2024年12月1日日曜日

275 線引きの勇気:科学と非科学の境界

 科学的でないことと科学的なことは、論理的に考えれば見分けられるように思えます。しかし、その境界は必ずしも明らかではありません。仮説に反例が出た時、素直に認める姿勢、修正していく姿勢が問われます。


 朝のワイドショーや雑誌などでは、星占い、星座占いなどが今でも紹介されています。血液型による性格区分が会話のきっかけにされたり、星座なども話題にされることがあります。占いの指示に従った結果、うまくいったとか、危険を回避できた、などの経験をした人は、占いを信じてよかったと思うでしょう。
 多数の人間を数個の区分で分類すると、同じ属性をもったことになったり、同じような運命をたどったりするのは、あまりに大雑把過ぎます。もっと多様性があるはずです。そのような単純な区分にもとづく考え方は、多くの人が「あやしい」と思っているでしょう。しかし、そのような真偽を気にせずに、ついつい聞いてしまい、気にして、従う人もいるのでしょう。これらは、科学的に考えればあやしそうなことも、世の中には流布することがある例といえるでしょう。
 科学的ではないことは、非科学、似非科学、疑似科学などと呼ばれていますが、ここでは非科学としましょう。
 科学に携わってきて長くなりますが、科学は面白いから、続けれられているのだと思います。自然科学に従事していると、自然の中にみられる不思議を見出して、なぜだろうと興味を持ち、その不思議の理由を知りたい、謎を解き明かしたいと考えます。自身で解き明かした時の喜びは大きく、記憶にも残ります。苦労や労力、時間に比例して満足度も大きくなるようです。
 ところが、非科学であっても、それに従事している人は、興味を持ち、大きな労力をかけて為しているはずです。そこには科学者と同等、時にはより多くの満足感をえているかもしれません。結果の享受に関しては、科学であれ非科学であれ、同様に感じることになります。
 従事している人の気持ちでは、科学と非科学の判断できないようです。科学的な判断は、人の感性や主観ではできないことになります。科学と非科学とを見分けることは、どうすればいいのでしょうか。
 これは、線引き問題(境界設定問題、境界確定問題)と呼ばれ、なかなかむつかしい問題となっています。なぜ問題になっているのでしょうか。科学は証拠や論理によって積み上げれたものです。正しさは保証され、検証されているはずです。しかし、すべての科学の法則や規則には、論理的な問題があるのです。
 自然科学では帰納法によって法則や規則などが抽象されていきます。帰納された法則や規則は仮説ですので、演繹法によって検証されていきます。検証の結果から、仮説が間違っていることがわかれば、修正されたり破棄されたりします。この作業を繰り返してよりよい法則や規則としていきます。この方法が、仮説演繹法と呼ばれ、現在の自然科学の一般的なものとなります。
 仮説演繹法によって示された仮説は、検証される前の仮説よりは、よいものになっているはずです。カルナップは、意味のある命題(科学的な命題)とは、経験(演繹)によって確からしさが増す可能性がなければならないという、規準を示しました。自然科学の仮説演繹法はそれに則ってます。この仕組みが導入されているかどうかが、科学と非科学を区分されるでしょう。しかし、仮説演繹法をとっている非科学も多数あります。
 仮説は、検証された範囲で確かさは保障できますが、それ以外のところでは、正しいことが検証されていません。自然界のすべてで検証することは不可能です。ですから、どこかに仮説に合わないものがあるかもしれません。
 自然科学では、帰納法から抽象した仮説が、暗黙に「すべての・・・」という前提のもとに、語られていきます。このようなものを、論理学では「全称命題」と呼びます。全称命題は、母集団が限定されていれば、検証可能ですが、母集団が限定できない、できても調べることが不可能な自然界では、検証不能となります。帰納されたどんな科学的な法則や規則(仮説)も、全称命題となるため、検証の不能性となります。これが論理的問題です。
 反例がひとつでも出てくれば、その仮説は否定されることになります。つまり、科学的手法自体に、論理的に正しいことを示せないというジレンマ、論理矛盾を抱えているわけです。実際に反例や仮説の否定された事例が、科学では多く知られています。
 例えば、天動説から地動説へ、ニュートンの古典力科学から相対性理論へ、地向斜造山運動からプレートテクトニクスなど、大きな仮説(パラダイム)の転換が起こりました。また、生物学でも、無生物から発生(自然発生説)の否定、遺伝の発見、DNAという遺伝物質の発見などでも、それ以前の仮説が大きく変更を迫られました。
 しかし、どんなに新しく、どんなによいパラダイムであっても、科学的仮説である限り、全称命題で表現されるので、検証不能性が残ります。どうすれば、いいのでしょか。カール・ポパーは、科学的仮説には、間違っていることが証明される可能性がなければならないという「反証可能性」を提唱しました。科学的仮説では、反証できる個別命題も示せるものもあり、現在まだ検証できない条件や現状の条件では偽となっているにすぎません。この反証可能性により、非科学的仮説の何割かは引っかかるでしょう。ただし、科学的仮説も否定されてきました。
 反証が出ない限り、あるいは反証が出るまでは、仮説は有効です。科学的仮説は、いつまでたっても仮説のままでいることになります。反証可能性も、仮説を演繹的に検証するための方法となり、新規性、創造性をもっていません。仮説を否定するための方法にすぎず、生産性はありません。これは自然科学の仮説がもっている宿命的欠陥です。反証可能性を示した非科学もあるでしょう。そうなれば、反証されるまでは、その非科学も利用されていくことになり、科学と対等になります。そこに再度、線引き問題が現れてきます。
 線引き問題は解決不能の宿命です。しかし、ポパーの反証可能性は、仮説に対する、科学者としての姿勢を示したとみるべきでしょう。現在の科学的仮説は不完全なので、反証可能性を常に意識して科学に従事していること、時には仮説を反証する努力もすること、そして反証がでたときよりよい仮説を生み出す機会到来と考えること、次なる仮説に向けて努力していくこと。論理に生きる科学者として、そんな姿勢が必要です。しかし、そんな姿勢を貫く勇気、これまでの仮説を捨て去れる勇気が問われています。それこそが、線引き問題の解決方法かもしれません。

・師走・
もう師走に入りました。
11月中は校務でバタバタしていたため、
師走への年中行事も気持ちが向かいません。
例年だとおこなっている年賀状の準備として
宛先の整理や文面なども全く手つかずの状態です。
12月にも校務がいろいろ押し寄せてきます。
まあ、まだ時間はあります。
順番にこなしていきましょう。

・最終講義・
来年度は非常勤として少し講義を担当しますが、
今年度で大学教員が最後になります。
先日、最終講義について開催形式や
日時の問い合わせがありました。
講義期間外に実施してもらうことにしました。
できるだけ大学の行事と重ならないような
日程を選びました。
どんな講義内容にするのかを
これから考えていくことになりますが、
研究者として過ごしてきた
ライフヒストリーとして語ろうと考えました。
内容を作るのになんとなくワクワクしています。
次々とアイディアが湧いてきます。
このワクワク状態を
しばらく楽しんでいきたいと思っています。

2024年11月1日金曜日

274 守破離への時の淘汰

  道を極めることは重要です。目指した道での成果は、他者が評価していきます。他者から評価されたものは、人類の知的資産となるのでしょうか。時の淘汰に耐えたものだけが、真に人類の知的資産となるのではないでしょうか。


 千利休の教えを和歌にしてまとめた「利休道歌」というものがあります。そこに
  規矩作法守り尽くして 破るとも 離るるとても 本を忘るな
という歌があり、そこから「守破離」という言葉ができました。
 その意味は、師の教えや型、規則、その道の作法を「守る」ことから、修行がはじまります。修行を積んで型を身につけたら、その型を研究したり、他の作法と比較し、自身でいろいろ工夫しながら、既存の型を「破り」、よりよいものへと進んでいきます。やがて既存の型にとらわれることなく、「離れて」自在に自由にできるところまでいくのが、修行だとしています。ただし、「本」質を忘れてはならないといっています。
 2022年3月1日発行の「242 守破離はできたのか」にて、これまでの研究歴を振り返りなが、守破離を考えました。それを、今回再考しました。
 大学の学部にて地質学を志して基礎から学び、修士から博士課程で地質学の専門知識、各種の研究手法も学びました。修士課程から、毎年学会発表しはじめて、博士課程ではいく編かの論文を投稿することで、研究者としての経験を積んできました。特別研究員(期限付きですが、給料と研究費をもらう)に採用され、申請した自身のテーマで研究を進めました。そこから一人前の研究者として、歩んでいくことになりました。ここまでの期間は「守」でした。
 博物館の学芸員として期限なしの研究職に就きました。博物館では、もともと最先端の地質学を進めていくために採用されたのですが、予算上の都合で、最先端の研究はできなくなりました。しかし、地質学の研究を進める条件や環境は整っていました。加えて旧博物館の改変に伴って新しい博物館の開設のための要員でもあったので、教育委員会で開設準備に当たりながらも、博物館での業務にも就くことになりました。
 博物館では、市民への科学教育が本務としてありました。学芸員の中には、市民教育に長けた人もおられました。その技は、簡単に身につけられそうもありませんでした。しかし、業務として、市民への科学教育は押し寄せてきます。
 自分なりの方法論を見つけることに、チャレンジしていくことにしました。科学的成果をどのように伝えるかを、科学教育のテーマにして、共同でいくつかの新しい実践をおこなうプロジェクトを進めてきました。本務としてに市民への科学教育へ費やす時間が多くなるにつれ、プロジェクトが成果が出すにつれて、科学教育への興味も、地質学と同じ程度に大きくなってきました。
 科学への興味も、地質学の先端を求めるのではなく、自然に直に接し、自然を記載するという、非常にシンプルで基本的な自然史学的な手法になっていきました。この時期から、地質学への「破」へとなってきました。
 そして、大学に転職しました。博物館では、基礎的な地質学、自然にもっとも接する地質学、つまり自然史学ともいうべきものの成果を、市民にいかに伝えるかという科学教育(自然史教育)を進めてきました。大学では地質学と科学教育に加えて、地質哲学を進めようと考えました。3つの学問体系をバラバラではなく、有機的に体系的にまとめる要として地質哲学を捉えていました。それを、大学での大きなテーマとしました。
 ただし、地質哲学という学問体系はありません。学会もありません。ですから、新しい学問領域を開拓していくことになります。地質学固有の概念、あるいは地質学だけが扱える素材、例えば冥王代という特異性をもった時代などが、思索の素材となりました。これが地質学からの「離」となりました。
 地質哲学として、いくつかのテーマを定めて進めてきましたが、最初のうちは、なかなか方針も定まらず、模索が続きました。当然成果も出ませんでした。しかし、新しい地質学(自然史学)や、市民への新しい科学教育(自然史リテラシー)を進めていくのと並行して、本エッセイで地質学に関する思索を進めました。少しずつ地質哲学のテーマも出てきて、成果も挙がってきました。
 大学にきて10数年して、大学での残された時間が見えてきてから、これまでの成果を「地質学の学際化プロジェクト」としてまとめることにしました。最初は全貌もわかりませんでした、毎年出版することができ、今年には全9巻の著書としてまとめることができました。また、本エッセイは地質哲学の契機、萌芽となるアイディアを生み出せ、また思索の実践とも考え、「地質学の学際化プロジェクト地質哲学実践編」として4巻にまとめることもできました。
 今年度で退職しますが、「地質学の学際化プロジェクト」、あるいは地質哲学は、まだ終わりそうにありません。今後、総説になるような体系化するような思索を継続していこうと考えています。守破離の最後に地質学の「本」質を極めたいと考えました。
 さて、ここまで、地質学との関わりを守破離、そして本として見てきました。しかし、これまでの成果は、独善的なものです。他者からの評価もほとんどもらえないでしょう。すべての他者からの評価であっても、現時点でのものに過ぎません。どれほど評価が大きくても、10年後まで残るものは、どれほどあるでしょうか。100年後まで残るものは、ほんの一握りでしょう。さらに何百年の「時の淘汰」に耐えて残るものは・・・と考えると、現在高い評価であっても、すべて霞んでいきそうです。
 時の淘汰を耐えた成果も当然あります。プラトン、アリストテレス、デカルト、ガリレオ、ニュートン、ダーウィンなど、科学的には必ずしも正しいとは限らなくても、いまだにその重要性が認識され、その著作は読まれています。
 時の淘汰は、発表時点の評価を反映しているとは限りません。大陸移動を唱えたウェゲナーやメンデルの遺伝の研究は、当時の評価は低いものでしたが、後に再評価されました。
 私の評価がそうなるといいたいのではありません。それぞれの時代の科学者が、それぞれの成果を、学界あるいは知的資産の公開、保存システムに残すことこそが重要だと考えています。短期間の評価は、いろいろとあるでしょう。しかし、最終的な評価は、時間に委ねるしかありません。「時の淘汰」を耐えぬいたものが、真に人類の知的資産としての価値をもってくるのでしょう。
 どの成果が資産になるかは、今生きる人にはわかりません。ですから、小さくてもいいから、個々の成果を残し続けていくしかないのでしょう。

・地質哲学・
今年最後になる著書2冊の原稿は、
9月末に印刷屋さんに入稿しました。
校正も終わりましたので、
今月末には出来上がりそうです。
これで、著書については終わりとなります。
現在、投稿済みの報告が1篇あります。
最後の著書に関連した論文が2編が、
ほぼ出来上がっていて、推敲中です。
今年は一気に研究成果を出すことができました。
しかし、まだまだ地質哲学の思索は続いていきそうです。

・これまでの歩み・
これまで、多数の論文や著書を公表してきました。
それぞれでは至らない、不足している点、
課題、矛盾など色々見つかります。
昔の論文を読み返すことがあるのですが、
それを読んていると面白いのです。
内容の詳細は忘れていることもありますが、
問題提起、アプローチの方法、思索の方向性など、
納得できるものがあります。
論文を書いた当時の興味が
今の自分には理解でき、
未だに興味が持てているということなのでしょう。
これは、これまで歩んできた道が
間違っていなかったのではなかいと思っています。

2024年10月1日火曜日

273 アブダクティブ斉一説の論理

 前回は、帰納法と演繹法の特徴を見てきました。いずれも一長一短があり、完結したものではありませんでした。両者にはいろいろなバリエーションがあリます。少々長くなりますが、具体的な例から打開策を考えていきましょう。


 自然科学では、帰納法を用いて法則や規則性を見出していきます。次に、その法則や規則性を利用した演繹法として、未知の結果を予測したり、実験されていない条件での検証をしていきます。自然科学では、一方だけで研究が終わることはなく、両者を一連の方法として利用していきます。その方法が、仮説演繹法(hypothetico-deductive method)です。
 帰納法と演繹法には詳しく見ていくといくつかの多様性があります。それらを、例を示しながら見ていきましょう。
 帰納法にはいくつに区分されています。自然科学ではもっとも一般的な「枚挙的帰納法」と呼ばれるものがあります。例を出しながら見ていきましょう。
  玄武岩はマグマからできた火成岩である
  安山岩はマグマからできた火成岩である
  デイサイトはマグマからできた火成岩である
  流紋岩はマグマからできた火成岩である
・・・・
と繰り返していきます。そこから、
  【仮説】すべての岩石はマグマからできた火成岩である
という仮説をえます。
 わかりやすい例ですが、すべての岩石には「砂岩」も含まれてます。そこから
  砂岩はマグマからできた火成岩である
という個別的命題にすると、その【仮説】は偽となります。これは、枚挙的帰納法からえられた【仮説】(法則や規則性)への反例がでてきたことになります。そのとき、この【仮説】が否定されます。
 他に、アナロジー(類推)というものもあります。アナロジーは、似た個別的命題を多数集めて、仮説を立てていく方法です。
  砂岩は堆積岩である
  礫岩と砂岩は似ている
  【仮説】ゆえに、礫岩も堆積岩である
類似した例を多数列挙していくことで、堆積岩の多様性を把握しながら、【仮説】の適用範囲を把握していくことになります。
  花崗岩は砂岩に似ていない
  ゆえに、花崗岩は堆積岩ではない
というように、アナロジーからはずれるものも見つかってきます。適用範囲から外れるものと、コントラスト(対比)としていくことで、【仮説】の適用範囲を限定していくことになります。枚挙的帰納法よりはゆるい限定ですが、【仮説】の範囲を把握していくことになります。ただし、アナロジーを進めても、蓋然性を高めることしかできません。
 いずれの帰納法においても、法則や規則性の正しさを証明するためには、適用範囲全体(自然界のすべてや世界中)を網羅的に調べていかなければなりません。自然界のものをすべてに対象になれば、網羅することは不可能です。そのため、帰納法で見出した法則や規則性は、論理的に証明不能となります。
 すべての自然法則は、調べた範囲での確かさ、現状のみでの確かさしかありません。明日、反例が出てくれば、その法則は否定されます。
 次に、演繹法のいくつかのバリエーションを例を示しながら見ていきましょう。もっとも一般的な演繹法として、三段論法があります。三段論法とは、
  すべてのAはBである
  すべてのBはCである
  ゆえに、すべてのAはCである
となります。例を示せば、
 すべての火成岩はマグマが固化したものである
 すべてのマグマは既存の岩石が溶融したものである
 ゆえに、すべての火成岩は既存の岩石が溶融したものである
となります。古くから使われている考え方で、だれもが納得できる考え方でもあります。
 他の演繹法もあります。モーダス・トレンス(Modus tollens、間接証明や対偶による証明とも呼ばれます)とモーダス・ポネンス(modus ponens、前件肯定や分離規則とも呼ばれます)と呼ばれるものです。似た言葉ですが、論理構成上の違いがあります。
 モーダス・トレンスは、
  AならばBである
  これはBではない
  ゆえに、これはAではない
というものです。モーダス・ポネンスは、
  AならばBである
  これはAである
  ゆえに、Bである
となります。例を出して示しましょう。
 モーダス・トレンスでは、
  火成岩ならばマグマからできている。
  砂岩はマグマからできていない。
  ゆえに、砂岩は火成岩ではない。
となります。これは、対偶と呼ばれ、背理法に通じるものです。
 また、モーダス・ポネンスの例としては、
  火成岩ならばマグマからできている
  この石は火成岩である。
  ゆえに、この石はマグマからできている。
となります。これは、対象が限定されて活用されていますが、三段論法と同じ構造となります。
 いずれの演繹法も、仮説の検証は可能となりますが、新しいことを見出しているわけではありません。仮説の適用範囲の確認や検証に利用されています。
 帰納法で仮説を導き、その仮説から予測して検証作業を進め、仮説の真偽を確かめていきます。反例がでるまでは、検証作用が続くほど、仮説の「確かさ」は増していきます。ただし、検証作業が枚挙的になるため、蓋然性は高まりますが、論理的な真へは到達できません。
 帰納法も演繹法も不完全で、両者を組みわせて、自然科学は進められていきます。帰納法と演繹法を連結したものが、仮説演繹法となります。
 地質学で用いられている「斉一説」も仮説演繹法の論理構造を持っています。斉一説は、現在の事象(個別的命題)から帰納された一般則(普遍的命題)が生まれます。それを過去の事象(個別的命題)へと演繹していきます。
 しかし、現在の普遍的命題の過去への適用は、「時間の不可逆性」があるため、検証できません。これは、自然界における普遍的命題の抽象は、「現在」を前提としています。「過去」への演繹的適用は前提条件からは逸脱する使用法となっています。過去への斉一説の適用は、「逸脱したアナロジー」となります。
 現状では、斉一説は、使用されています。斉一説的な地質現象が起こっている時代であれば、適用可能でしょう。反例がでてくるまで蓋然性を高めていくしかありません。しかし、斉一説的地質現象ではない時代、例えば冥王代には適用できないはずです。適用は誤用となります。
 冥王代のような古い時代へ自然科学的方法論として、どのようなものを使えばいいのでしょうか。哲学者のパース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)が再発見したアブダクション(abduction)が有効だと考えています。
 アブダクションとは、もともと帰納法に一種で、ある個別的事象に対して、なんらかの仮説を立ててみたら説明できたとします。その仮説を、とりあえず適用して、次のステップに進んでいくことです。
  事実Aがある
  Bという仮説を立てるとAが説明できる
  ゆえに、仮説Bは正しいと考えられる
例として、
  A 島弧の安山岩と大陸地殻の花崗岩とは化学組成が似ている
  B 島弧の安山岩マグマが大陸地殻をつくったとするとAが説明できる
  ゆえに、Bは正しいと考えられる。
 アブダクションの特徴は、必ずしも帰納法を前提としていない点です。作業仮説を生み出すきっかけとして、ひとつの事実Aがあればいいのです。ときには、Aすらなくても、思いつきであっても作業仮説が立てられれば、それに基づいて、仮説演繹法の作業に入っていけます。
 アブダクションは、仮説演繹法を進めて、反例が出てきた時でも、その反例も受け入れて、新たな作業仮説を作ために用いることもできます。作業仮説自体が非常にゆるい前提が立てられているため、修正が容易にできます。アブダクションによる作業仮説の構築は、多くの研究者が意識的あるいは無意識に実施しています。
 帰納法が使えない時は、アブダクションによる仮説を立てて、あとは仮説演繹法として使っていくことになります。地質学の斉一説は仮説演繹法なので、作業仮説として活用していくことはできるしょう。真理保存性はないのですが、反例がでてくるまでアブダクティブ斉一説で進めていけばいいはずです。ただし、適用限界を越えて使用していることを強く意識しておく必要があるでしょう。
 こんなことを考えていますが、この論理は正しいのでしょうか。

・大変だが面白い・
このアブダクティブ斉一説は
現在もっとも集中して考えている概念です。
論文でも、いくつか考えを示しています。
なかなか深い概念なので、
いろいろな地質学的な概念や
時代(冥王代)に関連していきます。
そのため、最新の地質学の進歩も
見ていく必要があり、大仕事になります。
大変ですが、面白い作業となっています。

・ストーブ・
9月中旬から一気に秋めいてきました。
自宅でもすでにストーブを
何度がたくようになりました。
今年の秋は、早く来ているようです。
暑さより寒さのほうが耐えられます。
それでも、秋や春の
程よく過ごしやすい時期のほうが
当然いいですね。
ですから、今が一番いい季節です。

2024年9月1日日曜日

272 仮説演繹法の落とし穴

 現在、執筆している著書の項目で、仮説演繹法を整理しています。以前にエッセイで何度か書いてきたのですが、今回、整理をしなおしたので、紹介することにしました。


 研究者として、学んでいる時、各種の装置の扱いや実験の仕方、データの出し方など研究の手法をまずは、身につけていきます。それらの結果から、これまで知られていなった新しい知見、独創的なアイディアなどを見出して、研究成果をするまでの過程を学んでいきます。研究成果は、学会発表や論文などで研究者コミュニティで報告していきます。
 その時、自身が出したデータを証拠として、その証拠を元に論理的に、新知見を見出し、独創性を発見していきます。その過程を繰り返しながら、研究者として、科学は証拠と論理に基づいて進めるという方法論を身につけていきます。論理学や科学論などから体系的に学ぶことはなく、体験的に方法論を身につけていきます。そのため、研究者自身が実施している方法論の論理的背景を知らずに研究を進めてく人も多くいます。
 自然を相手にしている科学は、方法論として不完全さ、落とし穴をもっています。そのことに気づかずに研究している人が多々います。落とし穴の存在を、知っているのと知らないのとでは、自身の提示した結果への信頼性と反論への対処などが変わってくるはずです。不完全であることが、自然科学の課題であるのですが、不完全さを理解して科学していくことも醍醐味となっています。
 科学的方法として、多様な進め方があるのですが、帰納法と演繹法がもっとも基本としていす。帰納法と演繹法の話をしていきましょう。
 まずは帰納法からです。地質学だけでなく、多くの自然科学では、事象や個物を対象にして、実験や観察からデータをえます。データは「事実」となり、論理学では「個別的命題」と呼ばれるものなります。それらのデータ(事実)から、帰納法により、普遍的な「規則性」を見いだせることがあります。このような規則性は、まだ検証されていないため「仮説」となります。論理学では、「個別的命題」よりは抽象度が高い「普遍的命題」と呼ばれるものになっています。
 帰納法からえられた仮説は、これまでにない新たな普遍的命題を提示することになります。つまりそこには、新規性や創造性が発揮されます。ただし、個別の事実から導き出しているため、個別事実をすべて網羅しているわけでなく、もし反例がでてくれば、その仮説は否定されることになります。自然科学では自然界すべてを網羅して調べることは不可能なので、仮説は常に否定される可能性があります。そのため、帰納された普遍的命題が正しいこと(真理保存性)は、論理的に示せないという宿命をもっています。
 次に、演繹法です。演繹法は、まず仮説(普遍的命題)がある状態からはじまります。仮説に基づいて個々の事例(個別的命題)が、合っているかどうかを調べていきます。仮説の真偽を事実に照らし合わせて判定していくという検証方法となります。演繹法では、仮説の検証ができます。
 仮説を成立させる前提(条件や適用範囲などの制限)があり、それに適合した個別の事例や事実が集められていきます。仮説の前提を満たした事実によって検証がなされていきます。前提が正しければとう制限付きで、結論も正しいという「真理保存性」はあります。前提には仮説を成り立たせるための結果(帰結)が含まれています。そのため、演繹法からは、新しいことは生まれません。
 ここまで、帰納法と演繹法の特徴を見てきました。いずれも一長一短があります。研究においては、新規性と検証性の両者が求めれられます。新規性には帰納法が、検証性には演繹法が必要になります。両者を合わせて一連の方法としたものが、仮説演繹法(hypothetico-deductive method)として用いられることになります。
 仮説演繹法では、まず帰納法によって仮説をつくっていきます。帰納法では、それまでにない新規性や創造性をもった仮説が提示されます。仮説は「普遍的命題」となりますが、そこには「真理保存性」がありません。
 仮説から、検証可能な「予測」をして、演繹していきます。予測とは、仮説の前提としている条件内であれば、こうなるであろうという新たな個別的命題を設定して、検証していきます。「予測」の検証から、結果が正しければ仮説が正しかったことになります。
 反例が出ないうちは、仮説の「真理」が保存されていますので、仮説は正しいとして利用していくことになります。検証として個別的命題が増えることで、「確からしい」を増すことにはなります。ただし、その正しさは、予測の範囲内だけです。正しさは証明はできなので、蓋然性を高めることしかできません。
 もし予測が間違っていたら、反例が出たことになり、その仮説は棄却されなければなりません。ただし、反例も説明可能な仮説に修正、更新していければ、新たな仮説にできます。
 仮説演繹法は、仮説(普遍的命題)が帰納法によるため、正しいこと(真理保存性)が論理的に示せないという弱点があります。その弱点を、演繹法を用いて、反例がでるまでは、正しいといえるので蓋然性を高めながら、仮説を利用していきます。反例がでてくれば、仮説を修正していきます。このサイクルを続けることで科学を進めていきます。仮説演繹法とは、問題がある科学的方法論ではあるのですが、サイクルが進んでいるうちは、検証されています。実用性を重んじた運用法とえいます。
 現在、多くの科学は、仮説演繹法を用いて実施されています。論理的な正しさは保証されていないのですが、実用重視の自然科学の発展様式となっています。

・エアコン・
北海道は、お盆過ぎから
涼しくなり秋めいてきました。
まだ時々暑い日もあるでしょうが、
本当に暑くてエアコンをつけたのは
一月分もありませんでした。
それでも暑い夏を乗り切るのに
エアコンは必要でした。
北海道では冬場はストーブを炊くので
エアコンはもう使うことなくなります。
これから長い休止期になっていきます。
北海道のエアコンの宿命でしょうか。

・野外調査再開・
このエッセイの発行は予約配信でおこなっています。
9月になったので、野外調査を再開します。
再開とはいっても、
9月に二回だけ実施します。
特に9月の最初のものは、
長期に出かけるので楽しみです。
以前は道外で長期調査にでかけていたのですが、
コロナ以降、道内になってきました。
それでも見どころはまだまだあります。

2024年8月1日木曜日

271 冥王代の砕屑性ジルコンの謎

 冥王代の年代を示す鉱物があります。砕屑性ジルコンと呼ばれています。ところが、そのような古い年代の岩石は見つかっていません。砕屑性ジルコンだけが、なぜ古い年代をもっているのでしょうか。


 今回は地質学の謎の話になります。しかし、その謎の解明には、地質学の知識となりより想像力が必要になります。がんばって話に付いてきてください。
 では話をはじめましょう。まずは年代測定からです。ジルコンというマグマからできた鉱物は頑丈で、少々変成作用を受けても、砕かれて堆積物に紛れ込んでも、形成されたときの年代を保持していることがあります。ジルコンを見つけて、年代測定をしていく方法が開発されました。以降、古い堆積岩中の砂粒となったジルコン(砕屑性ジルコンと呼びます)を見つけて、多数の年代が報告されてきます。その中に、古い年代を残しているものも見つかってきました。
 西オーストラリア、ナリアのジャックヒルズ礫岩は、約30億年前に堆積していますが、そこから古い年代の砕屑性ジルコンがよく見つかっています。最古の年代は、43.72±0.06億年前となっています。43億年前までのいろいろな年代の砕屑性ジルコンが多数報告されてきています。ですから、これらの年代も確かだと考えられます。
 一方、岩石として最古のものは、カナダ北西準州スレーブ、アカスタの花崗閃緑岩の40.31±0.03億年前が、もっとも確かなものとなっています。ぎりぎり冥王代に入ります。しかし、それより古い岩石で確かな年代は見つかっています。
 砕屑性ジルコンや火成岩でも、もっと古い時代のものが見つかる可能性がありますが、現状の情報をもとに、以下では考えていきます。
 冥王代とは、地球が形成されてから、地質学的証拠が揃ってくるまでの、証拠のほとんどない時代ことです。証拠が揃ってくる年代は40億年前からで、太古代(始生代ともいいます)になってからです。岩石の年代として、冥王代末期のものが見つかっていますが、現在のところ年代区分とは呼応しています。問題は、砕屑性ジルコンにだけに、なぜ古い年代が見つかるのかということになります。
 ジルコンは、花崗岩質のマグマからできる鉱物です。ですから、砕屑性ジルコンが由来した岩石も、花崗岩類だと考えられます。冥王代の花崗岩類はどのようにしてでき、どのようにして消えたのかが、より本質的な問題となってきます。
 その謎は、冥王代の地球の歴史を辿る必要があります。
 まず地球形成は、45.62 億年前に多数の小天体が集まってできました。地球初期にはマグマオーシャンができていました。マグマオーシャンとは、集まった小天体の衝突による熱で、地球表層が溶けてマグマの海ができている状態です。
 そんな時(45.5~44.4億年前)、地球に大きな天体(ジャイアント・インパクトと呼ばれています)が衝突しました。天体と地球の一部が飛び散り、月ができました。月の化学的特徴が地球と似ている点もジャイアント・インパクトの証拠となります。その後、月にも地球にも、マグマオーシャンが再度できました。地球にあった岩石は、すべて飛び散ってり、溶けたりしてなくなりました。マグマオーシャンが固まると、斜長岩と呼ばれる花崗岩の仲間ができます。そこでもジルコンが形成されていたはずです。
 月で、後期重爆撃(late heavy bombardment: LHB)と呼ばれる現象が、43.7億~42億年前に起こっていることが見つかりました。当然、地球でも起こったと考えられます。衝突した天体は、小惑星帯から木星軌道あたりから由来し、揮発成分を多く含んでいました。月の引力が小さいため、揮発成分は保持されませんでしたが、地球は大きかったため残りました。その結果、地球の初期地殻が破壊され、大気と海洋が形成され、そしてプレートテクトニクスが作用しはじめました。
 このようは出来事の規模を考えていくと、後期重爆撃以降にできた火成岩中のジルコンが、砕屑性ジルコンの原岩となっているはずです。
 冥王代のマントルの温度は高かったと考えられており、マントル対流も激しかったと想定されています。そのため、プレートは現在より小さく数百枚のプレートで覆われていました。多くのプレート境界ができ、多くの沈み込み帯があったと考えられます。プレートテクトニクスが作用しはじめると、海洋プレートが形成され、沈み込みがはじまり、海洋性島弧が形成されます。島弧では花崗岩類のマグマが活動するので、ジルコンが形成されます。
 小さなプレートが多くできると、大規模な沈み込みによる激しい浸食(構造侵食と呼ばれます)が起こってきます。多数の海洋性島弧が形成されるのですが、活発な構造侵食で、海洋性島弧の岩石はできては、浸食されマントルへと消えていきます。
 海洋性島弧では、ジルコンが多数形成され、付加体ができていたはずです。付加体の堆積物中には、島弧由来の砕屑物ジルコンが、多数含まれていたはずではずです。構造侵食が激しく、島弧は次々を消滅していくので、島弧の岩石中のジルコンは残る可能性は低くなりますが、付加体中の堆積物は常に形成されていれば、付加体の堆積物中の砕屑性ジルコンも多数のなので、残存する可能性はより大きくなります。
 多数のプレート境界があれば、沈み込み帯と海洋性島弧の状態だけでなく、島弧同士の衝突なども起こって、もと付加体の堆積物が比較的大きな地質体として残される可能性もあるでしょう。海洋性島弧でできたジルコンが、砕屑性堆積物として多数、多くの地域の多様な地質帯に散らばれば、火成岩の原岩よりはずっと残りすくなるはずです。
 そこから次のようなシナリオが考えられます。付加体中の堆積岩には、43億年前の砕屑性ジルコンが含まれていました。そのような場が他にもいつくかあってのでしょう。その中のひとつの堆積層から、再度約30億年前の西オーストラリアのジャックヒルズ礫岩に砕屑性ジルコンの産地で取り込まれたと考えられます。
 冥王代の岩石は見つからないのに、砕屑性ジルコンだけが見つかるのはなぜか、少々複雑ですが、このようなシナリオを私は想像しています。

・エアコン・
8月になります。
7月中旬には暑い日がありましたが、
7月末、北海道は大雨で、
各地で洪水がおこしました。
気温はそれほど上がることなく、
今年から自宅で導入したエアコンも
あまり出番がありません。
少し前の夏のようの気候ですが、
最近では、8月になれば、北海道も暑くなり
エアコンも活躍するのでしょうね。

・体調不良・
先週から体調不良で、急遽、
5日間ほど休みました。
自宅では、デスクワークをしないので、
タブレットで校務処理をすることになります。
重要なメール、急ぎのメールへの返信をするのですが
タブレットの入力は慣れないので
時間がかかりミスもします。
自宅で見たメールや返信が
どこかにいってしまいました。
なにか設定がおかしいのでしょうね。

2024年7月1日月曜日

270 共通祖先:概念の違いと出現順序

 生命誕生して最初の生物は「共通祖先」と呼ばれます。研究のアプローチによって、共通祖先にもいくつかのものが想定され、異なった概念があります。それらの違いから、生物の仕組みの変化と、大絶滅が想定されます。


 地球での生命起源を考えるとき、どのようなアプローチがあるのでしょうか。真っ先に思い浮かべるのは、古い化石は探すことでしょう。
 もし、最古の化石は見つけられたとしても、最古であって、最初の生命化石ではありません。生命誕生直後の化石は見つからないと考えられます。なぜなら、生物が死ぬと、他の生物に食べられたり、分解(細菌類が分解)されたりして、普通の場合は生物の体は跡形もなくなります。化石になるためには、生物の体全体、もしくは一部が、分解されることなく、保存されなければなりません。そのためには、食べられたり、分解されたりしない、特別な条件に遺骸が置かれなければなりません。特別な条件とはいえ、化石になるためには、生物の生活場の近隣でなければなりません。
 例えば、土砂崩れや土石流で堆積物の中に埋没したり(通常の化石)、樹脂で固められたり(コハク)、分解されにくい物質に置き換えられたり(珪化木)、もともと分解されにくい物質だったり(貝殻、歯)など、特別な条件に置かれたとき、残ることになります。化石になるのは、多数の生物のうちのほんの一部の個体、それもほんの一部分だけ残ったものです。
 誕生直後の生物は、細胞となっていたでしょうが、殻やキチン質などの硬い部分は、まだできていないはずです。最初の生物は、残る可能性はほとんどないでしょう。また、生命誕生の場が化石の保存に適してるとは限りません。
 とはいっても、最古の化石が、どの時代の、どのような種類なのかは、重要な情報になります。生命誕生がどのようなものかは不明であっても、最古の化石が残る状態に、時間的(年代)と生物学的(どのような種)には達していたという条件があったことになります。
 生命誕生へのアプローチとして、現在の生物を調べて、もっとも古いタイプの生物を推定して、そこから最古の生物へとたどる方法があります。例えば、DNAなどの遺伝子情報から系統解析をして、より古いタイプの生物を見つけて、それがどのような生活や仕組みをもっているかを探る方法があります。
 この方法では、古細菌という分類(ドメイン)の中で、好熱性のグループがもっと系統的に古いものになりそうです。古細菌もすべての生物も、同じ仕組み、例えば、DNAは4つの塩基からできて二重らせん構造をもっていること、タンパク質は 20 種類のアミノ酸だけで構成されていることなど共通しています。すべての現生生物に共通した特徴は、多数の祖先から発生したのでは、できません。一つの祖先に端を発しなければなりません。このようなもっとも最初の生物を「共通祖先」と呼びます。
 一方、化学合成や生化学などの知見を用いて、生物をつくっている材料がどのような条件や材料の組み合わせでできてきたのか、それらがどのように合成されてきたのかなどを、実験的、実証的に調べていくアプローチがあります。
 現生生物からのアプローチは時間を遡る方向性をもち、化学合成や生化学からのアプローチは生物の形成過程を時間の流れに沿った方向性を持っています。2つのアプローチで想定される共通祖先には違いあります。それらを区別するために、現在の生物からの共通祖先を「コモノート」と呼び、実験的なアプローチで考えたものを「プロゲノート」と呼びます。
 コモノートは、現在の生物すべての共通祖先にあたり、たったひとつの種にたどり着きます。多分、コモノートは、古細菌のようなタイプの生物だったと考えられます。
 プロゲノートは、生命と呼べる機能(属性)をもった最初の生物ですが、推定された存在になります。生化学的にはDNAよりRNAが先に形成されたと考えられているので、プロゲノートはRNAで代謝や増殖ができる細胞膜をもった、生命と呼べる基本的な機能を獲得したはずです。ただし、細胞膜の物質や代謝の方法や合成物も、いろいろな組み合わせが可能です。そのため、プロゲノートはいろいろなタイプ(種)がいたと考えれます。実験的な研究として進められますが、化石などで検証はできそうにありません。
 その後、現在のような遺伝情報をDNAからRNAにコピーして、タンパク質をつくるという仕組み(セントラドグマ)ができていきます。セントラドグマをもてるようになった生物は、安定した種となり、プロゲノートとは異なったタイプとして認識すべきでしょう。そのような共通祖先の概念を、FUCA(first universal common ancestor 最初の普遍的共通祖先)と呼んで、区分されています。
 プロゲノートとFUCAの違いは、セントラルドグマが成立したか否かの違いで、両タイプは連続的に進化し、共存していた時期もあったはずです。FUCAは、プロゲノート同様に、DNAやRNAの構成、タンパク質の組み合わせ、代謝の仕組みなど、いろいろなタイプのものがあり、多様な生物種がいたはずです。
 プロゲノートとFUCAは、生物における連続的な進化とみなせますが、FUCAとコモノートには大きなギャップがあります。それは種の数では、現生生物から経とどりつくコモノートはたった一種になりますが、FUCAはセントラルドグマの仕組みは持っていましたが、多様な種がいたはずです。
 FUCAの中のあるひとつの種がコモノートになったはずです。FUCAうちコモノート一種だけが残り、それ以外のすべての種が絶滅したのです。その間に何が起こったのでしょうか。FUCAの大絶滅があったはずなのですが、その実態も痕跡も見つかっていません。
 このような共通祖先を区別して、研究を進めていくことが重要になるでしょう。

・野外調査中・
現在、野外調査にでています。
そのため、予約配信をしています。
今回は、大雪山から日高山脈の麓をたどります。
もちろん、車で行けるところを巡るのですが、
雪が溶けた夏でないと巡れないコースでもあります。
気候もいい時期なので、
快適な調査が期待されますが、
山は天候に左右されやすいですが、
心配しても仕方がありませんね。

・地球初期の出来事・
現在、論文を書いているのですが、
このエッセイのテーマに関連したものです。
共通祖先にも、研究者によって
いろいろな名称があり、概念も異なっています。
それを整理していくと、
今回のエッセイで示したような概念の違い、
そして大きなシステムの変更、出現順序、
大絶滅とたった一種の生き残りなどという
地球初期に起こっていたことが想定されました。

2024年6月1日土曜日

269 冥王代へはアブダクティブ斉一説を

 前回、「時間のらせん」と「アブダクティブ斉一説」という考え方を紹介しました。いずれもあまり詳しく紹介できませんでしたが、特にアブダクティブ斉一説の紹介は不十分でした。今回は少し詳しく説明していきましょう。


 前回「時間のらせん」と「アブダクティブ斉一説」という考え方を紹介しました。まずは、少し再度復習しておきましょう。
 時間には、過去から一方向に流れるという「時間の矢」という見方がありました。これはエントロピー増大という熱力学的な法則に基づくもので、不可逆な時間があるという見方です。また、自然界には、繰り返し起こってる似たような現象にようにみえるようものが多々あります。そこには繰り返される「時間の環」という見方がありそうです。場面によって、いずれかが正しく見えることがあります。両者を合体させることで、「時間のらせん」という見方ができるのはないかというものでした。
 次に「アブダクティブ斉一説」についてみていきますが、まずは斉一説から紹介していきましょう。
 地質学では斉一説という考え方もあります。現在起こっている自然現象は、同じ条件ならば、過去にも起こっているはずだ、というのが斉一説です。自然科学の多くの法則は、斉一説の前提を用いて、過去や未来など、検証できない時代へも適用され、演繹されています。斉一説は、過去や未来の自然現象へ適用するには、帰納法が過去や未来にも適用できるという前提が必要です。帰納法が成立するためにには、斉一説が成り立つ前提に必要になります。これはパラドクスになっています。時間の不可逆性のため、いずれも成立しません。斉一説は、論理的には間違った使用法となります。
 しかし、斉一説は、強力で有力なの方法論なので、いつでも使える当たり前の手法だと思われています。ですから、斉一説の適用には、注意が必要になります。
 時間の矢と時間の環、あるいは時間のらせんも、過去に遡るほど、時間の矢の直線性は不鮮明になり、時間の環も不明瞭になっていきます。時間のらせんも、あちこちがばらばらにほどけていくように見えます。斉一説は、論理的には問題がありますが、現在に近い環境や条件があるような場合には、適用しても大きな間違いはなさそうなので、実用されています。
 ところが、地球のはじまり(冥王代と呼ばれる45.6億から40億年前の時代)のような、激変が予想される時期への斉一説の適用は難しそうです。
 例えば、地球形成初期には表層が岩石が融けてマグマの海(マグマオーシャン)がありました。地球の最初期には、マグマオーシャンの状態か、固化した地表であった可能性もあります。
 また、冥王代中頃(43.7 ~ 42.0 億年前)に小惑星帯などから大量の隕石の爆撃(後期重爆撃と呼ばれています)によって、大気や海洋もできたと考えられています。その頃、地球の大気は二酸化炭素が主体で酸素がなく、大気圧もかなり高かく、月も近く回っており潮汐作用もなかり強かったと考えられます。地球の表層の環境が、現在とは大きく異なっていました。
 その後、大気と海洋が表層にでき、プレートテクトニクスもはじまるようになりました。ところが、プレートテクトニクスのはじまった時代には、まだ大陸はなく、海の中の列島(海洋性島弧とよばれています)が多数あった時代となります。そこでは、現在の大陸と海洋がある状態でのプレートテクトニクスでの斉一説は適用できません。
 過去になるほど、不可逆な時間の影響で、斉一説の適用には危険性が大きくなり、やがて適用限界がくるはずです。そのような冥王代の地球に、現在の地質現象からえられた斉一説の適用には、かなりの注意が必要になります。
 そこで、「アブダクティブ斉一説」のいう新しい方法論が有効ではないかと考えています。アブダクティブとは、アブダクション(abudction)のことで、帰納や演繹というよく知られている科学の方法ではなく、限られた事実(結果や原因)から自由に仮説を立てて、その仮説を演繹しながら検証していく方法です。ときには、根拠がなくても自由な発想で仮説を立てて、検証に入ることもあります。検証によって、より適切な仮説へと修正していくことになります。ベイズ統計でもこの考え方を利用しています。ですから、方法論としては実用されているものです。
 アブダクションを斉一説に組み込んで、「アブダクティブ斉一説」として使っていこうというのが、現在考えている方法論です。
 例えば、冥王代にあったマグマオーシャンでは、マグマの結晶分化作用で構築された火成岩岩石学の原理を注意深く適用すれば、マグマオーシャンの固化の様子を推定できます。マグマオーシャンで、揮発成分がない時期と後期重爆撃後に揮発成分が加わった時期でも、無水と含水の状態での岩石の溶融過程とマグマの固化過程も推定することができます。
 また、プレートテクトニクスのはじまった時代の海洋性島弧では、島弧形成論や現在の島弧で起こっている構造侵食作用を適用することが可能です。冥王代の大陸の岩石が見つからず、40億年より古い砕屑説ジルコンにしか見つからないのは、島弧と構造侵食で説明できそうです。
 単純な斉一説の適用が困難であっても、冥王代の地球環境を考慮することで、アブダクティブ斉一説の適用を試みることができそうです。そのような視点で、時間のらせんを解明していこうと考えています。

・野外調査の予定・
5月の野外調査は予定通りに
進めることができました。
まずは、北海道の南に2回向かいました。
6月には、北部と中部にでかける予定です。
今年度で退職なので、
公的な調査は最後の年になります。
効率を考えて北海道を中心に巡ることにしました。
コロナ禍の時期から北海道を中心に巡りました。
昨年度前半はサバティカルだったので
四国を中心に巡りました。
どの地域も地質学的には魅力があります。
住んでいるところに近いところは
何度も出かけられるので、
天候で予定通り観察できなくても
次回の調査が簡単に組めるのがいいところです。
前期の予定はすでに組みましたが、
後期は、前期の予定をこなしたあとに
考えてから組んでいきます。

・自然を味わう・
北海道は春の花が終わり
初夏の花と新緑の季節になりました。
エゾハルゼミの鳴き声も聞こえてきました。
大学の森にはウグイスが住み着いたようで
毎日ウグイスの鳴き声が響いています。
いい季節になってきました。
大半は研究室と講義室で過ごしていますが、
朝夕の行き帰りに自然を味わっています。
それでも都会での列車通勤を考えると
自然をたっぷりと味わっています。

2024年5月1日水曜日

268 時間のらせんとアブダクティブ斉一説

  自然界に流れている時間には、循環している「時間の環」と、不可逆な流れとなる「時間の矢」があるように見えます。地質現象を考えていくには、両者が融合した「時間のらせん」という見方が必要になります。


 1987年(日本語版は1990年発行)のグールドの「時間の矢・時間の環:地質学的時間をめぐる神話と隠喩」という著書があります。グールドは本書で、地質学の基礎を築いたトマス・バーネット(Thomas Burnet 1635? - 1715)の「Telluris Theoria Sacra, or Sacred Theory of the Earth」(1680-1690)(地球に関する神聖なる理論ー原始地球および、すでに起こりし、ないしは万物の終焉までに起こるべき全般的変化に関する解説)、ジェイムズ・ハットン「地球の理論」(1795)、チャールズ・ライエル「地質学原理」(1830 - 1833)の著書を取り上げ、地質学の先駆者たちが、地球に流れている時間をどのように考えていたのかを、深く読み解きました。
 バーネットは「時間の矢」と「時間の環」の融合を目指していたこと、ハットンは斉一説を提唱し「時間の循環」を演繹的な仮説としたこと、またライエルは「時間の環」の歴史的概念を示したと考えました。
 グールドのいう「時間の矢」とは、「歴史とは、反復しない事象の一方向の連鎖である」とし、「時間の環」とは「見かけ上の運動は反復する環の一部であり、さまざまな過去が、未来で再び現実のものとして繰り返される。そこでは、時間は方向性をもたない」としました。
 では、現在の地質学では、時間をどのように扱っているのでしょうか。
 地質学は、過去の事象が対象となるため、時間は不可逆なものとして捉えていくことになります。これは地質学だけでなく自然科学すべてにおいて同じように扱っていくでしょう。そこでは「時間の矢」という考えが用いられることになります。
 ところが、地質学には、斉一説という考えがあります。斉一説とは、現在起こっている自然現象に関する因果関係、あるいは法則は、時間に束縛されることになく、どの時代でも適用可能であるという考え方です。
 例えば、水は、地球の表層では、100℃で沸騰し、0℃で凍ります。条件同じならは、どの時代でも同じ現象が起こることになります。寒ければ氷ができ、暖かければ氷は融け、水蒸気ができ、雲が生まれ雨が降ります。これは、どの時代でも、斉一的に起こる現象です。
 現実の地質現象には、繰り返される「時間の環」ようみ見える現象が多々あります。例えば、氷河期が繰り返し起こっています。そこには上の斉一説で考えれば、地球表層温度が冷え込む時期と暖かくなり時期が、繰り返されていることになります。また、地層には、似た岩相が何度も繰り返されています。これは、似た堆積条件が継続して起こり、堆積場に土砂を運んできたことになります。どこかで明らかにされた法則や因果関係が、斉一説として、どの時代でも使えることになります。非常に便利な考え方です。
 このように繰り返される地質現象には、「時間の環」が存在しているように見えます。その背景には斉一説の存在が考えられます。例えば、繰り返す地層があるのなら、地球が形成された頃まで遡っても適用できそうです。氷河期の繰り返しは、気象変化があれば、どの時代にも条件さえ整えは起こることになります。
 では、繰り返される地質現象には「時間の矢」はないのでしょうか。地球、あるいは自然界には、不可逆な時間が流れています。それは、「エントロピー増大の法則」という考えで説明できます。エントロピーは「乱雑さ」と説明されることがあります。自然現象ではなんらかの変化が起こることになるので、熱力学的にはエネルギーが消費され、エントロピーが増加していきます。自然現象では、時間の経過とともに、量は異なりますがエントロピーは増加する方向にしか動きません。そのため、エントロピーの増加によって、時間の流れに対して自然現象は一方向にしか進まないことになります。これは、時間の不可逆性を意味します。
 したがって「時間の環」に見える現象にも、「時間の矢」が隠れているはずです。不可逆な時間において、繰り返される現象(例えば、地層や氷河期)に見えても、それぞれに違いがあり、そこには時間経過に伴う変化が隠れていることになります。それが見抜けるかどうかは不明ですが、現象を詳しく見ていくことで、経年変化を見分ける必要があります。そこに「時間の矢」が潜んでいるはずです。
 このような時間は、「時間の環」と「時間の矢」が組み合わさった「時間のらせん」となっているようです。繰り返される地層もある時に終わっていきます。終わりは、地層が突然堆積しなくなったり、徐々に変化したりして消えていきます。氷河期も遡れば、ある時からはじまっています。
 さらに自然現象には、極端に激しいものが起こることがあります。例えば、地層の中でも、突然、非常に層厚の大きなものが紛れ込んだり、ある時代にだけまったく異なった地層、あるいはある時代にだけ存在する固有の地層があります。また、全地球凍結のような極端の氷河期があったりします。これらの自然現象には、「冪乗則」が働いているのかもしれません。
 過去を探るために、現在の法則性を斉一説として、むやみに適用していくと、重要な時間変化を見逃すことになります。かといって、不可逆は時間には対処なし、と手をこまねいているわけにもいきません。
 斉一説的な繰り返し現象を「時間のらせん」と捉えて、斉一説を注意深く適用していくしかありません。そのような斉一説を、「アブダクティブ斉一説」と呼ぶことにしました。その詳細は別の機会にしましょう。

・連休には花見を・
今年のゴールデンウィークは、
平日を3日挟んでいますが、
前半の3連休と後半の4連休があります。
どちらも出かける予定はありませんが、
家内と近所で花見をしています。
前半では、いつも詣でている神社にいきました。
ソメイヨシノはもう咲いていましたが
ヤマザクラはまだ早かったです。
後半の連休も近所に花見に出かける予定です。

・ゴールデンウィークには・
現在、校務以外の時間は、著作に専念しています。
ほぼ初稿はできたので推敲を進めています。
しかし、文献整理に時間がかかっています。
一気には進められないので
毎日少しずつやっていくしかありません。
ゴールデンウィークは、講義も校務もが少なく
時間があるので、推敲と文献整理に
集中しようと考えています。

2024年4月1日月曜日

267 過去の因果と地質学

 地質学は、過去を探る学問です。岩石や地層などの実物を用いて検証された情報は、因果の記録ともいえます。検証された因果から構築された地球の歴史が、地質学の大きな特徴です。未来への使用には注意が必要です。


 時間は、過去から現在、そして未来へと流れていきます。過去から現在まで流れている時間は、すでに終わっているので、検証できる可能性があります。未来への時間は、多分、これからも継続的に流れていくでしょうが、これまで通りに流れるかどうかは、検証不能です。
 未来の検証不能性とは、単純にいえば、「未(いま)だ来(こ)ない」時間なので、検証対象にはできないためです。過去の検証可能性は、因果関係を前提としています。因果関係とは、何らかの事象に対して、ある原因で起こった結果との関係、もしくは結果を起こした原因との関係のことです。因果関係が成立していることが、検証の前提になっています。したがって、結果が起こっていない未来は、因果関係が成立していないので、検証できません。
 過去と未来の違いは、自然界に存在する実物、実在している事象、個物など、すべてに対して適用されます。自然界からえられたデータ、情報をもとに、すべての科学の体系が構築されていきますので、この束縛を受けています。過去から現在までの時間では、因果がすでに終わっているので、その関係は検証可能です。
 ただし、本当に検証できるかどうかは、証拠(情報)がえられるかどうか、その証拠の精度が十分かどうかによって変わってきます。
 地質学の素材は、過去に形成され、現在入手できる岩石や地層になります。地質学の素材は、すべて因果における結果となりますので、検証作業が適用できます。
 ある時代にできた岩石(マグマが固まってできた深成岩)があったとします。その深成岩が入手できれば、いろいろな観察や分析ができます。
 岩石をルーペや、光を通すほどに薄くして岩石専用の顕微鏡(偏光顕微鏡といいます)を用いれば、岩石を構成する鉱物や組織を観察できます。どのような鉱物からできているか、組織からどの鉱物がどの順番に結晶してきたのか、どのようなスピードで結晶化したのか、などを定性的に知ることができます。マグマが固化する過程、つまり「過去の現象」を、定性的ですが、復元することができます。
 岩石の成分には放射性元素も含まれています。放射性元素には半減期があり、適切は半減期の成分が分析できれば、岩石が形成された年代を決めることができます。マグマが固化した「過去のある時点」を定量的に決定できます。分析精度が高ければ、ひとつの鉱物内部の数マイクロの部分の年代を測定する技術が開発されています。その技術を利用すれば、古い深成岩で変成されて元とはかなり異なった変成組織になっていても、深成岩の鉱物が残されていれば、マグマから形成された年代を復元することが可能になりました。
 また、深成岩の岩石全体や個々の鉱物の化学組成から、マグマがどのような形成過程(どのような物理条件でできたか)、どのような固化過程(結晶化の過程)を経てきたのかを、かなり定量的に追いかけることも可能です。また、マグマがどのような材料(起源物質といいます)からできたのかも探ることもできます。
 過去の素材(深成岩)があれば、過去のある時点の何らかの因果関係(マグマの過去のさまざまな様子)について探ることができる、ということです。地質学は、過去の因果を探求していく学問でもあります。
 ここまでは、ある深成岩の例でしたが、このような作業を、いろいろな時代の深成岩で進めれば、マグマの時代ごとの多様性から、時代変化を知ることになります。いろいろな地域の深成岩でおこなえば、地域ごとの多様性から、地質場ごとの特徴を知ることできます。
 収集の方法やえられる情報は異なりますが、火山岩、堆積岩、変成岩に対して、それぞれに進めていけば、岩石の特徴ごとに、過去の地球の様子を、検証可能性をもって、実証的に知ることができます。これらを時間ごとに編纂して集大成していけば、地球史となります。
 さて、ここまで地質学の特徴である過去の因果を解明していく方向性でした。次に、一般の自然科学が目指す方向をみていきましょう。もし個々の地域や時代の深成岩から、地域性や時代の変化に左右されない、普遍的な特徴が抽象され、帰納できれば、それは普遍化された理論、一般論ができます。
 深成岩の研究から、マグマの形成過程、固化過程についての普遍的な成因論を読み取ることが可能かもしれません。同様に火山岩、堆積岩、変成岩などからも、一般論ができるはずです。地質学では、このような作業を繰り返しながら、鉱物形成論や化石形成論、あるいは火成作用、堆積作用、変成作用の一般論も構築してきました。
 このような普遍化の方向性は、物理学や化学では通常の科学的方法論となるでしょう。一般論があれば、いつでも、どこでも適用できるはずなので、未来へも、演繹していくことも考えられます。
 もし未来に、火山が活動すれば、もし断層が動けば、もし地震が起これば、なども、一般論を適用すればいいはずです。一般論はありますが、結果は検証されたものではありません。そうなると、最初に話をした未来の因果関係に抵触してしまいます。さらに、その予測精度が問題になります。
 物理学や化学では、一般論の予測精度は、一定の範囲に収まり、未来予測もある程度の誤差に収まるでしょう。予測精度がはっきりしていれば、活用していくべきでしょう。社会的影響、人への影響などが小さなものであれば、未来予測は自由にしていいでしょう。
 地質学や気象現象など、複雑な自然現象に関わるものは、一般論の予測精度はあまりありません。地球環境は複雑なので未来予想には、不確かさが常に伴っています。未来予測には、火山噴火、地震発生、長期の天気予報、気候変動など、人や社会へ影響の大きなものもあります。
 未来は因果関係の範疇を超えている上に、複雑で複合的な未来予測は、一般論においても不確かがあります。地質学は、過去を知るうえでは重要な学問ですが、未来への適用には注意が必要です。地質学以外にも総合科学には似た宿命をもったものもあります。未来への運用は慎重にすべきでしょう。これも未来の話になるので、予想は危険かもしれませんが。

・飛ぶ鳥あとを濁さず・
2024年4月になりました。
新学期、新生活などを迎える人も多いと思います。
その方たちは、これまでの生活に
一旦は区切りをつけてことになります。
さて2024年度は、区切りの年になります。
今年度で、退職となるので、
この1年でなすことすべてが
最後のものになります。
大変なことも、楽しみなこともあるでしょう。
この1年は、目立たぬように、波風を立てずに
静かに終わりを迎えたいと考えています。
しかし、与えられることは可能な限り
できる範囲で受けてこなしていきたいと思います。
飛ぶ鳥あとを濁さず、でもあります。

・fade out・
昨年度は半年間のサバティカルでした。
12年前の1年間のサバティカルがあり
それが開けた時の気持ちは、
I have a dream. でした。
内に秘めた夢と、
外に出すべき夢がありました。
それを実施することに
その後、10年間努力してきました。
昨年度のサバティカル開けの目標は
フェイドアウト(fade out)となりました。
穏やかに過ごしていこうと考えています。
精神的にも肉体的にもかなり老化がきています。
心身を宥めすかしながら、
老化に折り合いをつけながら
過ごしていくことにします。

2024年3月1日金曜日

266 This View of Geology かくのごとき地質観

 ダーウィンが見た生物進化の壮大さと同じものを、地球創成にみます。そして進化に結実した生命観は、地球進化への地質観に相通じるものがあるように見えます。そんな壮大な物語をまとめています。


 現在、著書の執筆を進めています。毎年、この時期に執筆をしているので恒例の作業ともなっています。大学では講義がなく、時間的に余裕がある時期になっているからです。印刷出版費を、競争的研究費として申請をするためには、見積もりが必要になります。そのため、4月には初稿ができて、だいたいのページ数が必要になります。そして、今回の著書が、来年度末に退職となるため、最後のものになります。ライフワークの総まとめとなるので、力も入っています。
 博物館の学芸員時代に業務上はじめて、研究してきたテーマを当時まとめました。そして25年たったこの時期に、再度、研究テーマとして取り組むことになりました。その分野で大きな進展が、ここ数年に起こったため、興味が再燃しました。執筆中に幸いも、いろいろなアイディアが湧いてきて、この25年間に進めてきた、大きな研究テーマが、最後の著書として体系化できそうになってきました。
 これまで取り組んできた地層に記録されている時間、そして過去の時間への地質学的視座の特徴などから、「時間のらせん」というアイディアが湧いてきました。また、斉一説の適用限界に対して、「アブダクティブ斉一説」という発想が生まれました。これらについては、別のエッセイで、順次に紹介していこうと考えています。
 さて、本エッセイのタイトルは、スティーヴン・ジェイ・グールドにあやかっています。グールドは私にとっては、師とも仰いでいる地質学者であり、進化学者でもあり、なにより科学エッセイストとしても一流です。グールドを師と考えているのは、グールドの著書でも地質哲学的思索に大きな刺激を受けてるためです。
 グールドは、アメリカ自然史博物館の月刊誌Natturl Historyに「This View of Life」(かくのごとき生命観)というタイトルで連載したエッセイが有名でした。1974年1月からはじめ、25年にわたって、一度も休むことなく連載を続け、予定通り2001年1月で終了としました。すべてのエッセイは、全10冊の著書になり、邦訳されています。
 月刊エッセイの連載が25年とは長い期間です。博物館ではじめたテーマが今まとめ直している期間や、この職場に2002年に移籍してきてからの期間も、似たものとなっています。しかし、期間や数値は、どうでもいいことでしょう。重要なのはグールドの姿勢です。
 グールドのエッセイに込めた執筆姿勢に感銘を受けています。それぞれのエッセイの内容は、常に原典、一次資料に当たるという姿勢が貫かれていました。さらに、地質学の話題だけでなく、いずれも重厚にして、時に高尚にて、時に神話から古典へ、時に機知に満ち、時に好きな野球やクラッシクの洒脱さ、縦横無尽に、話題が飛び回っていきます。それでいて、その教養レベルは常に高いもので、読んでいても、知性がかきまぜられる思いがしました。
 グールドの連載エッセイのタイトルは、「This View of Life」です。これは、ダーウィンの「種の起源」に依っています。「種の起源」の最後の一文として"There is grandeur in this view of life"(かくのごとき生命観には壮大さがある)からとったものです。
 このエッセイのタイトルも僭越ながら"This View of Geology かくのごとき地質観"としたのは、グールドを引用したからです。
 そこでも、グールドの愛したダーウィンの「種の進化」の最後の文章を、自分なりに読むことにしました。幸い、インターネットに初版の文章が公開されています。引用して、約しておきましょう。

There is grandeur in this view of life, with its several powers, having been originally breathed into a few forms or into one; and that, whilst this planet has gone cycling on according to the fixed law of gravity, from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being, evolved.
(Darwin C., 1859, On the Origin of Species. https://www.gutenberg.org/files/1228/1228-h/1228-h.htm#chap14 2024.2.20閲覧)
かくのごとき生命観には壮大さがある。それは、いくつかのもしくは 1 つの形にもともと息づいていた力に、そしてこの惑星が重力の普遍の法則に従って巡っている間に、単純なものからはじまったら終わりなき形、最も美しく最も素晴らしいものへと進化してきて、そして進化し続けていることに。
(著者訳)

 ダーウィンは、惑星の運動という法則性をもった長い期間、単純なものから複雑なものへの進化が続けていること、そこには壮大な生命観があると「種の進化」ではまとめています。
 同じことが、地質学でもいえます。
 地球は、軌道上にあったEコンドライトと呼ばれる揮発性成分を含まない素材からできました。地球も最初は、石の固まりで、大気も海洋もない単純なものからスタートしました。その後、太陽系の惑星運動の変動により、小惑星帯やその外側にあった、揮発成分を含んだ炭素質コンドライトの軌道が乱され、地球や月に多数飛来し爆撃しました。その結果、地球に揮発成分が運ばれ、大気や海洋ができました。そして、生命の合成もはじまりました。
 「惑星の重量の普遍法則に従って」、単純なものから「最も美しく最も素晴らしいものへと」変化してきました。「かくのごとき地質観」は壮大だと思います。そんな地質観へ、少しの独創性を加えて眺めていこうと、著書では企てています。成功したかどうかは、後に評価されちえくでしょう。

【余談】
 グールドの渾身の遺作「進化理論の構造 The Structure of Evolution Theory」(上巻:808ページ、下巻:1120ページ)があります。しかし、まだ読んでいません。大著でもあるのですが、退職後の楽しみにとってあります。もうひとつの大著「個体発生と系統発生: 進化の観念史と発生学の最前線」(649ページ)もとってあります。次は、グールドのライバルであり、盟友でもあったドーキンスが控えています。

・執筆に専念・
3月になり、集中講義があり、ばたばたします。
その傍ら、著書2冊の執筆を継続しています。
当初予定より、かなり遅れています。
1月中旬から、投稿した論文で分割の指示があり、
3編に分けて、そのうち2編を投稿しました。
1編を独立した論文として完成しました。
それを書いている内に、このエッセイで述べた
新たなアイディアが湧いてきたので
それも論文にしました。
著書の執筆のスタートが、一月ほど遅くなりました。
それらの論文を改変し、新たな論文を書いたため
著書の内容も充実したものなりそうです。
この著書の執筆は、まだまだ時間かりそうですが、
ライフワークのまとめとなります。

・宴会・
大学では、通常の宴会が催されるようになってきました。
卒業祝賀会、教職員の送迎会、永年勤務者表彰
など、いろいろと続きました。
4月には歓迎会もあります。
やっと、コロナ禍以前に戻ってきました。
しかし、宴席での対話がなんとなく、
まだまだぎこちなく感じるのは
私だけでしょうか。

2024年2月1日木曜日

265 複雑な連環:地球形成のシナリオ

 地球形成の新しいモデルが、提唱されてきました。そのモデルは、これまでの課題を解決できました。そこには複雑に絡み合った条件が、関係し合っていました。少々複雑ですが、地球形成の最新のシナリオを紹介しましょう。


 現在、生命の起源を考えています。生命起源は、地球の初期に起こったはずです。なぜなら、最古の化石で確実なものは35億年前で、生命の痕跡は41億年前まで遡れます。古い時代に生命は誕生していたので、生命起源には初期地球の状態が重要な前提条件となるはずです。地球の起源、あるいは初期の状態を把握して置く必要があります。
 地球形成には、いくつものアプローチがあるのですが、地球外の証拠や制約条件から考えていく方法と地球内に存在する地質学的証拠から考える方法とがあります。
 地球外の証拠として、他の天体や隕石の情報が使えます。金星や火星は、地球と同じ頃にできました。火星には探査機が降りて調査しています。月でも探査も進められ、アポロ計画による岩石試料もあります。月の情報も有効になります。
 太陽系外の惑星の情報から、惑星系は非常に多様だとわかってきました。多様な惑星系の形成過程が説明できるモデルがあれば、地球もその一環で形成されたと考えられます。「タンデムモデル」が最近提唱されました。2つの軌道上だけで惑星が形成され、内側で岩石惑星が、外側で氷惑星とガス惑星ができます。形成条件により、多様な惑星系ができることがわかってきました。
 惑星形成のシミュレーションで、形成終盤に原始惑星同士の衝突「ジャイアントインパクト」が起こり、地球にもあったと考えれています。激しい衝突ですが、短期間(数ヶ月から数年)で月が形作られました。衝突は、45.2億から44.4億年前とされています。できたての月も地球にも、表面には、岩石がどろどろに溶けたマグマの海がありました。
 月の表面は侵食はなく、できたときの状態をよく保存しています。表面のクレータの研究から、激しく隕石が衝突した時期があることがわかりました。「後期重爆撃」と呼ばれ、43.7億から42億年前に集中的に起こったことがわかってきました。
 さらに、惑星系形成の後半には、ガス惑星(木星と土星)の軌道が不安定になり、太陽に向かって落ちていき、地球軌道付近にまで入ってきて、その後外にでていくことがわかってきました。
 隕石は、小惑星帯から飛来していることが軌道計算からかっています。隕石は、小惑星帯の情報をもっています。隕石という実物があるので、化学組成を調べたり、年代測定ができます。隕石から、太陽系形成時、太陽系全体が固体すべてが溶ける熱い状態から、冷却されて固体ができた過程がわかりました。それらの固体が、惑星の材料となりました。一部が小惑星帯に残り、太陽系の材料の化石ともいえる隕石もあります。
 隕石の中に、炭素質コンドライトと呼ばれるものがありました。この隕石はもっとも古い45.6億年前の年代で、地球の大気や海洋をもたらしたという証拠もあります。ですから、炭素質コンドライトがあれば、大気も海洋も固体地球もすべてそろうと考えられ、地球や惑星の材料とされていました。
 惑星形成の時、太陽の位置から、近いところは熱く、離れると冷たい条件となります。その条件を見積もっていくと、地球軌道では、揮発成分(大気や海洋の材料となるもの)をまったく含まない岩石しかできないことわかりました。小惑星帯にある天体の分布でも、揮発成分を含んだもの(炭素質コンドライト)は外側にあり、内側には還元的で揮発成分を含まないもの(Eコンドライトと呼ばれるもの)になっています。原始地球の材料には、揮発成分がありませんでした。大気も海洋もない「裸でドライ」な初期地球ができたことがわかってきました。
 そうなると、いつどこから揮発成分が供給されたかが問題になります。このとき、月の後期重爆撃が参考になります。月で起こった重爆撃は、当然地球でも起こったはずです。この重爆撃は、小惑星帯にあった天体で、その中には炭素質コンドライトの成分も含まれていました。
 ガス惑星が現在の軌道に戻る時、小惑星帯を天体の軌道をかき乱すので、そこから太陽系の内側に落ちてくる天体も多数あったことになります。それが、後期重爆撃となりました。爆撃した天体の中に、炭素質コンドライトがあり、地球に大気と太陽をもたらしたことになります。
 地球内部から情報としては、最古の岩石を探していくと、40億年前ころまでのものは見つかりますが、それ以前のものは見つかりません。ただし、鉱物(ジルコン)では、40億年前より新しい堆積岩の中にある砂粒として見つかります。43億年前までのものです。つまり岩石としては残されていないが、鉱物片としては、かろうじて表層のどこかに残されていたようです。
 以上のことから、地球形成の新しいシナリオができました。
 地球は還元的な天体としてできました。表層は裸でドライなものでした。45億年前ころ、すでにできていた地球に、小天体が衝突しました。その結果、月ができ、地球もリセットされた状態となりました。月にも地球にもマグマの海ができ、やがて冷えてきます。揮発成分はまだないので、裸でドライの状態でした。43億年前ころ、小惑星帯にあった揮発成分を含んだ小天体が、地球や月に多数飛来します。その小天体から大気や海洋になる揮発成分がもたらされました。
 以上の地球形成の新しい形成モデルとなります。非常に複雑な条件が絡み合って、新しいモデルはできています。シンプルに考えられればわかりやすいのですが、真実は簡単だとは限りません。生命誕生のシナリオも、この延長線上で考えなければなりません。時間的には非常に厳しい条件(1億年程度の短時間)で形成されなければなりません。本当にこのモデルでいいのでしょうか。

・本の執筆・
2月になりました。
後期の講義が終わったので、精神的には開放感があります。
大学の行事としては、重要な次々とあります。
しかし、束縛時間は限られています。
校務さえ順調にこなしていけば
研究時間がたっぷりと確保できます。
今年も、2月から3月かけては、
本執筆を集中的に進めてこうと考えています。

・雪まつり・
札幌の雪まつりが、今週末からはじまります。
先日も札幌駅前のデーパの地下に入ったら、
非常に多くの人がいました。
ですから、雪まつりには、もっと多くの人が
訪れることになりそうです。
子どもが小さい時は
雪まつりにもでかけていましたが、
今では夫婦でテレビで特集を見る程度です。
長時間外にいるのは、寒さが堪えます。
歳ですから仕方がありませんね。
健康を最優先にしていましょう。

2024年1月1日月曜日

264 色とりどりの時間

 明けましておめでとうございます。一年のはじまりに、時間について考えました。見方により、いろいろな時間がありそうです。色とりどりの時間があることを見ていきましょう。それにしても、時間は難題です。


 元旦には、新しいカレンダーや手帳、日記に変更したりする人もいるでしょう。一年の計画を考える人もいると思います。昨年がいい年でなかったなら、今年こそはと心機一転を考える人もいるでしょう。昨年がいい年だった人ならば、今年も同じように過ごせるように願うでしょう。
 暦で一年は元旦からはじまり、大晦日で終わります。12月31日24時、あるいは1月1日0時をもって、年号が替わります。同じ年号でも、ある人にとっては大きな節目の年になり、ある人にはいつもと変わりない年もあります。同じ時間の流れも、人によって違って見える「異なる時間」となります。
 人は、毎年ひとつずつ年齢が増え、変化していきます。そのため、同じような似た時間であっても、同じ時間では決してありません。だから、新たな年が迎えることに期待できるのです。子どもは、精神的にも肉体的にも、日々は成長しています。若者も、心身ともに着実に成長しています。ただし、成長の程度は、努力によって変わってきます。年をとってくると、成長は少なく、衰えが目立ちます。高齢になると老化が進行していきます。同じ時間でも、過ごし方によって変化の度合いは変わってくるはずです。成長や変化という考えを導入すると、人に実際に流れている時間は、同じものではなくなります。「不可逆な時間」があることがわかります。
 とはいっても、日常生活では、月、週、日などで区分されて、繰り返されます。曜日や一日の生活にはルーティンがあり、曜日や一日のパターンが同じように繰り返され、巡っているようにみえます。時間が循環しているように見えます。日常生活では「循環する時間」があります。
 話を変えて、自然科学で扱う時間を考えていきましょう。
 そもそも物理学的には、時間は厳密に定義され、時計のように正確に刻まれ、流れていきます。また、物理の法則、例えば運動方程式に現れる時間には、流れる方向は関係はありません。どの向きにも時間が流れても、法則に変化はありません。「可逆な時間」となっています。可逆な物理的時間は、「現在」を原点として、どの方向に時間軸はのばせて、行き来も自由です。過去も未来も関係なく、自在に行き来できる「無色透明な時間」があります。
 化学反応のように、変化を伴う現象では、一方向にしか進みません。時間を循環させようとしても、変化したものを同じ状態に戻すことはできません。逆向きに反応させようとすると、エネルギーを注ぎ込まないとなりません。つまり、時間の流れが、一方向にしか流れない「不可逆な時間」になっています。
 自然界に存在するものに、変化が起こらない不変のものはあるでしょうか。対象となる自然は、地球上の存在、もしくは宇宙空間内の存在です。地球は今から45億年前にできたことを、宇宙空間に存在するすべての物質は、ビックバンによってはじまったことを、科学は明らかにしました。物質だけでなく、時間も空間も、すべてがビックバンからはじまりました。この世の森羅万象に、はじまりがあることになります。現在、どんなに不変に見えるものがあっても、地球やビックバンという「時間のはじまり」がありました。
 自然界には、「時間のはじまり」から流れる「不可逆な時間」があり、そこには熱力学の法則が適用できます。エントロピー増大の法則(熱力学第二法則)で、どんなに同じ状態に見えても、時間がたって状態が変化すれば、エントロピーが変化していることになります。
 以上のことから、物理法則のような抽象化された不変には、可逆の時間、無色透明の時間が存在しています。一方、人や生き物、変化を必然的に伴っている現象、自然界には、「はじまり」があり、そこから不可逆に流れる時間です。
 社会生活での時間を考えると、一週間や一日の似たルーティンで「循環する時間」あるように見えますが、取り戻せない時間があることも知っています。ある日の失敗を、翌日に取り返すことはできません。ある週にサボったたら、その一週間分のスケジュールが遅れてしまいます。似た時間が繰り返されていますが、逆戻りはしません。そこには「不可逆な時間」が流れていることになります。
 このような不思議な時間をみていくと、同じようなところ(一日、一週間、一年など)を巡る「螺旋状の時間」があり、螺旋の方向にも別の時間軸として不可逆な時間があるように見えます。
 本来であれば、この螺旋状内の時間軸と螺旋軸方向の「螺旋を貫く時間」は、階層の異なったものになるはずですが、それぞれの時間には区分はなさそうです。「階層化できない時間」なのでしょうか。時間を巡る思索を進めると、混乱していきます。これについていは、今後も考えを深めていきたいと考えています。
 時計によって時間を計測していると、無色透明な循環する時間があるように見えますが、不可逆な螺旋状の時間と、それを貫くはじまりがあり、階層化できない時間もあります。時間は不可解な存在です。

・あらぬところへ・
元旦のエッセイなので、
それらしき内容にすべく書きはじめました。
現在書いている論文では、
地球や生命の「はじまり」について考察をしています。
その一番中心の概念を
今回のテーマにするつもりで書きはじめました。
その書き出しは
「歳のはじめに、「はじまり」について考えていきます。」
というものでしたが、
まったく違う内容になっています。
このエッセイでは、事前に
いくつかのネタを用意しています。
「はじまり」と「時間の階層化」などがありました。
1月なので、「はじまり」にして書きはじめました。
詳細については、よく考えるべき内容もあり、
書きながら考えていくものもあります。
「はじまり」というテーマも
考えながら書くつもりではじめました。
ところが、「時間の階層化」へと移っていきました。
実は、「時間の階層化」は全く違った内容を
思い描いていたテーマなのですが
あらぬところにたどり着いてしまいました。

・正月休み・
このエッセイは、年末に書いて配信しました。
長い冬季休業期間があったので
落ち着いて考えることができます。
そんな静かな時間に考えても、
まだ混乱しています。
この混乱を整えるためには、
十分に考える時間も必要なようです。
正月三ヶ日はゆっくりと休んで
頭をリセットしましょう。
いい考えが浮かんでくるかもしませんね。