(2012.10.01)
自然には、誰が見ても美しいものがあります。その自然を理解する学問の理論にも美しいものがあります。もちろん、すべての理論が単純で美しいとは限りませんが、驚くべき単純さと美しさを持つものも確かにあります。それは、自然がそのような特質を持っているのでしょうか。それとも人が、自然の中にに美しさを望んでいる結果なのでしょうか。
自然科学において「美しさ」とはどんな意味を持つのでしょうか。たしかに自然には、目を見張る景色や、きれいな夕日、鮮やかな緑、澄んだ湖、整った結晶など、いろいろな「美しさ」があります。しかし、自然であれば、どんなに美しいものでも、近づいてみたり、解像度をあげたり、詳しく見れば、欠点もみえてくるでしょう。逆に、その欠点こそが、自然らしさでもあります。
宝石の鑑定の話です。鉱物の合成技術が進んできて、人工の純粋な結晶が安価にできるようになると、それを宝石に利用できれば、安上がりに高品質のものができます。しかし、うなぎのように、養殖物と天然物で価格が何倍も違うように、天然のものに人は価値を見出します。もちろん味や味わいの違いがそこにはあるのでしょう。宝石では、天然ものと人工ものを見分けるために、手っ取り早い方法として、不純物や傷があることが天然ものの条件でもあるという話を聞いたことがあります。まあ、伝聞ですので本当かどうかは定かでありません。
これは、天然のものに価値を見出し、そこに「美しさ」が加わると、その価値はますます上がることを意味しています。本来であれば、不規則、不揃い、傷や汚れがあるのが、自然状態でもあります。たまたま欠点が少なく、ある程度整ったものがあると、その「美しさ」が際立つのでしょう。
では、自然を調べる科学、自然科学における美しさとは、どうようなものでしょうか。自然の中の規則性を一般化したとき、得られた法則が、美しいかどうかは不明です。自然はあるがままで、そこには美醜の存在の余地はありません。読み取った結果に対して、人が美醜の判断をするのです。人のわがままを自然は反映することはないでしょう。非常に手前勝手な評価をしているに過ぎません。
地質学の例でいうと、プレートテクトニクスという理論があって、それによって大地の営みの多くが説明できます。しかし、自然は多様で複雑なので、すべてがきれいにプレートテクトニクスが説明できるわけではありません。いろいろな矛盾点や大小のズレ、多数の例外が出てきます。その多くは、自然の多様さ複雑さに由来するもので、それなりの理由や根拠がそこには存在します。そんな理論からのずれをつくろえば、より正確な説明になりますが、補足や例外的な理由など、つぎはぎが多くなり、見苦しくなります。現実の適用は、プレートテクトニクスの理論自体の美しさに比べると、あまりスマートではなく、泥臭いものに見えます。
地質学の対極にある数学は、抽象化された学問体系です。数学は、自然科学でなく、純粋な思索的学問である哲学や論理学などの範疇に入るべき学問です。そこには、数、数字、線、面、図形、立体などの数学の対象となるものがあります。それらはすべて、一見具体的なものにみえますが、実は高度に抽象化さた概念です。つまり、人の中にある数学の対象となる抽象概念の世界における規則性を見出すのが数学という学問です。そこには美醜があってもいいかもしれません。美しい方程式、素晴らしい定理、見事な証明などあるはずです。確かにピタゴラスの定理やオイラーの式(e^iπ=-1)など、素晴らしいものがいっぱいあります。
では、自然科学と数学の境界ともいうべき物理学は、どうなるのでしょうか。物理学では、自然の現象、運動、変化など、実際に存在し、起こる具体的な対象が存在します。その多くは、実験や観測、測定などが可能なものです。物理の法則や仮説、理論は、実験や観測によって得られた事実、数値、データと一致なければなりません。
測定値は、多少の誤差が混入するため、理論とは少しのズレは、何度も繰り返せば、ほぼ理論通りの結果が得られます。もしズレが収まらなければ、その理論は間違っている可能性があります。それほど、理論と実験の一致が物理学では必要になります。
ただそこには、理論と事実の一致と不一致が存在するだけで、理論の正否だけが問題となります。理論の美醜などの判断が入り込む余地はありません。美醜は、人の価値判断に過ぎません。
それでも、得られた理論に、美しく思えるものが確にあります。ニュートンの運動法則(F=ma)、ボルツマンの式(S=klnΩ)、電磁気学の式(c=1/(ε0μ0)^1/2)、プランクの式(E=hμ)など、いろいろな例が挙げられます。ここで示した例は、単純な式ですが、自然の仕組みに秘められたの重要性が、単純な式によって浮き彫りにされています。そんな式をみると、自然の重要な属性として、「美しさ」あると思いたくなります。
アインシュタインは「自伝ノート」の中で、物理学における理論(仮説)が満たすべき2つの条件を示しました。その条件とは、「理論は経験事実と矛盾してはならない」と「理論の前提の『自然さ』あるいは『論理的単純さ』」としています。あるいは、「理論の外的実証性」と「理論の内的完全性」と言い換えています。
これには、少し説明が必要でしょう。
一つ目の条件は、自然科学の前提でもあるのですが、実験結果(経験事実)と理論は、一致しなければならなということです。理論は、実証されなければならず、その実証とは実験(外的)によるものでなければならないということです。実験が先行しているときは、実験結果のすべてを理論は説明しなければなりません。一方、理論が先行しているときは、理論が予測する結果を、実験で得られなければなりません。
2つ目の条件は、理論は単純であり、なおかつ自然で(むりな操作や手続きなく)、そして1の条件とも重なりますが、その理論は、美しくなければならないという意味です。
確かに、E=mc^2 というアインシュタインが見つけた相対性理論に関する方程式は、単純で美しいものです。そして、エネルギーと質量が等質であること、その変換に普遍の速度をもつ光速が関わっているということ。この単純な式は、いろいろことを思い起こさせる美しさを秘めています。この式が正しいことは、いろいろな現象で確かめられてきました。
単純さや自然さ、美しさは、人の価値観、あるいは人それぞれの感覚にもとづいています。そのためには、自然が単純で美しい論理のもとづいて営まれているという前提が必要です。自然界の物理現象のすべてにおいて、そんな美しさが宿っているのでしょうか。もしそうなら、そこに「神の作為」が働いているとも考えたくなります。アインシュタインは、「神はサイコロ遊びをしない」といいました。
さてさて、自然は「美しさ」を望むのでしょうか。それとも、人が自然の中に「美しさ」を望むのでしょうか。
・芸術的才能・
「神はサイコロ遊びをしない」
(神はサイコロを振らない、とも訳されています)
という言葉は、
1926年12月にマックス・ボルンへの手紙に
アインシュタインが書いた言葉です。
統計的、確率的に記述される量子力学に対して
批判的に用いた言葉でした。
アインシュタインは、物理学の理論に美しさを追求しました。
しかし、すべての物理学の理論が
美しい式になっているわけではありません。
時々美しい式が現れるからこそ
その美が際立つのでしょうか。
自然の理論に美を見出すのは、才能なのでしょう。
それは、科学的な才能の他に
芸術的才能も必要なのかもしれませんね。
・秋到来・
9月下旬から大学では
講義の授業が始まりました。
それと歩調を合わせるように
北海道にも秋が訪れました。
今年の夏は長く、暑かったです。
今年は北海道でも夏を長い間満喫できました。
そして、短いであろう秋の訪れは、
これからの冬の長さを思い起こさせます。
2012年10月1日月曜日
2012年9月1日土曜日
128 アンティキテラの高み
100年以上前にアンティキテラ島沖の沈没船から不思議な装置が発見されました。その装置は、昔の人の営みも、今どきの人と変わらぬ高み達しうることを教えてくれました。砂上の楼閣の上から眺めた景色は、本当の高みを見失うことがあります。自分を高みに置くことなく、周りを見わたすべきでしょう。
「今時の若いものは・・・」という言葉は、自分が若いころに聞かされ、うるさく思い、歳をとるにつれて自分が使っていることに気づきます。私だけではないと思います。誰もが使っている常套句ではないでしょうか。どの時代にも、年長者は、若年者にむかって、自分の若い頃と比べて、なにかが劣っているとみなしてきました。自分より秀でている若者がいても、ほんの一部にすぎず、大多数の若者は劣っているとみなしてきました。
本当に劣っているかどうかは、怪しものです。また、違う時代を生きる人たちに対して、能力や学力を比較したり、成長途中の人に対して前を歩んでいる先達との比較など、本当の比較といえるでしょうか。まあそこには、多分に願望が含まれているのかもしれません。
では、技術の進歩に関しては、どうでしょうか。昔より今、10年前より今、1年前より今、いや昨日より今日と、時代が新しいほど、技術は進んでいる。これは、多くの人が感じていて、異論はないでしょう。例えば、パソコンの処理スピートや記憶容量、携帯電話のサイズや機能など、まさに日進月歩で、あげればきりなく技術の進歩を示す例はあるでしょう。
いったんできた技術は、後退することなく、前進があるだけです。ある新しい技術がある時誕生したとしましょう。その技術が社会に普及すると、次々と改良が加えられ、一定の完成度になるまで発展していきます。その過程で、時に、全く新しい技術が付け加えられ、それが以前の技術を乗り越えたり、書き換えたりすることがあります。蒸気機関からジーゼル機関や電気機関へ、ガソリンからハイブリッドや電気へ、プロペラからジェットへ、真空管からICへ、ブラウン管から液晶へ、電球から蛍光灯そしてLEDへ、これも例をあげれば、枚挙にいとまがありません。
もし過去に信じられない技術があったとしたら、どうでしょう。それはエセ科学のような荒唐無稽の話題と無視されるでしょうか。それとも、科学史を書き換える努力をすべきでしょうか。そんな例を紹介します。
ギリシア本土とクレタ島の間に小さい島が2つあります。ギリシア本土寄りに、比較的大きなキティラ島(Kithira)があり、それよりさら南東38kmクレタ島寄りに、アンティキテラ島(Antikythera)があります。
アンティキテラ島は、南北10.5km、東西3.4kmで、南北に伸びた菱形をしています。北の辺には大きく凹んだ入江があり、そこに島の中心となる町、ポタモース(Potamós)がありますが、人口44人という小さい田舎の集落です。アンティキテラ島は、面積20km2しなかい、なんの変哲もない非常に小さい島です。観光地化もしているわけではなく、ほんの小さな田舎といえるでしょう。
そんな島で、かつて大発見がありました。
日本ではあまりおこなわれませんが、西洋では一攫千金をねらって沈没船探しがおこなわれていました。1901年に、アンティキテラの沖で沈没船が見つかりました。そこは、海流もよくなく、深く、当時の技術もあまりよくなかったのですが、潜水夫たちの献身的な努力で、いろいろな遺物が回収されました。
青銅像や大理石の彫刻、土器(アンフォラと呼ばれる)、硬貨などが発見されました。中でも青銅製の「アンティキテラの青年」と呼ばれる像は有名です。遺物の中に、不思議な装置がありました。その装置は、アンティキテラの装置あるいは機械(Antikythera mechanism)と呼ばれています。
アンティキテラの装置は、34×18cmの大きさで、厚さ9cmの木の箱にはいっていて、中には30ほどの青銅製の歯車がからできていると考えられています。木箱は腐食してなくなっています。また、装置もばらばらに壊れた状態で発見されました。大きな破片は6つあり、いくつかの小さなものまで含めると82個の破片が見つかっています。
最大の破片は18×15cmの大きさで、重さは369gあります。その最大の破片の一番の特徴は、表面にみえる4つのスポークのようなものに支えられた大きな歯車です。腐食していて不明瞭ではありますが、歯車の周辺には細かい歯が一部残っています。内部にも歯車が見えます。今では、内部に27個の青銅製の歯車があることがわかってきました。
この不思議な装置は、100年近くかかって、詳しく調べられてきました。一時は、エセ科学の格好の題材にされたため、科学者が近づかない時期もありあました。
近年、アンティキテラ装置研究プロジェクト(Antikythera Mechanism Research Project)によって、装置の原理が解明されてきました。ここ数年、その成果が公表されるようになって来ました。成果は、主にイギリスの科学雑誌ネイチャー(Nature)に、2006年、2008年、2010年に論文が公表されてきました。
2008年6月30日発行のネイチャーでは、高分解能X線断層撮影に基づいた研究が報告されました。機械は37個の歯車を持つ(30個が現存)ことがわかってきました。紀元前100年頃ギリシャで作られたものとされ、装置に記されている天文学、機械学、地理学の使用説明の言語が、コイネー(ギリシャ語の元となっているもの)で書かれていることから、古代コリントスの植民で作られたものであると考えられています。そこにはアルキメデスがいたことから、関係もあるかもしれないといわれています。アンティキテラの装置は、天体の位置を予測するためのアナログ天文計算機、もしくは太陽系儀と考えられ、惑星の運行を示す針もあったかもしれないとされています。復元模型も完成しました。
2008年7月31日のネイチャーでは、4年周期を示す表示盤が発見され、オリンピックのような競技祭典を表しているのではないかとされました。月の名称が、コリントスの植民地(シラクサの可能性あり)で使われていたものなので、シラクサ人であるアルキメデスの関与の可能性がますますでてきました。
2010年11月24日のネイチャーでは、バビロニア天文学の仕組みを含んでいることから、バビロニア天文学が古代ギリシアに影響を与えたことがわかりました。獣帯(zodiac)のダイヤルにはずれがあり、それが太陽の運行のずれに基づいているのではなかちされています。惑星の運行にはズレがあるため、惑星独自のダイヤルをもっていたと考えられています。
現在も、X線画像から新たな文字が解読されています。まだいろいろな発見がありそうです。
さて、アンティキテラの装置を詳しく説明したのは、あまりに今までの科学技術(時計や惑星の運行)から、かけ離れていた存在の例としてでした。通常の科学史からは、このような装置は存在しえないものとなります。しかし、現実には100年以上前にすでに存在がわかっていたのです。その精巧さ、完成度の高さ、背景の科学的蓄積、いずれをとっても、想像を超える装置でした。そんな超越するもの対して、科学は存在を無視し、思考を停止しました。
こんな思考停止状態を打開するためには、まずその存在を受け入れることです。つぎに、その存在を現在の科学で解読し、理解していくことです。その結果、アンティキテラの装置の高みが見えてきたのです。
なにより過去の人の、能力や技術、知恵を見くびっていたのです。ピラミッドや、古代の芸術品は、現在のものに見劣ることは決してありません。勝るものも多々あります。秀でた才能や卓越した技術、大いなる思索、そんな積み重ねは、時代を凌駕することがあるのです。アンティキテラの装置が教えるところです。
このような経験を、エッセイの最初の話題とした「今どきの若者」に適用することが重要ではないでしょうか。
まずは、彼らを受け入れることです。もし彼らと何かを比較する必要があるのなら、先入観なく比較すること、いろいろな尺度で比較することではないでしょうか。彼らの行動にはいろいろな思いや感情、願いが背景にあることなどを考慮して理解すべきでしょう。違いがあったとしても、それは個性の多様や時代背景によるもので、個々の人格を受け入れるべきでしょう。そこには、秀でた才能が生まれているかもしれません。そんな時、彼らを援助することが先人の勤めではないでしょうか。そんな蓄積が新たな高みを生みだすのではないでしょうか。
私達もかつての今どきの若者で、今どきの若者は、今どきの若者なのです。ただ、それだけなのです。
・古代ギリシアのコンピュータ・
ジョー・マーチャント著
文春文庫「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ」
(ISBN978-4-16-765179-4 C0198)
を読んで、驚きました。
そして、このエッセイを書くことにしました。
古代の技術を解き明かす科学者たちの
いりいろな格闘が描かれています。
そして、科学者同士の格闘も描かれています。
この本は一読価値ありです。
そして科学は、成果の重要性と
だれがそれを公開したかです。
良心や裏切りもあるかもしれません。
そんな人間模様も描かれています。
・調査・
9月中旬から1週間、調査にでかけます。
忙しくて、本当はそれどこではないのですが、
出かけることにしました。
全く新しい講義の準備が必要なのですが、
でかけないとストレスが溜まり過ぎています。
気分転換が必要なのです。
もちろん、調査の目的はありますが。
今回は研究しが当たらなかったので、
少々懐が痛いのですが、
仕方がありません。
「今時の若いものは・・・」という言葉は、自分が若いころに聞かされ、うるさく思い、歳をとるにつれて自分が使っていることに気づきます。私だけではないと思います。誰もが使っている常套句ではないでしょうか。どの時代にも、年長者は、若年者にむかって、自分の若い頃と比べて、なにかが劣っているとみなしてきました。自分より秀でている若者がいても、ほんの一部にすぎず、大多数の若者は劣っているとみなしてきました。
本当に劣っているかどうかは、怪しものです。また、違う時代を生きる人たちに対して、能力や学力を比較したり、成長途中の人に対して前を歩んでいる先達との比較など、本当の比較といえるでしょうか。まあそこには、多分に願望が含まれているのかもしれません。
では、技術の進歩に関しては、どうでしょうか。昔より今、10年前より今、1年前より今、いや昨日より今日と、時代が新しいほど、技術は進んでいる。これは、多くの人が感じていて、異論はないでしょう。例えば、パソコンの処理スピートや記憶容量、携帯電話のサイズや機能など、まさに日進月歩で、あげればきりなく技術の進歩を示す例はあるでしょう。
いったんできた技術は、後退することなく、前進があるだけです。ある新しい技術がある時誕生したとしましょう。その技術が社会に普及すると、次々と改良が加えられ、一定の完成度になるまで発展していきます。その過程で、時に、全く新しい技術が付け加えられ、それが以前の技術を乗り越えたり、書き換えたりすることがあります。蒸気機関からジーゼル機関や電気機関へ、ガソリンからハイブリッドや電気へ、プロペラからジェットへ、真空管からICへ、ブラウン管から液晶へ、電球から蛍光灯そしてLEDへ、これも例をあげれば、枚挙にいとまがありません。
もし過去に信じられない技術があったとしたら、どうでしょう。それはエセ科学のような荒唐無稽の話題と無視されるでしょうか。それとも、科学史を書き換える努力をすべきでしょうか。そんな例を紹介します。
ギリシア本土とクレタ島の間に小さい島が2つあります。ギリシア本土寄りに、比較的大きなキティラ島(Kithira)があり、それよりさら南東38kmクレタ島寄りに、アンティキテラ島(Antikythera)があります。
アンティキテラ島は、南北10.5km、東西3.4kmで、南北に伸びた菱形をしています。北の辺には大きく凹んだ入江があり、そこに島の中心となる町、ポタモース(Potamós)がありますが、人口44人という小さい田舎の集落です。アンティキテラ島は、面積20km2しなかい、なんの変哲もない非常に小さい島です。観光地化もしているわけではなく、ほんの小さな田舎といえるでしょう。
そんな島で、かつて大発見がありました。
日本ではあまりおこなわれませんが、西洋では一攫千金をねらって沈没船探しがおこなわれていました。1901年に、アンティキテラの沖で沈没船が見つかりました。そこは、海流もよくなく、深く、当時の技術もあまりよくなかったのですが、潜水夫たちの献身的な努力で、いろいろな遺物が回収されました。
青銅像や大理石の彫刻、土器(アンフォラと呼ばれる)、硬貨などが発見されました。中でも青銅製の「アンティキテラの青年」と呼ばれる像は有名です。遺物の中に、不思議な装置がありました。その装置は、アンティキテラの装置あるいは機械(Antikythera mechanism)と呼ばれています。
アンティキテラの装置は、34×18cmの大きさで、厚さ9cmの木の箱にはいっていて、中には30ほどの青銅製の歯車がからできていると考えられています。木箱は腐食してなくなっています。また、装置もばらばらに壊れた状態で発見されました。大きな破片は6つあり、いくつかの小さなものまで含めると82個の破片が見つかっています。
最大の破片は18×15cmの大きさで、重さは369gあります。その最大の破片の一番の特徴は、表面にみえる4つのスポークのようなものに支えられた大きな歯車です。腐食していて不明瞭ではありますが、歯車の周辺には細かい歯が一部残っています。内部にも歯車が見えます。今では、内部に27個の青銅製の歯車があることがわかってきました。
この不思議な装置は、100年近くかかって、詳しく調べられてきました。一時は、エセ科学の格好の題材にされたため、科学者が近づかない時期もありあました。
近年、アンティキテラ装置研究プロジェクト(Antikythera Mechanism Research Project)によって、装置の原理が解明されてきました。ここ数年、その成果が公表されるようになって来ました。成果は、主にイギリスの科学雑誌ネイチャー(Nature)に、2006年、2008年、2010年に論文が公表されてきました。
2008年6月30日発行のネイチャーでは、高分解能X線断層撮影に基づいた研究が報告されました。機械は37個の歯車を持つ(30個が現存)ことがわかってきました。紀元前100年頃ギリシャで作られたものとされ、装置に記されている天文学、機械学、地理学の使用説明の言語が、コイネー(ギリシャ語の元となっているもの)で書かれていることから、古代コリントスの植民で作られたものであると考えられています。そこにはアルキメデスがいたことから、関係もあるかもしれないといわれています。アンティキテラの装置は、天体の位置を予測するためのアナログ天文計算機、もしくは太陽系儀と考えられ、惑星の運行を示す針もあったかもしれないとされています。復元模型も完成しました。
2008年7月31日のネイチャーでは、4年周期を示す表示盤が発見され、オリンピックのような競技祭典を表しているのではないかとされました。月の名称が、コリントスの植民地(シラクサの可能性あり)で使われていたものなので、シラクサ人であるアルキメデスの関与の可能性がますますでてきました。
2010年11月24日のネイチャーでは、バビロニア天文学の仕組みを含んでいることから、バビロニア天文学が古代ギリシアに影響を与えたことがわかりました。獣帯(zodiac)のダイヤルにはずれがあり、それが太陽の運行のずれに基づいているのではなかちされています。惑星の運行にはズレがあるため、惑星独自のダイヤルをもっていたと考えられています。
現在も、X線画像から新たな文字が解読されています。まだいろいろな発見がありそうです。
さて、アンティキテラの装置を詳しく説明したのは、あまりに今までの科学技術(時計や惑星の運行)から、かけ離れていた存在の例としてでした。通常の科学史からは、このような装置は存在しえないものとなります。しかし、現実には100年以上前にすでに存在がわかっていたのです。その精巧さ、完成度の高さ、背景の科学的蓄積、いずれをとっても、想像を超える装置でした。そんな超越するもの対して、科学は存在を無視し、思考を停止しました。
こんな思考停止状態を打開するためには、まずその存在を受け入れることです。つぎに、その存在を現在の科学で解読し、理解していくことです。その結果、アンティキテラの装置の高みが見えてきたのです。
なにより過去の人の、能力や技術、知恵を見くびっていたのです。ピラミッドや、古代の芸術品は、現在のものに見劣ることは決してありません。勝るものも多々あります。秀でた才能や卓越した技術、大いなる思索、そんな積み重ねは、時代を凌駕することがあるのです。アンティキテラの装置が教えるところです。
このような経験を、エッセイの最初の話題とした「今どきの若者」に適用することが重要ではないでしょうか。
まずは、彼らを受け入れることです。もし彼らと何かを比較する必要があるのなら、先入観なく比較すること、いろいろな尺度で比較することではないでしょうか。彼らの行動にはいろいろな思いや感情、願いが背景にあることなどを考慮して理解すべきでしょう。違いがあったとしても、それは個性の多様や時代背景によるもので、個々の人格を受け入れるべきでしょう。そこには、秀でた才能が生まれているかもしれません。そんな時、彼らを援助することが先人の勤めではないでしょうか。そんな蓄積が新たな高みを生みだすのではないでしょうか。
私達もかつての今どきの若者で、今どきの若者は、今どきの若者なのです。ただ、それだけなのです。
・古代ギリシアのコンピュータ・
ジョー・マーチャント著
文春文庫「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ」
(ISBN978-4-16-765179-4 C0198)
を読んで、驚きました。
そして、このエッセイを書くことにしました。
古代の技術を解き明かす科学者たちの
いりいろな格闘が描かれています。
そして、科学者同士の格闘も描かれています。
この本は一読価値ありです。
そして科学は、成果の重要性と
だれがそれを公開したかです。
良心や裏切りもあるかもしれません。
そんな人間模様も描かれています。
・調査・
9月中旬から1週間、調査にでかけます。
忙しくて、本当はそれどこではないのですが、
出かけることにしました。
全く新しい講義の準備が必要なのですが、
でかけないとストレスが溜まり過ぎています。
気分転換が必要なのです。
もちろん、調査の目的はありますが。
今回は研究しが当たらなかったので、
少々懐が痛いのですが、
仕方がありません。
2012年8月1日水曜日
127 ニッポニテス:生命の内在力
近くの博物館で、アンモナイトの特別展がおこなわれています。できれば、見学にきいきたのですが、いく時間があるのでしょうか。博物館の化石のコーナーではおなじみのアンモナイト。今回は、異常巻きアンモナイトについてです。異端から生命の内在力に至る話題です。
多数のものが、ある特性を持っていると、そこに多数派が形成されます。多数派とは違った特性を持ったものは、少数派としての扱いだけでなく、特異なもの、異分子、異端あつかいされることがよくあります。少数派は、異端とみなされると、多数派から阻害、除外、差別され、冷たい扱いを受けることがよくあります。
でも、そんな異端が時には、重要な発見の鍵となったり、真相を教えてくれることもあります。そんな例として「異常巻きアンモナイト」を紹介しましょう。ここには、二重の異端が埋もれていました。
1878(明治11)年、東京に生まれた矢部長克(やべ ひさかつ)少年は、小さい頃から化石が好きで、化石採取に熱中していました。その後、東大に入学し、化石の研究へとのめり込みます。東大の学部と大学院在学中にも、いろいろな化石を発見していて、北海道や北上、四国などのアンモナイト化石に関する論文を発表しています。
1904(明治37)年、大学院生の時に、北海道の白亜紀後期の地層から発見されたアンモナイトの化石を記載しました。その中のひとつとして、不思議なアンモナイトの化石がありました。それが、今回取り上げる「異常巻きアンモナイト」でした。学名はニッポニテス(Nipponites mirabilis Yabe)と名付けられました。
アンモナイトは、古生代から中生代の代表的な生き物です。巻貝に似た殻を持ちますが、貝の仲間ではなく、頭足類です。頭足類とは、タコやイカの仲間です。現在も生きているオームガイと同様にアンモナイトも、巻貝の形をした殻を持っているのが特徴です。ところが、白亜期末にあったK-Pg境界の異変で絶滅してしまい、今では見られません。
アンモナイトは、巻いた殻を持っていますが、巻貝と違うのは、殻の中に、隔壁とよばれている仕切りが多数あることです。アンモナイトの体は一番外側の部屋に住んでいて、奥のほうは仕切りで空洞のままになっています。この隔壁の存在が、巻貝とは構造上の大きな違いとなっています。
隔壁は、アンモナイトの成長とともに外に向かって増えていきます。古い殻を隔壁で区切り、そこに空気をためて、浮力を生み出していたと考えられています。浮力によって、殻が大きくなっても海中で移動でき、生活することができたようです。直径が2mに達するような巨大なアンモナイトも見つかっています。
アンモナイトの本体(体の軟体部)の部分は、ほとんど化石として見つかっていません。吸盤があったらしいことはわかっていますが、足が何本あったのかもわかっていません。想像図では、タコやオームガイのような姿をとして描かれているのをみますが、本当のところはまだわかっていません。
さて、「異常巻き」のアンモナイト、ニッポニテスです。
論文には、発見された化石のスケッチがついているのですが、ニッポニテスの不思議な巻き方を言葉で説明するのは難しいのですが、やっていきましょう。
化石は、全体としてサイコロのような塊になっています。ほぼ全体の殻がそろっていますが、いくつか欠けているところがあり、口のところも欠落しています。スケッチでは、なんといってもアンモナイトにも巻貝にも見られない巻き方が目につきます。殻は曲がりくねっています。殻の巻があちこちに曲がっていますが、全体として立方体におさまっているので、規則性らしきものありそうにも見えます。
矢部が発見したニッポニテスの化石は、ひとつだけでした。ニッポニテスは他のアンモナイトと比べてあまりに「異常」でした。しかし、矢部は、その巻き方に規則性があり、アンモナイトの多様性のひとつではないかと考えていました。丁寧にスケッチしながら、そんなことを考えていたのかも知れません。
化石(個体数)が1個だけなので、当時の地質学者は、「異端」とみなしました。あまりにアンモナイトの「多数派」から逸脱しているからです。ニッポニテスは、奇形の生物で、本来なら化石にならないほど稀なものであったのが、たまたま見つかったものと考えられていました。
その後、1926年に同じ巻き方の化石が見つかったことから、「ある個体」だけの奇形ではなく、「種」として存在していたことが認識されました。それでも、当時の地質学者は、アンモナイトの系統の終わりに当る時代(K-Pg境界の時代)にみつかっていたので、進化の末期の奇形で、終わりを象徴するようなものであると考えられていました。当時、K-Pgの大絶滅は隕石説ではなく、地球内の何らかの原因、進化の袋小路に至ったせいとも考えられていました。つまり、一つの個体の異常から、種の異常に変わっただけで、「異常巻アンモナイト」という認識は残っていました。やはり多数派と違うことのハンディは、なかなか消えないようです。
その後、いろいろな化石も見つかってきたこと、K-Pg大絶滅の隕石説の有力化などから、「異端」ではないことがわかってきました。
その一つの突破口は、殻のある形成メカニズムが働くことで、このような形がつくることができることがわかってきたことです。海中に浮かんだ状態で、殻の入り口の向きが一定の範囲に収まるように成長させる、というシミュレーションがなされました。すると、成長の条件を変化させなければ通常の巻き方になり、成長の方向をふることで、いろいろな巻き方ができることがわかりました。左右に規則的に成長方向をふることで、ワインのコルク抜きのような開いて伸びた巻ができることもあります。ニッポニテスは、水平、右、左へと巻きの向きを環境にあわせてかえていったようです。コンピュータのシミュレーションで巻き方が再現されています。
どんな環境あるいは条件が、ニッポニテスを選んだのかは、まだよくわかっていません。他の生物との共生関係、あるいは浮遊に特化していたとかの仮説はありますが、検証はまだなされていません。
条件の範囲で変化するか、しないかが、見た目の異常と正常を分けることがわかりました。さらに、異常にみえる巻き方にも、同じ規則性がひそんでいることもわかってきました。その規則性こそが、アンモナイトの殻の成長の原理ではないかということが次第にわかってきたのです。アンモナイトは、住む環境によって、一定の成長条件を多様化することで、いろいろな場所に適応してきたのではないかということです。
この考え方は、アンモナイトだけの原理ではなく、他の貝類、あるいは他の生物全般にも適用できるかもしません。生物には、自分の体の仕組みや体制が決めている原理をもっているようです。その原理はその種の多様性の源となり、環境や条件が変化すれば、許された範囲で自由に変動可能であるということです。その変動が、種としての多様性を生み、適応性を育むと考えられます。たとえ、人には異常にみえても、生物種として繁栄可能なのです。
「異常巻き」アンモナイトは、成長の規則性の奥行きを悟らせてくれました。そして、「異端」に見えることに中に、原理や原則が隠されていることも教えくれました。
矢部は、論文の中で「This formation of several U-shaped curves must be ascribed to the inherent power of the animal(いくつかのU字のカーブの形成は、動物に内在している力に由来するはずである)」と述べています。見たことのない特徴でも、特異性や異常性ではなく、生物には内在された力(inherent power)があるはずと看破しています。そんな生命力ともいうべき内在力を、人間の認識不足、浅見さによって、「異端」とするのは間違いであることを「異常巻き」アンモナイトは教えてくれました。
そんな自然の教えを素直に聞くことができた矢部は、生命の内在力を信じられたのでしょう。私には、矢部の研究姿勢が、自然から学ぶべきこと、学ぶべき方法を気づかせてくれました。「異常巻き」は、生物がもっている多様性に過ぎないこと、生物の内在力だと見抜いた矢部、二重の絡み合った巻き方が見えました。
・矢部長克・
矢部長克は大学院を終了後、東大講師として、
地質学者の道を歩みました。
最初は北海道の石狩炭田で地層の研究をしていたのですが、
東北大学設立準備として、ヨーロッパに留学して、
1911年東北大学教授に任じられ、
1912年に帰国して東北大学で教鞭をとります。
その後も地質学のさまざまな成果をあげて、
学問の進歩に貢献されました。
・アンモーンの角・
アンモナイトはギリシアのアンモーンに
その名称は由来しています。
アンモーンは羊の角をもった神です。
その神話に基づいて、
「アンモーンの角」というものが古代地中海にはありました。
「アンモーンの角」とは、今でいうアンモナイトの化石でした。
ただし、羊の角は「異常巻き」アンモナイトになり
多数派のアンモナイト化石は違っていました。
でも、もしかすると最初の発見者は異常巻きアンモナイトを
見つけていたのかも知れませんね。
多数のものが、ある特性を持っていると、そこに多数派が形成されます。多数派とは違った特性を持ったものは、少数派としての扱いだけでなく、特異なもの、異分子、異端あつかいされることがよくあります。少数派は、異端とみなされると、多数派から阻害、除外、差別され、冷たい扱いを受けることがよくあります。
でも、そんな異端が時には、重要な発見の鍵となったり、真相を教えてくれることもあります。そんな例として「異常巻きアンモナイト」を紹介しましょう。ここには、二重の異端が埋もれていました。
1878(明治11)年、東京に生まれた矢部長克(やべ ひさかつ)少年は、小さい頃から化石が好きで、化石採取に熱中していました。その後、東大に入学し、化石の研究へとのめり込みます。東大の学部と大学院在学中にも、いろいろな化石を発見していて、北海道や北上、四国などのアンモナイト化石に関する論文を発表しています。
1904(明治37)年、大学院生の時に、北海道の白亜紀後期の地層から発見されたアンモナイトの化石を記載しました。その中のひとつとして、不思議なアンモナイトの化石がありました。それが、今回取り上げる「異常巻きアンモナイト」でした。学名はニッポニテス(Nipponites mirabilis Yabe)と名付けられました。
アンモナイトは、古生代から中生代の代表的な生き物です。巻貝に似た殻を持ちますが、貝の仲間ではなく、頭足類です。頭足類とは、タコやイカの仲間です。現在も生きているオームガイと同様にアンモナイトも、巻貝の形をした殻を持っているのが特徴です。ところが、白亜期末にあったK-Pg境界の異変で絶滅してしまい、今では見られません。
アンモナイトは、巻いた殻を持っていますが、巻貝と違うのは、殻の中に、隔壁とよばれている仕切りが多数あることです。アンモナイトの体は一番外側の部屋に住んでいて、奥のほうは仕切りで空洞のままになっています。この隔壁の存在が、巻貝とは構造上の大きな違いとなっています。
隔壁は、アンモナイトの成長とともに外に向かって増えていきます。古い殻を隔壁で区切り、そこに空気をためて、浮力を生み出していたと考えられています。浮力によって、殻が大きくなっても海中で移動でき、生活することができたようです。直径が2mに達するような巨大なアンモナイトも見つかっています。
アンモナイトの本体(体の軟体部)の部分は、ほとんど化石として見つかっていません。吸盤があったらしいことはわかっていますが、足が何本あったのかもわかっていません。想像図では、タコやオームガイのような姿をとして描かれているのをみますが、本当のところはまだわかっていません。
さて、「異常巻き」のアンモナイト、ニッポニテスです。
論文には、発見された化石のスケッチがついているのですが、ニッポニテスの不思議な巻き方を言葉で説明するのは難しいのですが、やっていきましょう。
化石は、全体としてサイコロのような塊になっています。ほぼ全体の殻がそろっていますが、いくつか欠けているところがあり、口のところも欠落しています。スケッチでは、なんといってもアンモナイトにも巻貝にも見られない巻き方が目につきます。殻は曲がりくねっています。殻の巻があちこちに曲がっていますが、全体として立方体におさまっているので、規則性らしきものありそうにも見えます。
矢部が発見したニッポニテスの化石は、ひとつだけでした。ニッポニテスは他のアンモナイトと比べてあまりに「異常」でした。しかし、矢部は、その巻き方に規則性があり、アンモナイトの多様性のひとつではないかと考えていました。丁寧にスケッチしながら、そんなことを考えていたのかも知れません。
化石(個体数)が1個だけなので、当時の地質学者は、「異端」とみなしました。あまりにアンモナイトの「多数派」から逸脱しているからです。ニッポニテスは、奇形の生物で、本来なら化石にならないほど稀なものであったのが、たまたま見つかったものと考えられていました。
その後、1926年に同じ巻き方の化石が見つかったことから、「ある個体」だけの奇形ではなく、「種」として存在していたことが認識されました。それでも、当時の地質学者は、アンモナイトの系統の終わりに当る時代(K-Pg境界の時代)にみつかっていたので、進化の末期の奇形で、終わりを象徴するようなものであると考えられていました。当時、K-Pgの大絶滅は隕石説ではなく、地球内の何らかの原因、進化の袋小路に至ったせいとも考えられていました。つまり、一つの個体の異常から、種の異常に変わっただけで、「異常巻アンモナイト」という認識は残っていました。やはり多数派と違うことのハンディは、なかなか消えないようです。
その後、いろいろな化石も見つかってきたこと、K-Pg大絶滅の隕石説の有力化などから、「異端」ではないことがわかってきました。
その一つの突破口は、殻のある形成メカニズムが働くことで、このような形がつくることができることがわかってきたことです。海中に浮かんだ状態で、殻の入り口の向きが一定の範囲に収まるように成長させる、というシミュレーションがなされました。すると、成長の条件を変化させなければ通常の巻き方になり、成長の方向をふることで、いろいろな巻き方ができることがわかりました。左右に規則的に成長方向をふることで、ワインのコルク抜きのような開いて伸びた巻ができることもあります。ニッポニテスは、水平、右、左へと巻きの向きを環境にあわせてかえていったようです。コンピュータのシミュレーションで巻き方が再現されています。
どんな環境あるいは条件が、ニッポニテスを選んだのかは、まだよくわかっていません。他の生物との共生関係、あるいは浮遊に特化していたとかの仮説はありますが、検証はまだなされていません。
条件の範囲で変化するか、しないかが、見た目の異常と正常を分けることがわかりました。さらに、異常にみえる巻き方にも、同じ規則性がひそんでいることもわかってきました。その規則性こそが、アンモナイトの殻の成長の原理ではないかということが次第にわかってきたのです。アンモナイトは、住む環境によって、一定の成長条件を多様化することで、いろいろな場所に適応してきたのではないかということです。
この考え方は、アンモナイトだけの原理ではなく、他の貝類、あるいは他の生物全般にも適用できるかもしません。生物には、自分の体の仕組みや体制が決めている原理をもっているようです。その原理はその種の多様性の源となり、環境や条件が変化すれば、許された範囲で自由に変動可能であるということです。その変動が、種としての多様性を生み、適応性を育むと考えられます。たとえ、人には異常にみえても、生物種として繁栄可能なのです。
「異常巻き」アンモナイトは、成長の規則性の奥行きを悟らせてくれました。そして、「異端」に見えることに中に、原理や原則が隠されていることも教えくれました。
矢部は、論文の中で「This formation of several U-shaped curves must be ascribed to the inherent power of the animal(いくつかのU字のカーブの形成は、動物に内在している力に由来するはずである)」と述べています。見たことのない特徴でも、特異性や異常性ではなく、生物には内在された力(inherent power)があるはずと看破しています。そんな生命力ともいうべき内在力を、人間の認識不足、浅見さによって、「異端」とするのは間違いであることを「異常巻き」アンモナイトは教えてくれました。
そんな自然の教えを素直に聞くことができた矢部は、生命の内在力を信じられたのでしょう。私には、矢部の研究姿勢が、自然から学ぶべきこと、学ぶべき方法を気づかせてくれました。「異常巻き」は、生物がもっている多様性に過ぎないこと、生物の内在力だと見抜いた矢部、二重の絡み合った巻き方が見えました。
・矢部長克・
矢部長克は大学院を終了後、東大講師として、
地質学者の道を歩みました。
最初は北海道の石狩炭田で地層の研究をしていたのですが、
東北大学設立準備として、ヨーロッパに留学して、
1911年東北大学教授に任じられ、
1912年に帰国して東北大学で教鞭をとります。
その後も地質学のさまざまな成果をあげて、
学問の進歩に貢献されました。
・アンモーンの角・
アンモナイトはギリシアのアンモーンに
その名称は由来しています。
アンモーンは羊の角をもった神です。
その神話に基づいて、
「アンモーンの角」というものが古代地中海にはありました。
「アンモーンの角」とは、今でいうアンモナイトの化石でした。
ただし、羊の角は「異常巻き」アンモナイトになり
多数派のアンモナイト化石は違っていました。
でも、もしかすると最初の発見者は異常巻きアンモナイトを
見つけていたのかも知れませんね。
2012年7月1日日曜日
126 Walker Feedback:無意識のフィードバック
研究には、なんども繰り返し作業をしてデータを得るものが、たくさんあります。なかには、適切な結果を得るまで、何度も繰り返さなければならない実験もあります。実験の操作や初期値の選定、結果の取捨選択を繰り返すうちに、無意識のフォードバック効果が働くことはないでしょうか。
世の中の事象は、単独で存在、挙動するものばかりではありません。多くの事象は、別の事象となんらかの相互作用をもちながら存在し、挙動します。人の振る舞いも、もちろん例外ではありません。相互作用に埋もれていることが、世の常ではないでしょうか。
事象の相互作用のなかに、いろいろな一般則が見出されています。物理や化学の現象のように、一義的に記述できる法則や原理となるような相互作用もあります。一方、そう単純にいかないものも多々あります。自然現象にも、法則化できないものが、いろいろあることが知られています。また、私たちが暮らす社会も複雑なので、一義的な一般則が適用できません。単に多いや少ない、増加や減少の傾向がみられる程度のゆるい相互作用も多々あります。
複雑さを増す要因として、相互作用において、結果が再び原因に影響をおよぼすことがあります。
ある系を考えましょう。系とは、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、仕組みの総体のことです。その系に、何らかの刺激(入力という)を与えたとしましょう。そのとき、系はなんらかの反応(出力という)を示すはずです。この反応が、次の刺激に影響を与えることがあります。このような場合を、フィードバック(feedback)といいます。
フィードバックを繰り返すと、反応が強くなる場合と弱くなる場合があります。強くなる場合を「正のフィードバック」(possitive feedback)、弱くなる場合を「負のフィードバック」(negative feedback)といいます。
フィードバックには、最初の刺激(初期値)の違いが、のちのち大きな違いへと変貌したり(初期値の鋭敏性))、影響が拡大や縮小はしているのですがどこか似たパターンを繰り返すこと(自己相似)があります。これらは、カオスやフラクタルなど、複雑系と呼ばれる反応で、相互作用にはよく起こることも知られています。天気や気象現象には、カオスがあることがわかっています。
もしカオスのような複雑系の反応が、知らないうちに系にまぎれこんでいると、長い時間経過すると、予測不能な部分も内在されることになります。そんな長期予測は、間違いを含んでいることが、認識されていない状態で提示されることもありえます。
このようなフィードバックの作用は、いろいろな分野で見つかっています。
1981年、ウォーカーたち(J. C. G. Walker, P. B. Hays and J. F. Kasting)は、負のフィードバックを見つけたという論文を書きました。タイトルは「A negative feedback mechanism for the long-term stabilization of the Earth's surface temperature」(地球表層温度における長期安定性のための負のフィードバック機構)というものでした。内容は、二酸化炭素と気候変動のフィードバックの関係を調べたものです。
この論文は、セーガンとミューレン(Sagan and Mullen)が1972年にサイエンス誌に発表した、「暗い太陽のパラドクス」(faint young Sun paradox)という問題提起に対する、一つの答えを提供するものでした。
「暗い太陽のパラドクス」とは、太陽光度に関するパラドクスでした。恒星における核融合理論によれば、太陽は昔ほど暗かったことになることがわかっていました。地球が誕生した頃は、今の75 %ほどの明るさしかなかったと見積もられています。その論理が正しければ、誕生からしばらくの間、地球の平均気温は、氷点下になっていたことになります。ところが、地質学のデータからは、38億年前以降、地表は氷点下になることなく、常に液体の水である海が存在していたという証拠がみつかっています。この矛盾を「暗い太陽のパラドクス」とよんでいました。
このパラドクスは、核融合理論は間違っていて過去の太陽は実際には暗くなかった、あるいは地球の太陽光の反射率(アルベドといい太陽光を反射する能力で高いと地球は温まりにくい)が時間的に増大してきた、または地球の大気組成が時間的に変化してきて温室効果で解消してきた、などの可能性が考えられてきました。
一般的な答えとして、今では、多くの研究者が支持しているのは、最後の大気組成の変化です。地球の表層の温度を保つために、大気組成が変化してきたというものです。地表の温度を一定に保つために、大気組成を都合よく変化させるには、偶然に頼るわけにはいきません。なんらかの必然性のある仕組みが必要なります。そのメカニズムを示したのが、ウォーカーたちの論文でした。
ウォーカーたちは、負のフィードバックでパラドクスを説明しました。太陽の明るさが時代とともに増えるにともなって、地球の気温は上がります。気温が上がると、風化が進んできます。
ここが少し難しいところなのですが、気温上昇があると、鉱物(正確には珪酸塩鉱物)が風化して、炭酸塩鉱物が沈殿します。この風化作用の程度は、気温に依存しているとされています。炭酸塩鉱物は、陽イオンと陰イオンの結合によってできます。陽イオン(カルシウムやマグネシウムのイオン)は、陸地の珪酸塩鉱物の風化から河川での海へ供給されます。陰イオンである炭酸は、大気中の二酸化炭素が海水に溶存することで絶えず供給されます。つまり風化が進むと、大気中の二酸化炭素が、堆積物となり除去されていいきます。その結果、大気中の二酸化炭素濃度が減少することになります。大気中の温室効果を担っている二酸化炭素が減っていくことで、気温が低くなります。これがウォーカーたちの負のフィードバックの概要です。
太陽の明るさの増加によって、地球の気温がいったんは上昇するのですが、時間がたてば、負のフィードバックが働いで、気温低下が起こるというものです。この負のフィードバックを、シミュレーションによって一つの答えを出したのがウォーカたちの報告でした。その業績にちなんで、この気候変動のメカニズムを、ウォーカー・フィードバック(Walker feedback)と呼ぶことがあります。
ウォーカー・フィードバックは、短時間の変化ではなく、地質学的プロセスが組み込まれているので、長い時間をかけて起こるものです。現在では多くの研究成果があり、より精緻なウォーカー・フィードバックのシミュレーションがなされています。
でも、このフィードバックは、気候の予測でもあります。そこには、カオスあるいは複雑系が紛れ込んでいる可能性があります。また、初期値を少し調整すれば、大きな変化を伴う結果が出てくることもあるでしょう。例えば、鉱物の風化や炭酸塩の沈殿の組み合わせ、スピードはいろいろ変動可能です。それを上手く調整すれば、もしかすると、希望のデータが得られるかも知れません。もちろん、現在のシミュレーションでは、そのような場合への配慮がなされていることでしょう。
実はもっと問題なのは、シミュレーションを操作する研究者の介在ではないでしょうか。研究成果を生むこために、何度も繰り返しシミュレーションをしていきます。そして研究者であれば、誰もが望む結果を得たいはずです。それが論文につながるわけです。そのとき、次の実験のためのデータの取捨選択、初期値の選定などの意思決定の際に、無意識な作為が紛れ込むことないでしょうか。人の意志の中に、フィードバック効果が含まれていないでしょうか。もしあったとしたら、研究を進めれば進めるほど、意図するところに向かっていってしまうことになるかもしれません。取り除くことのできない無意識のフィードバックは、人の行為すべてに混入しうるものではないでしょうか。この無意識のフィードバックは、希望を叶えるための原動力にもなりえます。一方、間違いを生む原因となります。これらは、切り離せない表裏一体の関係なのかもしれませんね。
・パラドクス・
科学は、客観的になされるべきですし、
科学者たるもの、常にそれを心がけています。
科学者も人間ですから、
期待する成果があり、
それを目標に研究をすすめます。
目標に向けて努力すればするほど、
目標達成に近づいていきます。
この努力なくして目標達成はありえません。
しかし、そこにフィードバック効果があったとしたら、
成果の客観性が保たれません。
目標を目指せば目指すほど
客観性が薄れることが起こるかもしれないのです。
困ったパラドクスです。
・快晴の贈り物・
北海道は心地よい初夏の日々が続いています。
深く澄んだ青空は、
なんとも言えない心地よさがあります。
北国ならではの青空です。
冬の寒さに耐えた贈り物なのかもしれません。
休み時間に、学生たちは半袖で、
ひなたぼっこをしています。
昼休みにはサークルの演奏が
大学の真ん中にある池の特設ステージで
毎日演奏されます。
少々騒がしいですが、
学生たちは演奏をひなたぼっこをしながら、
楽しんでいます。
世の中の事象は、単独で存在、挙動するものばかりではありません。多くの事象は、別の事象となんらかの相互作用をもちながら存在し、挙動します。人の振る舞いも、もちろん例外ではありません。相互作用に埋もれていることが、世の常ではないでしょうか。
事象の相互作用のなかに、いろいろな一般則が見出されています。物理や化学の現象のように、一義的に記述できる法則や原理となるような相互作用もあります。一方、そう単純にいかないものも多々あります。自然現象にも、法則化できないものが、いろいろあることが知られています。また、私たちが暮らす社会も複雑なので、一義的な一般則が適用できません。単に多いや少ない、増加や減少の傾向がみられる程度のゆるい相互作用も多々あります。
複雑さを増す要因として、相互作用において、結果が再び原因に影響をおよぼすことがあります。
ある系を考えましょう。系とは、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、仕組みの総体のことです。その系に、何らかの刺激(入力という)を与えたとしましょう。そのとき、系はなんらかの反応(出力という)を示すはずです。この反応が、次の刺激に影響を与えることがあります。このような場合を、フィードバック(feedback)といいます。
フィードバックを繰り返すと、反応が強くなる場合と弱くなる場合があります。強くなる場合を「正のフィードバック」(possitive feedback)、弱くなる場合を「負のフィードバック」(negative feedback)といいます。
フィードバックには、最初の刺激(初期値)の違いが、のちのち大きな違いへと変貌したり(初期値の鋭敏性))、影響が拡大や縮小はしているのですがどこか似たパターンを繰り返すこと(自己相似)があります。これらは、カオスやフラクタルなど、複雑系と呼ばれる反応で、相互作用にはよく起こることも知られています。天気や気象現象には、カオスがあることがわかっています。
もしカオスのような複雑系の反応が、知らないうちに系にまぎれこんでいると、長い時間経過すると、予測不能な部分も内在されることになります。そんな長期予測は、間違いを含んでいることが、認識されていない状態で提示されることもありえます。
このようなフィードバックの作用は、いろいろな分野で見つかっています。
1981年、ウォーカーたち(J. C. G. Walker, P. B. Hays and J. F. Kasting)は、負のフィードバックを見つけたという論文を書きました。タイトルは「A negative feedback mechanism for the long-term stabilization of the Earth's surface temperature」(地球表層温度における長期安定性のための負のフィードバック機構)というものでした。内容は、二酸化炭素と気候変動のフィードバックの関係を調べたものです。
この論文は、セーガンとミューレン(Sagan and Mullen)が1972年にサイエンス誌に発表した、「暗い太陽のパラドクス」(faint young Sun paradox)という問題提起に対する、一つの答えを提供するものでした。
「暗い太陽のパラドクス」とは、太陽光度に関するパラドクスでした。恒星における核融合理論によれば、太陽は昔ほど暗かったことになることがわかっていました。地球が誕生した頃は、今の75 %ほどの明るさしかなかったと見積もられています。その論理が正しければ、誕生からしばらくの間、地球の平均気温は、氷点下になっていたことになります。ところが、地質学のデータからは、38億年前以降、地表は氷点下になることなく、常に液体の水である海が存在していたという証拠がみつかっています。この矛盾を「暗い太陽のパラドクス」とよんでいました。
このパラドクスは、核融合理論は間違っていて過去の太陽は実際には暗くなかった、あるいは地球の太陽光の反射率(アルベドといい太陽光を反射する能力で高いと地球は温まりにくい)が時間的に増大してきた、または地球の大気組成が時間的に変化してきて温室効果で解消してきた、などの可能性が考えられてきました。
一般的な答えとして、今では、多くの研究者が支持しているのは、最後の大気組成の変化です。地球の表層の温度を保つために、大気組成が変化してきたというものです。地表の温度を一定に保つために、大気組成を都合よく変化させるには、偶然に頼るわけにはいきません。なんらかの必然性のある仕組みが必要なります。そのメカニズムを示したのが、ウォーカーたちの論文でした。
ウォーカーたちは、負のフィードバックでパラドクスを説明しました。太陽の明るさが時代とともに増えるにともなって、地球の気温は上がります。気温が上がると、風化が進んできます。
ここが少し難しいところなのですが、気温上昇があると、鉱物(正確には珪酸塩鉱物)が風化して、炭酸塩鉱物が沈殿します。この風化作用の程度は、気温に依存しているとされています。炭酸塩鉱物は、陽イオンと陰イオンの結合によってできます。陽イオン(カルシウムやマグネシウムのイオン)は、陸地の珪酸塩鉱物の風化から河川での海へ供給されます。陰イオンである炭酸は、大気中の二酸化炭素が海水に溶存することで絶えず供給されます。つまり風化が進むと、大気中の二酸化炭素が、堆積物となり除去されていいきます。その結果、大気中の二酸化炭素濃度が減少することになります。大気中の温室効果を担っている二酸化炭素が減っていくことで、気温が低くなります。これがウォーカーたちの負のフィードバックの概要です。
太陽の明るさの増加によって、地球の気温がいったんは上昇するのですが、時間がたてば、負のフィードバックが働いで、気温低下が起こるというものです。この負のフィードバックを、シミュレーションによって一つの答えを出したのがウォーカたちの報告でした。その業績にちなんで、この気候変動のメカニズムを、ウォーカー・フィードバック(Walker feedback)と呼ぶことがあります。
ウォーカー・フィードバックは、短時間の変化ではなく、地質学的プロセスが組み込まれているので、長い時間をかけて起こるものです。現在では多くの研究成果があり、より精緻なウォーカー・フィードバックのシミュレーションがなされています。
でも、このフィードバックは、気候の予測でもあります。そこには、カオスあるいは複雑系が紛れ込んでいる可能性があります。また、初期値を少し調整すれば、大きな変化を伴う結果が出てくることもあるでしょう。例えば、鉱物の風化や炭酸塩の沈殿の組み合わせ、スピードはいろいろ変動可能です。それを上手く調整すれば、もしかすると、希望のデータが得られるかも知れません。もちろん、現在のシミュレーションでは、そのような場合への配慮がなされていることでしょう。
実はもっと問題なのは、シミュレーションを操作する研究者の介在ではないでしょうか。研究成果を生むこために、何度も繰り返しシミュレーションをしていきます。そして研究者であれば、誰もが望む結果を得たいはずです。それが論文につながるわけです。そのとき、次の実験のためのデータの取捨選択、初期値の選定などの意思決定の際に、無意識な作為が紛れ込むことないでしょうか。人の意志の中に、フィードバック効果が含まれていないでしょうか。もしあったとしたら、研究を進めれば進めるほど、意図するところに向かっていってしまうことになるかもしれません。取り除くことのできない無意識のフィードバックは、人の行為すべてに混入しうるものではないでしょうか。この無意識のフィードバックは、希望を叶えるための原動力にもなりえます。一方、間違いを生む原因となります。これらは、切り離せない表裏一体の関係なのかもしれませんね。
・パラドクス・
科学は、客観的になされるべきですし、
科学者たるもの、常にそれを心がけています。
科学者も人間ですから、
期待する成果があり、
それを目標に研究をすすめます。
目標に向けて努力すればするほど、
目標達成に近づいていきます。
この努力なくして目標達成はありえません。
しかし、そこにフィードバック効果があったとしたら、
成果の客観性が保たれません。
目標を目指せば目指すほど
客観性が薄れることが起こるかもしれないのです。
困ったパラドクスです。
・快晴の贈り物・
北海道は心地よい初夏の日々が続いています。
深く澄んだ青空は、
なんとも言えない心地よさがあります。
北国ならではの青空です。
冬の寒さに耐えた贈り物なのかもしれません。
休み時間に、学生たちは半袖で、
ひなたぼっこをしています。
昼休みにはサークルの演奏が
大学の真ん中にある池の特設ステージで
毎日演奏されます。
少々騒がしいですが、
学生たちは演奏をひなたぼっこをしながら、
楽しんでいます。
2012年6月1日金曜日
125 金環日食のSense of Wonder
5月21日の金環日食は、日本中に事前にニュースがながれ、当日もいろいろ話題になりました。私は残念ながら見ることはできませんでしたが、準備の過程や待っていること、その後のテレビ番組をみることで満喫しました。これは負け惜しみではなく、金環日食を通じて、さまざまなSense of Wonderを感じたからです。
2012年5月21日は、金環日食で、日本中が大騒ぎになりました。日食をご覧になられた方もおられるでしょう。九州や首都圏では曇りのところがあり、せっかくのチャンスを逃した方もおられるでしょう。残念だったでしょうが、天気ばかりは、地上の人間には如何ともしようもありません。次のチャンスを待しかありません。熱烈なファンであったら、天気予報を見ながら移動されたかたもいるかも知れません。テレビ局では日食をとるために大きな精力を注いでいました。天下のNHKは、専用ジェットを飛ばして雲の上から撮影していました。
すでにご存知かもしれませんが、そもそも日食とは何かということを紹介しておきましょう。
太陽系では太陽が唯一の光源となります。太陽-月-地球が一直線に並んだとき、太陽の光が月に遮られて、その影が地球の落ちたときに日食が起こります。日食が見えるのは、地球に影が落ちている場所だけです。地球の影には、太陽に月が一部かかった状態(半影といいます)と完全に重なった状態(本影)があります。半影の中では部分日食となり、本影では完全な日食になります。
完全な日食が起こるのは、地球からみて月と太陽の「みかけ大きさ」がほぼ同じためです。月が太陽を完全にぴったりと隠すため、日食が起こります。これは、太陽、地球と月の絶妙な比率になっているためです。「みかけの大きさ」は、太陽は月より400倍大きいのですが、400倍遠くにいるために、地球から見たときの大きさが、ほぼ同じになります。太陽と地球の間に月があるとき、その影の部分が、地球を横切ると、日食が起こります。
大きさはほぼ同じ大きさにみえるのですが、多少は変化します。月は地球の周りを楕円軌道をめぐっているので、月と地球の距離は変化します。月が遠くにあると小さく見え、金環日食になり、近くにあると大きく見え皆既日食になります。
余談ですが、太陽-地球-月が一直線に並んだ時、月が地球の影に入った状態が月食です。月食にも部分月食と皆既月食があります。皆既月食は、地球の夜の側であれば全域でみられます。また、地球の影は、月より3倍以上大きいので、その分皆既月食は長く続きます(1時間40分ほど)。年に一度くらいは皆既月食が起こり、多くの地域でみることができるので、ありがた味も少な目なのかもしれませんが。
今回は月が遠くにある時に起こる日食だったので金環日食になりました。その本影が日本列島、それも関東付近を通りました。人口密集地で起こるものだったので、大きな話題になりました。私の住む北海道では部分日食ですが、80%以上欠けます。たいした日食です。北海道では、6時半ころから日食はスタートし、最大の部分日食の時間は7時50分ころです。めったにない天文ショウです。私も観察するつもりでいました。
私は天文マニアではないのですが、日食は何度か見ています。1990年7月22日の部分日食(カナダにて)、1997年3月9日の部分日食(神奈川県にて)、2009年の皆既日食(北海道では部分日食を)でした。そしてそのうち、2回は幸運にもカメラで部分日食を撮影していました。
1990年はカナダで地質調査をしていたのですが、カナダの地質学者が「日食だ」というので、見上げると部分日食を見ることができました。本来なら太陽を直接見ることができないのですが、カナダの西部で大きな山火事があり、その煙が流れてきていて、直接目で太陽をみれてカメラでも撮影することができました。
1997年は晴れていたので、直接見ることはできませんでした。陽撮影用のフィルターも用意していませんでした。しかし、この時の目的は木漏れ日(あとで説明します)を撮影することでした。2009年のときも、木漏れ日を撮影することが目的でしたが、雲があり雲越しに部分日食を直接撮影できました。
今回こそは、大きく欠ける部分日食をフィルターをつけて、直接撮影するつもりでいました。撮影のために、いろいろと準備していました。ただし、晴れ間を求めて遠くへ出かけるようなことはしませんでした。身近なところで観察して、部分日食を満喫するつもりでした。
準備として太陽観察用の大きめフィルター板を購入しました。家族用にメガネを2個、撮影のレンズの前にはめるフィルターを3種作成して、残り部分で、自分と家内用の片目用のフィルターを作成しました。前日の日曜日に天気がよかったので、撮影の予行演習と撮影条件を設定して準備もしていました。
前回の日食は、2009年7月22日で、北海道は部分日食の地域でしたが、カメラの用意をしていました。フィルターも用意していなかったので、カメラでは直接撮れないでしょうから、木漏れ日の撮影するつもりでいました。幸い薄い雲がかかっていたので、雲越しに部分日食を、カメラで直接撮影できました。
日食の木漏れ日は各地で撮影されて公開されているので、ご存知の方もいるかも知れません。小さな穴を光が通ると、向こうの景色が映せるというものです。この原理を利用したものが、ピンホールカメラです。上下左右が反転した映像になります。木漏れ日は、葉っぱの間にできた小さな隙間がピンホールとなり、その穴を光が通りぬけると、太陽が被写体として地面に映ったものです。通常、木漏れ日のすき間がいびつな形をしているのに、丸い木漏れ日になるのは、太陽の形が映されているからです。ですから部分日食では欠けた木漏れ日、金環日食では丸いリングになります。
今回、日食の現象だけでなく、できれば木漏れ日も撮影したいと考えました。人のあまりこなさそうな林がある近所の公園で、撮影することにし、準備をしていました。
いよいよ、待望の当日を迎えました。ところがあいにくの曇り空です。天気予報では降雨確率20%でしたので、晴れることを期待していたのですが、霧が上昇したような低めの雲がかかっていました。6時過ぎに公園に到着して、9時過ぎまで寒い中でねばったのですが、まったく太陽の姿をみることはできませんでした。
日食は見たかったのですが、見れなくてもよかったと思っています。自分の一連の行動を楽しめ、雲の向こうにある日食を感じることができたからです。準備をして、期待している私には、なにより「Sense of Wonder」があったからです。
Sense of Wonderとは、直訳すると「驚く感覚」というのでしょうか。意味としては、自然や生命など対象はなんでもいいのですが、そのものに驚き、不思議がる感覚、そんな「こころ、気持ち」のことです。もしかすると日本人や現代人が忘れがちなものではないでしょうか。日食という不思議な現象に驚く心もSense of Wonderです。Sense of Wonderは、そんな小さいものではなく、もっと広大な概念を意味していると思います。
Sense of Wonderは、身の回りのもの、できごとにみられる不思議さを感じ、興味をもつ心がスタートです。メディアが日食と騒ぐので、日食をみるのではなく、不思議なことが起こることにわくわくする気持ち、子どものような心を持つことです。写真をとるためにはフィルターを使えばいいこと。フィルターを使い明るさを数万分の1に減らしてやっと太陽ををみることができ、カメラで撮影できること。通常の太陽を撮影すれば、黒点もみることができること。日食の原理を考えたら、そこにある見かけの大きさと、太陽と月、地球の距離が400という絶妙の値になっていたこと。日食の原理の理解を通じて、月食もわかり日食と月食の違いがわかること。日食を生む奇跡的な偶然、その値のブレが皆既と金環の違いを生むという不思議さ・・・・・それらすべて、ありとあらゆるものに、Sense of Wonderを感じることが大切なのです。
Sense of Wonderは、人しか持ち得ない非常に高度な精神活動なのかもしれません。今の人たちが与えられた驚きしかもてないとしたら、人としてのSense of Wonderが衰えているのかもしれません。もっと身の回りのものごとに敏感になるべきなのでしょう。
・フィルター・
今回作成したフィルターは
天文雑誌の付録についていたB5サイズくらいのもので
その雑誌込みで1000円以下で購入しました。
なかなか安い買い物でした。
レンズ用のフィルターをつくったので、
今度は丸い太陽をきっちりと撮影しようかと考えています。
できれば黒点をとりたいなと考えています。
予備的な撮影では露出があってなかったようで、
黒点は写っていませんでした。
・天まかせ・
もう6月です。
2012年も半分近く過ぎました。
短いような、長いような、よくわからない時の流れです。
6月は北海道にいい季節です。
今年は少々天候不順ですが、
晴れれば清々しい気持ちのいい日となります。
次男の小学校は今週末が父兄で学校の環境の整備をして
そのあとジンギスカンをします。
そして翌週は運動会となります。
いよいよ今年が最後の運動会になるので
私の母を京都から呼ぶことにしています。
天気が心配ですが、これも日食と同じで
心配してもどうしようもありません。
ただあるがままを受け入れるしかなく、
その日の天候に対処するしかありません。
まさに、天まかせです。
2012年5月1日火曜日
124 シンギュラリティは、いずこ
シンギュラリティ(Singularity)とは、特異点という意味で使われることがあります。21世紀はあまりいい世紀に思えません。大きなイノベーションを起こしてくれるシンギュラリティを求めているのかも知れません。シンギュラリティは、誰が、何が、もたらすかはわかりません。でもシンギュラリティを希求する気持ちは高まっているように思えます。
21世紀になってもう10年以上もたってしまいました。20世紀後半、高度成長、Japan as No.1、バブル景気を背景に語られた21世紀の夢は、輝いていました。そんな夢を抱いていたのに、平家物語の「奢れる者は久しからず」さながら、バブル崩壊、その後も継続する低迷期、そして迎えた21世紀。ITバルブの崩壊と9.11のテロの象徴的幕開けから、さらなる経済低迷、金融崩壊、3.11の大災害・・・。夢はすぼみ、つらいことや嫌なこと、不甲斐ないことなど、マイナスのことばかりが目立つ時代になりました。
20世紀後半を青春として生きた私のような世代にとって、現実の21世紀は、夢とのギャップがあまりに大きいものでした。20世紀の科学や技術の躍進で、機械化、自動化、電子化、そしてバブルの恩恵を受けた世代は、暗転時のギャップも増しているのではないしょうか。21世紀に生まれた子どもたちは、そんなコントラストを知ることなく、ギャップも感じることもないでしょうか。単なる年寄りの「昔は良かった」の語り草でしょうか。
20世紀の科学技術は、指数関数的な成長をしてきました。以前紹介した「ムーアの法則(Moore's Law)」(2008年1月1日発行 72 進歩よ止まれ:ムーアの法則)では、トランジスタやICなどの集積回路度が、一定のスピードで進歩するのではなく、時間とともに速度が増して、加速度的に進歩しているとされました。正確な「指数関数」ではないにしても、「指数関数的」であることは、多くの人が実感していることでしょう。
トランジスタやICなどの集積回路の進歩は、IT関連の技術、インターネット、電話通信などをも刺激し、大きく発展させました。ムーアの法則は、ITの世界だけでなく、いろいろな分野に適用、展開が可能かも知れません。
ある分野で新しい発想や技術が生まれると、それに関連した成果が次々と連鎖して生まれることが、よく起こります。そのような見方を、ムーアの法則を、より一般化して「収穫加速の法則(Law of Accelerating Returns)」と呼ばれることがあります。
収穫加速の法則は、重要な発想や技術が生まれると、既存のものと次々と連鎖反応を起こして、加速的、指数関数的に技術革新が起こったり、質的な変革が起こることをいいます。イノベーション(innovation)を促し、多くの益を得ることです。
IC技術が多様な家電を、インターネットが情報の爆発を、携帯電話が通信革命を、宅配が郵政事業を変革させ、CDがレコードを駆逐し、MP3がCDを淘汰しました。
しかし、限りなく続くイノベーションなどありえません。少し考えるとわかるのですが、ムーアの法則も、いずれ限界を迎えます。集積回路の例でいえば、回路では電子の動きをコントロールすることで演算していきます。回路である限り、サイズを原子1個分より小さくできません。原子のサイズが集積回路の物理的極限となります。その以上の集積は、同じ技術の改良では不可能となります。どんな成長にも、限界があるということです。
一般化された「収穫加速の法則」にも、終わりを迎える時が来るはずです。同じ技術や発想では、やがて極限に達し、限界になるということです。「奢れる者は久しからず」。何においても突き詰めていくと、やがては到達点、限界に達するのでしょう。
到達点に達した時でも、人は停滞を望みません。満足することなく、さらなる高み探し目指します。そのためには、全く別の発想、新技術、新素材などの導入によって、新しい突破口を見出すことがあります。そのような突破口を「技術的特異点(Technological Singularity)」といいます。技術的特異点は、手書きから印刷へ、電気の発明、真空管からダイオードへ、インターネット通信網などなど、大小さまざまなものがありました。そして技術的特異点が見つかると、急激な収穫加速の法則が起こりました。そして、次なる技術的特異点を求めます。
技術的特異点の誕生には、一人の偉大な発明家、天才、秀才、あるいは偶然によるもの、企業や軍部の技術、集合知によるもの、いろいろなパターンがあります。技術的特異点の規模も様相もさまざまです。
何が特異点になるかもわかりません。どんなに素晴らしい特異点的技術であっても、ビデオのベータやコンピュータ技術のTRONも、主流にならなければ、やがては廃れていきます。主流になるかどうかは、人や社会の潮流、時間の淘汰という過酷な試練があります。そんな主流派も、あるとき傍流や反骨など少数派から生まれたものです。だから、心や行動、公表・表明への自由さが必要でしょう。
技術だけではなく、思想や社会、文化においても、特異点は存在すると思います。帝国主義から民主主義へ、開発から環境へ、発展から持続可能性へ、などいろいろな特定点がありました。21世紀の暗さ、マイナスを、明るくプラスに変える特異点は見つかるでしょうか。見つけることができない時、人々の不満が頂点に達した時、世界は恐慌、戦争などの泥沼に突入してきたという歴史が繰り返しました。
閉塞的な資本主義、機能しない民主主義、弊害が目立つ技術。私たちは、物質や金銭ではない価値観を求めているのかも知れません。今までにないシンギュラリティ(Singularity、特異点)を待っているのかも知れません。停滞も是、マイナスも良し、我慢が美徳、消費が悪で「もったいない」が善、など、逆転とも思えるような価値観、イノベーションがもしかすると、シンギュラリティのトリガーになるかもしれません。今示した価値観は、ほんの少し前、私が子供の頃の貧しかった時代、20世紀中頃、あるいは江戸時代、多くの世界、社会が過ごした有り様でした。
たとえどんな路傍の芽とはいえ摘むことなく、育み必要があります。そんな自由さを保証する必要があります。現代社会においては、成熟した民度があってこそ成し遂げられる条件でしょう。私たち人類、あるいは日本人は、そこまでの高みに達しているでしょうか。今がその時かも知れません。乗り遅れてはいけません。
・ゴールデンウィーク・
いよいよゴールデンウィークに突入です。
私は講義があるのでカレンダー通りに大学にでています。
教員によっては休講にする人もいるようです。
遠くから来ている学生は帰省するものもいるようです。
しかし、文部科学省は休講すれば
講義保障を要求します。
だから、教員は学生に嫌われようが
講義をしなければなりません。
補講をするくらいなら
講義をするほうがいいのです。
だから私も、講義をしています。
・嬉しいこと・
実は上のメモに関連して、
嬉しいことがありました。
先週の4年生のゼミで、
これからしばらくの作業内容を示しました。
その作業を数週かけて進めていく予定です。
今週のゼミのある日は
ゴールデンウィークの間の平日なので
作業をするのなら、就活もあるだろうから
ゼミを休講にしてもいいと学生にいいました。
ところが、学生は作業をすすめるために、
ゼミがあったほうがいいといいます。
教員として嬉しい限りです。
いずれにしても、私は他の講義や3年生のゼミがあるので
休むことないのですが。
21世紀になってもう10年以上もたってしまいました。20世紀後半、高度成長、Japan as No.1、バブル景気を背景に語られた21世紀の夢は、輝いていました。そんな夢を抱いていたのに、平家物語の「奢れる者は久しからず」さながら、バブル崩壊、その後も継続する低迷期、そして迎えた21世紀。ITバルブの崩壊と9.11のテロの象徴的幕開けから、さらなる経済低迷、金融崩壊、3.11の大災害・・・。夢はすぼみ、つらいことや嫌なこと、不甲斐ないことなど、マイナスのことばかりが目立つ時代になりました。
20世紀後半を青春として生きた私のような世代にとって、現実の21世紀は、夢とのギャップがあまりに大きいものでした。20世紀の科学や技術の躍進で、機械化、自動化、電子化、そしてバブルの恩恵を受けた世代は、暗転時のギャップも増しているのではないしょうか。21世紀に生まれた子どもたちは、そんなコントラストを知ることなく、ギャップも感じることもないでしょうか。単なる年寄りの「昔は良かった」の語り草でしょうか。
20世紀の科学技術は、指数関数的な成長をしてきました。以前紹介した「ムーアの法則(Moore's Law)」(2008年1月1日発行 72 進歩よ止まれ:ムーアの法則)では、トランジスタやICなどの集積回路度が、一定のスピードで進歩するのではなく、時間とともに速度が増して、加速度的に進歩しているとされました。正確な「指数関数」ではないにしても、「指数関数的」であることは、多くの人が実感していることでしょう。
トランジスタやICなどの集積回路の進歩は、IT関連の技術、インターネット、電話通信などをも刺激し、大きく発展させました。ムーアの法則は、ITの世界だけでなく、いろいろな分野に適用、展開が可能かも知れません。
ある分野で新しい発想や技術が生まれると、それに関連した成果が次々と連鎖して生まれることが、よく起こります。そのような見方を、ムーアの法則を、より一般化して「収穫加速の法則(Law of Accelerating Returns)」と呼ばれることがあります。
収穫加速の法則は、重要な発想や技術が生まれると、既存のものと次々と連鎖反応を起こして、加速的、指数関数的に技術革新が起こったり、質的な変革が起こることをいいます。イノベーション(innovation)を促し、多くの益を得ることです。
IC技術が多様な家電を、インターネットが情報の爆発を、携帯電話が通信革命を、宅配が郵政事業を変革させ、CDがレコードを駆逐し、MP3がCDを淘汰しました。
しかし、限りなく続くイノベーションなどありえません。少し考えるとわかるのですが、ムーアの法則も、いずれ限界を迎えます。集積回路の例でいえば、回路では電子の動きをコントロールすることで演算していきます。回路である限り、サイズを原子1個分より小さくできません。原子のサイズが集積回路の物理的極限となります。その以上の集積は、同じ技術の改良では不可能となります。どんな成長にも、限界があるということです。
一般化された「収穫加速の法則」にも、終わりを迎える時が来るはずです。同じ技術や発想では、やがて極限に達し、限界になるということです。「奢れる者は久しからず」。何においても突き詰めていくと、やがては到達点、限界に達するのでしょう。
到達点に達した時でも、人は停滞を望みません。満足することなく、さらなる高み探し目指します。そのためには、全く別の発想、新技術、新素材などの導入によって、新しい突破口を見出すことがあります。そのような突破口を「技術的特異点(Technological Singularity)」といいます。技術的特異点は、手書きから印刷へ、電気の発明、真空管からダイオードへ、インターネット通信網などなど、大小さまざまなものがありました。そして技術的特異点が見つかると、急激な収穫加速の法則が起こりました。そして、次なる技術的特異点を求めます。
技術的特異点の誕生には、一人の偉大な発明家、天才、秀才、あるいは偶然によるもの、企業や軍部の技術、集合知によるもの、いろいろなパターンがあります。技術的特異点の規模も様相もさまざまです。
何が特異点になるかもわかりません。どんなに素晴らしい特異点的技術であっても、ビデオのベータやコンピュータ技術のTRONも、主流にならなければ、やがては廃れていきます。主流になるかどうかは、人や社会の潮流、時間の淘汰という過酷な試練があります。そんな主流派も、あるとき傍流や反骨など少数派から生まれたものです。だから、心や行動、公表・表明への自由さが必要でしょう。
技術だけではなく、思想や社会、文化においても、特異点は存在すると思います。帝国主義から民主主義へ、開発から環境へ、発展から持続可能性へ、などいろいろな特定点がありました。21世紀の暗さ、マイナスを、明るくプラスに変える特異点は見つかるでしょうか。見つけることができない時、人々の不満が頂点に達した時、世界は恐慌、戦争などの泥沼に突入してきたという歴史が繰り返しました。
閉塞的な資本主義、機能しない民主主義、弊害が目立つ技術。私たちは、物質や金銭ではない価値観を求めているのかも知れません。今までにないシンギュラリティ(Singularity、特異点)を待っているのかも知れません。停滞も是、マイナスも良し、我慢が美徳、消費が悪で「もったいない」が善、など、逆転とも思えるような価値観、イノベーションがもしかすると、シンギュラリティのトリガーになるかもしれません。今示した価値観は、ほんの少し前、私が子供の頃の貧しかった時代、20世紀中頃、あるいは江戸時代、多くの世界、社会が過ごした有り様でした。
たとえどんな路傍の芽とはいえ摘むことなく、育み必要があります。そんな自由さを保証する必要があります。現代社会においては、成熟した民度があってこそ成し遂げられる条件でしょう。私たち人類、あるいは日本人は、そこまでの高みに達しているでしょうか。今がその時かも知れません。乗り遅れてはいけません。
・ゴールデンウィーク・
いよいよゴールデンウィークに突入です。
私は講義があるのでカレンダー通りに大学にでています。
教員によっては休講にする人もいるようです。
遠くから来ている学生は帰省するものもいるようです。
しかし、文部科学省は休講すれば
講義保障を要求します。
だから、教員は学生に嫌われようが
講義をしなければなりません。
補講をするくらいなら
講義をするほうがいいのです。
だから私も、講義をしています。
・嬉しいこと・
実は上のメモに関連して、
嬉しいことがありました。
先週の4年生のゼミで、
これからしばらくの作業内容を示しました。
その作業を数週かけて進めていく予定です。
今週のゼミのある日は
ゴールデンウィークの間の平日なので
作業をするのなら、就活もあるだろうから
ゼミを休講にしてもいいと学生にいいました。
ところが、学生は作業をすすめるために、
ゼミがあったほうがいいといいます。
教員として嬉しい限りです。
いずれにしても、私は他の講義や3年生のゼミがあるので
休むことないのですが。
2012年4月1日日曜日
123 Romer's Gap:不連続の悩み
連続性が途切れるところがあれば、そこでなぜ連続しないのかを知りたくなります。また、その不連続(ギャップ)を埋めたいと思う人も出てくるでしょう。人は不連続(ギャップ)を嫌い、連続性を好むからでしょうか。そんな不連続を埋めていく作業を紹介します。
2つの測定値があるとします。その値を、X-Y軸のグラフの上に表示したとします。グラフ上に2点が離れてプロットされました。この2点を線で結べば線分になり、その線分の両側をのばしていけば、直線になります。直線は、XとYの関数として式を導くことができます。
計測値は事実のみなすことできます。式は一般則とみなせます。ですから、このXとYに関する式は、最小限の事実から一般則化した規則といえます。科学的帰納法ではあります。最小限のものですが。このような最小限の一般則に、どの程度汎用性があるのでしょうか。
データが個人の努力で増やせるのに少数のデータから一般化をしていたら、その一般則はあまり信頼性がありません。なぜなら、データを増やせば信頼性が増せるのに、その努力を怠っているのですから、研究の姿勢が疑われます。そんな怪しい姿勢の研究者の出した一般則を、あなたは信じますか。
一般化は、小さな分野、社会、世界ならいいのですが、大きなコミュニティでの一般化は充分注意が必要です。
信頼性を高めるには、データ、事実を増やすことです。2点では、信頼性は少ないでしょう。2点の間や大きく外れる測定点が演繹的に必要です。もしその点がその直線に乗れば、信頼性は増します。ただ、外れてはいないが、誤差が大きければ、もっと測定点を増やすべきでしょう。直線化であれば、少なくとも数個、できれば10個以上のデータが欲しいところです。
もしデータが得がたいものであれば、少ないデータから類推することは起こりえるでしょう。また、少ないデータから素晴らしいアイデアを生み出すことも科学の醍醐味でもあります。
では、多数のデータがある場合を考えましょう。多数のデータが、2つのデータ群になったとしましょう。それぞれのデータ群の特徴には、大きな違いがあります。そのデータ群のギャップを考えるとき、少数のデータに起こったものと同じような悩みが生じます。一連の一般則で考えるべきでしょうか、それともまだ時期尚早でしょうか。
将来、技術や科学の進歩によって、2つのデータ群の間のギャップが埋まったとしました。するとそのデータは一連の規則か、2つの別々の規則かによって一般化されることでしょう。同じX-Y軸で広範囲でデータを増やしていいけば、やがて2つのデータ群が、消えて一群になるか、2つから3つへと増加するかもしれません。でも、ばらばらの規則は統一理論が望まれ、それを目指すでしょう。
これは、最初に示した2点のデータから複数のデータへという話を階層を変えて展開しているように見えます。
人はもしかすると不連続(ギャップ)を嫌うのかも知れません。連続を見つけたいのかも知れません。でも、連続性があったとしても、どこまで連続するのか知りたいのでしょう。やがては不連続(ギャップ)を発見してしまうこともあります。となれば、その不連続(ギャップ)を解消しようとします。
この問題は、階層的に考えれば、つぎつぎと上の階層へとメタ的に起こりえます。つまり飽くなき不連続の発見へから連続化と至るのでしょう。これが科学のある側面かもしれませんが。
では、信頼できる実績をもった研究者が、多数のデータを処理して、データ群の間にギャップを発見したとしましょう。さまざまな理由からそのギャップを埋めるデータを見つけるのは、現状では困難だとしましょう。そのギャップをどう考えるのか。実は難しい問題です。
もしそのギャップが重要な意味を持つのであれば、個人の問題ではなく、その分野全体の問題として取り組むべき課題となります。そんなとき、その問題に名前をつけられます。
そんな悩ましい問題として「ローマーのギャップ」(Romer's Gap)というものがあります。存知でしょうか。生物の進化において、重要な課題を含んだキーワードとなるものです。ギャップが必然なのか、それともデータの欠如、不足に由来するものなのか。
まず、「ローマー」ですが、Alfred Sherwood Romer(1894年12月28日-1973年11月5日)というアメリカの生物学者の名前に由来しています。彼は、動物学で学位と取得したのち、動物学の研究職で生涯を過ごしました。一番の業績は、古脊椎動物の分類を整理し体系化したことでしょう。その研究のために、地質学や古生物学にも深くかかわっていきました。
脊椎動物において、魚から陸上生物(両生類、爬虫類、哺乳類など)への進化は、基本的な構造や機能に大きな変化が起こっています。それらの進化を考えるために、比較解剖学や発生学などの生物学の分野だけでなく、化石を扱う古生物学や地質学などとの連携も不可欠でした。そのため、ローマーは古生物学者ともされることもあります。
石炭紀の最初の1500万年間(3億5920万から3億4530万年前の期間、トルネーシアンと呼ばれています)は、化石において大きなギャップがあることが知られています。脊椎動物は、デボン紀の多様な魚類の時代から、石炭紀には陸上動物へと進化します。ところが、海から陸への化石には連続性を欠き、ギャップがありました。脊椎動物の進化を考えると、魚類から両生類の間には、海から陸に上がるという大きな進化が起こったはずです。なのに、その間の移行期を示すような化石がないことに、ローマーは気づいていました。
この魚類から両生類の化石のギャップを「ローマーのギャップ」と呼んで議論されてきました。広くミッシング・リンク(missing link)と呼ばれているものです。それ後の研究者が、「ローマーのギャップ」と名づけました。
ちなみにミッシング・リンクを科学的に用いたのは、イギリスの有名な地質学者のライエルでした。小学校用の教科書「地質学入門(Elements of Geology)」(第3版、1851年発行)で用いたので、現在の意味で普及しました。学術的な用語ではなく、不連続が限定されることなく、移行期の化石が未発見であることを広くミッシング・リンクとよんでいます。
脊椎動物でいえば、いろいろミッシング・リンクがありますが、「ローマーのギャップ」が最大のもとなります。海から陸への進化は、生物にとって非常の大きな変化、飛躍となります。体の構造も仕組み、機能も大きな変化が必要です。そのような変化は、当然化石に残るような骨にも及んでいるはずです。なのに化石がない。
データがないのは、未発見なのか、もともとないのか、それとも残らない何らかの理由があるのか。決着をみるには、十分な調査がおこなわれる必要があります。論理的には「ない」というには、すべての化石を網羅しなければ証明できません。現実的には不可能です。ですから、化石の不在証明は不可能となります。長きにわたって調査がおこなわれれば、少なくとも移行期の化石は稀な存在であることは証明できたといえます。つまり、進化は連続しているのですが、何らかのギャップはあるということです。それを前提は研究を進めることは可能です。
グールドたちの唱えた断続平衡説もギャップを説明するものでした。断続平衡説とは、種の進化は、徐々にではなく、短期間に一気に起こるもので、化石に残るような連続的な変化は少なく、大きく飛躍すると考えました。だから移行期の化石は少ないのだというのです。
研究が進み、あちこちのミッシング・リンクが埋まってくると、変化の大きさや移行期のスピード(期間)に関するデータも集まり、大勢が決まってくるかも知れません。
「ローマーのギャップ」のミッシング・リンクが埋めれてきました。魚類から両生類の「ローマーのギャップ」に関しても、最近では手を持つ魚(ティクターリクと呼ばれてる種)の化石が見つかっていのですが、やっと今年の3月5日に、スコットランドで見つかりました。
これで「ローマーのギャップ」は、一応埋まり一件落着でしょう。しかし、そもそもの問題である海から陸への進化とは、ひとつの種で起こったことなのでしょうか。その種がすべての陸上脊椎動物の祖先としていいのであれば問題は、ひとつの化石の発見で決着します。しかし、多様な生物群で海から陸への進化があったとしたら、なぜ、脊椎動物は陸へ向かったのかったのか、という疑問への答えはでてきません。
もっといえば、海から陸へむかった種の変化(進化)の結果として化石が存在します。でも、化石の発見から、「なぜ、海から陸へ向かったのか」という原因がわかったことになりません。ですから、結果として「ローマーのギャップ」は化石から埋められましたが、原因の「ローマーのギャップ」はまだ残されています。もしかしたらこのギャップはミッシング・リンク全体に、あるいは生物の進化全体に及ぶものかも知れませんね。これは、不連続へのメタ的見方でなのでしょうね。
・思考の迷路・
ここの前半で述べたものは、
自然の階層化であり、一種の輪廻です。
後半の不連続の見方は、
自然の弁証法といえるかも知れません。
自然がそのような仕組みをもっているのか、
それとも人が自然をみるとき
そのような見方をしてしまうためでしょうか。
わかりません。
自然の不連続のメタ的見方を、
さらにメタ的にみているためでしょうか。
このような考えに囚われると、
思考の迷路に踏み込んでいきそうです。
・帰省・
今日まで京都にいました。
母のいる実家に家族を連れて帰省していました。
四国滞在中は私だけは何度か帰省し、
母も我が家には呼んでいるのですが
家族で京都にいくのは
2009年以来の3年ぶりとなります。
親族と会うことになります。
子どもたちは従姉妹と会うことになります。
このエッセイは、帰省前に書いて、
予約発行しています。
ですから、そのときの様子は
別の場所での紹介とします。
2つの測定値があるとします。その値を、X-Y軸のグラフの上に表示したとします。グラフ上に2点が離れてプロットされました。この2点を線で結べば線分になり、その線分の両側をのばしていけば、直線になります。直線は、XとYの関数として式を導くことができます。
計測値は事実のみなすことできます。式は一般則とみなせます。ですから、このXとYに関する式は、最小限の事実から一般則化した規則といえます。科学的帰納法ではあります。最小限のものですが。このような最小限の一般則に、どの程度汎用性があるのでしょうか。
データが個人の努力で増やせるのに少数のデータから一般化をしていたら、その一般則はあまり信頼性がありません。なぜなら、データを増やせば信頼性が増せるのに、その努力を怠っているのですから、研究の姿勢が疑われます。そんな怪しい姿勢の研究者の出した一般則を、あなたは信じますか。
一般化は、小さな分野、社会、世界ならいいのですが、大きなコミュニティでの一般化は充分注意が必要です。
信頼性を高めるには、データ、事実を増やすことです。2点では、信頼性は少ないでしょう。2点の間や大きく外れる測定点が演繹的に必要です。もしその点がその直線に乗れば、信頼性は増します。ただ、外れてはいないが、誤差が大きければ、もっと測定点を増やすべきでしょう。直線化であれば、少なくとも数個、できれば10個以上のデータが欲しいところです。
もしデータが得がたいものであれば、少ないデータから類推することは起こりえるでしょう。また、少ないデータから素晴らしいアイデアを生み出すことも科学の醍醐味でもあります。
では、多数のデータがある場合を考えましょう。多数のデータが、2つのデータ群になったとしましょう。それぞれのデータ群の特徴には、大きな違いがあります。そのデータ群のギャップを考えるとき、少数のデータに起こったものと同じような悩みが生じます。一連の一般則で考えるべきでしょうか、それともまだ時期尚早でしょうか。
将来、技術や科学の進歩によって、2つのデータ群の間のギャップが埋まったとしました。するとそのデータは一連の規則か、2つの別々の規則かによって一般化されることでしょう。同じX-Y軸で広範囲でデータを増やしていいけば、やがて2つのデータ群が、消えて一群になるか、2つから3つへと増加するかもしれません。でも、ばらばらの規則は統一理論が望まれ、それを目指すでしょう。
これは、最初に示した2点のデータから複数のデータへという話を階層を変えて展開しているように見えます。
人はもしかすると不連続(ギャップ)を嫌うのかも知れません。連続を見つけたいのかも知れません。でも、連続性があったとしても、どこまで連続するのか知りたいのでしょう。やがては不連続(ギャップ)を発見してしまうこともあります。となれば、その不連続(ギャップ)を解消しようとします。
この問題は、階層的に考えれば、つぎつぎと上の階層へとメタ的に起こりえます。つまり飽くなき不連続の発見へから連続化と至るのでしょう。これが科学のある側面かもしれませんが。
では、信頼できる実績をもった研究者が、多数のデータを処理して、データ群の間にギャップを発見したとしましょう。さまざまな理由からそのギャップを埋めるデータを見つけるのは、現状では困難だとしましょう。そのギャップをどう考えるのか。実は難しい問題です。
もしそのギャップが重要な意味を持つのであれば、個人の問題ではなく、その分野全体の問題として取り組むべき課題となります。そんなとき、その問題に名前をつけられます。
そんな悩ましい問題として「ローマーのギャップ」(Romer's Gap)というものがあります。存知でしょうか。生物の進化において、重要な課題を含んだキーワードとなるものです。ギャップが必然なのか、それともデータの欠如、不足に由来するものなのか。
まず、「ローマー」ですが、Alfred Sherwood Romer(1894年12月28日-1973年11月5日)というアメリカの生物学者の名前に由来しています。彼は、動物学で学位と取得したのち、動物学の研究職で生涯を過ごしました。一番の業績は、古脊椎動物の分類を整理し体系化したことでしょう。その研究のために、地質学や古生物学にも深くかかわっていきました。
脊椎動物において、魚から陸上生物(両生類、爬虫類、哺乳類など)への進化は、基本的な構造や機能に大きな変化が起こっています。それらの進化を考えるために、比較解剖学や発生学などの生物学の分野だけでなく、化石を扱う古生物学や地質学などとの連携も不可欠でした。そのため、ローマーは古生物学者ともされることもあります。
石炭紀の最初の1500万年間(3億5920万から3億4530万年前の期間、トルネーシアンと呼ばれています)は、化石において大きなギャップがあることが知られています。脊椎動物は、デボン紀の多様な魚類の時代から、石炭紀には陸上動物へと進化します。ところが、海から陸への化石には連続性を欠き、ギャップがありました。脊椎動物の進化を考えると、魚類から両生類の間には、海から陸に上がるという大きな進化が起こったはずです。なのに、その間の移行期を示すような化石がないことに、ローマーは気づいていました。
この魚類から両生類の化石のギャップを「ローマーのギャップ」と呼んで議論されてきました。広くミッシング・リンク(missing link)と呼ばれているものです。それ後の研究者が、「ローマーのギャップ」と名づけました。
ちなみにミッシング・リンクを科学的に用いたのは、イギリスの有名な地質学者のライエルでした。小学校用の教科書「地質学入門(Elements of Geology)」(第3版、1851年発行)で用いたので、現在の意味で普及しました。学術的な用語ではなく、不連続が限定されることなく、移行期の化石が未発見であることを広くミッシング・リンクとよんでいます。
脊椎動物でいえば、いろいろミッシング・リンクがありますが、「ローマーのギャップ」が最大のもとなります。海から陸への進化は、生物にとって非常の大きな変化、飛躍となります。体の構造も仕組み、機能も大きな変化が必要です。そのような変化は、当然化石に残るような骨にも及んでいるはずです。なのに化石がない。
データがないのは、未発見なのか、もともとないのか、それとも残らない何らかの理由があるのか。決着をみるには、十分な調査がおこなわれる必要があります。論理的には「ない」というには、すべての化石を網羅しなければ証明できません。現実的には不可能です。ですから、化石の不在証明は不可能となります。長きにわたって調査がおこなわれれば、少なくとも移行期の化石は稀な存在であることは証明できたといえます。つまり、進化は連続しているのですが、何らかのギャップはあるということです。それを前提は研究を進めることは可能です。
グールドたちの唱えた断続平衡説もギャップを説明するものでした。断続平衡説とは、種の進化は、徐々にではなく、短期間に一気に起こるもので、化石に残るような連続的な変化は少なく、大きく飛躍すると考えました。だから移行期の化石は少ないのだというのです。
研究が進み、あちこちのミッシング・リンクが埋まってくると、変化の大きさや移行期のスピード(期間)に関するデータも集まり、大勢が決まってくるかも知れません。
「ローマーのギャップ」のミッシング・リンクが埋めれてきました。魚類から両生類の「ローマーのギャップ」に関しても、最近では手を持つ魚(ティクターリクと呼ばれてる種)の化石が見つかっていのですが、やっと今年の3月5日に、スコットランドで見つかりました。
これで「ローマーのギャップ」は、一応埋まり一件落着でしょう。しかし、そもそもの問題である海から陸への進化とは、ひとつの種で起こったことなのでしょうか。その種がすべての陸上脊椎動物の祖先としていいのであれば問題は、ひとつの化石の発見で決着します。しかし、多様な生物群で海から陸への進化があったとしたら、なぜ、脊椎動物は陸へ向かったのかったのか、という疑問への答えはでてきません。
もっといえば、海から陸へむかった種の変化(進化)の結果として化石が存在します。でも、化石の発見から、「なぜ、海から陸へ向かったのか」という原因がわかったことになりません。ですから、結果として「ローマーのギャップ」は化石から埋められましたが、原因の「ローマーのギャップ」はまだ残されています。もしかしたらこのギャップはミッシング・リンク全体に、あるいは生物の進化全体に及ぶものかも知れませんね。これは、不連続へのメタ的見方でなのでしょうね。
・思考の迷路・
ここの前半で述べたものは、
自然の階層化であり、一種の輪廻です。
後半の不連続の見方は、
自然の弁証法といえるかも知れません。
自然がそのような仕組みをもっているのか、
それとも人が自然をみるとき
そのような見方をしてしまうためでしょうか。
わかりません。
自然の不連続のメタ的見方を、
さらにメタ的にみているためでしょうか。
このような考えに囚われると、
思考の迷路に踏み込んでいきそうです。
・帰省・
今日まで京都にいました。
母のいる実家に家族を連れて帰省していました。
四国滞在中は私だけは何度か帰省し、
母も我が家には呼んでいるのですが
家族で京都にいくのは
2009年以来の3年ぶりとなります。
親族と会うことになります。
子どもたちは従姉妹と会うことになります。
このエッセイは、帰省前に書いて、
予約発行しています。
ですから、そのときの様子は
別の場所での紹介とします。
登録:
投稿 (Atom)