ひとつのことを、最初から最後まですることは、今ではあまりないのかもしれません。ことが複雑になればなるほど一貫した経験は、減ってくるのだと思います。ものづくりだけでなく、実験や研究でも起こっています。最初から最後までの一貫した経験は、ばらばらの経験では得られない何かを与えれくれるのではないでしょうか。途絶する経験の問題を考えていきます。
肉体的な経験、リアルな経験は、人間が生きていく上で重要な素養です。しかし、時代が進み技術が発展してくると、機械やコンピュータに任せることが多く、実体験が減少してきます。その結果、どのような問題が起こるのでしょうか。会社や教育現場での問題は、多くの識者がすでに指摘するところでしょうが、あまり顕在化していませんが、研究の場で起こりつつあるのでないかと危惧しています。はっきりとした統計は示せないのですが、感じていることを紹介します。
もう、30年ほど前になりますが、私が学生や修士課程の大学院の時代の話です。映画に出てくるような昔風の怪しい実験室のごくと、ビーカーやフラスコ、ガスバーナーなどが並んでいるところで、実際に実験をしていました。今では研究室も綺麗になったのですが、一昔まえの実験室は昔の映画のセットそのままのようでした。また、地質学特有の作業ですが、グラインダーや岩石用カッターなどが並んだ作業場で薄片製作をすることも、重要な研究の一環でした。昼間は、そのような場で肉体的作業をして、夜になるとデータから考えたり、薄片の記載をしました。研究にかかる時間が長く、研究室や大学にこもる時間が生活の体部分を占めることになりました。それが研究にのめり込む環境にもなっていました。
研究者を目指す学生や大学院生は、その分野特有の手法、あるいはその研究室の保有する各種装置の操作法や実験方法を身につけることが、重要な基礎素養となります。それらの素養は、研究者になるための手順として必要なのですが、実験プロセス自体は研究成果には直接関係があるものではありません。欲しいのは、実験結果というべきデータなのです。
私は、昔ながらの実験室で分析の仕方、薄片の作り方を、習いました。授業でもざっとはやりますが、自分の研究としてデータが欲しいときは、先輩の大学院生に手取り足取り教えてもらっていました。厳しい先輩、優しい先輩、頼りになる先輩、それぞれの特技と共に個性を持っておられました。先輩を選り好みできることなく、ある技量はある先輩に習うことになります。そして気の合う先輩とは、親しい付き合っていくことになります。
自然科学のデータは、技術や熟練を要することが多く、肉体的にも疲れる修練を積まなければ、精度の良いデータを出すことはできませんでした。多数の薄片を短時間で失敗することなく作成したり、精度のいい分析値を出したりする先輩は、尊敬に値するものでした。自分自身が熟練する頃には、後輩ができて、彼らにその技術を伝承することになります。こんな繰り返しが伝統として、それぞれの大学にはありました。多分、今もあるのでしょう。
時代と共に実験室も変化してきました。大学院生の頃当たりから、高価な分析装置が急速に導入されはじめます。分析装置も、当初は手動で操作するものが多く、それなりの熟練を要するものでした。分析装置の精度や操作性は著しく向上し、コンピュータの進歩や普及と相まってコンピュータ・コントロールされた分析装置につぎつぎと改良されていきました。
大学院からOD(博士の学位取得後にまだ職がなく研究生として大学に滞在している人たちのこと)、学術振興会の特別研究員の時代へと、そのような革新的な進歩が次々と起こりました。時代はバブル景気で、高価な分析装置も大学に多数導入できるようになりました。その変化は、激しいものでした。
多くの大学の研究室に分析装置が普及し、操作さえ間違わなければ、だれでも同じ精度のデータを大量に出せるようになったのです。若手の頃の私は、そのような変化の渦中にいて、激動を目の当たりにしました。私より若い世代の研究者は、苦労した時代を知ることなく、分析装置の出す結果やデータを、簡単に手にすることになります。一方、年配の教授たちは装置の進歩やコンピュータには適応しきれませんでした。しかし、能力ある教授たちは、大学院生や若手研究者と組んで、実績を積み上げていました。時には若手を手足のごとく使いこなす人もいます。教授のデータを出すことに専念する若手研究者、コンピュータやそのプログラミングにのめりこ込んでいく若手研究者もいました。
理想からいえば、研究者は、装置の操作を知らなくても、必要なデータを手に入れれば、研究自体は成立します。私が駆け出しの頃、欧米の恵まれた研究室で修行された先輩の話を聴きました。設備の整った欧米の研究室では、テクニシャン(技術補佐員)が多数いて、装置の維持管理、時にはデータも出してくれることもあるということなどを聞いて、羨ましく思ったことがありました。研究者は、試料の採取、吟味をして、必要なデータは指示すれば得られる環境があるというのです。それなら、研究者は簡単に論文を多産できるだろうと思っていました。
時代と共に、分析装置や実験装置の完成度が上がり、高機能化、高精度になりながらも操作性は良くなってきます。データも昔と比べれば、大量にそれも熟練度に関係なく精度の保証されたもの、精度も格段に上がったデータが得られるようになります。もちろんプログラムも進化していて、初心者でも簡便に操作でき、精度のいいデータが出せるようになってきました。それなりの訓練も必要でしょうが、マニュアルを読めば、だれでも操作が可能になりました。
かつてデータを得る作業自体が大変だったころは、試料を渡したらデータがでてくればどんなに楽だろうと思っていました。それが技術の進歩のお陰で達成されつつあります。古い時代の研究風景を知るものからみると、データの理想郷の出現です。
では、今の若手の研究者は、大量のデータを出して、良質の論文を量産しているでしょうか。どうもそうではなさそうです。確かに論文一編当たりに使用されるデータは大量です。そして、一人あたりの論文数も増えました。論文数の増加は、社会状況からの要請によるもので、質の低下は否めないでしょう。さらに、データの理想郷が出現したから、成果が増えたわけでもなさそうです。
多分、一流と呼ばれる研究者は、データの桃源郷の住民になることは可能だと思います。彼らも一流になるために、さまざまな修行や経験をしてきたはずです。調査、試料採集、試料選択、分析、考察という一連の経験によって、得たデータの重要性や有用性を体感できるから、データの桃源郷で論文が書けるのではないでしょうか。彼らも生まれながら住人ではないから、データの桃源郷のありがたさや危なさも知っているのだと思います。
現在の科学は、何十人もメンバーによる巨大な実験装置や複雑な分析装置の開発や運用をすることも増えました。地質学でも、専用の調査船や先端施設に付属する分析装置なども利用します。先端で研究している人は、装置の開発やプログラム自体の作成もおこなっているので、創造性は遺憾なく発揮できるでしょう。
一方、普及した装置を使って分析をしているその他多数の研究者は、データを出すことが簡単になった分、それ以外の部分に創造性を発揮しなければなりません。創造性は、どのようなデータを出すか、何のためにデータが必要かなどの分析以前の場に求めるか、データをどう使うのか、データで何を証明、検証するのかなど、分析後に発揮することになります。しかし、創造性の発揮は、だんだん困難になってきているのではないかと思えます。簡便化が、経験の断絶を生み、生産性を妨げているのではないかと感じています。
データをだす作業は簡便にこしたことはありません。しかし、ブラックボックスのような簡便な分析装置を導入することになります。本来データを得るためにすべき経験が欠如していきます。このような経験の断絶が、研究の生産性に影響を与えているのではないでしょうか。もし、野外調査とき見えている試料から欲しいデータが取り出せたら、あるいは試料を入れて欲しいデータのキーを押せばデータが出てくるとすると、どうでしょう。ベテランの熟練した研究者にとっては、それは桃源郷になるでしょう。しかし、初学者にとって、それは経験を奪い、試行錯誤を繰り返しを奪い、苦労の末結果を得る喜びを奪い、データの貴重さの実感を奪うことになります。データの桃源郷はこんなチャンスをすべて奪ってしまったのです。便利さを追求していった究極にたどり着いたデータの桃源郷は、不毛の地になりかねません。
これは、私がいた地質学のだけの世界の話ではありません。経験の断絶だけではなく、経験自体の不足が警告不足を招くこともあるのではないでしょうか。人類が快適さ便利さを求める本能と、それを満たしてきた文明が、時間と共に創り上げた桃源郷なのです。桃源郷では消えてしまった、快適さや便利さの背景にある危険、不安、不便から学ぶことがあったはずです。いや、それらのマイナス面からこそ、私達人類は学んできたはずです。昔の戻れとはいいません。不便になれとはいいません。でも、手作業やゆっくりさ、不安定さなど、マイナス面をもったものを愛し、大切にする心が、そしてなによりもそれを経験することが必要ではないでしょうか。そのような経験こそが、桃源郷を味うために必要なものではないでしょうか。
地質学では、幸いながら今もまだ、泥臭い野外調査、非効率な試料収集や、手間のかかる試料の前処理が、分析にいたるまで必要です。まだまだ手作業で修行のような繰り返しがあります。そこでは経験を積み上げています。ところが、データを得た後の処理は、昔は手作業でしたが、今ではすべてコンピュータでおこないます。データを十分吟味していく経験が途絶しそうです。特に初学者には危険な落とし穴になりそうです。考えるという作業は継続してありますが、あちこちで経験の途絶が進行しています。このような経験は、論文に書かれない、研究者自身の心に関わる問題ですが、それが致命傷にならないことを願っています。
・象徴の事件・
地質学は野外調査をしながらも、
研究室では高度の分析装置を駆使して
データを得て論文を書きます。
しかし、最近では一人の人間が
あれもこれもすることがだんだん大変になってきました。
野外で調査をして論文を書く研究者。
野外では試料採取だけをして
分析に主眼を置く研究者。
それぞれの得意な面を持ちながら
研究を分業していかねばならない時代になったのかもしれません。
しかし、人からもらった試料を高精度の分析をして、
最古の生命の痕跡を発見をしたという論文が書かれ、
話題になったことがありました。
しかし、その試料はマグマが固まった
火山岩であったことが後に判明して、
その結果が否定されたことがありました。
どのような経緯があったかは知りませんが、
分析の複雑化、高度化などがあり、
一人の研究者があれもこれも出来ない時代になったことを
象徴する事件なのかもしれません。
しかし、その背景に経験の断絶があるのかもしれません。
・冬間近・
いよいよ11月になりました。
今年の残すところ2ヶ月なりました。
とはいっても、大学では後期が始まって
1月少々しかたっていません。
ですから、まだまだ後期はこれからという思いです。
でも、北国では、もう冬が間近にせまっています。
里でもいつ初雪があっても不思議ではありません。
北国の短い秋が終わろうとしています。
2011年11月1日火曜日
2011年10月1日土曜日
117 科学の再現性と歴史性:因果律の尻尾
科学では、いいえ人間の考え方において、因果律は当たり前の前提として受け入れられています。ところが、因果律は、科学的に検証もされていませんし、論理的にも正しさを証明することは、なかなか困難なようです。科学は、そんな因果律の尻尾を捕まえる挑戦をしています。
先日、光速を越えたニュートリノが観測されたというのニュースが流れました。その真偽のほどは、今後検討されていくでしょうが、もしこれが本当であれば、物理学だけに留まらない大きな課題を提供することになります。因果律が敗れる可能性があるのです。
このニュースを聞いて、因果律と科学の方法について考えが及びました。
因果律とは、過去の原因によって結果が生じるという因果関係が成り立つという考え方です。当たり前すぎてだれも疑問を感じないほどのことです。因果律とは、非常に一般化された概念で、常識ですし、一種の信念ともいうべきものになっているのかもしれません。ところが、少なくとも科学の世界では、因果律は検証された論理ではありません。今のところ、因果律を破るものはないという経験則によってのみ、保証されているものです。今回の実験によって、覆される可能性があというのが、このニュースの重要性です。
以下のエッセイでは、因果律は一般的な概念に対して用い、因果関係は個々の事象に起こっている原因と結果を関係を示すものとして、区別して記述していきます。
人は、因果律を前提にしてすべての物事を考え、生活しています。逆に、因果律を破るような考え方は、できないようになってます。それほど、因果律は、私たちの考え方において不可分で絶対性をもつものです。自然科学の研究も、因果律のもとに営まれています。
自然科学とは、個々の事象に見え隠れする因果律を、それぞれの因果関係として方程式や法則、規則などに、個別に定式化することといえます。
科学のある分野では、実験が非常に重要になります。今回のニュースも実験によるものです。実験にもいろいろなものがありますが、その目的は、ある事象間における因果関係を、定性あるいは定量的に実証することだといえます。あくまでも個々の事象の因果関係であって、因果律総体を検証、論証するものではありません。
自然現象には、固有の時間に制限を受けない因果関係もあります。物理現象や化学現象の多くは、それにあたります。物理学や化学では、ある因果関係を見出した実験結果が提示されると、その検証のために、別の実験装置(場)、別の研究者(人)、別の条件(環境)による再現実験が非常に重要な役割を持っています。ある時、ある所で、ある人だけが見出した因果関係は、普遍化できません。もしかしたら、その研究者の思い違いやミスかもしれません。そのような誤謬が混入することを、再現性の確認実験によって排除できます。再現実験によって検証された現象は、時空を越えた因果関係によるものと保証されます。このような自然科学を、このエッセイでは再現的自然科学と呼びましょう。
抽象的な話しばかりですから、例を上げておきましょう。
振り子を考えましょう。だれもが小学校や中学校の実験でやった思いますが、振り子の周期(一往復の時間)は、振り子の長さだけに依存しています。正確には長さの平方根だけに比例(周期=2π√(長さ/重力加速度)という公式)します。振り子時計を思いうかべていただければ、理解できるのではないでしょうか。
ある再現性が、ある因果関係によって「実証」されれば、原因を人為的に変化させ、さまざまな条件でその因果関係が成り立つことを「検証」できます。二番煎じではありますが、科学における「検証」という重要な役割となります。再現的自然科学では、因果関係の「実証」が重要な目的となります。
振り子の例でいえば、振り子の錘の重さや、振れ幅を変化させても周期は一定であることがわかります。振り子の等時性と呼ばれているものです。一見常識に反するようにみえますが、実験すれば、だれもが同じ結果を得られます。
因果関係の証拠をいくら大量にそろえても、因果律の正しさを証明することは、残念ながらできません。そこには、帰納法の論証と同じ困難さがあるのです。因果律を証明するためには、すべての事象における因果関係を調べていき、因果律が破られていないことを検証するしかありません。現実的には不可能な検証です。因果律の破綻は、たった一個、確実な反例が示せればいいのです。今回の光速を越えるニュートリノの発見は、その因果律の反証になりえるのです。重要な報告なので、再現性を検討する必要があるのです。
一方、歴史性のある現象では、因果律に則ってはいるのでしょうが、再現性が原理的に検証できません。例えば、生物の進化や地球の歴史などは、実験不可能ですから、因果関係を抽出することは困難でしょう。このような不可逆な時間の流れよる事象における科学を、ここでは歴史的自然科学と呼びましょう。
歴史的自然科学では、どのような研究手法がとられているのでしょうか。いくつかのアプローチがありますが、最近、高速のコンピュータを用いた計算機実験(シミュレーション)がいろいろおこなわれています。要素還元的に抽出した初期条件を前提に、デジタル空間での擬似的な計算機実験を行うことになります。まさに仮想実験です。要素還元的ではありますが、因果関係を推定するには、有効な研究手法であります。しかし、シミュレーションでは、現実の現象を再現しているわけでもなく、「検証」したわけでもありません。あくまでも、仮想です。
もう一つの歴史的自然科学のアプローチとして、過去の生物起源物質や岩石や鉱物を分析や記載する方法があります。特別な化学成分の分析をすれば、形成年代や変化を受けた年代などを調べることも可能です。歴史的自然科学では、時間ラベルは非常に重要です。時間ラベルは因果関係の前提となるものだからです。ところが現実には、時間分解能はそれほど高くなく、古い時代(地質時代)の因果関係の時間差を示すほどの精度はありません。
ただ、地層の上下関係で、順序を読み取ることができます。それにより、順序に基づいた事象の配列ができます。順序は、因果関係を保証するものではありませんが。
さらに、分析データから、その物質の属性を詳細に記載することができます。それらの属性から、因果関係を限定したり、推測することになります。しかし、その物質を形成した事象を、再現して再構成することは不可能です。
振り子と同じように、貝化石を例としましょう。
ある種類の貝の化石がたくさん産出する地層があるとしましょう。地層の上下関係が判明したら、下位ほど古い時代に形成され、上位ほど新しくなります。地層ごとに出た化石を並べていけば、順序に基づいた配列になります。似た化石で形態に系統的変化が見られたら、そこに因果関係があった可能性があります。もし同時代の近隣地域でも、同じよな結果がみられたとすれば、因果関係があるという傍証になりそうです。
歴史的自然科学では、真実は藪の中です。もし別種なのに、たまたま似たものが混じっていたとすれば、誤認が必然的に生じます。意地悪に考えれば、別種が混入する条件が常に存在するというようなことがあれば、決して取り除けない間違いが出現します。極端な例かもしれませんが、歴史的自然科学では、そんな不確かさは常につきまといます。
因果関係の保証されない事象における規則性は、論理的に正しいという保証はありません。これは、いくら記載データを増やしても、正さにはたどり着けませ。時間は不可逆な流れなので、その流れの中で起こった現象は、再現することができないからです。簡単にいえば、過去の事象は二度と繰り返されない、ということです。
今まで述べてきたことから、歴史的自然科学が目指すべきものは、「再現性のある因果関係」の追求ではなさそうです。では、何を目指しているのでしょうか。
歴史的自然科学のどの結果も、因果律や因果関係を否定するものではありません。再現的自然科学では因果関係が検証できますが、歴史的自然科学では検証できません。歴史的自然科学では、因果関係を保証するものすらほとんどありません。時には、因果関係がない似た事象が混入しているかもという不安もあります。ただ順序だけが確かな事象があるだけです。
徹底した分析、順序のある膨大な記載によって、「見かけの因果関係の連続」が見出せるでしょう。「見かけの因果関係の連続」から、あわよくば「因果律の尻尾」が発見ができるかもしれないという希望です。
うまいいい方はできませんが、ぱたぱたマンガを高速でみると、動くアニメーションとして連続的な動きに見えるように、長く延びる破線も遠くから見れば実線にみえるように、因果関係が浮き出るのではないでしょうか。多数の記載を並べ、遠目でみると、過去の一連の事象にストーリー(見かけの因果関係の連続)があるかように見えるのではないでしょうか。そのストーリーを確認するのが、シミュレーションです。
さまざまな時代、さまざまな地域のストーリーに乱れがないのなら、その歴史絵巻(因果律の尻尾)は成立していると見なせるかもしれません。そのストーリーを読み取り、シミュレーションによって仮想検証を振り返すことが、歴史的自然科学の役割ではないでしょうか。順序だった大量の事象を、今よりもっともっと大局的に眺めると、歴史の必然性と偶然性、そして因果律の尻尾が見えるのではないでしょうか。
ニュートリノの超光速のニュースから、こんなことを考えてしまいました。
・本来の姿に・
もう10月です。
大学の夏休みもの終わり、
校内に若者のざわめきが復活してきました。
大学の後期の授業のスタートです。
同じよう見える学生群も
個々にみれば言動に違いがあり、
個性があることがわかります。
一方、学生の経年変化を教員は語りがちです。
それも、上の例でいうと歴史的事象の大局になるのでしょうか。
それとも、因果律の外のことでしょうか。
まあ、いずれにしても学生で賑わうキャンパスが
本来の姿なのです。
・北国の秋・
いよいよ北海道の秋も深まってきました。
初雪の便りも聞きます。
里の木々も少しずつ色づいてきました。
深まる秋の中で、北海道では
今年最後の収穫の季節を迎えます。
東北の被害を補えるような収穫があのでしょうか。
そんな不安要素を伴う秋です。
先日、光速を越えたニュートリノが観測されたというのニュースが流れました。その真偽のほどは、今後検討されていくでしょうが、もしこれが本当であれば、物理学だけに留まらない大きな課題を提供することになります。因果律が敗れる可能性があるのです。
このニュースを聞いて、因果律と科学の方法について考えが及びました。
因果律とは、過去の原因によって結果が生じるという因果関係が成り立つという考え方です。当たり前すぎてだれも疑問を感じないほどのことです。因果律とは、非常に一般化された概念で、常識ですし、一種の信念ともいうべきものになっているのかもしれません。ところが、少なくとも科学の世界では、因果律は検証された論理ではありません。今のところ、因果律を破るものはないという経験則によってのみ、保証されているものです。今回の実験によって、覆される可能性があというのが、このニュースの重要性です。
以下のエッセイでは、因果律は一般的な概念に対して用い、因果関係は個々の事象に起こっている原因と結果を関係を示すものとして、区別して記述していきます。
人は、因果律を前提にしてすべての物事を考え、生活しています。逆に、因果律を破るような考え方は、できないようになってます。それほど、因果律は、私たちの考え方において不可分で絶対性をもつものです。自然科学の研究も、因果律のもとに営まれています。
自然科学とは、個々の事象に見え隠れする因果律を、それぞれの因果関係として方程式や法則、規則などに、個別に定式化することといえます。
科学のある分野では、実験が非常に重要になります。今回のニュースも実験によるものです。実験にもいろいろなものがありますが、その目的は、ある事象間における因果関係を、定性あるいは定量的に実証することだといえます。あくまでも個々の事象の因果関係であって、因果律総体を検証、論証するものではありません。
自然現象には、固有の時間に制限を受けない因果関係もあります。物理現象や化学現象の多くは、それにあたります。物理学や化学では、ある因果関係を見出した実験結果が提示されると、その検証のために、別の実験装置(場)、別の研究者(人)、別の条件(環境)による再現実験が非常に重要な役割を持っています。ある時、ある所で、ある人だけが見出した因果関係は、普遍化できません。もしかしたら、その研究者の思い違いやミスかもしれません。そのような誤謬が混入することを、再現性の確認実験によって排除できます。再現実験によって検証された現象は、時空を越えた因果関係によるものと保証されます。このような自然科学を、このエッセイでは再現的自然科学と呼びましょう。
抽象的な話しばかりですから、例を上げておきましょう。
振り子を考えましょう。だれもが小学校や中学校の実験でやった思いますが、振り子の周期(一往復の時間)は、振り子の長さだけに依存しています。正確には長さの平方根だけに比例(周期=2π√(長さ/重力加速度)という公式)します。振り子時計を思いうかべていただければ、理解できるのではないでしょうか。
ある再現性が、ある因果関係によって「実証」されれば、原因を人為的に変化させ、さまざまな条件でその因果関係が成り立つことを「検証」できます。二番煎じではありますが、科学における「検証」という重要な役割となります。再現的自然科学では、因果関係の「実証」が重要な目的となります。
振り子の例でいえば、振り子の錘の重さや、振れ幅を変化させても周期は一定であることがわかります。振り子の等時性と呼ばれているものです。一見常識に反するようにみえますが、実験すれば、だれもが同じ結果を得られます。
因果関係の証拠をいくら大量にそろえても、因果律の正しさを証明することは、残念ながらできません。そこには、帰納法の論証と同じ困難さがあるのです。因果律を証明するためには、すべての事象における因果関係を調べていき、因果律が破られていないことを検証するしかありません。現実的には不可能な検証です。因果律の破綻は、たった一個、確実な反例が示せればいいのです。今回の光速を越えるニュートリノの発見は、その因果律の反証になりえるのです。重要な報告なので、再現性を検討する必要があるのです。
一方、歴史性のある現象では、因果律に則ってはいるのでしょうが、再現性が原理的に検証できません。例えば、生物の進化や地球の歴史などは、実験不可能ですから、因果関係を抽出することは困難でしょう。このような不可逆な時間の流れよる事象における科学を、ここでは歴史的自然科学と呼びましょう。
歴史的自然科学では、どのような研究手法がとられているのでしょうか。いくつかのアプローチがありますが、最近、高速のコンピュータを用いた計算機実験(シミュレーション)がいろいろおこなわれています。要素還元的に抽出した初期条件を前提に、デジタル空間での擬似的な計算機実験を行うことになります。まさに仮想実験です。要素還元的ではありますが、因果関係を推定するには、有効な研究手法であります。しかし、シミュレーションでは、現実の現象を再現しているわけでもなく、「検証」したわけでもありません。あくまでも、仮想です。
もう一つの歴史的自然科学のアプローチとして、過去の生物起源物質や岩石や鉱物を分析や記載する方法があります。特別な化学成分の分析をすれば、形成年代や変化を受けた年代などを調べることも可能です。歴史的自然科学では、時間ラベルは非常に重要です。時間ラベルは因果関係の前提となるものだからです。ところが現実には、時間分解能はそれほど高くなく、古い時代(地質時代)の因果関係の時間差を示すほどの精度はありません。
ただ、地層の上下関係で、順序を読み取ることができます。それにより、順序に基づいた事象の配列ができます。順序は、因果関係を保証するものではありませんが。
さらに、分析データから、その物質の属性を詳細に記載することができます。それらの属性から、因果関係を限定したり、推測することになります。しかし、その物質を形成した事象を、再現して再構成することは不可能です。
振り子と同じように、貝化石を例としましょう。
ある種類の貝の化石がたくさん産出する地層があるとしましょう。地層の上下関係が判明したら、下位ほど古い時代に形成され、上位ほど新しくなります。地層ごとに出た化石を並べていけば、順序に基づいた配列になります。似た化石で形態に系統的変化が見られたら、そこに因果関係があった可能性があります。もし同時代の近隣地域でも、同じよな結果がみられたとすれば、因果関係があるという傍証になりそうです。
歴史的自然科学では、真実は藪の中です。もし別種なのに、たまたま似たものが混じっていたとすれば、誤認が必然的に生じます。意地悪に考えれば、別種が混入する条件が常に存在するというようなことがあれば、決して取り除けない間違いが出現します。極端な例かもしれませんが、歴史的自然科学では、そんな不確かさは常につきまといます。
因果関係の保証されない事象における規則性は、論理的に正しいという保証はありません。これは、いくら記載データを増やしても、正さにはたどり着けませ。時間は不可逆な流れなので、その流れの中で起こった現象は、再現することができないからです。簡単にいえば、過去の事象は二度と繰り返されない、ということです。
今まで述べてきたことから、歴史的自然科学が目指すべきものは、「再現性のある因果関係」の追求ではなさそうです。では、何を目指しているのでしょうか。
歴史的自然科学のどの結果も、因果律や因果関係を否定するものではありません。再現的自然科学では因果関係が検証できますが、歴史的自然科学では検証できません。歴史的自然科学では、因果関係を保証するものすらほとんどありません。時には、因果関係がない似た事象が混入しているかもという不安もあります。ただ順序だけが確かな事象があるだけです。
徹底した分析、順序のある膨大な記載によって、「見かけの因果関係の連続」が見出せるでしょう。「見かけの因果関係の連続」から、あわよくば「因果律の尻尾」が発見ができるかもしれないという希望です。
うまいいい方はできませんが、ぱたぱたマンガを高速でみると、動くアニメーションとして連続的な動きに見えるように、長く延びる破線も遠くから見れば実線にみえるように、因果関係が浮き出るのではないでしょうか。多数の記載を並べ、遠目でみると、過去の一連の事象にストーリー(見かけの因果関係の連続)があるかように見えるのではないでしょうか。そのストーリーを確認するのが、シミュレーションです。
さまざまな時代、さまざまな地域のストーリーに乱れがないのなら、その歴史絵巻(因果律の尻尾)は成立していると見なせるかもしれません。そのストーリーを読み取り、シミュレーションによって仮想検証を振り返すことが、歴史的自然科学の役割ではないでしょうか。順序だった大量の事象を、今よりもっともっと大局的に眺めると、歴史の必然性と偶然性、そして因果律の尻尾が見えるのではないでしょうか。
ニュートリノの超光速のニュースから、こんなことを考えてしまいました。
・本来の姿に・
もう10月です。
大学の夏休みもの終わり、
校内に若者のざわめきが復活してきました。
大学の後期の授業のスタートです。
同じよう見える学生群も
個々にみれば言動に違いがあり、
個性があることがわかります。
一方、学生の経年変化を教員は語りがちです。
それも、上の例でいうと歴史的事象の大局になるのでしょうか。
それとも、因果律の外のことでしょうか。
まあ、いずれにしても学生で賑わうキャンパスが
本来の姿なのです。
・北国の秋・
いよいよ北海道の秋も深まってきました。
初雪の便りも聞きます。
里の木々も少しずつ色づいてきました。
深まる秋の中で、北海道では
今年最後の収穫の季節を迎えます。
東北の被害を補えるような収穫があのでしょうか。
そんな不安要素を伴う秋です。
2011年9月1日木曜日
116 崇高なる深みを目指して
今回のエッセイは、前身から数えてちょうど10年目にあたります。10年というのは、10進法で数るえから意義があるのであって、他の進法では、全く意味を成さないものでしょう。でも私たちは10進法を採用しているので、10年目はひとつの区切りになります。10年目を迎えるにあたって、このエッセイの目指すものを再確認しておきます。こんな区切りの利用は行こうではないでしょうか。
スティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould、1941年9月10日生まれ)は、月刊「Natural History」誌にエッセイ"This View Of Life"(1974年1月からスタート)を連載していました。グールドのエッセイは、発刊から25年目の2001年1月に300回(10冊のエッセイ集になっている)の最終回を迎えました。
その最後のエッセイが掲載された待望の翻訳「ぼくは上陸している:進化をめぐる旅の始まりの終わり」の上下巻が、2011年8月15日に発行されました。これで、グールドのエッセイ集は、10冊に達しました。8月初旬に発刊のアナウンスを聞いたので、早速予約しました。オリジナル版のエッセイ集は、2002年に発行されています。それが約10年の期間を経て、やっと日本語で読めるようになりました。手元に届いたので、さっそくいつもの長い「はじめに」を読みました。すると「はじめに」のはじめに、「はじめにの前置き」がありました。
現在、感慨深く、この本を読み始めました。まずは1章だけ「ぼくは上陸している」を読みました。一気に読むのがもったいなくて、じっくりと時間をかけて味わいながら読んでいこうと決めています。もう、グールドの著作は、これ以上増えそうもないからです。以下で、グールドとこのエッセイの関係について述べて、志を新たにしたいと思っています。
2001年は、9.11の事件が起こった年としてアメリカ合衆国だけでなく世界中の人にとって重要な意味があるはずです。9.11はテロでしたが、グールドにとっては、2001年は別の意味がありました。彼の祖先が移民としてアメリカに上陸したのが1901年でした。ですから祖先がアメリカに移民してきて、ちょうど100年目にあたる年でした。さらに9.11は、移民当時14歳の祖父が、英文法の教科書に最初に書き込んだ言葉が「1901年9月11日、ぼくは上陸している」(I have landed. Sept. 11th 1901)というものでした。その100年後、同じ日に、9.11が起こました。また、孫のグールドが、25年間続けてきたエッセイの300号、最終号のタイトルを「ぼくは上陸している」(2001年1月号)にしました。そしてエッセイ集も同じタイトルでした。
300、100、25などというキリの良い数字は、10進法を採用しているためであって、7進法や11進法を採用していたら、半端な数字になっていたことでしょう。また年月の符合も偶然でしょう。しかし、多くの人は、キリの良い数字を何らかのきっかけにするのは、よくあることでけっして悪いことではないでしょう。ですから、私もグールドのキリの良い数字にあやかって、この文章を書くことにしました。
さて、このエッセイ「地球のつぶやき」は、今回で116号となります。2002年2月7日が第1号の発刊ですから、9年6ヶ月が経過したことになり、キリの悪い数字です。でも、私にとっては、あるキリのよい数字になるのです。
「地球のつぶやき」が月刊メールマガジンとしてスタートしたのは2002年ですが、2001年9月20日から発行していた非公開のエッセイがありました。それがこのエッセイの前身となります。非公開だったのは、限定100名(当時使用していたプロバイダーのメールマガジンの機能が100名まででした)に対して、特別に書いたエッセイを発行していました。2000年9月20日から発行しはじめた週刊「地球のささやき」の読者向けのものでした。メールを下さった方に対する私の感謝の気持ちとして始めたものでした。「地球のつぶやき」は、不定期の発行でしたが、7号まで発行しました。半年後の2002年2月からは、月刊として公開の場で発行してきました。そして現在に至っています。ちなみに、それらのバックナンバーは、ホームページで見ることができます。
ですから、2011年9月は、エッセイ「地球のつぶやき」がスタートして10周年にあたります。そんなとき、グールドの最後のエッセイ集の翻訳版が、出版されました。
週刊「地球のささやき」は、地質学のトッピクスを短かい文章(原稿用紙2、3枚程度)でわかりやすく紹介することが目的でした。一方、「地球のつぶやき」は、グールドの連載エッセイを多分に意識してました。グールドは私が尊敬する科学者です。幸いなことに、彼は地質学者(古生物学や進化生物学を専門としている)であったので、彼の書く題材は、私にとっても身近なものが多々ありました。しかし、その内容は高度で、地質学の範疇を越えた非常に広い教養、博識の上に成り立っているものでした。「地球のつぶやき」では、グールドにはおよばないまでも、グールドを目標にして、少々長め(原稿用紙10数枚程度)で、地質学のテーマを少々掘り下げたものを書くことにしていました。グールドを目指して。
2002年、10冊目のエッセイ集と共に、グールドのライフワークともいえる「進化理論の構造(The Structure of Evolutionary Theroy)」が同時に発行されました。原書で1500ページにもなる大著でした。さすがグールドです。このようなライフワークが、私に書けるのでしょうか。私のライフワークの目標だけはできています。
何度か書いたことがあるのですが、つぎのような経緯でライフワークの目標はできました。私は、大学と研究所から地質学で研究者人生をスタートしました。博物館では、地質学に加えて科学教育へも興味をもちました。
博物館時代、父の死を契機にして、理性と感性の兼ね合い、自分にとって仕事や研究とはなにか、などなど、いろいろなことについて悩み、将来についても考えるようになりました。それは父の残した宿題として深く考えるきっかけになりました。
その結論の一つとして、自分の理想の研究者像についても考えるようになりました。理想の研究者像として考え至ったのが、三位一体の必要性でした。三位一体とは、一人の研究者に、研究、教育、哲学の3つが融合しながら内包されているのが理想ではないかというものでした。私の場合なら、地質学を中心に、科学的な探求をしながら、そこで得た地質学の知見や素材を科学教育として活用し、地質学が取り扱う特徴的属性を哲学のテーマとして掘り下げ地質哲学としようと考えました。そして、いずれの分野でも一般化できれば、成果(論文)になるではないかと考え実践してきました。非常に大胆で大きなテーマですが、これは自分「ひとり」で行うライフワークと位置づけました。
そんな思いをもって、2002年4月に、現在の大学に転職しました。大学では地質学と科学教育、特に地質哲学に力をそそぐことになります。世界中で私が考えているような地質哲学をおこなっている先達として、グールドがいました。当然、地質哲学においても、グールドが目標になりました。
グールドの著作はよく知っていましたが、面識はなかったので、知り合いの先生に紹介を頼もうと思っていました。大学の研究休暇を利用して、あわよくばグールドのところに、1年間滞在させてもらおう考えていました。
その矢先、2002年5月20日、グールドは脳まで転移した肺線腫によってこの世をさりました。訃報を知った時、私は大きなショックを受けました。手持ちの彼の書籍を整理しました。何度もの引越しで手放したり、博物館の図書館に大量の書籍を寄贈してたので、かなりの著作は欠けていました。改めて買い集めしました。翻訳書がないものは、原書でも集めました。エッセイで翻訳されたものは大部分読んていたのですが、まだ読んでいないものもありました。読んでないエッセイを読み始めました。そして、やはりグールドが偉大であることを再確認しました。
グールド亡き後、私にとって「地球のつぶやき」のエッセイは、地質哲学のアイディアを展開する上で、非常に重要な場となりました。今では、インターネットのメールマガジンを利用することで、自分のエッセイを発表の場を持つことできます。さらにありがたいことに、メールマガジンの購読者という明確な読者を持つことができます。そんな場や人は、私にとっては、非常に有効なものとなっています。
私のこの「地球のつぶやき」は、内容も深みも、グールドの足元にも及びません。グールドは、すべての論拠やデータを一次文献にあたっています。そして、「一般向け」でありながら、「専門書でも一般書でも概念上の深みに差があるべきではない」という妥協しない姿勢で、エッセイを書き続けました。それは、崇高なる「深み」のあるエッセイでした。知性に妥協しない姿勢は見習うべきものでした。
私の「地球のつぶやき」も、それを目指していますが、まだまだ「深み」が足りません。それでもグールドの「深み」を目標として、10年間続けてきました。内容はかなり劣りますが、継続に関しては25分の10にやっと届きました。長ければいいというものではありません。しかし、継続は努力なくしてできません。少なくとも目標に向かって、努力を怠りなくやっているという証にはなるでしょう。グールドまでは、まだまだ先は長いですが、継続もさることながら、よりよき崇高なる「深み」を目指して、心新たにエッセイを続けようと考えています。
私の歩みはのろいですが、一応進み続けています。「ひとり」ですので何かと大変ですが、苦労も成果もすべて自分のものです。失敗しても誰にも迷惑をかけないという気楽さもあります。そして、なんといっても、誰もいったことない「深み」への興味は尽きません。そんな「深み」が、このエッセイで今後も紹介できればと思っています。
・科学エッセイ・
グールドに考えが至った理由は
エッセイ集の発行の他にもありました。
それは、9月1日おこなわれる2時間ほどの講演会での話しで、
自分の研究を振り返ることにしました。
そのとき、地質哲学を目指した背景には
グールドの一連の著作がありました。
また科学エッセイについては、
アシモフの科学エッセイシリーズ、ガモフ全集、
米山正信の「化学のドレミファ」シリーズ
ロゲルギストの「物理の散歩道
ブルーバックスなどの本
からいろいろと影響を受けました。
本は、重要な影響力があります。
娯楽やスキル養成だけでなく、
時には人生の指針や指南書となます。
癒しや慰めにも、励まし、活力源などにもなります。
本は一生の伴でしょうか。
・グールドの著作・
以下ではグールドの著作をまとめておきます。
・エッセイ集
01 Ever Since Darwin (1977)/ダーウィン以来:進化論への招待 (1984)
02 The Panda's Thumb (1980)/パンダの親指:進化論再考 (1986)
03 Hen's Teeth and Horse's Toes (1983)/ニワトリの歯:進化論の新地平 (1988)
04 The Flamingo's Smile (1985)/フラミンゴの微笑:進化論の現在 (1989)
05 Bully for Brontosaurus (1991)/がんばれカミナリ竜:進化生物学と去りゆく生きものたち (1995)
06 Eight Little Piggies (1993)/八匹の子豚:種の絶滅と進化をめぐる省察 (1996)
07 Dinosaur in a Haystack (1996)/干し草のなかの恐竜:化石証拠と進化論の大展開 (2000)
08 Leonardo's Mountain of Clams and the Diet of Worms: Essays on Natural History (1998)/ダ・ヴィンチの二枚貝:進化論と人文科学のはざまで (2002)
09 The Lying Stones of Marrakech: Penultimate Reflections in Natural History (2000)/マラケシュの贋化石:進化論の回廊をさまよう科学者たち (2005)
10 I Have Landed: The End of a Beginning in Natural History (2002)/ぼくは上陸している:進化をめぐる旅の始まりの終わり (2011)
・単行本
1 Ontogeny and Phylogeny (1977)/個体発生と系統発生(1998)
2 The Mismeasure of Man (1981)/人間の測りまちがい差別の科学史(1990)
3 Time's Arrow, Time's Cycle: Myth and Metaphor in the Discovery of Geological Time (1987)/時間の矢・時間の環(1987)
4 Urchin in the Storm (1987)/嵐のなかのハリネズミ(1991)
5 Wonderful Life: The Burgess Shale and The Nature of History (1989)/ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (1993)
6 Full House: The Spread of Excellence from Plato to Darwin (1996)/フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説 (1998)
7 Questioning the Millennium: A Rationalist's Guide to a Precisely Arbitrary Countdown (1997)/暦と数の話 グールド教授の2000年問題 (1998)
8 Rocks of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life (1999)/神と科学は共存できるか? (2007)
9 The Structure of Evolutionary Theory (2002) /(邦訳未刊)
スティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould、1941年9月10日生まれ)は、月刊「Natural History」誌にエッセイ"This View Of Life"(1974年1月からスタート)を連載していました。グールドのエッセイは、発刊から25年目の2001年1月に300回(10冊のエッセイ集になっている)の最終回を迎えました。
その最後のエッセイが掲載された待望の翻訳「ぼくは上陸している:進化をめぐる旅の始まりの終わり」の上下巻が、2011年8月15日に発行されました。これで、グールドのエッセイ集は、10冊に達しました。8月初旬に発刊のアナウンスを聞いたので、早速予約しました。オリジナル版のエッセイ集は、2002年に発行されています。それが約10年の期間を経て、やっと日本語で読めるようになりました。手元に届いたので、さっそくいつもの長い「はじめに」を読みました。すると「はじめに」のはじめに、「はじめにの前置き」がありました。
現在、感慨深く、この本を読み始めました。まずは1章だけ「ぼくは上陸している」を読みました。一気に読むのがもったいなくて、じっくりと時間をかけて味わいながら読んでいこうと決めています。もう、グールドの著作は、これ以上増えそうもないからです。以下で、グールドとこのエッセイの関係について述べて、志を新たにしたいと思っています。
2001年は、9.11の事件が起こった年としてアメリカ合衆国だけでなく世界中の人にとって重要な意味があるはずです。9.11はテロでしたが、グールドにとっては、2001年は別の意味がありました。彼の祖先が移民としてアメリカに上陸したのが1901年でした。ですから祖先がアメリカに移民してきて、ちょうど100年目にあたる年でした。さらに9.11は、移民当時14歳の祖父が、英文法の教科書に最初に書き込んだ言葉が「1901年9月11日、ぼくは上陸している」(I have landed. Sept. 11th 1901)というものでした。その100年後、同じ日に、9.11が起こました。また、孫のグールドが、25年間続けてきたエッセイの300号、最終号のタイトルを「ぼくは上陸している」(2001年1月号)にしました。そしてエッセイ集も同じタイトルでした。
300、100、25などというキリの良い数字は、10進法を採用しているためであって、7進法や11進法を採用していたら、半端な数字になっていたことでしょう。また年月の符合も偶然でしょう。しかし、多くの人は、キリの良い数字を何らかのきっかけにするのは、よくあることでけっして悪いことではないでしょう。ですから、私もグールドのキリの良い数字にあやかって、この文章を書くことにしました。
さて、このエッセイ「地球のつぶやき」は、今回で116号となります。2002年2月7日が第1号の発刊ですから、9年6ヶ月が経過したことになり、キリの悪い数字です。でも、私にとっては、あるキリのよい数字になるのです。
「地球のつぶやき」が月刊メールマガジンとしてスタートしたのは2002年ですが、2001年9月20日から発行していた非公開のエッセイがありました。それがこのエッセイの前身となります。非公開だったのは、限定100名(当時使用していたプロバイダーのメールマガジンの機能が100名まででした)に対して、特別に書いたエッセイを発行していました。2000年9月20日から発行しはじめた週刊「地球のささやき」の読者向けのものでした。メールを下さった方に対する私の感謝の気持ちとして始めたものでした。「地球のつぶやき」は、不定期の発行でしたが、7号まで発行しました。半年後の2002年2月からは、月刊として公開の場で発行してきました。そして現在に至っています。ちなみに、それらのバックナンバーは、ホームページで見ることができます。
ですから、2011年9月は、エッセイ「地球のつぶやき」がスタートして10周年にあたります。そんなとき、グールドの最後のエッセイ集の翻訳版が、出版されました。
週刊「地球のささやき」は、地質学のトッピクスを短かい文章(原稿用紙2、3枚程度)でわかりやすく紹介することが目的でした。一方、「地球のつぶやき」は、グールドの連載エッセイを多分に意識してました。グールドは私が尊敬する科学者です。幸いなことに、彼は地質学者(古生物学や進化生物学を専門としている)であったので、彼の書く題材は、私にとっても身近なものが多々ありました。しかし、その内容は高度で、地質学の範疇を越えた非常に広い教養、博識の上に成り立っているものでした。「地球のつぶやき」では、グールドにはおよばないまでも、グールドを目標にして、少々長め(原稿用紙10数枚程度)で、地質学のテーマを少々掘り下げたものを書くことにしていました。グールドを目指して。
2002年、10冊目のエッセイ集と共に、グールドのライフワークともいえる「進化理論の構造(The Structure of Evolutionary Theroy)」が同時に発行されました。原書で1500ページにもなる大著でした。さすがグールドです。このようなライフワークが、私に書けるのでしょうか。私のライフワークの目標だけはできています。
何度か書いたことがあるのですが、つぎのような経緯でライフワークの目標はできました。私は、大学と研究所から地質学で研究者人生をスタートしました。博物館では、地質学に加えて科学教育へも興味をもちました。
博物館時代、父の死を契機にして、理性と感性の兼ね合い、自分にとって仕事や研究とはなにか、などなど、いろいろなことについて悩み、将来についても考えるようになりました。それは父の残した宿題として深く考えるきっかけになりました。
その結論の一つとして、自分の理想の研究者像についても考えるようになりました。理想の研究者像として考え至ったのが、三位一体の必要性でした。三位一体とは、一人の研究者に、研究、教育、哲学の3つが融合しながら内包されているのが理想ではないかというものでした。私の場合なら、地質学を中心に、科学的な探求をしながら、そこで得た地質学の知見や素材を科学教育として活用し、地質学が取り扱う特徴的属性を哲学のテーマとして掘り下げ地質哲学としようと考えました。そして、いずれの分野でも一般化できれば、成果(論文)になるではないかと考え実践してきました。非常に大胆で大きなテーマですが、これは自分「ひとり」で行うライフワークと位置づけました。
そんな思いをもって、2002年4月に、現在の大学に転職しました。大学では地質学と科学教育、特に地質哲学に力をそそぐことになります。世界中で私が考えているような地質哲学をおこなっている先達として、グールドがいました。当然、地質哲学においても、グールドが目標になりました。
グールドの著作はよく知っていましたが、面識はなかったので、知り合いの先生に紹介を頼もうと思っていました。大学の研究休暇を利用して、あわよくばグールドのところに、1年間滞在させてもらおう考えていました。
その矢先、2002年5月20日、グールドは脳まで転移した肺線腫によってこの世をさりました。訃報を知った時、私は大きなショックを受けました。手持ちの彼の書籍を整理しました。何度もの引越しで手放したり、博物館の図書館に大量の書籍を寄贈してたので、かなりの著作は欠けていました。改めて買い集めしました。翻訳書がないものは、原書でも集めました。エッセイで翻訳されたものは大部分読んていたのですが、まだ読んでいないものもありました。読んでないエッセイを読み始めました。そして、やはりグールドが偉大であることを再確認しました。
グールド亡き後、私にとって「地球のつぶやき」のエッセイは、地質哲学のアイディアを展開する上で、非常に重要な場となりました。今では、インターネットのメールマガジンを利用することで、自分のエッセイを発表の場を持つことできます。さらにありがたいことに、メールマガジンの購読者という明確な読者を持つことができます。そんな場や人は、私にとっては、非常に有効なものとなっています。
私のこの「地球のつぶやき」は、内容も深みも、グールドの足元にも及びません。グールドは、すべての論拠やデータを一次文献にあたっています。そして、「一般向け」でありながら、「専門書でも一般書でも概念上の深みに差があるべきではない」という妥協しない姿勢で、エッセイを書き続けました。それは、崇高なる「深み」のあるエッセイでした。知性に妥協しない姿勢は見習うべきものでした。
私の「地球のつぶやき」も、それを目指していますが、まだまだ「深み」が足りません。それでもグールドの「深み」を目標として、10年間続けてきました。内容はかなり劣りますが、継続に関しては25分の10にやっと届きました。長ければいいというものではありません。しかし、継続は努力なくしてできません。少なくとも目標に向かって、努力を怠りなくやっているという証にはなるでしょう。グールドまでは、まだまだ先は長いですが、継続もさることながら、よりよき崇高なる「深み」を目指して、心新たにエッセイを続けようと考えています。
私の歩みはのろいですが、一応進み続けています。「ひとり」ですので何かと大変ですが、苦労も成果もすべて自分のものです。失敗しても誰にも迷惑をかけないという気楽さもあります。そして、なんといっても、誰もいったことない「深み」への興味は尽きません。そんな「深み」が、このエッセイで今後も紹介できればと思っています。
・科学エッセイ・
グールドに考えが至った理由は
エッセイ集の発行の他にもありました。
それは、9月1日おこなわれる2時間ほどの講演会での話しで、
自分の研究を振り返ることにしました。
そのとき、地質哲学を目指した背景には
グールドの一連の著作がありました。
また科学エッセイについては、
アシモフの科学エッセイシリーズ、ガモフ全集、
米山正信の「化学のドレミファ」シリーズ
ロゲルギストの「物理の散歩道
ブルーバックスなどの本
からいろいろと影響を受けました。
本は、重要な影響力があります。
娯楽やスキル養成だけでなく、
時には人生の指針や指南書となます。
癒しや慰めにも、励まし、活力源などにもなります。
本は一生の伴でしょうか。
・グールドの著作・
以下ではグールドの著作をまとめておきます。
・エッセイ集
01 Ever Since Darwin (1977)/ダーウィン以来:進化論への招待 (1984)
02 The Panda's Thumb (1980)/パンダの親指:進化論再考 (1986)
03 Hen's Teeth and Horse's Toes (1983)/ニワトリの歯:進化論の新地平 (1988)
04 The Flamingo's Smile (1985)/フラミンゴの微笑:進化論の現在 (1989)
05 Bully for Brontosaurus (1991)/がんばれカミナリ竜:進化生物学と去りゆく生きものたち (1995)
06 Eight Little Piggies (1993)/八匹の子豚:種の絶滅と進化をめぐる省察 (1996)
07 Dinosaur in a Haystack (1996)/干し草のなかの恐竜:化石証拠と進化論の大展開 (2000)
08 Leonardo's Mountain of Clams and the Diet of Worms: Essays on Natural History (1998)/ダ・ヴィンチの二枚貝:進化論と人文科学のはざまで (2002)
09 The Lying Stones of Marrakech: Penultimate Reflections in Natural History (2000)/マラケシュの贋化石:進化論の回廊をさまよう科学者たち (2005)
10 I Have Landed: The End of a Beginning in Natural History (2002)/ぼくは上陸している:進化をめぐる旅の始まりの終わり (2011)
・単行本
1 Ontogeny and Phylogeny (1977)/個体発生と系統発生(1998)
2 The Mismeasure of Man (1981)/人間の測りまちがい差別の科学史(1990)
3 Time's Arrow, Time's Cycle: Myth and Metaphor in the Discovery of Geological Time (1987)/時間の矢・時間の環(1987)
4 Urchin in the Storm (1987)/嵐のなかのハリネズミ(1991)
5 Wonderful Life: The Burgess Shale and The Nature of History (1989)/ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (1993)
6 Full House: The Spread of Excellence from Plato to Darwin (1996)/フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説 (1998)
7 Questioning the Millennium: A Rationalist's Guide to a Precisely Arbitrary Countdown (1997)/暦と数の話 グールド教授の2000年問題 (1998)
8 Rocks of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life (1999)/神と科学は共存できるか? (2007)
9 The Structure of Evolutionary Theory (2002) /(邦訳未刊)
2011年8月1日月曜日
115 時の流れを漂う因果律
原因と結果の密接な関係、因果律は、日常的に当たり前として使っています。しかし、因果律が成立するためには、時間の存在や属性が前提となっているようです。そこには不思議な関係が存在します。少し長くなりますが、因果律と時間の関係を考えていきます。
原子力発電所に続き、北海道や中国の列車事故、航空大学校の飛行機墜落事故など、つぎつぎと事故が報道されています。事故が起これば、警察やメーカーなどによって、原因究明がおこなわれます。原因が究明されることによって、再発の防止や、責任追及がおこなわれます。事故の原因が、一つのこともありますし、複数のことも、あるいは複雑にからみあった原因によるものもあるでしょう。
いずれにしても、なんらかの原因があり、その原因によって事故が引き起こされたとして事故処理は進められます。原因がわかれば、責任の所在が明らかになり、賠償や処罰も客観的にできます。さらに、対処しなければ、同じ条件がそろえば同じ事故を起こすはずです。だからこそ、原因究明は必要なことです。
原因究明をするということは、原因と事故が密接に結びついているという前提があるからこそできることです。普遍化して考えると、何らかの結果(事故)が起こったならば、必ず原因が存在すると考えています。また、原因が出現したら、必然的に結果が生じることになります。原因と結果は必然性によって結びついています。
そこに必然性がないと、結果から原因を追求することができません。法則や規則も一種の原因とみなせ、初期条件から結果を予測できるのです。そこにも必然性が保証されないと、研究や技術の成り立ちません。その必然性が保証されないと、研究や技術を進める動機すら湧かないかもしれません。
科学や技術において、何らかの目標を設定したとします。例えば、ある火山活動を起こしたマグマの成因を探る、あるいは鉱物内の極微量の成分を精度よく測定できるようにすることを目標にしたとしましょう。今までなかった知見や技術を見出すことが目標です。
マグマが固まったものが火山岩ですから、マグマの多様性を網羅するために火山岩が採取しなければなりません。採取した火山岩で必要な化学分析をしなければなりません。それらがすべて満たされたとしましょう。あとは、岩石学で今まで蓄えられてきた知的資産を使えば、マグマの成因を見極めることができます。
こういう手順で進めれるる研究論文が多いのですが、個々の論文の評価として、その火山のそのマグマにおける新知見かもしれませんが、科学的な貢献度は低く、実例が一つ増えたという程度にしかなりません。ただし、量が質を生むことや、基礎データは科学の進歩には不可欠ですので、このような地道な研究も必要なものです。一人前の研究者への訓練として、このような過程を多くの人は経てきています。私もそうでした。ですから、地道な研究を否定するものではありません。必要な研究だと思います。しかし、今までにないマグマの成因や特徴、特異性などを見つけたり、それが広く敷衍できるものであれば、ひとつの研究成果の重要性が増します。つまり、オリジナリティのある研究成果といえます。
その点、今までできなかった鉱物内の微量成分を分析できる技術、あるいは今までより一桁精度の高い分析ができるという技術は、汎用性、普遍性が大きくなります。高精度の分析ができるようになるためには、成分抽出過程の改良、新しい装置の開発、検出器の改良、標準試料の更新、測定プログラムの改善、補正計算の改良など、さまざまなアプローチがあるでしょう。今まで誰もできなかったものにチャレンジすることになります。いろいろなアプローチで一番効果のあるところから手がけられていくはずです。もしその技術が達成されれば、重要な成果となります。技術はいったんできると、多くの人が恩恵を被り、いろいろな応用もできるようになり、利用価値は高くなります。
科学や技術を進める上で、原因を突き止めれば、結果を得、目標を達成できる、できそうだ、という予測を背景にしています。目標を達成するために、必要な試料やデータの入手、クリアーすべき技術的問題などが見極められていくはずです。試料やデータが入手不能、技術的問題が解決不能ならば、その目標は早々に諦められるはずです。多少困難であっても解決の見込みがあれば、努力しだいで目標を達成できることになります。それはチャレンジする価値あるものとなります。
このようなプロセスは見方を変えると、原因(問題解決)と結果(目標達成)という関係が存在するはずという前提をおています。その前提があるため、研究や技術開発に取り組むことができるのです。原因と結果が存在するという前提が、研究動機を支えています。この前提による動機が、目標を達成するというかけ声のもと、科学や技術は進められてきましたし、そして、多分これからも進んでいくでしょう。
原因と結果の関係を、因果律、因果関係、因果性と呼びます。
科学や技術は、因果律のもとに進められています。因果律を前提とするのは、なにも科学や技術の世界だけではありません。私たちは因果律を、無意識に常識として受け入れています。多くのモチベーションは、因果律を前提にできています。
しかし、よくよく考えると、因果律は、本当にすべての事象において存在するのでしょうか。また、因果律に組み込まれている必然性の存在は、本当に確実なものなのでしょうか。そもそもそのような因果律の存在は、証明されているものなのでしょうか。因果律は、もちろん誰も証明していません。多分、証明は難しいでしょう。では、因果律を用いることなく、科学的論証を進めることができるでしょうか。それも、難しいでしょう。
そんな不確かさの上に現在の科学、あるいは現代社会は成立していることになります。あるいは私たちの文明は、因果律の上で展開、発展できたものだけから成り立っている楼閣なのかもしれません。
因果律の成立には、いくつかの前提が必要です。その前提に基づいて因果律は構成されています。因果律の前提をみていきましょう。
まず因果律は、時間の存在を前提とします。もちろん時間の存在を否定する人はいないでしょうが、時間の属性を完全に把握することはなかなか難しく、古くから哲学の重要課題として扱われてきました。ここで議論するには紙面がたりません。時間が存在するとしましょう。
時間には、流れがあり、一方向に、途切れることなく連続しているということ、そしてその連続の中に「現在」が設定できるという前提も必要です。「現在」が設定できれば、「現在」を基準に時間を「過去」と「未来」に区分できます。
次に、時間の流れにおいて、「原因」は前(先、上流)に、「結果」は後(下流)に起こるという前提が必要です。当たり前のようなことですが、原因と結果の前後関係も、因果律における重要な前提となります。この前提も存在しないと、因果律は成り立ちません。
ただし、私たちが何かをしたり、認識できるのは「現在」という微分的な時間においてだけです。「過去」は、「現在」に残留する記録、記憶にのみに内在されます。残留の痕跡は、時間ととも薄れていきます。記録は古いものほど減って行きます。岩石や地層でも同様です。もちろん、「現在」は「過去」の多大な影響の基に存在します。「過去」の積分的総体が「現在」といえます。
「未来」は「現在」の延長でありながら、不確実、未確定なものです。深くていながら、明らかに「過去」や「現在」にも影響されます。「現在」にしか存在できない私たちは、「未来」をすごく意識します。夢とは「未来」を想像ことです。よき「未来」を望むから、「現在」の苦労に耐えられます。「未来」の目標を達成するために、つらい努力もできます。それらはすべて「未来」が私たちに与える影響です。まだ来ぬ「未来」を見つめて、私たちは「現在」を生きているのです。それこそが「未来」が私たちに与える影響、属性といえます。
私たちは、「現在」のみに存在します。「過去」も「未来」も私たちに直接関与できません。「過去」をいじったり、「未来」を事前に知ることことはできません。それをすることは、因果律を破ることになります。タイムマシーンは、因果律を破る存在になります。過去も未来も、概念上、頭の中だけの存在ない泡沫(うたから)の存在なのかもしれないという気もします。
因果律は時間の流れの中に存在します。
もし因果律が正しければという仮定に立てば、ほとんどの物理法則も成り立ちます。たとえば、ニュートンの運動方程式やマクスウェルの電磁気方程式(いずれも微分方程式)によって記述できる世界は、すべて決定論的に結果を予測できます。それらの微分方程式を、ある時刻の初期条件を決めて解けば、ある時刻の状態を解くことができます。時間に制限はありません、過去や未来の状態さえも知ることができます。
ただし、熱力学は統計学的な要素、量子力学ではそれに加えて観測者の影響なども加味しなければならないため、古典的物理学に比べると不確実性が混入しています。しかし、その不確実性は、因果律を破るものではありません。因果律の確度を変動させる程度の範疇に収まるものです。
因果律を認め、物理法則を認めると、過去の原因によって導かれる現在の結果はすべて決定論的に知ることができます。物理法則には、過去や未来などとういう時間の制限はつきませんから、未来も一義的に予測可能となります。どんなに複雑なものであっても、法則性が解明されていれば、遠くの未来を見通すことができるのです。因果律によって、未来が保証されているのです。
私は、ここに不可思議を感じます。時間の流れの中で、未来は確定されたものではないはずです。なにの因果律は、未来を予測可能にし、未来の結果を保証します。時間の流れの上に因果律は成立しています。しかし、因果律は、時間の流れを先取りするのです。
因果律による未来予測に基づき私たちは、行動を律していきます。そして、望ましい未来を出現させる努力します。結果として、未来の結果を左右させることになります。流れに漂っているのにその行き先を知っているのです。考えると頭が無限ループに飲み込まれそうです。
・地質学的素材・
研究の方法や研究者になるための
修行について書こうと
エッセイを始めました。
前回もこのようなパターンでした。
書きはじめると因果律について話が進んでいきました。
実は時間と因果律については興味があり、
以前から論文にまとめようと考えていました。
まだ考えが整理されていなかったので
少しずつ文献は集めていました。
ですから、論文にはまだ着手していませんでした。
今回このエッセイを書きすすめる過程で
少し方向性が見えてきた気がします。
なぜ、地質学者が因果律や
時間について考えるのかというと、
素材がそれらと深い関係があるからです。
地質学とは、過去に形成された地層や岩石を素材します。
素材の中に時間軸を見出し、素材の属性を記載します。
素材の持つ時間軸にそって
過去の変化や変遷を記述していきます。
広域が対象の地質や、
微小部分の鉱物内が対象になることもあります。
しかし、地質学とは、過去に形成された属性のうち
現在に残された過去の記録の断片を読み取っていくことです。
そこから過去を復元していきます。
その復元では因果律は不可欠です。
因果律は時間の流れの中を漂っているのです。
・夏休み・
8月、夏休みです。
皆さんの予定はどうでしょうか。
我が家は、2泊3日で旅行に出かけます。
田舎です。襟裳岬周辺の海岸で遊びます。
磯に行きたという子供たちのリクエストです。
天気次第ですが、
もちろん私が見たいとろこがありますが、
天気次第でどうなるかわかりません。
いつもよく行くところですから
宿泊施設も何度も泊まっています。
そんな行きつけのところをのんびりとまわります。
原子力発電所に続き、北海道や中国の列車事故、航空大学校の飛行機墜落事故など、つぎつぎと事故が報道されています。事故が起これば、警察やメーカーなどによって、原因究明がおこなわれます。原因が究明されることによって、再発の防止や、責任追及がおこなわれます。事故の原因が、一つのこともありますし、複数のことも、あるいは複雑にからみあった原因によるものもあるでしょう。
いずれにしても、なんらかの原因があり、その原因によって事故が引き起こされたとして事故処理は進められます。原因がわかれば、責任の所在が明らかになり、賠償や処罰も客観的にできます。さらに、対処しなければ、同じ条件がそろえば同じ事故を起こすはずです。だからこそ、原因究明は必要なことです。
原因究明をするということは、原因と事故が密接に結びついているという前提があるからこそできることです。普遍化して考えると、何らかの結果(事故)が起こったならば、必ず原因が存在すると考えています。また、原因が出現したら、必然的に結果が生じることになります。原因と結果は必然性によって結びついています。
そこに必然性がないと、結果から原因を追求することができません。法則や規則も一種の原因とみなせ、初期条件から結果を予測できるのです。そこにも必然性が保証されないと、研究や技術の成り立ちません。その必然性が保証されないと、研究や技術を進める動機すら湧かないかもしれません。
科学や技術において、何らかの目標を設定したとします。例えば、ある火山活動を起こしたマグマの成因を探る、あるいは鉱物内の極微量の成分を精度よく測定できるようにすることを目標にしたとしましょう。今までなかった知見や技術を見出すことが目標です。
マグマが固まったものが火山岩ですから、マグマの多様性を網羅するために火山岩が採取しなければなりません。採取した火山岩で必要な化学分析をしなければなりません。それらがすべて満たされたとしましょう。あとは、岩石学で今まで蓄えられてきた知的資産を使えば、マグマの成因を見極めることができます。
こういう手順で進めれるる研究論文が多いのですが、個々の論文の評価として、その火山のそのマグマにおける新知見かもしれませんが、科学的な貢献度は低く、実例が一つ増えたという程度にしかなりません。ただし、量が質を生むことや、基礎データは科学の進歩には不可欠ですので、このような地道な研究も必要なものです。一人前の研究者への訓練として、このような過程を多くの人は経てきています。私もそうでした。ですから、地道な研究を否定するものではありません。必要な研究だと思います。しかし、今までにないマグマの成因や特徴、特異性などを見つけたり、それが広く敷衍できるものであれば、ひとつの研究成果の重要性が増します。つまり、オリジナリティのある研究成果といえます。
その点、今までできなかった鉱物内の微量成分を分析できる技術、あるいは今までより一桁精度の高い分析ができるという技術は、汎用性、普遍性が大きくなります。高精度の分析ができるようになるためには、成分抽出過程の改良、新しい装置の開発、検出器の改良、標準試料の更新、測定プログラムの改善、補正計算の改良など、さまざまなアプローチがあるでしょう。今まで誰もできなかったものにチャレンジすることになります。いろいろなアプローチで一番効果のあるところから手がけられていくはずです。もしその技術が達成されれば、重要な成果となります。技術はいったんできると、多くの人が恩恵を被り、いろいろな応用もできるようになり、利用価値は高くなります。
科学や技術を進める上で、原因を突き止めれば、結果を得、目標を達成できる、できそうだ、という予測を背景にしています。目標を達成するために、必要な試料やデータの入手、クリアーすべき技術的問題などが見極められていくはずです。試料やデータが入手不能、技術的問題が解決不能ならば、その目標は早々に諦められるはずです。多少困難であっても解決の見込みがあれば、努力しだいで目標を達成できることになります。それはチャレンジする価値あるものとなります。
このようなプロセスは見方を変えると、原因(問題解決)と結果(目標達成)という関係が存在するはずという前提をおています。その前提があるため、研究や技術開発に取り組むことができるのです。原因と結果が存在するという前提が、研究動機を支えています。この前提による動機が、目標を達成するというかけ声のもと、科学や技術は進められてきましたし、そして、多分これからも進んでいくでしょう。
原因と結果の関係を、因果律、因果関係、因果性と呼びます。
科学や技術は、因果律のもとに進められています。因果律を前提とするのは、なにも科学や技術の世界だけではありません。私たちは因果律を、無意識に常識として受け入れています。多くのモチベーションは、因果律を前提にできています。
しかし、よくよく考えると、因果律は、本当にすべての事象において存在するのでしょうか。また、因果律に組み込まれている必然性の存在は、本当に確実なものなのでしょうか。そもそもそのような因果律の存在は、証明されているものなのでしょうか。因果律は、もちろん誰も証明していません。多分、証明は難しいでしょう。では、因果律を用いることなく、科学的論証を進めることができるでしょうか。それも、難しいでしょう。
そんな不確かさの上に現在の科学、あるいは現代社会は成立していることになります。あるいは私たちの文明は、因果律の上で展開、発展できたものだけから成り立っている楼閣なのかもしれません。
因果律の成立には、いくつかの前提が必要です。その前提に基づいて因果律は構成されています。因果律の前提をみていきましょう。
まず因果律は、時間の存在を前提とします。もちろん時間の存在を否定する人はいないでしょうが、時間の属性を完全に把握することはなかなか難しく、古くから哲学の重要課題として扱われてきました。ここで議論するには紙面がたりません。時間が存在するとしましょう。
時間には、流れがあり、一方向に、途切れることなく連続しているということ、そしてその連続の中に「現在」が設定できるという前提も必要です。「現在」が設定できれば、「現在」を基準に時間を「過去」と「未来」に区分できます。
次に、時間の流れにおいて、「原因」は前(先、上流)に、「結果」は後(下流)に起こるという前提が必要です。当たり前のようなことですが、原因と結果の前後関係も、因果律における重要な前提となります。この前提も存在しないと、因果律は成り立ちません。
ただし、私たちが何かをしたり、認識できるのは「現在」という微分的な時間においてだけです。「過去」は、「現在」に残留する記録、記憶にのみに内在されます。残留の痕跡は、時間ととも薄れていきます。記録は古いものほど減って行きます。岩石や地層でも同様です。もちろん、「現在」は「過去」の多大な影響の基に存在します。「過去」の積分的総体が「現在」といえます。
「未来」は「現在」の延長でありながら、不確実、未確定なものです。深くていながら、明らかに「過去」や「現在」にも影響されます。「現在」にしか存在できない私たちは、「未来」をすごく意識します。夢とは「未来」を想像ことです。よき「未来」を望むから、「現在」の苦労に耐えられます。「未来」の目標を達成するために、つらい努力もできます。それらはすべて「未来」が私たちに与える影響です。まだ来ぬ「未来」を見つめて、私たちは「現在」を生きているのです。それこそが「未来」が私たちに与える影響、属性といえます。
私たちは、「現在」のみに存在します。「過去」も「未来」も私たちに直接関与できません。「過去」をいじったり、「未来」を事前に知ることことはできません。それをすることは、因果律を破ることになります。タイムマシーンは、因果律を破る存在になります。過去も未来も、概念上、頭の中だけの存在ない泡沫(うたから)の存在なのかもしれないという気もします。
因果律は時間の流れの中に存在します。
もし因果律が正しければという仮定に立てば、ほとんどの物理法則も成り立ちます。たとえば、ニュートンの運動方程式やマクスウェルの電磁気方程式(いずれも微分方程式)によって記述できる世界は、すべて決定論的に結果を予測できます。それらの微分方程式を、ある時刻の初期条件を決めて解けば、ある時刻の状態を解くことができます。時間に制限はありません、過去や未来の状態さえも知ることができます。
ただし、熱力学は統計学的な要素、量子力学ではそれに加えて観測者の影響なども加味しなければならないため、古典的物理学に比べると不確実性が混入しています。しかし、その不確実性は、因果律を破るものではありません。因果律の確度を変動させる程度の範疇に収まるものです。
因果律を認め、物理法則を認めると、過去の原因によって導かれる現在の結果はすべて決定論的に知ることができます。物理法則には、過去や未来などとういう時間の制限はつきませんから、未来も一義的に予測可能となります。どんなに複雑なものであっても、法則性が解明されていれば、遠くの未来を見通すことができるのです。因果律によって、未来が保証されているのです。
私は、ここに不可思議を感じます。時間の流れの中で、未来は確定されたものではないはずです。なにの因果律は、未来を予測可能にし、未来の結果を保証します。時間の流れの上に因果律は成立しています。しかし、因果律は、時間の流れを先取りするのです。
因果律による未来予測に基づき私たちは、行動を律していきます。そして、望ましい未来を出現させる努力します。結果として、未来の結果を左右させることになります。流れに漂っているのにその行き先を知っているのです。考えると頭が無限ループに飲み込まれそうです。
・地質学的素材・
研究の方法や研究者になるための
修行について書こうと
エッセイを始めました。
前回もこのようなパターンでした。
書きはじめると因果律について話が進んでいきました。
実は時間と因果律については興味があり、
以前から論文にまとめようと考えていました。
まだ考えが整理されていなかったので
少しずつ文献は集めていました。
ですから、論文にはまだ着手していませんでした。
今回このエッセイを書きすすめる過程で
少し方向性が見えてきた気がします。
なぜ、地質学者が因果律や
時間について考えるのかというと、
素材がそれらと深い関係があるからです。
地質学とは、過去に形成された地層や岩石を素材します。
素材の中に時間軸を見出し、素材の属性を記載します。
素材の持つ時間軸にそって
過去の変化や変遷を記述していきます。
広域が対象の地質や、
微小部分の鉱物内が対象になることもあります。
しかし、地質学とは、過去に形成された属性のうち
現在に残された過去の記録の断片を読み取っていくことです。
そこから過去を復元していきます。
その復元では因果律は不可欠です。
因果律は時間の流れの中を漂っているのです。
・夏休み・
8月、夏休みです。
皆さんの予定はどうでしょうか。
我が家は、2泊3日で旅行に出かけます。
田舎です。襟裳岬周辺の海岸で遊びます。
磯に行きたという子供たちのリクエストです。
天気次第ですが、
もちろん私が見たいとろこがありますが、
天気次第でどうなるかわかりません。
いつもよく行くところですから
宿泊施設も何度も泊まっています。
そんな行きつけのところをのんびりとまわります。
2011年7月1日金曜日
114 心のビタミン:数学的論理不足
人にはそれぞれ心にちょっとした満足感を与えてくれるビタミン剤のようなものが必要なのかもしれません。長期にわたってビタミンが不足すると、いつしか心に不調や飢餓感が生まれてくるのかもしれません。そんなときビタミンが欲しくなります。私とってビタミンは、「数学的論理」なのかもしれません。
小学校で習う算数。そして中学校からの数学。小学校や中学校の間に、苦手意識をもってしまうと、以降、あるいは一生、数学アレルギー、あるいは数字にすら嫌悪感を持つ人もいるようです。幸いなことに、私は苦手意識を持つことなく、数学の問題を解く楽しみ、解けたときの快感などを感じることができ、好きな科目となりました。そして、大学入試でも、数学は得意な科目でした。ただし、数学を専門にするほど興味も能力もないことも、その途上で感じていました。
その後私は、地質学を研究する道を選んだのですが、野外調査や分析に多くの時間を割くようになり、数学を用いる機会はかなり減りました。ただコンピュータを用いてプログラムを作成する時期が何年かありました。当時は今のように便利なアプリケーションなどない時代で、BASICで必要な計算を自作をプログラムでする時代でありました。
電卓ではすぐにはできないよう標準偏差や回帰直線を求める計算でも、ササッとプログラムを組んで、即座に結果をみて、検討するようになっていました。ただし、大量のデータ処理や複雑な処理は、多くの時間をかけてプログラムを作成していました。岩石や鉱物の化学分析値を処理したり、年代測定値の計算、重みをつけた最小二乗法や線形計画法による計算、対数軸のグラフや三角図などへのプロットの作画など、ややこしい計算をしなければならないプログラムも作成をしていました。
複雑な処理において、計算式自体はどんなにややこしくても一度で書き上げて完成してしまえば、プログラム上ではまったく修正することはありません。ただ、コンピュータを操作する上で、データ入力や画面表示、印刷形式などの別の部分のプラグラム作成や修正、改良に多くの時間と労力を割くことになりました。ただプログラム自体は論理的で、0(ゼロ)とO(アルファベットのオー)の間違いや、小数点の位置、入力間違いなど、少しでもミスがあると、正常な動きはしません。複雑になればなるほど、そのデバック作業に多くの時間を費やしました。そして、プログラムがうまく作動したときには、数学の難問を解いたときと同じような快感を得られました。
しかし、プログラムも、ほとんど作成しなくなってきました。そんなデータ処理作業が減ってきたこともあるのですが、なによりアプリケーションの性能がよくなり多くのことが処理できるようになってきたこと、パソコンの性能もよくなりアプリケーションでも大量処理が可能になってきたこともあります。
私が作成した最後のプログラムは、もう6年ほど前になります。地形の数値標高データの用いて計算するものです。計算自体はそれほど難しくありません。ただ大量の処理することと、久しぶりのプログラム作成作業だったので手間どりましたが、なんとか仕上げました。そして実際に処理をしました。作業は大量のデータファイルを繰り返しで処理していくので、全部を処理するのに、パソコンを動かしっぱなしで数日ほどかかりました。サブのパソコンに処理をさせていたので、余計に時間がかかりました。
データ処理を終わって感激はありましたが、それほどではありませんでした。むしろプログラムの完成の時の方が、感動が大きかった覚えがあります。そのデータは一度できると、同じ処理はもうしなくてもよくなります。ですから、そのプログラムは二度と使うことはないでしょう。
研究者が作成するプログラムというのは、明確な目的があります。プログラムによる結果が欲しいのです。プログラムとは、その結果を得るための手段にすぎません。そのプログラムで得られた結果、私の場合は処理された地形データが必要なのです。研究の目標は、その先にあるのです。ところが、その先の目標達成を達成しても、満足感が少ないのです。時間をかけて、議論して文章を書き進めれば論文という成果は得られます。なのに満足感が少ないというのは、どういうことなのでしょうか。目標への手段作成に感動し、目標達成にはさほど満足感を得られないという主客転倒の状態は、少々不思議な気がします。これは、私だけの問題でしょうか。
今では、プログラムを作成して計算をすることもなくなりました。今後もあまりなさそうです。データの管理は専用データベースのアプリケーションで、データ処理は表計算アプリケーションで、グラフの作成はグラフ用アプリケーションで、作図は作図用アプリケーションがあります。表示も印刷もそれぞれのアプリケーションで自由自在に、そしてきれいに処理できてしまいます。
そのような目的毎のアプリケーションの使用によって、今まで苦労していたプログラム作成の作業から開放されたわけです。喜ぶべきことなのでしょう。今や研究上の作業を、手作業でもどるには、もはや不可能なほど、アプリケーションに依存した複雑な作業をこなしています。明らかに生産量は増えています。
プログラム作成における計算式以外の部分は、本来の研究からすると、枝葉末節の部分だったはずなのですが、実際には多くの時間を割いていました。その完成に、なぜか快感を覚えていました。今やそんな不要な労力はなくなりましたが、その感動も同時になくなりました。
今まで接したことない画像処理でも、その原理も手法、計算法もよくわからない分野の方法論でも、結果だけ見て納得のいくものであれば、よしとして利用するようになりました。深入りするにはあまりに複雑な世界です。ですから、アプリケーションの中身は、ブラックボックスですませて、結果だけを客観性のあるデータとみなして利用しています。デジタル写真画像は、本当に現実を記録しているのでしょうか。あるいはすべてデジタル化された仮想の世界なのでしょうか。私が用いている画像には、どの程度の仮想が侵入しているのでしょうか。ブラックボックスとなっているため、現実と仮想の割合も分からなくなりました。
地形データを処理して、景観に反映されている地質や、地形の由来などを題材にしてエッセイを6年以上書き続けて発行しています。かつてプログラムを作成して処理したデータも、この目的のためでもありました。もちろん何本かの論文にも使用しましたが。現在では計算やプログラムもすることもなく、以前処理したデータを地図用ソフトで表示し、いい画角の画像を切り取り、画像の形式変換するだけでルーティン化してしまっています。なん日もかけて大量のデータ処理をした時代が、6年ほど前が、大昔のように感じてしまいます。
私には今や個人レベルでプログラムする機会はほとんどありません。これからもないでしょう。私が得ていた満足感の根源は、数学的なあるいは論理的な問題に接っし、対峙し、解消することで得られるものだったのでしょう。そんな機会が現在では極端に減った、あるいはなくなってしまったのが現状です。あの快感はもう得られないのでしょうか。その満足感の不足が、潜在的な飢餓感になっているのかもしれません。
先日、中学2年生の長男が数学検定を受けて、その問題をもって帰りました。数学検定には、計算問題(1次検定)と数理応用と呼ばれる証明や幾何学の問題(2次検定)があります。長男がもって帰った問題を答え合わせを兼ねて解いていきました。計算問題は簡単に解けるのですが、証明問題の方がなかなか手ごわい問題があります。証明問題の途中で疲れて投げ出しましたが、久しぶりに数学を解く苦労と快感を味わいました。
ここ数年、プログラムをしなかったせいか、どうも数学や論理的問題を解く快感に飢えているようです。一種の頭や心の栄養失調のようです。その快感は私にとっては、体におけるビタミンのようなものでしょう。
ビタミン補給のために、数学、趣味として数学の勉強をしようかと考えました。そこで、高校数学や整数論、巨大数などの本をデジタルで入手しました。ところが、どうも正面きって取り組む気持ちが湧いてきません。デジタルのせいかと思い、手元にある紙の本を見てみましたが、それなりの興味があるのですが、続けて読み進める気になりません。やはり必要性がないと、なかなか時間をかけて、心を傾けて向き合えないようです。それらの本は開くことはなくなりました。
数学の問題以上に、私にはこの「論理不足」がなかなか難問です。どう対処していいかは、まだ未解決なのです。
・夏・
いよいよ7月です。
北海道も暑さを感じるようになりました。
例年の夏とは違いますが、
こんな夏もあるのでしょう。
ただここ数日は、湿度が高く
少々蒸し暑い日々が続いています。
大学では、7月一杯が授業で、
8月はじめに定期テストです。
一番暑い時期に定期テストをするのは
いかがなものでしょう。
北海道の大学教室には冷房などありません。
本末転倒のような感じもしますが。
定期テストの後、学生は授業からは解放されます
夏休みは、9月下旬まで続きます。
ただし、教員は定期テストの直後から
採点と成績評価をしなければなりません。
お盆前後は忙しくなります。
まあグチをいっても始まりません。
淡々と与えられた仕事をこなしていきましょう。
・本末転倒・
このエッセイは、当初
ゲーデルの不確定性原理について書くつもりでした。
それについてデータも集め、読み込んでもいました。
しかし、実際に書き始めていくと、
前書きのつもりで書き始めた文章が
ついつい違う方に話が進みだして、
止まらなくなりました。
気づいたら、前書きの何倍もの分量になっていました。
そこで、前書きを本論にして
今回のエッセイを仕上げてしまいました。
これも本末転倒の例なのでしょうね。
小学校で習う算数。そして中学校からの数学。小学校や中学校の間に、苦手意識をもってしまうと、以降、あるいは一生、数学アレルギー、あるいは数字にすら嫌悪感を持つ人もいるようです。幸いなことに、私は苦手意識を持つことなく、数学の問題を解く楽しみ、解けたときの快感などを感じることができ、好きな科目となりました。そして、大学入試でも、数学は得意な科目でした。ただし、数学を専門にするほど興味も能力もないことも、その途上で感じていました。
その後私は、地質学を研究する道を選んだのですが、野外調査や分析に多くの時間を割くようになり、数学を用いる機会はかなり減りました。ただコンピュータを用いてプログラムを作成する時期が何年かありました。当時は今のように便利なアプリケーションなどない時代で、BASICで必要な計算を自作をプログラムでする時代でありました。
電卓ではすぐにはできないよう標準偏差や回帰直線を求める計算でも、ササッとプログラムを組んで、即座に結果をみて、検討するようになっていました。ただし、大量のデータ処理や複雑な処理は、多くの時間をかけてプログラムを作成していました。岩石や鉱物の化学分析値を処理したり、年代測定値の計算、重みをつけた最小二乗法や線形計画法による計算、対数軸のグラフや三角図などへのプロットの作画など、ややこしい計算をしなければならないプログラムも作成をしていました。
複雑な処理において、計算式自体はどんなにややこしくても一度で書き上げて完成してしまえば、プログラム上ではまったく修正することはありません。ただ、コンピュータを操作する上で、データ入力や画面表示、印刷形式などの別の部分のプラグラム作成や修正、改良に多くの時間と労力を割くことになりました。ただプログラム自体は論理的で、0(ゼロ)とO(アルファベットのオー)の間違いや、小数点の位置、入力間違いなど、少しでもミスがあると、正常な動きはしません。複雑になればなるほど、そのデバック作業に多くの時間を費やしました。そして、プログラムがうまく作動したときには、数学の難問を解いたときと同じような快感を得られました。
しかし、プログラムも、ほとんど作成しなくなってきました。そんなデータ処理作業が減ってきたこともあるのですが、なによりアプリケーションの性能がよくなり多くのことが処理できるようになってきたこと、パソコンの性能もよくなりアプリケーションでも大量処理が可能になってきたこともあります。
私が作成した最後のプログラムは、もう6年ほど前になります。地形の数値標高データの用いて計算するものです。計算自体はそれほど難しくありません。ただ大量の処理することと、久しぶりのプログラム作成作業だったので手間どりましたが、なんとか仕上げました。そして実際に処理をしました。作業は大量のデータファイルを繰り返しで処理していくので、全部を処理するのに、パソコンを動かしっぱなしで数日ほどかかりました。サブのパソコンに処理をさせていたので、余計に時間がかかりました。
データ処理を終わって感激はありましたが、それほどではありませんでした。むしろプログラムの完成の時の方が、感動が大きかった覚えがあります。そのデータは一度できると、同じ処理はもうしなくてもよくなります。ですから、そのプログラムは二度と使うことはないでしょう。
研究者が作成するプログラムというのは、明確な目的があります。プログラムによる結果が欲しいのです。プログラムとは、その結果を得るための手段にすぎません。そのプログラムで得られた結果、私の場合は処理された地形データが必要なのです。研究の目標は、その先にあるのです。ところが、その先の目標達成を達成しても、満足感が少ないのです。時間をかけて、議論して文章を書き進めれば論文という成果は得られます。なのに満足感が少ないというのは、どういうことなのでしょうか。目標への手段作成に感動し、目標達成にはさほど満足感を得られないという主客転倒の状態は、少々不思議な気がします。これは、私だけの問題でしょうか。
今では、プログラムを作成して計算をすることもなくなりました。今後もあまりなさそうです。データの管理は専用データベースのアプリケーションで、データ処理は表計算アプリケーションで、グラフの作成はグラフ用アプリケーションで、作図は作図用アプリケーションがあります。表示も印刷もそれぞれのアプリケーションで自由自在に、そしてきれいに処理できてしまいます。
そのような目的毎のアプリケーションの使用によって、今まで苦労していたプログラム作成の作業から開放されたわけです。喜ぶべきことなのでしょう。今や研究上の作業を、手作業でもどるには、もはや不可能なほど、アプリケーションに依存した複雑な作業をこなしています。明らかに生産量は増えています。
プログラム作成における計算式以外の部分は、本来の研究からすると、枝葉末節の部分だったはずなのですが、実際には多くの時間を割いていました。その完成に、なぜか快感を覚えていました。今やそんな不要な労力はなくなりましたが、その感動も同時になくなりました。
今まで接したことない画像処理でも、その原理も手法、計算法もよくわからない分野の方法論でも、結果だけ見て納得のいくものであれば、よしとして利用するようになりました。深入りするにはあまりに複雑な世界です。ですから、アプリケーションの中身は、ブラックボックスですませて、結果だけを客観性のあるデータとみなして利用しています。デジタル写真画像は、本当に現実を記録しているのでしょうか。あるいはすべてデジタル化された仮想の世界なのでしょうか。私が用いている画像には、どの程度の仮想が侵入しているのでしょうか。ブラックボックスとなっているため、現実と仮想の割合も分からなくなりました。
地形データを処理して、景観に反映されている地質や、地形の由来などを題材にしてエッセイを6年以上書き続けて発行しています。かつてプログラムを作成して処理したデータも、この目的のためでもありました。もちろん何本かの論文にも使用しましたが。現在では計算やプログラムもすることもなく、以前処理したデータを地図用ソフトで表示し、いい画角の画像を切り取り、画像の形式変換するだけでルーティン化してしまっています。なん日もかけて大量のデータ処理をした時代が、6年ほど前が、大昔のように感じてしまいます。
私には今や個人レベルでプログラムする機会はほとんどありません。これからもないでしょう。私が得ていた満足感の根源は、数学的なあるいは論理的な問題に接っし、対峙し、解消することで得られるものだったのでしょう。そんな機会が現在では極端に減った、あるいはなくなってしまったのが現状です。あの快感はもう得られないのでしょうか。その満足感の不足が、潜在的な飢餓感になっているのかもしれません。
先日、中学2年生の長男が数学検定を受けて、その問題をもって帰りました。数学検定には、計算問題(1次検定)と数理応用と呼ばれる証明や幾何学の問題(2次検定)があります。長男がもって帰った問題を答え合わせを兼ねて解いていきました。計算問題は簡単に解けるのですが、証明問題の方がなかなか手ごわい問題があります。証明問題の途中で疲れて投げ出しましたが、久しぶりに数学を解く苦労と快感を味わいました。
ここ数年、プログラムをしなかったせいか、どうも数学や論理的問題を解く快感に飢えているようです。一種の頭や心の栄養失調のようです。その快感は私にとっては、体におけるビタミンのようなものでしょう。
ビタミン補給のために、数学、趣味として数学の勉強をしようかと考えました。そこで、高校数学や整数論、巨大数などの本をデジタルで入手しました。ところが、どうも正面きって取り組む気持ちが湧いてきません。デジタルのせいかと思い、手元にある紙の本を見てみましたが、それなりの興味があるのですが、続けて読み進める気になりません。やはり必要性がないと、なかなか時間をかけて、心を傾けて向き合えないようです。それらの本は開くことはなくなりました。
数学の問題以上に、私にはこの「論理不足」がなかなか難問です。どう対処していいかは、まだ未解決なのです。
・夏・
いよいよ7月です。
北海道も暑さを感じるようになりました。
例年の夏とは違いますが、
こんな夏もあるのでしょう。
ただここ数日は、湿度が高く
少々蒸し暑い日々が続いています。
大学では、7月一杯が授業で、
8月はじめに定期テストです。
一番暑い時期に定期テストをするのは
いかがなものでしょう。
北海道の大学教室には冷房などありません。
本末転倒のような感じもしますが。
定期テストの後、学生は授業からは解放されます
夏休みは、9月下旬まで続きます。
ただし、教員は定期テストの直後から
採点と成績評価をしなければなりません。
お盆前後は忙しくなります。
まあグチをいっても始まりません。
淡々と与えられた仕事をこなしていきましょう。
・本末転倒・
このエッセイは、当初
ゲーデルの不確定性原理について書くつもりでした。
それについてデータも集め、読み込んでもいました。
しかし、実際に書き始めていくと、
前書きのつもりで書き始めた文章が
ついつい違う方に話が進みだして、
止まらなくなりました。
気づいたら、前書きの何倍もの分量になっていました。
そこで、前書きを本論にして
今回のエッセイを仕上げてしまいました。
これも本末転倒の例なのでしょうね。
2011年6月1日水曜日
113 凡庸性原理
凡庸さとは、ありふれたことですが、本当に凡庸な存在など存在するのでしょうか。かつて、太陽系や地球、生命、知性に対し、凡庸性が適用されました。その適用は正しかったのでしょうか。今では地球の特異性がみえてきました。凡庸性の行き過ぎた適用だったのでしょうか。凡用性原理について考えていきましょう。
「凡庸(ぼんよう)」とは、ありふれた並(なみ)のことで、目立つことのない、平凡、平均的なことです。凡庸に当たる英語として、「mediocrity」という言葉があります。この「凡庸さ」が、科学の世界では、重要な意味をもつことがあります。
凡庸さを原理とした「Principle of Mediocrity」というものがあります。「凡庸性原理」という呼び名はなく、「月並み原理」という訳語が使われることがあります。「月並み」という言葉には、否定的意味がありますが、凡庸にもそれほと肯定的ではない意味合いがあり、同じようなことなのでしょう。私は、タイトルにした「凡庸性原理」が気に入っているのですが、このエッセイの中では、「メディオクオリティの原理」(仮説と呼ばれることもあります)ということにしましょう。
「メディオクオリティの原理」は、「Principle of Indifference」(平凡の原理)や「Copernican Principle」(コペルニクスの原理)とも呼ばれることもあります。「Principle of Indifference」は、mediocrityを同義のIndifferenceに言い換えたもので、同じ意味になっています。
注意が必要なのが、「コペルニクスの原理」です。「コペルニクスの原理」は、「コペルニクス的転回」とは違います。「コペルニクス的転回」は、有名な言葉ですが、天動説(地球が宇宙の中心)から地動説(太陽の周りを地球などが回る)という説を提唱したコペルニクスが起こした認識の大転換をいいます。哲学者のカントが用いた言葉だそうで、一種のパラダイム転換を意味する言葉です。
コペルニクスが地動説で示した重要な意義は、地球は太陽系では特別な天体ではなく、多数ある惑星のひとつに過ぎないということです。この考えを敷衍すれば、地球は、太陽系は、銀河系は特別なものではなく多数のうちのひとつにすぎず、生命は、ほ乳類は、人類は特別な存在ではないことになります。この考えは、「メディオクオリティの原理」そのものです。
「コペルニクスの原理」という表現は、混乱を招くので、「メディオクオリティの原理」を用いるほうがいいでしょう。
さて、メディオクオリティの原理とは、その「凡庸さ」を逆手にとって、論理をすすめる方法です。手がかりがまったくない状態でも、「凡庸さ」を根拠に論理をとりあえず展開していくことができます。少々強引なところがありますが、なんとかして、見通しや結果が欲しい時に、まったくお手上げになるよりは、「メディオクオリティの原理」で進むほうがいいわけです。凡庸さ故に、前進できるのかもしれません。
メディオクオリティの原理が利用された例として、知的生命の存在確率の計算が有名です。知的生命の存在の可能性を、銀河系の天体数(天体の誕生率×文明の存続期間とすることもある)と、知的生命が存在するための様々な要因の可能性(1から0の値)の積としてを求めるものです。要因として、恒星が惑星をもつ確率、生命が存在できる領域(ハビタブルゾーン)に惑星がある確率、生命が発生する確率、生命が知的生命体にまで進化する確率、知的生命体が文明持つ確率、などが挙げられています。これらの要因は、いずれもて不確かで、桁数くらいしかわからないものも、見当すらつかないものまであります。
銀河には、数千億(我々の銀河は2000億~4000億程度と考えられています)個の恒星があると見積もられています。この恒星には、生命が生存できる可能性の天体はどれくらいあるかを見積もります。ところが、地球外の生命についてはまったく情報はありません。地球外生命や人類以外の知性などの中には、現状の知識では推定不能なもの、信頼のできるデータもないものがいくつかあります。その時、地球や地球の生物、ヒトを参考にしていこうというのが、メディオクオリティの原理です。
太陽系の形成モデルでは、原始太陽系分子雲から恒星や惑星が必然的に形成される、どこにでも適用してもいい普遍性のあるモデルでした。コンピュータのシミュレーションでも、同じ結果が得られていました。ですから、太陽系での惑星形成は、ごくありふれたプロセスだと考えられました。
地球生命は、惑星系で水が長期間安定して存在できる環境を前提に発生し、進化し、そしてやがて知的生命であるヒトが生まれ、文明が誕生し、現在の科学技術に基づく社会を生み出しました。この条件を「メディオクオリティの原理」として受け入れ、可能性を推定していくわけです。
太陽系には大きな惑星は10個ほどあり、そのうち水が存在できそうな天体は2個(地球と火星)ですから、確率は0.2です。そのうち、水惑星の環境が維持できたのは、地球だけで、0.5です。
生命の誕生の可能性は不明ですが、環境が整えば生命が発生できると考えれば、1になります。そうすると火星でも生命が発生できた可能性があります。もし火星には発生せず、地球にだけ発生したとするのなら、0.5になります。今のところ火星の生命の確実な証拠はありません。慎重派なら0.5を、火星生命誕生の可能性を信じる人(楽観主義的立場)なら、1となります。
このような推定をしながら、知的生命の存在の可能性の概数を求めていくわけです。
このプロセスにおいて一番重要なことは、残念ながらメディオクオリティ原理を適用してとりあえずの結果がでたとしても、その数値には確かさの保証がないということです。とりあえずの方便(ほうべん)のような手法をとっているので、結果に科学的、論理的に根拠がないのです。
さらにいえば、そもそも我々の存在が、本当に凡庸さの中にあるのかという疑問です。私たちの太陽系は、本当に当たり前の惑星系なのでしょうか。地球は本当に惑星の中で典型な惑星としていいのでしょうか。
新たな観測事実によって、私たちの「凡庸さ」の評価が変わりつつあります。近年、太陽系以外の恒星で、惑星がいくつも発見されてきました。いろいろな手法で探査されてきましたが、その中で、多様な惑星系があることが判明してきました。
最初に見つかったのは、ホットジュピータ(熱い木星)と呼ばれる惑星でした。ホットジュピターとは、公転半径が小さく公転周期が短い木星程度の大きさで、太陽に近いところを回るため非常に熱くなっていると予想される惑星です。
ホットジュピターの他にも、離心率の大きい、つまり長い楕円軌道をもつ高温期と低温期を繰り返す巨大惑星(エキセントリック・プラネット)も発見されています。ホットジュピターとエキセントリック・プラネットの比率は、これまでに発見された系外惑星で大半(百数十個のうち百個ほど)といっていいほどを占めています。つまり、どうも太陽系のような惑星系はありふれたものではないようなのです。
現在も探査は継続され、NASAの探査機「ケプラー」は、太陽系外惑星を探す目的で、2009年3月に打ち上げられ、6月には運用が始まりました。10万個の候補から、惑星系、特に生命が存在できる領域(ハビタブルゾーン)での地球型惑星を見つけることが最大の目的となっています。つまり、第二の地球、そして生命や知的生命の可能性が考えられるような惑星を探索することです。
その惑星の発見は、2010年1月に最初の惑星が報告されて以来、続々と発見されてきました。2011年5月23日までに、11個の惑星系の存在が確認されています。ケプラー探査機以前にも見つかっていた地球外惑星の多くはホットジュピターやエキセントリック・プラネットでしたが、ケプラーによる最初の発見も、ホットジュピターでした。
ケプラーが発見した惑星の半分は、ホットジュピターです。ただし、生命が存在できる領域にある地球型惑星も6個、発見されています。また、1000個以上の惑星候補があります。そのうち300個ほどが地球程度の大きさの候補だと考えられています。
見つかっているいずれの地球型惑星も、地球とは似て非なるもので、大きかったり、寒かったり、暑かったりで、そっくりというものはまだ見つかっていません。地球型惑星があまり見つから理由は、遠くの小さな惑星を見つけるのは難しいこともあるでしょうが、もしかすると、地球型惑星は凡庸ではなく、特異な存在なためかもしれません。
ハビタルゾーンや生命誕生には、それなりの許容範囲があるでしょう。ですが、条件や環境が違えば、たとえ生命が誕生してもタイプが異なったり、違った進化をしたり、全く異質な生態系になっているかもしれません。そんな条件では知性や文明は出現しないかもしれません。
現在のところ、発見されている惑星には、多様さが目立ちます。もしかすると、多様さこそが惑星系の本質なのかもしれません。そうなると、太陽系という特異な惑星系の中の、特異な惑星として地球が位置づくのかもしれません。地球は、「凡庸」ではなく「特異な」天体であったのかもしれません。我々生命も、ヒトという知的生命も、我々の文明や技術も、特異な存在なのかもしれません。地球外知的生命は、さらに特異で、知的コミュニケーションができるような存在は、同時期には存在しえないのかもしれません。我々は今現在の宇宙では、孤独な存在なのでしょうか。凡庸と特異が間(はざま)が、まだまた埋まりそうにありません。
・運動会・
6月になりました。
北海道は5月中は肌寒い曇天が続きましたが、
5月の最下旬になって、やっと暖かくなってきました。
ただ、からりとした天気がなかなかきませんが。
いよいよ北海道は、運動会のシーズンになってきました。
若葉の頃の運動会でから、天気さえよければ、
清々しくて気持ちのいいものになります。
しかし、天気ばかりは心配しても仕方がありません。
・凡庸と特異の間・
平凡であることがいいのか。
特異であることがいいのか。
2分法で考えるべき問題ではないでしょうし、
現実は折衷てきなものが多いはずです。
ある時は平凡で、別の時には個性的で
あるべきなのかもしれません。
平凡である続けることも、個性的であり続けることも
「特異な個別」ではないでしょうか。
平凡と特異を行き来することこそが、
「凡庸な一般」の特性ではないでしょうか。
「凡庸(ぼんよう)」とは、ありふれた並(なみ)のことで、目立つことのない、平凡、平均的なことです。凡庸に当たる英語として、「mediocrity」という言葉があります。この「凡庸さ」が、科学の世界では、重要な意味をもつことがあります。
凡庸さを原理とした「Principle of Mediocrity」というものがあります。「凡庸性原理」という呼び名はなく、「月並み原理」という訳語が使われることがあります。「月並み」という言葉には、否定的意味がありますが、凡庸にもそれほと肯定的ではない意味合いがあり、同じようなことなのでしょう。私は、タイトルにした「凡庸性原理」が気に入っているのですが、このエッセイの中では、「メディオクオリティの原理」(仮説と呼ばれることもあります)ということにしましょう。
「メディオクオリティの原理」は、「Principle of Indifference」(平凡の原理)や「Copernican Principle」(コペルニクスの原理)とも呼ばれることもあります。「Principle of Indifference」は、mediocrityを同義のIndifferenceに言い換えたもので、同じ意味になっています。
注意が必要なのが、「コペルニクスの原理」です。「コペルニクスの原理」は、「コペルニクス的転回」とは違います。「コペルニクス的転回」は、有名な言葉ですが、天動説(地球が宇宙の中心)から地動説(太陽の周りを地球などが回る)という説を提唱したコペルニクスが起こした認識の大転換をいいます。哲学者のカントが用いた言葉だそうで、一種のパラダイム転換を意味する言葉です。
コペルニクスが地動説で示した重要な意義は、地球は太陽系では特別な天体ではなく、多数ある惑星のひとつに過ぎないということです。この考えを敷衍すれば、地球は、太陽系は、銀河系は特別なものではなく多数のうちのひとつにすぎず、生命は、ほ乳類は、人類は特別な存在ではないことになります。この考えは、「メディオクオリティの原理」そのものです。
「コペルニクスの原理」という表現は、混乱を招くので、「メディオクオリティの原理」を用いるほうがいいでしょう。
さて、メディオクオリティの原理とは、その「凡庸さ」を逆手にとって、論理をすすめる方法です。手がかりがまったくない状態でも、「凡庸さ」を根拠に論理をとりあえず展開していくことができます。少々強引なところがありますが、なんとかして、見通しや結果が欲しい時に、まったくお手上げになるよりは、「メディオクオリティの原理」で進むほうがいいわけです。凡庸さ故に、前進できるのかもしれません。
メディオクオリティの原理が利用された例として、知的生命の存在確率の計算が有名です。知的生命の存在の可能性を、銀河系の天体数(天体の誕生率×文明の存続期間とすることもある)と、知的生命が存在するための様々な要因の可能性(1から0の値)の積としてを求めるものです。要因として、恒星が惑星をもつ確率、生命が存在できる領域(ハビタブルゾーン)に惑星がある確率、生命が発生する確率、生命が知的生命体にまで進化する確率、知的生命体が文明持つ確率、などが挙げられています。これらの要因は、いずれもて不確かで、桁数くらいしかわからないものも、見当すらつかないものまであります。
銀河には、数千億(我々の銀河は2000億~4000億程度と考えられています)個の恒星があると見積もられています。この恒星には、生命が生存できる可能性の天体はどれくらいあるかを見積もります。ところが、地球外の生命についてはまったく情報はありません。地球外生命や人類以外の知性などの中には、現状の知識では推定不能なもの、信頼のできるデータもないものがいくつかあります。その時、地球や地球の生物、ヒトを参考にしていこうというのが、メディオクオリティの原理です。
太陽系の形成モデルでは、原始太陽系分子雲から恒星や惑星が必然的に形成される、どこにでも適用してもいい普遍性のあるモデルでした。コンピュータのシミュレーションでも、同じ結果が得られていました。ですから、太陽系での惑星形成は、ごくありふれたプロセスだと考えられました。
地球生命は、惑星系で水が長期間安定して存在できる環境を前提に発生し、進化し、そしてやがて知的生命であるヒトが生まれ、文明が誕生し、現在の科学技術に基づく社会を生み出しました。この条件を「メディオクオリティの原理」として受け入れ、可能性を推定していくわけです。
太陽系には大きな惑星は10個ほどあり、そのうち水が存在できそうな天体は2個(地球と火星)ですから、確率は0.2です。そのうち、水惑星の環境が維持できたのは、地球だけで、0.5です。
生命の誕生の可能性は不明ですが、環境が整えば生命が発生できると考えれば、1になります。そうすると火星でも生命が発生できた可能性があります。もし火星には発生せず、地球にだけ発生したとするのなら、0.5になります。今のところ火星の生命の確実な証拠はありません。慎重派なら0.5を、火星生命誕生の可能性を信じる人(楽観主義的立場)なら、1となります。
このような推定をしながら、知的生命の存在の可能性の概数を求めていくわけです。
このプロセスにおいて一番重要なことは、残念ながらメディオクオリティ原理を適用してとりあえずの結果がでたとしても、その数値には確かさの保証がないということです。とりあえずの方便(ほうべん)のような手法をとっているので、結果に科学的、論理的に根拠がないのです。
さらにいえば、そもそも我々の存在が、本当に凡庸さの中にあるのかという疑問です。私たちの太陽系は、本当に当たり前の惑星系なのでしょうか。地球は本当に惑星の中で典型な惑星としていいのでしょうか。
新たな観測事実によって、私たちの「凡庸さ」の評価が変わりつつあります。近年、太陽系以外の恒星で、惑星がいくつも発見されてきました。いろいろな手法で探査されてきましたが、その中で、多様な惑星系があることが判明してきました。
最初に見つかったのは、ホットジュピータ(熱い木星)と呼ばれる惑星でした。ホットジュピターとは、公転半径が小さく公転周期が短い木星程度の大きさで、太陽に近いところを回るため非常に熱くなっていると予想される惑星です。
ホットジュピターの他にも、離心率の大きい、つまり長い楕円軌道をもつ高温期と低温期を繰り返す巨大惑星(エキセントリック・プラネット)も発見されています。ホットジュピターとエキセントリック・プラネットの比率は、これまでに発見された系外惑星で大半(百数十個のうち百個ほど)といっていいほどを占めています。つまり、どうも太陽系のような惑星系はありふれたものではないようなのです。
現在も探査は継続され、NASAの探査機「ケプラー」は、太陽系外惑星を探す目的で、2009年3月に打ち上げられ、6月には運用が始まりました。10万個の候補から、惑星系、特に生命が存在できる領域(ハビタブルゾーン)での地球型惑星を見つけることが最大の目的となっています。つまり、第二の地球、そして生命や知的生命の可能性が考えられるような惑星を探索することです。
その惑星の発見は、2010年1月に最初の惑星が報告されて以来、続々と発見されてきました。2011年5月23日までに、11個の惑星系の存在が確認されています。ケプラー探査機以前にも見つかっていた地球外惑星の多くはホットジュピターやエキセントリック・プラネットでしたが、ケプラーによる最初の発見も、ホットジュピターでした。
ケプラーが発見した惑星の半分は、ホットジュピターです。ただし、生命が存在できる領域にある地球型惑星も6個、発見されています。また、1000個以上の惑星候補があります。そのうち300個ほどが地球程度の大きさの候補だと考えられています。
見つかっているいずれの地球型惑星も、地球とは似て非なるもので、大きかったり、寒かったり、暑かったりで、そっくりというものはまだ見つかっていません。地球型惑星があまり見つから理由は、遠くの小さな惑星を見つけるのは難しいこともあるでしょうが、もしかすると、地球型惑星は凡庸ではなく、特異な存在なためかもしれません。
ハビタルゾーンや生命誕生には、それなりの許容範囲があるでしょう。ですが、条件や環境が違えば、たとえ生命が誕生してもタイプが異なったり、違った進化をしたり、全く異質な生態系になっているかもしれません。そんな条件では知性や文明は出現しないかもしれません。
現在のところ、発見されている惑星には、多様さが目立ちます。もしかすると、多様さこそが惑星系の本質なのかもしれません。そうなると、太陽系という特異な惑星系の中の、特異な惑星として地球が位置づくのかもしれません。地球は、「凡庸」ではなく「特異な」天体であったのかもしれません。我々生命も、ヒトという知的生命も、我々の文明や技術も、特異な存在なのかもしれません。地球外知的生命は、さらに特異で、知的コミュニケーションができるような存在は、同時期には存在しえないのかもしれません。我々は今現在の宇宙では、孤独な存在なのでしょうか。凡庸と特異が間(はざま)が、まだまた埋まりそうにありません。
・運動会・
6月になりました。
北海道は5月中は肌寒い曇天が続きましたが、
5月の最下旬になって、やっと暖かくなってきました。
ただ、からりとした天気がなかなかきませんが。
いよいよ北海道は、運動会のシーズンになってきました。
若葉の頃の運動会でから、天気さえよければ、
清々しくて気持ちのいいものになります。
しかし、天気ばかりは心配しても仕方がありません。
・凡庸と特異の間・
平凡であることがいいのか。
特異であることがいいのか。
2分法で考えるべき問題ではないでしょうし、
現実は折衷てきなものが多いはずです。
ある時は平凡で、別の時には個性的で
あるべきなのかもしれません。
平凡である続けることも、個性的であり続けることも
「特異な個別」ではないでしょうか。
平凡と特異を行き来することこそが、
「凡庸な一般」の特性ではないでしょうか。
2011年5月1日日曜日
112 帰納法と権威
人は、無意識に帰納法を実生活で適用しています。帰納法が緩やかに働いていると、それが作用していることも気づきません。帰納法の適用の結果、権威が形成されていきます。もしかすると、帰納法的考え方とは、脳の生理に叶っているが故に、無意識に使っているのかもしれません。
このエッセイでは、科学における帰納法について何度か取り上げたことがあります。数学的帰納法は、厳密に限定、定義された世界では、帰納法から得られたものは正しいと判断できます。しかし、自然界や現実の社会では、対象が厳密に定義された世界ではなく、観測しきれない広さ、測定でしきれない複雑さをもっています。そんな複雑さをどう回避しているのでしょうか。今回は帰納法の人間的な側面をみていきましょう。
科学において、帰納法という手法は、有効なものとしてごく普通に利用されています。帰納法を用いれば、多数の事実(データ、観察、事例、・・・)から、今までない新たな法則を見出すことができます。非常に魅力的で、そして有効な手法です。
ただ、問題は、論理的に結果の正しさを保証されていないことです。これが数学的帰納法との違いです。ある結論を支持する証拠が、どんなにいっぱいそろっていたとしても、たったひとつの否定的証拠(反証)で、その結論は否定できてしまうという弱点があります。これが自然界、社会における帰納法の限界です。それは、母集団のすべての事例を網羅的にチェックすることができないという非常に現実的な制限があるからです。
今までどんなにいろいろなに証拠が積み上げられていたとしても、論理的には崩壊します。例えば、つぎのような場合です。恐竜は中生代の古生物で、中生代の終わり(K-T境界と呼ばれている時代です)に絶滅した動物です。もしネス湖で生きている首長竜(ネッシー)が発見されたとしたら、恐竜の絶滅という論理は破綻します。光速がこの世で一番早いとされていますが、もし光速より速い「もの」が実測されたら、相対性理論は破綻します。氷が水に沈む現象が発見されれば、水が上流に流れたら、ひとつの水槽の中で温かい水と冷たい水に分かれたら・・・。まあ、論理のどこかを修正すれば、とりあえずはなんとかなるかもしれませんが。
今まで「ある理論」を支持する証拠しかみつかっていないからといって、その理論が正しいとはいえないのです。論理的には不完全で、完全にするにはその理論が適応できる範囲のすべてを網羅的に調べて、正しいことを示さなければなりません。そうでなければ、たった一個の反証で崩壊する不完全性を持っているからです。
帰納法の限界は、論理学ではよく知られ、科学哲学でもよく問題にされているテーマでもあります。帰納法の限界があることを、科学者は理解しておくべきです。ところが残念ながら、理学や自然科学の学部や大学院の専門教育の授業で、論理学や科学の運用について講義を受けることは殆どありません。ですから、科学者でも、帰納法の限界を知らずに科学をしている人も、多数いるかも知れません。もしそんな科学者が反証に出会うと、保身的本能が働いて、ついつい感情的に反論したり、時に反証を提示した人への嫌悪感を募らせることがあります。これは、科学の土俵をはみ出ています。
しかし、たとえ帰納法の限界を知っていたとしても、反論に対しては嫌悪感が沸き起こるでしょう。科学者なら理性的に対処したいものですが、なかなか難しいものです。科学者も人間ですから、人の性(さが)に左右されるものだからです。
というのが今回の前置きで、次に人と帰納法の話になります。
先入観のない人との付き合いを考えましょう。顔を見ずに付き合いが始まるとしましょう。
科学の世界では、新人が論文を投稿するときは、審査(査読といいます)を受けます。新人の論文であれば、査読者はその道の先輩になります。査読者は、新人の論文を読むとき、内容の吟味をするのはもちろんですが、教育的配慮もこめていろいろと注意や指摘をすることがあります。内容がレベルに達していなければ問題外ですが、内容がある程度よくても、いくつか難しい指摘をしていくことがあります。
これは、私の経験ですが、その分野ではだれもが知る共通の問題で、なかなか解決できないもの(オフィオライトの化学組成における元素移動の問題)がありました。査読者ももちろんその問題について熟知していたはずです。私が最初に投稿した論文では、その問題についてどう対処したのかが、査読から指摘を受けました。私は、その指摘を、厳密には解決をできない旨を示して、変化を受けにくい成分、受けたとしても結論を左右するほどの変動をしていないことを前提にして議論している、と回答しました。これは、当時のそして現在でも、多くのその分野の研究者の態度です。
あとで、査読者がわかったとき(よく知っている先輩でした)、その論文の件について聴きました。彼は、答えられないのは分かってきたが、教育的配慮として指摘したと言っておられました。今思えば、ありがたい指摘であったと思います。
ここまでは理解できます。私の似たようなことを、後輩にしたことがありました。私がある論文を査読した時、その論文が英文だったので、英文で査読結果を書いたり、より良いタイトルの変更を指示しました。もしかすると、不要な英文や変更要求だったかもしれません。よりよくなればと思ってしたことです。論文の中身と関係がありませんから。
学会というのは、共通の利益を求める同業者のコミュニティで、善意に基づいたボランティア集団ですから、新人を育てる姿勢も強くあります。新人は感謝をすべきかもしれません。何編か論文を書いてい一人前になってくるとると、本質的な指摘で、初歩的な指摘は減ってきます。
さて、問題はその先です。研究者として一人前から一流と評価が上がってくると、その権威が周りの人を威圧することがあります。ある研究者(当時の私の専門としてた分野の権威)が、もう定年をされ一線を退いていましたが、研究心は旺盛で、論文や書評なども書いておられた頃の話です。明らかに、一昔前のレベル、新規性や独創性のない論文が、単著で掲載されたことがあります。つまり、学会のレベルからすると掲載に値しないはずの論文です。通常なら査読者が、掲載拒否してしかるべき内容でした。明らかに、その研究者の権威によって掲載された論文です。
掲載のレベルのぎりぎりの内容でも、新人や若手の研究者の論文なら却下でも、熟練の研究者なら少々不備があっても、掲載されることがザラにあります。これは、ある意味で、仕方がないことかもしれません。
同じ内容でも、ベテラン研究者の言であれば、周りの人にとっても意義を見出せ傾聴に値し、駆け出しの研究者がいえば、戯言にされてしまうことがあります。特に、学術論文ではなく、主張や意見記事などのようなものは、新人にはなかなかハードルが高くなります。しかし、権威のある研究者では、ほぼ無条件で掲載されることが多くなります。
そんなベテラン研究者も、若手の頃は、今の若手と同じよに切磋琢磨して実力をつけ、実績を積み上げてきたはずです。コミュニティでも彼の実績を、見守ってきたはずです。これは、研究実績おける帰納的評価というべきものです。このように研究者は、自分の言の重さを増やして来たのです。権威とは、このように帰納的に作り上げられるものでしょう。若い時に失敗したらなかなか取り返しはつきませんが、ベテラン研究者は大きなミスもしないでしょうし、少々のミスはコミュニティも多めに見てくれます。一種の今までの貢献のお返しかもしれません。論文も、背景にあるそのような実績や権威も同時に読み取るべきなのかもしれませんね。
本当に人類の知的蓄積だけを考えるのであれば、無記名での論文の審査し、掲載をすれば、本当に価値のある論文だけが掲載されるでしょう。でも、それは夢物語です。なぜなら、科学は人間がするもので、人間には何をするにも、やる気、動機、集中、ねばりなどが必要です。その一端を、名誉や権威などのさまざまな欲への志向が担っているはずです。
人の活動は、記憶の蓄積(経験)として作用します。蓄積された記憶のパターンは、繰り返し使われるほど、そのパターンは強固になります。脳における帰納的活動です。パターンが完成すると、逸脱を嫌います。頭の中で作り上げた人間像、固定観念、判断基準で、すべて判断をしがちになります。新人はまだそのパターンを構築しされていない人なので、公平な判断を適用されます。ベテランは出来上がったパターンで判断されるので、少しぐらい逸脱しても、強引にいつものパターンで判断されます。
このような人間への帰納的適用は、決して悪いことばかりではありません。適応する人がブレない人であれば、少々言い回しが稚拙でも、そこには経験に裏打ちされた聞くべきものがあることを、前例は示しているはずです。そんな実に人間的な結果を帰納法は生み出します。
ただ、そこに前例にない誤りがあったとき、今まで帰納的に気づいてきた価値判断をすべて否定するか、というとなかなかそうはいきません。多少は「おおめ」に見るでしょう。論理的、科学的ではありませんが、もしかすると、この論理から外れた「おおめ」は、失敗を許し、再起を与えることなのかもしれません。ただ、2度、3度繰り返すと、論理的判断が出るかもしれません。「ああ、あの先生はもう終わりだ」と。
・若者・
帰納法は、無意識に適用する傾向が人間にはあります。
それは、いい面、悪い面の両方があります。
それをわかって使えばいいのですが、
無意識に運用してしまいます。
ですから、なかなか難しいものです。
でも、人間生活では、この運用は何年もかけて築くものです。
ですから、意識して利用しているわけではありません。
無意識、つまり人間の性として利用しているのでしょう。
固定観念の不備に気づくものは、
その固定観念をもっていない人たちです。
若者です。
若者は、年配者たちに立てつくのは、
そのような帰納がまだ働いていないので
・帰納的観念・
ゴールデンウィークになりました。
私は予定はありません。
適当に思いつきで過ごすことになりそうです。
まあ、家族で団欒といきましょうか。
まあ、疎まれない程度にしておく必要がありますが。
このへん兼ね合いは、
家族の年齢構成に変化してきます。
それをうまく察知しないといけないのですが、
なかなか難しいものです。
帰納的観念ができているので、
それを修正しながらですから、
まずは心理的抵抗があります。
それに打ち勝つのはなかなか大変です。
このエッセイでは、科学における帰納法について何度か取り上げたことがあります。数学的帰納法は、厳密に限定、定義された世界では、帰納法から得られたものは正しいと判断できます。しかし、自然界や現実の社会では、対象が厳密に定義された世界ではなく、観測しきれない広さ、測定でしきれない複雑さをもっています。そんな複雑さをどう回避しているのでしょうか。今回は帰納法の人間的な側面をみていきましょう。
科学において、帰納法という手法は、有効なものとしてごく普通に利用されています。帰納法を用いれば、多数の事実(データ、観察、事例、・・・)から、今までない新たな法則を見出すことができます。非常に魅力的で、そして有効な手法です。
ただ、問題は、論理的に結果の正しさを保証されていないことです。これが数学的帰納法との違いです。ある結論を支持する証拠が、どんなにいっぱいそろっていたとしても、たったひとつの否定的証拠(反証)で、その結論は否定できてしまうという弱点があります。これが自然界、社会における帰納法の限界です。それは、母集団のすべての事例を網羅的にチェックすることができないという非常に現実的な制限があるからです。
今までどんなにいろいろなに証拠が積み上げられていたとしても、論理的には崩壊します。例えば、つぎのような場合です。恐竜は中生代の古生物で、中生代の終わり(K-T境界と呼ばれている時代です)に絶滅した動物です。もしネス湖で生きている首長竜(ネッシー)が発見されたとしたら、恐竜の絶滅という論理は破綻します。光速がこの世で一番早いとされていますが、もし光速より速い「もの」が実測されたら、相対性理論は破綻します。氷が水に沈む現象が発見されれば、水が上流に流れたら、ひとつの水槽の中で温かい水と冷たい水に分かれたら・・・。まあ、論理のどこかを修正すれば、とりあえずはなんとかなるかもしれませんが。
今まで「ある理論」を支持する証拠しかみつかっていないからといって、その理論が正しいとはいえないのです。論理的には不完全で、完全にするにはその理論が適応できる範囲のすべてを網羅的に調べて、正しいことを示さなければなりません。そうでなければ、たった一個の反証で崩壊する不完全性を持っているからです。
帰納法の限界は、論理学ではよく知られ、科学哲学でもよく問題にされているテーマでもあります。帰納法の限界があることを、科学者は理解しておくべきです。ところが残念ながら、理学や自然科学の学部や大学院の専門教育の授業で、論理学や科学の運用について講義を受けることは殆どありません。ですから、科学者でも、帰納法の限界を知らずに科学をしている人も、多数いるかも知れません。もしそんな科学者が反証に出会うと、保身的本能が働いて、ついつい感情的に反論したり、時に反証を提示した人への嫌悪感を募らせることがあります。これは、科学の土俵をはみ出ています。
しかし、たとえ帰納法の限界を知っていたとしても、反論に対しては嫌悪感が沸き起こるでしょう。科学者なら理性的に対処したいものですが、なかなか難しいものです。科学者も人間ですから、人の性(さが)に左右されるものだからです。
というのが今回の前置きで、次に人と帰納法の話になります。
先入観のない人との付き合いを考えましょう。顔を見ずに付き合いが始まるとしましょう。
科学の世界では、新人が論文を投稿するときは、審査(査読といいます)を受けます。新人の論文であれば、査読者はその道の先輩になります。査読者は、新人の論文を読むとき、内容の吟味をするのはもちろんですが、教育的配慮もこめていろいろと注意や指摘をすることがあります。内容がレベルに達していなければ問題外ですが、内容がある程度よくても、いくつか難しい指摘をしていくことがあります。
これは、私の経験ですが、その分野ではだれもが知る共通の問題で、なかなか解決できないもの(オフィオライトの化学組成における元素移動の問題)がありました。査読者ももちろんその問題について熟知していたはずです。私が最初に投稿した論文では、その問題についてどう対処したのかが、査読から指摘を受けました。私は、その指摘を、厳密には解決をできない旨を示して、変化を受けにくい成分、受けたとしても結論を左右するほどの変動をしていないことを前提にして議論している、と回答しました。これは、当時のそして現在でも、多くのその分野の研究者の態度です。
あとで、査読者がわかったとき(よく知っている先輩でした)、その論文の件について聴きました。彼は、答えられないのは分かってきたが、教育的配慮として指摘したと言っておられました。今思えば、ありがたい指摘であったと思います。
ここまでは理解できます。私の似たようなことを、後輩にしたことがありました。私がある論文を査読した時、その論文が英文だったので、英文で査読結果を書いたり、より良いタイトルの変更を指示しました。もしかすると、不要な英文や変更要求だったかもしれません。よりよくなればと思ってしたことです。論文の中身と関係がありませんから。
学会というのは、共通の利益を求める同業者のコミュニティで、善意に基づいたボランティア集団ですから、新人を育てる姿勢も強くあります。新人は感謝をすべきかもしれません。何編か論文を書いてい一人前になってくるとると、本質的な指摘で、初歩的な指摘は減ってきます。
さて、問題はその先です。研究者として一人前から一流と評価が上がってくると、その権威が周りの人を威圧することがあります。ある研究者(当時の私の専門としてた分野の権威)が、もう定年をされ一線を退いていましたが、研究心は旺盛で、論文や書評なども書いておられた頃の話です。明らかに、一昔前のレベル、新規性や独創性のない論文が、単著で掲載されたことがあります。つまり、学会のレベルからすると掲載に値しないはずの論文です。通常なら査読者が、掲載拒否してしかるべき内容でした。明らかに、その研究者の権威によって掲載された論文です。
掲載のレベルのぎりぎりの内容でも、新人や若手の研究者の論文なら却下でも、熟練の研究者なら少々不備があっても、掲載されることがザラにあります。これは、ある意味で、仕方がないことかもしれません。
同じ内容でも、ベテラン研究者の言であれば、周りの人にとっても意義を見出せ傾聴に値し、駆け出しの研究者がいえば、戯言にされてしまうことがあります。特に、学術論文ではなく、主張や意見記事などのようなものは、新人にはなかなかハードルが高くなります。しかし、権威のある研究者では、ほぼ無条件で掲載されることが多くなります。
そんなベテラン研究者も、若手の頃は、今の若手と同じよに切磋琢磨して実力をつけ、実績を積み上げてきたはずです。コミュニティでも彼の実績を、見守ってきたはずです。これは、研究実績おける帰納的評価というべきものです。このように研究者は、自分の言の重さを増やして来たのです。権威とは、このように帰納的に作り上げられるものでしょう。若い時に失敗したらなかなか取り返しはつきませんが、ベテラン研究者は大きなミスもしないでしょうし、少々のミスはコミュニティも多めに見てくれます。一種の今までの貢献のお返しかもしれません。論文も、背景にあるそのような実績や権威も同時に読み取るべきなのかもしれませんね。
本当に人類の知的蓄積だけを考えるのであれば、無記名での論文の審査し、掲載をすれば、本当に価値のある論文だけが掲載されるでしょう。でも、それは夢物語です。なぜなら、科学は人間がするもので、人間には何をするにも、やる気、動機、集中、ねばりなどが必要です。その一端を、名誉や権威などのさまざまな欲への志向が担っているはずです。
人の活動は、記憶の蓄積(経験)として作用します。蓄積された記憶のパターンは、繰り返し使われるほど、そのパターンは強固になります。脳における帰納的活動です。パターンが完成すると、逸脱を嫌います。頭の中で作り上げた人間像、固定観念、判断基準で、すべて判断をしがちになります。新人はまだそのパターンを構築しされていない人なので、公平な判断を適用されます。ベテランは出来上がったパターンで判断されるので、少しぐらい逸脱しても、強引にいつものパターンで判断されます。
このような人間への帰納的適用は、決して悪いことばかりではありません。適応する人がブレない人であれば、少々言い回しが稚拙でも、そこには経験に裏打ちされた聞くべきものがあることを、前例は示しているはずです。そんな実に人間的な結果を帰納法は生み出します。
ただ、そこに前例にない誤りがあったとき、今まで帰納的に気づいてきた価値判断をすべて否定するか、というとなかなかそうはいきません。多少は「おおめ」に見るでしょう。論理的、科学的ではありませんが、もしかすると、この論理から外れた「おおめ」は、失敗を許し、再起を与えることなのかもしれません。ただ、2度、3度繰り返すと、論理的判断が出るかもしれません。「ああ、あの先生はもう終わりだ」と。
・若者・
帰納法は、無意識に適用する傾向が人間にはあります。
それは、いい面、悪い面の両方があります。
それをわかって使えばいいのですが、
無意識に運用してしまいます。
ですから、なかなか難しいものです。
でも、人間生活では、この運用は何年もかけて築くものです。
ですから、意識して利用しているわけではありません。
無意識、つまり人間の性として利用しているのでしょう。
固定観念の不備に気づくものは、
その固定観念をもっていない人たちです。
若者です。
若者は、年配者たちに立てつくのは、
そのような帰納がまだ働いていないので
・帰納的観念・
ゴールデンウィークになりました。
私は予定はありません。
適当に思いつきで過ごすことになりそうです。
まあ、家族で団欒といきましょうか。
まあ、疎まれない程度にしておく必要がありますが。
このへん兼ね合いは、
家族の年齢構成に変化してきます。
それをうまく察知しないといけないのですが、
なかなか難しいものです。
帰納的観念ができているので、
それを修正しながらですから、
まずは心理的抵抗があります。
それに打ち勝つのはなかなか大変です。
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