2022年3月1日火曜日

242 守破離はできたのか

 ものごとを身につける方法として、守破離という考え方が日本ではあります。長年、従事し実践していくことで、はじめて守破離が有効になります。長年、地質学に携わってきたのですが、どのような守破離があったのでしょうか。


 日本では体系化されたものを、修行しながら身につけるとき、「守破離」という考え方があります。研究履歴を守破離に沿って紹介していきましょう。
【守】
 大学で地質学を志したのは、偶然に左右されていました。大学に入って2年間ほど、ひとりで近隣の低山を日帰りでのんびりと歩いていました。北海道の自然に浸ることを好きでした。大学での専攻は、教養部の成績によって決められていました。勉強をしなかったので成績は悪く、なかなか希望のところへはいけそうもありませんでした。唯一、山や野外へ出ていける専攻として地質学があったので希望しました。幸い最下位でしたが、潜り込むことができました。
 地質学は、高校の地学のいち分野にすぎませんでした、天文学や海洋学には興味があったのですが、地質学には興味はありませんでした。専攻として学んでいくので、最下位ですので、専門分野の講義を熱心に聞くことからはじめて、教科書などでも勉強もしました。最初はチンプンカンプンであった地質学も、専門語の意味もわかり、語彙も増えてくると、地質学の面白さがわかるようになってきました。
 なにより大好きな野外調査の実習や、自主的な野外見学会(巡検といいます)に参加することができました。そこで、知識と体験が結びついてきました。教科書で学んだことが、自然界で適用される場面だけでなく、教科書通りでないことも多々あることも知りました。大学院の先輩や先生たちが、露頭を前に、専門的なテーマで議論しているところを見て、非常に刺激を受けました。露頭と先端の研究が結びつくことが面白かったのです。
 そんな座学での知識体系と野外の実体験を経て、研究テーマとして卒業論文や修士論文、博士論文を作成してきました。その間、地質学を研究していく基本的スキルを身につけました。また、ポスドクとして研究費の支給を受けながら研究を継続して、研究者の道に入りました。
【破】
 ポスドクを経て、職業に就いたのが博物館の学芸員でした。博物館では地質学の担当となりましたが、研究だけでなく市民への教育も業務に含まれていました。それまで、学部の専攻も入れると、12年という長い年月を地質学に従事し、研究者となりつつあったのですが、市民教育には全く注意を払ってきましせんでした。それなりの研究歴や研究実績はあったのに、市民へ専門的知識を伝えることがうまくできないということにショックを受けました。
 そこで、地質学を市民に伝える方法を、これまでの方法にこだわることなく、自身が試行錯誤しながら、新しい方法論を開発していくことにしました。博物館の他の学芸員とも協同して、地質学や教育に興味を持っているいろいろ階層の人たちや、私たちの活動の共感していただいと人たちと協同することができました。小中学校の教員、不登校学級の教員、障害者、役所の防災関係者、プロバイダーなどのICT技術者、デザイナーの人など、さまざまな人と連携しました。子どもから大人まで、「いつでも、どこでも、だれでも、いくらでも」学べるという方法論を模索していきました。その成果は、博物館活動へと反映できました。
 博物館で、科学教育の重要性を学びつつ、私自身は地質学を専門として、それを教育にどう結びつけていくかについても、同等に興味を持つようになりました。その後、興味は、地質学と地学教育を一人の研究者が連携しながら進めていくことに移っていきます。広い意味では自然科学と科学教育(自然史学教育)、科学と教育を進められる研究者を目指すということになりました。
 科学と教育を進めていくうちに、それだけでは足りないと思うようになりました。博物館では教育が業務の重要な一環で、興味もあったのですが、もうひとつの展開をするには、考える時間や試行錯誤する自由が不足していると考えるようになりました。
【離】
 そして、現在の大学に職を移しました。人文・社会系の大学で、教養科目として地学を担当するという立場でした。理想のポストでした。なぜなら不足していたことを学び、考え、実践できる条件ができたためです。
 私がもっていた理想の研究者像とは、ひとりで科学、教育、そしてそれらを実施するための哲学をもった人物でした。教育の対象は市民です。広く科学教育です。興味は科学(地質学)、科学教育(地学教育)、そして科学哲学(地質哲学)を総合的に実施できるように努力しています。
 転職当初、専門の地質学を置かれたポストでどう進めていくかを考えました。地質学において、野外調査で露頭をみることは、最も重要な行為だと考えていました。しかし、専門を以前のように進めるには、条件もなく、何より興味も薄れていました。野外調査を通じて地質学の本質的概念というのは自然科学の中でも、固有であり、重要だと考え、それを地質学のテーマとすることにしました。地質学の本質を見つけ考え、その考えを検証するために野外調査をすることにしました。
 科学教育は、自然史素材を利用していくこともいろいろ試みましたが、なかなかうまくいかなったのですが、ICTの利用に関してはいろいろ試みができ、教育に活かす方法論を進めることができました。現在、大学の改組により、教員養成の学科に在籍していますが、それも今までの経歴によるものでした。
 現在、地質哲学を展開しているのですが、これがなかなか難しいのですが、現在だんだんと形作られつつあります。地質学の本質的概念、例えば、過去の時間の記録様式、過去のできごとをどう検証していくのか、時間の不可逆性の中で信頼性をどう高めていくのか、過去へ思考法としてアブダクションや数学的概念の導入など、このエッセイで紹介してきたものをいろいろ試みてきました。
 それらを「地質学の学際化プロジェクト」として成果を毎年まとめていくことできるようになってきました。現在6巻まで進んできましたが、あと数巻になりそうです。

 以上、「守破離」の例として、研究の履歴を紹介してきました。理解できなかったことと思います。守破離の意味を紹介しておきましょう。「守」とは、基礎を身につけるために教えを守ることです。「破」とは、自身の従事している教えにこだわることなく、いろいろな考え方を取り入れて発展させていく段階です。「離」とは、教えなどすべてのものから離れて、独自の世界や新しい考えを確立する段階です。
 さてさて、研究の履歴と守破離に位置づけて述べてきましたが、本当に達成できているのでしょうかね。

・三寒四温・
温かい日が訪れてきました。
三寒四温のはじまりでしょうか。
本来なら春の訪れを喜ぶべきでしょうが、
今年はそうもいかないようです。
豪雪続きのあと、まだ排雪が間に合わない状況の中
温かい日が来ると、雪解けで道が
泥沼ののような状態になりそうです。
例年よりひどい状態になりそうで、
少々心配です。

・入試と卒業と・
大学入試の多くが終わりましたが、
ただ、別日程の入試も、これからもおこなわれます。
COVID-19の感染に対する入試上の配慮も
いろいろとあるはずです。
今年の大学入試の状況は、
複雑な状況になっています。
3月は、卒業のシーズンです。
今年は学位授与式だけはおこなわれますが
式典だけで、謝恩会や祝う会など
宴席はありません。
いつになったら平常に戻るのでしょうかね。

2022年2月1日火曜日

241 地質哲学:メタと哲学と

 地質学に関する哲学として地質哲学が考えられます。また、大局的に考えるメタ的方法はすべての対象に適用できるので、メタ地質学も用語としてできます。両者は同じなのでしょうか。それとも違っているのでしょうか。


 「メタ」という概念があります。「メタ」とは、その後につく語句自体を対象としたり、もう一つ上の階層から考えていくことになります。「メタ地質学」とは、地質学とはどんな学問なのか、他の自然科学とはどこが同じで、何が違うのか、など、地質学をより大局的に迫ることです。あるいは、より高次、より上の階層からみることを意味します。ある概念をその概念に適用するような場合です。ある物事を大局的に考えるとき、その物事例えば、論理学という学問をひとつの概念としてとらえ、その論理学全体を論理学的に考えていくことになる。そのような論理学を「メタ論理学」ということになります。「メタ」的な見方は、その概念、体系、学問をより俯瞰的に考えるために重要な視点となります。
 現在、私は、地質哲学に取り組んでいることを、何度が述べてきました。そもそも地質学に関する哲学的なアプローチがあることを知ったのは、3人の先達の存在でした。いずれも直接合うことはなく、著書を通じての薫陶を受けました。
 ひとつは、井尻正二の「科学論」(古生物学論, 1949より改訂)でした。哲学が自然科学の考え方に影響を与えられることを知りました。井尻氏の一連の哲学的思索は、ヘーゲルが中心になっていることに少々疑問を感じました。
 もうひとつは都城秋穂「科学革命とは何か」(1998)でした。「地質学の巨人」都城氏が、科学哲学の方法論を整理し、モデル化できる物理学とは地質学は異なっていること、地質学は複雑で検証できないので傾向的法則になるということを指摘しました。地質学の学問的特徴を、このように哲学するというメタ的取り組みがあることを知りました。
 そして3人目が、ステファンJグールドでした。グールドの一連の地質エッセイでの思索の深さ、一次資料への執念、教養のすごさを知りました。そしてその教養を受けいられる欧米人の知的レベルの高さにも圧倒されました。グールド最後の大作「The Structure of Evolutionary Theory」(2002)は入手していたのですが、英語での壁もあるのですが、圧倒的な物量で読めていませんでした。しかし、最近翻訳され「進化理論の構造 I ダーウィン以前から現代総合説まで」と「進化理論の構造 II 断続平衡説と大進化理論」(2021)として出版されました。翻訳のおかげで読める状況になったのですが、その分厚さにただ圧倒されてまだ読めずにいます。
 このような3名の地質学の巨人の影響を受けて、地質哲学を目指しています。
 「地質哲学」を用いた研究は学術論文検索サイトで検索してみたのですが、科学史的なものはいくつか見つかるのですが、哲学的思索は見つかりません。少なくとも日本では、地質哲学に学術的に取り組んでいる報告はあまりなさそうです。
 では、地質哲学とはどのようなものでしょうか。それを考える前に、まず、哲学と科学の関係について見ておきましょう。
 自然に関する深い思索は自然哲学と呼ばれ、古くは古代ギリシアからはじまっています。古代から中世にかけては、主に哲学者が自然に関して考えていました。近世になるとルネサンス(15世紀)にはダ・ヴィンチやコペルニクスが出てきて、近世の後半(16世紀)になるとガリレオやケプラー、ニュートンなど物理学(天文学)が科学として出現し、17世紀にはパスカル、ホイヘンス、ボイル、ドルトンが化学を、ハーヴェーやレーウェンフックが生物学をはじめます。同じ頃、ベーコンが帰納法をデカルトが演繹法を唱え、科学的方法論が生まれます。しかし、彼らはすべて自然哲学者と呼ばれていました。
 なぜなら科学者という言葉がなかったためです。ヒューウェルが1834年に科学者(scientist)という造語をつくるまでは、自然に関する科学的営みは、哲学的営みの一貫とされ自然哲学者がおこなっていることになっていました。デカルトは太陽系の形成を宇宙論として、光学や気象学を論じています。またパスカルは「パンセ」などで哲学的な思索をしていました。
 同じ人がするしないは問わず、科学と哲学は一連の営み、近接したものであったのです。しかし、現在では区分され、携わる人も分科してきました。科学と哲学が別々に営まれるようになって、200年も経っていないのです。
 科学と哲学を合わせて考えるために、科学哲学というものがあります。当然、個々の科学分野で、物理哲学、化学哲学、生物哲学がありますが、最初に述べた地質哲学はありません。
 では、科学哲学とは、どのようなものでしょうか。それは、科学(物理、化学、生物など)という学問を対象とする哲学的思索です。その内容は、科学の本質、科学の限界、科学的方法に関する思索、あるいは哲学的観点の違い(還元主義、構造主義、構成主義、実証主義、論理実証主義など)で論じるものなど、さまざまなものがあります。地質学に関するものはありません。
 地質学は基礎科学(数学、論理学)と手段として物理学、化学、生物学を用いる総合的、学際的な体系になります。しかし、哲学的思索が不要なのでしょうか。地球環境、地球と人の関係、宇宙における人類の存在、などを考える時、地質学は必要な学問になるはずです。そこには哲学的思索も含まれています。ですから、地質哲学は必要なはずです。
 しかし、私が目指しているのは、地質学がもっている本質的ですが、地質学固有の視座、例えば、過去の時間や過去の記録となにか。地球に流れる時間の不可逆性について。地質学の扱う時間には再現性があるのか。化石から生命活動を読み取るとはどういうことなのか。異常な現象(火山噴火、大洪水、大絶滅など)のみが記録され、日常は記録されない。そんな地質学的記録から、過去の本質を読み取っているのだろうか。化石が過去の生物と証明できるだろうか。こられは、地質学で科学的方法を用いて進める上で、地質学者を常に悩ませている課題です。それらの課題に哲学的思索を進めていけば、地質哲学になっていくではないだろうかと考えています。
 最初に述べた「メタ」という用語から、「メタ地質学」という言葉ができました。では、地質哲学=メタ地質学でしょうか。
 私は違っていると思います。地質哲学は、上で述べたように、地質学という学問において、固有の基本的概念、本質的な属性を抽出して、深く考えていくことだと思います。メタ地質学には地質哲学の内容も含んでいいのですが、外側や上位階層から見ることが主眼になっており、地質学の学問としての本質を探求してるわけではないように見えます。つまり目指す方向性が異なっていると思えます。だから、私は地質哲学を目指します。

・進化理論の構造・
グールドの「進化理論の構造」の翻訳が
昨年11月に出版されていましたが。
12月まで知りませんでした。
これで日本語で読めると早速注文しました。
ところが、その分厚さは圧倒的でした。
読む前に写真に取ってしまいました。
英語版と比べてみたのですが、
文字のサイズもあるのでしょうが、
日本語版のほうが厚くなっていました。
紙版しかないのですが、
できればデジタル版があればいいのですが、
まで出ていないようです。
もしかするとこれまで私が考えてきた思索が
この本の中にすでに書かれているかもしれません。
少しずつでもいいので読んでいきましょうか。

・除雪と排雪・
大雪で道が狭く、あちこちで車が埋もれる
トラブルが頻出していました。
しかし、先週末、わが地区ではやっと除雪が入ました。
道路の轍と雪のぬかるみが解消されました。
これで、安心して車を出すことができます。
地区によってはまだのところもあります。
狭い道に入り込んだら、先の状況も不明で、
戻ることもままならないところも
まだ残されていそうです。
排雪がはじまってきたので
後しばらくすれば、安心できるのですが。

2022年1月1日土曜日

240 first half billionと劫

 明けましておめでとうございます。今年こそは、いい年になりますよう願っています。まずは縁起のいい寿限無を取り上げ、それと関連した今後の研究テーマを紹介しながら、今年はじめのエッセイとします。



 年のはじめなので、縁起のいい話からはじめましょう。落語の「寿限無」があります。子どもが生まれた夫婦が、縁起のいい名前をつけたいというので、和尚さん(あるいはご隠居さん)にいろいろと縁起のいい言葉を聞いていきます。寿限無の次に「五刧擦り切れ」という言葉がでてきます。「五刧擦り切れ」るまで、幸せにという意味です。ただし、落語では、候補をすべてを名前にしてしまいます。
 さて、この「劫(こう)」ですが、古代のインドのサンスクリットのカルパ(kalpa)の漢訳だそうです。長い時間を意味しているのですが、その長さはいろいろな比喩があります。落語でも、いくつかの説明があるのですが、一般的なものを紹介しましょう。
 天人(天上界に住む超自然的な存在)が3000年(100年というものもある)に一度下界に下りてきて、岩を衣の袖で撫でます。岩が擦り切れてなくなるのを「一劫」とする時間のことです。長い時間であることがわかるのですが、どれくらいに時間でしょうか。調べるといろいろな解釈の時間がでてきます。
 ヒンドゥー教の考え方で示すと、1劫は、1000マハーユガというものになるそうです。1マハーユガ(mahayuga)は、神々の1万2000年に当たります。神々の1年は、私たちの360年に相当します。これを用いて計算すると、1マハーユガは4ユガ(yuga)にあたり、4つのユガはばらばらの長さで、1ユガは神々の1万2000年分にあります。神々の1年=360年(太陽暦の年)です。ですから、
  1劫=1000x12000x360年=43億2000万年
と計算されます。多くの資料ではこの計算結果が示されています。
 五刧擦り切れは、その5倍ですから、216億年になります。五劫は、あまりにも長い時代です。しかし、3劫は129.6億年です。これは宇宙の誕生の137.98 ± 0.37億年前に近い値となります。宇宙は、太陽系の3世代分の時代を過ごしているようです。
 1劫は、地質学に携わっているものには、いろいろ興味を沸かされる時間、年代となります。地球最古の物質の年代に近いからです。地球最古の時代は、冥王代(めいおうだい)と呼ばれ、40億年前から地球の誕生までです。その時代に、地球最初の出来事がいろいろ起こっています。
 現在のとろこ、最古の岩石は40.3億年前のもので、最古の鉱物は43.74億年前のものです。43.74億年前までは、断片的ですが、岩石や鉱物などの物質としての証拠がある時代となります。それ以前は、地球の物質としての証拠がない時代となります。
 地球の材料となった隕石が現在も存在し、地球に落ちてくることがあります。その隕石を調べると、45.50億年前ころの年代にそろっていますので、地球や火星の誕もその頃にできたと考えらます。
 さらに隕石の中の構成物でも年代を調べていくと、衝突による変成作用が見つかり、そこから「原始惑星」は45.58万年前にできたと推定されています。太陽系形成初期にあった微惑星の内部の核を形成していたと考えられる鉄隕石を調べていくと、熱変性が起こっており、そこから微惑星形成の時期は45.63億年前になりそうです。隕石の中でも最初に固化してきたのはCAIと呼ばれる鉱物の混合物なのですが、それは45.66億年前になる推定されています。さらに太陽系誕生の場の分子雲は45.70億年前となりそうです。
 以上、隕石から探ってきた太陽系形成のシナリオから、45.70億年前から45.50億年前までは、隕石の中に証拠がみつかりそうです。最古の鉱物の43.74億年前以降は地球に証拠となる物質があります。ですから、45.50億年前から43.74億年前の1億7600万年の期間は、証拠のない時代となりまが、最古の岩石の40.3億年前から、かろうじて証拠ある時代45.70億年前までの5億4000万年前が、地球のもっとも変動の激しい誕生の時期だといえます。
 今後の数年間の研究テーマを「first half billion of the Earth」というものに設定しようと考えています。billionは10億年のことなので、half billionは5億年のことです。「first half billion of the Earth」は「地球のはじまりの5億年」のことになります。先程述べてきた誕生のための変動の5億年間を、今後の研究テーマにしていこうと考えています。
 最初の5億年には、地球の誕生の場や条件、素材が定まります。そして、それらを反映した個性をもった、地球の誕生の物語がはじまります。誕生の激動の中で、マグマの海ができ、地球の表層で最初の固体となった大地ができます。その後、大気や海など地球の固有の特徴も明瞭になります。激動の時期が落ち着いてくると、地球の表層環境も整っていきます。その中で生命の誕生の物語もはじまります。そんな地球のはじまりの物語を地質学的にまとめていこうと考えています。
 実は、このテーマには、博物館にいるときに取り組んだことがありました。それから20年、地質学だけでなく、天文学、惑星科学も進んできました。その進歩を加えて、再度、地球最初の5億年を考えていこうとしてます。想定している時代は、冥王代の証拠が少なくなる40億年前から、地球や太陽系の形成がはじまった45.7億年前あたりまでを意味しています。
 現在から1劫前、43億2000万年前は、地球形成後の重要な期間です。地球に証拠がなくなる時代です。あったとしても限られた証拠、間接的な証拠やモデル、シミュレーションなどから推定していくことになります。わからない時代です。でも、だからこそ面白いそうです。

・新年・
今年こそは、新型コロナウイルスに
「打ち勝った」年になればと思います。
そんな気持ちとは裏腹に、オミクロン株が
国内でも感染も広がってきました。
全国的に3回目のワクチン接種が始まりそうです。
しかし、8ヶ月たってからですので、
もしかするとオミクロン株の感染爆発が
終わってからかもしれません。
効果はどれくらいかわかりませんが、
安心のためにも早く接種ができればいいのですが。

・サバティカル・
現在の大学の退職まで、3年3ヶ月となりました。
その間にすべきことを考え、
どのように達成していくかの計画を立ています。
その中で2023年度前期に研究休暇(サバティカル)があります。
サバティカルは非常に重要になりますが、
その不在の期間の講義調整を考えています。
2022年度から講義なども変動があります。
それも含めて研究計画を立てています。
その間、ここで紹介した研究テーマを
大学での最後の仕事として進めていくことにしました。

2021年12月1日水曜日

239 地声人語:大地の声を聞け

 地質学とは、大地の岩石を調べていきます。岩石は物言わぬ存在です。しかし、聞き耳を立てれば、いろいろな声が聞こえてきます。地質学という耳は、日夜、聞く範囲を拡大しているのですが・・・。


 地質学を専門としているのですが、研究テーマは地質学の概念や本質的な属性を深く考えることにしています。地質学のプロパーな研究テーマとはかなり異なっています。
 野外調査を、年に何度も実施しています。野外調査の通常のものではなく、地質学で典型とされる露頭を中心に見ています。典型的な露頭を観察することで、地質学の概念や本質について考えるきっかけにしています。そのため、重要と考えている露頭には、何度でも足を運びます。
 大学に来て20年近くになりますが、この研究スタイルでの野外調査が定着してきました。日本各地で、露頭を探し出しては、その前で五感で岩石を接し、感じながら、いろいろなことを考えています。
 地質学の一般的な研究手法は、露頭を調べことからはじまり、岩石を採取して、実験室でさらに詳しく分析、計測などして特徴を調べて、地質学的情報を引き出していきます。露頭や試料から得た地質学的情報は、客観的根拠、検証可能性と再現性を持っているものになります。
 地質学は、岩石、つまり大地を研究対象にしています。大地の素材としては、岩石や鉱物、地層、化石などを固体物質が中心になります。
 時には、液体を対象として、地層の形成状況から、海洋の起源や変遷や堆積盆、湖沼、河川などの復元することがあります。気体の反映として、堆積物の特徴(酸化、還元など)から大気の特徴を捉えその変遷を考えたり、火山噴火に伴うガスや揮発成分の関与を調べることもあります。さらに、生物の痕跡として化石を扱い、そこから生物個体だけでなく、過去の生態系や古環境を推定していきます。
 地質学は、固体が中心でしたが、それ以外液体、気体、生物へと、対象を広げてきました。
 地質学者が野外で調査して素材を入手していくので、対象は、地球表層の物質になります。ところが、岩石には、地殻内部や、マントルからマグマを経由して噴出することもあります。深部からもたらされた岩石によって、地球内部の情報もえることも可能となっています。
 地質学の対象は、地表の2次元から地下へと伸びる3次元へと広がりを持っています。
 現在、存在している素材を用いていますが、素材の年代測定ができれば、岩石が形成された過去を復元して、地球の歴史を編むことがきるます。時間軸で過去に、4次元的に拡張できるようになっています。
 以上みてきたように、地質学は、身近な岩石から、地球内部へと3次元的、過去へと4次元的に拡大してきました。
 地質学者は、拡大された時空間にある大地の声を聴きとり、人の言葉へと変換していくことになります。深くなればなるほど、大地のつぶやきは聞こえにくくなります。古くなればなるほど、大地のささやきは小さくなります。しかし、技術の進歩、地質学の体系化が進むと、そのような小さな大地の声を聞きとれるようになってきました。これは、「地声人語」と表現できるのではないでしょうか。
 今後、地質学者の地声人語の役割も、ますます重要になってきてます。なぜなら、地質学の対象は、いまや地球に留まらないからです。
 月や小惑星のイトカワやリュウグウから岩石試料が入手できています。隕石もその母天体である小惑星を調べるための重要な素材となっています。実物さえ入手できれば、地質学的手法(岩石学、鉱物学、地球化学、年代学などの分野)を用いることができ、地質学的解釈も適用できます。岩石の声を聞き、言葉にするのは、地質学の出番となります。
 実物試料が入手できない場合でも、探査機が着陸した火星などでは、現場での観測や分析が実施され、客観性のあるデータがえられています。そのデータの解釈には、地質学の知見は不可欠でしょう。また、火星から由来した隕石も見つかっているので、探査データと付き合わせることで、火星も地質学的な検証の圏内になってきました。
 惑星探査として、太陽系内の天体も各種の観測が進められてきました。固体表面をもった天体で、表層地形が、探査機の精細な画像によってえられています。地形の成因や形成過程において、地質学的体系は重要な働きをしています。地質学の適用は、太陽系の地球外の惑星や衛星、小天体、彗星などにも広がっています。3次元の広がりも、地下だけでなく天空方向へと伸びています。
 近年、太陽系より外の恒星の周りで見つかってきた、系外惑星が多数あります。太陽系しか知らない地球人にとって、異形といえる惑星が多数発見されてきました。しかし、異形な惑星であっても、惑星系形成に関しては、地質学が応用されていくはずです。
 惑星探査や天文学的観測などとともに、地質学も宇宙に向けて適用範囲を広げていきます。対象が天空に向かっていくと、地質学は「天声人語」となってきそうです。
 どんなに地質学の裾野が、地球を飛び出し、太陽系の天体、太陽系外惑星に広がっていったとしても、足元の自然の理解が、地質学の基礎となっています。地質学にとって、足元の大地の理解は、露頭を地質調査することからはじまります。地質調査の重要性は、地質学者なら充分認識しているはずです。地質学者は、必要となれば天声人語の果たせますが、地声人語の姿勢は、常にもっている必要がありますね。

・冬到来・
我が家の車は、10月の遠出のときに
早々に冬タイヤにしています。
10月末にでかけたとき、峠で雪に見舞われ、
11月中旬にも、峠で雪になりました。
ドカ雪も降った地域もあり、
冷え込みあり冬らしくなってきましたが、
里は、ではなかなか雪が降りませんでした。
11月下旬になって、わが町にも、連日の積雪があり
少々遅めの初雪となりました。
12月には、本格的に雪の季節になります。
根雪の時期は今年はどうでしょうか。

・天声人語・
天声人語は、朝日新聞のコラムのタイトルで有名です。
「天に声あり、人をして語らしむ」
という中国の古典とされているそうですが
その由来を、何人かが調べているのですが、
どうも定かではないようです。
この意味や解釈はいろいろできるでしょうが、
なかなかいい言葉です。
「地声人語」は、「天声人語」を借りた
地質学者の立ち位置に転用した造語です。
これも、いい用語に思えるのですが、
自画自賛でしょうか。

2021年11月1日月曜日

238 利と実利の間にて

 利とは、いつかどこかで益があるかもしれないものです。実利とは、今すぐ、直接的な益があることです。日常生活では、まずは実利を求めてしまいます。利も重要であるとは、理解しているはずなのですが・・・。



 自然を対象に研究するのが自然科学です。より基本的な物質やエネルギー、運動、変化、反応などの原理を考えていくのが、化学と物理学です。もっと基本的な原理を考えていくのが、数学や論理学などです。それらの方法論を適用して、地球自体や地層、岩石、鉱物、化石などを対象にするが地質学です。生き物を対象にするのが生物学です。人そのものを対象にするのが人文科学で、人を集合してい考えていくのが社会科学でしょうか。それぞれは、いろいろに細分され、単純に区分できない学際的な分野もあります。
 人文科学は、多くの人が興味もあり、理解できます。社会に関してもそれなり関心もあります。人も社会も関係が複雑で、因果関係もいろいろな原理、法則、規則も示されています。それらの規則が完全に正しいかどうか、本当に検証されるのかなどは、なかなか評価が難しいようですが、重要性は理解されています。それぞれの学問分野には、それぞれの特徴があります。
 学問的な成果を、実際の場面で運用するのは、自然科学では科学技術へと応用を考えていけば「実利」が生まれていきます。しかし、すべての科学的成果が実用性のある「実利」になるとは限りません。では、「実利」のない学問は不要でしょうか。
 文学、音楽、絵画などは、人の営みとは直結しませんが、生活や人生に潤いを与えるような「利」があります。人に関する学問では、現象の裏にある規則性、人の心の奥にある機微、根本的なことに関する深い思索など、「実利」はないですが、人の好奇心を満たし、悩みなど解決してくれるという「利」があります。社会科学でも似たような「利」もあるはずです。
 自然科学や純粋な学問領域でも、人類の基礎的な知的資産として「利」があるはずです。それは理解されているはずです。ですから、その成果を生み出すために努力している人たちを理解し、その活動を見守るべきではないでしょうか。同時代を生きる人は、彼ら彼女らの努力や成果を尊重し、可能な範囲での助力や支援をしていくべきでしょう。少なくとも、それを妨げるようなことはすべきではないでしょう。
 大きな装置や莫大な予算を使って研究する人に向かって、その結果はどのように利用できますか、どんな何に役立ちますかと、多くの人、特にメディアが「実利」を聞きます。税金を使ったのだから、当然国民に「実利」を還元しなければならない、という論調での質問です。
 一方、研究者も、多くの税金を使っている研究が、基礎学問であるときは、社会への「実利」の還元に直結しないので、「利」を返答するのですが、どうも力がこもっていきません。そこにメディアは、暗黙にそのような研究に予算を使うのはどうなのか、生活に直結するような「実利」に、もっと予算を使って欲しい、と思えるような質問をしていくのではないでしょうか。
 同じような質問を、例えば芥川賞や直木賞を受賞した作家に、世界的に著名な画家に、その作品は人の生活や社会にどのように役立ちますか、などという質問はしないでしょう。ノーベル賞をとった人の業績は、難しくても「利」として理解しようとしていきます。
 社会学者の多くのコメントを、メディアは流しています。学識経験者の発言の「利」を理解しているため、報道しているのでしょう。その影響や結果を、メディアはあまり評価をしませんが・・・。
 このような事態は、科学、特に自然科学への理解が足りないせいかもしれません。スノーのいう「二つの科学」の乖離のためでしょう。いわゆる理系と文系という区分があるためでしょうか。文系の人は、理系の内容が理解できない、しようとしない。逆に、理系の人は、文系の内容を知らない。そして、両者の間には、大きな溝があるということです。このような乖離は、ある分野の人は、別の分野の重要性を理解できず、「実利」のみで判断してしまうことになりかねません。
 理系や文系の世界で長く暮らすと、理系の人も文系の考え方になります。文系の方でも理系の考え方になるはずです。学び、親しんでいけば、その考え方ができるはずです。ただし、他分野のことを教養して身につける余裕はなさそうです。ですから、理解が深まらないのは、致し方ないのかもしれません。
 でも、芸術をすべての人が許容しているのは、その「利」を理解しているからでしょう。同様に知らない分野であっても、「利」を理解しよう、報道しようという姿勢が重要なのでしょう。しかしメディアの人も、「実利」を中心に長く報道し、その「実利」の中で長く過ごしたり、「実利」中心の見方になるのではないでしょうか。「実利」ばかりを読まされると、人々も「実利」で判断をしていくのでしょう。政治家も科学の軽視、無理解は、「実利」優先に頭が向いていることの現れかもしれません。
 「実利」を求めすぎるのは、教養以前の姿勢の問題ではないでしょうか。実社会では、「実利」が重要なのは言を待ちません。現在のような不景気な社会では、「実利」が重要なキーワードになるでしょう。「実利」がえられれば、それがどのような経過をたどっていいのかもしれません。しかし、「実利」の裏にあるものを見過ごすのは問題です。「実利」の裏に、不誠実なもの、非合法なものがあれば批判されるべきでしょう。それは人の権力や肩書、地位に関係なく批判されるべきでしょう。これも、教養以前のその道の専門家、職業人としての任務でしょう。
 強いものには腰が引けて、弱いものには不躾な、強行な態度になるのは、明らかにアンフェアではないでしょうか。政治家の公約や発言は、社会に「実害」を与えています。強者であっても、そのウソや間違いをもっと徹底的に追求しなければならないはずです。発言力のある立場の人には、もう少し頑張っていただきたいものです。市民も、「実利」ばかりを見ずに、「利」の重要性も理解していくべきでしょうね。

・国民の審判・
10/31に国政選挙が実施されました。
このエッセイは、10月下旬に書いています。
投票日には、調査中ですので、期日前投票をしました。
結果がわからない状態で、書いて配信しています。
本文では一部、政治批判、
メディア批判めいた発言となっています。
これは多くの人が、感じていることのはずです。
もしかすると、メディア内部にいる人も
同じことを感じている人もいることでしょう。
現状をなんとかしなければなりません。
これも多くの人が感じているはずです。
これに対する返答が、選挙のはずです。
配信は選挙前ですので、国民の審判は不明です。

・違いを感じる・
10/29から11/1まで調査に出ます。
この調査は、今年最後のもので、道南へいきます。
いくつかの地域を巡っていきます。
何度もいっているところも多いです。
露頭も似たところをみることになります。
同じ露頭であっても、
見る側の気持ちが変わると
違ってみえます。
その違いを感じることが
私の野外調査では重要だと考えています。

2021年10月1日金曜日

237 虚と実と間で:岩石の合成実験

 かつては、虚と実は、悩むことはなく明瞭なものでした。デジタル化が進んでくると、虚と実の境界が曖昧になってきました。大学の遠隔授業でも、虚実の境界が曖昧になっていることが気になっていることから、考えました。


 「虚業」という言葉があります。投機的なビジネスや堅実でない事業、あるいは実態のないものの売買、実態があっても書類上の操作で利益をえる事業など、あまりいい意味では使われていません。しかし、現代社会では、多くの処理がコンピュータを用いて進められています。
 例えば、買い物も、インターネットで実物をみることなく注文し、現金を使うことなく電子マネーやクレジットカードなどで決済し、人と顔を合わせることなく、実物が手に入ることで完了します。最後の実物を手にする以外は、すべてデジタルの状態で進行します。この流れは、虚の世界での動いているようです。実の部分は、商品を作っているところ、商品を運搬するところ、買った人が商品を手にするところだけで、あとは見えない虚となります。最近の売買の多くは、虚が、多かれ少なかれ介在するようになってきました。
 虚業の反対が「実業」で、その意味は「農業、工業、商業、水産などのような生産、製作、販売などをする事業」などと書かれています。昔は、この説明でよかったのでしょうが、現在では、虚業か実業か、どちらに区分すればいいのか、迷ってしまうものもあります。
 現代社会では、情報とサービスだけで完結する業種も多くなり、重要性も大きくなってきました。GAFAのうち、GoogleやFaceBookは、情報操作で莫大な収入をえている企業です。利用者は、無料で情報をやり取りができて、大きな恩恵を受けています。利用者の無料の恩恵である情報検索や情報発信の行為が、効率的な宣伝をおこなうのに重要な情報となるため、それを欲する企業に提供することで利益を得られるというビジネスモデルです。類似のビジネスが多くなってきました。このようなサービス業は、虚業に見えます。
 接客や営業のようにサービスが、直接、人へとなされていれば、商業活動の一端となり、実業と呼べそうです。教育も、人を育てるというサービス業といえます。しかし教育でも、通信教育ではデジタルですべて進行し、教材と課題、添削という手順で完結するようなものでは、虚の部分が多くなってきます。
 教育の基本は、扱っているものは、情報が中心で、学ぶ手段として道具や人的交流があります。道具や人的交流がなくても、教育は学ぶという目的さえ達成されれば完結できます。必要とする人へ、情報を提供できれば、ものや人が直接動く必要はありません。そのような教育は、虚業となるのでしょうか。
 大学の遠隔授業の一部には、そのようなものがあります。対面でない教育には、虚の部分が多くなっていくようです。通信教育や遠隔授業による教育では、虚の度合いが多くなり、虚と実の境界が曖昧に思えます。
 ここからが話題が地質学になります。科学の世界でも、虚実が入り混じっています。虚が、大規模な装置や複雑な手順を踏んでいると、その結果は本当らしく見えてしまうことがあります。
 シミュレーションと呼ばれる計算機実験があります。シミュレーションは思考実験の一部といえますが、通常の思考は人の頭の中でおこなうものですが、そこでは直感で判断してもよく、厳密さはなくてもよいものです。厳密さを求めるならば、理論的に解決しなければなりません。しかし、関係する方程式がわかっていても、理論的に解けない問題も多々あります。そんな問題でも、コンピュータを用いて計算を工夫することで、なんらかの解をえて、その解を現実に当てはめることで、可能性を示す方法がシミュレーションとなります。
 最近では、ビックデータを用いたAIによるシミュレーション、「京」や「富嶽」などの超高性能のコンピュータによるシミュレーションの研究成果をよく聞くことがあります。地質学でも、地球深部の物質の状態やマントル対流、大規模な海流、将来の気候変動を探ることに、大型計算機を用いたシミュレーションがおこなわれています。
 地球深部の岩石の状態を探ることを例に考えましょう。
 地球のある深度の物理条件(温度圧力など)は、他の方法で推定されています。深度が浅ければ、岩石試料として入手できることもありますが、深けれれば他の方法で岩石種や組成が推定されているものを用います。
 求めたい条件や状態が、方程式にできれば、理論的に解くことができます。しかし、方程式には解けないものも多くあります。偏微分方程式が入っていれば、解くことが難しいので、解ける形式の近似式にして計算していくことになります。近似計算で、シミュレーションしていきます。ある物理条件(初期条件)で、シミュレーションをしなんらかの結果がえます。他の方法で求められている観測データと結果が、一致しなければ、初期条件や方程式や計算方法などを、許容範囲で変化、変形、変更しながら、再度結果を求めていきます。そして、その結果が、観測データと一致すれば、それはひとつの可能性を示しています。
 ただし、シミュレーションの中の計算は、近似計算になり、そこには誤差が含まれています。誤差を見積もることもできますが、あくまでもその式がその現象の真の方程式であるという前提がなければなりません。また、条件を数値化する段階、近似計算にする段階、計算結果の数値を解析する条件など、いろいろ手順を踏みながら、結果を出し評価をしていきます。そのため、いろいろ過程で数値の多様性、任意性が発生します。そのような場合、多数の結果を選択して評価する時に、研究者の恣意性が入る可能性もあります。
 また、複雑系になる方程式が入っていれば、少しの条件変更で結果が、大きく左右されていくこともあります。複雑系が混入した結果では、繰り返し計算が多くなると、結果もじゃ不確かさが増してくることもありえます。
 ここまでは、上述の情報のみを扱う虚の話に対応します。教育などのサービス業に対応する例もあります。
 地質学にはシミュレーションの一種とも考えられる合成実験があります。これは、上部マントルの岩石を知るために、ある条件に岩石をおいて、その状態を調べる方法です。上部マントルの条件を発生し、そこで実物がどのような鉱物組み合わせの岩石になるかを確かめる実験的方法です。実物としては、マントル由来の岩石を使ったり、そのマントルから由来した火山岩を使ったり、化学的に組成を合成した薬品を使ったりされることがあります。それぞれ目的に応じて、実物は使い分けられています。
 このような岩石の合成実験は、可能性を提示する方法となりますが、虚でしょうか実でしょうか。計算機実験のシミュレーションとは、実物を使っている点が異なっています。
 虚実の境界が定まらない、地質学の悩ましい例をいくつか紹介しました。しかし、いずれも科学的仮説とその根拠を示すという点では同じです。もしかすると、社会や科学が進むと、虚や実の境界が、ますます曖昧になっていくのかもしれませんね。

・今年の紅葉・
北海道では、紅葉がはじまりました。
少しずつ秋がはじまり、
秋の気配が深まってきました。
今年の紅葉は、一気に進んでいないようです。
早くからはじまったのですが、
だらだらと紅葉が進んでいきそうです。
今年は天候も不順だったので
それが紅葉にも反映しているようです。

・緊急事態宣言の解除・
9月末で、緊急事態宣言が
まん延防止等重点措置を経ることなく
解除されそうです(9/28に執筆)。
ただし、一気に通常生活や、
営業状態に戻るわけでなく
移行期間を持ちながら、段階的に戻っていくようです。
ワクチン接種も進んでいるので、
感染もある程度は治まってくることが、
期待できそうです。
ただし、変異ウイルスもあるので
注意は必要でしょうが。

2021年9月1日水曜日

236 集中した科学と急いでいる科学

 COVID-19へのワクチン開発は、非常に短期間になされました。緊急事態に対して、人類の集中された科学力に驚かされました。では、通常の科学は、もっとのんびりと、遂行されているのでしょうか。


 COVID-19患者への対処として、当初は薬も処置も試行錯誤でしたが、この1年半で、医療現場の経験の蓄積もされてきました。重篤な肺炎に対しても、以前なら失われていた命も、人工呼吸器などの医学的対処と対応医療従事者の献身的対応で、なんとか危機が食い止められています。しかし、感染拡大がひどい状態のため、医療現場も、限界を迎えつつあるように伝えられています。

 COVID-19へのワクチン接種は、もっとも有効な対処法です。計画通りであれば、日本でも、もっと早くワクチンの接種も進んでいるはずなのですが、すべてが、後手に回っているようです。

 我が大学も申請から1月半たって、やっと職域接種がはじまります。9月から、学生と教職員への接種がはじまり、10月初旬には接種が終わるので、10月中には、集団免疫がある程度できるのでは、と期待できます。ただし、変種も次々とでているので、不安が募ります。ワクチン接種で、当初ほどの効果は期待できないでしょうが、感染、発症、重症化のリスクは減るはずです。

 100年前のスペイン風邪(インフルエンザ)のときは、世界人口の30%(5億人)ほどが感染し、死者も4000万人以上(1億人以上ともいわれた)もありました。その時は、なすすべもなく、ただじっと耐えて感染が収まるのを待つだけでした。

 100年前より医療技術や対処薬などは進んでいるので、感染症への対処がかなりできています。それでも、今回のCOVID-19では、現在(2021年8月28日)、世界では2億1500万人以上が感染し、死者は448万人にのぼっています。ワクチン接種率は人口の25.2%となっています。ワクチン接種率からすると、これからも感染者数や死者の数は増えていきそうです。

 さて、今回のワクチン開発をみていると、そのすべてでスピードの凄まじさを感じました。それまでの研究の蓄積もあったのですが、開発の時間も、商品化も量産化も、臨床試験、承認など、いずれも迅速でした。これは、人類全体の危機に対して、一致団結して英知と資源を集中してきた結果でしょう。緊急の課題に対して、人類が一丸となったときの底力を見た気がします。

 しかし、これは緊急事態のときです。日常的な研究は、もっと着実に進められているはずです。

 職業的な研究者の多くは、大学や公立の研究所、民間企業などに在籍しています。組織に属し給与をもらっている限り、組織の目指すもの、目的に向かって努力する義務があります。特に民間企業では、目標達成が最優先、あるいは目標に束縛されて仕事しています。

 大学では、次世代の人材育成として、社会人として必要な教養とともに、専門性も身につけていく教育がなされます。研究者になろうとする人には、大学院に進学して、さらに高度な専門性を身につける必要があります。大学院などのある大学では、教員は研究者養成も重要な任務になります。

 大学の教員は、教育者であることが第一義ですが、研究者であることも求められます。教員は、それぞれの研究テーマを持っています。それぞれの興味で独自の研究テーマを持っています。教育と研究を進めることが、任務になっており、それで生活の糧を得ていることになります。

 大学の教員は、自分の好きなことを、のんびりとしているように見えますが、予算削減、人員削減の煽りもあり、実は大変忙しくなっています。大学の組織運営のための校務もあり、それも給料分になっています。また、ボランティアで研究者集団での役割もあるでしょう。

 研究費が足りないので、外的研究費、競争的研究費を獲得するために、毎年、何種類もの申請書を作成しています。獲得したら、その研究計画にそって研究を進め、最終的には成果報告をすることがノルマとなっています。次々と研究費を獲得したからには、研究期間が単年であれば毎年、数年であっても毎年のように研究成果を上げなければなりません。獲得する研究費が多ければ、それなりに出すべき成果の数も多くなければなりません。研究成果とは、論文を書いて(学会誌や研究会誌、大学の紀要など)、学界(数個の所属学会がある)へ報告することです。学会報告もその中に含まれます。

 研究者になりたての頃は、指導教員に、研究内容の指導ともに、論文作成でも懇切丁寧に指導をして頂きました。英語であろうが日本語であろうが、それこそ一言一句、赤を入れられて添削していただきました。一篇本目の論文は非常に苦労しましたが、2篇目、3篇目となるにつれて、指導教官の添削も減り、論文とはこう書くものだという、自分なりの方法も見つかるようになりました。おかげで、自力で論文が書けるようになりました。

 研究者には、年に何本も書く人がいる一方、中にはもっと長い期間をかけて研究を進めてから、論文を書くことあります。論文ではなく、著書を認める人もいます。いわゆる大作をものする人もいます。充分な研究期間を経て成果を出す研究もあります。

 ただし、研究期間が長くなると、研究費がなくなります。期限付きの研究費は、単年度から3年、長くても5年程度です。それより長い10年を越えるようなは研究費はなく、ポケットマネーでの研究となります。研究の完成度を上げるために時間をかけると、研究費がなくなることで、ますます成果が遅れるという、悪循環が生じます。そのような研究者が、大学にはある程度の割合でいます。

 文系の分野では、そのようなタイプの研究をする人もいます。理系や社会系の研究者は、研究費がなければ、なかなか研究成果が挙げられません。そのため、研究成果をなかなか出せない(出さない?)大学教員もいます。多分、肩身の狭い思いをしているのではないでしょうか。

 大学教員は、少なくとも数年に1篇程度の論文を書くことが、暗黙も求められています。それは、研究分野や研究規模を問わず、求められています。多くの大学教員は、そのようなペースで論文を書いていくことになります。大学教員たるもの、論文を書くことが第一義である、となってきました。それを実行している教員が多くなっています。

 結果として、論文を書いて、投稿し、査読を通し、印刷されるまでの一連の作業に熟練していきます。それなりのテーマ、それなりの書きようなどのコツもあります。それに長けてくると、テーマが決まり、テータが集まり、期待した結果さえ得られば、論文を書くことがルーティンとなり、苦ではなくなり、比較的簡単に仕上げることができます。これはこれはいいのでしょうが、どうも違う気がします。

 興味や深いテーマや、時間や手間の掛かりそうなテーマは後回しになり、手っ取り早く論文になるネタを優先してしまことが、意識的か無意識かはわかりませんが起こっていきます。論文を書くことが優先事項、という主客転倒が起こっています。論文をたくさん書いている大学教員の多くは、そのような状態になっているのではないでしょうか。

 10年、20年など長い時間がかかっても、成果が得られるかどうか不明でも、基礎的な研究として進めていくべきテーマもあるはずです。自分がもっとも興味あること、研究者としてスタートしたときの好奇心や野心、あるとき思いついた壮大なテーマもあったはずです。そのテーマが達成できれば、科学への大きな貢献となり、自身の満足感も大きいはずです。そんな気持ちは、忘れてしまっている研究者も多くいるようです。多くの研究者は研究を進めています。取るに足らない論文の数より、急いてみえなくなった野心、急いて消えた好奇心、急いてなくなった壮大な地平、が重要ではないでしょうか。

 このエッセイは自戒を込めて書きました。


・反省のつもりで・

私は、ここで述べた成果を追い続ける

主客転倒の典型的な教員かもしれません。

論文を次々と書いているのは、

自身の興味が次々と湧いてきていると思っています。

しかし、本質的はまだ解決していないこと

もっと深いテーマ、もっと時間をかけて

取り組むべきことがあっても

解決せずに時間切れとして、

完結せずにとりあえず論文を書いて、

一段落させてしまいます。

そこにはもっと深い謎、未開の天地、

重要な解へのルートがあったのかもしれません。

また、論文を書くために、無意識でしょうが、

テーマを浅く設定しているのかもしれません。

そんな自分に対する反省も込めて

このエッセイを書きました。


・暗黒の時代・

ワクチン接種の時期が遅れているのは、

その調達に誤算があったためでしょう。

しかし、その内実、実態はまったく示されていなので

なにが問題で、なにがボトルネックだったのか、

今後の反省として活かすことができません。

重要な公文書も残さず、正確な情報も開示しない

不思議な体質へとなっています。

自分たちのしていることに責任をもたない、

次世代への遺産を残さない、そんな姿勢に見えます。

将来、平成から令和は、公的記録が残されていない

暗黒の時代と記されそうです。

そんなことも考えられない指導者には

多くの国民は、呆れてしまっています。