだれも行ったことのないところで、だれも見たことがない化石を発見したとしましょう。誰も見たことのない化石を記載すれば、大発見の非常に高い独創性のある研究成果となります。この化石の記載報告には、先行研究は少ないでしょうから引用文献も、それほど多くないはずです。
本当にその研究成果は、その研究者だけによるものでしょうか。その地域で地質調査するための経験、化石を記載するための技術、その化石が新発見であると識別する知識などは、彼の独創性によるものではないはずです。つまり、科学者として一人前になるために、多くの指導者の教育を受け、専門の知識や技術を身につけたはずです。そのような経験や知識は、彼自身が生み出したものではなく、人類が長年かかって積み上げてきた知的資産の上になり立っているのです。ですから、彼の独創性は多くの知的資産の元に成り立っています。彼の成果は、その化石を発見して、人類の古生物の知識に新たな化石を一つ付け加えただけにすぎないのです。大発見かもしれませんが、一つの成果に過ぎません。
新たな知識や独創性に、高低や貴賎があるのでしょう。評価を気にする人にとっては、その高低こそが重要と考えるでしょう。しかし、評価は相対的なものです。長い目で見れば、時間が経過すれば、評価も変化するはずです。今は評価が低くても、後の時代に高い評価が出るものもあります。成果の高低よりも、新たな知識や独創性を一つ付け加えた事実を重くとらえるべきではないでしょうか。
人類にとって価値ある研究者とは、好奇心を維持し、その好奇心によって新たな知見を得て、それを一つずつ公表し続けている人をいうのではないかと思います。さてさて、私は、そんな研究者といえるのでしょうか?私は、年に数編の論文を書いてますので、数を云々かんぬんいわれることはないと思いますが、好き勝手な研究ばかりしているので、評価は低いんでしょうね。
・秋・
いよいよ10月です。
先週の連休に北海道の最高峰の旭岳に登ってきました。
紅葉が始まっていました。
しかし、登山の翌日の夜には初冠雪があったとニュースで報じられていました。
もし、一日ずれていたら登山はできなかったでしょう。
快晴の天気にも恵まれ、旅館も連泊でき、幸運でした。
その紅葉は一気に平野に下りてきそうです。
近所のナナカマドも色づいてきました。
北海道は、9月中旬まで結構暑かったので、
9月下旬から急激に涼しくなり、一気に秋めいてきました。
体調を壊す人もでています。
我が家では家内と長男が風邪を引きました。
皆さんの地域は、もう秋めいてきましたか。
我が家では、今年の冬に備えて
先週ストーブをオーバーホールに出しました。
考えることは誰も同じなので、整備会社も混んでいます。
しばらく時間がかかりそうですが、今週には出来上がります。
厚着さえすれば、それほど寒くないのですが、北海道では
寒いと暖房が当たり前なので、季節にかかわらず暖房を点けてしまいます。
家全体を暖め凍結を防ぐということもあるのですが、それはいいわけでしょう。
なぜ、研究者は、研究をするのでしょうか。それはもちろん、自分の好奇心にかられて、好奇心を満たすために研究をするのでしょう。研究を続けるためには、好奇心を自分の心の中に持ち続けていなければなりません。
ところが、職業として研究者になると、好奇心に導かれて自由に好きなだけ研究をすればいいというわけではありません。いろいろな「しがらみ」があります。まず、研究成果を出すことが求められます。その成果に対して、いろいろな評価を受けます。
その成果や評価によって、研究テーマや手法、方向性が変わったり、好奇心が抑えられたり、捻じ曲げられたりすることが起こってきます。まあ研究者とはいえ、社会的生活を営んでいますから、これは仕方ないことでしょう。
もちろん、研究成果を社会に反映することは重要です。今まで研究者があまりそのための努力をしてこなかったので、研究成果の社会への還元が重要であると認識されてきました。その成果の重要度を客観的に示すための方法がいろいろ公開されています。たとえば、他の人の論文にどれくらい自分の論文が引用されたかを示す指数(citation index)や投稿した雑誌のランク(impact factorなど)によって判断されます。
研究者には、自分の意思と関係なく、論文数やその評価が出されます。誰でも、他人が自分のことをどうみているかは、それなりに気になります。できれば、いい評価を受けたいのは、誰でも同じです。そのような評価を良くするために、たくさん論文を書こう、どうせ論文を投稿するならランクの高い雑誌にしよう、などという配慮が働きます。
もっといえば、いい評価がでるようなテーマ、いい評価のある指導者につく、有能な研究者を集める、研究資金を調達するなど、本来の研究動機とはかけ離れた目的で研究が進むことがあります。若手研究者でいいポストに異動しようと考えている人、先端の研究をする人、多くの研究費をとろうと狙っている人などの、論文数と共にそのような指数なども気にして研究しています。これは、当然の傾向といえるでしょう。そうしないと、仕事も見つからないし、いい研究者も資金も集まらないし、評価も良くなりません。
研究とはもともと好奇心に駆られて行ったことですから、こんなに面白いことがわかったと、それを世間の人に知らせたい、という非常に単純で純粋な動機があったはずです。今までの好奇心の整理として、成果報告がなされてきたはずです。今や、このような好奇心に基づいた研究はなかなかしづらくなってきているようです。
研究の評価におて一番重要なのは、その独創性とその優先権です。どんな研究でも、好奇心に基づいて行っていることであれば、その興味を持ったものに、すでに他の人が答えを出しているのであれば、その答えをみれば自分が手を下すことなく好奇心を満たすことができます。
先行研究を調べることが研究のスタート、つまり好奇心を満たすためのスタートです。今までどれほどのことが知られているのかを、調べなかればなりません。もし、それを怠って、すでに誰かが行っているようなことを、自分の独創的成果として公表すると、自分にとっても人類にとっても無駄なことです。十分調べれはそのようなことはないはずなのですが、科学者が増えていること研究論文数も多くなり、先行研究をすべて調べるとこは不可能になります。時に、すでに成果を出している人がいると優先権を侵害することにもなります。もしその独創性に特許などの利害が絡んでいると、問題は複雑になります。
最近私は、地質調査や記載における新手法の開発や、地質学や科学の教育にいろいろ工夫を加え、新しい手法や方法論を提示することを中心に研究しています。先月末にも論文を書き上げ投稿しました。その論文では、新しい電子機器の使用による地層記載の新手法を開発することが内容となっていました。
論文には、先行研究の引用文献が不可欠となります。現在、多くの人が興味を持って研究している分野は、関連した多くの研究があります。今回の論文は、新しい視点での手法開発ですので、ほとんど先行研究がありません。自分自身が以前行った研究も重要な先行研究になります。自分の研究を引用しても、文献が少なくなります。それだけ独創性がある研究(?)のはずなのですが、引用文献が少ないと、「これで大丈夫かな」という不安な気持ちになります。
自分が興味をもって行った研究の成果を、世間に公開するのが研究論文です。論文とは、人類の知的資産に今までなかった成果を加えることが重要な目的となっています。ですから、今まで誰も出してない独創的なものであるべきです。研究者とは新たな知的資産を加えることが重要な任務であります。
でも、この独創性や優先権とは何かと考えると、非常に難しい問題になります。
例えば、ある一人の地質学者が、今までだれも行ったことのないところで、だれも見たことがない化石を発見したとしましょう。誰も見たことのない化石を記載すれば、大発見の非常に高い独創性のある研究成果となります。この化石の記載報告には、先行研究は少ないでしょうから引用文献も、それほど多くないはずです。
本当にその研究成果は、その研究者だけによるものでしょうか。その地域で地質調査するための経験、化石を記載するための技術、その化石が新発見であると識別する知識などは、彼の独創性によるものではないはずです。つまり、科学者として一人前になるために、多くの指導者の教育を受け、専門の知識や技術を身につけたはずです。そのような経験や知識は、彼自身が生み出したものではなく、人類が長年かかって積み上げてきた知的資産の上になり立っているのです。ですから、彼の独創性は多くの知的資産の元に成り立っています。彼の成果は、その化石を発見して、人類の古生物の知識に新たな化石を一つ付け加えただけにすぎないのです。大発見かもしれませんが、一つの成果に過ぎません。
新たな知識や独創性に、高低や貴賎があるのでしょう。評価を気にする人にとっては、その高低こそが重要と考えるでしょう。しかし、評価は相対的なものです。長い目で見れば、時間が経過すれば、評価も変化するはずです。今は評価が低くても、後の時代に高い評価が出るものもあります。成果の高低よりも、新たな知識や独創性を一つ付け加えた事実を重くとらえるべきではないでしょうか。
人類にとって価値ある研究者とは、好奇心を維持し、その好奇心によって新たな知見を得て、それを一つずつ公表し続けている人をいうのではないかと思います。さてさて、私は、そんな研究者といえるのでしょうか?私は、年に数編の論文を書いてますので、数を云々かんぬんいわれることはないと思いますが、好き勝手な研究ばかりしているので、評価は低いんでしょうね。
・秋・
いよいよ10月です。
先週の連休に北海道の最高峰の旭岳に登ってきました。
紅葉が始まっていました。
しかし、登山の翌日の夜には初冠雪があったとニュースで報じられていました。
もし、一日ずれていたら登山はできなかったでしょう。
快晴の天気にも恵まれ、旅館も連泊でき、幸運でした。
その紅葉は一気に平野に下りてきそうです。
近所のナナカマドも色づいてきました。
北海道は、9月中旬まで結構暑かったので、
9月下旬から急激に涼しくなり、一気に秋めいてきました。
体調を壊す人もでています。
我が家では家内と長男が風邪を引きました。
皆さんの地域は、もう秋めいてきましたか。
我が家では、今年の冬に備えて
先週ストーブをオーバーホールに出しました。
考えることは誰も同じなので、整備会社も混んでいます。
しばらく時間がかかりそうですが、今週には出来上がります。
厚着さえすれば、それほど寒くないのですが、北海道では
寒いと暖房が当たり前なので、季節にかかわらず暖房を点けてしまいます。
家全体を暖め凍結を防ぐということもあるのですが、それはいいわけでしょう。
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