2021年4月1日木曜日

230 べき乗則:想定外を想定

 ものごとの起り方は、正規分布だけではありません。自然現象には、べき乗則で起こるものが多く見つかっています。自然現象、特に自然災害は、想定外を想定しておく必要性がわかります。


 一般的な様子を知るため、ものごとの性質を定量化して、その平均をとることがよくされています。入試や定期試験の点数、年齢ごとの身長や体重、などいろいろなところで用いられています。かつては、平均値の計算は手作業や電卓でしていたのですが、今では表計算ソフトを用いれば、データを入力すれば、間違うことなく、即座に求めことができます。データの特徴を表すために、今や平均値はありふれたものとなっています。

 点数や身長の例では、一人にひとつの点数や身長のデータがあり、人数分の個々の値がありました。それを平均した値が、点数や身長の平均値となります。平均値が、その集団の点数や身長の特徴となります。

 ところが、その値が数値ではない場合、例えば確率で示されるもの、関数で示されるものなどもあります。それぞれの場合によって、平均値の考え方は変わってきます。

 確率で示されるものであれば、平均値の意味するのは、その集合の期待値となります。関数の場合で、ある区間で微分可能ならば、平均値の式は直線の式となり、その式に平行な接線、つまり微分した値がその区間に存在するということを意味します。「ラグランジュの平均値の定理」と呼ばれて、利用されています。

 ラグランジュの平均値の定理を、2つの関数の関係へと拡張していくと、平均値の定理は、2つの関数の微分の比が存在するという「コーシーの平均値の定理」になります。また、コーシーの平均値の定理で極限をとると、「ロピタルの定理」(ベルヌーイの定理とも呼ばれます)になります。

 つまり、平均値を求めるという数学的操作も、拡張していくと、いろいろな側面があることがわかります。

 さて、本題です。最初に示した一番単純な平均値、例えば大人の身長の平均値とは、平均値の周りに測定した値が、分散していることになります。その分散の様子は、平均値に対して、左右対称に釣鐘型になっています。平均値の付近が多く、離れると少なくなっていきます。このような値のばらつき方は、統計では「正規分布」と呼んでいます。

 正規分布するものは、左右の裾野は平均から外れていくことになります。離れれば、そのような値はなくなります。2020年の文部科学省のデータによると、日本人の20歳から24歳の男性の身長の平均は171.5cmで、女性は158.49cmとされています。正規分布なので、身長2mの人は稀ですがいます。しかし3mの身長の人はいなくなります。つまり、正規分布とは、ある平均的な値を中心に、データが集まっている状態に対して、特徴を捉えるためには有効な方法といえます。

 正規分布は重要な分布なので、統計学ではいろいろと性質が研究されているので、さまざまな利用ができるようになっています。また、左右対称ではなくても、分布の特徴が関数化できれば、統計学的処理によって、正規分布に変換する手法もあります。正規分布に変換できれば、さまざまな手法が利用できます。

 しかし、自然界には正規分布にならない現象も多くあります。例えば、地震のマグニチュードの大きさと頻度の関係、火山噴火や斜面崩壊、雪崩、河川氾濫などの自然災害の規模と頻度の関係は、正規分布が当てはまりません。

 これらの現象に一致する関数を当てはめていくと、べき乗分布になっています。べき乗分布とは、現象の2つの観測量(規模と頻度、あるいはサイズと頻度)が、べき乗で比例するという関係です。このようなものをべき乗則、あるいはスケーリング則(scaling law)と呼ばれています。その式は

  y=x^-a

となります。ここでxは現象の規模やサイズ、yは頻度です。aをマイナスにしたのは、規模が大きなものが少なくるというグラフにするためです。このaは、スケーリング指数と呼ばれるものです。

 べき乗関数と似たものに指数関数があります。

  y=e^-x

と表せます。似ていますが、x(規模やサイズ)が指数となっており、底がネイピア数(e)となっています。

 べき乗関数と指数関数の違いは、数学的には対数をとると明瞭になります。指数関数の両辺の対数をとると、yが対数になりますが、xは対数ではなく1次式になります。その結果、y軸だけを対数(片対数)にすると、グラフは直線になります。べき乗関数では、両辺の対数をとると、直線の式の形になり、直線の傾きの値がスケーリング指数(a)となります。

 これは、両関数の減少の仕方の違いを示しています。指数関数は、一気に減少するため、はずれた値の出てくることは、急激に小さくなっていきます。一方、べき乗関数は、最初が減少が大きのですが、だんだんと減少の傾向は小さくなっていきます。指数関数よりクラフの裾野が、緩やかになっています。つまり、べき乗関数の現象では、規模の大きなものは、頻度は小さいのですが、起こる確率は、下がりにくいという特徴になります。このような減少のしかたは、ロングテール(long tail)とも呼ばれています。稀ですが、とんでもなく大きな値の現象が、起こることになります。

 べき乗則に従っている自然現象では、これまで起こらなかったとしても、今後も起こらないとはいえないということになります。自然現象にはいいことばかりでなく、巨大地震、巨大火山噴火、隕石の衝突など、「想定外」の規模のものが起こりうるという、当たり前のことが導き出されたことになります。

 自然現象でも地震や火山などでは、有史以降起こったことがなくても、過去をずっと遡っていくと、超巨大の規模のものが起こっていることが検証されています。自然現象でべき乗則になるもの、重要な意味をもっています。想定外の規模の自然現象は、稀ではあるが、起こる可能性があることを、常に意識しておかなければならないということです。「想定外」は「想定」可能であることが、数学的にわかっているのです。


・緊急事態の解除・

緊急事態の解除と新年度や花見の時期と重なりました。

それまで多くの人が抑圧されていたので、

開放されたい気分になるはずです。

多くの人が出歩くことは、想定できたはずです。

そんな簡単な想定ができないはずはありません。

大規模な火山噴火や地震は想定外とするのは

間違っていることが、数学的にわかっているのに

起こらないと「想定」して安全対策をしていました。

今回のコロナへの緊急事態の解除から

起こる事態も想定できるはずですが、

想定してないのでしょうか。

政府は、どうもちぐはぐな対処をしていますね。


・対面授業・

大学は新年度を迎えました。

今年こそ、新入生は大学生活を謳歌してもらいたのですが、

まだ先になりそうです。

コロナへの対象法は整ってきたので、

まったくの遠隔授業の状態ではありません。

それでも、通常の大学生活とは、大きく異なっています。

早く国民全員にワクチン接種が普及して、

一日も早く、通常の対面授業が戻って欲しいものです。

対面授業の重要性、ありがたさを痛感しています。

2021年3月1日月曜日

230 反証可能性:悪魔の代弁者

 日常生活では、何事もなくなくても、特別な状態、条件の時には、通用しないことがありえます。そのような落とし穴に落ちないために、悪魔の代弁者という考え方があります。


 ものごとを、ひとつの方法論や考え方で突き詰めていくことは重要です。しかし、そこに大きな落とし穴が潜んでいることもあります。そんな落とし穴について考えいきます。

 まずは、以前、紹介した例からはじめましょう。

 数列を探るというクイズです。出題者がある規則で3つの数字を並べます。解答者は、その規則を探っていきます。その方法は、解答者が3つの数列を提示し、その数列が出題者の規則に合ってればYesと答え、違っていればNoと答えることにします。その繰り返しで、解答者が主題者の数列を探るというクイズです。

 まず、出題者が次の数列を提示しました。2 → 4 → 8 そして、解答者Aは、4→8→16:Yes、8→16→32:Yes と答えました。解答者Aは、偶数、もしくは2の何乗が規則だと考えるはずです。両者のどちらかを決めるためには、2→4→6、1→2→4 という数列を順番に出していけば、決定できるはずです。

 しかし、もし出題者が、両方ともYesと答えらたどうしましょう。あるいは、もうひとり別の解答者Bが、同じ出題に対して、1→3→5 という数列を出して、Yesという答えが帰ってきたら、どう考えますか。混乱をきたすでしょう。

 よく考えた人が、3→8→100 という数列を出して、出題者がYesと答えたら、その規則性は、小さいものから大きいものへと順に並べるというもののはずです。

 これらのことから、クイズの答えをえるためには、規則性を予想して、それに合った数列をつくり、質問していくことになります。もし、出題者の規則性が、解答者の想定した規則性を含む、もっと広いものであればどうなるでしょうか。いくら数列を出してもYesとなり、本当(真)の答えはえられません。先程の例でいうと、2の指数乗(1は例外として含む)、偶数、増加する数、という規則性は、順により広いものになっていました。

 ここまでは、以前紹介したものを変形したものでした。

 解答者の想定した規則性が本当かどうかを確かめるためには、想定した規則性に反する数列を示して、出題者のNoの答えをえらえれば、検証になります。ちなみに、9→3→8 という数列も、Yesです(この規則の答えは下のLettersにて)。このようは考え方は、「逆問題」や背理法と呼ばれる考え方です。

 なぜ、このような考え方が必要なのでしょうか。正しいと考えられていることを確かめるために、その規則性の中で検証をしていたとしたら、それは真に正しい答えではありません。このようなことが、日常生活のなかで起こっていれば、避けられないような落とし穴となるでしょう。

 「検証されているから」と、「規則性から外れるようなことは起こらない」という前提ができていると、そこから大きな間違いが生じることがあります。真ではない規則性に基づいて、ものごとの考えられたり、組織や社会が運営されていたとしたら、そんなことは起こらないという前提でシステムが組まれていたら・・・。

 そのような事態が起こったときには、「想定外」となって対処ができないことになります。日本の政治や行政システムにはこのような落とし穴がありました。2011年3月11日以降の原発事故のとき「想定外」という言葉を度々聞きました。他にもありそうで、不安ですね。

 そんな落とし穴を回避するためには、どうすればいいでしょうか。

 アメリカでは、大統領候補者同士が議論するディベート(debate)と呼ばれる方法があります。両者の考え方の違いをはっきりとさせること、また議論を通じでどちらの考えがいいか、などの判断に利用されています。学校の教育の一環として、ディベートで競うという訓練がなされ、議論の技術を磨いています。ディベートのテクニックとして、「悪魔の代弁者(devil's advocate)」と呼ばれる方法があります。ある意見の側に対して、反対や批判する側の役割を担う人たちのことです。

 悪魔の代弁者とは、もともと西洋では、宗教的な方法論としてありました。信心深い信者や故人に対して、聖人などの地位を与えるのを審議するために、その人の至らない点を指摘していく人のことを指しました。そんな指摘を受けることで、客観的に、そして公正に選ばれたとことを示していました。まあ、起こりは宗教的な儀式ではあるので、論理的正しさはないのですが、その方法論や視点は重要です。

 このような方法は、科学哲学者のポパーが提案した「反証可能性」というものに繋がります。それは、自身の考えを否定するような仮説を立てて、その仮説が否定されることで、検証していこうという考えです。ポパーがこの説を唱えるために影響を受けた例として、アインシュタイン自身の一般相対性理論に対して、真偽を確かめるための実験を提示したことがありました。この実験は、難しいもので、すぐには実現できませんでしたが、日食のとき観測されたことで、理論の正しさが検証されました。

 実際の場合には、反証可能性を提示してものごとを考えたり、反証を検証することはありません。なぜなら、人は自分の考えを、あえて否定するような考えを提示することは、生理的に嫌うからです。背理法も、数学ではテクニックとして用いますが、実社会や生活に導入するには抵抗があります。ですから、多くのものごとは、自身の考えている規則性で、その考えの中だけで検証された規則性から成り立っています。私たちは、そんな世界に住んでいます。

 ですから、せめて、今「正しい」と思っていることは、危うい砂上の楼閣であることを心して置く必要があります。至るところに、悪魔が潜んでいる可能性があり、落とし穴がありそうです。

 最後に一言、もし、反証可能性の考え方も、論理的に反証されれば、この方法論も間違っているということになります。これは、自分の示した方法で、自分の方法論を否定することになる、という自己矛盾を孕んでいます。いったい何が正しいのでしょうか。混乱してきます。


・解答・

本文で示した3つの数字の規則性を当てるというクイズは、

なかなか含蓄がありました。

本文の例、数列 9→3→8がYesでした。

その答えは、ばらばらの数字を並べるというものでした。

では、もし出題者が 9→9→9 にもYesと

答えたらどうでしますか。

その規則性は、もう見抜けますよね。

ご自身で考えて下さい。


・新しい生活様式・

3月になり、東京周辺はまだ緊急事態宣言の中ですが、

それ以外のところでは、解除され、

感染がだいぶ治まってきたように見えます。

その結果、規制もだんだんゆるまってきました。

北海道も一部地域では時短が要請されていますが、

そのような地域への不要不急の往来は自粛となっていますが

それ以外のところでは、感染リスクを回避する行動をしながら

通常の生活に戻るようになってきています。

自粛生活が当たり前となっている間、

不要不急の行動が、以下に多かったかに気付かされました。

活動的な若い人には、自粛は厳しいでしょうが、

私には、淡々としたシンプルな生活で

十分なような気もしてきました。

これは、Withコロナの生活でしょうか。

ワクチン接種がはじまり、広く接種が行われれば、

Withoutコロナの生活が戻ってくるのでしょうか。

それとも新しい生活様式が生まれるのでしょうか。

2021年2月1日月曜日

229 はじまりを尋ねて:LUCAは身近に

「はじまり」をの探求は、興味深い話題です。ところが、深く追求していくと、推定や仮説の世界にたどり着きます。生命のはじまりも、仮説の世界になりますが、ここ数年新たな展開が生まれてきました。


 ものごとの「はじまり」については、多くの人が興味を持っていることと思います。しかし、すべてのものの「はじまり」を問いつめていくと、答えにたどり着けないものが出てくきます。例えば、自分の「はじまり」を尋ねていくと、両親、祖父母、曽祖父母、・・・・・と遡り、顔どころが名前さえしない親族へ、さらには過去帳、家系図と文字や文書だけの存在へと繋がっていくことでしょう。さらに「はじまり」と尋ねていくと、人類の「はじまり」であるヒト(分類でいうと「科」になる)となっていきます。さらに遡ると、霊長類(目)、哺乳類(網)、脊椎動物、動物(界)、真核生物(ドメイン)となります。最終的な由来を訪ねていくと、生命の起源へと繋がります。自分の「はじまり」の究極の問は、生命の「はじまり」へたどり着きます。生命の起源も、だれもが興味を持つ「はじまり」ではないでしょうか。

 生命の誕生は、地球創成の時代の出来事だと考えられています。そして、最初の生物は、小さく、単純な単細胞だったはずです。その生物の化石は、硬組織がないのと、形成環境も、確率的にも見つからないと考えなければなりません。現在、遡れている化石は、34.8億年前までは確実なのですが、あとは化学的証拠として38億年前まで遡る可能性はありますが、まだ確定していません。

 現状では、地球創成の時代、冥王代(45~40億年前)の化石探しは、地層も稀で、化石を見つけるのはなかなか困難となりそうです。化石以外で、なんらかの根拠を手がかりして調べていくことになります。どのような方法があるでしょうか。

 古い化石を探し、そこからより原始的な生物を推定する方法。現在いる生物から最も原始的なものを見つけて探る方法。その遺伝子から探る方法。生物をつくっている有機物などの素材の形成から考える方法。などいろいろなものがあります。いずれも、最初の生物を「共通祖先」として、推定していきます。

 「共通祖先」の名称として、最終共通祖先(LUCA : Last universal common ancestor)、コモノート、センアンセスター、プロゲノートなど、いろいろなものが提案されています。意味するところも、重なっていたり、異なっていたりします。ここでは、LUCAと呼ぶことにします。LUCAは、もともとはバクテリア(細菌のこと)や古細菌、真核生物が共通の祖先から進化してきたと考えた時のものですが、「共通祖先」として用います。

 LUCAなどの研究から、もっとも原始的な生物の性質として、好熱(45℃以上、時には80℃以上)の条件で生育し、遺伝子の数もDNAも小さいと考えられます。低温より高温のほうが、化学反応が活発に起こりますが、あまりにも高温だと形成される有機物が限定されていきます。

 環境としては、高温の熱水が冷たい海水(数℃)に噴き出すようような噴出孔を考えると、どんなに高温の熱水(例えば500℃)であっても、周りの海水が冷たいと、500℃から数℃までの温度の範囲をもった領域ができ、適切な条件のところが、化学合成が進めればいいわけです。広い温度範囲であれば、多様な化学合成が可能かもしれません。現在の海水の条件では、溶存成分が少なくて生命の合成はできなくても、地球初期であれば、溶存成分の多い海水も想定できます。

 また、原始の地球では、形成時のエネルギーがまだたくさん内部に蓄えられていたはずなので、現在よりもっと活発に火山活動が起こっていたと考えられます。海洋では、海嶺や火山などでは、多数の熱水噴出孔があったはずです。

 地球のエネルギーを用いた化学反応で、生物としての必要最低限の素材を利用して生物が誕生したと考えるものです。その後、当時としては、地球でもっとも安定した環境でもあった深海の海水中で、進化していったはずです。それがLUCAです。

 ここまでの考え方は、地球初期を想定した条件に斉一説に加えて、生命の「はじまり」が考えられてきました。ところが、最近、地球初期の条件を重視して、その条件に固有の環境から生物が誕生したと考える研究がでてきました。斉一説の適用より、境界条件の変更して、まったく異なった誕生の場が考えられました。

 地球初期にあったと考えられる少々特異な岩石と水との化学反応と、濃度の高いウラン鉱床の近くの熱水溜まりで、放射壊変の熱エネルギーを利用して、化学合成を考えていこうとアイディアです。

 このような新しいモデルの背景には、CPR群と呼ばれるバクテリアの仲間の実態が少し解明されてきたことがあります。2015年の報告で、これまでの方法では把握できないバクテリア系統群が大量にいることがわかってきました。

 CPR群とは、詳細がわかっていない生物ですが、遺伝子サイズが小さく、通常の生物がもつ化学合成の遺伝子を持たず、特異なタンパク質の合成をおこなっています。

 そんなことから、他の生物に依存して生きているらしいことがわかります。しかし、かなり多くの種類数に登る(15%以上)こと、他の多くのバクテリアと近縁であることから、特異な孤立した生物群ではなく、多くの生物と関連をもつことが考えられます。最近、日本にある白馬地域で、蛇紋岩地帯から湧き出ている温泉に、CPR群が伴われ、その中に「白馬OD1」と呼ばれるものが見つかっています。この生物の研究から、LUCAに近いのではないと提案されています。

 日本の白馬の温泉という卑近な場の正体不明のバクテリア群、ウラン鉱山、最初の生命という、想像を越えた連鎖から面白い仮説が展開されています。身近なところから、新しい学問体系が生まれつつあるようです。

 一方、LUCAの誕生について、一連の反応で生まれたのではなく、いくつかの生物の前段階のものの組み合わせでできたと考える仮説もあります。生物の前駆的物質に何度かのウイルス感染を通じて、LUCAができたと考える、ウイルス進化説と呼ばれるものもあります。本当に多様な仮説があります。

 さらに、疑問もあります。生物の「はじまり」が、ひとつ生命のタイプに収斂するのでしょうか。もしかすると、複数の、あるいは多数のLUCA類似のものがいて、生存競争や突然変異、共生(ウイルス感染)などを繰り返しながら生まれたかもしれません。まさに混沌とした「はじまり」ではなかったかという疑問です。それを、どう実証していくかは問題ですが。過去に起こったことで、直接の証拠が入手できない時代の話しです。


・ラニーニャ現象・

真冬日が続く北海道では、1月下旬に雨が降りました。

最も寒い時期ですので、驚かされました。

しかし、翌日にはまた真冬日になり

道路だけんでなく、あちこちが、

つるつる、ガリガリに凍りつきました。

目まぐるしく変わる天候です。

昨年夏から続いているラニーニャ現象の影響でしょうか。


・コロナ対策下での入試・

1月下旬から2月上旬にかけては

私立大学は、入試のシーズンとなります。

今年は、コロナ禍で入試もいろいろ制限を受けています。

国公立大学で、筆記試験を実施しないという

ところもいくつかでてきました。

我が大学は、ルールに則って、

コロナ対策をしながら、試験を実施します。

そのため、教室数が多くなり、

試験対策の人数も多く必要になります。

まあ、致し方ないことでしょうね。

2021年1月1日金曜日

228 不特定一人のために To the interest few

 明けましておめでとうございます。今年、最初のエッセイをお送りします。エッセイをはじめた頃の初心を振り返りました。そして、心を新たにして取り組む決意をしました。


 今年のはじめのエッセイは、"To the happy few" という言葉について考えていきます。スタンダールの小説「赤と黒」と「パルムの僧院」の作品の最後に書かれている言葉として有名です。訳すと「幸せな少数の人へ」となるでしょうか。最後に書かれているので、この本を読でくださった人が、「少数 few」かもしれませんが「幸福 happy」になれたら、という気持ちで「献辞(けんじ)」を捧げたのではないでしょうか。

 この言葉、献辞として書かれているようですが、その意味を考えていきましょう。少々不思議な書き方がされているのですが、意味深いものです。

 献辞とは、その本を特定の人に捧げるために書かれるものです。個人の名を示さなくても、ある特定の人に感謝を述べたり、捧げたりするものです。ただし、本の内容に関わった人に礼を述べるときは、「謝辞」として「序文」や「あとがき」の中で示されていくことになります。ですから、スタンダールのこの言葉は献辞となるはずです。

 この言葉は、献辞に見えるので、誰かに宛てたものになりそうなのですが、"few" という不特定で少数の人に宛てられています。この点が、少し奇異なことになります。もう一つは、献辞は、一般には本の最初に置かれるもので、最後に書かれていることも、少々奇異に見えます。

 この言葉が気になったのは、私がこの月刊エッセイ「地球のつぶやき」をはじめる時に、同じような気持ちを持っていたことを思い出したからです。

 「地球のつぶやき」をはじめる前に、スペシャル版として不定期に7回エッセイを発行した後、2002年2月から毎月1回定期発行するメールマガジンにしました。スペシャル版は、定期発行できるかどうかを試すための助走期間でもありました。

 そのスペシャル版の購読者とのメールのやり取りを通じて、メールマガジンを配信する対象がはっきりと定まりました。その時の経緯を振り返りましょう。

 2001年10月23日に発行した特別版エッセイ「special3 分類と類型」の中で、読者のKojさんとやり取りをしていたのですが、その経緯を了承を得て掲載しました(エッセイの本文はホームページに掲載されています)。Kojさんも、あるメールマガジンで、自身のエッセイを配信されていました。お互いのメールマガジンを購読していたことをきっかけに、メールで連絡を取り合うようになりました。

 その時、私は、「不特定の一人のために」エッセイを送ることを意識するようになりました。関係している部分を再録します。

(注)なお「」でくくった部分は、お互いのメールの中の文章を意味します。読みやすいように一部修正を加えています。


【以下、再録】

・不特定一人のために(Kojさんへ)・

 Kojさんの書かれるエッセイは、量も多く、なんといっても内容が硬派な感じがします。欧米の知識人が書くようなタイプの科学的文章のようです。私もそのようなものを書きたいと望んでいるのですが、なかなか難しいです。でもそのKojさんのエッセイが、定期的なものから不定期のものになりました。残念だったのですが、それを惜しみながら、メールをやり取りしました。

 Kojさんは、「小出さんがおっしゃっていたように、そのときそのときの取り組みを精一杯やっておくべきで、そこから何かが生まれて、さらに発展してゆくのだと思います。人と人とのつながりは絶対に無駄になることはないですし。」「人の心は生き物なので、変化していきますが、それにともなってネットワークも変化してゆくかもしれません。でも、つながったまま変化してゆく。ネットワークも生きていますね。生きている心やネットワークは思い通りにならないこともありますが、その分思いがけない変化をして発展してゆくかもしれませんね。それがまた面白かったりして。」とおっしゃいました。

 それに対して、私は、「そうですよね。だから、多くの人の声が、私の活動の支えとなっています。私は、一人に向けても可能限り時間をかけて説明することにします。心に感じるところがありました。」と答えました。

 このようなメール交換のあと、私は、メールマガジンを、「不特定一人のため」に出すことにしました。その結果の一つが「地球のつぶやき」でもあるのです。そして、頂いたメールに対しても、そのつもりで対応していきます。

【以上】


 これから、新しい月刊「地球のつぶやき」エッセイを、「不特定一人のため」に発行することにしました。スタンダールの言葉、"To the happy few" を使わせもらうと、"To the reading few" となるでしょうか。その意味は、「読んでいただいた少数の方へ」というものになります。でも、やはり "To the happy few" の方が、より良いですね。

 スタンダールは、この言葉を使った意図は、現在となっては想像するしかないですが、いつか探れる情報があるようです。

 スタンダールは、小説がまだ売れていない不遇の頃、友人宛てた書簡で、「今、自分が出版しようとしている『イタリア絵画史』を皇帝ナポレオンに捧げたい。しかし、それがどうしても不可能ということであれば、その代わりにこの書物の巻頭に To the happy few という言葉を置きたい」と書いているようです。

 実際のこの言葉が世に出たのは、それから10年後の「赤と黒」でした。そしてこの言葉は同じものですが、ナポレオンに捧げられたものかどうかはわかりません。もし捧げるのなら本の最初に掲載するはずなのに、本の最後に掲載されています。10年という時間の経過と、本の最後という点で、ナポレオンではなく、この本を読み終えた読者に対し、幸せや楽しいと感じた少数の読者に捧げたのだと考えたくなります。そう考えたほうが、この言葉がより輝くのではないでしょうか。少数というところには、日本的な謙譲の姿勢があるのしょうか。

 私は、科学教育の実践として、地質学の解説について週刊エッセイ「地球のささやき Earth Essay」を発行しています。それでは、わかりやすさを旨としています。ですから、「不特定一人のために To the happy few」がふさわしいもでしょう。

 この月刊エッセイ「地球のつぶやき Monolog」を発行しているのは、違う目的があります。少々長くて、そして少々難しいエッセイでは、「不特定一人のために」という対象を定めました。地質学に関連するエッセイですが、哲学的思索とその発信の意図を持って書いています。

 地質哲学という新しく難解な内容になりそうなエッセイですから、それを最後まで読んでくださった読者は少数でしょう。さらに面白いと思っくださった読者はもっと少数になるでしょう。

 ですから、このエッセイをはじめる時に持った対象となる読者へ、スタンダールに倣って、感謝の意味を込めて、今後のエッセイの最後に「不特定一人のために To the interest few」掲載していくことにします。

 年頭に初心を思い出しました。


・初心不可忘・

初心忘るべからず、という言葉は

古くから用いられているものです。

世阿弥「花鑑」の中に

「当流に万能一徳の一句あり。初心不可忘」

という言葉があります。

能の修行のために使われたものですが、

諸般に通じる戒めの言葉でしょう。

人は、長い時間が経過すると、

どうしても最初の心を忘れしまいます。

このエッセイは2001年9月から発行していますので、

今年でちょうど20年目に当たります。

その節目で、初心不可忘としましょう。


・Kojさんへ・

いつの頃からかKojさんとやり取りはしなくなました。

現在は、Kojさんの状況も掴んでいません。

以前、解説されていたサイトを探したのですが、

もう閉鎖されており、近況もわからず連絡もとれません。

ネット上の付き合いだから、連絡が続けていないと

仕方がないのかもしれません。

Kojさん、もし、このエッセイを読んでおられたら

連絡をいただければと思います。

2020年12月1日火曜日

227 仮説と演繹と斉一と

 機能と演繹という方法は、多くの科学の営みの中で、当たり前に利用されています。しかしそれらが、不完全であることを意識されていません。すべてが検証不能の仮説だったのです。


 最近、執筆している原稿の中で、地質学の学問的特徴を考えています。地質学の特徴はなんといっても、過去の素材から過去を探る、ということが一番でしょう。過去の素材とは、過去の形成されたもの(岩石や地層、化石など)のうち、いろいろなプロセスを経て、現在入手できるようになったことになります。古い時代ほど、そのプロセスは長く、そして複雑になっていきます。そのため、過去の情報が失われてきます。そのうち現在まで残ったものだけが、入手でき、研究できる素材となります。

 化石を例にしましょう。化石は、過去のある時代の生物の一部が石化したものです。生物の一部、つまり部分から全体として、その生物の生きていた時の姿(全体像)を想像していきます。その姿から、生活していた行動や営み(生態)を推定することもできるでしょう。その生態から、他の生物の関係(食料や住処など生態系)や生活の場(海陸空や寒暖などの環境)などへと、想像を巡らすことができるでしょう。

 歯の化石が一つ見つかったします。その歯を現在生きている生物と比べると、肉食動物の歯と似ていたとしましょう。化石の歯の大きさから、顎の大きさが推定でき、顎の大きさから頭部の大きさが、頭部から全身が推定できるでしょう。肉食獣であったら、その全身に見合った、餌となる大きさの草食獣がいたことになります。その草食獣の数は肉食獣よりは多かったでしょう。その大きさの草食獣が多数いたということは、それらを支える多くの植物が必要になります。サイズの異なった草食獣もはたずですから、それらが食べる多様な植物もあったはずです。当然、サイズの異なる草食獣もいたはずで、それらを専門に狙う肉食獣もいたはずです。たったひつの歯の化石から、このような類推が可能となります。

 このような類推を支えている考え方は、現在の生物、現在の生態系の知識を転用、援用しているもので、「斉一説」と呼ばれるものです。斉一説は、生物だけでなく、物理学や化学の法則を過去に適用する時に使われる考え方です。例えば、水は高いところから低いところへ流れます。水は氷点下では氷になり、水は暖かいと水蒸気になります。水が多く暖かいところでは、蒸発も盛んになり、雨もたくさん降ります。水が少ないところでは乾燥していきます。

 このような当たり前と思える法則を、過去の適用しようとするのが斉一説です。今当たり前のことは、昔も当たり前だという斉一説も、当たり前のことをいっていると思えます。

 物理学や化学の規則は、現在の検証可能な現象から帰納的に求められたものです。それを、過去にも適用してこうというの斉一説です。斉一説が正しければ、先程の歯の化石一個からの類推の正しさが保証されることになります。斉一説は本当に正しいのでしょうか。

 斉一説には落とし穴があります。それは、過去の事象への適応という一番根本の点です。「化石=過去の生物」は、だれもが「正しい」と思っているのですが、科学において、「正しさ」とは、検証されてはじめて確かなものになります。化石が過去の生物であるということを証明するためには、化石が生物であるという前提が必要になります。しかし、化石は石なので、生きていません。ですから、化石からは、生物であったことは検証はできないし、その前提がないと、現在生きている生物の比較による類推もできないことになります。

 化石の例をだして説明しましたが、過去の起こった事象は、岩石から読み取った情報から、どのようなことが起こったのかを推定することはできます。しかし、その推定が正しかったかどうかは、検証できません。なぜなら、私たちは過去に戻れないからです。これも当たり前のことですが、斉一説には適用限界があることが落とし穴になります。

 斉一説に適用限界があるのは、時間が一方向にしか進まない、不可逆なものだからです。こんな当たり前のことを、つい忘れてしまいがちです。なぜなら、物理学の法則や方程式では、時間の変数があっても、その時間をどこにおいても成り立つものが多いからでしょう。化学では可逆の反応(反応がいったりきたりできる)も多数あります。このような法則や現象では、その現象は時間において可逆であることになります。それが自然科学では多く目にする法則だからでしょう。

 しかし、長い時間の流れ、複雑なもの、大きなものという視点で見れば、時間が可逆でないことは明らかです。エネルギー(石炭、石油、天然ガスなど)も使えば劣化(二酸化炭素になる)していき、同じエネルギーを永遠に使い続けることはできません。熱力学的にはエントロピー増大の法則と呼ばれるもので、時間経過ととものエントロピーが増加し、不可逆であることがわかっています。

 ですから、地球の歴史という視点で見れば、時間変化に伴って、物理学、化学の法則が働く前提となる地球の環境や条件が異なっているため、現在の環境から考えた法則は、無条件には適用できないことも多々あるはずです。つまり斉一説も、制限付きでしか適用できないということです。

 上の例で出した肉食獣の歯の化石で用いた考え方は、斉一説でしたが、もっと広い見方をすると、現在の生物との類似を過去へと演繹したものだといえます。歯から顎、顎から頭部、頭部から全身などは、演繹を繰り返して利用していました。

 演繹法は、正しいと考えられる規則を、別のものへ適用していく方法です。演繹法から新しい法則は生まれません。一方、いくつもの事実から規則性を見出す帰納法からは、新しいアイディアを生み出せるので、創造性がある方法です。帰納されただけの法則は、集めた事実は説明できますが、他の事実に当てはまるかどうかはわかりません。検証する必要があります。検証作業が終わるまで、その法則は仮説となります。仮説が正しいかどうかは、演繹をして、検証していく必要があります。この帰納と演繹で科学は進んでいきます。

 しかし演繹の検証過程に、時間の不可逆性が入ることで、検証不能になります。さらに現在の仮説においても、検証は自然界のすべてに対しておこなうべきですが、それは不可能です。ですから自然科学の仮説には、常に反証の出てくる可能性があります。自然界では帰納法に限界があるということになります。

 上の述べた化石からの類推は、限られた事実から仮説を立てて、その仮定を新たな事実へ演繹して検証しようとする方法なので、「仮説演繹法」と呼ばれ、アブダクション(abduction)と呼ばれることもあります。実は、自然科学の法則は演繹の適用限界があるため、完全な検証ができないため、すべれ仮説となります。ですから自然界の法則はすべて仮説で、科学の営みでは仮説演繹法が使われていることになります。

 完全な検証はできないのですが、少ない事実から仮説を立て、その仮説を演繹することで正しさを増すというものです。その中に斉一説も含まれています。仮説演繹法とは、多くの人が無意識に利用しているものでもあります。危険ですが、利用価値のあるものです。


・不確かさ・

多くの自然科学の法則の背景に、

帰納と演繹、仮説演繹法、斉一説があります。

それを考えると自然科学の不確かさがわかります。

でも、科学は留まることはないので

日夜、仮説が生まれ、演繹が繰り返されています。

そして、科学や技術は進歩しています。

科学する人は、この不確かさ、危うさを

常に意識しておく必要があるでしょうね。


・コロナが近くにいる・

11月は寒い日も温かい日もあり、

その差が大きかったような気がします。

着実に冬が来ています。

通常の風邪やインフルエンザの流行もはじまりそうです。

そして、新型コロナウイルスの感染者数が

わが町でも増加しています。

町には4つの大学がありますが、

多くの大学で学生の感染者の報告が増えてきています。

我が大学では、遠隔授業に切り替えましたので、

学生と教職員との接点がなくなりました。

学内での感染は押さえられているはずです。

しかし、どこかに漏れがあるかもしれませんので、

感染が広がらないことを願うしかありません。

2020年11月1日日曜日

226 修行期間:苦悩と歓喜のループ

 研究者になるためには、専門的な訓練を受けます。それぞれの専門性を身につけるためには、それなりの適性が必要な場合があります。適性があれば、大変であっても、そこに楽しみを見いだせます。


 前回のエッセイでは、研究者の実態を紹介しました。エッセイのLetterでも書いたのですが、もともと書きたかったテーマの部分へと辿り着くまでに、文章量が多くなったので、前半を切り離してお送りしまた。今回は、後半に当たる、研究者が修行期間に、どうモチベーションを維持するか、という話題をお送りします。

 まずは、研究者への道についてみていきます。ただし、これは一般論なので、他の道も、当然、あります。私も少し変わった道筋もたどりましたが、事例として合わせて紹介していきます。

 研究者になるためには、大学の学部学科を卒業後、大学院へ進みます。修士課程(2~4年間)から博士課程(3~6年間)までありますので、それなりの期間、専門的な訓練を受けて、修行をしていく必要があります。

 ここで、修士課程を2~4年間、博士課程を3~6年間と書いたのは、それぞれで修士論文や博士論文を提出して、課程を修了することになります。しかし、2年間もしくは3年間で論文が終わらなければ、最長で修士課程で4年、博士課程で6年まで在籍できるという意味です。その間に論文を提出し、審査を通れば、修士号や博士号を課程内で授与されることになります。これを超えると、論文修士や論文博士となり、ハードルも高くなります。

 修士論文あるいは博士論文は、指導の先生が、内容をチェックして、了承されたものを提出することになるので、審査は特別ことがない限り、通ることになるはずです。また、大学によっては、論文提出のための条件を定めているところもあります。例えば、私が博士論文を提出した大学では、公表論文を3篇以上、その内1篇以上が査読論文と英語論文であること、などの条件を設けていました。

 研究者となるための最初の訓練は、大学の学部で専門分野を学ぶ時からはじまります。学部の頃は、だれもがその分野の初学者というべき存在になります。初学者の頃は、専門に関する基礎的な知識から応用までを広く学びながら、データを得たり、処理したりする専門分野に関する技能も同時に身につけていくことになります。

 どんな分野であっても、一定のレベル(一人前になる)に達するためには、それなりの修行期間を経ることになります。修行で、その職種固有の知識や技能を身につけることになります。

 私の場合は、地質学の知識を身につけながら、研究を遂行するための基本的なスキルを訓練をしていきました。地質学的スキルとしては、いろいろなものがあります。例えば、野外調査で岩石や地層を見分けること。露頭の位置を地図上で把握し記録すること。見えない部分の地層の分布を、図学的に推定し地質図を作成していくこと。採取した試料を処理して顕微鏡観察できるように薄片作成にすること。薄片を顕微鏡で鉱物を同定したり組織を識別していくこと。試料を化学分析するために調整し、実際に分析すること。得られた分析データを解析していくこと。などなど、非常に幅広い技能を身につけるとともに、専門知識を活用して、研究の方法を学んできます。

 技能を身につけたとしても、それぞれの作業は、一人前の研究者になってもおこなうことになります。中には、地道な努力を強いるものも多く、苦痛に感じることもあり、それに耐えながら研究を進めていかねればなりません。

 研究を継続していくのは、なかなか大変です。しかし、専門的に学んでいくと、興味を覚え、それを追求していきたくなるという、好奇心が湧いてきます。好奇心は多くの人が持っているし、小学校の教育でも、「興味、関心」などいって、好奇心を持つように教育をおこなっています。マニアやオタクと呼ばれる人が、熱中するのも同じ好奇心からでしょう。好奇心は、だれもが、持っているものです。しかし、本業となってくると、好奇心を維持するのは、なかなか大変です。

 研究の修行時代、好奇心だけでこなすには大変なのですが、それを耐えるための楽しみも見つけられるようになります。労力の末、得られる喜びです。苦労が大きくなるほど、喜びも大きくなります。新知見の発見、新しいアイディアを思いつくこと、論文が書き上がること、投稿が受理されること、いろいろな局面があります。それぞれに、大変さとその先に喜びがあることを見出していきます。大変さと喜びを経験することも、あるいはその経験こそが、修行の重要な目的ではないでしょうか。苦労の先に喜びが期待できないと、現在の苦悩には耐えきれないのです。

 この苦労と成功、それに伴う苦悩と歓喜もあります。苦悩と歓喜の繰り返しループを経ながら、一人前になっていきます。苦悩と歓喜の繰り返しの過程が、研究の道へ「病みつき」を生んでいくのでしょうかね。


・紅葉の盛りに・

先日校務で函館にいきました。

前泊だったので、途中の大沼公園を一巡りしました。

紅葉が盛りで、艶やかな木立の中の道で、

大沼を一周してきました。

ただ、残念ながら、小雨の降る中だったので、

のんびりと散策する余裕はありませんでした。

ところが、翌日、晴れの大沼公園を通ることになりました。

帰りを急いだので、晴れの大沼の紅葉は

高速から横目で眺めるだけでした。


・警戒ステージ2・

北海道では新型コロナウイルスの感染者数が増え、

警戒ステージが2とひとつ上がりました。

今後の、推移が心配になります。

今の所、大学では、レベルを上げるまでには

至っていませんので、これまでの授業形態が維持されています。

ただ、これからは寒くなってくるので、

今後も予断が許されません。

2020年9月1日火曜日

224 縁なき衆生は度し難し

 正しいことがわかっていても、つい、心は他の方向や他のものを選択することがあります。心は不思議なものです。しかし、心を律するのは理性、知性しかありません。理性的に知力を使って生きていければと思っています。

 「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し」という仏教用語あります。この言葉は、一般にも使えると思います。「縁」とは、本来は仏とのつながりですが、広く賢者、科学的見地での考えられる人となるでしょう。「衆生」とは、すべての人々のことです。「縁なき」とは科学的に考えられない人々のことです。「度す」は、悟りの境地へ導くという意味ですが、広く考える正しい道へ導くということでしょう。「度し難し」とは、導くのが難しいということです。つまり、「縁なき衆生は度し難し」とは、科学的に考えられない人は、正しい道へ導けないということになります。別の言い方をすれば、「馬の耳に念仏」あるいは「犬に論語」となるでしょうか。
 さて、本題です。目に見えない存在を信じることは、困難なように思えます。しかし、実際には多くの人が、見えないものを信じています。そのいい例が、ウイルスではないでしょうか。
 ウイルスの対処の困難さは、見えない点です。しかし、これだけ医学が進み、その微小な姿を映像化して示されると、肉眼では見ることができないのですが、そこに存在するかように信じて、行動しています。そこに存在するかどうかが不明であっても、存在するという前提で、対処しています。このような考えは、「予防原則」、あるいは「予防措置(precautionary measure)(原則)」などと呼ばれることあります。
 科学的に結論が出ていない課題であっても、対処が必要なときがあります。結果として被害の大きなことを想定して対処しようというもので、予防措置原則が用いられます。ただし、適用しすぎてしまうと、「怪しきはすべて禁止」となるので、注意が必要です。
 新型コロナウイルスは、7月からの大きな第2波が現在も継続中です。都市部(東京、大阪、神奈川、愛知、福岡など)とともに、沖縄も感染が拡大が継続しています。毎日の感染のニュースで、人は馴れてしまい、地域によっては毎日の新規感染者が200人だと少なく感じてしまいます。馴れによって、つい油断していきます。
 科学が発達していない時なら、病気の原因となるウイルスは、見えないものですから、その存在を信じない人もいたはず。しかし、同じ時代の人が、お馴染み得ないものでも「神」の存在は信じていたりします。時には、現実に起こった論理的、科学的に考えれば、その原因がわかるものですら、神が成したと信じることもありました。人の中には、矛盾した心が存在しているようです。
 現在では科学が進んでいるので、科学で確認されていない存在(例えば、幽霊や宇宙人、超能力など)は信じないことが多いと思いますが、星座や手相の占い、血液型による性格判断、県民性など、科学的根拠がないとされていることも、日々メディアが放送し、多くの人が話題にしています。まあ、人は、信じたいものは、たとえ科学的はありえなくても信じることがあるようです。現在でも、教育を受けた人にも、矛盾した心は存在しているます。
 多分、このような矛盾した心の存在は、どんなに科学が進んでも、教育が進んでも、残るものなのでしょう。矛盾した心が、個人の思想信条や、個人の心の問題である限りは、他人が口出しすべきことではありません。しかし、そのような矛盾が、他者、あるいは多くの市民、コミュニティ、国民を巻き込むことになれば、問題となります。
 現在、新型コロナウイルスの形態や特性、遺伝子情報などは確認され、その特徴と対処法も少しずつではありますが、わかりつつあります。また、一般の感染症に対する、科学的対処もわかっています。新型コロナウイルスへの完全な対処は、ワクチンの完成を待つしかないのでしょうが、それができるまでは、予防措置原則でウイルスの蔓延を抑え込むことが必要不可欠でしょう。
 新型コロナウイルスの対策に対して、抑え込んだ他国の事例を見ると、科学的な考え方と予防措置原則に則ることを決め、強いリーダーシップのもとで対策が実施されていることがわかります。一方、我が国では、科学的考え方があっても、予防措置原則を知っていても、リーダーシップがなく、中途半端な対処が、日本の現状を生み出しているようです、また、初期段階での対処の間違いが、現在のアメリカの状態を生んでいるのでしょう。指導者は、衆生を度することこそが、もっとも重要な役割のはずなのですが、・・・。
 科学先進国で、経済発展もしている日本という国で、このような事態が起こっていることは、由々しきことではないでしょうか。科学者たちは、科学的考えをもって政府に助言しています。他国の成功例も、いくつも示されているます。予防措置原則による方法論も確立されています。また日本には、経済力も医療体制も整っています。衆生は度される資質と従順さをもっています。なのに、指導者が「縁なき衆生は度し難し」なのでしょうね。

・自粛の継続・
今年の北海道の夏は、暑い日が何度かありましたが、
それでも過ごしやすい日が多かったです。
それが北海道の夏の魅力です。
3月以降、出かけることが全くありませんでした。
ほぼ、大学と自宅の往復だけで過ごしました。
家内の外出も、曜日を決めて、買物しに出かけますが
外出は最小限にしています。
8月末に、校務での出張が3度ありました。
しかし、9月には、道内で調査をしたいと考えています。
新型コロナウイルスの感染状況には、
常に気を配ることになります。
いつ中止になるかがわかりませんので、
様子をみながらです。

・体験が残すもの・
大学では、後期も遠隔授業を
多数の講義で、取り入れざるえないでしょう。
しかし、少しずつですが、
対面授業を復活させはじめることになるでしょう。
時間短縮や三密対策をした上での
対面授業の実施となります。
いつまで続くがわからない不安があります。
新型コロナウイルの耐え忍んだ体験は、
日本国民の将来にいったい、何を残すのでしょうか。