造り酒屋さんを見学に行きました。そのときご主人と話をしました。酒造りには、科学的な手法を用いておられます。しかし、感覚的なものも織り込まれています。そんな話を聞いたとき、科学にもそんな側面があることに気づきました。感覚と論理について考えます。
かつては、日本各地、どこにでも造り酒屋がありました。ところが、現在では、その数が少なくなっています。田舎の過疎化、大手の酒造メーカーの寡占、日本酒の低迷、輸入の酒類の台頭など、いろいろと理由はあるのでしょう。日本が豊かになり、消費者が酒の質を問うようになり、それに応えるためには酒造りに手間がかかりるようになり、結果として造り酒屋の淘汰が起こっことも原因でしょう。消費者の要求に合う酒が造れ、ブランドとして流通に乗れた造り酒屋が、生き残っていきます。このような淘汰の現象は、酒業界だけでなく、多くの業種でも、起きていることなのかもしれません。
先日、愛媛県西予市城川にある地元の造り酒屋の見学に訪れました。1月の寒い時期、酒の寒仕込みが行われていました。小さな造り酒屋で、家族総出(4名)でも手が足りず、数名の人を雇って仕込みが行われています。酒づくりは、雑菌の繁殖が少なく、コウジ菌と酵母のみが成育するような微妙な条件の違いみきわめて、寒い時期におこなわれます。ですから、本来なら外部の人の出入りをあまり好まないはずです。でも、快く見学させていただきました。ありがたいことです。
ざっと酒の作り方を紹介しましょうた。米(酒に適した米:山田錦など)を精米(酒の種類によって80%も削って捨てることも)して、良く洗い、蒸します。蒸した米を冷まし、3回(4日にわたる)に分けて、麹(こうじ)と酒母(後述)、米、水をいれていきます(仕込み)。そして毎日かき混ぜなら様子を見て発酵させます。一月ほどすると酒ができます。できたら搾って清酒と粕に分けます。清酒は、濾過して、殺菌のために65度くらいに熱し、しばらく熟成させます。その期間はいろいろなようです。味を見てきめるようです。
麹とは、米に麹菌がたくさん繁殖したものです。麹菌は米のデンプンを糖化させます。麹は、大量に必要になるので、種麹を蒸した米にふりかけ繁殖させ増やしていきます。酒母は、米に酵母(真菌類)がたくさん繁殖したものです。酵母によって、糖をアルコールにし、雑菌の繁殖を抑える乳酸もつくります。麹も酒母も微生物です。酒造りの過程で、たくさん必要になるので、自前で量産します。
酒造り関して、その過程の多くは科学的に解明されています。ただし、その過程で多くの種類の微生物が関与しています。その組み合わせによって、微妙に、時には大きく、味の違いが生じるようです。その違いを、酒好きの人は、味覚で感じ取ります。私には、無理なのですが。
さて長くなりましたが、本題はこれからです。造り酒屋のご主人とお話をしていて感じましたが、非常によく勉強されています。そして、毎日状態のチェックをして、その結果を詳しく記録されています。ご主人いわく、科学的な条件はすべて整えた上で、実際に実践してみないと、いい酒になるかどうかはわからないとのことです。酒造りには複雑な要因がからんでいるようです。
麹や酒母は良質のものが販売されていますし、麹菌や酒母に適した条件(温度や湿度など)もほとんどわかっています。条件を揃えるための機械化もある程度なされています。でも、うまくいくかどうかは、つくってみないとわからないようです。
杜氏でもあるご主人が話してくださった中に、こんな話がありました。仕込みの時、働く人たちが、和気合い合いとしている時は、いい酒になり、ギスギスしていると、よくないというのです。ご主人も、それは科学的ではないと思っているようですが、酒の酸度に違いがでるといいます。感覚的で主観的なものが、数値という客観的なものに現れるというのです。
つけ加えて、「だからといって、クラシック音楽を流す気はありませんが」と苦笑いしながらおっしゃっていました。ある造り酒屋では醸造中クラシックを流すと、いい酒になるというのです。それは科学的根拠がなさそうなので、ご主人はしないということなのでしょう。
しかし、人の感覚的な状況の違いが、数値として現れるのは信じているようです。これは多分、人の和が酒の酸度を直接左右しているわけではなく、和に伴う何かの要因が、条件を変える遠因となっているのでしょう。その因果や影響の程度がわからなければ、和を保って作るしかありません。酒造りは、非常に複雑な因果を操る作業となるようです。
科学でも似たようなことが起こっています。因果が多段階のステップを経ていたり、原因や結果が複数であったり、因果の関連が分からなかったりすることは、多々あります。そんなとき科学は、どう対処すればいいのでしょうか。
オーソドクスな方法としては、思いつく限りの原因を抽出して、ひとつひとつ原因を制御して、そして求める結果にどのような影響を与えるかを虱潰しにみていきます。そこから、因果の緒(いとぐち)を見つけようとします。手間がかかりますが、各自な方法でもあります。実験系ではよく用いられる方法です。
しかし、このような方法で因果の追求ができるのは、原因を人為的に変化させられるもの、その結果を実験的に得られるものだけです。
地質学は、解明しきれない複雑な因果が背景にある素材を扱います。歴史性のある地質現象や生物進化などは、過去の事象を相手にしています。過去の事象は、再現できませんし、因果を見極めることがもできません。いってみれば、検証不能であります。検証不能なものから、因果を抽出することは、困難な作業です。そんな複雑な因果、検証不能の因果を学問として追求するとき、どうアプローチすればいいのでしょうか。
ひとつの方法は、モデルをつくることです。モデルとは、事前にあってもいいですし、結果としてあってもいいのですが、ある研究者から提示されるモデルは、一応の科学的な論理性は持たされています。その論理性は、今まで得られた事実を一番うまく説明できるかどうかの正当性です。過去の事象に対しても、モデルを導入して、観察や情報収集、あるいは模擬実験などをします。
同じ情報から、まったく別のモデルを提示することも可能です。特に地質学のような学問では、同じ露頭群を見ても、百人いれば百通りの地質図ができると言われています。それほど、モデルとは、いろいろなものができうるわけです。
そのようなモデル(地質図)の良し悪しは、真偽の程は、なかなか判定できません。ひとつの目安として、より上位のモデル(地質学ではプレートテクトニクスやプルームテクトニクスなど)に、いかに適合しているかという判定がなされます。モデル自体が、因果律を満たしたものではないので、経験的に良し悪しを判断することになります。その上位モデルが正しいという保証はないのですが。
ですからはじめから、上位モデルありきで情報収集がなされ、問題なく下位の事実が説明できるか下位モデルが作成されます。現在の研究の多くはこのようなトップダウン方式でなされています。これでは、新しいタイプのモデルは生み出されません。新しい突破口は、やはりボトムアップです。
ですからもうひとつのアプローチは、経験あるいは感覚的に新しい道を見つけることです。そのためには、淡々と事実あるいは情報を積み重ねていくことです。そのような基礎的な情報収集の訓練、あるいは精度の高い情報から小さな因果を見つける訓練を、初学者は経験を積んでいきます。そのような経験が、突破口になると考えられます。
経験を積んだ研究者は、ある時ある事実を見たとき、「ちょっといつものとは違うぞ」とか、「なんか変だぞ」、というような違和感を感じることがあります。その違いをもとに、再度今までの上位モデル自体を考えなおしてみることをおこなえます。すると、全く新しい何かが見えてくることがあります。これを見つけられるかどうかは、経験的、感覚的なもので、その発想の誕生に因果はありません。
若者が伝統を打ち砕くと思われがちですが、実は、研究の世界(複雑な因果の世界)では、ある程度の知識や経験をもった研究者こそが、今までの常識(上位モデル)を疑うことができ、破壊できるのです。破壊の仕方にも、経験が必要です。初学者は、どこまでがその学界での動かし難い基礎で、どこからが破壊可能かすらわかりません。破壊にも経験がものをいいます。
ひとりの研究者が、地道な情報を出し続けて、上位モデル改築への突破口を見つけることができなかったとしても、精度の高い事実や情報が増えていけば、それは科学の進歩を下支えします。やがては、量が質を生みます。あるいは、別の誰かが、それらの大量の情報から、新しい上位モデルを生む可能性があるはずです。
このような経験というのは、因果では捉えることのできない「なにか」でしょう。因果では捉えることのできない経験を、複雑な因果、検証不能の因果の突破口にしようということです。その突破口は、もちろん科学ですから、論理性は吟味されます。しかし、地質学の多くは、モデルの比べっこです。モデルとは、因果が完全に解明されていないものに対して、有効なアプローチです。
酒造りとモデルづくりは、論理と感覚を駆使する点で、どこか似たところがあります。
・中城本家酒造・
今回おじゃましたのは、
城川では唯一清酒を居つくっている
中城本家酒造さんでした。
先祖代々つくらきた相生(あいおい)、
そして今、力を入れらている城川郷がつくられています。
城川郷には、吟醸、純米吟醸、純米大吟醸、大吟醸、雫酒大吟醸
などいろいろなものがあります。
大吟醸をのみましが、なかなかいけます。
次は、相生をいただく予定で冷蔵庫にいれてあります。
2月になったら、搾り(しぼり)があります。
それも見学に良く予定です。
・帰省・
帰省中で、京都にいます。
発行は予約で行っています。
一番寒い時期の京都です。
独居の母を今年で3回訪ねました。
近所に息子や親戚、そして本人は野良仕事があるので、
それを励みに一人暮らしをしています。
4月以降は、なかなか帰れなくなります。
遠隔地での独居の母に対応するために、
見守りポットや携帯電話での連絡を
絶やさずおこなっています。
でも、やはり顔を合わして話すのが一番でしょう。
じっくりと話してきます。
2011年2月1日火曜日
2011年1月1日土曜日
108 大地を思う心
明けましておめでとうございます。今年最初のエッセイでは、大地をみる私たちの視点をどう変えるかについて考えます。大地を慈しむ心が大切ですが、それは、大地を理解することからはじまるのでしょう。そのとき科学教育が重要な役割を果たすはずです。
身近な自然には、だれもが親しみを持っています。そこに大きな変化が起こったり、ある日突然変貌していたら、だれでも気づき、そして気になるでしょう。その変化が、小さいもの、限られた範囲であっても、気にかかるでしょう。
自然の変化の中には、自然の営為として起こるものと、人為によるものがあります。最近は人為変化も多く起こっています。年の初めですが、今回のエッセイは、自然と人為の違いを、少し考えていきたいと思っています。
自然の営為による変化とは、もともと自然の中に組み込まれている営みの一つともいえます。つまり、変化自体も自然といえます。自然の中で、変化も必然として起こるわけです。たとえ人に大きな被害を与える災害でも、それは自然の営みとなります。
人は、自然の変化のうち、自分たちに被害を与えるものを、長年にわたって押さえ込もうしてきました。人の生活圏の拡大によって、自然を変化させてきました。一部では大きな成功を挙げましたが、自然に太刀打ちできない場面も多々あります。
災害への対処、生活圏の拡大の結果として、自然の変化を阻止したり、自然では起こりえない変化をさせてきたりしました。これは、人為による変化となります。
人為による変化は、「不自然」な変化で、自然の規則性をはずれた変化となります。自然状態では起こりえない場所、速度、変位、改変、変異などを起こすことになります。さらに、人為による変化の後に起こる自然の営為による変化は、前提が異なっていますから、基本的には本来の自然の変化とは違ってきます。
人為変化は、日本や先進国では20世紀後半以降、途上国でも近年、急速にその範囲や規模を拡大しています。昔の日本の変化と比べ、近年は人の居住圏周辺では、激しい人為変化の場となっているのは、多くの人が知るところでしょう。
そのような人為変化の一環として、生物種の絶滅や生態系の破壊などが起こってきました。そんな変化に気づいた人たちによって、自然保護や環境保護の重要性が唱えられるようになってきました。
多くの人は、自然の大切さ、自然を守る必要性についての教育を受けたはずです。教育という前提がないとしても、自然の一部である人類が、自然の変化に敏感であるのは当然かもしれません。ですから、多くの人は、自然や環境の意味、大切さを、基本的に、感覚的に知っているのかもしれません。
ところが、社会に出ると、保護意識から遠ざかる人も多くなります。自然保護や環境保護に加わる人が、少数派であるのが現実です。それは、ある人にとっては、破壊側に関わったり、利害が発生したり、生きるためであるかもしれません。あるいは、単に学校で受けた教育の成果が薄れてきたのかもしれません。
しかし、心のどこかに自然破壊に対して、後ろめたさを感じることがあります。あるいは、親となって、子供たちが自然保護、環境保護について、話したり、行動したりすると、ついつい心のどこかに日ごろの自分の行動に、子供にはいえない反省の気持ちを持つ人も多いのではないでしょうか。
大人にとって自然や生態が不要かというと、それはありえません。やはり人が生きていくために、不可欠な存在です。もちろん、多くの人は、それを理解しています。自然の必要性を知りながら、破壊側にまわっているということに、忸怩たるものを感じているのです。そこに多くの人がジレンマを抱いているのではないでしょうか。
ジレンマを感じる心こそが、自然に対する慈しみの気持ちをもっている証ではないでしょうか。その心こそが、重要だと思います。
自然保護にジレンマに感じるような心があるのに、大地の変化に関しては、それほど多くの関心が払われることがありません。たとえば、ある山を崩し宅地造成するとき、そこにあった緑や生きていた生物などが特別なものであれば、注意が払われたり、保護を訴えられます。あるいは、緑が削られ、土がむき出しになっていくと、そこに自然破壊が起こっていると心穏やかではなくるでしょう。
ところが、同時に山からなくなっていく地層や岩石に注意を払う人はほとんどいないはずです。これは、大地に対する慈しみの心をもってないからでしょう。なぜ、大地には関心がないのでしょうか。
考えればすぐにわかることですが、生物は種が滅びない限り、似た環境があれば、ほとんどは再生可能です。特に日本のような植生の豊かなところでは、放って置けば、緑にもどります。何十年もすれば、もとの自然に近いものが回復するはずです。ところが、大地は、いったん壊れると二度と再生はできません。大地の変化は、不可逆の変化なのです。失われた大地には、重要な化石や鉱物、岩石などの重要な資料もあったかもしれません。それらは、注意を払わないと、だれも気づかないうちに消えていきます。なのに、大地には関心がないのです。
もちろん、大地の変化も、自然の摂理として起こるものです。たとえば、浸食や風化などは定常的に起こっていますし、土砂崩れや火山、津波、地震などで、突発的に大規模に起こる大地の変化も、自然の営為によるものです。しかも、それを人は止めることはできません。
人為変化にあたって、大地は、今までほとんど保存、記録されることなく、消失していきました。自然保護や環境保護を公教育では教え、児童、生徒、学生は、その重要性を理解し、運動などもします。しかし、その自然の中には、大地はふくまれることはほとんどありません。大地の変化に注意は払われることが少ないのは、大地の相手にしているものにとっては、悲しいことです。
関心の低い人々に、大地の保護を訴えるのは、非現実的です。まずは、関心をもってもらうことです。そのためには、大地のことを、だれもがわかる常識にまでしなければなりません。きれいな結晶であれば、だれもそのよさ、重要性を理解できます。これは、きれいな花が誰もから好かれるのと同じことです。
でも、化石が貴重なことは、その意味を理解しなければわかりません。そんな前提を構築することが重要ではないでしょうか。化石が恐竜であれば、守らねばという前提は形成されました。そんな前提構築こそが、科学教育の重要な役割だと思います。そこに至るステップが必要です。回りくどいかもしれませんが、そのような教育プロセスを繰り返しおこなう必要があると思います。
まずは、研究者の存在の必要性の理解です。見えないような小さい化石、取るに足らない岩石にも、大地の生い立ちや営みを知るために重要な情報が隠されていることを研究者は解き明かしています。地層の出ている崖にへばりついてデータを採取している人、汗まみれになって川や海、山を歩いている人が解明してきました。そんなことに興味を持っている研究者がいること、そんな研究者が社会にいることを理解してもらうことが必要です。彼らの多くは税金を利用して研究しています。
そして、次には、大地を愛おしく思って研究している人のいっていることに耳を傾けてもらう必要性です。研究成果の蓄積によって、学界で常識なってきたことを、今度は世間の人たちが常識になるように聞く耳を持ってもらうことが必要です。もちろん研究者からの発信は不可欠ですが、聞く人がいなければ発信システムは機能しません。そんな送受信の積み重ねによって、地震のメカニズム、津波予想、恐竜絶滅の原因、プレートの運動などとして、多くの人が知るところになりました。
このようなステップの繰り返しが必要です。
そして彼らの発した知識の上に、大地への慈しみの心が構築されてくるのだと思います。保護を訴える以前に、まずは大地に関心を持ってもらい、その重要性を理解してもらうことです。
このようなステップを踏むために、いろいろな仕掛け(科学教育)が必要でしょう。そこでいくつかの新しい方法を提案することが、私の昨年までの研究目的となっていました。成果の上がった部分、上がらなかった部分もありますが、私一人で現在できることは、いろいろ試行し、報告もしてきました。昨年一年間いろいろ考えてきたのですが、一段落したと思えるようになってきました。ですから、今年から、新しいテーマを見つけて、次なるステップへ向かおうかと考えています。これを見つけることが、今年の私の抱負です。
・新しいレース・
新年明けましておめでとうございます。
今年も皆様にとってよい年でありますように。
私は、今回のエッセイで書いたように、
新しいレースのスタートを切ろうと考えています。
スタートする前に、どこに向かうレースするからを
考えようと思っています。
次のレースも10年ほどの長丁場になるはずです。
ですから、研究者として最後のレースになるもしれません。
もしそうなら、悔いのないレースにしたいものです。
たとえゴールできなくても、
そのレースに参加すること事態を
楽しめるようなものにしたいものです。
・新しいテーマ・
今年、3月まで愛媛県にいます。
1年間あったサバティカルイヤー(研究休暇年)も、
あと残すところ、3ヶ月となりました。
通常の大学での環境とは違い、
なかなか充実した日々を過ごしました。
しかし、まだまだやり残しているような
飢餓感が心のどこかに残っています。
それを満たすことはできないかもしれませんが、
少しでも飢餓感を減らし
満足感に転換していきたいと思います。
その最初の目標が今回書いた新しいテーマを探すことです。
どんなものになりそうかまだわかりません。
やりたいことと、できることの狭間で
思案していきます。
・年末年始・
このメールマガジンも
12月末に事前に配送予約していたものです。
私は、正月には自宅に帰省しています。
帰省中は家族サービスに専念するので、
メールマガジンを忘れることがありえます。
特に、1月1日はばたばたしそうです。
ですから、事前予約です。
ただ、年末年始の長距離移動の費用は
割引がない分、なかなかたいへんですが、
いたし方ありません。
暮や正月は家族とともに過ごしたいですからね。
身近な自然には、だれもが親しみを持っています。そこに大きな変化が起こったり、ある日突然変貌していたら、だれでも気づき、そして気になるでしょう。その変化が、小さいもの、限られた範囲であっても、気にかかるでしょう。
自然の変化の中には、自然の営為として起こるものと、人為によるものがあります。最近は人為変化も多く起こっています。年の初めですが、今回のエッセイは、自然と人為の違いを、少し考えていきたいと思っています。
自然の営為による変化とは、もともと自然の中に組み込まれている営みの一つともいえます。つまり、変化自体も自然といえます。自然の中で、変化も必然として起こるわけです。たとえ人に大きな被害を与える災害でも、それは自然の営みとなります。
人は、自然の変化のうち、自分たちに被害を与えるものを、長年にわたって押さえ込もうしてきました。人の生活圏の拡大によって、自然を変化させてきました。一部では大きな成功を挙げましたが、自然に太刀打ちできない場面も多々あります。
災害への対処、生活圏の拡大の結果として、自然の変化を阻止したり、自然では起こりえない変化をさせてきたりしました。これは、人為による変化となります。
人為による変化は、「不自然」な変化で、自然の規則性をはずれた変化となります。自然状態では起こりえない場所、速度、変位、改変、変異などを起こすことになります。さらに、人為による変化の後に起こる自然の営為による変化は、前提が異なっていますから、基本的には本来の自然の変化とは違ってきます。
人為変化は、日本や先進国では20世紀後半以降、途上国でも近年、急速にその範囲や規模を拡大しています。昔の日本の変化と比べ、近年は人の居住圏周辺では、激しい人為変化の場となっているのは、多くの人が知るところでしょう。
そのような人為変化の一環として、生物種の絶滅や生態系の破壊などが起こってきました。そんな変化に気づいた人たちによって、自然保護や環境保護の重要性が唱えられるようになってきました。
多くの人は、自然の大切さ、自然を守る必要性についての教育を受けたはずです。教育という前提がないとしても、自然の一部である人類が、自然の変化に敏感であるのは当然かもしれません。ですから、多くの人は、自然や環境の意味、大切さを、基本的に、感覚的に知っているのかもしれません。
ところが、社会に出ると、保護意識から遠ざかる人も多くなります。自然保護や環境保護に加わる人が、少数派であるのが現実です。それは、ある人にとっては、破壊側に関わったり、利害が発生したり、生きるためであるかもしれません。あるいは、単に学校で受けた教育の成果が薄れてきたのかもしれません。
しかし、心のどこかに自然破壊に対して、後ろめたさを感じることがあります。あるいは、親となって、子供たちが自然保護、環境保護について、話したり、行動したりすると、ついつい心のどこかに日ごろの自分の行動に、子供にはいえない反省の気持ちを持つ人も多いのではないでしょうか。
大人にとって自然や生態が不要かというと、それはありえません。やはり人が生きていくために、不可欠な存在です。もちろん、多くの人は、それを理解しています。自然の必要性を知りながら、破壊側にまわっているということに、忸怩たるものを感じているのです。そこに多くの人がジレンマを抱いているのではないでしょうか。
ジレンマを感じる心こそが、自然に対する慈しみの気持ちをもっている証ではないでしょうか。その心こそが、重要だと思います。
自然保護にジレンマに感じるような心があるのに、大地の変化に関しては、それほど多くの関心が払われることがありません。たとえば、ある山を崩し宅地造成するとき、そこにあった緑や生きていた生物などが特別なものであれば、注意が払われたり、保護を訴えられます。あるいは、緑が削られ、土がむき出しになっていくと、そこに自然破壊が起こっていると心穏やかではなくるでしょう。
ところが、同時に山からなくなっていく地層や岩石に注意を払う人はほとんどいないはずです。これは、大地に対する慈しみの心をもってないからでしょう。なぜ、大地には関心がないのでしょうか。
考えればすぐにわかることですが、生物は種が滅びない限り、似た環境があれば、ほとんどは再生可能です。特に日本のような植生の豊かなところでは、放って置けば、緑にもどります。何十年もすれば、もとの自然に近いものが回復するはずです。ところが、大地は、いったん壊れると二度と再生はできません。大地の変化は、不可逆の変化なのです。失われた大地には、重要な化石や鉱物、岩石などの重要な資料もあったかもしれません。それらは、注意を払わないと、だれも気づかないうちに消えていきます。なのに、大地には関心がないのです。
もちろん、大地の変化も、自然の摂理として起こるものです。たとえば、浸食や風化などは定常的に起こっていますし、土砂崩れや火山、津波、地震などで、突発的に大規模に起こる大地の変化も、自然の営為によるものです。しかも、それを人は止めることはできません。
人為変化にあたって、大地は、今までほとんど保存、記録されることなく、消失していきました。自然保護や環境保護を公教育では教え、児童、生徒、学生は、その重要性を理解し、運動などもします。しかし、その自然の中には、大地はふくまれることはほとんどありません。大地の変化に注意は払われることが少ないのは、大地の相手にしているものにとっては、悲しいことです。
関心の低い人々に、大地の保護を訴えるのは、非現実的です。まずは、関心をもってもらうことです。そのためには、大地のことを、だれもがわかる常識にまでしなければなりません。きれいな結晶であれば、だれもそのよさ、重要性を理解できます。これは、きれいな花が誰もから好かれるのと同じことです。
でも、化石が貴重なことは、その意味を理解しなければわかりません。そんな前提を構築することが重要ではないでしょうか。化石が恐竜であれば、守らねばという前提は形成されました。そんな前提構築こそが、科学教育の重要な役割だと思います。そこに至るステップが必要です。回りくどいかもしれませんが、そのような教育プロセスを繰り返しおこなう必要があると思います。
まずは、研究者の存在の必要性の理解です。見えないような小さい化石、取るに足らない岩石にも、大地の生い立ちや営みを知るために重要な情報が隠されていることを研究者は解き明かしています。地層の出ている崖にへばりついてデータを採取している人、汗まみれになって川や海、山を歩いている人が解明してきました。そんなことに興味を持っている研究者がいること、そんな研究者が社会にいることを理解してもらうことが必要です。彼らの多くは税金を利用して研究しています。
そして、次には、大地を愛おしく思って研究している人のいっていることに耳を傾けてもらう必要性です。研究成果の蓄積によって、学界で常識なってきたことを、今度は世間の人たちが常識になるように聞く耳を持ってもらうことが必要です。もちろん研究者からの発信は不可欠ですが、聞く人がいなければ発信システムは機能しません。そんな送受信の積み重ねによって、地震のメカニズム、津波予想、恐竜絶滅の原因、プレートの運動などとして、多くの人が知るところになりました。
このようなステップの繰り返しが必要です。
そして彼らの発した知識の上に、大地への慈しみの心が構築されてくるのだと思います。保護を訴える以前に、まずは大地に関心を持ってもらい、その重要性を理解してもらうことです。
このようなステップを踏むために、いろいろな仕掛け(科学教育)が必要でしょう。そこでいくつかの新しい方法を提案することが、私の昨年までの研究目的となっていました。成果の上がった部分、上がらなかった部分もありますが、私一人で現在できることは、いろいろ試行し、報告もしてきました。昨年一年間いろいろ考えてきたのですが、一段落したと思えるようになってきました。ですから、今年から、新しいテーマを見つけて、次なるステップへ向かおうかと考えています。これを見つけることが、今年の私の抱負です。
・新しいレース・
新年明けましておめでとうございます。
今年も皆様にとってよい年でありますように。
私は、今回のエッセイで書いたように、
新しいレースのスタートを切ろうと考えています。
スタートする前に、どこに向かうレースするからを
考えようと思っています。
次のレースも10年ほどの長丁場になるはずです。
ですから、研究者として最後のレースになるもしれません。
もしそうなら、悔いのないレースにしたいものです。
たとえゴールできなくても、
そのレースに参加すること事態を
楽しめるようなものにしたいものです。
・新しいテーマ・
今年、3月まで愛媛県にいます。
1年間あったサバティカルイヤー(研究休暇年)も、
あと残すところ、3ヶ月となりました。
通常の大学での環境とは違い、
なかなか充実した日々を過ごしました。
しかし、まだまだやり残しているような
飢餓感が心のどこかに残っています。
それを満たすことはできないかもしれませんが、
少しでも飢餓感を減らし
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思案していきます。
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ですから、事前予約です。
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暮や正月は家族とともに過ごしたいですからね。
2010年12月1日水曜日
107 poit of no return:科学の立つ位置
地球温度化は日本では常識になっていますが、世界ではいまだに問題として激しい論争がなされています。科学では論争はつきもので、論争こそが科学の本分ともいえます。その科学に背負いきれないものが乗かってくると、科学の本分が働かなくなる状況が生じます。引っ込みのつかない、もう戻れない状態「poit of no return」になっているような気がします。
IPCCとは、英語の「Intergovernmental Panel on Climate Change」を略して呼ばれています。IPCCは、日本語では「気候変動に関する政府間パネル」と呼ばれています。多くの国の研究者が組織的に、地球温暖化についての科学的成果をまとめ、評価し、各国の政策担当者に示すことを目的にしています。
IPCCは、1988年に世界気象機関(WMO)と国連環境計画(UNEP)により設立された組織です。3つの作業部会に分かれて作業をおこない、最終的に統合報告書が作成されます。「気候システム及び気候変化の自然科学的根拠」を検討する第1作業部会、「社会経済及び自然システム」を検討する第2作業部会、「気候変化の緩和」を検討する第3作業部会の3つです。
IPCCは、その評価結果を報告書として公開しています。1990年に第1次評価報告書が、1995年に第2次評価報告書、2001年に第3次評価報告書、2007年に第4次評価報告書が、公開されました。私も授業で使うために第4次評価報告書のダイジェスト版をみたりしました。
ご存知のように、地球温暖化に関するドキュメンタリー映画と著書「不都合な真実」のアメリカ合衆国元副大統領アル・ゴアとともにIPCCは、ノーベル平和賞を受賞しました。その理由は、「気候変動問題に関する活動」を評価されてのことです。2007年の報告書が承認される直前の受賞報道で、日本でも大きくニュースに取り上げられました。
IPCCは、研究者を中心とする組織ですが、研究をするための組織ではなく、研究成果(査読制度をもつ雑誌に掲載された論文)をとりまとめ、評価するための組織です。報告書を作成するプロセスは、非常に厳密になされているはずです。なぜなら、その報告書が、気候変動に関する国際的な政治動向や政策決定に重要な役割を果たしているからです。
IPCCは、そもそも「人為起源による」気候変化や影響を調べて、それへの対処を、科学的、技術的、社会経済学的に評価を行うことが目的です。「温暖化ありき」を前提として、その対策を考えることを使命としています。
温暖化の根拠や動機なっているのが、近年地球の平均気温が急上昇しているという結果です。その結果はあるグラフが端的にあらわしているので、よく利用されています。それは、多くの人が目にしたことのあるグラフで、ホッケースのティックのような形をしているので、「ホッケースティック」曲線と呼ばれています。
このグラフは、アメリカの古気候学者のマイケル・マンが、1998年に科学雑誌「Nature」に報告したものです。紀元1000年から2000年までの地球の平均気温をまとめたもので、1900年代になってから急激に温暖化が起こっていること示しているグラフとなっています。
このグラフの作成には、地球の平均気温が必要ですが、そのような気象データは、1000年分もありません。そこでマンは、木の年輪を利用して気温変化を見積もる方法を採用して過去の気温を復元しています。
この復元が議論の的となりました。この復元に用いたデータや、その計算方法を公開するように、温暖化懐疑派は要求したのですが、公開されませんでした。他のデータや計算方法にもいくつかの問題もあり、論文誌上でも議論となりました。なおこの「ホッケースティック」曲線は、第4次評価報告書には載っていません。他にも都市化による温度上昇に関する基礎データと計算法、気温測定地点の状況、平均化のための計算方法なども、公開を拒否するなどいろいろと問題もありました。
このようなやり取りが繰り返され、温暖化肯定派(とくにIPCCの中核に近い研究者たち)と温暖化懐疑派たちのあいだで、感情的な対立が強く生じました。
そこに、2009年11月19日、不正と見られても仕方がないような作為を示すメールや文書が、クラッキングによりインターネット上に流出しました。日本ではあまりメディアで伝えられることがなかったのですが、海外のメディアでは、大きなニュースになったり、いくつかの書籍も出版されて、その事件はクライメートゲート(Climategate)事件と呼ばれるようになりました。
温暖化肯定派は、それらの問題の処理がいろいろなされていますが、部外者的に立場でみると、温暖化を示すデータ、根拠、科学的取り扱いなどに、どうもあまりフェアでなかったような行為もあったようです。
私が、このエッセイでいいたいのは、温暖化肯定派か温暖化懐疑派を論じることではなく、科学の成果と利用についての考え方です。
IPCCという影響力をもつ組織があり、それが実際に政策に関与し、そのフィードバックとして研究費や環境産業、排出権取引など金銭が介在する世界を生み出しました。このような世界が、科学の成果や評価に影響をおよぼさなければいいのですが、それはなかなか難しいようです。そのような土壌のもとで、温暖化のクライメートゲート事件が起きたのです。大きな組織、予算、研究費などが絡まないものであれば、このような事件は起きなかったでしょう。起きたとしても、学界内のスキャンダルに過ぎないものだったはずです。
科学は、そもそもの大前提として、フェアに起こなわれるべきものです。論文の成否(受理か却下)と、その成果を他の研究者が採用するかしないかによって、科学の成果が広まるか無視されるかになります。もちろん反論による議論をすることも起こります。しかし、それらは科学の土俵で手続きを経て行われます。そこには、権力、費用、栄誉などが前面にはでることはありません。また、そのデータや処理の吟味や評価は、データを出した研究者はもちろんですが、批判者に対しても、公開し、批判を受けていく必要があります。これが科学の代謝、あるいは進歩を促します。
ことが数人の当事者間であれば、それほど問題はこじれず、より確からしい結果へと更新が起こるはずです。こじれたとしても、それ以上大事になることもなく、時間とともに忘れ去れていくでしょう。
IPCCのように大きな組織で政治や金も動く状況になれば、批判者はでてくることでしょう。また、その本質に問題があるという指摘するようなグループに対して、なかなかフェアに対処できないこともあるでしょう。
でも、もし「温暖化が間違い」となったら、IPCCとしては、大変なことになります。なぜなら「温暖化ありき」でスタートした組織で、今では国家の政策、国際社会をも巻き込んだ運動となっています。日本でもメディアの前で多くの科学者が、温暖化を主張し、反温暖化派を批判しています。その背後にはIPCCがいて、第4次評価報告書があります。今さら、「温暖化が間違い」となっても、責任をとれる状況は逸しています。
地球温暖化の予測で、「poit of no return」というものがあります。これまでに、対処しないと深刻な事態が起こるという地点です。でも、IPCCにおける「poit of no return」は、始まった時点に過ぎていたのかもしれません。
このように、科学が政治や経済と結びつくときは、注意が必要です。まして目標や目的が決まって巨大な組織、政策、予算が動きだしてしまうと、なかなか変更はむつかしくなります。いった進みだした方向性に基づいて技術は、投資に見合った進歩を急激に起こします。戦争による武器の進歩、原子爆弾の開発がそのいい例でしょう。
科学のいい点は、やがて間違いは正されるということです。これは、科学の歴史をみれば明らかです。ニュートンやアインシュタインのような科学の巨人ですら、その洗礼は受けています。また、多数派が勝つとは限らないことです。創造説、エーテル説、地向斜説などかつては、主流となっていた説も、後には否定されることもあることは歴史が教えてくれます。
私は地質学に携わってきましたから、地球の温暖化は、地球史では当たり前に繰り返し起こるできごとに見えます。時間スケールを変えてみると、繰り返し氷河期が訪れていること、今は氷河期に向かってもおかしくない時期であること、新生代後半は寒冷化に向かう時期と読み取れることも知っています。これは、私だけでなく、地質学者ならだれでも知っていることです。多くの研究のグラフもそうなっています。
科学は、人間の営為です。栄誉や評価、研究費は、研究者ならだれでもが欲しがります。研究者も人間ですから、感情があり、対立が起これば、不正行為、犯罪も起こりえます。これも、過去の事件を上げるまでもなく、いろいろありました。これは、人間の業(ごう)ともいうべきものかもしれません。
温暖化派も反温暖化派も当事者には、もはやもつれた糸をほぐすことは困難かもしれません。利害のない別の科学者たちが、淡々と科学のやり方に従って成果を積み重ね、新たな糸を紡ぐしかないのかもしれません。
温暖化が起こるかどうか、それはいずれ自然が答えを出すはずです。その頃には当事者の科学者たちはいないかもしれませんが。
・寒さ・
いよいよ山里は寒くなってきました。
車のフロントガラスも
朝は凍るようになって来ました。
ストーブを毎朝夕つけるようになりました。
夏の寒さがそれほどでもないところなので、
冬の寒さは厳しそうです。
私は、そんな寒さにもめげず、
地域のイベントがあれば、
できる限り参加しています。
・反対派を大切に・
世の中が一色に染まり、
それ以外は異端として排除されることはよくあります。
反主流派が主流派を批判するのは世の常です。
このような運動形態は人の社会の定常的な動態かもしれません。
主流派は自分の弱点を見るために反主流派の意見を知る必要があります。
なぜなら、反主流派こそが、
主流派論理の一番の理解者だからです。
その上の批判なのです。
温暖化懐疑論者の重要サイト:Climate Audit
http://climateaudit.org/
(感情的なものだけでなく、科学的な議論もなされています。どんなセレクトもせず、すべて公開の場で議論がなされているフェアさがあります。非常に活発な発言が行われています)
Watts Up With That?
http://wattsupwiththat.com/
(かつてはアメリカの気温測定点の現地調査をして、その実態を公開するということを中心に行っていました。ひどいところがなかりあったようです)
なども時には見る必要があるかもしれません。
IPCCとは、英語の「Intergovernmental Panel on Climate Change」を略して呼ばれています。IPCCは、日本語では「気候変動に関する政府間パネル」と呼ばれています。多くの国の研究者が組織的に、地球温暖化についての科学的成果をまとめ、評価し、各国の政策担当者に示すことを目的にしています。
IPCCは、1988年に世界気象機関(WMO)と国連環境計画(UNEP)により設立された組織です。3つの作業部会に分かれて作業をおこない、最終的に統合報告書が作成されます。「気候システム及び気候変化の自然科学的根拠」を検討する第1作業部会、「社会経済及び自然システム」を検討する第2作業部会、「気候変化の緩和」を検討する第3作業部会の3つです。
IPCCは、その評価結果を報告書として公開しています。1990年に第1次評価報告書が、1995年に第2次評価報告書、2001年に第3次評価報告書、2007年に第4次評価報告書が、公開されました。私も授業で使うために第4次評価報告書のダイジェスト版をみたりしました。
ご存知のように、地球温暖化に関するドキュメンタリー映画と著書「不都合な真実」のアメリカ合衆国元副大統領アル・ゴアとともにIPCCは、ノーベル平和賞を受賞しました。その理由は、「気候変動問題に関する活動」を評価されてのことです。2007年の報告書が承認される直前の受賞報道で、日本でも大きくニュースに取り上げられました。
IPCCは、研究者を中心とする組織ですが、研究をするための組織ではなく、研究成果(査読制度をもつ雑誌に掲載された論文)をとりまとめ、評価するための組織です。報告書を作成するプロセスは、非常に厳密になされているはずです。なぜなら、その報告書が、気候変動に関する国際的な政治動向や政策決定に重要な役割を果たしているからです。
IPCCは、そもそも「人為起源による」気候変化や影響を調べて、それへの対処を、科学的、技術的、社会経済学的に評価を行うことが目的です。「温暖化ありき」を前提として、その対策を考えることを使命としています。
温暖化の根拠や動機なっているのが、近年地球の平均気温が急上昇しているという結果です。その結果はあるグラフが端的にあらわしているので、よく利用されています。それは、多くの人が目にしたことのあるグラフで、ホッケースのティックのような形をしているので、「ホッケースティック」曲線と呼ばれています。
このグラフは、アメリカの古気候学者のマイケル・マンが、1998年に科学雑誌「Nature」に報告したものです。紀元1000年から2000年までの地球の平均気温をまとめたもので、1900年代になってから急激に温暖化が起こっていること示しているグラフとなっています。
このグラフの作成には、地球の平均気温が必要ですが、そのような気象データは、1000年分もありません。そこでマンは、木の年輪を利用して気温変化を見積もる方法を採用して過去の気温を復元しています。
この復元が議論の的となりました。この復元に用いたデータや、その計算方法を公開するように、温暖化懐疑派は要求したのですが、公開されませんでした。他のデータや計算方法にもいくつかの問題もあり、論文誌上でも議論となりました。なおこの「ホッケースティック」曲線は、第4次評価報告書には載っていません。他にも都市化による温度上昇に関する基礎データと計算法、気温測定地点の状況、平均化のための計算方法なども、公開を拒否するなどいろいろと問題もありました。
このようなやり取りが繰り返され、温暖化肯定派(とくにIPCCの中核に近い研究者たち)と温暖化懐疑派たちのあいだで、感情的な対立が強く生じました。
そこに、2009年11月19日、不正と見られても仕方がないような作為を示すメールや文書が、クラッキングによりインターネット上に流出しました。日本ではあまりメディアで伝えられることがなかったのですが、海外のメディアでは、大きなニュースになったり、いくつかの書籍も出版されて、その事件はクライメートゲート(Climategate)事件と呼ばれるようになりました。
温暖化肯定派は、それらの問題の処理がいろいろなされていますが、部外者的に立場でみると、温暖化を示すデータ、根拠、科学的取り扱いなどに、どうもあまりフェアでなかったような行為もあったようです。
私が、このエッセイでいいたいのは、温暖化肯定派か温暖化懐疑派を論じることではなく、科学の成果と利用についての考え方です。
IPCCという影響力をもつ組織があり、それが実際に政策に関与し、そのフィードバックとして研究費や環境産業、排出権取引など金銭が介在する世界を生み出しました。このような世界が、科学の成果や評価に影響をおよぼさなければいいのですが、それはなかなか難しいようです。そのような土壌のもとで、温暖化のクライメートゲート事件が起きたのです。大きな組織、予算、研究費などが絡まないものであれば、このような事件は起きなかったでしょう。起きたとしても、学界内のスキャンダルに過ぎないものだったはずです。
科学は、そもそもの大前提として、フェアに起こなわれるべきものです。論文の成否(受理か却下)と、その成果を他の研究者が採用するかしないかによって、科学の成果が広まるか無視されるかになります。もちろん反論による議論をすることも起こります。しかし、それらは科学の土俵で手続きを経て行われます。そこには、権力、費用、栄誉などが前面にはでることはありません。また、そのデータや処理の吟味や評価は、データを出した研究者はもちろんですが、批判者に対しても、公開し、批判を受けていく必要があります。これが科学の代謝、あるいは進歩を促します。
ことが数人の当事者間であれば、それほど問題はこじれず、より確からしい結果へと更新が起こるはずです。こじれたとしても、それ以上大事になることもなく、時間とともに忘れ去れていくでしょう。
IPCCのように大きな組織で政治や金も動く状況になれば、批判者はでてくることでしょう。また、その本質に問題があるという指摘するようなグループに対して、なかなかフェアに対処できないこともあるでしょう。
でも、もし「温暖化が間違い」となったら、IPCCとしては、大変なことになります。なぜなら「温暖化ありき」でスタートした組織で、今では国家の政策、国際社会をも巻き込んだ運動となっています。日本でもメディアの前で多くの科学者が、温暖化を主張し、反温暖化派を批判しています。その背後にはIPCCがいて、第4次評価報告書があります。今さら、「温暖化が間違い」となっても、責任をとれる状況は逸しています。
地球温暖化の予測で、「poit of no return」というものがあります。これまでに、対処しないと深刻な事態が起こるという地点です。でも、IPCCにおける「poit of no return」は、始まった時点に過ぎていたのかもしれません。
このように、科学が政治や経済と結びつくときは、注意が必要です。まして目標や目的が決まって巨大な組織、政策、予算が動きだしてしまうと、なかなか変更はむつかしくなります。いった進みだした方向性に基づいて技術は、投資に見合った進歩を急激に起こします。戦争による武器の進歩、原子爆弾の開発がそのいい例でしょう。
科学のいい点は、やがて間違いは正されるということです。これは、科学の歴史をみれば明らかです。ニュートンやアインシュタインのような科学の巨人ですら、その洗礼は受けています。また、多数派が勝つとは限らないことです。創造説、エーテル説、地向斜説などかつては、主流となっていた説も、後には否定されることもあることは歴史が教えてくれます。
私は地質学に携わってきましたから、地球の温暖化は、地球史では当たり前に繰り返し起こるできごとに見えます。時間スケールを変えてみると、繰り返し氷河期が訪れていること、今は氷河期に向かってもおかしくない時期であること、新生代後半は寒冷化に向かう時期と読み取れることも知っています。これは、私だけでなく、地質学者ならだれでも知っていることです。多くの研究のグラフもそうなっています。
科学は、人間の営為です。栄誉や評価、研究費は、研究者ならだれでもが欲しがります。研究者も人間ですから、感情があり、対立が起これば、不正行為、犯罪も起こりえます。これも、過去の事件を上げるまでもなく、いろいろありました。これは、人間の業(ごう)ともいうべきものかもしれません。
温暖化派も反温暖化派も当事者には、もはやもつれた糸をほぐすことは困難かもしれません。利害のない別の科学者たちが、淡々と科学のやり方に従って成果を積み重ね、新たな糸を紡ぐしかないのかもしれません。
温暖化が起こるかどうか、それはいずれ自然が答えを出すはずです。その頃には当事者の科学者たちはいないかもしれませんが。
・寒さ・
いよいよ山里は寒くなってきました。
車のフロントガラスも
朝は凍るようになって来ました。
ストーブを毎朝夕つけるようになりました。
夏の寒さがそれほどでもないところなので、
冬の寒さは厳しそうです。
私は、そんな寒さにもめげず、
地域のイベントがあれば、
できる限り参加しています。
・反対派を大切に・
世の中が一色に染まり、
それ以外は異端として排除されることはよくあります。
反主流派が主流派を批判するのは世の常です。
このような運動形態は人の社会の定常的な動態かもしれません。
主流派は自分の弱点を見るために反主流派の意見を知る必要があります。
なぜなら、反主流派こそが、
主流派論理の一番の理解者だからです。
その上の批判なのです。
温暖化懐疑論者の重要サイト:Climate Audit
http://climateaudit.org/
(感情的なものだけでなく、科学的な議論もなされています。どんなセレクトもせず、すべて公開の場で議論がなされているフェアさがあります。非常に活発な発言が行われています)
Watts Up With That?
http://wattsupwiththat.com/
(かつてはアメリカの気温測定点の現地調査をして、その実態を公開するということを中心に行っていました。ひどいところがなかりあったようです)
なども時には見る必要があるかもしれません。
2010年11月1日月曜日
106 知られえぬこと:不可知論
科学は、前提に基づいて、論理的な手続きによって仮説が立てれられます。そもそもその前提が正しいのか、あるいは仮説が本当かどうかは、「知られえぬこと」です。そのような「知られえぬこと」である不可知論は、有限と無限の境界を示しているのではないでしょうか。
山里では、秋祭りが各地で行われています。時間さえあれば見学に行っています。先日も4年に一度開催される高知県高岡郡津野町にある高野の回り舞台で行われた歌舞伎を見に行きました。自宅から30分ほどでいけます。今年、高知県では、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」に連動した「土佐・龍馬であい博」が各地で介されています。本来なら歌舞伎を行う4年目は来年にあたるのですが、「であい博」にあわせて1年前倒しでの開催となりました。おかげでた、またま近くに滞在していた私も、見学することができました。
この歌舞伎が行われた廻り舞台は、国の重要有形民俗文化財に指定されているものです。それが歌舞伎の最中に実際に回転されて舞台が変えられます。そのため、常に手入れされて使えるようにされています。
地元の人が多くの人が集まり楽しんでいる行事は、地域外の者がいっても、充分楽しめます。私は、時間があれば、地元の人と話をします。そんなとき、行事についていろいろ聞くこともあります。よく知っている人もいるし、ほとんど知らない人もいます。いつから、なぜ、それをするのかのようなことを聞いても、分からないことがあります。でもそんな会話も、行事の楽しみの一部となります。
聞いて分からないことが、あとでインターネット検索して調べると、「そうだったのか」と理解でき、納得できることがあります。しかし、そんな記録や解説がないとき、自分が仕入れた数少ない情報から、自分なりの推定をしていくしかありません。それは、非常に不確かで危ういことです。自分でもよくわかっていますが、そうするしか理由を考えられません。
科学の世界でも同じようなことが、よく起こります。特に限られた情報しかない場合がそうなります。私は地質学を専門としています。地質学は、過去に形成された岩石などを素材にして、過去に起こったことを物理、化学、生物学的現象として推定しようとするものです。その推定は、あくまでも、得られた情報や証拠による、その時点で科学的にある程度根拠をもったもの、「もっともらしき」ものです。
しかし、本当のところ、つまり真実は、知りえないものです。
地質学は、時間あるいは歴史という不可逆的な流れのなかで、すでに起こってしまったことを推定しています。たとえ昔の事象であっても、何らかの因果や必然が介在するはずです。たとえ人が知りえなくとも、背景には必然性があるはずです。しかし、再現性のない過去の事象は、推定するしかありません。
このような不確かさは、過去のものを対象にする地質学だけでなく、自然を対象にする自然科学の多くには、その達成した成果の中には、不確かさが多数紛れ込んでいます。その推定を、科学は現在のところ一番「もっともらしい」という切り口で語っているに過ぎません。新たなデータ、情報、証拠が出てくれば、科学はよりよいものへと書き換えられていくのです。古典力学から相対性理論へ、天動説から地動説へ、地向斜論からプレートテクトニクスへ、そしてプルームテクトニクスへと。これが科学の進歩のしかたで、科学自体の正しいあるべき姿でもあります。
ところが、再現性のない過去の事象を推定するとき、論理的に完結できない論理にならざるえません。その論理は、不確実性を伴います。そこに不可知論的な、不安を感じるのは、私だけでしょうか。そこには、もしかしたら、人智では知りえないものがあるのかもしれません。
一方、論理学や数学のような緻密な積み上げ可能な学問体系では、いったん証明されたものは、どんなに古い、たとえギリシア時代の証明であろうとも、前提や仮定、条件が成立する限り、それは正しいことであり続けます。ピタゴラスの定理が今でも正しいのは、そのいい例です。
人智では知りえない、答えられないような議論を不可知論といいます。不可知論は、英語で「agnosticism」と呼ばれています。agnosticismは、agnosticという言葉から由来しています。agnosticの語頭の「a」は否定の意味を持ち、gnosticは、ギリシア語を語源とする「知識」を意味します。その知識は、ただの知識ではなく、人間を救済に導く究極の知識です。そこからagnosticは、「知られえぬ」という意味になっています。
新約聖書の「使徒行伝」の中でパウロが各地に伝道をするなかで、アテネの様子を伝える場面で、
「実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られえぬ神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(17章23節)
という一節があります。
その節を引用しつつ、「知られえぬ神に(agnosto theo)」と刻まれた祭壇のことを語りながら、自己の立場を語った1869年のハクスリー(Thomas Henry Huxley、1825.05.04-1895.06.29)の講演があります。不可知論という言葉や考え方は、その講演が由来となっています。その講演は、チャールズ・ダーウィンの進化論を支持するものでした。その背景には進化論が、キリスト教の教義に背くような内容があったので、その支持には、難しい配慮が必要でした。
不可知論的には、進化論で進化の現象を認識し説明しえますが、その背後には科学的には考えられない実在や力、「知られえざるもの、the Unknowable」(神のこと)を前提するとしています。つまり、進化という現象を科学的に認識したり、説明することは可能ですが、進化を起こしている存在は、人には科学的なアプローチは不可能なので、「知られえざる」ものとしようというのが、ハクスリーのとった不可知論の立場です。「知られえざる」ものは、無限の大きさをもつ存在でもあります。時代の経過、科学の進歩によって、不可知論は拡大していき、神や絶対者だけでなく、死後の世界、理性や事物の究極の実在などに対しても、語られるようになりました。
科学は、実用的な面で、いろいろな便利さをもたらしてきました。このような科学や技術の進歩は、後退することなく進み続けます。科学の論理体系の世界も同じように進み、その領域を広げてきました。
一方、不可知論的世界は、決してその領域を減らしているわけではないような気がします。科学の成果や論理、証明がひとつひとつ数えられるように、科学は有限です。有限の科学をいくら拡大していっても、無限の不可知論は縮小することはありません。無限から有限を引いても無限は減ることはありません。
科学は、不可知論を超えることはできません。これは、人間の理性には限界があることを、表しているのかもしれません。不可知論は、有限と無限の境界を教えてくれているのかもしれません。
いくつもの地域の祭に参加していると、なぜか分からないけれども、そうするということがあります。その儀式は、守られ現在に至っています。そこには伝統や歴史を守る強さと、日常に即した融通無碍の可変性もあります。
先日参加した祭は、始まりから雨が降り始めました。そのときに対処法は、だれも知らないようでした。しかし、祭は、公民館のホールに急遽移され、何事もないかのように、進行しました。だれも公式にアナウンスすることなく、現物の人は口コミで公民館に集まります。不思議なものです。
守るべき伝統も、必要に応じて、変化します。踊りを担当している人で、どうも踊りたくないような口ぶりの人もいたようですが、その人が、「来年から雨が降っても、踊らなぁいかんようになったのう」といってました。ここに新しい伝統ができたようです。
人は守るべきものと変えるべきものに対して、こんな融通無碍に振舞えるのです。不可知論的領域も、そんな融通無碍で乗り込めるかもしれませんね。そうすれば、ますます楽しみが広がりそうです。
・知られえるもの・
科学をしていると、
自分の考えている前提の中で、
証拠は十分か、論理に矛盾がなかなど、
論理性を考えています。
しかし、前提だ正しいかどうか、
自分が知りたいことが「知られえる」ものかどうか、
非常の本質的なことを忘れしまいます。
しかし、不可知論的な場は、
議論しても結論がでないから不可知論なのですが。
・無神論・
不可知論と無神論は
混同されることがありますが、
明らかに、違います。
不可知論的には、
無心論は神の不在を証明しない限り成立しえません。
ですから、神に不在は実は論理的は、
非常に証明がこんなです。
実際には不可能です。
だから、神は不可知論的存在となります。
山里では、秋祭りが各地で行われています。時間さえあれば見学に行っています。先日も4年に一度開催される高知県高岡郡津野町にある高野の回り舞台で行われた歌舞伎を見に行きました。自宅から30分ほどでいけます。今年、高知県では、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」に連動した「土佐・龍馬であい博」が各地で介されています。本来なら歌舞伎を行う4年目は来年にあたるのですが、「であい博」にあわせて1年前倒しでの開催となりました。おかげでた、またま近くに滞在していた私も、見学することができました。
この歌舞伎が行われた廻り舞台は、国の重要有形民俗文化財に指定されているものです。それが歌舞伎の最中に実際に回転されて舞台が変えられます。そのため、常に手入れされて使えるようにされています。
地元の人が多くの人が集まり楽しんでいる行事は、地域外の者がいっても、充分楽しめます。私は、時間があれば、地元の人と話をします。そんなとき、行事についていろいろ聞くこともあります。よく知っている人もいるし、ほとんど知らない人もいます。いつから、なぜ、それをするのかのようなことを聞いても、分からないことがあります。でもそんな会話も、行事の楽しみの一部となります。
聞いて分からないことが、あとでインターネット検索して調べると、「そうだったのか」と理解でき、納得できることがあります。しかし、そんな記録や解説がないとき、自分が仕入れた数少ない情報から、自分なりの推定をしていくしかありません。それは、非常に不確かで危ういことです。自分でもよくわかっていますが、そうするしか理由を考えられません。
科学の世界でも同じようなことが、よく起こります。特に限られた情報しかない場合がそうなります。私は地質学を専門としています。地質学は、過去に形成された岩石などを素材にして、過去に起こったことを物理、化学、生物学的現象として推定しようとするものです。その推定は、あくまでも、得られた情報や証拠による、その時点で科学的にある程度根拠をもったもの、「もっともらしき」ものです。
しかし、本当のところ、つまり真実は、知りえないものです。
地質学は、時間あるいは歴史という不可逆的な流れのなかで、すでに起こってしまったことを推定しています。たとえ昔の事象であっても、何らかの因果や必然が介在するはずです。たとえ人が知りえなくとも、背景には必然性があるはずです。しかし、再現性のない過去の事象は、推定するしかありません。
このような不確かさは、過去のものを対象にする地質学だけでなく、自然を対象にする自然科学の多くには、その達成した成果の中には、不確かさが多数紛れ込んでいます。その推定を、科学は現在のところ一番「もっともらしい」という切り口で語っているに過ぎません。新たなデータ、情報、証拠が出てくれば、科学はよりよいものへと書き換えられていくのです。古典力学から相対性理論へ、天動説から地動説へ、地向斜論からプレートテクトニクスへ、そしてプルームテクトニクスへと。これが科学の進歩のしかたで、科学自体の正しいあるべき姿でもあります。
ところが、再現性のない過去の事象を推定するとき、論理的に完結できない論理にならざるえません。その論理は、不確実性を伴います。そこに不可知論的な、不安を感じるのは、私だけでしょうか。そこには、もしかしたら、人智では知りえないものがあるのかもしれません。
一方、論理学や数学のような緻密な積み上げ可能な学問体系では、いったん証明されたものは、どんなに古い、たとえギリシア時代の証明であろうとも、前提や仮定、条件が成立する限り、それは正しいことであり続けます。ピタゴラスの定理が今でも正しいのは、そのいい例です。
人智では知りえない、答えられないような議論を不可知論といいます。不可知論は、英語で「agnosticism」と呼ばれています。agnosticismは、agnosticという言葉から由来しています。agnosticの語頭の「a」は否定の意味を持ち、gnosticは、ギリシア語を語源とする「知識」を意味します。その知識は、ただの知識ではなく、人間を救済に導く究極の知識です。そこからagnosticは、「知られえぬ」という意味になっています。
新約聖書の「使徒行伝」の中でパウロが各地に伝道をするなかで、アテネの様子を伝える場面で、
「実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られえぬ神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(17章23節)
という一節があります。
その節を引用しつつ、「知られえぬ神に(agnosto theo)」と刻まれた祭壇のことを語りながら、自己の立場を語った1869年のハクスリー(Thomas Henry Huxley、1825.05.04-1895.06.29)の講演があります。不可知論という言葉や考え方は、その講演が由来となっています。その講演は、チャールズ・ダーウィンの進化論を支持するものでした。その背景には進化論が、キリスト教の教義に背くような内容があったので、その支持には、難しい配慮が必要でした。
不可知論的には、進化論で進化の現象を認識し説明しえますが、その背後には科学的には考えられない実在や力、「知られえざるもの、the Unknowable」(神のこと)を前提するとしています。つまり、進化という現象を科学的に認識したり、説明することは可能ですが、進化を起こしている存在は、人には科学的なアプローチは不可能なので、「知られえざる」ものとしようというのが、ハクスリーのとった不可知論の立場です。「知られえざる」ものは、無限の大きさをもつ存在でもあります。時代の経過、科学の進歩によって、不可知論は拡大していき、神や絶対者だけでなく、死後の世界、理性や事物の究極の実在などに対しても、語られるようになりました。
科学は、実用的な面で、いろいろな便利さをもたらしてきました。このような科学や技術の進歩は、後退することなく進み続けます。科学の論理体系の世界も同じように進み、その領域を広げてきました。
一方、不可知論的世界は、決してその領域を減らしているわけではないような気がします。科学の成果や論理、証明がひとつひとつ数えられるように、科学は有限です。有限の科学をいくら拡大していっても、無限の不可知論は縮小することはありません。無限から有限を引いても無限は減ることはありません。
科学は、不可知論を超えることはできません。これは、人間の理性には限界があることを、表しているのかもしれません。不可知論は、有限と無限の境界を教えてくれているのかもしれません。
いくつもの地域の祭に参加していると、なぜか分からないけれども、そうするということがあります。その儀式は、守られ現在に至っています。そこには伝統や歴史を守る強さと、日常に即した融通無碍の可変性もあります。
先日参加した祭は、始まりから雨が降り始めました。そのときに対処法は、だれも知らないようでした。しかし、祭は、公民館のホールに急遽移され、何事もないかのように、進行しました。だれも公式にアナウンスすることなく、現物の人は口コミで公民館に集まります。不思議なものです。
守るべき伝統も、必要に応じて、変化します。踊りを担当している人で、どうも踊りたくないような口ぶりの人もいたようですが、その人が、「来年から雨が降っても、踊らなぁいかんようになったのう」といってました。ここに新しい伝統ができたようです。
人は守るべきものと変えるべきものに対して、こんな融通無碍に振舞えるのです。不可知論的領域も、そんな融通無碍で乗り込めるかもしれませんね。そうすれば、ますます楽しみが広がりそうです。
・知られえるもの・
科学をしていると、
自分の考えている前提の中で、
証拠は十分か、論理に矛盾がなかなど、
論理性を考えています。
しかし、前提だ正しいかどうか、
自分が知りたいことが「知られえる」ものかどうか、
非常の本質的なことを忘れしまいます。
しかし、不可知論的な場は、
議論しても結論がでないから不可知論なのですが。
・無神論・
不可知論と無神論は
混同されることがありますが、
明らかに、違います。
不可知論的には、
無心論は神の不在を証明しない限り成立しえません。
ですから、神に不在は実は論理的は、
非常に証明がこんなです。
実際には不可能です。
だから、神は不可知論的存在となります。
2010年10月1日金曜日
105 時間と物質の対比:無に宿る時間
ものごとを分かりやすくするために、平均値を用いることがあります。しかし、平均では見えないものがあります。地層には、過去の時間が記録されています。地層の記録には、複雑な背景が隠されています。平均してしまうと、地層の真の姿が見えてきません。私は、そんな時間と物質の対比の複雑さに、興味があります。
私は、マグマが固まってできた火成岩、その中でも海洋底を構成していたであろう岩石群(オフィオライトと呼ばれます)を調べていました。火成岩の岩石全体(全岩といいます)や鉱物の化学組成を用いて、オフィオライトの成因や起源について研究していました。一般にオフィオライトは、変成作用を受けて、変質も風化もしています。火成作用を探るために、できるだけ変成や変質、風化の少ない(新鮮といってます)岩石の採取が、重要になります。私は、オフィオライトの岩石学的研究の後、鉛の同位体分析の開発も専門としてきました。
オフィオライトの地質調査では、堆積岩や化石が出る層を伴うこともあります。しかし堆積岩は、分析対象になりません。ですから、堆積岩は記載して試料採取はしますが、分析対象にすることはありませんでした。
博物館に勤務してから、子供や市民は、火成岩より、地層や化石に圧倒的な興味を持ちます。ですから、博物館の学芸員としては、そのような市民の希望にそった観察場を提供することが多くなります。幸い、私がいた県には、いろいろな時代の地層があり、化石がたくさん出るところもあったので、そこで観察会をすることがよくありました。また、神奈川県の地学図鑑とデータベースをつくるために、県内各地を堆積岩もくまなく見てまわる機会もありました。
その結果、地層に不思議さを感じるようになり、興味も出てきました。
今では、地層の不思議さについて考えていくことが、研究対象になっています。現在の調査は、地層がよく見られるところを選ぶようになっています。今まで、興味がなかったものが、今では興味の対象となっています。私の興味の転換も不思議ですが、これは別の機会にしましょう。
今回は、私が感じている地層の不思議さの一端を紹介しましょう。
まず、想像してみてください。その地層の見える崖があります。このような崖を露頭といいます。露頭には何層も重なる地層があります。向かって右に傾いている地層で、似たような層が何枚も何枚も重なっています。
ひとつひとつの地層(単層と呼びます)の内部を詳しく見ると、それぞれ違いはありますが、共通した特徴もあります。単層内で、粒の粗い砂岩から、粒の細かい砂岩、やがて泥岩、粘土岩へと徐々に変わります。泥岩から砂岩へは明瞭な境界をもっています。そのような形状(産状といいます)から、地層の形成時の上下関係が判定できます。右側の地層が上に溜まっていったようです。それに、この露頭では、所々に化石も見えます。
この地層の重なる露頭は、長い時間を経過して溜まったはずです。何枚もの地層ができるのには、長い時間が必要です。ですから、地層の枚数が多いほど、たくさんの時間が費やされたに違いありません。その地層にはどれくらいの時間が織り込まれているのでしょうか。どれくらいのスピードで形成されるでしょうか。それらは、科学的に検証できるのでしょうか。このようなことについて考えていきましょう。
露頭に見えている地層だけが、本来堆積した地層のすべてではありません。露頭がなく地層が見えなくても、地下にも広く分布しているはずです。あるいは、もともとはあったものが、浸食を受けて、なくなっているはずです。なくなったものの復元は難しいですが、見えないものは地質学の手法を用いれば、推定することができます。
まずは、その地層に適切な、地層名をつけましょう。A層としましょう。その露頭のものと似た地層が、どこにあるかを調べます。近くから地質調査をして、そのA層の分布を調べていきます。分布がわかれば、地形図の上に、地層分布図(まだ地質図ではありません)を描くことができます。
地質調査では、A層の分布だけでなく、地層の構造(地層面の傾きと向いている方向や褶曲や断層、不整合など・・・)も、いっしょに調べていきます。A層の分布と地質構造を詳しく調査していくと、図学的な手法(地質図学と呼ばれます)によって、地層の3次元的な空間分布をかなり正確に求めることができます。
露頭で見えている地層の厚さ(層厚といいます)は、ほんの一部です。層厚とは地層の本来の厚さで、露頭で見ている厚さは、地層が傾いていたりすると、本来の厚さとは違って見えること(見かけの層厚)があります。地層の構造が分かれば、見かけの層厚にだまされることもありません。
地質図学の手法を用いれば、露頭がなくて見えないところでも、地下にある部分でも、本当の層厚を推定することができます。削剥を受けて、分からない層厚の部分ももちろんでてきます。しかし、現在ある証拠から現状の地層については、論理的に確実に存在する層厚(最小限の層厚)を見積もることはできます。
A地層の厚さは100mだ、ということがわかりました。幸い、すべての単層を確認できたとしましょう。単層は数えると、100枚ありました。平均層厚は1mとなります。せっかく単層の数が分かっているのですから、一番下の地層から順番に番号をつけましょう。
もちろんすべての地層が平均の厚さをもつわけではなく、さまざまな層厚のものがあるでしょう。平均は平均です。必要とあれば、統計的に偏差や分散を示せば、ばらつき具合を示すことができます。
A層内に、断層や不整合などの不連続がないとすると、その厚さは、たまったときのもともとの厚さを示しているでしょうか。古い時代の地層は硬い岩石になっています。ですから、軟らかい堆積物としてたまった地層が硬くなるとき(続成作用といいます)、粒子の間にあった大量の水が排出されて、圧縮されます。固結した地層の厚さは、もともとのもとよりかなり減ります。が、そのあたりのことは、ここでの議論とは関係がありませんので、省きましょう。
地層の溜まる時間やスピードを調べるには、時間を示す指標が必要になります。そのために、化石(相対年代といいます)や放射性年代(絶対年代)の手法が利用できます。今では、化石の年代と絶対年代はかなり密接に対応がなされていますので、時代を判別できる化石(示準化石といいます)が見つかれば、かなり正確に時代を決めることができます。
さて、A層のNo.20とNo.70の単層から、化石が見つかりました。その化石から時代を調べたところ、No.20が約10万年前のもので、No.70が約5万年前のものだったとしましょう。
5万年の間に50枚の地層が溜まったことになりますから、一枚の地層ができるのに、平均的には1000年かかっていることになります。もちろんこれも「平均」です。もし、地層がある一定のスピード(平均的スピード)で溜まっているとすると、地層が溜まるのにどれくらい時間かかっているかの見当がつけられます。
50枚の地層は、もともと100枚あった地層の半分ですから、A層は、100mの層厚がありましたから、100枚の地層がたまるのに10万年かかったと見積れます。
また、一枚の地層は平均すると1mの層厚ですから、それが溜まるのに1000年かかったことになります。地層の堆積スピードは、平均毎年1mmのスピードで溜まることになります。もちろん、これも「平均」です。
さて、ここでおこなった堆積スピードの推定は、正しいでしょうか。「平均毎年1mmのスピード」には、明らかな間違いがあります。
それは、一枚の地層が溜まる過程に、その秘密があります。地層は、毎年少しずつ溜まるのではなく、一枚の地層が一気に溜まるのです。このような地層の溜まり方は、特別なものではなく、砂岩から泥岩からできている地層の多くは、このようなでき方をしていることが分かっています。その典型は、日本でよく見られるタービダイト(乱泥流とも呼ばれる)と呼ばれる地層です。
タービダイトのような地層は、海底の土石流や地すべりのような激しい現象によって、一気に溜まります。数時間、あるいは数日で砂岩から泥岩までがたまります。数日などの時間は、地質学的には同時とみなせるほどの時間となります。
一層1000年という堆積の時間のほぼ「すべて」は、この地層と最上部の粘土岩と上の地層の砂岩の間に、「ある」のです。しかし、時間を記録しいてる物質は「ありません」。地質学的時間は、地質学的物質には、記録されていないのです。時間のすべては、物質的「無」に、宿っているのです。地層とは、事件や現象の記録です。「瞬間」の記録なのです。すべての時間は、無に宿るのです。
地層では、時間が物質に一定の割合で置き換えられているわけではないのです。大部分の時間は、物質には置き換えられていないのです。大部分の時間は、地層の境界に折りたたまれていることになります。
地層における時間と物質(堆積物)の対比関係は、複雑です。それを平均にしてしまうと、複雑さが見えなくなります。私は、そんな複雑さに興味があり、それを見たいのです。
・チャート・
タービダイトのような堆積物は、
上で述べたような成因を持ちます。
しかし、チャートとよばれる岩石は、
実は、時間と物質の関係が
1対1に近い関係を持っています。
チャートは、深海底に降り積もった
マリンスノー(プランクトンの死骸)の有機物が分解して
珪質部分だけが溜まって岩石になったものです。
ですから、チャートについては、
1000年で1mmなどという推定も可能となります。
私は、チャートにも、タービダイトに不思議を見ます。
・里帰り・
このメールが届く頃、
私は、京都に里帰りしています。
ちょうど祭の時期です。
高校を卒業して以来、
ふるさとの祭を見たことがありません。
その祭にあわせて里帰りします。
約30年ぶりです。
母からちょうちんを上げる役があるので
出てくれといわれています。
もう知らない人ばかりなのですが、
母にとっては、ここが生活の場なのです。
せいぜい親孝行しましょう。
私は、マグマが固まってできた火成岩、その中でも海洋底を構成していたであろう岩石群(オフィオライトと呼ばれます)を調べていました。火成岩の岩石全体(全岩といいます)や鉱物の化学組成を用いて、オフィオライトの成因や起源について研究していました。一般にオフィオライトは、変成作用を受けて、変質も風化もしています。火成作用を探るために、できるだけ変成や変質、風化の少ない(新鮮といってます)岩石の採取が、重要になります。私は、オフィオライトの岩石学的研究の後、鉛の同位体分析の開発も専門としてきました。
オフィオライトの地質調査では、堆積岩や化石が出る層を伴うこともあります。しかし堆積岩は、分析対象になりません。ですから、堆積岩は記載して試料採取はしますが、分析対象にすることはありませんでした。
博物館に勤務してから、子供や市民は、火成岩より、地層や化石に圧倒的な興味を持ちます。ですから、博物館の学芸員としては、そのような市民の希望にそった観察場を提供することが多くなります。幸い、私がいた県には、いろいろな時代の地層があり、化石がたくさん出るところもあったので、そこで観察会をすることがよくありました。また、神奈川県の地学図鑑とデータベースをつくるために、県内各地を堆積岩もくまなく見てまわる機会もありました。
その結果、地層に不思議さを感じるようになり、興味も出てきました。
今では、地層の不思議さについて考えていくことが、研究対象になっています。現在の調査は、地層がよく見られるところを選ぶようになっています。今まで、興味がなかったものが、今では興味の対象となっています。私の興味の転換も不思議ですが、これは別の機会にしましょう。
今回は、私が感じている地層の不思議さの一端を紹介しましょう。
まず、想像してみてください。その地層の見える崖があります。このような崖を露頭といいます。露頭には何層も重なる地層があります。向かって右に傾いている地層で、似たような層が何枚も何枚も重なっています。
ひとつひとつの地層(単層と呼びます)の内部を詳しく見ると、それぞれ違いはありますが、共通した特徴もあります。単層内で、粒の粗い砂岩から、粒の細かい砂岩、やがて泥岩、粘土岩へと徐々に変わります。泥岩から砂岩へは明瞭な境界をもっています。そのような形状(産状といいます)から、地層の形成時の上下関係が判定できます。右側の地層が上に溜まっていったようです。それに、この露頭では、所々に化石も見えます。
この地層の重なる露頭は、長い時間を経過して溜まったはずです。何枚もの地層ができるのには、長い時間が必要です。ですから、地層の枚数が多いほど、たくさんの時間が費やされたに違いありません。その地層にはどれくらいの時間が織り込まれているのでしょうか。どれくらいのスピードで形成されるでしょうか。それらは、科学的に検証できるのでしょうか。このようなことについて考えていきましょう。
露頭に見えている地層だけが、本来堆積した地層のすべてではありません。露頭がなく地層が見えなくても、地下にも広く分布しているはずです。あるいは、もともとはあったものが、浸食を受けて、なくなっているはずです。なくなったものの復元は難しいですが、見えないものは地質学の手法を用いれば、推定することができます。
まずは、その地層に適切な、地層名をつけましょう。A層としましょう。その露頭のものと似た地層が、どこにあるかを調べます。近くから地質調査をして、そのA層の分布を調べていきます。分布がわかれば、地形図の上に、地層分布図(まだ地質図ではありません)を描くことができます。
地質調査では、A層の分布だけでなく、地層の構造(地層面の傾きと向いている方向や褶曲や断層、不整合など・・・)も、いっしょに調べていきます。A層の分布と地質構造を詳しく調査していくと、図学的な手法(地質図学と呼ばれます)によって、地層の3次元的な空間分布をかなり正確に求めることができます。
露頭で見えている地層の厚さ(層厚といいます)は、ほんの一部です。層厚とは地層の本来の厚さで、露頭で見ている厚さは、地層が傾いていたりすると、本来の厚さとは違って見えること(見かけの層厚)があります。地層の構造が分かれば、見かけの層厚にだまされることもありません。
地質図学の手法を用いれば、露頭がなくて見えないところでも、地下にある部分でも、本当の層厚を推定することができます。削剥を受けて、分からない層厚の部分ももちろんでてきます。しかし、現在ある証拠から現状の地層については、論理的に確実に存在する層厚(最小限の層厚)を見積もることはできます。
A地層の厚さは100mだ、ということがわかりました。幸い、すべての単層を確認できたとしましょう。単層は数えると、100枚ありました。平均層厚は1mとなります。せっかく単層の数が分かっているのですから、一番下の地層から順番に番号をつけましょう。
もちろんすべての地層が平均の厚さをもつわけではなく、さまざまな層厚のものがあるでしょう。平均は平均です。必要とあれば、統計的に偏差や分散を示せば、ばらつき具合を示すことができます。
A層内に、断層や不整合などの不連続がないとすると、その厚さは、たまったときのもともとの厚さを示しているでしょうか。古い時代の地層は硬い岩石になっています。ですから、軟らかい堆積物としてたまった地層が硬くなるとき(続成作用といいます)、粒子の間にあった大量の水が排出されて、圧縮されます。固結した地層の厚さは、もともとのもとよりかなり減ります。が、そのあたりのことは、ここでの議論とは関係がありませんので、省きましょう。
地層の溜まる時間やスピードを調べるには、時間を示す指標が必要になります。そのために、化石(相対年代といいます)や放射性年代(絶対年代)の手法が利用できます。今では、化石の年代と絶対年代はかなり密接に対応がなされていますので、時代を判別できる化石(示準化石といいます)が見つかれば、かなり正確に時代を決めることができます。
さて、A層のNo.20とNo.70の単層から、化石が見つかりました。その化石から時代を調べたところ、No.20が約10万年前のもので、No.70が約5万年前のものだったとしましょう。
5万年の間に50枚の地層が溜まったことになりますから、一枚の地層ができるのに、平均的には1000年かかっていることになります。もちろんこれも「平均」です。もし、地層がある一定のスピード(平均的スピード)で溜まっているとすると、地層が溜まるのにどれくらい時間かかっているかの見当がつけられます。
50枚の地層は、もともと100枚あった地層の半分ですから、A層は、100mの層厚がありましたから、100枚の地層がたまるのに10万年かかったと見積れます。
また、一枚の地層は平均すると1mの層厚ですから、それが溜まるのに1000年かかったことになります。地層の堆積スピードは、平均毎年1mmのスピードで溜まることになります。もちろん、これも「平均」です。
さて、ここでおこなった堆積スピードの推定は、正しいでしょうか。「平均毎年1mmのスピード」には、明らかな間違いがあります。
それは、一枚の地層が溜まる過程に、その秘密があります。地層は、毎年少しずつ溜まるのではなく、一枚の地層が一気に溜まるのです。このような地層の溜まり方は、特別なものではなく、砂岩から泥岩からできている地層の多くは、このようなでき方をしていることが分かっています。その典型は、日本でよく見られるタービダイト(乱泥流とも呼ばれる)と呼ばれる地層です。
タービダイトのような地層は、海底の土石流や地すべりのような激しい現象によって、一気に溜まります。数時間、あるいは数日で砂岩から泥岩までがたまります。数日などの時間は、地質学的には同時とみなせるほどの時間となります。
一層1000年という堆積の時間のほぼ「すべて」は、この地層と最上部の粘土岩と上の地層の砂岩の間に、「ある」のです。しかし、時間を記録しいてる物質は「ありません」。地質学的時間は、地質学的物質には、記録されていないのです。時間のすべては、物質的「無」に、宿っているのです。地層とは、事件や現象の記録です。「瞬間」の記録なのです。すべての時間は、無に宿るのです。
地層では、時間が物質に一定の割合で置き換えられているわけではないのです。大部分の時間は、物質には置き換えられていないのです。大部分の時間は、地層の境界に折りたたまれていることになります。
地層における時間と物質(堆積物)の対比関係は、複雑です。それを平均にしてしまうと、複雑さが見えなくなります。私は、そんな複雑さに興味があり、それを見たいのです。
・チャート・
タービダイトのような堆積物は、
上で述べたような成因を持ちます。
しかし、チャートとよばれる岩石は、
実は、時間と物質の関係が
1対1に近い関係を持っています。
チャートは、深海底に降り積もった
マリンスノー(プランクトンの死骸)の有機物が分解して
珪質部分だけが溜まって岩石になったものです。
ですから、チャートについては、
1000年で1mmなどという推定も可能となります。
私は、チャートにも、タービダイトに不思議を見ます。
・里帰り・
このメールが届く頃、
私は、京都に里帰りしています。
ちょうど祭の時期です。
高校を卒業して以来、
ふるさとの祭を見たことがありません。
その祭にあわせて里帰りします。
約30年ぶりです。
母からちょうちんを上げる役があるので
出てくれといわれています。
もう知らない人ばかりなのですが、
母にとっては、ここが生活の場なのです。
せいぜい親孝行しましょう。
2010年9月1日水曜日
104 Jupiter:一人じゃない
今年の夏は暑かったので、時々高原に避暑にいきました。ただ涼みに行ったのではなく、まだ周ってないところを見てきました。そのときに、たまたま聞いていた音楽に心に残りました。音楽と心について、今回は考えてみました。
私は、現在、1年間のサバティカルで、愛媛県の山奥に滞在しています。そこでテレビもラジオもない生活を送っています。新聞もとっていません。土曜、日曜も関係なく、役場の総合支所内にある執務室に、朝から夕方までいます。
通常の生活を振り返ると、こんな一日を過ごしています。5時過ぎに起きて、朝食をとり、6時過ぎに自宅を出て、20、30分ほどかけて歩いて総合支所の執務室にいきます。そして一日、仕事をします。5時過ぎに執務室をでて自宅まで歩いて帰ります。帰宅したら、炊飯器をセットして、温水プールにいきます。7時くらいに帰ってきて、夕食の準備をして、食べます。食後しばらく休んだら、もうすることがないので、寝床に入り、眠くなるまで、本を読みます。
日常生活の時間と睡眠、プールの時間を除くと、24時間の大部分を研究に費やして過ごしています。淡々とした単調な研究生活を、一人で毎日繰り返しています。独身の研究者時代に戻ったようです。こんな生活に満足と幸せを感じています。
情報源や外部との連絡のために、インターネットにつながる環境だけは確保しています。そのインターネットを通じての各種の情報収集はできます。インターネットは使いようによっては、さまざまな使い方ができますが、現在の私のような一人の世界に篭って集中するという生活をしていると、情報を極力排除するという選択も可能です。自分の必要に応じて情報の入力量を調整できるのが、現在の環境の最大のメリットかもしれません。
ニュースはインターネットのニュースサイトのヘッドラインだけで充分で、必要に応じて詳細を見ればいいのです。テレビも北海道の自宅にいるときは、時間つぶしもかねて結構な時間、見ていましたが、こちらに来てまったく見なくなりなりました。
ただ娯楽として、音楽や映像を見たくなることがあります。そんな時、YouTubeなどの動画サイトをみます。検索すれば、たいていの見たいものがあります。このごろは、昔聞いていた懐かしい歌手の映像をみることが多いです。
話は変わりますが、先日、天狗高原というところにでかけました。天狗高原は、私が住む町にある大野ヶ原の東延長にある高原で、カルスト地形をみるにはいいところです。高知県(津野町)と愛媛県(久万高原町)の県境になります。ある朝、青空が蒼く、ついつい天気に誘われて、急遽、天狗高原に出かけることにしました。
数年前ですが、天狗高原にある天狗荘に、家族で泊まったことがあります。しかし、あまりじっくり見ることなく、そのまま四万十川の源流に向かって、山を降りてしまいました。今回は天狗高原をじっくりと見ようとしました。以前にはなかったセラピーロードという散策路が、新たに(2007年より)にできていました。その道を1kmほど歩いたのですが、なかなかいいコースで、山頂からの道とも交わっているようです。4km以上もコースがあり、ルートもいくつかあります。
下界は残暑がきびしいのですが、1000m以上の標高のところにくると、すがすがしい気候です。支所を出たときには晴れていたのですが、天狗高原に来ると、残念ながら、雲がかかってしまいました。山の天気は変わりやすいものです。少々残念で、心残りですがしかたがありません。
天狗高原は、ススキの穂が出はじめていました。そろそろ秋が始まっていました。非常に心地よいところなので、また来こようと思いました。秋が深まったら、今度はじっくり歩きに来くることにしましょう。
天狗高原を車で走っているとき、ある曲を流して聞きました。いい曲だと思いましたが、以前に感じたとの同じ心持ちには、なぜか、なれませんでした。そんな心持ちになりたくて、かけた曲だったのですが。
天狗高原に出かける1週間ほど前に、市内の最高峰の山に登るために大野ヶ原に出かけました。そのとき車で流れていた音楽が心に染みました。ついつい何度もリピートして聞いてしまいました。いつも車で流れる曲は、自分で選んだものです。ですから知っている曲ばかりで、その曲ももちろん何度も聞いたことがあります。なのに、その時、なぜかある曲にだけ、聞き入ってしまいました。
その時流れていたのは、平原綾香さんの「Jupiter」という曲でした。たまたま大野ヶ原の高原の心地よい道を走っているとき、その曲の出だしの「Every day I listen to my heart 一人じゃない」という歌詞が、どうしたことか、心に深く入ってきました。毎日一人で生活をし、一人で研究に向かい、一人で調査も出かけていきます。なのに「一人じゃない」という歌詞が、心に飛び込んできたのです。そうです。一人で生きているようですが、一人で生きているわけではないのです。
今まで、この曲の歌詞をあまり深く考えずに聞いていたのです。この曲は、数年前に流行ったので、多くの人が知っているはずです。私も聞いていました。しかし、フォルストの組曲「惑星」の「Jupiter」に歌詞をつけたということと、広い音域を歌っていること、などついつい話題の部分に注目してしまい、その音楽の中身を聴くことをしていなかったのでしょう。それまで歌詞をじっくりと聴いたことがありませんでした。
なによりそれを聞いていた私の心理状態が、その音楽の歌詞を聴く状態で、なおかつ受け入れる状態になっていたのでしょう。何度も繰り返し聞くうちに、その曲にはいい言葉がちりばめられていることに気づきました。もっと、はやく気づくべきなのかもしれませんが。
天狗高原は、大野ヶ原と連続していて、似たようなカルスト地形の高原です。景観としては、似ています。大野ヶ原以上にカルスト地形が広がっていて、壮大です。そんな天狗高原で、同じような気分を味わいたくて、その曲を聴いたのですが、なぜか同じような心持になれませんでした。
周りの環境を整えたしても、同じ心境に達せなかったのはなぜでしょう。
このエッセイを書くために、YouTubeで平原綾香さんの歌うJupiterをいく種類か聞きましたが、いい曲であることはわかるのですが、同じ気持ちにはなりませんでした。唯一似た気持ちになったのは、Jupiterの音楽を聴きながら、歌詞をディスプレイに表示して読んだときでした。その理由は、いまだに分かりません。
このエッセイでは、心の問題を何度か取り上げていますが、心はなかなか難解で、私の手に負えないものです。ちょっとしたことをきっかけに、心が大きく波打ったり、いつもと同じものが、心に大きく響いたりすることがあります。逆にどんなに努力しても、心が応えてくれないこともあります。今回もそんな経験でした。心とは、私にとっては、御しがたい不思議な存在です。
この1年間の目標としていることを達成するために、集中し、努力し、毎日、四苦八苦しています。そして、当初計画していたように、論文を書きだめること、四国の地質を広域調査すること、町内と近郊の調査をすることに精進しています。その目標を達成するために、可能な限りの時間を集中するために、一人で過ごすことが多くなります。傍目には、淡々とした単調な時間が過ぎているように見えます。一人で生活をしているように見えます。しかし、実は多くの人の影響を直接、間接に受けて生活しています。人が、生活をし、生きていくのは、「一人じゃない」ことを痛感させます。
そろそろサバティカルの折り返し点となります。サバティカルの目的を達成し、夢に近づきましょう。その遂行が、私の人生設計の中で重要な部分を占めていくはずです。自分の力を信じて、今日も淡々と生きていきましょう。
「夢を失うよりも
悲しいことは
自分を信じてあげられないこと」(Jupierより)
・ポータブル・カーナビ・
車は借り物で、カーステレオはついていますが、
カセットですので聞くことができません。
ラジオも付いていますが、山奥なので電波が入りません。
私の持っているポータブル・カーナビは
音楽も流すことができます。
8Gbのメモリースティックに
大量の音楽データ(MP3形式)を入れています。
ポータブル・カーナビは
SONYのnav-uシリーズのNV-U35です。
このカーナビは、なかなか便利で、
歩くときも自転車でも使えます。
地図も最新版が入っています。
なんといっても私が一番便利に感じているのは、
GPSのトラックデータをメモリーに
保存できることです。
そのデータをパソコンに取り込んで、
地図で表現することができます。
調査のときは一応ハンディGPSも車に置いて
併用していますが、
もう車では必要ないかと思っています。
このカーナビは、なかなか便利です。
・ノスタルジー・
私が子供の頃にはじめて聞いた音楽は
当時流行ってきた歌謡曲です。
そのころの歌手を映像として
YouTubeでみることもできます。
思春期を過ごしたころのアイドルの映像も
YouTubeで見ることができます。
フォークソングやロックも聴くこともできます。
そんな古い映像をみていると
ノスタルジーに浸ってしまいます。
ただ、私と同年代や前後の世代の歌手ばかりなので、
最近の映像をみると、その高齢化に驚いてしまいます。
もちろん自分も同じように年をとっているのですので、
お互い様です。
月日の流れは止めることはできません。
有効に使うのみです。
私は、現在、1年間のサバティカルで、愛媛県の山奥に滞在しています。そこでテレビもラジオもない生活を送っています。新聞もとっていません。土曜、日曜も関係なく、役場の総合支所内にある執務室に、朝から夕方までいます。
通常の生活を振り返ると、こんな一日を過ごしています。5時過ぎに起きて、朝食をとり、6時過ぎに自宅を出て、20、30分ほどかけて歩いて総合支所の執務室にいきます。そして一日、仕事をします。5時過ぎに執務室をでて自宅まで歩いて帰ります。帰宅したら、炊飯器をセットして、温水プールにいきます。7時くらいに帰ってきて、夕食の準備をして、食べます。食後しばらく休んだら、もうすることがないので、寝床に入り、眠くなるまで、本を読みます。
日常生活の時間と睡眠、プールの時間を除くと、24時間の大部分を研究に費やして過ごしています。淡々とした単調な研究生活を、一人で毎日繰り返しています。独身の研究者時代に戻ったようです。こんな生活に満足と幸せを感じています。
情報源や外部との連絡のために、インターネットにつながる環境だけは確保しています。そのインターネットを通じての各種の情報収集はできます。インターネットは使いようによっては、さまざまな使い方ができますが、現在の私のような一人の世界に篭って集中するという生活をしていると、情報を極力排除するという選択も可能です。自分の必要に応じて情報の入力量を調整できるのが、現在の環境の最大のメリットかもしれません。
ニュースはインターネットのニュースサイトのヘッドラインだけで充分で、必要に応じて詳細を見ればいいのです。テレビも北海道の自宅にいるときは、時間つぶしもかねて結構な時間、見ていましたが、こちらに来てまったく見なくなりなりました。
ただ娯楽として、音楽や映像を見たくなることがあります。そんな時、YouTubeなどの動画サイトをみます。検索すれば、たいていの見たいものがあります。このごろは、昔聞いていた懐かしい歌手の映像をみることが多いです。
話は変わりますが、先日、天狗高原というところにでかけました。天狗高原は、私が住む町にある大野ヶ原の東延長にある高原で、カルスト地形をみるにはいいところです。高知県(津野町)と愛媛県(久万高原町)の県境になります。ある朝、青空が蒼く、ついつい天気に誘われて、急遽、天狗高原に出かけることにしました。
数年前ですが、天狗高原にある天狗荘に、家族で泊まったことがあります。しかし、あまりじっくり見ることなく、そのまま四万十川の源流に向かって、山を降りてしまいました。今回は天狗高原をじっくりと見ようとしました。以前にはなかったセラピーロードという散策路が、新たに(2007年より)にできていました。その道を1kmほど歩いたのですが、なかなかいいコースで、山頂からの道とも交わっているようです。4km以上もコースがあり、ルートもいくつかあります。
下界は残暑がきびしいのですが、1000m以上の標高のところにくると、すがすがしい気候です。支所を出たときには晴れていたのですが、天狗高原に来ると、残念ながら、雲がかかってしまいました。山の天気は変わりやすいものです。少々残念で、心残りですがしかたがありません。
天狗高原は、ススキの穂が出はじめていました。そろそろ秋が始まっていました。非常に心地よいところなので、また来こようと思いました。秋が深まったら、今度はじっくり歩きに来くることにしましょう。
天狗高原を車で走っているとき、ある曲を流して聞きました。いい曲だと思いましたが、以前に感じたとの同じ心持ちには、なぜか、なれませんでした。そんな心持ちになりたくて、かけた曲だったのですが。
天狗高原に出かける1週間ほど前に、市内の最高峰の山に登るために大野ヶ原に出かけました。そのとき車で流れていた音楽が心に染みました。ついつい何度もリピートして聞いてしまいました。いつも車で流れる曲は、自分で選んだものです。ですから知っている曲ばかりで、その曲ももちろん何度も聞いたことがあります。なのに、その時、なぜかある曲にだけ、聞き入ってしまいました。
その時流れていたのは、平原綾香さんの「Jupiter」という曲でした。たまたま大野ヶ原の高原の心地よい道を走っているとき、その曲の出だしの「Every day I listen to my heart 一人じゃない」という歌詞が、どうしたことか、心に深く入ってきました。毎日一人で生活をし、一人で研究に向かい、一人で調査も出かけていきます。なのに「一人じゃない」という歌詞が、心に飛び込んできたのです。そうです。一人で生きているようですが、一人で生きているわけではないのです。
今まで、この曲の歌詞をあまり深く考えずに聞いていたのです。この曲は、数年前に流行ったので、多くの人が知っているはずです。私も聞いていました。しかし、フォルストの組曲「惑星」の「Jupiter」に歌詞をつけたということと、広い音域を歌っていること、などついつい話題の部分に注目してしまい、その音楽の中身を聴くことをしていなかったのでしょう。それまで歌詞をじっくりと聴いたことがありませんでした。
なによりそれを聞いていた私の心理状態が、その音楽の歌詞を聴く状態で、なおかつ受け入れる状態になっていたのでしょう。何度も繰り返し聞くうちに、その曲にはいい言葉がちりばめられていることに気づきました。もっと、はやく気づくべきなのかもしれませんが。
天狗高原は、大野ヶ原と連続していて、似たようなカルスト地形の高原です。景観としては、似ています。大野ヶ原以上にカルスト地形が広がっていて、壮大です。そんな天狗高原で、同じような気分を味わいたくて、その曲を聴いたのですが、なぜか同じような心持になれませんでした。
周りの環境を整えたしても、同じ心境に達せなかったのはなぜでしょう。
このエッセイを書くために、YouTubeで平原綾香さんの歌うJupiterをいく種類か聞きましたが、いい曲であることはわかるのですが、同じ気持ちにはなりませんでした。唯一似た気持ちになったのは、Jupiterの音楽を聴きながら、歌詞をディスプレイに表示して読んだときでした。その理由は、いまだに分かりません。
このエッセイでは、心の問題を何度か取り上げていますが、心はなかなか難解で、私の手に負えないものです。ちょっとしたことをきっかけに、心が大きく波打ったり、いつもと同じものが、心に大きく響いたりすることがあります。逆にどんなに努力しても、心が応えてくれないこともあります。今回もそんな経験でした。心とは、私にとっては、御しがたい不思議な存在です。
この1年間の目標としていることを達成するために、集中し、努力し、毎日、四苦八苦しています。そして、当初計画していたように、論文を書きだめること、四国の地質を広域調査すること、町内と近郊の調査をすることに精進しています。その目標を達成するために、可能な限りの時間を集中するために、一人で過ごすことが多くなります。傍目には、淡々とした単調な時間が過ぎているように見えます。一人で生活をしているように見えます。しかし、実は多くの人の影響を直接、間接に受けて生活しています。人が、生活をし、生きていくのは、「一人じゃない」ことを痛感させます。
そろそろサバティカルの折り返し点となります。サバティカルの目的を達成し、夢に近づきましょう。その遂行が、私の人生設計の中で重要な部分を占めていくはずです。自分の力を信じて、今日も淡々と生きていきましょう。
「夢を失うよりも
悲しいことは
自分を信じてあげられないこと」(Jupierより)
・ポータブル・カーナビ・
車は借り物で、カーステレオはついていますが、
カセットですので聞くことができません。
ラジオも付いていますが、山奥なので電波が入りません。
私の持っているポータブル・カーナビは
音楽も流すことができます。
8Gbのメモリースティックに
大量の音楽データ(MP3形式)を入れています。
ポータブル・カーナビは
SONYのnav-uシリーズのNV-U35です。
このカーナビは、なかなか便利で、
歩くときも自転車でも使えます。
地図も最新版が入っています。
なんといっても私が一番便利に感じているのは、
GPSのトラックデータをメモリーに
保存できることです。
そのデータをパソコンに取り込んで、
地図で表現することができます。
調査のときは一応ハンディGPSも車に置いて
併用していますが、
もう車では必要ないかと思っています。
このカーナビは、なかなか便利です。
・ノスタルジー・
私が子供の頃にはじめて聞いた音楽は
当時流行ってきた歌謡曲です。
そのころの歌手を映像として
YouTubeでみることもできます。
思春期を過ごしたころのアイドルの映像も
YouTubeで見ることができます。
フォークソングやロックも聴くこともできます。
そんな古い映像をみていると
ノスタルジーに浸ってしまいます。
ただ、私と同年代や前後の世代の歌手ばかりなので、
最近の映像をみると、その高齢化に驚いてしまいます。
もちろん自分も同じように年をとっているのですので、
お互い様です。
月日の流れは止めることはできません。
有効に使うのみです。
2010年8月1日日曜日
103 先見性:地質学の巨人
夏休みになると、お盆近いせいでしょうか、この時期にに死んだ人をついつい思い出します。一人は指導教官の死、もうひとつは今回紹介する地質学の巨人、都城秋穂氏です。今回は、都城氏の業績の一部と私とのかかわりを紹介します。
私は、大学院生の頃、DSDP(深海掘削計画:Deep Sea Drilling Project)のデータを集めていました(このような作業をcompileと呼ばれます)。DSDPの分厚い報告書が大学の図書室にあり、目的のデータがないか探すために、すべてに目を通しました。DSDPの初期のころは、火成岩のデータも少なく、苦労して本を見た割りにデータが少ないなという思いと、データ処理の手間はそれほどかからないで楽だなという相反する気持ちがありました。その後、海洋底の火成岩に関して大量のデータが出るようになったころには、データ収集はやめていました。
では、なぜ、その頃データを集めていたのかというと、学生から院生のころにかけて、オフィオライトというものを研究テーマにしていたからです。オフィオライトとは、過去の海洋地殻を構成していた岩石群が、陸上に持ち上げられたものだと考えられていました。もちろん、最初からオフィオライトが、昔の海洋地殻だとはわかっていたわけではありませんでした。20世紀中ごろ以降になっ海洋底の岩石に関する情報がでてきたので、やっと認識されてきました。
オフィオライトが岩石群だといったのは、一種類の岩石ではなく、何種類かの岩石からできているためです。まず一番下には、カンラン岩(オフィオライトでは蛇紋岩になっていることが多い)があり、斑レイ岩、岩脈群(玄武岩からできている貫入岩)、枕上溶岩(玄武岩)、そして一番上にチャートがセットになっているものです。このような岩石が、順番にきれいに重なっているのではなく、あちこちが断層で切られています。ひどくばらばらになったり、欠けている岩石があるものは、ディスメンバード(dismembered、分割という意味)・オフィオライトと呼ばれています。
私が調査していた北海道の日高も岡山の井原もディスメンバード・オフィオライトでした。
オフィオライト(Ophiolite)の「Ophi」は「蛇」のことで、「lite」は岩石につける語尾です。「Ophi」は、オフィオライトで一番特徴的な岩石は、蛇紋岩でした。蛇紋岩は、日本語ですが、岩石の表面が蛇の模様のように見えることからつけられた名前です。
19世紀にブロンニャール(Brogniart, A., 1813)がアルプスの蛇紋岩や輝緑岩(変質した玄武岩や粗粒玄武岩のこと)に対して、用いた名称です。その後、20世紀初頭にシュタイマン(Steinmann, G., 1927)は、蛇紋岩、枕状溶岩、チャートを3つを含んだ岩石群をオフィオライトと呼びました。このような3種の岩石を「シュタイマンの三つ揃」(Steinmann's trinity)と呼ばれていました。
そのようなオフィオライトが、世界各地から見つかっていました。私が学生のころ、日本で一番はっきりとオフィオライトであることが示されていたのは、石渡明さん(現在東北大学教授)が調べられた京都府の夜久野オフィオライトでした。私は、修士論文でその西の延長にあたる岡山の北の井原で調べることになりました。そして、対比するために、石渡さんの試料をいただいて、分析をして年代を決めて、共著の論文も書いたこともありました。
その後、日本でも、いろいろなところからオフィオライトが認識されてきました。いろいろ研究が進むにつれて、オフィオライトの位置づけが変わり、オフィオライト=海洋地殻を強調されることが、あまりなくなってきました。
私がオフィオライトの研究を始めたとき、都城氏の記念碑的な論文がでていました(Miyashiro , 1973)。
私は、大学4年生から卒論に取り組むとき、卒論の野外調査の場所が、日高山脈西縁のオフィオライトだったので、重要な関連があるとして、指導教官に読むようにいわれた論文でした。都城氏の論文とそれに関連するものを、自分なりに総括して、ゼミで発表しました。ですから、非常に都城氏とトルードスが非常に印象に残っています。そして、都城氏の先見性にも、その科学に対する姿勢にも感銘を受けました。そしれ彼の書いた書籍や論文を注目して読むようになりました。
当時世界でも研究が進み、典型的なオフィオライトとされていているものがいくつかありました。カナダ、ニューファンドランドのベッツ・コブ(Beds Cove)のオフィオライト、キプロス島のトルードス(Troodos)のオフィオライトなどは、有名で海洋地殻と対比もなされていました。
ところが、都城さんはこの論文で、オフィオライト=海洋地殻という当時の常識にとらわれることなく、化学組成の観点から見ました。すると、トルードスのオフィオライトは、化学組成からは海洋地殻ではなく、列島(地質学では島弧と呼ばれています)周辺の火山活動、たとえば縁海(島弧の沈み込み帯とは反対側にある海)ようなとことでできたと考えた方がいいという主張をしました。
化学組成は、マグマができた形成場の特徴を反映することが、現在では「常識」になっていますが、当時はまだそのような考えをオフィオライトに適用する研究者はあまりいませんでした。しかし日本列島の火山をよく知っていた都城氏は、トルードスのオフィオライトの火山岩の化学組成を見たとき、3分の1は島弧固有の化学組成(カルクアルカリ岩系と呼ばれている)を持っていたり、小笠原諸島のような出来たての島弧(未成熟島弧)にでる特異な岩石(ボニナイトと呼ばれている)が、トルードスでも見つかっていることに気づきました。
化学組成で形成場を識別するために、いくつかの指標の成分を軸(三角形の頂点にすることもあります)にして、形成場の領域として区分されます。今では「地球化学的判別図」とよばれて、ごく普通に使われているものです。図の作り方は、現在活動中の地質学的に特長のある形成場(海嶺、海山・海洋島、成熟した島弧、未成熟な島弧、縁海、大陸内火山など)の化学分析値を集めてプロットして、典型的な区分ができる成分の組み合わせを見つけます。そして、そこにオフィオライトのデータをプロットして、どのような形成場になるかを見極め、その類似性からオフィオライトの形成場を判別するものです。
都城氏は自分で独自の判別図を考え出し、トルードスのオフィオライトが、中央海嶺の火山岩ではなく、島弧のものに似ていることを主張しました。非常に論理的で、今でも当たり前の主張なのですが、世界中から反論が続出しました。しかし、都城さんは、それらに対して、孤高に反論をしました。10年近くにわたって(今も反対の人がいます)、多くの人が反論しましたが、徐々に都城説を支持する人がでてくるようになりました。
現在では、トルードスは、未成熟な島弧でできたとされています。さらに、オフィオライトの多くは、沈み込み帯の上で形成された島弧に関係する火成活動によってできていることが、研究者の認識になってきています。都城氏は、その現世と過去の類似性によって成因を判別する手法を、世界に先駆けてオフィオライトに導入したのです。
「地球化学的判別図」という方法論は論議学的には正しとはいえませんが(帰納法の真理保存性)、経験科学としては実用的な方法です(自然の斉一性の原理)。都城さんの先見性は、すごいものだったのです。そして、都城氏の科学に対する信頼、信じた結果に対する信念、そしてそれを主張する勇気は立派です。
都城氏は、2008年7月22日に自宅のあるオルバニー市郊外のサッチャー公園を奥さんと散策中、写真を撮りに出かけたまま帰ってこられませんでした。捜索した結果、崖から転落してなくなっておられたことが、24日に明らかになりました。当時87歳でした。
死後都城氏のパソコンから遺稿が発見されました。その遺稿は「地質学の巨人 都城秋穂の生涯」という3巻の本にまとめられます。3巻のうち2巻は既刊ですが、3巻目の「戦後日本の地質学の軌跡」が現在編集中です。
都城さんは、1967年から、コロンビア大学そしてニューヨーク州立大学に勤務されました。オフィオライト以外にも都城氏の偉業は枚挙に暇がありません。詳細は、上述の本に譲ることにします。
私は、都城氏にはお目にかかったことがありません。ある研究所にいたとき、都城さんも滞在されていたことがあったのですが、会うことなくすれ違っていました。今思えば残念なことでした。彼のような知性も能力もないので、まねをすることできませんが、せめて科学に対す真摯な姿勢だけは学び、実践したいものです。
夏休みになると都城氏のことを思い出すようになりました。
・死を越えて・
都城氏とは面識もなく、
論文や著書を私が読むだけの一方通行でした。
2年の歳月が流れて、今彼の遺稿集を手にして、
この文章を書きました。
はじめに書いたもう一人の死とは、
修士課程時代の指導教官で
その後もずっと恩師であった田崎耕市氏です。
以前そのことについては、
エッセイで書いたことがあります。
田崎氏は、2002年8月19日に亡くなられました。
数えると22年に及ぶ付き合いでした。
家族づきあいをしていましたが、
今は、それも途絶えています。
死者を思い出すのはつらい反面、
彼らとの生前の思いでや生き方、
私との約束、そして私が心に誓ったこと
などをいろいろと思い出します。
そんな身近な人の死が、
歳を経るともに増えてきます。
彼らと培った多くの記憶が
私自身の経験の厚みとなっているのでしょう。
残された者は、彼らの死を糧にして
生きていくべきなのでしょうね。
・夏休み・
この文章が皆さんのお手元に届く頃、
私は、夏休みで北海道にいます。
移動は飛行機ですが、
夏休みは料金が高く、
好きに時期を選ぶことができません。
お盆をはずして、子供たちの夏休みの期間として、
7月末から8月上旬になりました。
この頃は北海道も暑く、
北海道のよさがあまり味わえないかもしれません。
電話やメールでは連絡していても、
久しぶりに家族と会うのは、楽しみです。
私は、大学院生の頃、DSDP(深海掘削計画:Deep Sea Drilling Project)のデータを集めていました(このような作業をcompileと呼ばれます)。DSDPの分厚い報告書が大学の図書室にあり、目的のデータがないか探すために、すべてに目を通しました。DSDPの初期のころは、火成岩のデータも少なく、苦労して本を見た割りにデータが少ないなという思いと、データ処理の手間はそれほどかからないで楽だなという相反する気持ちがありました。その後、海洋底の火成岩に関して大量のデータが出るようになったころには、データ収集はやめていました。
では、なぜ、その頃データを集めていたのかというと、学生から院生のころにかけて、オフィオライトというものを研究テーマにしていたからです。オフィオライトとは、過去の海洋地殻を構成していた岩石群が、陸上に持ち上げられたものだと考えられていました。もちろん、最初からオフィオライトが、昔の海洋地殻だとはわかっていたわけではありませんでした。20世紀中ごろ以降になっ海洋底の岩石に関する情報がでてきたので、やっと認識されてきました。
オフィオライトが岩石群だといったのは、一種類の岩石ではなく、何種類かの岩石からできているためです。まず一番下には、カンラン岩(オフィオライトでは蛇紋岩になっていることが多い)があり、斑レイ岩、岩脈群(玄武岩からできている貫入岩)、枕上溶岩(玄武岩)、そして一番上にチャートがセットになっているものです。このような岩石が、順番にきれいに重なっているのではなく、あちこちが断層で切られています。ひどくばらばらになったり、欠けている岩石があるものは、ディスメンバード(dismembered、分割という意味)・オフィオライトと呼ばれています。
私が調査していた北海道の日高も岡山の井原もディスメンバード・オフィオライトでした。
オフィオライト(Ophiolite)の「Ophi」は「蛇」のことで、「lite」は岩石につける語尾です。「Ophi」は、オフィオライトで一番特徴的な岩石は、蛇紋岩でした。蛇紋岩は、日本語ですが、岩石の表面が蛇の模様のように見えることからつけられた名前です。
19世紀にブロンニャール(Brogniart, A., 1813)がアルプスの蛇紋岩や輝緑岩(変質した玄武岩や粗粒玄武岩のこと)に対して、用いた名称です。その後、20世紀初頭にシュタイマン(Steinmann, G., 1927)は、蛇紋岩、枕状溶岩、チャートを3つを含んだ岩石群をオフィオライトと呼びました。このような3種の岩石を「シュタイマンの三つ揃」(Steinmann's trinity)と呼ばれていました。
そのようなオフィオライトが、世界各地から見つかっていました。私が学生のころ、日本で一番はっきりとオフィオライトであることが示されていたのは、石渡明さん(現在東北大学教授)が調べられた京都府の夜久野オフィオライトでした。私は、修士論文でその西の延長にあたる岡山の北の井原で調べることになりました。そして、対比するために、石渡さんの試料をいただいて、分析をして年代を決めて、共著の論文も書いたこともありました。
その後、日本でも、いろいろなところからオフィオライトが認識されてきました。いろいろ研究が進むにつれて、オフィオライトの位置づけが変わり、オフィオライト=海洋地殻を強調されることが、あまりなくなってきました。
私がオフィオライトの研究を始めたとき、都城氏の記念碑的な論文がでていました(Miyashiro , 1973)。
私は、大学4年生から卒論に取り組むとき、卒論の野外調査の場所が、日高山脈西縁のオフィオライトだったので、重要な関連があるとして、指導教官に読むようにいわれた論文でした。都城氏の論文とそれに関連するものを、自分なりに総括して、ゼミで発表しました。ですから、非常に都城氏とトルードスが非常に印象に残っています。そして、都城氏の先見性にも、その科学に対する姿勢にも感銘を受けました。そしれ彼の書いた書籍や論文を注目して読むようになりました。
当時世界でも研究が進み、典型的なオフィオライトとされていているものがいくつかありました。カナダ、ニューファンドランドのベッツ・コブ(Beds Cove)のオフィオライト、キプロス島のトルードス(Troodos)のオフィオライトなどは、有名で海洋地殻と対比もなされていました。
ところが、都城さんはこの論文で、オフィオライト=海洋地殻という当時の常識にとらわれることなく、化学組成の観点から見ました。すると、トルードスのオフィオライトは、化学組成からは海洋地殻ではなく、列島(地質学では島弧と呼ばれています)周辺の火山活動、たとえば縁海(島弧の沈み込み帯とは反対側にある海)ようなとことでできたと考えた方がいいという主張をしました。
化学組成は、マグマができた形成場の特徴を反映することが、現在では「常識」になっていますが、当時はまだそのような考えをオフィオライトに適用する研究者はあまりいませんでした。しかし日本列島の火山をよく知っていた都城氏は、トルードスのオフィオライトの火山岩の化学組成を見たとき、3分の1は島弧固有の化学組成(カルクアルカリ岩系と呼ばれている)を持っていたり、小笠原諸島のような出来たての島弧(未成熟島弧)にでる特異な岩石(ボニナイトと呼ばれている)が、トルードスでも見つかっていることに気づきました。
化学組成で形成場を識別するために、いくつかの指標の成分を軸(三角形の頂点にすることもあります)にして、形成場の領域として区分されます。今では「地球化学的判別図」とよばれて、ごく普通に使われているものです。図の作り方は、現在活動中の地質学的に特長のある形成場(海嶺、海山・海洋島、成熟した島弧、未成熟な島弧、縁海、大陸内火山など)の化学分析値を集めてプロットして、典型的な区分ができる成分の組み合わせを見つけます。そして、そこにオフィオライトのデータをプロットして、どのような形成場になるかを見極め、その類似性からオフィオライトの形成場を判別するものです。
都城氏は自分で独自の判別図を考え出し、トルードスのオフィオライトが、中央海嶺の火山岩ではなく、島弧のものに似ていることを主張しました。非常に論理的で、今でも当たり前の主張なのですが、世界中から反論が続出しました。しかし、都城さんは、それらに対して、孤高に反論をしました。10年近くにわたって(今も反対の人がいます)、多くの人が反論しましたが、徐々に都城説を支持する人がでてくるようになりました。
現在では、トルードスは、未成熟な島弧でできたとされています。さらに、オフィオライトの多くは、沈み込み帯の上で形成された島弧に関係する火成活動によってできていることが、研究者の認識になってきています。都城氏は、その現世と過去の類似性によって成因を判別する手法を、世界に先駆けてオフィオライトに導入したのです。
「地球化学的判別図」という方法論は論議学的には正しとはいえませんが(帰納法の真理保存性)、経験科学としては実用的な方法です(自然の斉一性の原理)。都城さんの先見性は、すごいものだったのです。そして、都城氏の科学に対する信頼、信じた結果に対する信念、そしてそれを主張する勇気は立派です。
都城氏は、2008年7月22日に自宅のあるオルバニー市郊外のサッチャー公園を奥さんと散策中、写真を撮りに出かけたまま帰ってこられませんでした。捜索した結果、崖から転落してなくなっておられたことが、24日に明らかになりました。当時87歳でした。
死後都城氏のパソコンから遺稿が発見されました。その遺稿は「地質学の巨人 都城秋穂の生涯」という3巻の本にまとめられます。3巻のうち2巻は既刊ですが、3巻目の「戦後日本の地質学の軌跡」が現在編集中です。
都城さんは、1967年から、コロンビア大学そしてニューヨーク州立大学に勤務されました。オフィオライト以外にも都城氏の偉業は枚挙に暇がありません。詳細は、上述の本に譲ることにします。
私は、都城氏にはお目にかかったことがありません。ある研究所にいたとき、都城さんも滞在されていたことがあったのですが、会うことなくすれ違っていました。今思えば残念なことでした。彼のような知性も能力もないので、まねをすることできませんが、せめて科学に対す真摯な姿勢だけは学び、実践したいものです。
夏休みになると都城氏のことを思い出すようになりました。
・死を越えて・
都城氏とは面識もなく、
論文や著書を私が読むだけの一方通行でした。
2年の歳月が流れて、今彼の遺稿集を手にして、
この文章を書きました。
はじめに書いたもう一人の死とは、
修士課程時代の指導教官で
その後もずっと恩師であった田崎耕市氏です。
以前そのことについては、
エッセイで書いたことがあります。
田崎氏は、2002年8月19日に亡くなられました。
数えると22年に及ぶ付き合いでした。
家族づきあいをしていましたが、
今は、それも途絶えています。
死者を思い出すのはつらい反面、
彼らとの生前の思いでや生き方、
私との約束、そして私が心に誓ったこと
などをいろいろと思い出します。
そんな身近な人の死が、
歳を経るともに増えてきます。
彼らと培った多くの記憶が
私自身の経験の厚みとなっているのでしょう。
残された者は、彼らの死を糧にして
生きていくべきなのでしょうね。
・夏休み・
この文章が皆さんのお手元に届く頃、
私は、夏休みで北海道にいます。
移動は飛行機ですが、
夏休みは料金が高く、
好きに時期を選ぶことができません。
お盆をはずして、子供たちの夏休みの期間として、
7月末から8月上旬になりました。
この頃は北海道も暑く、
北海道のよさがあまり味わえないかもしれません。
電話やメールでは連絡していても、
久しぶりに家族と会うのは、楽しみです。
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