2021年6月1日火曜日

233 アポリア:難問と実践と

 日本では以前COVID-19の感染が広がっています。少し前までは、COVID-19は難問でしたが、最近では解決の方法が見えてきました。成功事例も多数あるので、あとは実践あるのみでしょうか。


 哲学では難問や、行き詰まりになった状態をアポリア(Aporia)と呼んでいます。ギリシア哲学で使われている用語です。

 プラトンは、ソクラテスを主人公とする対話で多数の本を執筆しています。本の中では、対話によって、アポリアが提示されて終わる話しが多く描かれています。ソクラテスは、対話を通じて相手をアポリアになることで、まだ何も知らない無知であることを知らしめています。プラントは、ソクラテスが相手をアポリアに陥らせるという書き方をすることで、アポリアから新しい展開を生み出せる可能性を暗示するという方法論を提示しているようです。

 ただし、対話者がそアポリアからの脱出のための意欲や行動に進めるかどうかが、重要になってくるでしょう。アリストテレスは「形而上学」の中で、先哲たちを悩したアポリアをリストアップして、それらについて自身で考えていきました。つまり、プラトンの暗示した方法論で、アリストテレスは、アポリアへの解決策の探索を実践していたのです。アポリアを把握し、アポリアからの脱出のために考え、実践することことで新しい方法論を付け加えました。アリストテレスの方法論の提示も、暗示されているものです。

 ソクラテスの対話から生まれたアポリアを、プラントは方法論にして、アリストテレスはアポリアを解決するために実践をおこなうことで、解決のための方法論まで進めました。アポリアは、単に難問という意味だけでなく、難問からの脱出をも促しているようです。ギリシア哲学の巨人たちが、体現してくれているのです。後人は先人の導き従えばいいのです。

 さて、現在の日本は、閉塞状況が継続しています。各地で緊急事態宣言が今月へも延長されそうです。そんな地域では、自粛が慢性化してきて、歪んだ日常が当たり前になってきています。自粛をしている人にとって、COVID-19は解決できないアポリアなのでしょうか。この閉塞状況はアポリアでしょうか。考えていきましょう。

 まずは、現状把握から。政府のCOVID-19への対処に関して、多くの人が政府の対処に不満、失望を感じています。後手だったり、時期を間違った対象だったり、無駄なところに費用を使ったり、科学的な裏付けのない政治判断だったり、人命より他のものを重視したり、強者には忖度するのに、弱者には冷淡だったり、と言い出せばきりがないほどの愚痴が、次々と沸き起こります。

 これらは、アポリアではなく失策ではないでしょうか。さらに、オリンピック開催には、多くの人が反対しているのに強行開催しようとしています。政府は、人命よりオリンピックの方が重いと考えているのでしょうか。もし実施して感染爆発や多くの重症者や死者が出たとしたら、選手や関係者の気持ちはどうでしょうか。あるいは国民の気持ちはどうでしょうか。

 これらすべての難局はアポリアでしょうか。COVID-19へ適切に対処した国は現在対処しつつあります。対処が混乱したアメリカ合衆国でも、指導者が交代して対策を強く推し進めたところ、半年ほどで一気に感染を抑え込みつつあります。難局への対処への方法論は、いろいろな国で実践が積み上げられてきました。

 国内に入れない水際対策、入ってきたらロックダウンと経済的保証、対ウイルスのワクチンの開発、ワクチンの早急な認可と充分な量の確保、接種態勢の緊急的方法の確立など、いろいろな実践があります。それぞれの場面で専門家や企業、行政などの連携が不可欠ですが、それを統括するのが、政治家としての手腕が問われるところです。残念ながら日本はそのような人材は乏しいようです。

 では、どうすればいいのでしょうか。古代ギリシアの先哲の知恵を借りましょう。

 ソクラテスは対話にて、相手がアポリアになっていることを示しました。現在の日本のCOVID-19における状況は、まさにアポリアです。プラトンはアポリアを知るという方法論は示しました。アリストテレスはアポリアをリストアップして、解決のために実践するという方法論を示しました。現状で各国のCOVID-19への対処、そして脱出のための実践例は多数示されています。それを適用し実践すればいいはずです。そして政治や指導者の態度も、各国で示されています。

 先人の実践があれば、先人から学べば後人はアポリアからの脱出はしやすいはずです。後発のメリットは、実践例が多数あり、それを自由に組みわせて有効に利用できることです。あとはそれを、実践する行動力、決断力です。ところが、なぜか日本ではできていません。そして、前掲の国民の愚痴へと戻っていきます。堂々巡りに陥りそうですね。


・緊急事態宣言の延長・

北海道も他の都府県とともに

緊急事態宣言が延長されそうです。

その期間は、6月20日までになりそうです。

大学も当然、緊急事態宣言に対応して

遠隔授業がはじまり、継続しそうです。

もしかすると、前期の講義全体が

遠隔授業のまま終わってしまいそうです。

昨年と同様の状態になったら、

1年生、2年生の学生は、

大学の体験的学びを体得できない、

なぜ大学にいるのかという不安、

友人やサークルでの人間関係の形成不足

など考えてしまうことになりそうです。

教員もそのような悩みへの対処も

十分できなくなるかもしれません。


・研究計画の再考・

緊急事態宣言の発令とともに

予定していた野外調査が、

次々と中止、延期に追いやられてます。

その分は、時間的には補うことができません。

たとえ、7月に野外調査が開始できたしても、

集団免疫ができない限り、

ワクチン接種が広まらない限り、

いつ感染爆発が起こるかわかりません。

注意ながらの調査となりそうです。

今年度の当初予定していた研究計画も

考え直す時期になっています。

2021年5月1日土曜日

231 しがらみと好奇心と:初心は何処に

 科学を、金や名誉のためにおこなっている人もいるかもしれません。そもそもは好奇心によって、科学に目覚めたのではないでしょうか。そんな好奇心がしがらみの前では、隠されてしまっているのでしょうか。


 かつて地質学は、野外調査から研究をスタートしていきます。自然との接触を通じて、記載し試料を採取していきます。記載からその地の地質状況を把握し、試料から各種の観察、分析、計測をして情報をえることを基礎情報にしていました。しかし、これは昔の話かもしれません。

 現代の地質学では、先端の大型装置(大型望遠鏡や探査機)や高性能装置(Spiring 8)や、巨大プロジェクト(深海掘削や局地調査)など、個人ではできない手段や分野も手掛けることも増えてきました。これは「学際的」になってきことを意味します。

 私がおこなっている地質学は、基本はひとりでおこなっています。それは、野外調査からはじまります。野外の露頭での岩石や地層から読み取った大地の営みのダイナミズムは、感動を受けます。それに比べる自分や人間のささやかさ、・・・など、あれこれ自然の中で考えてしまいます。露頭からはじまる思索を、現在の中心テーマにしています。

 私も「学際化」を進めていますが、ひとりでおこなうものです。野外の露頭という身近な素材から、素朴な感覚、感性からえられるインスピレーションを大切にしています。そこから、地質学固有の考え方や概念などを、深く掘り下げていこうとしています。そのときに哲学や論理、数学などの他分野の考え方を導入することで内容を「学際化」していこうとするものです。ひとりでの「学際化」を目指しています。

 自然の中で石を見ることは、なかなか気持ちのいいもので、野外にいくとストレスやしがらみから開放されるので、のびのびします。そもそも地質学だけでなく、科学あるいは研究とは、好奇心に触発された事柄について、科学的・論理的手順で調べていくことで、これまでにない新知見を見出していくことです。科学的手順とは、対象となる事物や事象を観測し、測定し、定量的もしくは定性的な情報をえて、それを解析していきます。その過程で、新たな知見を見出したり、これまでにない概念を抽出したり、あるいは手段として、新しい測定技術を適用したり、時には目的のために新しい装置を開発することもあります。いずれにしても、これまでにない何らかの新しい知見、方法、考え方や概念などを、科学界に提示します。その一連の過程を科学的手順といいます。

 近年、多くの装置は、科学技術の進歩やコンピュータやアプリケーションの発展で、より簡単な操作で、より精度の高いものがえられるようになってきました。科学技術の進歩は眼を見張るものがあります。しかしかつては、専門の訓練を受け、ひとつのデータを出すために長い日数がかかったり、データの精度が科学者の腕によって変わったりしていました。それが現在では、訓練を受けていない学生でも、コンピュータ制御で大量に高精度のデータが出せる時代になりました。これは、昔、苦労してきた研究者が、こうなれと望んできたことなので、喜ぶべきことでしょう。

 苦労が軽減したら、科学者は、その分、なにをなすべきでしょうか。それは、装置や研究条件を活用する研究テーマを考え、成果を挙げていくことでしょう。その条件が、他の研究室にないものであれば、最もその利点を活かすテーマを考えていくことになるでしょう。

 研究でえられたこれまでにない新知見には、本来は優劣はないはずです。しかし、その成果(論文のこと)が、科学的に正しいかを学会発表で議論したり、世に残すに値するかを評価して(査読制度)、客観的に成果を判断をする仕組みがつくられています。そのような科学的評価の仕組みが、各分野の学会として存在しています。

 現代は、科学を職業としている人口が増えているので、科学の成果を評価する仕組は、より強化されます。学会誌のレベル、あるいは成果が他の研究者にどの程度の役立っているのか(引用)によるランクを付けなどをして、客観的評価としています。

 優秀な研究者でもあって、一生のうちに一級の研究成果を、多数、報告をすることはほとんどありません。また、どれが一級の研究成果になるかは、テーマ設定の段階で、事前にわからないことも多く、最先端や新分野のテーマほど、なかなか予定通り、予想通りにはいかないことも多くなります。

 それでも、数年のテーマとして取り組んだ研究であれば、なんらかの成果報告をしていきます。今後の研究の持続性を考えると、成果として報告をしたという実績、そして質より量がものをいう場面も多々あります。いきおい質より量の業績数も稼ぐことが重要になっていきます。

 業績を稼ぐには、研究の戦力になるを人材を集めていくことも重要でしょう。人材とは、学生や大学院生、期限付き研究者、研究助手、技術支援者、あるいは共同研究者などです。研究で好条件があれば、優秀な人材も集まるでしょう。結果として、成果もたくさん挙げることができるしょう。成果が多ければ、時には一級の結果もえることがあるでしょう。すると、さらによい装置、より優秀な人材などが集まり、より多くの成果を出せることになるでしょう。成果が挙がれば、研究費も増え、ますます優秀な人材も集めることができるでしょう。

 この好循環が続けば、その研究室は一流となっていき、優秀な人材を輩出でき、他の組織へも供給することになり、共同研究者も増えていくことなるでしょう。これが、多くの科学者、研究室が目指す状態でしょう。

 現代の科学者にとって重要な役割は、研究室の装置や条件をよくして、優秀な人材を多数集めて、最先端のテーマで多くの成果を出していくことでしょう。現代科学では、このような進め方をしたり、目指していることでしょう。成果を上げている研究者は、充実感、達成感もあり、名誉欲も満たせ、新しい好条件がえられることになるでしょう。

 このように見ていくと、大きな研究を進めるためにには、純粋に科学の営みとはいえないような政治的、経済的、組織的な要素も多くなってきていくようです。中心的な研究者は、純粋に研究能力だけでなく、そのような能力にも長けていければならないのでしょう。現代の科学の多くは、このような方向に進んでいます。これまでの経緯や「しがらみ」から、致し方ないことなのでしょうか。

 そのような科学の「しがらみ」の影には、研究費確保で提示したテーマを限られた期間内で達成するため、組織が疲弊していくこともあるでしょう。中には、ストレスのため潰れていく人材もいるでしょう。目標を達成できず、好循環が切れることもあるでしょう。時には、不正を働く人も出てくるかもしれません。ニュースになっていることもありました。大きな研究を進めていくには、このような影の部分もあるようです。

 自分の立ち位置を確認するために、科学の原点、根本的問題に立ち返ることが重要ではないでしょうか。それは、このエッセイの一番最初に書いたように、科学とは好奇心に基づいておこなわれる、という地点です。不思議だと思うこと、興味を持ったこと、面白いと思うことだからこそ、困難があっても乗り越えられるのでしょう。そんな純朴な好奇心は、多くの研究者は、ずっと心の中に持っているはずなのです。でも、「しがらみ」のために、心のどこか奥底に埋もれしまってるのではないでしょうか。時には、その地点まで戻る必要があるのかもしれません。多くの科学者に、このような好奇心がどこかにいってしまったように見えてしまうのは、私だけでしょうか。


・歪んだ科学への対応・

今回のエッセイは、少々長くなりました。

地震と原子力に続いて、最近はCOVID-19でも

科学の無力を、日々、見せつけられています。

科学や技術などに携わっている人は、

最終的には人や社会のためになることを

願って進めているはずです。

そんな科学の成果が歪められていること、

経済や政治に誤用、御用化されていること

メディアのネタや悪意にさらされていること、

そんあことを忸怩たる思いをしているはずです。

そんな歪んだ科学への対応が心配です。


・初心を思い出せ・

コロナウイルスの第4波が全国に広がっています。

中途半端の対策での封じ込めの失敗、

病院や医療従者の手当や援助、人手の不足、

ワクチンの手配の遅れ、など、

原因をあげればキリがないほどの

失策が繰り返されているようです。

国民の反対を押し切って

オリンピックはおこなうと立場だけは堅持しています。

どこでこんな状態が生まれたのでしょうか。

このエッセイで述べたように

研究者のしがらみと初心のズレと

同じ構図がみてきそうです。

政治や行政を志す人も

初心を思い出していただきたいものです。

2021年4月1日木曜日

230 べき乗則:想定外を想定

 ものごとの起り方は、正規分布だけではありません。自然現象には、べき乗則で起こるものが多く見つかっています。自然現象、特に自然災害は、想定外を想定しておく必要性がわかります。


 一般的な様子を知るため、ものごとの性質を定量化して、その平均をとることがよくされています。入試や定期試験の点数、年齢ごとの身長や体重、などいろいろなところで用いられています。かつては、平均値の計算は手作業や電卓でしていたのですが、今では表計算ソフトを用いれば、データを入力すれば、間違うことなく、即座に求めことができます。データの特徴を表すために、今や平均値はありふれたものとなっています。

 点数や身長の例では、一人にひとつの点数や身長のデータがあり、人数分の個々の値がありました。それを平均した値が、点数や身長の平均値となります。平均値が、その集団の点数や身長の特徴となります。

 ところが、その値が数値ではない場合、例えば確率で示されるもの、関数で示されるものなどもあります。それぞれの場合によって、平均値の考え方は変わってきます。

 確率で示されるものであれば、平均値の意味するのは、その集合の期待値となります。関数の場合で、ある区間で微分可能ならば、平均値の式は直線の式となり、その式に平行な接線、つまり微分した値がその区間に存在するということを意味します。「ラグランジュの平均値の定理」と呼ばれて、利用されています。

 ラグランジュの平均値の定理を、2つの関数の関係へと拡張していくと、平均値の定理は、2つの関数の微分の比が存在するという「コーシーの平均値の定理」になります。また、コーシーの平均値の定理で極限をとると、「ロピタルの定理」(ベルヌーイの定理とも呼ばれます)になります。

 つまり、平均値を求めるという数学的操作も、拡張していくと、いろいろな側面があることがわかります。

 さて、本題です。最初に示した一番単純な平均値、例えば大人の身長の平均値とは、平均値の周りに測定した値が、分散していることになります。その分散の様子は、平均値に対して、左右対称に釣鐘型になっています。平均値の付近が多く、離れると少なくなっていきます。このような値のばらつき方は、統計では「正規分布」と呼んでいます。

 正規分布するものは、左右の裾野は平均から外れていくことになります。離れれば、そのような値はなくなります。2020年の文部科学省のデータによると、日本人の20歳から24歳の男性の身長の平均は171.5cmで、女性は158.49cmとされています。正規分布なので、身長2mの人は稀ですがいます。しかし3mの身長の人はいなくなります。つまり、正規分布とは、ある平均的な値を中心に、データが集まっている状態に対して、特徴を捉えるためには有効な方法といえます。

 正規分布は重要な分布なので、統計学ではいろいろと性質が研究されているので、さまざまな利用ができるようになっています。また、左右対称ではなくても、分布の特徴が関数化できれば、統計学的処理によって、正規分布に変換する手法もあります。正規分布に変換できれば、さまざまな手法が利用できます。

 しかし、自然界には正規分布にならない現象も多くあります。例えば、地震のマグニチュードの大きさと頻度の関係、火山噴火や斜面崩壊、雪崩、河川氾濫などの自然災害の規模と頻度の関係は、正規分布が当てはまりません。

 これらの現象に一致する関数を当てはめていくと、べき乗分布になっています。べき乗分布とは、現象の2つの観測量(規模と頻度、あるいはサイズと頻度)が、べき乗で比例するという関係です。このようなものをべき乗則、あるいはスケーリング則(scaling law)と呼ばれています。その式は

  y=x^-a

となります。ここでxは現象の規模やサイズ、yは頻度です。aをマイナスにしたのは、規模が大きなものが少なくるというグラフにするためです。このaは、スケーリング指数と呼ばれるものです。

 べき乗関数と似たものに指数関数があります。

  y=e^-x

と表せます。似ていますが、x(規模やサイズ)が指数となっており、底がネイピア数(e)となっています。

 べき乗関数と指数関数の違いは、数学的には対数をとると明瞭になります。指数関数の両辺の対数をとると、yが対数になりますが、xは対数ではなく1次式になります。その結果、y軸だけを対数(片対数)にすると、グラフは直線になります。べき乗関数では、両辺の対数をとると、直線の式の形になり、直線の傾きの値がスケーリング指数(a)となります。

 これは、両関数の減少の仕方の違いを示しています。指数関数は、一気に減少するため、はずれた値の出てくることは、急激に小さくなっていきます。一方、べき乗関数は、最初が減少が大きのですが、だんだんと減少の傾向は小さくなっていきます。指数関数よりクラフの裾野が、緩やかになっています。つまり、べき乗関数の現象では、規模の大きなものは、頻度は小さいのですが、起こる確率は、下がりにくいという特徴になります。このような減少のしかたは、ロングテール(long tail)とも呼ばれています。稀ですが、とんでもなく大きな値の現象が、起こることになります。

 べき乗則に従っている自然現象では、これまで起こらなかったとしても、今後も起こらないとはいえないということになります。自然現象にはいいことばかりでなく、巨大地震、巨大火山噴火、隕石の衝突など、「想定外」の規模のものが起こりうるという、当たり前のことが導き出されたことになります。

 自然現象でも地震や火山などでは、有史以降起こったことがなくても、過去をずっと遡っていくと、超巨大の規模のものが起こっていることが検証されています。自然現象でべき乗則になるもの、重要な意味をもっています。想定外の規模の自然現象は、稀ではあるが、起こる可能性があることを、常に意識しておかなければならないということです。「想定外」は「想定」可能であることが、数学的にわかっているのです。


・緊急事態の解除・

緊急事態の解除と新年度や花見の時期と重なりました。

それまで多くの人が抑圧されていたので、

開放されたい気分になるはずです。

多くの人が出歩くことは、想定できたはずです。

そんな簡単な想定ができないはずはありません。

大規模な火山噴火や地震は想定外とするのは

間違っていることが、数学的にわかっているのに

起こらないと「想定」して安全対策をしていました。

今回のコロナへの緊急事態の解除から

起こる事態も想定できるはずですが、

想定してないのでしょうか。

政府は、どうもちぐはぐな対処をしていますね。


・対面授業・

大学は新年度を迎えました。

今年こそ、新入生は大学生活を謳歌してもらいたのですが、

まだ先になりそうです。

コロナへの対象法は整ってきたので、

まったくの遠隔授業の状態ではありません。

それでも、通常の大学生活とは、大きく異なっています。

早く国民全員にワクチン接種が普及して、

一日も早く、通常の対面授業が戻って欲しいものです。

対面授業の重要性、ありがたさを痛感しています。

2021年3月1日月曜日

230 反証可能性:悪魔の代弁者

 日常生活では、何事もなくなくても、特別な状態、条件の時には、通用しないことがありえます。そのような落とし穴に落ちないために、悪魔の代弁者という考え方があります。


 ものごとを、ひとつの方法論や考え方で突き詰めていくことは重要です。しかし、そこに大きな落とし穴が潜んでいることもあります。そんな落とし穴について考えいきます。

 まずは、以前、紹介した例からはじめましょう。

 数列を探るというクイズです。出題者がある規則で3つの数字を並べます。解答者は、その規則を探っていきます。その方法は、解答者が3つの数列を提示し、その数列が出題者の規則に合ってればYesと答え、違っていればNoと答えることにします。その繰り返しで、解答者が主題者の数列を探るというクイズです。

 まず、出題者が次の数列を提示しました。2 → 4 → 8 そして、解答者Aは、4→8→16:Yes、8→16→32:Yes と答えました。解答者Aは、偶数、もしくは2の何乗が規則だと考えるはずです。両者のどちらかを決めるためには、2→4→6、1→2→4 という数列を順番に出していけば、決定できるはずです。

 しかし、もし出題者が、両方ともYesと答えらたどうしましょう。あるいは、もうひとり別の解答者Bが、同じ出題に対して、1→3→5 という数列を出して、Yesという答えが帰ってきたら、どう考えますか。混乱をきたすでしょう。

 よく考えた人が、3→8→100 という数列を出して、出題者がYesと答えたら、その規則性は、小さいものから大きいものへと順に並べるというもののはずです。

 これらのことから、クイズの答えをえるためには、規則性を予想して、それに合った数列をつくり、質問していくことになります。もし、出題者の規則性が、解答者の想定した規則性を含む、もっと広いものであればどうなるでしょうか。いくら数列を出してもYesとなり、本当(真)の答えはえられません。先程の例でいうと、2の指数乗(1は例外として含む)、偶数、増加する数、という規則性は、順により広いものになっていました。

 ここまでは、以前紹介したものを変形したものでした。

 解答者の想定した規則性が本当かどうかを確かめるためには、想定した規則性に反する数列を示して、出題者のNoの答えをえらえれば、検証になります。ちなみに、9→3→8 という数列も、Yesです(この規則の答えは下のLettersにて)。このようは考え方は、「逆問題」や背理法と呼ばれる考え方です。

 なぜ、このような考え方が必要なのでしょうか。正しいと考えられていることを確かめるために、その規則性の中で検証をしていたとしたら、それは真に正しい答えではありません。このようなことが、日常生活のなかで起こっていれば、避けられないような落とし穴となるでしょう。

 「検証されているから」と、「規則性から外れるようなことは起こらない」という前提ができていると、そこから大きな間違いが生じることがあります。真ではない規則性に基づいて、ものごとの考えられたり、組織や社会が運営されていたとしたら、そんなことは起こらないという前提でシステムが組まれていたら・・・。

 そのような事態が起こったときには、「想定外」となって対処ができないことになります。日本の政治や行政システムにはこのような落とし穴がありました。2011年3月11日以降の原発事故のとき「想定外」という言葉を度々聞きました。他にもありそうで、不安ですね。

 そんな落とし穴を回避するためには、どうすればいいでしょうか。

 アメリカでは、大統領候補者同士が議論するディベート(debate)と呼ばれる方法があります。両者の考え方の違いをはっきりとさせること、また議論を通じでどちらの考えがいいか、などの判断に利用されています。学校の教育の一環として、ディベートで競うという訓練がなされ、議論の技術を磨いています。ディベートのテクニックとして、「悪魔の代弁者(devil's advocate)」と呼ばれる方法があります。ある意見の側に対して、反対や批判する側の役割を担う人たちのことです。

 悪魔の代弁者とは、もともと西洋では、宗教的な方法論としてありました。信心深い信者や故人に対して、聖人などの地位を与えるのを審議するために、その人の至らない点を指摘していく人のことを指しました。そんな指摘を受けることで、客観的に、そして公正に選ばれたとことを示していました。まあ、起こりは宗教的な儀式ではあるので、論理的正しさはないのですが、その方法論や視点は重要です。

 このような方法は、科学哲学者のポパーが提案した「反証可能性」というものに繋がります。それは、自身の考えを否定するような仮説を立てて、その仮説が否定されることで、検証していこうという考えです。ポパーがこの説を唱えるために影響を受けた例として、アインシュタイン自身の一般相対性理論に対して、真偽を確かめるための実験を提示したことがありました。この実験は、難しいもので、すぐには実現できませんでしたが、日食のとき観測されたことで、理論の正しさが検証されました。

 実際の場合には、反証可能性を提示してものごとを考えたり、反証を検証することはありません。なぜなら、人は自分の考えを、あえて否定するような考えを提示することは、生理的に嫌うからです。背理法も、数学ではテクニックとして用いますが、実社会や生活に導入するには抵抗があります。ですから、多くのものごとは、自身の考えている規則性で、その考えの中だけで検証された規則性から成り立っています。私たちは、そんな世界に住んでいます。

 ですから、せめて、今「正しい」と思っていることは、危うい砂上の楼閣であることを心して置く必要があります。至るところに、悪魔が潜んでいる可能性があり、落とし穴がありそうです。

 最後に一言、もし、反証可能性の考え方も、論理的に反証されれば、この方法論も間違っているということになります。これは、自分の示した方法で、自分の方法論を否定することになる、という自己矛盾を孕んでいます。いったい何が正しいのでしょうか。混乱してきます。


・解答・

本文で示した3つの数字の規則性を当てるというクイズは、

なかなか含蓄がありました。

本文の例、数列 9→3→8がYesでした。

その答えは、ばらばらの数字を並べるというものでした。

では、もし出題者が 9→9→9 にもYesと

答えたらどうでしますか。

その規則性は、もう見抜けますよね。

ご自身で考えて下さい。


・新しい生活様式・

3月になり、東京周辺はまだ緊急事態宣言の中ですが、

それ以外のところでは、解除され、

感染がだいぶ治まってきたように見えます。

その結果、規制もだんだんゆるまってきました。

北海道も一部地域では時短が要請されていますが、

そのような地域への不要不急の往来は自粛となっていますが

それ以外のところでは、感染リスクを回避する行動をしながら

通常の生活に戻るようになってきています。

自粛生活が当たり前となっている間、

不要不急の行動が、以下に多かったかに気付かされました。

活動的な若い人には、自粛は厳しいでしょうが、

私には、淡々としたシンプルな生活で

十分なような気もしてきました。

これは、Withコロナの生活でしょうか。

ワクチン接種がはじまり、広く接種が行われれば、

Withoutコロナの生活が戻ってくるのでしょうか。

それとも新しい生活様式が生まれるのでしょうか。

2021年2月1日月曜日

229 はじまりを尋ねて:LUCAは身近に

「はじまり」をの探求は、興味深い話題です。ところが、深く追求していくと、推定や仮説の世界にたどり着きます。生命のはじまりも、仮説の世界になりますが、ここ数年新たな展開が生まれてきました。


 ものごとの「はじまり」については、多くの人が興味を持っていることと思います。しかし、すべてのものの「はじまり」を問いつめていくと、答えにたどり着けないものが出てくきます。例えば、自分の「はじまり」を尋ねていくと、両親、祖父母、曽祖父母、・・・・・と遡り、顔どころが名前さえしない親族へ、さらには過去帳、家系図と文字や文書だけの存在へと繋がっていくことでしょう。さらに「はじまり」と尋ねていくと、人類の「はじまり」であるヒト(分類でいうと「科」になる)となっていきます。さらに遡ると、霊長類(目)、哺乳類(網)、脊椎動物、動物(界)、真核生物(ドメイン)となります。最終的な由来を訪ねていくと、生命の起源へと繋がります。自分の「はじまり」の究極の問は、生命の「はじまり」へたどり着きます。生命の起源も、だれもが興味を持つ「はじまり」ではないでしょうか。

 生命の誕生は、地球創成の時代の出来事だと考えられています。そして、最初の生物は、小さく、単純な単細胞だったはずです。その生物の化石は、硬組織がないのと、形成環境も、確率的にも見つからないと考えなければなりません。現在、遡れている化石は、34.8億年前までは確実なのですが、あとは化学的証拠として38億年前まで遡る可能性はありますが、まだ確定していません。

 現状では、地球創成の時代、冥王代(45~40億年前)の化石探しは、地層も稀で、化石を見つけるのはなかなか困難となりそうです。化石以外で、なんらかの根拠を手がかりして調べていくことになります。どのような方法があるでしょうか。

 古い化石を探し、そこからより原始的な生物を推定する方法。現在いる生物から最も原始的なものを見つけて探る方法。その遺伝子から探る方法。生物をつくっている有機物などの素材の形成から考える方法。などいろいろなものがあります。いずれも、最初の生物を「共通祖先」として、推定していきます。

 「共通祖先」の名称として、最終共通祖先(LUCA : Last universal common ancestor)、コモノート、センアンセスター、プロゲノートなど、いろいろなものが提案されています。意味するところも、重なっていたり、異なっていたりします。ここでは、LUCAと呼ぶことにします。LUCAは、もともとはバクテリア(細菌のこと)や古細菌、真核生物が共通の祖先から進化してきたと考えた時のものですが、「共通祖先」として用います。

 LUCAなどの研究から、もっとも原始的な生物の性質として、好熱(45℃以上、時には80℃以上)の条件で生育し、遺伝子の数もDNAも小さいと考えられます。低温より高温のほうが、化学反応が活発に起こりますが、あまりにも高温だと形成される有機物が限定されていきます。

 環境としては、高温の熱水が冷たい海水(数℃)に噴き出すようような噴出孔を考えると、どんなに高温の熱水(例えば500℃)であっても、周りの海水が冷たいと、500℃から数℃までの温度の範囲をもった領域ができ、適切な条件のところが、化学合成が進めればいいわけです。広い温度範囲であれば、多様な化学合成が可能かもしれません。現在の海水の条件では、溶存成分が少なくて生命の合成はできなくても、地球初期であれば、溶存成分の多い海水も想定できます。

 また、原始の地球では、形成時のエネルギーがまだたくさん内部に蓄えられていたはずなので、現在よりもっと活発に火山活動が起こっていたと考えられます。海洋では、海嶺や火山などでは、多数の熱水噴出孔があったはずです。

 地球のエネルギーを用いた化学反応で、生物としての必要最低限の素材を利用して生物が誕生したと考えるものです。その後、当時としては、地球でもっとも安定した環境でもあった深海の海水中で、進化していったはずです。それがLUCAです。

 ここまでの考え方は、地球初期を想定した条件に斉一説に加えて、生命の「はじまり」が考えられてきました。ところが、最近、地球初期の条件を重視して、その条件に固有の環境から生物が誕生したと考える研究がでてきました。斉一説の適用より、境界条件の変更して、まったく異なった誕生の場が考えられました。

 地球初期にあったと考えられる少々特異な岩石と水との化学反応と、濃度の高いウラン鉱床の近くの熱水溜まりで、放射壊変の熱エネルギーを利用して、化学合成を考えていこうとアイディアです。

 このような新しいモデルの背景には、CPR群と呼ばれるバクテリアの仲間の実態が少し解明されてきたことがあります。2015年の報告で、これまでの方法では把握できないバクテリア系統群が大量にいることがわかってきました。

 CPR群とは、詳細がわかっていない生物ですが、遺伝子サイズが小さく、通常の生物がもつ化学合成の遺伝子を持たず、特異なタンパク質の合成をおこなっています。

 そんなことから、他の生物に依存して生きているらしいことがわかります。しかし、かなり多くの種類数に登る(15%以上)こと、他の多くのバクテリアと近縁であることから、特異な孤立した生物群ではなく、多くの生物と関連をもつことが考えられます。最近、日本にある白馬地域で、蛇紋岩地帯から湧き出ている温泉に、CPR群が伴われ、その中に「白馬OD1」と呼ばれるものが見つかっています。この生物の研究から、LUCAに近いのではないと提案されています。

 日本の白馬の温泉という卑近な場の正体不明のバクテリア群、ウラン鉱山、最初の生命という、想像を越えた連鎖から面白い仮説が展開されています。身近なところから、新しい学問体系が生まれつつあるようです。

 一方、LUCAの誕生について、一連の反応で生まれたのではなく、いくつかの生物の前段階のものの組み合わせでできたと考える仮説もあります。生物の前駆的物質に何度かのウイルス感染を通じて、LUCAができたと考える、ウイルス進化説と呼ばれるものもあります。本当に多様な仮説があります。

 さらに、疑問もあります。生物の「はじまり」が、ひとつ生命のタイプに収斂するのでしょうか。もしかすると、複数の、あるいは多数のLUCA類似のものがいて、生存競争や突然変異、共生(ウイルス感染)などを繰り返しながら生まれたかもしれません。まさに混沌とした「はじまり」ではなかったかという疑問です。それを、どう実証していくかは問題ですが。過去に起こったことで、直接の証拠が入手できない時代の話しです。


・ラニーニャ現象・

真冬日が続く北海道では、1月下旬に雨が降りました。

最も寒い時期ですので、驚かされました。

しかし、翌日にはまた真冬日になり

道路だけんでなく、あちこちが、

つるつる、ガリガリに凍りつきました。

目まぐるしく変わる天候です。

昨年夏から続いているラニーニャ現象の影響でしょうか。


・コロナ対策下での入試・

1月下旬から2月上旬にかけては

私立大学は、入試のシーズンとなります。

今年は、コロナ禍で入試もいろいろ制限を受けています。

国公立大学で、筆記試験を実施しないという

ところもいくつかでてきました。

我が大学は、ルールに則って、

コロナ対策をしながら、試験を実施します。

そのため、教室数が多くなり、

試験対策の人数も多く必要になります。

まあ、致し方ないことでしょうね。

2021年1月1日金曜日

228 不特定一人のために To the interest few

 明けましておめでとうございます。今年、最初のエッセイをお送りします。エッセイをはじめた頃の初心を振り返りました。そして、心を新たにして取り組む決意をしました。


 今年のはじめのエッセイは、"To the happy few" という言葉について考えていきます。スタンダールの小説「赤と黒」と「パルムの僧院」の作品の最後に書かれている言葉として有名です。訳すと「幸せな少数の人へ」となるでしょうか。最後に書かれているので、この本を読でくださった人が、「少数 few」かもしれませんが「幸福 happy」になれたら、という気持ちで「献辞(けんじ)」を捧げたのではないでしょうか。

 この言葉、献辞として書かれているようですが、その意味を考えていきましょう。少々不思議な書き方がされているのですが、意味深いものです。

 献辞とは、その本を特定の人に捧げるために書かれるものです。個人の名を示さなくても、ある特定の人に感謝を述べたり、捧げたりするものです。ただし、本の内容に関わった人に礼を述べるときは、「謝辞」として「序文」や「あとがき」の中で示されていくことになります。ですから、スタンダールのこの言葉は献辞となるはずです。

 この言葉は、献辞に見えるので、誰かに宛てたものになりそうなのですが、"few" という不特定で少数の人に宛てられています。この点が、少し奇異なことになります。もう一つは、献辞は、一般には本の最初に置かれるもので、最後に書かれていることも、少々奇異に見えます。

 この言葉が気になったのは、私がこの月刊エッセイ「地球のつぶやき」をはじめる時に、同じような気持ちを持っていたことを思い出したからです。

 「地球のつぶやき」をはじめる前に、スペシャル版として不定期に7回エッセイを発行した後、2002年2月から毎月1回定期発行するメールマガジンにしました。スペシャル版は、定期発行できるかどうかを試すための助走期間でもありました。

 そのスペシャル版の購読者とのメールのやり取りを通じて、メールマガジンを配信する対象がはっきりと定まりました。その時の経緯を振り返りましょう。

 2001年10月23日に発行した特別版エッセイ「special3 分類と類型」の中で、読者のKojさんとやり取りをしていたのですが、その経緯を了承を得て掲載しました(エッセイの本文はホームページに掲載されています)。Kojさんも、あるメールマガジンで、自身のエッセイを配信されていました。お互いのメールマガジンを購読していたことをきっかけに、メールで連絡を取り合うようになりました。

 その時、私は、「不特定の一人のために」エッセイを送ることを意識するようになりました。関係している部分を再録します。

(注)なお「」でくくった部分は、お互いのメールの中の文章を意味します。読みやすいように一部修正を加えています。


【以下、再録】

・不特定一人のために(Kojさんへ)・

 Kojさんの書かれるエッセイは、量も多く、なんといっても内容が硬派な感じがします。欧米の知識人が書くようなタイプの科学的文章のようです。私もそのようなものを書きたいと望んでいるのですが、なかなか難しいです。でもそのKojさんのエッセイが、定期的なものから不定期のものになりました。残念だったのですが、それを惜しみながら、メールをやり取りしました。

 Kojさんは、「小出さんがおっしゃっていたように、そのときそのときの取り組みを精一杯やっておくべきで、そこから何かが生まれて、さらに発展してゆくのだと思います。人と人とのつながりは絶対に無駄になることはないですし。」「人の心は生き物なので、変化していきますが、それにともなってネットワークも変化してゆくかもしれません。でも、つながったまま変化してゆく。ネットワークも生きていますね。生きている心やネットワークは思い通りにならないこともありますが、その分思いがけない変化をして発展してゆくかもしれませんね。それがまた面白かったりして。」とおっしゃいました。

 それに対して、私は、「そうですよね。だから、多くの人の声が、私の活動の支えとなっています。私は、一人に向けても可能限り時間をかけて説明することにします。心に感じるところがありました。」と答えました。

 このようなメール交換のあと、私は、メールマガジンを、「不特定一人のため」に出すことにしました。その結果の一つが「地球のつぶやき」でもあるのです。そして、頂いたメールに対しても、そのつもりで対応していきます。

【以上】


 これから、新しい月刊「地球のつぶやき」エッセイを、「不特定一人のため」に発行することにしました。スタンダールの言葉、"To the happy few" を使わせもらうと、"To the reading few" となるでしょうか。その意味は、「読んでいただいた少数の方へ」というものになります。でも、やはり "To the happy few" の方が、より良いですね。

 スタンダールは、この言葉を使った意図は、現在となっては想像するしかないですが、いつか探れる情報があるようです。

 スタンダールは、小説がまだ売れていない不遇の頃、友人宛てた書簡で、「今、自分が出版しようとしている『イタリア絵画史』を皇帝ナポレオンに捧げたい。しかし、それがどうしても不可能ということであれば、その代わりにこの書物の巻頭に To the happy few という言葉を置きたい」と書いているようです。

 実際のこの言葉が世に出たのは、それから10年後の「赤と黒」でした。そしてこの言葉は同じものですが、ナポレオンに捧げられたものかどうかはわかりません。もし捧げるのなら本の最初に掲載するはずなのに、本の最後に掲載されています。10年という時間の経過と、本の最後という点で、ナポレオンではなく、この本を読み終えた読者に対し、幸せや楽しいと感じた少数の読者に捧げたのだと考えたくなります。そう考えたほうが、この言葉がより輝くのではないでしょうか。少数というところには、日本的な謙譲の姿勢があるのしょうか。

 私は、科学教育の実践として、地質学の解説について週刊エッセイ「地球のささやき Earth Essay」を発行しています。それでは、わかりやすさを旨としています。ですから、「不特定一人のために To the happy few」がふさわしいもでしょう。

 この月刊エッセイ「地球のつぶやき Monolog」を発行しているのは、違う目的があります。少々長くて、そして少々難しいエッセイでは、「不特定一人のために」という対象を定めました。地質学に関連するエッセイですが、哲学的思索とその発信の意図を持って書いています。

 地質哲学という新しく難解な内容になりそうなエッセイですから、それを最後まで読んでくださった読者は少数でしょう。さらに面白いと思っくださった読者はもっと少数になるでしょう。

 ですから、このエッセイをはじめる時に持った対象となる読者へ、スタンダールに倣って、感謝の意味を込めて、今後のエッセイの最後に「不特定一人のために To the interest few」掲載していくことにします。

 年頭に初心を思い出しました。


・初心不可忘・

初心忘るべからず、という言葉は

古くから用いられているものです。

世阿弥「花鑑」の中に

「当流に万能一徳の一句あり。初心不可忘」

という言葉があります。

能の修行のために使われたものですが、

諸般に通じる戒めの言葉でしょう。

人は、長い時間が経過すると、

どうしても最初の心を忘れしまいます。

このエッセイは2001年9月から発行していますので、

今年でちょうど20年目に当たります。

その節目で、初心不可忘としましょう。


・Kojさんへ・

いつの頃からかKojさんとやり取りはしなくなました。

現在は、Kojさんの状況も掴んでいません。

以前、解説されていたサイトを探したのですが、

もう閉鎖されており、近況もわからず連絡もとれません。

ネット上の付き合いだから、連絡が続けていないと

仕方がないのかもしれません。

Kojさん、もし、このエッセイを読んでおられたら

連絡をいただければと思います。

2020年12月1日火曜日

227 仮説と演繹と斉一と

 機能と演繹という方法は、多くの科学の営みの中で、当たり前に利用されています。しかしそれらが、不完全であることを意識されていません。すべてが検証不能の仮説だったのです。


 最近、執筆している原稿の中で、地質学の学問的特徴を考えています。地質学の特徴はなんといっても、過去の素材から過去を探る、ということが一番でしょう。過去の素材とは、過去の形成されたもの(岩石や地層、化石など)のうち、いろいろなプロセスを経て、現在入手できるようになったことになります。古い時代ほど、そのプロセスは長く、そして複雑になっていきます。そのため、過去の情報が失われてきます。そのうち現在まで残ったものだけが、入手でき、研究できる素材となります。

 化石を例にしましょう。化石は、過去のある時代の生物の一部が石化したものです。生物の一部、つまり部分から全体として、その生物の生きていた時の姿(全体像)を想像していきます。その姿から、生活していた行動や営み(生態)を推定することもできるでしょう。その生態から、他の生物の関係(食料や住処など生態系)や生活の場(海陸空や寒暖などの環境)などへと、想像を巡らすことができるでしょう。

 歯の化石が一つ見つかったします。その歯を現在生きている生物と比べると、肉食動物の歯と似ていたとしましょう。化石の歯の大きさから、顎の大きさが推定でき、顎の大きさから頭部の大きさが、頭部から全身が推定できるでしょう。肉食獣であったら、その全身に見合った、餌となる大きさの草食獣がいたことになります。その草食獣の数は肉食獣よりは多かったでしょう。その大きさの草食獣が多数いたということは、それらを支える多くの植物が必要になります。サイズの異なった草食獣もはたずですから、それらが食べる多様な植物もあったはずです。当然、サイズの異なる草食獣もいたはずで、それらを専門に狙う肉食獣もいたはずです。たったひつの歯の化石から、このような類推が可能となります。

 このような類推を支えている考え方は、現在の生物、現在の生態系の知識を転用、援用しているもので、「斉一説」と呼ばれるものです。斉一説は、生物だけでなく、物理学や化学の法則を過去に適用する時に使われる考え方です。例えば、水は高いところから低いところへ流れます。水は氷点下では氷になり、水は暖かいと水蒸気になります。水が多く暖かいところでは、蒸発も盛んになり、雨もたくさん降ります。水が少ないところでは乾燥していきます。

 このような当たり前と思える法則を、過去の適用しようとするのが斉一説です。今当たり前のことは、昔も当たり前だという斉一説も、当たり前のことをいっていると思えます。

 物理学や化学の規則は、現在の検証可能な現象から帰納的に求められたものです。それを、過去にも適用してこうというの斉一説です。斉一説が正しければ、先程の歯の化石一個からの類推の正しさが保証されることになります。斉一説は本当に正しいのでしょうか。

 斉一説には落とし穴があります。それは、過去の事象への適応という一番根本の点です。「化石=過去の生物」は、だれもが「正しい」と思っているのですが、科学において、「正しさ」とは、検証されてはじめて確かなものになります。化石が過去の生物であるということを証明するためには、化石が生物であるという前提が必要になります。しかし、化石は石なので、生きていません。ですから、化石からは、生物であったことは検証はできないし、その前提がないと、現在生きている生物の比較による類推もできないことになります。

 化石の例をだして説明しましたが、過去の起こった事象は、岩石から読み取った情報から、どのようなことが起こったのかを推定することはできます。しかし、その推定が正しかったかどうかは、検証できません。なぜなら、私たちは過去に戻れないからです。これも当たり前のことですが、斉一説には適用限界があることが落とし穴になります。

 斉一説に適用限界があるのは、時間が一方向にしか進まない、不可逆なものだからです。こんな当たり前のことを、つい忘れてしまいがちです。なぜなら、物理学の法則や方程式では、時間の変数があっても、その時間をどこにおいても成り立つものが多いからでしょう。化学では可逆の反応(反応がいったりきたりできる)も多数あります。このような法則や現象では、その現象は時間において可逆であることになります。それが自然科学では多く目にする法則だからでしょう。

 しかし、長い時間の流れ、複雑なもの、大きなものという視点で見れば、時間が可逆でないことは明らかです。エネルギー(石炭、石油、天然ガスなど)も使えば劣化(二酸化炭素になる)していき、同じエネルギーを永遠に使い続けることはできません。熱力学的にはエントロピー増大の法則と呼ばれるもので、時間経過ととものエントロピーが増加し、不可逆であることがわかっています。

 ですから、地球の歴史という視点で見れば、時間変化に伴って、物理学、化学の法則が働く前提となる地球の環境や条件が異なっているため、現在の環境から考えた法則は、無条件には適用できないことも多々あるはずです。つまり斉一説も、制限付きでしか適用できないということです。

 上の例で出した肉食獣の歯の化石で用いた考え方は、斉一説でしたが、もっと広い見方をすると、現在の生物との類似を過去へと演繹したものだといえます。歯から顎、顎から頭部、頭部から全身などは、演繹を繰り返して利用していました。

 演繹法は、正しいと考えられる規則を、別のものへ適用していく方法です。演繹法から新しい法則は生まれません。一方、いくつもの事実から規則性を見出す帰納法からは、新しいアイディアを生み出せるので、創造性がある方法です。帰納されただけの法則は、集めた事実は説明できますが、他の事実に当てはまるかどうかはわかりません。検証する必要があります。検証作業が終わるまで、その法則は仮説となります。仮説が正しいかどうかは、演繹をして、検証していく必要があります。この帰納と演繹で科学は進んでいきます。

 しかし演繹の検証過程に、時間の不可逆性が入ることで、検証不能になります。さらに現在の仮説においても、検証は自然界のすべてに対しておこなうべきですが、それは不可能です。ですから自然科学の仮説には、常に反証の出てくる可能性があります。自然界では帰納法に限界があるということになります。

 上の述べた化石からの類推は、限られた事実から仮説を立てて、その仮定を新たな事実へ演繹して検証しようとする方法なので、「仮説演繹法」と呼ばれ、アブダクション(abduction)と呼ばれることもあります。実は、自然科学の法則は演繹の適用限界があるため、完全な検証ができないため、すべれ仮説となります。ですから自然界の法則はすべて仮説で、科学の営みでは仮説演繹法が使われていることになります。

 完全な検証はできないのですが、少ない事実から仮説を立て、その仮説を演繹することで正しさを増すというものです。その中に斉一説も含まれています。仮説演繹法とは、多くの人が無意識に利用しているものでもあります。危険ですが、利用価値のあるものです。


・不確かさ・

多くの自然科学の法則の背景に、

帰納と演繹、仮説演繹法、斉一説があります。

それを考えると自然科学の不確かさがわかります。

でも、科学は留まることはないので

日夜、仮説が生まれ、演繹が繰り返されています。

そして、科学や技術は進歩しています。

科学する人は、この不確かさ、危うさを

常に意識しておく必要があるでしょうね。


・コロナが近くにいる・

11月は寒い日も温かい日もあり、

その差が大きかったような気がします。

着実に冬が来ています。

通常の風邪やインフルエンザの流行もはじまりそうです。

そして、新型コロナウイルスの感染者数が

わが町でも増加しています。

町には4つの大学がありますが、

多くの大学で学生の感染者の報告が増えてきています。

我が大学では、遠隔授業に切り替えましたので、

学生と教職員との接点がなくなりました。

学内での感染は押さえられているはずです。

しかし、どこかに漏れがあるかもしれませんので、

感染が広がらないことを願うしかありません。