道南に行きました。いうまでもないと思いますが、北海道の南部、渡島半島を、道南と呼んでいます。道南に資料収集にでかけました。2002年も押し詰まった12月23日から28日までです。いくら北海道とはいえ、雪があるから、無謀なような気がしたが、出かけました。そのときに感じたことを紹介しましょう。
北海道では、2002年の夏は涼しく、そして雪も遅かったのです。そんな11月下旬、道南行きを決めました。今年は雪が少なそうだし、大学の講義の終わる12月下旬でも、道南なら、まだ雪がないかもしれない、あっても少ないのではないか、と考えたのが、ことの起こりです。
今年は、新しい調査テーマを設定して、北海道の地質調査をしようと考えていました。しかし、実際は、あまり調査できませんでした。忙しいこともありましたが、11月にはいって予定していた調査が、2度ほど雪でだめになったせいもあります。
道南には、調査目的の一級河川として、後志利別川と尻別川があります。その河原や河口で、石ころと砂を取ることが目的です。そして、今回は、新たなテーマとして、火山も調べたいと思っていました。火山では、代表的な岩石標本(1、2個)の採集と、たくさんの地点からの写真撮影をしたいと考えていました。
もし、これが実行できれば、その年の夏や秋に、やり残した地質調査を、補えると思ったからです。この調査でいくつか感じたことがあります。それは、小さな市町村の村おこしについてです。
地質学者は、どんな都道府県でも、どんな市町村でも、ほぼ調査をしています。ですから、日本列島の地質は、だいたいわかっています。つまり、どんな市町村でも、地質学者は、一度は訪れて調査したわけです。あるいは、少し村の歴史や紹介を読むと、多くの市町村で、かつては○○を採っていた鉱山跡、鍾乳洞、渓谷、滝など、地質学者なら詳しくしているはずの情報が記述されています。そんな情報を積極的にあつかって、村おこしをしてはどうか、という考えです。
いろんな自然科学の分野がありますが、生物と同様、地質も、どの市町村でも存在します。地質とは、大地がどのような岩石、地層でできているかを調べ、その大地がどのような歴史を経てきたかを調べることです。そのプロセスとして、新しい化石が発見されたり、珍しい鉱物が発見されることがあります。
そんなことから、その地域の地名の入った地層、化石、鉱物などがみつかることがよくあります。生物では、その村固有のもの、あるいは村の名前のついたものなどは、ほとんどないはずです。でも、地質の素材ならあるのです。そんな地質素材を積極的に使って、村おこしをしたらよいのではないか、と考えました。
先ほども述べましたように、現在、日本の地質はほとんどわかっています。どこの岩石にはどのような鉱物資源が含まれているか、どこの地層にはどんな化石が出そうか、それが、大体わかっているのです。概略がわかっているので、もし、詳しい調査をすれば、それに鉱物や化石が見つかる可能性があります。
現在、地質の素材で、いくつかの市町村で、村おこしをしています。そんな村おこしは、その市町村で、日本中で自慢できるような化石、たとえば恐竜の化石、村の名前のついた大型化石などが発見されている場合です。つまり、発見や、知名度がまずあり、その知名度を利用して村おこしをするということです。私の提案は、市町村の知名度を上げるために、地質学者の調査をサポートするのです。このようなことをやっている市町村もあります。
例えば、北海道日高支庁の様似町では、カンラン岩を産する幌満があります。その温泉宿泊施設のとなりに、合宿所のようなものがあり、研究者が長期滞在するときには、自炊ですが、格安で宿泊できます。
もし、市町村で、そんな便宜をはかれば、地質学者も、その卵の学生たちも、その施設を利用して、安心して長期の調査をすることができます。長期の調査をすることができれば、成果も上がるはずです。
もし珍しい化石でも発見されれば、それを大々的に村おこしの素材とするのです。
今回の調査で、最初に訪れたのが、瀬棚郡今金町です。さて、今金町といって、日本でどれくらいの人が知っているでしょうか。私も名前は知っていましたが来るのは、今回が初めてです。
今金町を、少し紹介しましょう。北海道檜山支庁(ひやましちょう)の北部にある町です。道南全体は、渡島半島と呼ばれ、渡島半島の北部に今金町があります。内陸にあり、海には面していません。人口は7,000人弱の町です。檜山地方では江差、上ノ国についで3番目に人口の多い町です。
と、このように紹介したのですが、あまり、記憶に残らないと思います。では、次に、今金町の地質に関する、紹介をしましょう。
今金町は、一級河川の後志利別川が町の中心を流れています。江戸時代初期の寛永(1624~44)時代には、後志利別川上流域で砂金の発掘がされました。砂金の採掘作業のために、多くの和人が入地しました。明治時代の初期には、メノウやマンガンなどの鉱物資源が、発見されまし。また、美利河ダムの工事現場から、ピリカカイギュウの化石が発見されています。奥美利河温泉は、古くから利用されて、今も利用されています。
どうです。このような記述を読むと、今金町に興味をもちませんか。河原で、メノウやマンガンの石ころを、あわよくば砂金の一粒も拾いたい、それがだめでも、展示室でメノウやマンガン、砂金を見てみたい、おみやげでもあれば買いたい、などと思いませんか。さらに、ピリカカイギュウて、いつの時代のどんな生きもので、それほどの大きさで、どんな暮らしをしていたのか、なぜこの地から見つかったのか、気になってきませんか。そして、一目見てみたいという気が起きませんか。
こんな興味をもつのは、私が、地質学者だからでしょうか。もし、他の人たちも同じような感想を持つのなら、温泉つきの宿泊施設でも用意して、冬はスキー場もあり、夏は、ハイキング、キャンプ、川遊び、展示場ではピリカカイギュウや砂金、マンガンが見れ、歴史的な紹介もあり、みやげ物が買えるというようなところなら、一度行ってみたいと思いませんか。
現実には、必ずしも、そんな期待をすべて満たすとは、思いません。でも、そんなこと、村おこしとして目指すような市町村があっても、いいのではないでしょうか。これは、地質学者のわがままな希望に過ぎないのでしょうか。それとも、だれもまだ考えたことのない画期的アイデアでしょうか。
・厳冬期の調査・
さて、冬の北海道で地質調査するとどうなるのでしょうか。たいていは期待通りには、いきません。私は、10年間、北海道に住んでいました。そして、冬の地質調査がどんなことになるのか、よく知っているはずなのに、「もしかしたら」という淡い期待を抱いてしまいました。
以前、厳冬期の足寄(あしょろ)での調査をしたことがありました。厳冬期でしたから、真冬日でした。真冬日とは、昼間の最高気温が氷点下のままの日のことです。もちろん、仕事ですから、日が昇ることから調査をします。地質調査の基本は、露頭を調べることです。ですから、道路だけでなく、川沿いが調査の主要なルートとなります。
すると、どうでしょう。川の中のほうが、外気より温かいのです。考えてみれば、当たり前のことです。外気は、氷点下10数℃だったのですが、凍ってない川は0℃前後です。ですから、水の中のほうが、温かいのです。
その調査は、まだまだ過酷でした。調査をするとき、黄色い派手なベストをつけるように指示されました。山に入ってみると、林道のあちこちに車が止まっています。こんな時期に変だと思いながらも調査をしました。ときどき、パーンという音が聞こえてきます。なんだかわかりませんでした。そして、ベストや音のなぞが、林道で、ハンターにであってやっととけました。シカの猟期だったのです。音は鉄砲を撃つ音、ベストは誤射予防のためだったのです。
話が横道にそれました。この地質調査は、アルバイトとしてしておこなったもので、地滑り調査でした。地滑りに関すデータをとるのですが、その一環として崖で、くずれた砂がたまっている崖錐(がいすい)とよばれるところも調べることになっていました。軟らかい砂たまっているはずなのですが、ハンマーでたたくとカキーンと、岩をたたいているような音がします。そうです、ぬれた砂がカッチンカッチンに凍っているのです。
厳冬期の北海道での調査は、大変過酷なのです。そして、夏のような成果はなかなか上がりません。でも、仕方なく調査しなければならないこともありるのです。
そのほかにも、大学院時代や研究生時代(いわゆるOD時代)には、数々のアルバイトをこなして生活の糧を稼いでいました。ですから、懇意にしている地質コンサルタントの依頼を受けたら、断ることもできず、厳冬期の調査をした経験が数々あります。
でも、北海道をはなれて、はや15年。本州の温かい地での冬になれたせいでしょうか。北海道の冬に、まだ順応してないようです。
今回の道南の調査も、もちろん、ほとんど成果はありませんでした。このエッセイをふくめて、いくつかの文章を書いたこと、そして、一番の成果は、なんといっても、冬の北海道の厳しさを思い知らされたことでしょうか。
2003年2月1日土曜日
2003年1月1日水曜日
12 いろいろな見方(2003年1月1日)
ものの考え方で、ふと考えたことがあります。
テーブルの上に、石ころがひとつ、あるとします。
その石を、見る人、あるいは見る視点が違うといろいろな見方ができます。ごく当たり前のことですが、いまさらながら、気づきました。
地質学者が見たとしましょう。地質学者にも専門がいろいろあります。ですから、立場によって、石ころをみるという見方も違ってきます。
博物館の学芸員は、その石ころをどう見るでしょうか。
まず、学芸員は、その石ころに博物館的価値があるかどうかを調べます。石ころに博物館的価値があるというためには、博物館で、展示や保管していいような資料としての価値があることと、それに付随する不可欠な情報を持っていることが必要です。資料的価値と情報とは、不可分です。
資料的価値とは、その石が、珍しい種類、地域、形態などをもつか、ある種類の代表的な標本であるかどうかです。
さらに、標本には、付随する情報が不可欠です。その情報の象徴として、標本ラベルがあるかどうかです。標本ラベルとは、細かい産地の情報、岩石名、採集日、採集者などが書かれているものです。
標本として、資料的価値と付加情報、この2点がないと、意味がないとされます。逆にこの2点を満たしていると、博物館では、この石ころは、資料となり、展示されたり、保存されます。そして、多くの人目にふれたり、詳しく研究され、博物館が存続する限り、大切に保管されます。
つぎに、大学の研究者としての地質学者は、その石ころをどう見るでしょうか。
まず、テーブルの上に転がっている石ころを調べようという研究者はほとんどいないでしょう。特に、野外調査をして研究するタイプの地質学者は、そのような石を、研究対象にしません。野外調査をして研究するタイプの地質学者は、野外調査し、石ころの産状(産出状況)を調べて、自分で納得して採集した石ころでないと研究対象にしません。でも、もし、博物館的資料であれば、その資料を調べる研究者もいます。実験、分析などの室内研究を得意とする地質学者です。
もしかりに、その石ころが研究対象なったとしたら、博物館とはまったく違った取り扱いをされます。石ころは、切られ、砕かれ、溶かされたります。研究者は、知りたいことを調べるために、原型をなくしても、あるいはすべてがなくなっても気にしません。ものをそのまま大切に保管することより、ものから知りたい情報を以下に引き出すかに精力を注ぎます。
同じ地質学者ですから、石ころを見る能力や調べる能力は、似たようなものです。そして、石ころが好きな人です。たとえば、石ころを調べるとき、平気で舐めたりします。石ころを汚いなどと思う地質学者はいません。地質学者は、みんな、石ころがすきなのです。でも上で述べたように、似たような科学者である地質学者でも、目的や見方が違うと、石ころの扱いも、価値も、全く違ってきます。
よく考えると、地質学者の石ころへのアプローチは、「科学者的」あるいは「地質学者的」な見方にすぎません。いってみれば、非常に片寄った見方、ある階層の、あるコミュニティだけで通用する見方であります。
その石ころに価値があるかどうかは、見方によって変わってくるはずです。事実、地質学者でも価値を見出したり、無視したりとなります。そして、価値を見出したとしても、その価値は、同じ興味を持っている同業者、コミュニティでは通用するものですが、興味ない人には、その石の価値はないにも等しくなります。
ところが、その石ころに興味を持って、まったく違った価値を見出すことも可能です。たとえば、形が面白い、色が綺麗、思い出がある、テーブルの飾りにいい、重しとしていい、など、という見方もする人もいるでしょう。さらに別の見方をすれば、その石に美を見出し、絵画にすること、インスピレーションをえて、音楽や詩をつくること、想像力で、小説を書くこと、など、より人間的で、芸術的な視点で、眺めることができるはずです。その石ころに対する価値は、ひとそれぞれの見方によって変わってくるはずです。
石ころを、一歩離れて眺めれば、もっと広く、深い、多様な石ころの世界があるのではないでしょうか。科学的に見て価値がなく、その地の代表する石でなくても、産地がわからなくても、いいではないでしょうか。
その石ころ自体の存在を、まず認め、その存在自体、その石の現在の存在を評価するという立場が、地質学者としてもあってはいいのではないでしょうか。さらにもう一歩離れれば、その石ころは、もっともっと広く、深く、多様な世界があるのでないでしょうか。石ころは、もともと自然の一部であったし、今も自然の一部であるし、石ころに中にも、自然は奥深く埋もれているはずだし、そしてなにより、この石は、地球の営みにより、創造されたものなのです。
地質学者、あるいは私は、あまりに研究や教育という視点で、石ころを、ひいては、自然、地球、宇宙を見すぎていないか、そんな気がしてきたのです。上で述べたようなすべての見方をも、地質学やあるいは私自身に、取り込むことはできないでしょうか。それほどの度量は、地質学や私にはないのでしょうか。
地球の創造物と点では、すべての石は同じ価値があります。しかし、人間は、自分の、あるいはそれぞれの目的に応じて、石ころの価値を評価しています。そして、その価値は、あるコミュニティ内だけで、通用するもののはずなのに、そのコミュニティが特殊な能力や技能をもった階層であると、その価値が多数の人にたして一般的に通用するように敷衍されます。これは、注意が必要です。たとえば、博物館の学芸員が、この石は典型的な玄武岩だといえば、その瞬間に、その石ころは標本として価値がでるのです。地質学者が、分析に結果、世界最古の岩石である、と発表すると、その石ころはこの世で最古のものとして、価値が出ます。
価値観には、それぞれの立場があっていいはずなのに、ある階層、コミュニティの見方が主流となると、それ以外の多様性を抑えたり、あるいは否定する作用が働きます。同じ階層、コミュニティの中でも、もちろん多様性を否定するという作用が起きます。これが、いくいくは、その階層やコミュニティの体質を硬化させていくはずです。
その階層やコミュニティを発展させ続けるには、常に柔軟性が必要です。内部に否定や反対をする要素を含めるほどの柔軟性が必要です。その柔軟性の程度は、いってみれば、多様性を認める度量の大きさではないでしょうか。多様性を認める度量は、階層やコミュニティだけではなく、個人個人の心の中でも必要なことです。
さて、多様性を認めて離れて眺めれば、どんな世界が見えるでしょうか。先ほどの石ころを、さらに離れて考えていきましょう。その石ころがAという岩石名になること、地球のどのような営みで創造されたか、なぜ形成されたか、などという地質学的価値だけでなく、地質学では、その石をなぜAと分類するのか、その石がなぜ分類できるのか、なぜ、価値判断をしてしまうのか、なぜ、石を認識できるのか、なぜ存在するのか、などに考えをめぐらすことも可能でしょう。そこには、地質学の本質、科学の本質、認知の本質、哲学の本質などが、隠れているのではないでしょうか。それを、地質学ではない、哲学で、認知科学だなどと、他の世界へ押しやるより、すべてを飲み込む度量の広さが必要ではないでしょうか。そして、それをも飲み込める度量をもつことは、地質学をより深くし、そして自分自身を深くしていくのではないでしょうか。
広い見方、つまりは、いかなる見方もを認める見方。そして、その見方に、論理性、納得すること、あるいは感動することなど、「なにか」があれば、その見方は、充分価値がある評価できるのではないでしょうか。
・年頭に・
明けまして、おめでとうございます。昨年は、このメールマガジンを購読いただきありがとうとうございます。本年もよろしくお願いします。
インターネットでメール交換されている方は、多くの年賀メールが飛び交っていると思います。このメールマガジンは、いつも月の初めに出しているために、1月は元旦にあたります。
年の初めですが、石ころの話からはじめました。正月には、あまりふさわしくない話かもしれません。あるいは、いつもと同じような話題かもしれませんが、お屠蘇で酔った頭を目覚めさせるために、少々頭を使ってみました。
私は、上で述べたような見方を持ちたいと、常に思っています。昨年1年、特にその気持ちが強くなりました。ですから、このメールマガジンの話題もそのようなテーマになることもたびたびありました。
地質学の度量を、あるいは私自身の度量をより広めたいと切実に考えています。今後も、地質学者として、より広い見方で、石ころを見ていきたいと考えています。
本年も月に一度のお付き合いですが、よろしくお願いします。
・ある人への手紙・
昔、博物館にいたとき、博物館実習を担当した学生さんから、メールが来ました。現在、彼女は、某国立研究所で、テクニシャンとして働いておられます。しかし、彼女の目標は、中学の理科の教師になることです。「これからも採用試験を受けることは続けようと思うのですが、年齢も上がるにつれ、新しいことへ踏み出す勇気が減り、安定を目指す方向へ行こうと焦りが出てきてしまう部分があるのです。」というメールいただきました。
それに対して、私は、以下のようなメールを書きました。
「ご無沙汰しておりました。お元気でしょうか。私は寒い北海道で、新しい人生を歩んでおります。
お互い、紆余曲折した人生を送っていますが、当たり前の人生より、なにか向かっていくものがあれば、たとえ遠回りでも、どんなに時間がかかっても、一生分をついやしても、狙う価値があると思います。私は、そんな人生を歩みたいと考えています。
私の人生の目標は、有機的に連携した地質学、地質哲学、地質教育学をつくることです。それも実践と理論の両方を加味したものです。その体系化を20年かけて構築することが目標です。まあ、今までやってきたことを総まとめするような、そして新しい学問体系を構築するようなライフワークです。我ながら壮大な計画で、本当にできるのかなと思ってしまいます。でも、今の私にとって目指す価値のあるものです。
Endさんは、教師になること自体が目的ですか。それとも、教師として、生徒にいい教育をすること、つまりは、いい教師になることが目的ですか。たぶん後者だと思います。となると、教師になりたいと思い、もし、なれたとしても、それは、目標のスタート地点に立ったことになるわけです。ですから、この目標も長い時間がかかるものとなります。
もしかすると、私の目標のように一生かかってもたどり着かないかもしれません。でも、明日かなう夢より、一生目指せる夢のほうが、楽しい人生を送れると思いませんか。
私のホームページは
http://www.ykoide.com/index.html
が入り口です。メールマガジンをいくつか発行しています。多くのホームページ、メールマガジンも、私の夢のステップのひとつです。もしよろしければ覗いてみてください。ではまた。」
そう、このメールマガジンも、私の壮大なる目標の一環なのです。
テーブルの上に、石ころがひとつ、あるとします。
その石を、見る人、あるいは見る視点が違うといろいろな見方ができます。ごく当たり前のことですが、いまさらながら、気づきました。
地質学者が見たとしましょう。地質学者にも専門がいろいろあります。ですから、立場によって、石ころをみるという見方も違ってきます。
博物館の学芸員は、その石ころをどう見るでしょうか。
まず、学芸員は、その石ころに博物館的価値があるかどうかを調べます。石ころに博物館的価値があるというためには、博物館で、展示や保管していいような資料としての価値があることと、それに付随する不可欠な情報を持っていることが必要です。資料的価値と情報とは、不可分です。
資料的価値とは、その石が、珍しい種類、地域、形態などをもつか、ある種類の代表的な標本であるかどうかです。
さらに、標本には、付随する情報が不可欠です。その情報の象徴として、標本ラベルがあるかどうかです。標本ラベルとは、細かい産地の情報、岩石名、採集日、採集者などが書かれているものです。
標本として、資料的価値と付加情報、この2点がないと、意味がないとされます。逆にこの2点を満たしていると、博物館では、この石ころは、資料となり、展示されたり、保存されます。そして、多くの人目にふれたり、詳しく研究され、博物館が存続する限り、大切に保管されます。
つぎに、大学の研究者としての地質学者は、その石ころをどう見るでしょうか。
まず、テーブルの上に転がっている石ころを調べようという研究者はほとんどいないでしょう。特に、野外調査をして研究するタイプの地質学者は、そのような石を、研究対象にしません。野外調査をして研究するタイプの地質学者は、野外調査し、石ころの産状(産出状況)を調べて、自分で納得して採集した石ころでないと研究対象にしません。でも、もし、博物館的資料であれば、その資料を調べる研究者もいます。実験、分析などの室内研究を得意とする地質学者です。
もしかりに、その石ころが研究対象なったとしたら、博物館とはまったく違った取り扱いをされます。石ころは、切られ、砕かれ、溶かされたります。研究者は、知りたいことを調べるために、原型をなくしても、あるいはすべてがなくなっても気にしません。ものをそのまま大切に保管することより、ものから知りたい情報を以下に引き出すかに精力を注ぎます。
同じ地質学者ですから、石ころを見る能力や調べる能力は、似たようなものです。そして、石ころが好きな人です。たとえば、石ころを調べるとき、平気で舐めたりします。石ころを汚いなどと思う地質学者はいません。地質学者は、みんな、石ころがすきなのです。でも上で述べたように、似たような科学者である地質学者でも、目的や見方が違うと、石ころの扱いも、価値も、全く違ってきます。
よく考えると、地質学者の石ころへのアプローチは、「科学者的」あるいは「地質学者的」な見方にすぎません。いってみれば、非常に片寄った見方、ある階層の、あるコミュニティだけで通用する見方であります。
その石ころに価値があるかどうかは、見方によって変わってくるはずです。事実、地質学者でも価値を見出したり、無視したりとなります。そして、価値を見出したとしても、その価値は、同じ興味を持っている同業者、コミュニティでは通用するものですが、興味ない人には、その石の価値はないにも等しくなります。
ところが、その石ころに興味を持って、まったく違った価値を見出すことも可能です。たとえば、形が面白い、色が綺麗、思い出がある、テーブルの飾りにいい、重しとしていい、など、という見方もする人もいるでしょう。さらに別の見方をすれば、その石に美を見出し、絵画にすること、インスピレーションをえて、音楽や詩をつくること、想像力で、小説を書くこと、など、より人間的で、芸術的な視点で、眺めることができるはずです。その石ころに対する価値は、ひとそれぞれの見方によって変わってくるはずです。
石ころを、一歩離れて眺めれば、もっと広く、深い、多様な石ころの世界があるのではないでしょうか。科学的に見て価値がなく、その地の代表する石でなくても、産地がわからなくても、いいではないでしょうか。
その石ころ自体の存在を、まず認め、その存在自体、その石の現在の存在を評価するという立場が、地質学者としてもあってはいいのではないでしょうか。さらにもう一歩離れれば、その石ころは、もっともっと広く、深く、多様な世界があるのでないでしょうか。石ころは、もともと自然の一部であったし、今も自然の一部であるし、石ころに中にも、自然は奥深く埋もれているはずだし、そしてなにより、この石は、地球の営みにより、創造されたものなのです。
地質学者、あるいは私は、あまりに研究や教育という視点で、石ころを、ひいては、自然、地球、宇宙を見すぎていないか、そんな気がしてきたのです。上で述べたようなすべての見方をも、地質学やあるいは私自身に、取り込むことはできないでしょうか。それほどの度量は、地質学や私にはないのでしょうか。
地球の創造物と点では、すべての石は同じ価値があります。しかし、人間は、自分の、あるいはそれぞれの目的に応じて、石ころの価値を評価しています。そして、その価値は、あるコミュニティ内だけで、通用するもののはずなのに、そのコミュニティが特殊な能力や技能をもった階層であると、その価値が多数の人にたして一般的に通用するように敷衍されます。これは、注意が必要です。たとえば、博物館の学芸員が、この石は典型的な玄武岩だといえば、その瞬間に、その石ころは標本として価値がでるのです。地質学者が、分析に結果、世界最古の岩石である、と発表すると、その石ころはこの世で最古のものとして、価値が出ます。
価値観には、それぞれの立場があっていいはずなのに、ある階層、コミュニティの見方が主流となると、それ以外の多様性を抑えたり、あるいは否定する作用が働きます。同じ階層、コミュニティの中でも、もちろん多様性を否定するという作用が起きます。これが、いくいくは、その階層やコミュニティの体質を硬化させていくはずです。
その階層やコミュニティを発展させ続けるには、常に柔軟性が必要です。内部に否定や反対をする要素を含めるほどの柔軟性が必要です。その柔軟性の程度は、いってみれば、多様性を認める度量の大きさではないでしょうか。多様性を認める度量は、階層やコミュニティだけではなく、個人個人の心の中でも必要なことです。
さて、多様性を認めて離れて眺めれば、どんな世界が見えるでしょうか。先ほどの石ころを、さらに離れて考えていきましょう。その石ころがAという岩石名になること、地球のどのような営みで創造されたか、なぜ形成されたか、などという地質学的価値だけでなく、地質学では、その石をなぜAと分類するのか、その石がなぜ分類できるのか、なぜ、価値判断をしてしまうのか、なぜ、石を認識できるのか、なぜ存在するのか、などに考えをめぐらすことも可能でしょう。そこには、地質学の本質、科学の本質、認知の本質、哲学の本質などが、隠れているのではないでしょうか。それを、地質学ではない、哲学で、認知科学だなどと、他の世界へ押しやるより、すべてを飲み込む度量の広さが必要ではないでしょうか。そして、それをも飲み込める度量をもつことは、地質学をより深くし、そして自分自身を深くしていくのではないでしょうか。
広い見方、つまりは、いかなる見方もを認める見方。そして、その見方に、論理性、納得すること、あるいは感動することなど、「なにか」があれば、その見方は、充分価値がある評価できるのではないでしょうか。
・年頭に・
明けまして、おめでとうございます。昨年は、このメールマガジンを購読いただきありがとうとうございます。本年もよろしくお願いします。
インターネットでメール交換されている方は、多くの年賀メールが飛び交っていると思います。このメールマガジンは、いつも月の初めに出しているために、1月は元旦にあたります。
年の初めですが、石ころの話からはじめました。正月には、あまりふさわしくない話かもしれません。あるいは、いつもと同じような話題かもしれませんが、お屠蘇で酔った頭を目覚めさせるために、少々頭を使ってみました。
私は、上で述べたような見方を持ちたいと、常に思っています。昨年1年、特にその気持ちが強くなりました。ですから、このメールマガジンの話題もそのようなテーマになることもたびたびありました。
地質学の度量を、あるいは私自身の度量をより広めたいと切実に考えています。今後も、地質学者として、より広い見方で、石ころを見ていきたいと考えています。
本年も月に一度のお付き合いですが、よろしくお願いします。
・ある人への手紙・
昔、博物館にいたとき、博物館実習を担当した学生さんから、メールが来ました。現在、彼女は、某国立研究所で、テクニシャンとして働いておられます。しかし、彼女の目標は、中学の理科の教師になることです。「これからも採用試験を受けることは続けようと思うのですが、年齢も上がるにつれ、新しいことへ踏み出す勇気が減り、安定を目指す方向へ行こうと焦りが出てきてしまう部分があるのです。」というメールいただきました。
それに対して、私は、以下のようなメールを書きました。
「ご無沙汰しておりました。お元気でしょうか。私は寒い北海道で、新しい人生を歩んでおります。
お互い、紆余曲折した人生を送っていますが、当たり前の人生より、なにか向かっていくものがあれば、たとえ遠回りでも、どんなに時間がかかっても、一生分をついやしても、狙う価値があると思います。私は、そんな人生を歩みたいと考えています。
私の人生の目標は、有機的に連携した地質学、地質哲学、地質教育学をつくることです。それも実践と理論の両方を加味したものです。その体系化を20年かけて構築することが目標です。まあ、今までやってきたことを総まとめするような、そして新しい学問体系を構築するようなライフワークです。我ながら壮大な計画で、本当にできるのかなと思ってしまいます。でも、今の私にとって目指す価値のあるものです。
Endさんは、教師になること自体が目的ですか。それとも、教師として、生徒にいい教育をすること、つまりは、いい教師になることが目的ですか。たぶん後者だと思います。となると、教師になりたいと思い、もし、なれたとしても、それは、目標のスタート地点に立ったことになるわけです。ですから、この目標も長い時間がかかるものとなります。
もしかすると、私の目標のように一生かかってもたどり着かないかもしれません。でも、明日かなう夢より、一生目指せる夢のほうが、楽しい人生を送れると思いませんか。
私のホームページは
http://www.ykoide.com/index.html
が入り口です。メールマガジンをいくつか発行しています。多くのホームページ、メールマガジンも、私の夢のステップのひとつです。もしよろしければ覗いてみてください。ではまた。」
そう、このメールマガジンも、私の壮大なる目標の一環なのです。
2002年12月1日日曜日
11 教養人(2002年12月1日)
2002年8月18日に山口で学会がありました。地学教育に関する学会です。今まで、博物館での科学教育を考えてきたのですが、これからは、大学教育について考えることになるので、どのような科学教育をおこなうべきか、発表した。その概略を紹介します。
私は、まだ、大学教育の全貌は知りえないのですが、大学における教養教育が大きな問題であるように見えました。
では、何が問題でしょか。
大学での教育は、専門家養成と教養人育成の2つがあると考えられます。いや、専門家養成と教養人育成にあったというべきかもしれません。ところが、現在では、教養人育成の実効性がまったくない状態ではないでしょうか。
もともと、専門と教養は、一人の人に求められたのではなく、どちらかを身につけて、大学を卒業すればよかったはずだったと思います。一部の優れた人だけが、両者を身につけられたものだと思います。ところが、いつのころからか、一人の人間に、専門と教養の両方が求められたのです。つまり、すべての学生に両方をもとめ、カリキュラムが組まれました。現在は、それはあきらめられ、専門家養成に力点が置かれるようになってきました。
しかもです、大学は専門家養成を第一義としてきたにかかわらず、「本当」の専門家は、大学院で養成するという仕組みができつつあります。
それでは、大学での教養教育が必要ないかというと、そうではないのです。ますます、その必要性が高まっているのです。現代のような混迷を深めている時代、世界が狭くなり、国際的に交流が深まる時代、一国の問題が、即座に全世界に広がる時代、教養人の重要性は高まっています。また、政治、官僚、会社の中核における「文系」人間の占める比率は高くなっています。彼ら「文系」の人間が、指導者として、科学を理解できないまま、政策や施策、方針つくることによって、もしかすると、取り返しのないつかない失敗が起きるかもしれません。あるいは、「理系」人間が人文科学に対して無理解のために、自分自身の可能性をいかに狭めているか、その研究視野の狭さをみれば一目瞭然です。
つまり、大学での育成すべき教養人が生み出せてないということが問題なのです。前置きが長くなりましたが、再度、いや今という時代だからこそ必要なのが、教養人なのです。そんな教養人育成を、荒廃した(大学の)教養教育で、どう再現するかということが、今回の学会での発表のテーマでした。
大学という場にこだわらず、広く日本全国に存在する教養を求める人に対して、「いち大学教員」が、効率よく、教養教育をおこなうには、どうすればいいのでしょうか。私が考えたのは、インターネットのメールマガジンとホームページを利用するものでした。このような仕組みは、多くの人がすでに利用していることだと思います。しかし、道具をどう使うかは、使う人の勝手です。使い人が便利だと思えば、どのように使ってもいいのです。
私の使い方は、大学の教養の講義を、同時進行で、メールマガジンとホームページで公開することです。講義と同じであれば、メールマガジンのために講義を新たにつくる必要はなくなります。また、同時進行であれば、大学の臨場感、あるいは、講義の実態が、メールマガジンを「聴講」している市民(以下ではメールマガジンの購読者を「聴講者」と呼びます)に、よく伝わるのではないかと考えました。
もちろん、大学の講義と、メールマガジンとが、まったく同じとはなりえません。なぜなら、講義をする状況、受ける状況、そして媒体がちがうからです。そこには、自ずから、メリットとデメリットが生じます。
大学の講義は、なんといっても、「なま」でおこなわれます。うるさい学生がいれば、注意しますし、ジョークなどもいいます。また、学生の理解度を、顔つきから判断して、わかりにくければ、何度も繰り返し説明することも可能です。一方、メールマガジンでは、一方通行になり、「なま」の臨場感はでません。でも、文字で書かれた講義ですが、毎週、進行していくものなので、教科書とは違った、臨場感があります。
講義では、口頭で話しますが、レジュメとして、図表をつけて渡すことができます。しかし、メールマガジンでは、テキストのみを配信します。そこで、メールマガジンと連動したホームページが有効となります。ホームページに図表を掲載しておけば、聴講者も図表を参照できます。もちろん、著者権を損なわないかたちで利用することは、前提です。私の場合は、私が作った図と博物館時代につくってインターネットですでに公開しているものをつかっています。必要なら、参照すべき図のURLを示します。
図表はホームページを利用し、テキストは毎週の講義分を配信すれば、聴講者は、教科書を用意することなく、無料で限りなく大学の講義に近いものを聞くことができるのです。
大学生は、授業料をはらって、講義を聴き、単位を与えられます。しかし、聴講者は、無料ですが、何の資格、修得証明ももらえれません。すべて、自分自身の教養のためです。
メールマガジンは、手軽であるゆえに、聴講者は、受身になるという欠点があります。学生は、単位をとるという重要な使命があるため、嫌なことでも、なんとかこなします。それが、結果としてある人には、教養となっていきます。でも、聴講者の場合は、すべて自主性にかまかせられています。
受身になることを防ぐために、私は、聴講者に対しても、学生と同じ内容のレポートの提出をおこなうことで解消しようとしています。実際の大学講義でも、各期(半年間)に希望者にたいして、3度のレポートを実施しました(つまり強制ではありませんが、成績に関与します)。私が実施している教養科目の大学の受講者は、1,000名あまり(4クラス合わせて)います。毎回、200名程度の学生が、レポートを提出しました。一方、メールマガジンでは、約3,000名の聴講者に対し、10名程度が提出しました。回を重ねるにしたがって、そお提出率は下がっています。非常に提出率がわるくなっています。これは、まさに受身の聴講者が多いからだと思います。
でも欠点ばかりではありません。大学生は、レポートから、意見交換や議論が、生まれことはほとんどありません。これは、大人数の教養の講義のせいもあるのですが、なにせ、単位とること、いい成績をとることが一番の目的だからです。しかし、メールマガジンのレポート提出者とは、レポート内容に関して、私との間に議論が生まれます。私が、レポートに対して、感想を書くからでしょうが、数は少ないのですが、非常に密度の濃い議論が生まれています。それをホームページで「車座」と称して、公開しています。その車座の議論も、他の人の議論のテーマとなっていきます。このような方法が、かなり深い議論もでき、非常に有効であることがわかってきました。
大人数の講義では、ありえないのですが、少人数の講義では、学生同士の議論、意見交換が可能です。あるいは、ゼミのように、議論を重要視することもあるほどです。
メールマガジンでは、聴講者同士の意見交換は、できません。インターネットで掲示板機能(bulletin board system:BBSと略される)を利用すれば、公開の場で、この講義に関して議論することも可能です。実際に、私の他のホームページでは、BBSの機能を活用しています。
今回の講義に関しては、BBS機能は使わないことにしています。メールマガジンとホームページの「車座」でしか、他人の意見は、公表していません。つまり、この講義に関するすべての議論は、著者経由、著者の管理下でおこなうことにしています。
それは、講義である限り、講師がすべてに関与すべきであることと、トラブルの回避のために、おこなっていないのです。
講師がすべてに関与しないと、講義の提供者として無責任だし、議論のすべてに関与するのには、投稿の頻度にもよりますが、時間や手間がかかる可能性があからです。講師の省力化を掲げる以上、最小限の手間でおこないたいからです。
もしごたごたが、あったとしたら、多くの聴講者に不快感を与え、せっかく教養教育、科学教育に興味を持ちつつある人びとに、水をさしたくないからです。また、この講義は、小学生も理解できるようにとしているため、私が把握しているだけでも、数名の小学生が参加しています。彼らに、必要以上に深いな思いをさせたくありません。
以上のような意図をもって、片手間とはいいながら、多大な労力をもってはじめた市民への教養教育は、はじまったばかりです。でも、その効果は、上がっていると思います。そして、この講義は、2年間の予定で現在、継続中です。
学会では、このような内容を発表してきます。
・オリジナリティ・
上の文章と、このLetterの文章は、じつは、学会に向かう前の飛行機や待合室で書いたものです。
学会の発表の成果は、まだわからない状態です。私の「大学の教養教育は重要である」という主張は、現在の大学の流れとは、相反するものです。これが、大学教官もいる学会で発表するのは、いささか興味津々と言うところです。
ある人は、波風を立てるのを嫌う人がいますが、私は、自分自身が正しい、楽しいと思っていることは、堂々とおこなうべきだと思います。それが、少々常識と反しても、学術の世界であれば、論理的で、結果が生産的であればいいのではないかと思っています。そして、目指すものが、最終的には人類の幸せや、利益になればいいと思っています。もちろん、それが犯罪や誰かの不利益になるようなものでは、いけませんが。
それと、私が、いちばん重視するのは、独創性(オリジナリティ)です。オリジナリティがないものは、私には魅力を感じません。特に、研究者としては、オリジナリティない研究は、研究する意義がないのとも、思ってしまいます。そして、つぎに重要視するものは、理論と実践、あるいは、データと仮説を伴っている研究が、望ましいと思っています。
・評価・
学会での評価は、上々でした。特に、年配の方には、好評でした。そして、国立の教育に関する研究所の方、大学の先生がた、高校の先生がたなど、思わぬ評価を受けました。
これは、私への評価というより、教養教育の問題、あるいは専門教育でさえ、専門化しすぎているということを反映しているようです。専門は専門で、ある幅の広さが必要です。
近年、地質学を名乗る学科がほとんどなくなり、地質調査をできない地球科学者が当たり前になってきました。地球科学者が、すべて地質調査ができなければいけないとはいいません。でも、この10年ほどで、一気に地質学者の供給が、激減しました。社会の需要は減ったかもしれません。でも、やはり必要としている業種もあり、そしてその業種の人たちは、人材不足に悩んでいます。
大学が自ら選んだ選択肢ならいいのです。でも、社会が必要としているという「迎合」がないでしょうか。あるいは、政治の圧力はないでしょうか。
ある学問が、明日、必要だといっても、明後日に、その学問が完成できないのです。特に基礎学問はそうです。ですから、今は無駄かもしれませんが、知的蓄積が必要なのです。
私が、目指しているような大学での生涯学習など、大学を挙げて、おこなっています。私のやるようなことは、所詮、ゲリラ的なものです。ですから、本流ではないですし、どんなにいい方法論を提示できても、本流にはすぐにはなりえません。でも、もしかすると、万に一つかもしれませんが、将来、本流とはいわなくても、ある階層の人たちに有用な方法になるやもしれません。基礎学問とは、そういうものではないでしょうか。
そして、基礎学問をおこなう人の心構えは、上で述べたようにオリジナリティではないでしょうか。つまりは、人類の知的資産を生み出すことです。
「今日、役にも立たない理論」など、無駄でしょうか。日本には、基礎的な学問をおこなう研究者を養う余裕もないのでしょうか。明日のための学問しか受け入れられないのでしょうか。明後日のあるいは、ずーっと将来、あるいは役に立たない学問をする人を養う余裕すらないのでしょうか。
私は、まだ、大学教育の全貌は知りえないのですが、大学における教養教育が大きな問題であるように見えました。
では、何が問題でしょか。
大学での教育は、専門家養成と教養人育成の2つがあると考えられます。いや、専門家養成と教養人育成にあったというべきかもしれません。ところが、現在では、教養人育成の実効性がまったくない状態ではないでしょうか。
もともと、専門と教養は、一人の人に求められたのではなく、どちらかを身につけて、大学を卒業すればよかったはずだったと思います。一部の優れた人だけが、両者を身につけられたものだと思います。ところが、いつのころからか、一人の人間に、専門と教養の両方が求められたのです。つまり、すべての学生に両方をもとめ、カリキュラムが組まれました。現在は、それはあきらめられ、専門家養成に力点が置かれるようになってきました。
しかもです、大学は専門家養成を第一義としてきたにかかわらず、「本当」の専門家は、大学院で養成するという仕組みができつつあります。
それでは、大学での教養教育が必要ないかというと、そうではないのです。ますます、その必要性が高まっているのです。現代のような混迷を深めている時代、世界が狭くなり、国際的に交流が深まる時代、一国の問題が、即座に全世界に広がる時代、教養人の重要性は高まっています。また、政治、官僚、会社の中核における「文系」人間の占める比率は高くなっています。彼ら「文系」の人間が、指導者として、科学を理解できないまま、政策や施策、方針つくることによって、もしかすると、取り返しのないつかない失敗が起きるかもしれません。あるいは、「理系」人間が人文科学に対して無理解のために、自分自身の可能性をいかに狭めているか、その研究視野の狭さをみれば一目瞭然です。
つまり、大学での育成すべき教養人が生み出せてないということが問題なのです。前置きが長くなりましたが、再度、いや今という時代だからこそ必要なのが、教養人なのです。そんな教養人育成を、荒廃した(大学の)教養教育で、どう再現するかということが、今回の学会での発表のテーマでした。
大学という場にこだわらず、広く日本全国に存在する教養を求める人に対して、「いち大学教員」が、効率よく、教養教育をおこなうには、どうすればいいのでしょうか。私が考えたのは、インターネットのメールマガジンとホームページを利用するものでした。このような仕組みは、多くの人がすでに利用していることだと思います。しかし、道具をどう使うかは、使う人の勝手です。使い人が便利だと思えば、どのように使ってもいいのです。
私の使い方は、大学の教養の講義を、同時進行で、メールマガジンとホームページで公開することです。講義と同じであれば、メールマガジンのために講義を新たにつくる必要はなくなります。また、同時進行であれば、大学の臨場感、あるいは、講義の実態が、メールマガジンを「聴講」している市民(以下ではメールマガジンの購読者を「聴講者」と呼びます)に、よく伝わるのではないかと考えました。
もちろん、大学の講義と、メールマガジンとが、まったく同じとはなりえません。なぜなら、講義をする状況、受ける状況、そして媒体がちがうからです。そこには、自ずから、メリットとデメリットが生じます。
大学の講義は、なんといっても、「なま」でおこなわれます。うるさい学生がいれば、注意しますし、ジョークなどもいいます。また、学生の理解度を、顔つきから判断して、わかりにくければ、何度も繰り返し説明することも可能です。一方、メールマガジンでは、一方通行になり、「なま」の臨場感はでません。でも、文字で書かれた講義ですが、毎週、進行していくものなので、教科書とは違った、臨場感があります。
講義では、口頭で話しますが、レジュメとして、図表をつけて渡すことができます。しかし、メールマガジンでは、テキストのみを配信します。そこで、メールマガジンと連動したホームページが有効となります。ホームページに図表を掲載しておけば、聴講者も図表を参照できます。もちろん、著者権を損なわないかたちで利用することは、前提です。私の場合は、私が作った図と博物館時代につくってインターネットですでに公開しているものをつかっています。必要なら、参照すべき図のURLを示します。
図表はホームページを利用し、テキストは毎週の講義分を配信すれば、聴講者は、教科書を用意することなく、無料で限りなく大学の講義に近いものを聞くことができるのです。
大学生は、授業料をはらって、講義を聴き、単位を与えられます。しかし、聴講者は、無料ですが、何の資格、修得証明ももらえれません。すべて、自分自身の教養のためです。
メールマガジンは、手軽であるゆえに、聴講者は、受身になるという欠点があります。学生は、単位をとるという重要な使命があるため、嫌なことでも、なんとかこなします。それが、結果としてある人には、教養となっていきます。でも、聴講者の場合は、すべて自主性にかまかせられています。
受身になることを防ぐために、私は、聴講者に対しても、学生と同じ内容のレポートの提出をおこなうことで解消しようとしています。実際の大学講義でも、各期(半年間)に希望者にたいして、3度のレポートを実施しました(つまり強制ではありませんが、成績に関与します)。私が実施している教養科目の大学の受講者は、1,000名あまり(4クラス合わせて)います。毎回、200名程度の学生が、レポートを提出しました。一方、メールマガジンでは、約3,000名の聴講者に対し、10名程度が提出しました。回を重ねるにしたがって、そお提出率は下がっています。非常に提出率がわるくなっています。これは、まさに受身の聴講者が多いからだと思います。
でも欠点ばかりではありません。大学生は、レポートから、意見交換や議論が、生まれことはほとんどありません。これは、大人数の教養の講義のせいもあるのですが、なにせ、単位とること、いい成績をとることが一番の目的だからです。しかし、メールマガジンのレポート提出者とは、レポート内容に関して、私との間に議論が生まれます。私が、レポートに対して、感想を書くからでしょうが、数は少ないのですが、非常に密度の濃い議論が生まれています。それをホームページで「車座」と称して、公開しています。その車座の議論も、他の人の議論のテーマとなっていきます。このような方法が、かなり深い議論もでき、非常に有効であることがわかってきました。
大人数の講義では、ありえないのですが、少人数の講義では、学生同士の議論、意見交換が可能です。あるいは、ゼミのように、議論を重要視することもあるほどです。
メールマガジンでは、聴講者同士の意見交換は、できません。インターネットで掲示板機能(bulletin board system:BBSと略される)を利用すれば、公開の場で、この講義に関して議論することも可能です。実際に、私の他のホームページでは、BBSの機能を活用しています。
今回の講義に関しては、BBS機能は使わないことにしています。メールマガジンとホームページの「車座」でしか、他人の意見は、公表していません。つまり、この講義に関するすべての議論は、著者経由、著者の管理下でおこなうことにしています。
それは、講義である限り、講師がすべてに関与すべきであることと、トラブルの回避のために、おこなっていないのです。
講師がすべてに関与しないと、講義の提供者として無責任だし、議論のすべてに関与するのには、投稿の頻度にもよりますが、時間や手間がかかる可能性があからです。講師の省力化を掲げる以上、最小限の手間でおこないたいからです。
もしごたごたが、あったとしたら、多くの聴講者に不快感を与え、せっかく教養教育、科学教育に興味を持ちつつある人びとに、水をさしたくないからです。また、この講義は、小学生も理解できるようにとしているため、私が把握しているだけでも、数名の小学生が参加しています。彼らに、必要以上に深いな思いをさせたくありません。
以上のような意図をもって、片手間とはいいながら、多大な労力をもってはじめた市民への教養教育は、はじまったばかりです。でも、その効果は、上がっていると思います。そして、この講義は、2年間の予定で現在、継続中です。
学会では、このような内容を発表してきます。
・オリジナリティ・
上の文章と、このLetterの文章は、じつは、学会に向かう前の飛行機や待合室で書いたものです。
学会の発表の成果は、まだわからない状態です。私の「大学の教養教育は重要である」という主張は、現在の大学の流れとは、相反するものです。これが、大学教官もいる学会で発表するのは、いささか興味津々と言うところです。
ある人は、波風を立てるのを嫌う人がいますが、私は、自分自身が正しい、楽しいと思っていることは、堂々とおこなうべきだと思います。それが、少々常識と反しても、学術の世界であれば、論理的で、結果が生産的であればいいのではないかと思っています。そして、目指すものが、最終的には人類の幸せや、利益になればいいと思っています。もちろん、それが犯罪や誰かの不利益になるようなものでは、いけませんが。
それと、私が、いちばん重視するのは、独創性(オリジナリティ)です。オリジナリティがないものは、私には魅力を感じません。特に、研究者としては、オリジナリティない研究は、研究する意義がないのとも、思ってしまいます。そして、つぎに重要視するものは、理論と実践、あるいは、データと仮説を伴っている研究が、望ましいと思っています。
・評価・
学会での評価は、上々でした。特に、年配の方には、好評でした。そして、国立の教育に関する研究所の方、大学の先生がた、高校の先生がたなど、思わぬ評価を受けました。
これは、私への評価というより、教養教育の問題、あるいは専門教育でさえ、専門化しすぎているということを反映しているようです。専門は専門で、ある幅の広さが必要です。
近年、地質学を名乗る学科がほとんどなくなり、地質調査をできない地球科学者が当たり前になってきました。地球科学者が、すべて地質調査ができなければいけないとはいいません。でも、この10年ほどで、一気に地質学者の供給が、激減しました。社会の需要は減ったかもしれません。でも、やはり必要としている業種もあり、そしてその業種の人たちは、人材不足に悩んでいます。
大学が自ら選んだ選択肢ならいいのです。でも、社会が必要としているという「迎合」がないでしょうか。あるいは、政治の圧力はないでしょうか。
ある学問が、明日、必要だといっても、明後日に、その学問が完成できないのです。特に基礎学問はそうです。ですから、今は無駄かもしれませんが、知的蓄積が必要なのです。
私が、目指しているような大学での生涯学習など、大学を挙げて、おこなっています。私のやるようなことは、所詮、ゲリラ的なものです。ですから、本流ではないですし、どんなにいい方法論を提示できても、本流にはすぐにはなりえません。でも、もしかすると、万に一つかもしれませんが、将来、本流とはいわなくても、ある階層の人たちに有用な方法になるやもしれません。基礎学問とは、そういうものではないでしょうか。
そして、基礎学問をおこなう人の心構えは、上で述べたようにオリジナリティではないでしょうか。つまりは、人類の知的資産を生み出すことです。
「今日、役にも立たない理論」など、無駄でしょうか。日本には、基礎的な学問をおこなう研究者を養う余裕もないのでしょうか。明日のための学問しか受け入れられないのでしょうか。明後日のあるいは、ずーっと将来、あるいは役に立たない学問をする人を養う余裕すらないのでしょうか。
2002年11月1日金曜日
10 ロゼッタストーン:知の集積(2002年11月1日)
2002年8月31日から9月10日まで、イギリスに行きました。その目的のひとつは、ロゼッタストーン(Rosetta Stone)を、見ることでした。ロゼッタストーンは、ロンドンの大英博物館に、現在、保管され、一般公開されています。
大英博物館(British Museum)は、イギリスの国立の博物館です。その歴史は、1753年に、イギリスの博物学者で初代館長のハンス・スローンのコレクションと、第1代・第2代オックスフォード伯のコレクションに、マグナ・カルタなどをふくむロバート・コットンの蔵書をくわえて設立されました。
大英博物館の建物は、ロバート・スマークの設計で、1847年に完成したものです。現在、この建物には、10の部門と1972年に大英博物館から独立した大英図書館の一部がはいっています。1883年に自然科学部門が独立して自然史博物館となり、1909年には自然史博物館から科学博物館が独立しました。
こんな由緒のあり、人類の至宝が数限りなくあるような大英博物館でも、ロゼッタストーンは、目玉となっています。
ロゼッタストーンの碑文は、ギリシア語と、エジプト語のヒエログリフ(象形文字で神聖文字ともいう)とデモティック(民衆文字)の3種類の文字で書かれています。ヒエログリフ(Hieroglyph)は、古代エジプトの象形文字で、聖刻文字、神聖文字ともいわれます。このヒエログリフの解読から、エジプト学の基礎がきずかれたという曰(いわ)くつきの歴史的資料です。
1799年、エジプト、ロゼッタ近郊で、ナポレオンのエジプト遠征に従軍していた工兵隊の士官が、ロゼッタストーンを発見しました。ロゼッタは、英語読みで、現地ではラシード(Rashid)と呼ばれているナイル川デルタ地域ラシード支流の河口にある町です。
碑文の内容は、エジプト王プトレマイオス5世をたたえる神官団の布告で、紀元前196年に刻まれたものです。ギリシア語の和訳を読んだのですが、美辞麗句、飾りの言葉だらけで、あまり内容のないものでした。
ヒエログリフの解読は、最初、スウェーデンの外交官ヨハン・ダビド・オケルブラドが、この文のデモティック中の表音文字の解読に部分的に成功しました。ヒエログリフの解読では、イギリスのヤングとフランスのシャンポリオンが、その功を争いました。
ヤング(Thomas Young、1773~1829)は、私には、物理学でなじみのある研究者です。光の干渉現象を発見し、光の波動説の確立に貢献しました。弾性の理論的研究では、弾性率のひとつに、彼の名にちなんだヤング率があります。
ヤングの職業は医者でした。ですから医学でも、目についての研究で業績を上げました。眼球を調節する筋肉があることを解剖学的に示し、乱視について記載し、その原因を指摘しました。
さらに、古代エジプト文字の研究で、ロゼッタストーンにヒエログリフの解読においても功績があります。ヤングは、いくつかの固有名詞の解読に成功しました。
もう一人のシャンポリオン(Jean-Francois Champollion、1790~1832)は、小さいころから語学の天才でした。研究は、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、エチオピア語、ペルシア語、中国語から、メキシコの古文字にまでおよび、16歳のころコプト語が古代エジプト語の流れであることを突き止めています。その後、コプト語辞典の編纂や、エジプトの歴史や地理の研究にも熱中しました。
シャンポリオンの業績は、なんといっても、ロゼッタストーンの碑文の解読でしょう。1821年に、2種類のエジプト語の文が表音的にはじまることを解明し、ロゼッタストーンなどの碑文における王の名前の書き方が、ヒエログリフでのカルトゥーシュ(王の名前で枠で囲われたもの)であること確認しました。1822年には、一気に碑文のすべての解読に成功しました。この結果を、1822年に、パリ学士院で発表しました。この年が、近代エジプト学のはじまりとされています。シャンポリオンは、この後、10年ほどで、エジプト学の広い分野にわたって業績をあげ、近代のエジプト学の創始者となりました。
(以下は、ライブです)
以下では、私が見たロゼッタストーンについて紹介しましょう。
ここからの文章は、大博物館の中心部にあるReading Roomで書いています。まあ、いってみれば、メールマガジンの送り手側のライブです。
大英博物館から独立した大英図書館が一部大英博物館に残されています。このReading Roomは、その図書館の閲覧室にあたり、実際に閲覧できるところです。しかし、多く観光客は、入り口で引き返すので、中は静かに、本を読んだり、入力作業ができます。なんとこのReading Roomは、1857年以来、市民が利用できるのです。約150年間、このテーブルに何人の人が本を広げ、この椅子に何人の人が知的好奇心を満たすために座ったのでしょうか。マルクスも個々を利用したと書いてありました。時間の重みを感じます。
多くの人は、ロゼッタストーンを写真で見ていると思います。みれば、だれでも、「ああ、これか」と思い出せるほど有名なものです。また、イギリス、ロンドンを訪れた人の多くは、大英博物館を訪れ、ロゼッタストーンは見たことがあると思います。
ロゼッタストーンは、現在は、ガラスで覆われており、全体のいい写真を撮ることができませんでした。残念ですが、しょうがありません。このロゼッタストーンは、1802年の終わりころ、紆余曲折をへた後、大英博物館に落ち着き、それ以来、現在まで、一般公開されています。なんと、200年間も、市民に展示されてきたのです。なんと素晴らしい経歴をロゼッタストーンは持っているのでしょうか。
ロゼッタストーンは、高さが114cm、幅が72cm、厚さは28~30cm、重さ762kgの黒っぽい岩石でできた板です。ロゼッタストーンは完全なものではなく、左上の角のかなりの部分と、右上の縁の細い部分、右下の角が失われています。もともとは、上が半円形で、下が四角い、西洋の墓石のような形をしていたと考えられています。
多くの説明には、岩石の種類は、玄武岩と記されているのですが、ロゼッタストーンの説明文では、花崗閃緑岩(Granodiolite)と書かれています。
地質学的にみると、つまり私が見たロゼッタストーンは、以下のようです。
ロゼッタストーンは、2種類の岩石からできています。
大部分は、ドレライトという玄武岩よりやや粗粒の結晶からなる火成岩です。マグマとしては珪酸(SiO2)が少なく、鉄やマグネシウムの多い塩基性の性質を持つマグマからできたものです。黒く緻密な岩石で、見慣れない人には結晶は見ません。しかし、よく見るとロゼッタストーンの欠けた部分の割れ目で、ガラス越しですが、単斜輝石の柱状結晶が光ってみました。写真にとって拡大してみると、斜長石の結晶もみえます。ですから、オフィティック組織と呼ばれる、ドレライト固有の岩石組織を持っているようです。
左上部に、中央上部から左上部にかけて、数センチメートルの幅のピンク色の脈状の部分があります。これが、もうひとつの岩石である粗粒の花崗閃緑岩の岩脈の部分です。裏側の割れ目でみると、ピンク色のカリ長石、白色の斜長石、無色の石英、黒く不定形の角閃石、まれに黒く角ばった輝石が見えます。マグマが固まってできた火成岩ですが、ドレライトとは違い、珪酸が多く、鉄やマグネシウムの少ない酸性の性質のマグマからできたものです。
他のエジプトの岩石でできた資料をいくつもみていきますと、塩基性の岩石に酸性の岩石が貫入しているものが、よく見かけられます。ですから、石材の産地のひとつとして、塩基性のマグマの活動後、酸性のマグマが活動した地域のものが使われているようです。
ロゼッタストーンだけではないのですが、古代エジプトの岩石の加工技術は、素晴らしいものです。現代のような道具を使えば、可能でしょうが、何トンもあるような岩石を切り出し、細かい加工をして、表面もきれいに磨き上げています。どのような技術を使ったのでしょうか。
ロゼッタストーンの表面に刻まれた、小さいな文字、ヒエログリフの細かい模様、小さなギリシア文字、本当に細かい文字が刻まれています。素晴らしい技術です。
一番感心したのは、古代エジプトの人々が、文字や絵で、「記録」するという重要性を十分知っていたことに驚きます。移ろいやすい人間は、せいぜい100年の寿命です。でも、死者は、ミイラになれば永遠に生きながらえます。そして、文字として石や紙(パピルス)に記録されたものは、やはり永遠にその記録は残ります。そんなことを、彼らは悟っていたのです。
エジプト人は、庶民から王様まで、住まいは、日干し粘土で固めたような粗末な家に住んでいたようです。現世の富や名誉より、死後に残すものに、財力や精力をつぎ込んだようです。その結晶が、ヒエログリフが刻まれた多くの死者の副葬品です。
現代生活にその教訓を、活かせないでしょうか。「今」の快楽を求めて刹那的に生きるより、後世に残る仕事、あるいは知的資産の積み上げに、精力を使って生きればどうでしょうか。そうすれば、必要以上のものや富、労力は使われず、後世の人のためにとって置けます。あるいは自然に対しても必要以上に負担を強いることがないかもしれません。
古代エジプト人は、自分たちの言葉は永遠に消えないと信じていました。古代エジプト人は、こんな格言を残していたそうです。
「未来に向けて語るべし、それは必ず聞かれん」
われわれは、未来に何を語るのでしょうか。今のみを語っているのではないでしょうか。
・なぜ、大英博物館なのか(これもライブです)・
本来なら、私の志向や興味から言えば、自然史博物館に行くべきではないでしょうか。ところが、なぜか、大英博物館なのです。9月6日夕方、エディンバラからロンドンに着いて、9日の昼にロンドンを発つまでの、2日間すべてを、大英博物館の中ですごしました。両日とも8時間ほどいました。もちろん、トイレから食事まで内部にあり、そして世界一級の資料が、すぐそこにあるのです。さらにいえば、その2日間の半分以上はReading Room、つまり図書館にいました。
ロンドンの町は、ホテルと大英博物館(徒歩5分ほど)のホテルの近くで夕食を食べるほか、ほとんど見ていないことになります。それに、展示物を見るだけが、大英博物館の見方ではないと思います。そこに流れる長い時間に浸ること、それも、大英博物館の見方ではないでしょうか。
その理由は、いくつかあるのですが、世界最高の知の集積の場で、その雰囲気を胸いっぱいに吸い込みたいと思ったからです。
大英博物館が資料としてあつめたもの、そして現在も集めているもの、それは、人の営為かも知れません。
それを為した人:芸術家や職人、必要に迫れて作った庶民、名も亡き人、などなど。
それを為さしめた人:皇帝、王、貴族、支配者、神官、宗教家、などなど。
それに協力した人:市民、庶民、納税者、奴隷、下層に人々、などなど。
それを観る後世の人々:解読する人、解析する人、感動する人、味わう人、圧倒される人、たたずむ人、観光する人、学ぶ人、老若男女、過去の人、現在の人、未来の人、などなど。
そんないろいろな人の営為の集積、そんな人の知恵と知恵の衝突の集積が、ここにはあるのかもしれません。
ならば、そんな人の営為の集積、そんな人の知恵と知恵の衝突の集積を、ほんの短い時間ですが、体全体で感じたいと思ったのです。
・ロゼッタストーン解読・
今回、ロゼッタストーンを見に来るにあたって、レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ著「ロゼッタストーン解読」(ISBN4-10-541601-4 C0020)を、滞在中に読みました。ロゼッタストーンに書かれた文字の解読にまつわる話です。
ロゼッタストーンのヒエログリフは、フランス人のジャン=フランソワ・シャンポリオンが解き明かしたものです。彼は、ライバルたちからの誹謗、中傷、妨害にあいながらも、病気と貧困に打ち勝って、1822年、31歳のとき、ヒエログリフの解読に成功しました。この本から、彼の熱意、彼の努力、そして弱音、
人間としてのシャンポリオンがわかりました。そして、彼のエジプト学に対する情熱も伝わりました。そして、ここまで一つのことにのめり込めた、彼の偉大さを尊敬しました。
この本を読み終わった直後に、ロゼッタストーンを見ました。感動もひとしおでした。写真をとれなくて残念でしたが、そんなことは些細なことで、ロゼッタストーンに刻まれた人類の叡智に感動しまた。
そして、大英博物館は、なぜ、こんなにも他の地域のものを集めているのか疑問に感じました。この世に一つしかないものは、あるべきところに収めるべきではないかとも思ってしまいます。ただ、これだけの宝物を、無料に世界の人々に解放しているのは、素晴らしいことだと思います。でも、罪滅ぼしかなとも思ってしまいました。
・なぜ、ロゼッタストーンなのか・
イギリスにいってロゼッタストーンをみたいと思っていました。そのきっかけとして、ひとつは、かつて担当した特別展「地球再発見」の図録の目次の背景に、ロゼッタストーンの画像を使ったこと。もうひとつは、サイモン・シン著「暗号解読」(ISBN4-1-53902-2 C0098)を読んだときに実物を見てみたいと思っていたものです。
エジプトなどの古代の文化は、長い時間にわたって継続してきたものです。古代エジプトのヒエログリフは、紀元前3000年以上も前から、紀元4世紀はじめまで使われていました。少なくとも3000年以上にわたって使われてきたわけです。人類がもっと長く使った文字といえます。
しかし、ヒエログリフは、エジプト人がギリシア文字を使うようになってから、忘れられ、解読できるものもいなくなっていたのです。ヒエログリフの解読によって、古代エジプトの人々の長い歴史が、解明されてきたのです。
ヒエログリフを通じて、古代エジプト文明の緻密さと精神性の高さが伺えます。たとえば、墓しか彼らは残さなかったのです。それは、「ロゼッタストーン解読」によれば、
「質素な家や宮殿は生きているあいだしか使わないが、墓は『永遠の家』だった。」
からだそうです。
人類の知的遺産象徴として、ロゼッタストーンやヒエログリフの本物を味わってみたいと思っていました。
蛇足ですが、私たちが日ごろ使っている漢字。これも3000年以上の歴史があり、なんといっても現役の文字として、しかも、中国、日本だけでなく、東南アジアのいくつもの国々で、文字として、利用されています。私たちはこんな素晴らしい文字を、日々使っているのです。ゆめゆめ忘れずに。
大英博物館(British Museum)は、イギリスの国立の博物館です。その歴史は、1753年に、イギリスの博物学者で初代館長のハンス・スローンのコレクションと、第1代・第2代オックスフォード伯のコレクションに、マグナ・カルタなどをふくむロバート・コットンの蔵書をくわえて設立されました。
大英博物館の建物は、ロバート・スマークの設計で、1847年に完成したものです。現在、この建物には、10の部門と1972年に大英博物館から独立した大英図書館の一部がはいっています。1883年に自然科学部門が独立して自然史博物館となり、1909年には自然史博物館から科学博物館が独立しました。
こんな由緒のあり、人類の至宝が数限りなくあるような大英博物館でも、ロゼッタストーンは、目玉となっています。
ロゼッタストーンの碑文は、ギリシア語と、エジプト語のヒエログリフ(象形文字で神聖文字ともいう)とデモティック(民衆文字)の3種類の文字で書かれています。ヒエログリフ(Hieroglyph)は、古代エジプトの象形文字で、聖刻文字、神聖文字ともいわれます。このヒエログリフの解読から、エジプト学の基礎がきずかれたという曰(いわ)くつきの歴史的資料です。
1799年、エジプト、ロゼッタ近郊で、ナポレオンのエジプト遠征に従軍していた工兵隊の士官が、ロゼッタストーンを発見しました。ロゼッタは、英語読みで、現地ではラシード(Rashid)と呼ばれているナイル川デルタ地域ラシード支流の河口にある町です。
碑文の内容は、エジプト王プトレマイオス5世をたたえる神官団の布告で、紀元前196年に刻まれたものです。ギリシア語の和訳を読んだのですが、美辞麗句、飾りの言葉だらけで、あまり内容のないものでした。
ヒエログリフの解読は、最初、スウェーデンの外交官ヨハン・ダビド・オケルブラドが、この文のデモティック中の表音文字の解読に部分的に成功しました。ヒエログリフの解読では、イギリスのヤングとフランスのシャンポリオンが、その功を争いました。
ヤング(Thomas Young、1773~1829)は、私には、物理学でなじみのある研究者です。光の干渉現象を発見し、光の波動説の確立に貢献しました。弾性の理論的研究では、弾性率のひとつに、彼の名にちなんだヤング率があります。
ヤングの職業は医者でした。ですから医学でも、目についての研究で業績を上げました。眼球を調節する筋肉があることを解剖学的に示し、乱視について記載し、その原因を指摘しました。
さらに、古代エジプト文字の研究で、ロゼッタストーンにヒエログリフの解読においても功績があります。ヤングは、いくつかの固有名詞の解読に成功しました。
もう一人のシャンポリオン(Jean-Francois Champollion、1790~1832)は、小さいころから語学の天才でした。研究は、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、エチオピア語、ペルシア語、中国語から、メキシコの古文字にまでおよび、16歳のころコプト語が古代エジプト語の流れであることを突き止めています。その後、コプト語辞典の編纂や、エジプトの歴史や地理の研究にも熱中しました。
シャンポリオンの業績は、なんといっても、ロゼッタストーンの碑文の解読でしょう。1821年に、2種類のエジプト語の文が表音的にはじまることを解明し、ロゼッタストーンなどの碑文における王の名前の書き方が、ヒエログリフでのカルトゥーシュ(王の名前で枠で囲われたもの)であること確認しました。1822年には、一気に碑文のすべての解読に成功しました。この結果を、1822年に、パリ学士院で発表しました。この年が、近代エジプト学のはじまりとされています。シャンポリオンは、この後、10年ほどで、エジプト学の広い分野にわたって業績をあげ、近代のエジプト学の創始者となりました。
(以下は、ライブです)
以下では、私が見たロゼッタストーンについて紹介しましょう。
ここからの文章は、大博物館の中心部にあるReading Roomで書いています。まあ、いってみれば、メールマガジンの送り手側のライブです。
大英博物館から独立した大英図書館が一部大英博物館に残されています。このReading Roomは、その図書館の閲覧室にあたり、実際に閲覧できるところです。しかし、多く観光客は、入り口で引き返すので、中は静かに、本を読んだり、入力作業ができます。なんとこのReading Roomは、1857年以来、市民が利用できるのです。約150年間、このテーブルに何人の人が本を広げ、この椅子に何人の人が知的好奇心を満たすために座ったのでしょうか。マルクスも個々を利用したと書いてありました。時間の重みを感じます。
多くの人は、ロゼッタストーンを写真で見ていると思います。みれば、だれでも、「ああ、これか」と思い出せるほど有名なものです。また、イギリス、ロンドンを訪れた人の多くは、大英博物館を訪れ、ロゼッタストーンは見たことがあると思います。
ロゼッタストーンは、現在は、ガラスで覆われており、全体のいい写真を撮ることができませんでした。残念ですが、しょうがありません。このロゼッタストーンは、1802年の終わりころ、紆余曲折をへた後、大英博物館に落ち着き、それ以来、現在まで、一般公開されています。なんと、200年間も、市民に展示されてきたのです。なんと素晴らしい経歴をロゼッタストーンは持っているのでしょうか。
ロゼッタストーンは、高さが114cm、幅が72cm、厚さは28~30cm、重さ762kgの黒っぽい岩石でできた板です。ロゼッタストーンは完全なものではなく、左上の角のかなりの部分と、右上の縁の細い部分、右下の角が失われています。もともとは、上が半円形で、下が四角い、西洋の墓石のような形をしていたと考えられています。
多くの説明には、岩石の種類は、玄武岩と記されているのですが、ロゼッタストーンの説明文では、花崗閃緑岩(Granodiolite)と書かれています。
地質学的にみると、つまり私が見たロゼッタストーンは、以下のようです。
ロゼッタストーンは、2種類の岩石からできています。
大部分は、ドレライトという玄武岩よりやや粗粒の結晶からなる火成岩です。マグマとしては珪酸(SiO2)が少なく、鉄やマグネシウムの多い塩基性の性質を持つマグマからできたものです。黒く緻密な岩石で、見慣れない人には結晶は見ません。しかし、よく見るとロゼッタストーンの欠けた部分の割れ目で、ガラス越しですが、単斜輝石の柱状結晶が光ってみました。写真にとって拡大してみると、斜長石の結晶もみえます。ですから、オフィティック組織と呼ばれる、ドレライト固有の岩石組織を持っているようです。
左上部に、中央上部から左上部にかけて、数センチメートルの幅のピンク色の脈状の部分があります。これが、もうひとつの岩石である粗粒の花崗閃緑岩の岩脈の部分です。裏側の割れ目でみると、ピンク色のカリ長石、白色の斜長石、無色の石英、黒く不定形の角閃石、まれに黒く角ばった輝石が見えます。マグマが固まってできた火成岩ですが、ドレライトとは違い、珪酸が多く、鉄やマグネシウムの少ない酸性の性質のマグマからできたものです。
他のエジプトの岩石でできた資料をいくつもみていきますと、塩基性の岩石に酸性の岩石が貫入しているものが、よく見かけられます。ですから、石材の産地のひとつとして、塩基性のマグマの活動後、酸性のマグマが活動した地域のものが使われているようです。
ロゼッタストーンだけではないのですが、古代エジプトの岩石の加工技術は、素晴らしいものです。現代のような道具を使えば、可能でしょうが、何トンもあるような岩石を切り出し、細かい加工をして、表面もきれいに磨き上げています。どのような技術を使ったのでしょうか。
ロゼッタストーンの表面に刻まれた、小さいな文字、ヒエログリフの細かい模様、小さなギリシア文字、本当に細かい文字が刻まれています。素晴らしい技術です。
一番感心したのは、古代エジプトの人々が、文字や絵で、「記録」するという重要性を十分知っていたことに驚きます。移ろいやすい人間は、せいぜい100年の寿命です。でも、死者は、ミイラになれば永遠に生きながらえます。そして、文字として石や紙(パピルス)に記録されたものは、やはり永遠にその記録は残ります。そんなことを、彼らは悟っていたのです。
エジプト人は、庶民から王様まで、住まいは、日干し粘土で固めたような粗末な家に住んでいたようです。現世の富や名誉より、死後に残すものに、財力や精力をつぎ込んだようです。その結晶が、ヒエログリフが刻まれた多くの死者の副葬品です。
現代生活にその教訓を、活かせないでしょうか。「今」の快楽を求めて刹那的に生きるより、後世に残る仕事、あるいは知的資産の積み上げに、精力を使って生きればどうでしょうか。そうすれば、必要以上のものや富、労力は使われず、後世の人のためにとって置けます。あるいは自然に対しても必要以上に負担を強いることがないかもしれません。
古代エジプト人は、自分たちの言葉は永遠に消えないと信じていました。古代エジプト人は、こんな格言を残していたそうです。
「未来に向けて語るべし、それは必ず聞かれん」
われわれは、未来に何を語るのでしょうか。今のみを語っているのではないでしょうか。
・なぜ、大英博物館なのか(これもライブです)・
本来なら、私の志向や興味から言えば、自然史博物館に行くべきではないでしょうか。ところが、なぜか、大英博物館なのです。9月6日夕方、エディンバラからロンドンに着いて、9日の昼にロンドンを発つまでの、2日間すべてを、大英博物館の中ですごしました。両日とも8時間ほどいました。もちろん、トイレから食事まで内部にあり、そして世界一級の資料が、すぐそこにあるのです。さらにいえば、その2日間の半分以上はReading Room、つまり図書館にいました。
ロンドンの町は、ホテルと大英博物館(徒歩5分ほど)のホテルの近くで夕食を食べるほか、ほとんど見ていないことになります。それに、展示物を見るだけが、大英博物館の見方ではないと思います。そこに流れる長い時間に浸ること、それも、大英博物館の見方ではないでしょうか。
その理由は、いくつかあるのですが、世界最高の知の集積の場で、その雰囲気を胸いっぱいに吸い込みたいと思ったからです。
大英博物館が資料としてあつめたもの、そして現在も集めているもの、それは、人の営為かも知れません。
それを為した人:芸術家や職人、必要に迫れて作った庶民、名も亡き人、などなど。
それを為さしめた人:皇帝、王、貴族、支配者、神官、宗教家、などなど。
それに協力した人:市民、庶民、納税者、奴隷、下層に人々、などなど。
それを観る後世の人々:解読する人、解析する人、感動する人、味わう人、圧倒される人、たたずむ人、観光する人、学ぶ人、老若男女、過去の人、現在の人、未来の人、などなど。
そんないろいろな人の営為の集積、そんな人の知恵と知恵の衝突の集積が、ここにはあるのかもしれません。
ならば、そんな人の営為の集積、そんな人の知恵と知恵の衝突の集積を、ほんの短い時間ですが、体全体で感じたいと思ったのです。
・ロゼッタストーン解読・
今回、ロゼッタストーンを見に来るにあたって、レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ著「ロゼッタストーン解読」(ISBN4-10-541601-4 C0020)を、滞在中に読みました。ロゼッタストーンに書かれた文字の解読にまつわる話です。
ロゼッタストーンのヒエログリフは、フランス人のジャン=フランソワ・シャンポリオンが解き明かしたものです。彼は、ライバルたちからの誹謗、中傷、妨害にあいながらも、病気と貧困に打ち勝って、1822年、31歳のとき、ヒエログリフの解読に成功しました。この本から、彼の熱意、彼の努力、そして弱音、
人間としてのシャンポリオンがわかりました。そして、彼のエジプト学に対する情熱も伝わりました。そして、ここまで一つのことにのめり込めた、彼の偉大さを尊敬しました。
この本を読み終わった直後に、ロゼッタストーンを見ました。感動もひとしおでした。写真をとれなくて残念でしたが、そんなことは些細なことで、ロゼッタストーンに刻まれた人類の叡智に感動しまた。
そして、大英博物館は、なぜ、こんなにも他の地域のものを集めているのか疑問に感じました。この世に一つしかないものは、あるべきところに収めるべきではないかとも思ってしまいます。ただ、これだけの宝物を、無料に世界の人々に解放しているのは、素晴らしいことだと思います。でも、罪滅ぼしかなとも思ってしまいました。
・なぜ、ロゼッタストーンなのか・
イギリスにいってロゼッタストーンをみたいと思っていました。そのきっかけとして、ひとつは、かつて担当した特別展「地球再発見」の図録の目次の背景に、ロゼッタストーンの画像を使ったこと。もうひとつは、サイモン・シン著「暗号解読」(ISBN4-1-53902-2 C0098)を読んだときに実物を見てみたいと思っていたものです。
エジプトなどの古代の文化は、長い時間にわたって継続してきたものです。古代エジプトのヒエログリフは、紀元前3000年以上も前から、紀元4世紀はじめまで使われていました。少なくとも3000年以上にわたって使われてきたわけです。人類がもっと長く使った文字といえます。
しかし、ヒエログリフは、エジプト人がギリシア文字を使うようになってから、忘れられ、解読できるものもいなくなっていたのです。ヒエログリフの解読によって、古代エジプトの人々の長い歴史が、解明されてきたのです。
ヒエログリフを通じて、古代エジプト文明の緻密さと精神性の高さが伺えます。たとえば、墓しか彼らは残さなかったのです。それは、「ロゼッタストーン解読」によれば、
「質素な家や宮殿は生きているあいだしか使わないが、墓は『永遠の家』だった。」
からだそうです。
人類の知的遺産象徴として、ロゼッタストーンやヒエログリフの本物を味わってみたいと思っていました。
蛇足ですが、私たちが日ごろ使っている漢字。これも3000年以上の歴史があり、なんといっても現役の文字として、しかも、中国、日本だけでなく、東南アジアのいくつもの国々で、文字として、利用されています。私たちはこんな素晴らしい文字を、日々使っているのです。ゆめゆめ忘れずに。
2002年10月1日火曜日
09 ハットンの見た露頭:現実とスケッチ(2002年10月1日)
近代地質学の基礎を築いたのは、イギリスの地質学者のジェームス・ハットン(James Hutton、1726~1797)とされています。ハットンは、スコットランドのエディンバラで生まれました。彼が調べた地域、特にスケッチの残された現場を、今回見に行きました。
イギリスは、ベーコン(Francis Bacon、1561~1626)を生んだ国です。ベーコンは、「ノウム・オルガヌム」(1620年)で、科学に、精密な観察と実験をもちこみ、実証主義を提唱しました。ベーコンの国、イギリスで、実証主義的に地質学が構築されたのは、1世紀半もあとのジェームス・ハットンでした。
ハットンは、花崗岩の貫入や地層の不整合という現象を、自分で、実証的に観察し、18世紀末に理論化しました。それは、「地球の理論」(Theory of the Earth)という著書で体系化されました。1775年に、エジンバラ王立協会の会合でハットンが発表したものが、1778年の会報に掲載され、1795年に増補され、「地球の理論」の2巻の単行本として出版されたものです。
ハットンは、地球内部の熱によって、地表が上下運動して、さまざまな地質現象が、永遠に繰り返されるものだと考えました。地球を大きな熱機関と考えたのです。ハットンは、花崗岩は、地球内部の熱によって形成されたという火成説を唱え、A. G. ウェルナーらの水成説と対立しました。
ハットンは、ルネッサンス以後蓄積されてきた、化石や鉱物、地層、岩石の断片的知識を、はじめて、科学的に地質学として体系化しました。ハットンは、多くの事実から仮説を構築するに当たって、論理的な考え方でおこないました。そして、その科学的な考え方は、斉一(せいいつ)説と呼ばれ、火成説とともに、近代地質学の基本的な考えとなっています。
ところが、ハットンの「地球の理論」は、難解であったため、当時の世には、ほとんど評価されませんでした。さらに、空想的で思弁的な同名の本が、かつて何冊かあったこと、彼が無神論者であったことも災いしていたのかもしれません。
ハットンの友人で、このシッカー・ポイントの調査にも同行したプレイフェア(John Playfair)は、この説の重要性を理解していました。エジンバラ大学の数学教授プレイフェアは、1802年に、「ハットンの地球理論の解説」(1802)という本を出版し、ハットンの考えを普及に努力しました。ハットンの説は、この本によってようやく世に知られるようになりました。
その後の研究の蓄積と、ライエル(Charles Lyell、1797~1875)の「地質学原理」(1830~1832、全3巻)によって、「斉一説」に基づく地質学が、充実していくのです。チャールズ・ダーウィンは、ライエル友人でもあり、ライエルの説に影響をうけて、進化論を提唱にいたります。進化論と斉一説は相反するものですが、ライエルは、ダーウィンの説を強力に支持しました。
さて、私は、2002年8月31日から9月10日まで、地質学発祥の地、イギリスを訪れました。今回の調査で訪れたのは、イギリスの北部、スコットランドのエディンバラ周辺でした。ハットンが野外調査をした地でもあります。
教科書の写真で、何度もみいているのですが、ハットンが見て、地質学の礎(いしずえ)とした露頭を、現場で見てみたいというのが、今回の訪英の一番の目的でした。まあ、自己満足かもしれません、現場主義的におこないたい私のやり方でもあります。
さて、ハットンが調べた地質で、スケッチが残されている露頭がいくつかありますが、なかでも有名なのは、不整合の露頭です。それは、ジョン・クラーク(John Clerk of Eldin)が、ハットンに同行し、描いたものが、たくさんあります。
「ハットンの不整合」と名づけられている露頭があり、近代地質学のハットンの業績を象徴しているものです。「ハットンの不整合」の露頭としては、シッカー・ポイント(Siccar Point)と、アラーズ・ミル(Allar's Mill)の露頭が有名です。
シッカー・ポイントは、エディンバラの東方約50キロメートル、ダンバー(Dunbar)という町の近くにあります。シッカー・ポイントは、非常に有名なところで、地質学の教科書にもよくでているところです。この付近の地質巡検には必ず入れられるようなところで、日本人の地質学者も何人も訪れています。 ここの露頭は、ジェームス・ホール(James Hall)が描いたスケッチがあります。一応、概略はわかるのですが、実際の露頭を見ると、かなり違いがあります。これは、露頭のほうが見事で、スケッチが見劣りするためでしょう。
もう一箇所のアラーズ・ミルの「ハットンの不整合」は、ジェドバラ(Jedburgh)という、イングランドとの境界に近い町はずれのジェド川(Jed Water)のがけにあるものです。
アラーズ・ミルの不整合は、スケッチが有名です。スケッチはジョン・クラークが描いたものです。スケッチでは、不整合の露頭が崖になっていて、上は、平らな地形になっています。崖沿いには、道があり、道の奥は、牧草地なっています。道には、騎乗した旅人と馬車の騎手が、すれ違うときに手を上げて挨拶しているもので、当時の様子が感じられて、不整合の露頭もさることながら、その風景のスケッチが、印象に強く残っています。
今回、アラーズ・ミルも訪れました。しかし、その「ハットンの不整合」は、あまりにもスケッチとはかけ離れたものでした。川の対岸にその不整合の露頭はありました。しかし、風化や浸食が激しく、昔の面影は、ほとんどありませんでした。一応、露頭の前の草は刈られていて、露頭の全貌を見ることはできました。でも、その露頭での本当の不整合面は、上から雨水で流された土砂をかぶっていて、よくわからなくなっていました。
「ハットンの不整合」のスケッチがされている場所で、露頭を2箇所みました。そして、どちらも、現実と、事前に得ていた情報とは、かなり違っていたというのが、最終的な印象でした。
しかし、考えてみると、写実的なスケッチとは、どんなものでしょうか。今回の調査で、私は大量の写真をとりました。スコットランドだけで、1000枚以上とりました。ハットンは、もちろん写真のなかった時代の人です。
では、写真のない時代は、なにを写実としたのでしょう。もちろんスケッチでしょう。スケッチは、人手によっておこなわれます。そして、ジョン・クラークの手記や印刷物をみると、現場では、ラス・スケッチをして、帰ってきてから、じっくりと絵を描き直しているような気がします。
とりあえず、必要なところだけを、現場では描いて帰るわけです。ラフであろうと詳細なスケッチであろうと、現場で書いたもののうち、重要なものは、清書されます。そのときに、現場のスケッチをもとに、いろいろ手を加えます。ジョン・クラークの馬車もそのようなものでしょう。このようなことは、多くの人が、研究者ももちろん、現在でも当たり前におこなっていることです。しかし、スケッチや写真をつかって、「事実」や「生データ」を、提示しているわけです。
現代では、写真を私たちは、つい写実の象徴と考えてしまいます。しかし、「実物」や「現実」などの「なま」のものを、カメラで「切り取る」こと、そして「記録」することは、その行為をする時点で、すでに加工をしているのです。写真ですら、構図、露出、シャッター速度などを決め、そして、2次元の画像として、「切り取って」いるのです。だから、ハットンのスケッチを、間違っているなどと批判してはいけないのでしょう。
彼が、何を記録し、何を観察し、何を伝えたかったか、そして、それが伝わったかが、大切ではないでしょうか。もちろん、写真でも同じです。
ジェームス・ハットンは、「地球の理論」(Theory of the Earth)の結論として、有名な格言を残しています。
"We find no vestige of a beginning and no prospect of an end"
「私たちは、はじまりの痕跡も、おわりの予見も、なにも見つけられない」
・確かな岬・
シッカー・ポイントのSiccarとは、スコットランドで使われている「確かな」という意味の言葉で、古い英語で、sureの語源となっている単語です。シッカー・ポイントは、ポイントが「岬」という意味で、「確かな岬」となります。
その露頭は、牧場の中をしばらく歩き、海岸の絶壁を降りたところにあります。この断崖絶壁も、牧場として、牧草がうえてあり、柵も作られています。その中に、ここを訪れる地質屋がつけた道でしょうか、海岸へと続く、踏み跡があります。
ハットンは、スコットランドの地質調査をしていて、褶曲の激しい地層と、少しだけ傾斜した地層があることに気づき、その関係がどうなっているかを探しました。海岸線を船に乗って調査中に、この露頭を、発見したそうです。
まさに地質関係を示す「確かな岬」Siccar Pointです。
私は、この露頭に、2日間訪れ、不整合を調べ、味わいました。そして、岬のすぐ先でカニ漁をし、私に手を振るスコットランドの漁師に、ハットンの姿をダブらせました。
・写真撮影・
私は、2002年の3月まで、写真は35mmのポジフィルム(ASA64か100)で撮影していました。カメラ本体、予備一台、交換レンズ(魚眼レンズ、12mm広角レンズ)、三脚、ストロボなど、撮影用の機材だけで、出かけるときの機内持ち込み荷物がいっぱいになるほどでした。
しかし、4月以降、アナログカメラが必要なくなり、デジタルカメラに切り替えました。500万画素があれば、A4サイズで十分なクオリティが得られるからです。それに、デジタルで使用する頻度のほうが多くなってきたからです。
画像をデジタルに切り替えたおかげで、いくつか変わったことがあります。それは、写真の撮影枚数が格段に増えたこと、写真やデータの処理が、現地で終わらせることができることです。
撮影枚数は、2週間ほど調査では、アナログのときは、36枚撮りフィルムを20本前後使用します。ところが、デジタルになると、ランニングコストがまったくかからないので、やたら撮ってしまいます。ですから、スコットランドは、5泊6日の滞在でしたが、1000枚以上の写真を撮っています。
また、デジタルカメラの画像を、持参しているノートパソコンに毎晩、吸収します。そのときに、写真のメモも書き込み、ついでに、採集した資料のメモを書き加えます。すると、帰ってしなければならないことが、なくなります。非常に効率的です。そして、現地でないとわからないことがすぐに翌日調べることができます。また、確実にほしい画像は、即座に再現できますので、失敗があまりないからです。
でも、電子機器は、電源が保障されるところ、そして、故障のリスクが常に付きまといます。このために、予備は必要なのですが、今回は予備なしできました。デジタルカメラがシッカー・ポイントで動かなくなり、焦りました。でも、電池を抜いてリセットするという荒療治で、動作するようになりました。カナダでは、メモ用のパソコン一回故障し、帰国の検査でソフトが一つ壊れました。でもなんとか、データは残り、事なきを得ています。今回は、パソコンのトラブルはありません。
今のところ、デジタル・システムで満足しています。
7月のカナダの調査、そして9月の調査とデジタルのシステムで撮影を行いました。そのために、荷物が軽くなりました。デジタルカメラのデータを保存するために、ノートパソコンや電源など、まったく違った装備になりました。でも、今回のイギリスでは、予備(コンピュータ、デジタルカメラ)を持たずにきました。すると、驚くほど、荷物が軽くなりました。
地質資料と文献で荷物が倍以上に膨れ上がります。そして、思い出とパソコンに書き込んだメモを土産に、心もいっぱいになって帰るのです。
イギリスは、ベーコン(Francis Bacon、1561~1626)を生んだ国です。ベーコンは、「ノウム・オルガヌム」(1620年)で、科学に、精密な観察と実験をもちこみ、実証主義を提唱しました。ベーコンの国、イギリスで、実証主義的に地質学が構築されたのは、1世紀半もあとのジェームス・ハットンでした。
ハットンは、花崗岩の貫入や地層の不整合という現象を、自分で、実証的に観察し、18世紀末に理論化しました。それは、「地球の理論」(Theory of the Earth)という著書で体系化されました。1775年に、エジンバラ王立協会の会合でハットンが発表したものが、1778年の会報に掲載され、1795年に増補され、「地球の理論」の2巻の単行本として出版されたものです。
ハットンは、地球内部の熱によって、地表が上下運動して、さまざまな地質現象が、永遠に繰り返されるものだと考えました。地球を大きな熱機関と考えたのです。ハットンは、花崗岩は、地球内部の熱によって形成されたという火成説を唱え、A. G. ウェルナーらの水成説と対立しました。
ハットンは、ルネッサンス以後蓄積されてきた、化石や鉱物、地層、岩石の断片的知識を、はじめて、科学的に地質学として体系化しました。ハットンは、多くの事実から仮説を構築するに当たって、論理的な考え方でおこないました。そして、その科学的な考え方は、斉一(せいいつ)説と呼ばれ、火成説とともに、近代地質学の基本的な考えとなっています。
ところが、ハットンの「地球の理論」は、難解であったため、当時の世には、ほとんど評価されませんでした。さらに、空想的で思弁的な同名の本が、かつて何冊かあったこと、彼が無神論者であったことも災いしていたのかもしれません。
ハットンの友人で、このシッカー・ポイントの調査にも同行したプレイフェア(John Playfair)は、この説の重要性を理解していました。エジンバラ大学の数学教授プレイフェアは、1802年に、「ハットンの地球理論の解説」(1802)という本を出版し、ハットンの考えを普及に努力しました。ハットンの説は、この本によってようやく世に知られるようになりました。
その後の研究の蓄積と、ライエル(Charles Lyell、1797~1875)の「地質学原理」(1830~1832、全3巻)によって、「斉一説」に基づく地質学が、充実していくのです。チャールズ・ダーウィンは、ライエル友人でもあり、ライエルの説に影響をうけて、進化論を提唱にいたります。進化論と斉一説は相反するものですが、ライエルは、ダーウィンの説を強力に支持しました。
さて、私は、2002年8月31日から9月10日まで、地質学発祥の地、イギリスを訪れました。今回の調査で訪れたのは、イギリスの北部、スコットランドのエディンバラ周辺でした。ハットンが野外調査をした地でもあります。
教科書の写真で、何度もみいているのですが、ハットンが見て、地質学の礎(いしずえ)とした露頭を、現場で見てみたいというのが、今回の訪英の一番の目的でした。まあ、自己満足かもしれません、現場主義的におこないたい私のやり方でもあります。
さて、ハットンが調べた地質で、スケッチが残されている露頭がいくつかありますが、なかでも有名なのは、不整合の露頭です。それは、ジョン・クラーク(John Clerk of Eldin)が、ハットンに同行し、描いたものが、たくさんあります。
「ハットンの不整合」と名づけられている露頭があり、近代地質学のハットンの業績を象徴しているものです。「ハットンの不整合」の露頭としては、シッカー・ポイント(Siccar Point)と、アラーズ・ミル(Allar's Mill)の露頭が有名です。
シッカー・ポイントは、エディンバラの東方約50キロメートル、ダンバー(Dunbar)という町の近くにあります。シッカー・ポイントは、非常に有名なところで、地質学の教科書にもよくでているところです。この付近の地質巡検には必ず入れられるようなところで、日本人の地質学者も何人も訪れています。 ここの露頭は、ジェームス・ホール(James Hall)が描いたスケッチがあります。一応、概略はわかるのですが、実際の露頭を見ると、かなり違いがあります。これは、露頭のほうが見事で、スケッチが見劣りするためでしょう。
もう一箇所のアラーズ・ミルの「ハットンの不整合」は、ジェドバラ(Jedburgh)という、イングランドとの境界に近い町はずれのジェド川(Jed Water)のがけにあるものです。
アラーズ・ミルの不整合は、スケッチが有名です。スケッチはジョン・クラークが描いたものです。スケッチでは、不整合の露頭が崖になっていて、上は、平らな地形になっています。崖沿いには、道があり、道の奥は、牧草地なっています。道には、騎乗した旅人と馬車の騎手が、すれ違うときに手を上げて挨拶しているもので、当時の様子が感じられて、不整合の露頭もさることながら、その風景のスケッチが、印象に強く残っています。
今回、アラーズ・ミルも訪れました。しかし、その「ハットンの不整合」は、あまりにもスケッチとはかけ離れたものでした。川の対岸にその不整合の露頭はありました。しかし、風化や浸食が激しく、昔の面影は、ほとんどありませんでした。一応、露頭の前の草は刈られていて、露頭の全貌を見ることはできました。でも、その露頭での本当の不整合面は、上から雨水で流された土砂をかぶっていて、よくわからなくなっていました。
「ハットンの不整合」のスケッチがされている場所で、露頭を2箇所みました。そして、どちらも、現実と、事前に得ていた情報とは、かなり違っていたというのが、最終的な印象でした。
しかし、考えてみると、写実的なスケッチとは、どんなものでしょうか。今回の調査で、私は大量の写真をとりました。スコットランドだけで、1000枚以上とりました。ハットンは、もちろん写真のなかった時代の人です。
では、写真のない時代は、なにを写実としたのでしょう。もちろんスケッチでしょう。スケッチは、人手によっておこなわれます。そして、ジョン・クラークの手記や印刷物をみると、現場では、ラス・スケッチをして、帰ってきてから、じっくりと絵を描き直しているような気がします。
とりあえず、必要なところだけを、現場では描いて帰るわけです。ラフであろうと詳細なスケッチであろうと、現場で書いたもののうち、重要なものは、清書されます。そのときに、現場のスケッチをもとに、いろいろ手を加えます。ジョン・クラークの馬車もそのようなものでしょう。このようなことは、多くの人が、研究者ももちろん、現在でも当たり前におこなっていることです。しかし、スケッチや写真をつかって、「事実」や「生データ」を、提示しているわけです。
現代では、写真を私たちは、つい写実の象徴と考えてしまいます。しかし、「実物」や「現実」などの「なま」のものを、カメラで「切り取る」こと、そして「記録」することは、その行為をする時点で、すでに加工をしているのです。写真ですら、構図、露出、シャッター速度などを決め、そして、2次元の画像として、「切り取って」いるのです。だから、ハットンのスケッチを、間違っているなどと批判してはいけないのでしょう。
彼が、何を記録し、何を観察し、何を伝えたかったか、そして、それが伝わったかが、大切ではないでしょうか。もちろん、写真でも同じです。
ジェームス・ハットンは、「地球の理論」(Theory of the Earth)の結論として、有名な格言を残しています。
"We find no vestige of a beginning and no prospect of an end"
「私たちは、はじまりの痕跡も、おわりの予見も、なにも見つけられない」
・確かな岬・
シッカー・ポイントのSiccarとは、スコットランドで使われている「確かな」という意味の言葉で、古い英語で、sureの語源となっている単語です。シッカー・ポイントは、ポイントが「岬」という意味で、「確かな岬」となります。
その露頭は、牧場の中をしばらく歩き、海岸の絶壁を降りたところにあります。この断崖絶壁も、牧場として、牧草がうえてあり、柵も作られています。その中に、ここを訪れる地質屋がつけた道でしょうか、海岸へと続く、踏み跡があります。
ハットンは、スコットランドの地質調査をしていて、褶曲の激しい地層と、少しだけ傾斜した地層があることに気づき、その関係がどうなっているかを探しました。海岸線を船に乗って調査中に、この露頭を、発見したそうです。
まさに地質関係を示す「確かな岬」Siccar Pointです。
私は、この露頭に、2日間訪れ、不整合を調べ、味わいました。そして、岬のすぐ先でカニ漁をし、私に手を振るスコットランドの漁師に、ハットンの姿をダブらせました。
・写真撮影・
私は、2002年の3月まで、写真は35mmのポジフィルム(ASA64か100)で撮影していました。カメラ本体、予備一台、交換レンズ(魚眼レンズ、12mm広角レンズ)、三脚、ストロボなど、撮影用の機材だけで、出かけるときの機内持ち込み荷物がいっぱいになるほどでした。
しかし、4月以降、アナログカメラが必要なくなり、デジタルカメラに切り替えました。500万画素があれば、A4サイズで十分なクオリティが得られるからです。それに、デジタルで使用する頻度のほうが多くなってきたからです。
画像をデジタルに切り替えたおかげで、いくつか変わったことがあります。それは、写真の撮影枚数が格段に増えたこと、写真やデータの処理が、現地で終わらせることができることです。
撮影枚数は、2週間ほど調査では、アナログのときは、36枚撮りフィルムを20本前後使用します。ところが、デジタルになると、ランニングコストがまったくかからないので、やたら撮ってしまいます。ですから、スコットランドは、5泊6日の滞在でしたが、1000枚以上の写真を撮っています。
また、デジタルカメラの画像を、持参しているノートパソコンに毎晩、吸収します。そのときに、写真のメモも書き込み、ついでに、採集した資料のメモを書き加えます。すると、帰ってしなければならないことが、なくなります。非常に効率的です。そして、現地でないとわからないことがすぐに翌日調べることができます。また、確実にほしい画像は、即座に再現できますので、失敗があまりないからです。
でも、電子機器は、電源が保障されるところ、そして、故障のリスクが常に付きまといます。このために、予備は必要なのですが、今回は予備なしできました。デジタルカメラがシッカー・ポイントで動かなくなり、焦りました。でも、電池を抜いてリセットするという荒療治で、動作するようになりました。カナダでは、メモ用のパソコン一回故障し、帰国の検査でソフトが一つ壊れました。でもなんとか、データは残り、事なきを得ています。今回は、パソコンのトラブルはありません。
今のところ、デジタル・システムで満足しています。
7月のカナダの調査、そして9月の調査とデジタルのシステムで撮影を行いました。そのために、荷物が軽くなりました。デジタルカメラのデータを保存するために、ノートパソコンや電源など、まったく違った装備になりました。でも、今回のイギリスでは、予備(コンピュータ、デジタルカメラ)を持たずにきました。すると、驚くほど、荷物が軽くなりました。
地質資料と文献で荷物が倍以上に膨れ上がります。そして、思い出とパソコンに書き込んだメモを土産に、心もいっぱいになって帰るのです。
2002年9月1日日曜日
08 オフィオライト(2002年9月1日)
オフィオライトというものをご存知でしょうか。私の卒業論文、修士論文、そして博士論文は、オフィオライトを素材にして、書きました。その後は、いろいろな研究に興味は移りました。でも、10年近くは、オフィオライトを研究してきました。今回は、オフィオライトというものを紹介しましょう。
オフィオライト(英語でophioliteと書きます)とは、ギリシャ語の蛇をあらわす言葉オフィス(ophis)と、石をあらわす言葉リソス(lithos)を合わせた言葉です。19世紀中ごろから、英語として使われている言葉です。なぜ、このような「蛇の石」などという言葉が使われているのでしょうか。それは、オフィオライトに伴われるカンラン岩が、蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれる岩石になっているからです。日本語でも蛇紋岩といわれていることからわかるように、岩石が、蛇ような模様や色をして、岩石の表面も蛇の肌のように、てかてかと光っているためです。
現在では、オフィオライトは、一連の岩石グループの名称となっています。その一連の岩石グループとは、海洋底を構成していたものです。下から、カンラン岩、斑レイ岩、玄武岩、チャートと呼ばれる岩石が重なっています。
それぞれの岩石を紹介しましょう。
カンラン岩は、マントルを構成している岩石です。カンラン石という鉱物をおもな構成物とする岩石で、比重も大きく、オリーブ色のきれいな岩石です。しかし、地表で見られる岩石は、オリーブ色でみられることは少なく、多くは、濃緑色、緑色など色の濃い、黒っぽく見える岩石になっています。これは、カンラン石が、蛇紋石に変わってしまっているからです。岩石名も、カンラン岩から蛇紋岩となります。
カンラン岩には、もともとマントルにあったものと、マントルが溶けていったんマグマになり、そのマグマからカンラン石が沈積してできたカンラン岩があります。ですから、カンラン岩にも起源の違うものがあるのです。その違いは、岩石の組織の違いで見分けられます。マグマからできたカンラン岩は、沈積したときに鉱物がつくる縞模様(層状構造といいます)ができますが、マントルにあったカンラン岩にはそのような構造はみられません。そして、岩石の種類が、マグマからできた層状カンラン岩は、鉱物の量比が変化して、多様なカンラン岩の種類ができます。一方、マントルのカンラン岩は、マグマが抜けて、ハルツバージャイトと呼ばれる一様なカンラン岩になっています。
つぎの斑レイ岩は、粒の粗い鉱物からできている岩石で、層状構造をもっている部分と層状構造のない部分があります。層状構造を持つ斑レイ岩は、層状のカンラン岩の上部で、斜長石が多く含まれるようになって、岩石としてカンラン岩ではなく、斑レイ岩と呼ぶべき岩石種になったものです。さらに上部では、マグマ溜まりで、マグマがそのままゆっくりと固まったものです。
玄武岩は、斑レイ岩と同じような化学成分を持ちます。しかし、斑レイ岩がゆっくり冷え固まったのに対し、玄武岩は、急激に冷え固まったものです。ですから、玄武岩は細かい粒、あるいは鉱物が十分成長できず、マグマがそのまま固まったもの(非晶質、あるいはガラス質といいます)になっているところもあります。
玄武岩には、構造によって、岩脈と枕状溶岩の2つの種類があります。
岩脈というのは、マグマが別の岩石を通り抜けるとき、つきぬけ、そのまま固まったものです。オフィオライトで見られる岩脈は、多数の岩脈が平行に貫入しているものです。非常に不思議な形態を示す岩脈群です。このような岩脈は、大地が常に広がろうとする地域でなければ、形成されないと考えられています。
枕状溶岩とは、玄武岩のマグマが、水の中で噴出したときできる形態です。字の意味するところ通り、枕をいくつも積み重ねたような構造をもっています。すべてのオフィオライトの上部にある玄武岩は枕状溶岩になっていますので、オフィオライトは、常に、水底で活動していたことを意味します。
岩脈状の玄武岩と枕状の玄武岩の関係は、連続的です。つまり、ある岩脈の上部で枕状溶岩になっているところあります。ところには、枕状溶岩を突き抜けている岩脈もあります。でも、そんな岩脈もさらに上部では枕状溶岩になっています。つまり、マグマが岩脈のあるところを通り抜けて、水底で枕状溶岩として噴出したことになります。
チャートとは、放散虫など珪質のプランクトンの遺骸からできた岩石です。ですから、チャートには、海水中に生きている生物の化石がたくさん含まれて、保存されていることもあります。その小さな化石(微化石とよびます)を調べますと、たまった年代がわかります。
チャートのほかにも、量は少ないのですが、大陸から遠く離れたところにたまる、粘土層が含まれていることがあります。粘土は、大陸の岩石が風化してできるもので、河川や風によって海に運ばれたものです。粘土のように粒の細かいものは、陸から遠い海洋にもゆっくりと堆積します。
カンラン岩、斑レイ岩、玄武岩の3種類の火成岩とチャートの堆積岩が、オフィオライトの構成メンバーです。オフィオライトの岩石グループが示したそれぞれの性質は、かつての海洋地殻を構成していたこと意味しています。オフィオライトは、海洋地殻の「化石」のようなものだったです。
オフィオライトは、大陸の各地に、さまざまな時代のものがあります。つまり、過去のいろいろな時代の海洋地殻を、陸地の調査で、研究することができるのです。なおかつ、重要なことは、海底にある海洋地殻が、2億年より若いものばかりで、もっと古いものは、陸地のオフィオライトを調べるしかないのです。
オフィオライトの重要性が再認識されだしたのは、1970年代後半のころです。プレートテクトニクスの理論が普及して、陸地の地質が、すべてプレートテクトニクスの考えで見直されたころのことです。
過去の海洋地殻を調べるにはオフィオライトを調べるしかないのです。まだ、オフィオライトが海洋地殻であることが認知されないころは、オフィオライトと海洋地殻が一致する根拠が少ないと反対する人もいました。しかし、現在では、海洋地殻やオフィオライトに関する知識も増え、その類似性を否定する人はなくなりました。しかし、注意が必要なのは、オフィオライトとよばれる岩石グループにも、海洋地殻以外の場所で形成された岩石が混じっていることあるからです。
こんなオフィオライトを、私は研究してきました。卒業論文は、北海道日高静内川上流の西縁構造帯のオフィオライト、修士課程では、岡山県西部井原地方、博士論文では、舞鶴構造帯のオフィオライトを研究しました。野外調査、岩石の顕微鏡観察、岩石と鉱物の化学組成、同位体組成をおこない、オフィオライトの年代決定、形成場、マグマの起源、マグマの組成変化をおこないました。
このような研究の指導をしていただいたのは、田崎耕市先生でした。田崎先生は、修士論文の時の指導教官でしたが、博士課程や、その後の私の研究者人生において、よき相談相手になっていただいたり、家族ぐるみの付き合いをしておりました。その付き合いは、22年に及びます。
田崎先生自身は、北海道の神居古潭帯のオフィオライト、房総半島嶺岡のオフィオライト、三郡帯のオフィオライトを研究されてきました。岡山大学、愛媛大学で教鞭をとられ、退官前や退官後は、核廃棄物について研究や、金沢市市民や子供たちへの科学教育をおこなわれていました。
2002年8月19日の朝、田崎先生は、69歳で亡くなられました。墓石は、三郡帯の鳥取県若桜地方の輝石斑レイ岩の自然石を使うように遺言されています。質素で、虚飾をきらう研究者としての最後の我儘が、墓石に込められた思いでした。それを考えると身につまされます。ご冥福を祈ります。
(合掌)
(2002.08.21)
恩師との出会いは、修士課程で、O大学O研究所(当時)を選んだときでした。
それまで、私は、H大学理学部のK教授(当時)、N助手(当時)のもとで、卒業論文で、日高のオフィオライトの調査研究をやっていました。そして、修士論文では、地域にはこだわらず、オフィオライトの研究したいために、田崎先生が、助教授(当時)でいたO研究所に進学しました。1980年4月のことでした。
そして、三郡帯のオフィオライトを研究するために、先生と一緒にいくつかの地域を回りながら、岡山県井原市付近のオフィオライトの研究をすることに決めました。
1980年の夏、井原市の由緒正しきお寺に下宿して、自転車屋で、バイク(カブという車種)を借りて、一月あまり、野外調査をしました。
修士課程2年生とき、C型肝炎の検査で恩師は、大学病院に入院されました。そして、私は、井原市で2度目の夏の調査を、恩師の車を借りて、おこないました。今度は、民家に下宿をしました。
そして、1981年の春に助手で別の講座に赴任してきたT氏に私を託し、この年夏、カナダのカルガリーに在外研究に1年間、お子さんを連れて、旅立たれました。そして、カナダ、カルガリーで先発されていた奥さんに合流されました。
その頃、私が、博士課程に進学したいといっていたので、「修士論文を無事、自力で書き上げ、博士課程に進学したら、カナダに来なさい。一緒にカナダのオフィオライトを見に行こう」と約束していました。
1982年4月、私は、H大学の博士課程に進学しました。S君は、私と入れ替わりに田崎先生の研究室に修士課程で入ってきました。約束どおり、夏休みに1ヵ月半ほど、カルガリーの田崎先生のアパートに滞在して、カナディアン・ロッキー、カルガリーのスタンピード、カナダ東部(ケベック、ニューファンドランドなどの)の地質巡検や観光を楽しみました。カナダ東部への旅行は、家族旅行も兼ねていました。ただし、行きのトロントから帰りのトロントまで、田崎先生と私は、奥さんと娘さんたちは、別行動でした。
私が帰るとき、娘さんたちは、先発して帰るため、私と一緒に日本に帰国しました。そして、子供たちは、学校が始まるまで、しばらく親戚にいました。
博士課程では、私は、フィールドを拡大して、中国地方から近畿地方にまたがる舞鶴構造帯全体に広げていました。その後、私は、年に一度か二度は、O大学C研究所(当時)を、分析のために訪れるようになっていました。そのたびに、田崎先生と研究上の相談し、家族のいる自宅を、訪れていました。私が博士論文を書きあげるころ、田崎先生は、E大学に転勤されました。
私は、博士論文提出後、1年間、O大学で研究生をしているころ、ニュージーランドへの海外調査を、田崎先生、S君、小出でいきました。その調査が、縁で、S君はニュージーランドに1年間留学しました。
結婚する前には、家内を連れ、E県の田崎先生のところを訪ねました。そのときは、歓待して頂いて、本当に楽しかったです。
あとは、電話やメールによる連絡や、機会があるたびに、顔を合わす程度でした。田崎先生がE大学を定年されて金沢で自宅をもたれ、奥さんと一番下の娘さんと住んでいたとき、田崎先生の退官記念シンポジュームが金沢大学でおこなわれました。そこで、私は、田崎宅を訪れ、一泊させていただきました。
前の職場であるK県立博物館にもこられ、箱根に2泊していただきました。そのうち、一泊は、長男と家内も一緒に宿泊しました。長男は誕生後2ヶ月で、それが最初の外泊で、田崎先生が、長男を最初に抱いてもらった人でした。
また、2001年9月下旬、日本地質学会が金沢であったとき、学会をぬけ出し、半日、田崎先生の家で、話し込みました。そのときも、病み上がりで気落ちされていた先生を励ましながら、翻訳をしましょうと話ていました。
金沢での恩師に関する記述が2つあったの紹介します。
●金沢にて● 2001.9.22
金沢にいる。
昨日から、金沢に来ている。
昨夜は学会の懇親会があり、
懐かしい、多くの人とあった。
学部と博士過程時代の恩師にあった。
今日は、朝一番の発表である。
それが終われば、金沢在住の修士過程時代の恩師と、
ゆっくりと話し合う予定である。
学会に来ると、
近くの観光地や地質名所を見るということを、
かつてはよくやっていた。
今回もすぐ近くに兼六園がある。
しかし、出かける気にならない。
これも、忙しさのせいだろうか。
それとも、老化?
●恩師の気力● 2001.9.22
急に涼しくなってきた。
初冠雪のニュースも流れている。
秋が、深まってきた。
電話では話していたが、
久しぶりに恩師に会った。
恩師は、最近病気がちで、
気力も低化している。
昨年、手術した。
7月にアルゼンチンに行って、
肺炎になり、8月はずっと寝こんでいたそうである。
今年の10月にも手術する予定だそうだ。
そして、生きることに積極的でない。
恩師は、弟子が少なく、
私と後輩の2人くらいしかいない。
だから、その後輩と恩師をなんとかしたい、
と相談している。
英語文献の日本語への翻訳が
いいのではないかと考えている。
奨めているのだが、どうも乗り気にならないようだ。
でも、なにか目的を持って生きて欲しいのだが、
今日は、1日その相談をするつもりである。
うまくいくかどうか。
あきらめずに説得しよう。
この2つが、最後にあったときの記述です。あとは、時々、電話で、体調伺いをしながら、話したことがある程度です。今年の1月に、私の転進が決まって手紙を書き、その後、電話した時、ある本が借りたくてお願いしたら、お祝いだという手紙がついていました。
もともと、あまり日記などつけない私が、転勤のときだけは、いろいろなことがあるだろうと、半年ほど日記というかメモをつけていました。
以下、転勤のころの日記より(抜粋)
2002年1月9日
田崎氏に転職の手紙を書く。退職願を提出する。
2002年1月22日
田崎氏に電話をして、転職や今後のこと話す。転職祝いに、Johanssen著のPetrography4巻を頂くことになる。
2002年1月29日
田崎氏よりPetrography4巻が着く。ありがたい。
私の過去の記録には、これだけの記述しかありません。少ないです。でも、心に占める、空虚感は大きい。
以上が私の恩師との付き合いと、思い出の概略です。書いてしまうと、これだけなのかという気もします。もっともっと長い付き合いのような気がします。年数で言えば22年に及ぶ付き合いでした。
最後のもう一度、田崎先生のご冥福を祈ります。
(合掌)
オフィオライト(英語でophioliteと書きます)とは、ギリシャ語の蛇をあらわす言葉オフィス(ophis)と、石をあらわす言葉リソス(lithos)を合わせた言葉です。19世紀中ごろから、英語として使われている言葉です。なぜ、このような「蛇の石」などという言葉が使われているのでしょうか。それは、オフィオライトに伴われるカンラン岩が、蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれる岩石になっているからです。日本語でも蛇紋岩といわれていることからわかるように、岩石が、蛇ような模様や色をして、岩石の表面も蛇の肌のように、てかてかと光っているためです。
現在では、オフィオライトは、一連の岩石グループの名称となっています。その一連の岩石グループとは、海洋底を構成していたものです。下から、カンラン岩、斑レイ岩、玄武岩、チャートと呼ばれる岩石が重なっています。
それぞれの岩石を紹介しましょう。
カンラン岩は、マントルを構成している岩石です。カンラン石という鉱物をおもな構成物とする岩石で、比重も大きく、オリーブ色のきれいな岩石です。しかし、地表で見られる岩石は、オリーブ色でみられることは少なく、多くは、濃緑色、緑色など色の濃い、黒っぽく見える岩石になっています。これは、カンラン石が、蛇紋石に変わってしまっているからです。岩石名も、カンラン岩から蛇紋岩となります。
カンラン岩には、もともとマントルにあったものと、マントルが溶けていったんマグマになり、そのマグマからカンラン石が沈積してできたカンラン岩があります。ですから、カンラン岩にも起源の違うものがあるのです。その違いは、岩石の組織の違いで見分けられます。マグマからできたカンラン岩は、沈積したときに鉱物がつくる縞模様(層状構造といいます)ができますが、マントルにあったカンラン岩にはそのような構造はみられません。そして、岩石の種類が、マグマからできた層状カンラン岩は、鉱物の量比が変化して、多様なカンラン岩の種類ができます。一方、マントルのカンラン岩は、マグマが抜けて、ハルツバージャイトと呼ばれる一様なカンラン岩になっています。
つぎの斑レイ岩は、粒の粗い鉱物からできている岩石で、層状構造をもっている部分と層状構造のない部分があります。層状構造を持つ斑レイ岩は、層状のカンラン岩の上部で、斜長石が多く含まれるようになって、岩石としてカンラン岩ではなく、斑レイ岩と呼ぶべき岩石種になったものです。さらに上部では、マグマ溜まりで、マグマがそのままゆっくりと固まったものです。
玄武岩は、斑レイ岩と同じような化学成分を持ちます。しかし、斑レイ岩がゆっくり冷え固まったのに対し、玄武岩は、急激に冷え固まったものです。ですから、玄武岩は細かい粒、あるいは鉱物が十分成長できず、マグマがそのまま固まったもの(非晶質、あるいはガラス質といいます)になっているところもあります。
玄武岩には、構造によって、岩脈と枕状溶岩の2つの種類があります。
岩脈というのは、マグマが別の岩石を通り抜けるとき、つきぬけ、そのまま固まったものです。オフィオライトで見られる岩脈は、多数の岩脈が平行に貫入しているものです。非常に不思議な形態を示す岩脈群です。このような岩脈は、大地が常に広がろうとする地域でなければ、形成されないと考えられています。
枕状溶岩とは、玄武岩のマグマが、水の中で噴出したときできる形態です。字の意味するところ通り、枕をいくつも積み重ねたような構造をもっています。すべてのオフィオライトの上部にある玄武岩は枕状溶岩になっていますので、オフィオライトは、常に、水底で活動していたことを意味します。
岩脈状の玄武岩と枕状の玄武岩の関係は、連続的です。つまり、ある岩脈の上部で枕状溶岩になっているところあります。ところには、枕状溶岩を突き抜けている岩脈もあります。でも、そんな岩脈もさらに上部では枕状溶岩になっています。つまり、マグマが岩脈のあるところを通り抜けて、水底で枕状溶岩として噴出したことになります。
チャートとは、放散虫など珪質のプランクトンの遺骸からできた岩石です。ですから、チャートには、海水中に生きている生物の化石がたくさん含まれて、保存されていることもあります。その小さな化石(微化石とよびます)を調べますと、たまった年代がわかります。
チャートのほかにも、量は少ないのですが、大陸から遠く離れたところにたまる、粘土層が含まれていることがあります。粘土は、大陸の岩石が風化してできるもので、河川や風によって海に運ばれたものです。粘土のように粒の細かいものは、陸から遠い海洋にもゆっくりと堆積します。
カンラン岩、斑レイ岩、玄武岩の3種類の火成岩とチャートの堆積岩が、オフィオライトの構成メンバーです。オフィオライトの岩石グループが示したそれぞれの性質は、かつての海洋地殻を構成していたこと意味しています。オフィオライトは、海洋地殻の「化石」のようなものだったです。
オフィオライトは、大陸の各地に、さまざまな時代のものがあります。つまり、過去のいろいろな時代の海洋地殻を、陸地の調査で、研究することができるのです。なおかつ、重要なことは、海底にある海洋地殻が、2億年より若いものばかりで、もっと古いものは、陸地のオフィオライトを調べるしかないのです。
オフィオライトの重要性が再認識されだしたのは、1970年代後半のころです。プレートテクトニクスの理論が普及して、陸地の地質が、すべてプレートテクトニクスの考えで見直されたころのことです。
過去の海洋地殻を調べるにはオフィオライトを調べるしかないのです。まだ、オフィオライトが海洋地殻であることが認知されないころは、オフィオライトと海洋地殻が一致する根拠が少ないと反対する人もいました。しかし、現在では、海洋地殻やオフィオライトに関する知識も増え、その類似性を否定する人はなくなりました。しかし、注意が必要なのは、オフィオライトとよばれる岩石グループにも、海洋地殻以外の場所で形成された岩石が混じっていることあるからです。
こんなオフィオライトを、私は研究してきました。卒業論文は、北海道日高静内川上流の西縁構造帯のオフィオライト、修士課程では、岡山県西部井原地方、博士論文では、舞鶴構造帯のオフィオライトを研究しました。野外調査、岩石の顕微鏡観察、岩石と鉱物の化学組成、同位体組成をおこない、オフィオライトの年代決定、形成場、マグマの起源、マグマの組成変化をおこないました。
このような研究の指導をしていただいたのは、田崎耕市先生でした。田崎先生は、修士論文の時の指導教官でしたが、博士課程や、その後の私の研究者人生において、よき相談相手になっていただいたり、家族ぐるみの付き合いをしておりました。その付き合いは、22年に及びます。
田崎先生自身は、北海道の神居古潭帯のオフィオライト、房総半島嶺岡のオフィオライト、三郡帯のオフィオライトを研究されてきました。岡山大学、愛媛大学で教鞭をとられ、退官前や退官後は、核廃棄物について研究や、金沢市市民や子供たちへの科学教育をおこなわれていました。
2002年8月19日の朝、田崎先生は、69歳で亡くなられました。墓石は、三郡帯の鳥取県若桜地方の輝石斑レイ岩の自然石を使うように遺言されています。質素で、虚飾をきらう研究者としての最後の我儘が、墓石に込められた思いでした。それを考えると身につまされます。ご冥福を祈ります。
(合掌)
(2002.08.21)
恩師との出会いは、修士課程で、O大学O研究所(当時)を選んだときでした。
それまで、私は、H大学理学部のK教授(当時)、N助手(当時)のもとで、卒業論文で、日高のオフィオライトの調査研究をやっていました。そして、修士論文では、地域にはこだわらず、オフィオライトの研究したいために、田崎先生が、助教授(当時)でいたO研究所に進学しました。1980年4月のことでした。
そして、三郡帯のオフィオライトを研究するために、先生と一緒にいくつかの地域を回りながら、岡山県井原市付近のオフィオライトの研究をすることに決めました。
1980年の夏、井原市の由緒正しきお寺に下宿して、自転車屋で、バイク(カブという車種)を借りて、一月あまり、野外調査をしました。
修士課程2年生とき、C型肝炎の検査で恩師は、大学病院に入院されました。そして、私は、井原市で2度目の夏の調査を、恩師の車を借りて、おこないました。今度は、民家に下宿をしました。
そして、1981年の春に助手で別の講座に赴任してきたT氏に私を託し、この年夏、カナダのカルガリーに在外研究に1年間、お子さんを連れて、旅立たれました。そして、カナダ、カルガリーで先発されていた奥さんに合流されました。
その頃、私が、博士課程に進学したいといっていたので、「修士論文を無事、自力で書き上げ、博士課程に進学したら、カナダに来なさい。一緒にカナダのオフィオライトを見に行こう」と約束していました。
1982年4月、私は、H大学の博士課程に進学しました。S君は、私と入れ替わりに田崎先生の研究室に修士課程で入ってきました。約束どおり、夏休みに1ヵ月半ほど、カルガリーの田崎先生のアパートに滞在して、カナディアン・ロッキー、カルガリーのスタンピード、カナダ東部(ケベック、ニューファンドランドなどの)の地質巡検や観光を楽しみました。カナダ東部への旅行は、家族旅行も兼ねていました。ただし、行きのトロントから帰りのトロントまで、田崎先生と私は、奥さんと娘さんたちは、別行動でした。
私が帰るとき、娘さんたちは、先発して帰るため、私と一緒に日本に帰国しました。そして、子供たちは、学校が始まるまで、しばらく親戚にいました。
博士課程では、私は、フィールドを拡大して、中国地方から近畿地方にまたがる舞鶴構造帯全体に広げていました。その後、私は、年に一度か二度は、O大学C研究所(当時)を、分析のために訪れるようになっていました。そのたびに、田崎先生と研究上の相談し、家族のいる自宅を、訪れていました。私が博士論文を書きあげるころ、田崎先生は、E大学に転勤されました。
私は、博士論文提出後、1年間、O大学で研究生をしているころ、ニュージーランドへの海外調査を、田崎先生、S君、小出でいきました。その調査が、縁で、S君はニュージーランドに1年間留学しました。
結婚する前には、家内を連れ、E県の田崎先生のところを訪ねました。そのときは、歓待して頂いて、本当に楽しかったです。
あとは、電話やメールによる連絡や、機会があるたびに、顔を合わす程度でした。田崎先生がE大学を定年されて金沢で自宅をもたれ、奥さんと一番下の娘さんと住んでいたとき、田崎先生の退官記念シンポジュームが金沢大学でおこなわれました。そこで、私は、田崎宅を訪れ、一泊させていただきました。
前の職場であるK県立博物館にもこられ、箱根に2泊していただきました。そのうち、一泊は、長男と家内も一緒に宿泊しました。長男は誕生後2ヶ月で、それが最初の外泊で、田崎先生が、長男を最初に抱いてもらった人でした。
また、2001年9月下旬、日本地質学会が金沢であったとき、学会をぬけ出し、半日、田崎先生の家で、話し込みました。そのときも、病み上がりで気落ちされていた先生を励ましながら、翻訳をしましょうと話ていました。
金沢での恩師に関する記述が2つあったの紹介します。
●金沢にて● 2001.9.22
金沢にいる。
昨日から、金沢に来ている。
昨夜は学会の懇親会があり、
懐かしい、多くの人とあった。
学部と博士過程時代の恩師にあった。
今日は、朝一番の発表である。
それが終われば、金沢在住の修士過程時代の恩師と、
ゆっくりと話し合う予定である。
学会に来ると、
近くの観光地や地質名所を見るということを、
かつてはよくやっていた。
今回もすぐ近くに兼六園がある。
しかし、出かける気にならない。
これも、忙しさのせいだろうか。
それとも、老化?
●恩師の気力● 2001.9.22
急に涼しくなってきた。
初冠雪のニュースも流れている。
秋が、深まってきた。
電話では話していたが、
久しぶりに恩師に会った。
恩師は、最近病気がちで、
気力も低化している。
昨年、手術した。
7月にアルゼンチンに行って、
肺炎になり、8月はずっと寝こんでいたそうである。
今年の10月にも手術する予定だそうだ。
そして、生きることに積極的でない。
恩師は、弟子が少なく、
私と後輩の2人くらいしかいない。
だから、その後輩と恩師をなんとかしたい、
と相談している。
英語文献の日本語への翻訳が
いいのではないかと考えている。
奨めているのだが、どうも乗り気にならないようだ。
でも、なにか目的を持って生きて欲しいのだが、
今日は、1日その相談をするつもりである。
うまくいくかどうか。
あきらめずに説得しよう。
この2つが、最後にあったときの記述です。あとは、時々、電話で、体調伺いをしながら、話したことがある程度です。今年の1月に、私の転進が決まって手紙を書き、その後、電話した時、ある本が借りたくてお願いしたら、お祝いだという手紙がついていました。
もともと、あまり日記などつけない私が、転勤のときだけは、いろいろなことがあるだろうと、半年ほど日記というかメモをつけていました。
以下、転勤のころの日記より(抜粋)
2002年1月9日
田崎氏に転職の手紙を書く。退職願を提出する。
2002年1月22日
田崎氏に電話をして、転職や今後のこと話す。転職祝いに、Johanssen著のPetrography4巻を頂くことになる。
2002年1月29日
田崎氏よりPetrography4巻が着く。ありがたい。
私の過去の記録には、これだけの記述しかありません。少ないです。でも、心に占める、空虚感は大きい。
以上が私の恩師との付き合いと、思い出の概略です。書いてしまうと、これだけなのかという気もします。もっともっと長い付き合いのような気がします。年数で言えば22年に及ぶ付き合いでした。
最後のもう一度、田崎先生のご冥福を祈ります。
(合掌)
2002年8月1日木曜日
07 構造主義的地質学(2002年08月01日)
構造主義という考え方をご存知でしょうか。もともとソシュールという言語学者に、その方法論の端は発しますが、レビ・ストロースという人類学者が確立した方法であります。構造主義というと、硬く、形式を重んじるような感じがしますが、実は、形式を打ち砕いた考え方なのです。
構造主義を簡単にいうことは難しいのですが、考えをまとめる方法として、以下のようなやり方で行われます。レビ・ストロースの神話学を例としましょう。
方法には4つのステップがあります。
1. まず、対象としているもの(文化、自然、理論なんでもいいのですが、レビ・ストロースは神話)ものの集合をひと束にして考えます。広範囲にわたってもいいのですが、その集合は何らなの共通性、何か、どこか似ているものをあつめます。
2. つぎに、その集合の基本となる要素、単位に分割していきます。その要素、単位をレビ・ストロースの場合は神話素とよんでいます。
3. その要素をつらぬ「軸」をいくつか、みつけます。その軸のうち、二項対立するようなもの(これを「構造」と呼んでいます)をいくつか選びます。
4. そして最後に、その対立軸を「構造」として、整理、分析します。レビ・ストロースは、その軸をもとに、表を作成し、解釈しました。そこから、さらにプラスαを見出せればしめたものです。
ここでは、「構造」とは、要素に分解されたものから作りあげられたものですから、定まったものではありません。構造主義でいう「構造」とは、それぞれの対象に応じて見出されるものです。ですから、もともとあるものではないのです。帰納的に見出されるものです。
それに、「構造」は、分析するための視点を示すものです。その「構造」解析から、何を抽出するかは、研究者の能力によっています。ですから、「構造」は、ある対象物の本質を見抜くための、ひとつの手法なのです。より深く分析するための方法論というべきものです。
構造主義は、要素還元主義とそこから総合的に組み立てていく手法、いってみれば西洋の伝統的な帰納法と演繹法を合体させたような手法を構築したのです。レビ・ストロースが、人類学や神話学であまりにみごとにおこなったものですから、大いにはやり、多くの分野でその適用者がいます。
この構造主義の祖ともいうべきレビ・ストロースが、構造主義の源泉として、マルクス主義、精神分析、そして地質学があるといっているそうです。意味深長です。いずれも、一見すると無秩序にみえるようなものですが、その奥には、隠された本当の秩序(構造)が見つかるというのです。あるところまで調べが進んでいきと、急に構造が見えてくるというのです。
地質学のどのような点をさしてそういったかは詳しくは知りませんが、私なりに解釈していきましょう。
たとえば、整然と重なった地層があるとします。まず最初にその地層をみたとき、その地層の重なりの整然さだけが見えてきます。しかし、そこで自然を相手にデータを収集をすれば、さまざまな次元、階層の秩序(構造)が見えてくるというのではないでしょうか。それを、わかりやすく説明するために、こんな例を考えました。
この地層から、地質学的に読み取れるさまざまなことを、その各地質学的要素(地層素とでも呼びましょうか)として考えていきます。地層素にあたるものは、岩石の種類(岩相)、化石、地質構造、変成・変質作用などが考えられます。
岩相、つまり岩石(堆積岩)の種類の違いを詳しく調べます。すると、堆積岩がたまった環境、たとえば深海や、沿岸、河口、扇状地などが読み取れます。そして、地層の下から上に岩相変化を調べていくと、環境の時間変遷が読み取れます。
つぎに、化石を調べていくと、化石とはもともとその時代に生きていた生物ですから、生活環境を知ることができま。また、地球の長い時間の経過の中で、化石が生存していた時代がわかります。つまり、化石の種類に応じて時間と環境が読み取れます。あるいは、環境の時間変化が読み取れます。
また、地層の地質構造を調べていきますと、その地層が、現在のこの地で見れるようになるために経てきた地質学的変動を、順番に、つまり時間にそって読み取っていくことができます。また、地質学的変動とは、地質学的環境の変化を意味します。
また、岩石の、変成作用や変質作用を調べていくと、堆積物が固まり、変成し、変質し、風化していく変化の順番、程度、そして変化のための条件変化(環境変化)が読み取れます。
以上のように、岩相、化石、地質構造、変成・変質作用などの地層素は、時間と環境、環境変化という軸が見えてきます。2項対立的ではないですが、無理くり対立させて、時間、変化という軸を選びます。これが、地層における「構造」ということになります。
それを、表やグラフにして考えていくと、なにかそこから新しいことがわかってくるでしょうか。これからの課題です。とりあえずは、このような手法で、分析してみようと考えています。構造主義の手法は、地質学という学問の体系を整理するのには役立かもしれません。
でも、現在のところ、それ以上でも、それ以下でもないような気がします。レビ・ストロースのような閃きは、生まれません。このような方法論は、どうも、私には、還元主義的で、いままでの科学的手法の範疇を超えていないような気がします。構造主義をしっかりと理解した人がおこなえば、もっと違った分析ができるかもしれませんが、今のところ、私にはうまくいきません。
もっと還元主義的でない手法、もっと総合的な手法、もっと自然を理解しやすい手法はないのでしょうか。私が、いま模索しているのは、そのような方法です。現在、構造主義をアンチテーゼとすべく、ポスト構造主義、あるいはポストモダンなどという考え方が提唱されています。でも、私には勉強不足でまだわかりません。人間の知恵など限りがあるはず、過去の哲人の中に、いい知恵があるかもしれません。それを勉強中です。
・哲学者の生き方・
実は、わたしは、今、地質学を考えるための新しい手法がないか模索しています。そのためのブレインストーミングとして、先人のいろいろ考えた人たち、つまり哲学者の考えを勉強しています。それは、著者の書いたものから、その解説書まで、その哲学の内容が直接わかるものであれば、原著(もちろん日本の訳)を読むより、解説書を読んだほうがいいかもしれません。両方を平行しておこなっています。
今回のエッセイは、構造主義の解説書と、デカルトの「方法序説」、プラトンの「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「パイロン」(いわゆるソクラテスの3部作)を読んだのちの私なりの復習を兼ねています。
デカルトも、ソクラテス、プラトンも読んでいると、その学問に対する真摯な態度に感銘を受けます。その内容に関しては、古い部分もあるのですが、その精神は、時代を超えて、現在にもつうじるものです。彼らの哲学よりも、生き方を学ぶべきなのかもしれません。
・地質哲学・
実は、先月(7月)の13日から23日まで、カナダのニューファンドランドにいってきました。カナダの大西洋側にある大きな島です。
目的は、先カンブリア紀-カンブリア紀境界(V-C境界と呼ばれています)の地層を見ることです。地質調査ですので、地層とその地層をつくる石を、しつこく見てきました。
でも、本当にしたかったことは、地質学的に第一級の意味をもつ境界を、「生(なま)で」みて、そこで何かを感じられないかということです。自然、実物に接したときでないと、その感覚、感動は得られません。それを味わいたかったのです。
というのも哲学というのは、書斎的でずっとこもって思索していくような感じがしますが、もっといろいろな哲学の形態があってもいいのではないかと考えています。構造主義は、そういう意味では、人文科学だけでとどまらず、自然科学の分野(生物学)でも、応用されています。
ソクラテスが、対話を通じて、哲学を深めました。デカルトも、いまでの書物を通じた哲学に限界を見出し、世界を見聞してその哲学を深めていきました。わたしも、彼らにあやかって、自然物(地層や岩石)をじかに触れることによって、地質学への思索を深められないかと考えています。書斎派ではなく、野外(フィールド)派として地質哲学を構築できないかと考えています。
まあ、それこそ、机上の空論とならいようにがんばるしかないです。本当にできるかどうか、私の能力と努力にかかっているのでしょう。まあ、道は険しく遠いけれどがんばります。
このエッセイでは、その思索の遍歴が、現れてくるはずです。実は、最初から、そのつもりではじめたのですけどね。
構造主義を簡単にいうことは難しいのですが、考えをまとめる方法として、以下のようなやり方で行われます。レビ・ストロースの神話学を例としましょう。
方法には4つのステップがあります。
1. まず、対象としているもの(文化、自然、理論なんでもいいのですが、レビ・ストロースは神話)ものの集合をひと束にして考えます。広範囲にわたってもいいのですが、その集合は何らなの共通性、何か、どこか似ているものをあつめます。
2. つぎに、その集合の基本となる要素、単位に分割していきます。その要素、単位をレビ・ストロースの場合は神話素とよんでいます。
3. その要素をつらぬ「軸」をいくつか、みつけます。その軸のうち、二項対立するようなもの(これを「構造」と呼んでいます)をいくつか選びます。
4. そして最後に、その対立軸を「構造」として、整理、分析します。レビ・ストロースは、その軸をもとに、表を作成し、解釈しました。そこから、さらにプラスαを見出せればしめたものです。
ここでは、「構造」とは、要素に分解されたものから作りあげられたものですから、定まったものではありません。構造主義でいう「構造」とは、それぞれの対象に応じて見出されるものです。ですから、もともとあるものではないのです。帰納的に見出されるものです。
それに、「構造」は、分析するための視点を示すものです。その「構造」解析から、何を抽出するかは、研究者の能力によっています。ですから、「構造」は、ある対象物の本質を見抜くための、ひとつの手法なのです。より深く分析するための方法論というべきものです。
構造主義は、要素還元主義とそこから総合的に組み立てていく手法、いってみれば西洋の伝統的な帰納法と演繹法を合体させたような手法を構築したのです。レビ・ストロースが、人類学や神話学であまりにみごとにおこなったものですから、大いにはやり、多くの分野でその適用者がいます。
この構造主義の祖ともいうべきレビ・ストロースが、構造主義の源泉として、マルクス主義、精神分析、そして地質学があるといっているそうです。意味深長です。いずれも、一見すると無秩序にみえるようなものですが、その奥には、隠された本当の秩序(構造)が見つかるというのです。あるところまで調べが進んでいきと、急に構造が見えてくるというのです。
地質学のどのような点をさしてそういったかは詳しくは知りませんが、私なりに解釈していきましょう。
たとえば、整然と重なった地層があるとします。まず最初にその地層をみたとき、その地層の重なりの整然さだけが見えてきます。しかし、そこで自然を相手にデータを収集をすれば、さまざまな次元、階層の秩序(構造)が見えてくるというのではないでしょうか。それを、わかりやすく説明するために、こんな例を考えました。
この地層から、地質学的に読み取れるさまざまなことを、その各地質学的要素(地層素とでも呼びましょうか)として考えていきます。地層素にあたるものは、岩石の種類(岩相)、化石、地質構造、変成・変質作用などが考えられます。
岩相、つまり岩石(堆積岩)の種類の違いを詳しく調べます。すると、堆積岩がたまった環境、たとえば深海や、沿岸、河口、扇状地などが読み取れます。そして、地層の下から上に岩相変化を調べていくと、環境の時間変遷が読み取れます。
つぎに、化石を調べていくと、化石とはもともとその時代に生きていた生物ですから、生活環境を知ることができま。また、地球の長い時間の経過の中で、化石が生存していた時代がわかります。つまり、化石の種類に応じて時間と環境が読み取れます。あるいは、環境の時間変化が読み取れます。
また、地層の地質構造を調べていきますと、その地層が、現在のこの地で見れるようになるために経てきた地質学的変動を、順番に、つまり時間にそって読み取っていくことができます。また、地質学的変動とは、地質学的環境の変化を意味します。
また、岩石の、変成作用や変質作用を調べていくと、堆積物が固まり、変成し、変質し、風化していく変化の順番、程度、そして変化のための条件変化(環境変化)が読み取れます。
以上のように、岩相、化石、地質構造、変成・変質作用などの地層素は、時間と環境、環境変化という軸が見えてきます。2項対立的ではないですが、無理くり対立させて、時間、変化という軸を選びます。これが、地層における「構造」ということになります。
それを、表やグラフにして考えていくと、なにかそこから新しいことがわかってくるでしょうか。これからの課題です。とりあえずは、このような手法で、分析してみようと考えています。構造主義の手法は、地質学という学問の体系を整理するのには役立かもしれません。
でも、現在のところ、それ以上でも、それ以下でもないような気がします。レビ・ストロースのような閃きは、生まれません。このような方法論は、どうも、私には、還元主義的で、いままでの科学的手法の範疇を超えていないような気がします。構造主義をしっかりと理解した人がおこなえば、もっと違った分析ができるかもしれませんが、今のところ、私にはうまくいきません。
もっと還元主義的でない手法、もっと総合的な手法、もっと自然を理解しやすい手法はないのでしょうか。私が、いま模索しているのは、そのような方法です。現在、構造主義をアンチテーゼとすべく、ポスト構造主義、あるいはポストモダンなどという考え方が提唱されています。でも、私には勉強不足でまだわかりません。人間の知恵など限りがあるはず、過去の哲人の中に、いい知恵があるかもしれません。それを勉強中です。
・哲学者の生き方・
実は、わたしは、今、地質学を考えるための新しい手法がないか模索しています。そのためのブレインストーミングとして、先人のいろいろ考えた人たち、つまり哲学者の考えを勉強しています。それは、著者の書いたものから、その解説書まで、その哲学の内容が直接わかるものであれば、原著(もちろん日本の訳)を読むより、解説書を読んだほうがいいかもしれません。両方を平行しておこなっています。
今回のエッセイは、構造主義の解説書と、デカルトの「方法序説」、プラトンの「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「パイロン」(いわゆるソクラテスの3部作)を読んだのちの私なりの復習を兼ねています。
デカルトも、ソクラテス、プラトンも読んでいると、その学問に対する真摯な態度に感銘を受けます。その内容に関しては、古い部分もあるのですが、その精神は、時代を超えて、現在にもつうじるものです。彼らの哲学よりも、生き方を学ぶべきなのかもしれません。
・地質哲学・
実は、先月(7月)の13日から23日まで、カナダのニューファンドランドにいってきました。カナダの大西洋側にある大きな島です。
目的は、先カンブリア紀-カンブリア紀境界(V-C境界と呼ばれています)の地層を見ることです。地質調査ですので、地層とその地層をつくる石を、しつこく見てきました。
でも、本当にしたかったことは、地質学的に第一級の意味をもつ境界を、「生(なま)で」みて、そこで何かを感じられないかということです。自然、実物に接したときでないと、その感覚、感動は得られません。それを味わいたかったのです。
というのも哲学というのは、書斎的でずっとこもって思索していくような感じがしますが、もっといろいろな哲学の形態があってもいいのではないかと考えています。構造主義は、そういう意味では、人文科学だけでとどまらず、自然科学の分野(生物学)でも、応用されています。
ソクラテスが、対話を通じて、哲学を深めました。デカルトも、いまでの書物を通じた哲学に限界を見出し、世界を見聞してその哲学を深めていきました。わたしも、彼らにあやかって、自然物(地層や岩石)をじかに触れることによって、地質学への思索を深められないかと考えています。書斎派ではなく、野外(フィールド)派として地質哲学を構築できないかと考えています。
まあ、それこそ、机上の空論とならいようにがんばるしかないです。本当にできるかどうか、私の能力と努力にかかっているのでしょう。まあ、道は険しく遠いけれどがんばります。
このエッセイでは、その思索の遍歴が、現れてくるはずです。実は、最初から、そのつもりではじめたのですけどね。
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