2014年4月1日火曜日

147 研究するということ:修行と知恵

 研究するということは、どのような資質、能力を持たなければならないのでしょうか。それを身につけるために、「修行」をしていきます。修業期間に研究者としての能力とともに、知恵も養っていく必要があるようです。

 STAP細胞の論文が大きな話題になりました。当初、その研究成果の重要性もさることながら、中心となったのが若い女性研究者であったことも、ニュースを盛り上げました。さらに、容姿や着衣が目を引くことから、ますますワイドショーやメディアが連日が取り上げ、彼女は、時の人になりました。
 その後、ご存知のように、状況が一変しました。画像や本文の類似性や実験の再現性に問題があるとして、一気に疑惑が浮上してきました。持ち上げられていたその研究者は、一転してメディアから叩かれるようになりました。
 私は、ニュースは、新聞とネットくらいしか見ていません。それも自分の関係しないところは、さらりとしか見ませんので詳しい内容は知りません。家内と話をしていると、ワイドショーを見ているので家内の方が詳しいでした。真実は、まだ藪の中でしょうか。
 真相はわかりませんが、研究者になるということはどういう過程(修行)を経るのか、研究者になるためにどのような技量(知恵)を身につけていくのか、などについて考えました。
 当然のことながら、一人前の研究者になるには、多くの努力と時間をかけて修行をしていきます。その修業を通じて、いくつか身につけなければならないことがあります。研究者としての「知識」と「技術」、そして「知恵」ではないでしょうか。以下では、この3つの点について見ていきます。
 ただし、私が学んできて、体験してきた、理系的な研究修行ですので、分野が違うと様相が異なることがあるでしょう。ひとつの例と思ってください。
 まずは、自分が興味を持っている分野で、必要となる基礎から応用まで、さらに最先端までの「知識」を、体系的に学ばなければなりません。
 その分野の経験が少ない初学者は、「基礎知識」で少なくとも2、3年かかります。これが学部の専門科目の修得になるでしょう。多くの大学では、最初の2年間は一般教養のような広い学問やスキルを身につけながら、専門分野の基礎となりそうな内容や実験などの講義あります。その後、専門分野を定めて、より深い専門の知識を学んでいきます。卒業論文や卒業研究では、テーマを定めて、1年以上の時間をかけて、専門知識をいかしながら、テーマを深めていきます。まあ、大学や学部、個人によって、その深まりはさまざなまでしょうが。
 「より高度な体系的知識」から「最先端の知識」を身につけるのに、さらに2、3年かかります。修士課程の時期となります。この期間に、その分野においてなんらかの成果を挙げられるようなテーマを進めてきます。ただし、成果の重要性よりも研究という過程を一貫してやり遂げるという体験が大きな目的となります。
 次に、実際に本格的な研究を行なう段階になります。最先端の知識を常に吸収しながら、その分野でそれなりの重要性を持った研究テーマを進めていきます。それが、博士課程です。この期間に、論文や学会発表をしながら、自分の成果を公開して、科学者コミュニティにデヴューしていきます。数回の学会発表や論文投稿などを経て、博士を取得します。
 最新の知識は、自分の指導教官だけでなく、同じ道を志している同輩や先輩との交流からも得られることも多いはずです。最先端の知識は、自分自身で見つけ出したり、科学の人的ネットワークからもギブアンドテイクしていきます。最新の知識の収集は、研究を続ける限り、努力を継続していかなければなりません。
 知識の修得や収集と並行して、研究を進めるための「技術」を身につけなければなりません。科学の分野では、データ収集の調査、分析方法、各種の装置を使用法、データ処理技術などを体験的に学んでいきます。これらをマスターして、装置を安心して使用させてもらい、データ精度の信頼性を持つためには、3、4年はかかりそうです。博士課程になると新しい装置の工夫や、新たな使い方などを考案するなど起こるでしょう。そんなとき基礎知識や体系的知識が役立ってきます。
 つまり、修士課程までの大学院生くらいの期間(3、4年)は、「知識」や「技術」を修得するための修行をして、研究の方法を身につけていきます。博士課程では、研究者としての予行演習を行いながら、一人前の研究者としてコミュニティ参加も含めて修行してきます。車の教習でいれば、教習所内での練習は修士課程で、仮免での路上練習が博士課程です。
 最後に、重要なのが、「知恵」です。知恵とは、定義の難しいものです。科学的な考え方や科学を行なうために姿勢、あるいは科学者の良心や倫理観にもどついた規範意識なども含むでしょう。意図して身につけていくものではないのかもしれませんが、教えられるものでもありません。講義も教科書もありません。修行という実践の中から学んでいくものです。つまり、自分自身が研究するということを通じて、研究というもの、研究者というものは、どういうものなのかということを、無意識に身につけていきます。
 これがなかなかやっかいなものです。考え方は自分の思想を、姿勢は生き方を、良心は個人の個性を、倫理観は社会などを、強く反映したものでもあります。一般論ではくくれない場面も多いでしょう。
 修士課程や博士課程では、指導教官が必要になります。先生の後ろ姿から、知恵を学んできます。ですから教え子には、指導者の個性が反映されることがあります。例えば、先生が、論文wp書くためにデータや成果を強く要求する人なら、教え子は多数の論文を書くことが研究者として重要な資質と思ってしまうでしょう。一方、論文の量よりデータの信頼性や再現性を重視したり、テーマの重要性や社会的貢献を意識するような先生なら、教え子もそのような点に注意するでしょう。
 だれが考えても後者のような指導者が優れているようにみえるこかもしれません。しかし、現実には、両方の条件を満たさなければ、「一流の研究者」として生き残れません。そんな研究者は、ほんの一握りの人たちだけになります。多くの研究者はどちらか(あるいは研究をしない研究者)にシフトしていきます。そして、現在、多くの研究者は、成果や業績を重視しなければならない前者になるべく追い込まれています。
 定期的にあるいは多数の論文を書くために、ついつい以前のデータを、さも新たに出したデータと繕ったり、同じ内容なのに見かけを変えて論文にしたりすることがあるかもしれません。
 最初の一歩は許される範囲であっても、繰り返しによってエスカレートしていくと、境界を越えていることがわからないまま、引き返すことにできないところに行ってしまうこともあるでしょう。ですから、最初の一歩へと良心や、客観的に見た時、境界線を越えているという倫理観が歯止めにならなければなりません。できれば、最初の一歩を踏み出さないことが重要になります。そのためには「知恵」が必要です。
 STAP細胞の中心となった研究者も、権威ある大学の研究者との共同しており、日本でもっとの信頼される研究組織で若手の研究リーダーとして過ごしていました。STAP細胞は、世界でも最先端の革新的内容でもありました。これを一流科学雑誌に公表できれば、すべての人を納得させられ、今後の道もすばらしいものとなるはずです。そして、その道へたどり着きました。その道は、間違いのないものだったのでしょうか。もしそうなら、本人が一番知っているはずです。どこで踏み外したのかを。
 どんな状況であっても、良心や倫理観のような「知恵」は必要です。しかし、その研究者だけでなく、多くの最先端の研究施設で追い込まれるような心境で、日々の研究を進めている人も多くいると思います。残念ですが、多くの若手研究者は、彼女の心境が理解できるのではないでしょうか。
 本来、研究とは、強いモチベーションを持った人が行なっていくはずです。そのモチベーションとは、好奇心だと思います。自分の好きなことをしているのだということが、厳しい修行期間を耐えさせ、厳しい成果ノルマを乗り越えるための一番の原動力です。研究者の心のなかで、好奇心が、研究環境や社会条件の重圧より優っている限り、良心や倫理が正常に機能するでしょう。
 幸い私は、今のところ好奇心が優っています。今のポジションが、文系私立大学なので、研究成果よりも、校務や講義をつつがなくこなすことが重視されています。まあ、これも経営上しかたがないことです。そんなんかで、私には、研究が仕事でもありライフワークでもあるので、毎年2編の論文を書くことにして、研究計画を立てています。研究条件はよくありませんが、追い込まれながら研究をする状況ではないという利点があります。
 問題は、研究する時間がだんだん削られてきていること、テーマの科学的重要性や社会的貢献度などがあるかという点です。私の興味を中心としたことが論文となっているので、役になっているかどうかはわかりません。ただし、一人で行う研究が多いので、周りや社会に影響されることなく、自分の良心や倫理に基づいて研究できます。それが一番の良い点かもしれません。貢献はしていないが、害もないというところでしょうか。

・四国の調査・
先日、四国の調査をしてきました。
多くのところは、以前巡ったところでした。
一部、新たに巡ったところもありましたが、
基本的には再確認の作業でした。
5泊6日だったのですが、中一日、
激しい雨と風で調査が殆どできませんでした。
それ以外は順調に調査できました。
まあ、満足のできる調査となりました。

・早い春と遅い春・
高知を調査している時、
高知城の桜が日本で一番最初に
開花宣言をしたというニュースをききました。
沖縄や鹿児島より早く咲いたのか少々不思議でした。
なにかの前提条件を聞き逃したのかもしれませんが。
到着時は、桜は満開ではありませんでしたが、
帰り、高知市に近づくと桜が沢山咲いていました。
山間ではウグイスの鳴き声もききました。
3月末に北海道に帰ってきました。
道路の雪ははとんど融けていますが、
畑や牧草地はまだ真っ白です。
風が吹くと、雪の上を吹き渡る風はまだ冷たいです。
今年の北海道の春は少々遅めになりそうです。

2014年3月1日土曜日

146 一次資料と心

 一次資料は、人が創作したり、自然から読み取った最初のものです。生み出した作家、抽出した研究者にとって、もっと密接な存在になります。そこに思い入れが生まれます。その思い入れは、本人のみにあるのですが、時には周辺にまで伝わることもがあるようです。

 小説家、特に文豪とよばれる作家の未発見の直筆原稿が見つかったとき、大きなニュースになることがあります。あるいは、有名な作家の生原稿が、紛失、破損した時などは、大きな喪失感を持たれます。しかし、多くの無名作家の原稿は、出版後、著者に戻ることなく、行方不明になっていることもあるでしょう。私も以前書いた本の原稿は、戻ってきていません。でも、あまり気しなりませんでした。本ができた達成感を優先していましたので。
 生原稿のような資料の貴重さとは、いったいどのようなものでしょうか。唯一無二の資料という貴重さは、理解できます。しかし、唯一無二の貴重さは、絵画や彫刻などの芸術作品のような一点しかないものに存在する属性です。生原稿は、少々違った側面をもっているようにみえます。
 生原稿は、熱烈なファンや一部の好事家、収集家、あるいは研究者にとって、重要性を持つでしょう。しかし一般の人にとっては、そのような資料を目にすることはほとんどないでしょう。あったとしても、作家の特集記事や資料館でみるくらいでしょう。こんな字を書いていたのか、などという感想を持つ程度ではないでしょうか。生原稿は本と比べれば読みにくく、読むためものではなく、あくまでも本をつくるための原稿なのです。生原稿は、「唯一の存在」という貴重さ以外の何ものかがあるのではないでしょうか。
 作家にとって、印刷物の本として出版されたものが最終的な完成形のはずです。編集やレイアウトにも、作家として指示を出すことがあるでしょう。校正段階で、文章にもいろいろと修正も入ります。したがって、本が最終的な形であって、原稿は最初の段階であるはずです。生原稿を大切にしている作家もいるかもしれませんが、多くの人が最終的な本が重要になるはずです。なぜなら、原稿ができてから本が出版されるまで、多くの時間と手間をかけているからです。
 地質学者が研究論文を書く時、基礎となるのは野外調査のデータです。地図に歩いたルートを記入し露頭の位置と最小限の記録をして、フィールドノートに詳しい情報を記載していきます。地質学者にとって、地図とフィールドノートは、生データの詰まった一次資料として非常に貴重なものになります。
 私も、卒業論文や修士論文、博士論文の調査や国内外の調査で使った地図やフィールドノートは、捨てることなく手元においています。重要な一次情報でもあるのですが、それらのデータは、清書され、整理され、限りなく一次資料に近い二次資料に加工されていきます。そこでは取捨選択が起こります。地図やフィールドノートのデータは、地質図や柱状図、ときには重要な露頭はスケッチとして論文に掲載されることもあります。それらも、加工され清書された二次的なものになっています。
 論文を作成したのちは、継続的に使用することもあるでしょうが、一次資料にあたることはめったになく、せいぜい二次資料です。ただし、研究の根拠になるデータですから、一次資料や実物試料は可能な限り残しておくという義務もあるのかもしれません。
 本も論文も、印刷物ですから、唯一無二のものではなく、多数の複製が存在します。それこそが本や論文を出版する目的でもあります。その背景にある一次資料は、著者にとっては、重要なものであっても、第三者にとっては必要ないものとなります。
 近年は、多くの原稿がコンピュータで書かれ、出版社や学会に添付ファイル、あるいはプリンターで印刷して送付されます。オリジナル自体が、紙ではなくデジタルになってきています。写真や図表でさえもデジタル化されています。他の研究者も作家者も、紙の原稿そのものに愛着はなくなってきているはずです。
 電子書籍での出版も進んできました。出版社が時間をかけて作成する書籍が今も主流ではありますが、ものによっては個人が手軽に電子出版をして、ヒットしたものが印刷物になっていく例もあります。
 先日、地質学の専門書を購入しました。分厚い2分冊の本ですが、印刷版は115$もします。この本には電子書籍版もあり、価格はどちらも同じく115$です。ところが、出版社の販売サイトをよくみると、印刷版とデジタイル版を合わせて購入すると、セット割引で138$となります。両方欲しかったので、これを購入しました。手続き後、書籍はアメリカからやっと配送されてきたのですが、電子版はすぐにダウンロードでき、パソコンで見ることができました。非常に便利になりました。しかし、やはり私は本の方がしっくりします。
 さて、一次資料です。研究者として、論文の根拠となるので、保存する義務があるといいましたが、これは非常に重要な論文の場合のみでしょう。多数の論文では、根拠を問われるような場面、特に古い科学論文では、そのようなことはないでしょう。ですから、保存義務は、大義名分にすぎないのかもしれません。
 私自身の論文は、手書き論文(卒業研究と修士論文)や印刷物だけしかないものも、すべてデジタル化しました。紙でしかない論文も、自分のパソコンで見れるようなっています。最近の論文は、紙の別刷りだけでなく、多くはPDFファイルでももらえ、大学や学会のホームページでも閲覧可能になっています。
 私の場合、一次資料も自分の過去の紙の論文もデジタル化したので、ほとんど出番はないでしょう。でも私は、一次資料を保存しておくでしょう。自分が苦労して調査した記憶が、一次資料には色濃く残っています。その思いが、私にとって一次資料を貴重にさせているのではないでしょうか。多分、私が研究者でいる限り、この資料は手元においておくでしょう。二度と使用することはなくても。
 著名な作家の生原稿は、著者以外の第三者にも、地質学者が一次資料にもっている愛着に似た思いが生じているのかもしれません。第三者にも、その作家を敬愛するあまり、一次資料にも価値を見出すのかもしません。これは、作家への深い思い入れという心の問題なのでしょうね。

・資料属性・
ある小説で、昔の著名な作家の生原稿を燃やす、
燃やさないというやりとりがありました。
作家にとって、原稿は本に至る通過点に過ぎず、
このようなやりとりが、どの程度意味をもつのかを
我が身の場合に置き換えて考えました。
すると、私にとって、失くしたくない重要なものは、
心に関する資料であることに思い至りました。
ただし残念ながら実物資料である岩石については、
移動のたびに廃棄してきました。
なぜなら、重くて搬送が大変で、置き場所もないからです。
仕方がありませんが、
これも資料の属性が生み出す、宿命なのでしょう。

・移動の季節・
3月は年度末で、学校は卒業、組織は退職など
人が移動する季節です。
3月は、出ていくための移動です。
我が大学でも卒業式があり、
退職される方もいます。
残る側にとっては、寂しさがありますが、
出て行く側には、寂しさのほかに、
新天地での期待感もあるでしょう。
そんなことを思う季節になりました。

2014年2月1日土曜日

145 ハーヴェイロードの賢者はいずこ

 かつて、イギリスのハーヴェイロードには賢者がいました。日本にも都のはずれの竹林に賢者がいたようです。賢者という言葉は、現代の日本では死語となっています。しかし、乱れた世の中だからこそ、賢者を待望します。そして、賢者の思索を活かす指導者も必要です。

 今の日本社会は、ひどく混乱をしているようにみえます。国民の気持ちや願いが、政治に反映されているようにはみえません。経済や金が重要課題として、政策がつくられています。一方で、拝金的な行為を蔑み、幸福や満足度などを重視している多くの個人がいます。社会的弱者や若者を守り育てる社会であるべきだとわかっていながら、しわ寄せがいく仕組みが、日本では徐々につくりあげられています。
 テレビや紙面ではコメンテータや評論家が、好き勝手な意見を述べますが、だれもその発言に責任は負いません。責任を問われるようなジャーナリズムは、横並びの報道や意見、あるいは社の方針に基づいた考えしか述べていません。発言に責任を持つべき政治家も、言葉尻やささやかな不祥事は追求され、ポストを追われます。しかし、政治生命を立たれることなく、発言力を持っています。国を危険に陥れるようなもっと大きな政策の誤りに対しては、だれも責任を取りません。みんなが、このような間違いに気づいているはずです。
 かつての世界には、賢者と偉大なる指導者がいました。偉大なる指導者が、賢者の判断に基いて、混乱した世の中を治めていたことがありました。日本でも、偉大な武将にはよい軍師が、革命の英雄には賢者の思想がありました。そのような賢者が存在したのは、明治維新から明治ころまででしょうか。その後、歴史に名を残すような賢者はみあたりません。現在の日本では完全に消えてしまったようです。
 国政にかかわるような場面では、多くの専門家がブレインとして意見を述べていると思います。しかし、政府の決定が賢明なものに見えてきません。そこには賢者はいないようです。これは私だけの見識不足でしょうか。
 もし、今の日本社会で賢者がいるとすると、科学の世界ではないでしょうか。例えば、iPS細胞の山中伸弥教授は、強い信念に基づき臨床への応用、人を救うことを第一の使命として、営利や利潤を求めない研究をされています。筑波大学の山海嘉之教授は、ロボットを弱者を支援する道具として、人のために研究されています。自然科学、工学などの分野の研究者には、賢者のような人はいるようです。いずれも重要な研究テーマですが、日本の国政や国民生活にすぐに影響を与えるような意志決定に結びつくものではありません。
 さて話しは変わって、「ハーヴェイロードの前提」という言葉をご存知でしょうか。ハーヴェイロードとは、イギリスのケンブリッジにある通りや住所の名称です。閑静な住宅地です。「ハーヴェイロードの前提」とは、地名に由来するものです。これは、政治判断をするときの前提のことを意味しますが、少々説明が必要となります。
 「ハーヴェイロードの前提」は、経済学者として有名なケインズ(John Maynard Keynes)にちなんでいます。ハーヴェイ・ロード6番地は、ケインズが生まれ育ったところです。経済学者のハロッドが、「ケインズ伝」の中で用いた言葉で、ケインズの政策提案、あるいは政治思想をあわらすものです。
 ハーヴェイロードは、イギリスの知識階級が集まり議論をしていたところでもありました。ケインズの考え方も、知識階級の議論で生まれてきたそうです。そこから、自由な立場で考える賢者たちの議論が重要性が指摘されました。ハーヴェイロードの前提とは、少数の賢人が合理性に基づいて判断するという意味で用いられました。
 「ハーヴェイロードの前提」を、経済学や経済政策にとどまらず、もっと広く意思決定の方法と捉えると、どうなるでしょうか。民主的に選ばれた人ではなく、考えるべきコミュニティーと関係のない自由な立場にある人たちであることが重要です。何にも束縛されない利害関係のない議論や判断が必要になるからです。そして、多数決などではなく、小数の賢者が、議論つくして決定を下すという流れになります。そのような議論を経て得られた結論は、用いるに値するものとなります。
 何事にも束縛されない自由な条件があるでしょうか。あるいは、このような人材が、今の日本にいるでしょうか。なかなか難しいかもしれません。現在のように、成熟し管理された社会では、利害の生じない自由な立場の知識人たちは、いないかもしれません。知識人は、単にもの知りであるだけではなく、賢者でなければならないのです。
 賢者とは、そもそも古代ギリシアの哲学者や日本の仏道の修行者のような人たちです。無私で大所高所から世の中を見て、合理的な判断を下せる人です。今の日本には、目的が明瞭で、その目的のためには世俗的なこと、金銭的誘惑に惑わされないような科学者に、かろうじて賢者の気配があるのかもしれません。しかし、彼らは目的を追求することが第一義で、目的以外のことには興味を抱かないはずです。彼らの専門は、世俗とかけ離れた自然科学の分野です。逆に、そのような名のある研究者が、知識もない専門外のところで、深い思慮もなく政治や社会に発言すると混乱を起こすかもしれません。
 ハーヴェイロードの前提は、そもそも理想的で架空のものだったのでしょうか。反ケインズ派の経済学者が、ケインズの経済理論を批判するとき、ハーヴェイロードの前提は、非現実的、貴族的、非民主的として攻撃の的にしました。このような批判がもっともであれば、ハーヴェイロードの前提は、空論に過ぎません。
 ハーヴェイロードの前提である、なにものに束縛されない条件など、現代のような情報化社会でありえるのでしょうか。信任を受けない人たちの議論による結論に、多数の市民が信頼を置くでしょうか。現代の日本には、賢者がいたとしても、住みづらいところなっているはずです。いたとしても、それこそ都を離れて竹林に隠遁してしまっているでしょう。
 イギリスのように長年にわたり貴族階層が存続し、彼らに対する英才教育が残っている国では、賢者が生まれるかもしれません。貴族階層の教育も、もともとはよき指導者育成を目指しているはずです。その階層の中で、努力をし、人徳を身につけた人たちが、賢者の候補になっていくのでしょう。
 日本のような平等教育からは、なかなか賢者は生まれないでしょう。日本で賢者が生まれる少ない可能性として、やはり研究者階層からではないでしょうか。ただし、前述のように自然科学や工学の分野では難しそうです。もし社会科学や人文学、特に哲学や倫理学、宗教学などを広く身につけた研究者で、人徳のある人がいるとしましょう。なおかつ、彼らのうち、俗世の金銭や利害から乖離しながらも、世情や日本の現状を把握しながら研究生活をしていたら、現代社会の賢者候補となりえるかもしません。これは単に理想論なのでしょう。現代の乱れた世の中では、そんな賢者がいることを、ついつい期待してしまいます。
 もし賢者待望論が実り、何人かの賢者が現れたとしましょう。次なる問題は、その賢者の意見を実行に移せる偉大なる指導者がいるかということです。彼らも、私利私欲があってはなりません。賢者育成のプロセスの中で、豪胆で指導力のある人が、偉大な指導者になっていくのではないでしょうか。つまり、賢者が生まれるような教育体制が必要ではないかということです。そのこには良き指導者も生まれてくるはずです。今の教育体制を改革するには、賢者と偉大なる指導者が必要なり、負のスパイラルへと落ち込みます。
 混乱した世の中だから、賢者を待望する気持ちも強くなりますが、現実の日本では、ないないづくしです。こんなエッセイを書いていると、ますます失望感が深まります。竹林に隠遁している賢者がいたとしたら、ぜひ日本が取り返しのつかないところに行ってまう前に、でてきてほしいものです。

・出張・
大学は、定期試験が終わり、
採点期間中です。
来週末には大学入試はじまります。
私は入試で出張になります。
冬の時期の出張はトラブルに備えて
余裕をある日程で出張が組まれていきます。
ですから、4日間の出張となります。
寒いのであまり出歩けないので、
どうなることでしょうか。

・校務と研究・
2月から3月にかけて、
大学は講義は終わっているのですが、
入試や卒業、新年度の準備などで
慌ただしくなります。
しかし、空き時間もできるので、
研究をする時間でもあります。
いくつかやりたいことがあるのですが、
今年は校務がいろいろあるので、
落ち着いてできるでしょうか。
それが心配です。

2014年1月1日水曜日

144 大局観をもった予防原則

 昨年は、いろいろな事件や事故がありました。周りに甚大なる被害を及ぼす事柄を考える時、因果関係が重要になります。しかし、因果関係が不明瞭な場合も少なくありません。そんな時、予防原則を用いて考える方法があります。ただし、大局観をもったものでなければなりません。

 正月早々から、暗い話題になりますが、昨年を思い起こしましょう。昨年は、身近に思えるところで、いろいろな事件や事故がありました。食品偽造事件、JR北海道の事故、2011年の3.11に端を発する福島第一原発の汚染水漏れ事故、天候不順など、世間をにぎわす大きな出来事が起こりました。記憶に新しいところでは、拙速にみえる特定秘密保護法(正式には「特定秘密の保護に関する法律」というもの)の成立もありました。また、原子力発電の可否を巡る議論はなおざりなり、どれを再開させるか、どう再開させるかなどと、どうも腑に落ちないことも進行しています。
 いつの時代にも、大きな事故や事件のニュースはあったはずです。しかしいずれも当事者以外は、時間が記憶を風化させていきました。過去の記憶は薄れやすいものなので、「今」を重視してしまうのかもしれません。穏やかならざる「今」は、つぎつぎと新しい事件の記憶を生み出していきます。
 事件や事故は、理屈の上では、原因が解明されれば、その原因への対策をすれば解決するはずです。現時点で解決は難しくても、解決する方向性は見えてきます。原因を克服するために、新しい技術を開発したり、合意を得るために、世論を調整したりすこともできるでしょう。
 ただし世の中は、そう単純にことが運ばないときも多々あります。因果関係や原因がはっきりしているのに対処できないものもあります。例えば、対処をする人間側に「原因」があったり、経済的、技術的な困難さが「原因」となる場合があります。時には、地震や火山噴火など対処できないほどの大きな原因があるでしょう。
 因果を巡る問題はなかなか難しいものです。一番の難しさは、因果関係が不明瞭な場合です。あるいは、因果関係の全く違った考えが提示されている場合、因果関係が不明だが重要な影響がありそうな場合、新しい技術を使用する上で大きな影響が予想される場合なども困難です。課題や技術を、因果関係が不明だから、あるいはまだ新しい技術で問題が発生していないから、などの理由で手をこまねいていていいのでしょうか。そんなとき、どう考え、どう振る舞えばいいのでしょうか。
 ひとつの目安になる考え方があります。予防原則、あるいは予防措置原則と呼ばれている考え方です。予想される危険性を「予防」という立場で考え、行動するというものです。「予防原則」(precautionary  principle)は、1970年代にドイツで使われたものだそうで、オゾン層破壊の問題でも用いられてきました。"precautionary"とは「予防」という意味ですが、"pre"は「予め」、"caution"は「注意、用心」です。因果関係の有無にかかわらず、予め用心して対処しておこうという意味です。
 ただし、運用には注意が必要です。予防措置を過度に適用すると「危険なものはすべて禁止」となり、ゆるく使うと「疑わしきは罰せず」となり、効力が発揮できなくなります。
 予防原則の運用は、人類の叡智、理性が問われることになります。科学には、因果関係を探るだけでなく、予測あるいは推定する力があります。人間には想像する能力があります。危険性が予想される場合、単に危ないと思えると場合も、もしものときの被害を最大限に見積もることも可能なはずです。そんな予想や想像をもとに、予防原則を活用すべきです。
 費用対効果を見積もることも重要でしょう。しかし、費用対効果より重要なのは、地域住民や利害対象者の局所的視点だけでなく、人として、あるいは地球に住まう一生物としての大局観も忘れてはいけないと思います。経済的な視点で考えると、短期的、局所的な収支を中心に考えてしまいます。数年の単位で経済的であっても、100年、1000年の単位で考えると、子孫や人類にとって大きな不利益を与えることもあるでしょう。他の生物、環境への負荷も考慮に入れなければなりません。当事者だけの経済的収支では、搾取されている場所、人、種などへの配慮が欠如することもあります。それをも考慮にいれるために、大局観をもった予防原則を適用すべきでしょう。
 祖先、先人、昨年までの私たちは、「自分たちのため」や「今の快適さ」を行動原理に動いてきました。ある時代、ある地域の人に、益をもたらす技術であっても、将来を見た時、発展よりも現状維持が多くの益を得ることもあるでしょう。そんな選択もあるかもしれません。あるいは、自分たちは負荷を負って将来のために我慢するという選択もあるかもしれません。そんな覚悟をもつべき時代になってきたのではないでしょうか。享受のみの生活ではなく、忍耐を伴った幸福を追求する生き方もあるかもしれません。それこそが大局観を持った予防原則ではないでしょうか。
 「おもてなし」の気持ちも大切ですが、日本人がつい最近まで持っていた気持ちで、ノーベル平和賞のワンガリ・マータイが思い出させてくれた「もったいない」は、実に奥深い言葉です。「ない」から不便、不幸ではなく、「ない」くても幸せ、「ある」ことに疑問をもつ生き方も必要でしょう。そんなことを、昨年を振り返りながら、新年に考えました。

・マネージメント・
昨年は、多忙で、精神的にも非常に辛かった1年でした。
今年以降、更に忙しさが増しそうです。
研究をしているときが、一番充実感を味わいます。
しかしマネージメントを時は
年齢とともに重荷になってきました。
若い頃は、マネージメントは好きではないが、
やればできたし、実際にやってきたものも多々ありました。
今思えば、若いから精神的負担に耐えられ、
充実感も味わえたのでしょう。
最近は、疲労感が増えています。
まあ、それが歳をとるということでしょうか。
愚痴をいわず、新年をはじめましょう。

・賀正・
明けましておめでとうございます。
このエッセイの前身は2001年からスタートしていますが
月刊のメールマガジンとしては、2002年から始めました。
もう13年目になります。
長かったかようですが、毎月のことですから、
ノルマのように書いてきました。
研究に直結しているもの、深く考えてきたもの、
時代に応じたもの、いろいろなものがあります。
私にとってこのエッセイは、
その時々の自分の考えをまとめたり、
新しいことを考えてみるきっかけにしたり
いろいろな背景のものがありました。
読み返すとその時の思いや状況とともに
思い起こすこともあります。
まだまだ、書きたいネタがあります。
次に書こうかと考えているとネタは、30個以上あります。
また、思いついたらネタを加えていきます。
気力が続き、事情が許す限り継続していきたいと思っています。
これかたもよろしければ、お付き合いください。

2013年12月1日日曜日

143 ルクレチウス的直感

 年の瀬は、いつもせわしなく感じます。今年のはじめに考えたことと、達成したことの差を考えると、忸怩たるものがあります。そんな年の瀬には、寺田寅彦がいいかも知れません。100年近く前の知恵ですが、示唆に富んがものがいろいろあります。

 今年も、早、師走を迎えました。私にとって、この1年はあっという間のような気がします。まだひと月も残されているので、いろいろできること、すべきことがあるので、年末までを区切りに、取り組んでいきたいと思っています。でも、この時期になると、どうしても落ち着かなくなります。それでも落ち着いて、我を忘れることなく、淡々と進むべきなのでしょう。そんなとき、寺田寅彦は、どうでしょうか。
 興味を持ったものには、それなりの関心をそそぎ、納得し、なんらかの知識や経験をえることは重要です。何事にも、能動的に取り組むことです。身についた知識や経験は、思わぬところで役立つこともあります。私は、高校の頃、宇宙の起源や海洋学に興味があり、関連の科学普及書をいろいろ読み漁っていました。その後、地質学研究に進んで、高校時代の興味と全く違った方向に進んだのですが、地質学から、科学教育、地質学的素材を用いた哲学などに興味が移っていくと、以前のもっていた広く浅い知識が、役立ってきました。
 多くの人は、このような経験を、多かれ少なかれもっていると思います。寺田寅彦の「科学に志す人へ」(1934年)というエッセイにも「一見雑多な知識が実に不思議な程みんな後年の仕事に役に立った」という一文があります。
 その言葉通り、寺田寅彦は、非常にいろいろなことに興味を持ちました。「X線の結晶透過」という当時の最先端をいっていた研究や、「潮汐の副振動の観測」など地球物理学の「正統派」の研究もしていました。しかし、「金平糖の角のでき方」や「割れ目のでき方」、「椿の花の落ち方」、「墨流し」、「タンポポの実が空中を浮遊する機巧」、「尺八の音響学的研究」(博士論文)など、正統派の物理学で取り上げられないテーマにも興味をもっていました。寺田寅彦の姿勢で一貫していることは、自然への興味と、それを科学にできるまで高めていく姿勢でしょう。それこそが、寺田寅彦の真骨頂ではないでしょうか。一見ヘンテコなテーマですが、その中には先見性のある研究が、いくつも含まれていました。身辺の現象に関する研究は「寺田物理学」と呼ばれるようになりました。
 さて、話しは変わって、LSKです。LSKをご存知でしょうか。売り出し前のアイドルグループでしょうか。それとの危ない薬でしょうか。残念ながら、アイドルグールプでも薬の名称でもありません。LSKを知る人は少ない思います。LSKは、寺田寅彦が名づけたものです。
 「ルクレチウスと科学」(1929)の中で、寺田寅彦は、科学者として持っているべき能力について論じています。古代ローマの詩人であり、哲学者でもあったルクレチウスは、暗いところに差し込む光の中に、ホコリが舞う様子をみて、物質の原子が無秩序な運動をしていると解釈しました。寺田寅彦は、ルクレチウスのこのような直感的な能力が重要だとしています。科学者には、ほかにどのような能力が必要なのかをも論じています。
 科学者として持っているべき能力として、LSKの3つがあるとしました。Lとは、ルクレチウスが持っていたような直観の能力のことです。Sは数理的分析の能力で、Kは実験によって現象を系統化し帰納する能力です。
 LSKを3次元の軸と考えて、定性的にみて能力の高いものが大きな数値を持つ(原点から遠ざかる)とします。研究者は、その能力や業績によって、どこかにプロットされるはずです。LSK空間で、個々の科学者がどこにプロットされるかと考えるものです。
 原点や軸から離れるほど、優秀な科学者であることになります。凡庸な多数の科学者は、原点近くにプロットされます。ただし、、LS面上(K=0)、つまり実験し帰納する能力がなくても、ボルツマン、プランク、ボーア、アインシュタイン、ハイゼンベルク、ディラックのようは理論系の科学者には偉大な人がいます。LK面上(S=0)、数理的分析の能力がなくても、ファラデーやラザフォードやウードなどのように、実験系の偉大な科学者はいるとしています。
 ところが、SK面上(L=0)の研究者には偉大な人はいないと、寺田寅彦はいいます。つまり、直感力がないと、すぐれた科学者にはなりえないということです。「一見雑多な知識が実に不思議な程みんな後年の仕事に役に立った」と寺田寅彦が述べたのは、このような直感力に由来するものでしょう。セレンディピティ(serendipity)や「ひらめき」とも呼ばれているものに通じているのでしょう。
 雑多に見えるかもしれませんが、いろいろ興味から得た知識は、あるとき直感に姿を変えて、思わぬ成果を得られるのです。あるとき、その直感は、実験や観察の方法に反映され、またある時は法則や理論の発見につながるのでしょう。LSKは、もしかすると、科学者だけの能力評価だけでなく、創造的な仕事全般にいえることかもしれません。
 さてさて、皆さんは、原点からどれくらい離れているでしょうか。
 私の場合を見ていきましょう。実験はしなくなりましたが、野外調査を主として、そのデータや資料を整理を行なっています。一流の地質学者の野外調査と比べると見劣りはしますが、テーマに基づいた調査を、細々とながら継続しています。Kは0ではなさそうです。Sの数理的分析はどうでしょうか。優れているわけではありませんが、数値を扱うのは好きです。図表を用いて見えないものを見つけることが好きです。だいそれた理論を生み出すことはありませんが、0ではなさそうです。ルクレチウス的直感力はどうでしょうか。ひらめいたこともかつてはあります。今でも、少しだけひらめくことがあり、幸福感に浸ることもあります。しかし、その成果たるやささやかのものです。つまり、原点ではありませんが、それほど遠くは離れてはいない、多数の凡庸に一つにすぎないようです。
 「一見雑多な知識」も、もしかすると、そのうち「実に不思議な程みんな後年の仕事に役に立」つこともあるやもしれません。だから、歩みはのろいかもしれませんが、継続することが重要なのでしょう。

・寅彦に続け・
今回のエッセイを、
寺田寅彦に関するものにしようと思ったのは、
寅彦の没した日が、
1935年12月31日だということ、
その年齢に私も達したことを知ったからでした。
もう78年前も前のことです。
一月も早い命日ですが、
今年最後のエッセイは、寅彦の知恵にすがりました。
彼は、日清、日露戦争も経験しています。
45歳のときには関東大震災を経験しています。
今よりもっと動乱の時代を生きていました。
そんな中で寅彦は、科学をおこない、
社会に向けて科学啓蒙をしていました。
彼に勝てはしませんが、
見習って研究を遂行していきたいと思っています。

・師走に思う・
11月の北海道では、
突然の大雪に驚かされました。
その後、暖かい日を挟みながらも
冬が深まってきました。
ただ思いのほか、
快晴の日は少なかったように感じます。
今年、後半の天気の特徴でしょうか。
いい天気があっても、長続きがしません。
残された12月はどうなるかわかりませんが、
穏やかに暮れていって欲しいものです。
そんなことを師走の始まりに思いました。

2013年11月1日金曜日

142 タンバー数とアレン曲線

 人間のコミュニケーションを規定するものとして、ダンバー数とアレン曲線と呼ばれるものがあります。これはネット社会が出現する前の考え方でしたが、今の時代に通じるものでしょうか。私の場合を例にして考えていきます。

 11月になると年賀状の販売がはじまります。先日も郵便局の人が個別の訪問で予約を取りに来ていました。そんな知らせがあると、1年の終わりが近いことを意識してしまい、心が急いて落ち着かなくなるものです。年賀状による挨拶も、最近はメールで済ませる方も多いのでしょうか。皆さんは何枚くらい年賀状を出されるのでしょうか。
 私の分は、職場の人や学生などの数は含めることなく、50枚程度です。少ないほうでしょうか。この枚数は、私の恩師、友人や親戚など、常に居場所を知らせておきたい、連絡を取り合っていたい人の数という意味です。
 年賀状の話は少々気が早かったのですが、今回考えたいのは、一人の人間が、対面でコミュニケーションするのは、どれくらいの距離で、どれくらいの人数か、メールや手紙など手段を選ばず、どの程度の人数と常に連絡を取り合える関係も持ちうるのかということです。あるいは、本心から関係を望む人数はどれくらいなのか。その規模に目安があるのかどうか、ということです。
 イギリスの進化人類学者ダンバー(Robin Ian MacDonald Dunbar)は、霊長類の脳の大きさと平均社会集団の大きさには相関関係があることを、1992年に見つけました。38種の霊長類で、グルーミングなどの個人の接触に関するデータを用いて回帰直線を引きました。その直線を人類の脳サイズで考えると、100-230人程度、平均で150人(正確には148人)であることが推定されました。つまり、人間が安定した関係を維持できる上限は150人程度であると述べています。社会集団の規模、あるいは限界の数を、彼の名前をとって「ダンバー数」と呼んでいます。人間の脳のサイズから、社会集団のサイズの限界を、ダンバー数で150名となります。
 ダンバー数は、いくつかの仮定の元に得られた数字で、私たちの社会集団の大きさが150人というのは、実感にあっているでしょうか。私には少々大きすぎるような気がします。私がいる世界は、大学であること、教員という職種の特殊性があるためでしょうか。まあ、感覚的な感想ですから根拠はありません。
 ただし、ダンバー数は、社会集団のサイズに関するもので、離れている人間との関係を示すものでありません。でも人間が常にコンタクトをとれる状態で、少なくとも1年に一度は連絡しあう人の数は、どれくらいかを考えることは重要でしょう。その目安の1つが150名が上限となるいうものです。
 対面での直接コミュニケーションという面で考えると、常に対面でコミュニケーションをとっている数は、どの程度でしょうか。
 私は大学にいますので、学生との対面でのコミュニケーションを考えてみましょう。受け持っているゼミ(1年生、3年生、4年生)の学生数だと合計で50人程度になります。ゼミの学生とはかなり対面のコミュケーションを取ります。
 学科の一学年は50名定員で、4学年あります。私は、学科の講義をいくつか担当しているので、各学年50名とは常に挨拶をするほどのコミュニケーションはとっています。また、少人数の講義でも、対面のコミュニケーションはあり、講義が終わった後も、挨拶はします。これらの講義の学生は、学科の学生の範疇に入れていいかもしれません。50から60名の間でしょうか。
 全学的な定員150名の大人数の講義もいくつかもっています。一部の学生とはコミュニケーションをすることはありますが、あとはほとんどコミュニケーションはありません。コミュケーションをした学生は、挨拶程度はしますが、深いコミュニケーションは講義が終わるとともに消えます。
 大学の学生と対面で深いコミュニケーションをとる学生は、50から70名の間となるでしょうか。大学の教職員を考慮にいれると、深い付き合いは10から20名程度加わって、60から90名程度になります。教職員で軽い付き合い(会話とちゃんとする人で挨拶程度は除く)は、50名程度になるでしょうか。
 私の場合、深いコミュニケーションを取るのは階層ごとに50名程度、ついで広く浅い対面コミュニケーションを考えると150名程度という数値が目安になりそうです。タンバー数の150名が上限というのに符合しています。
 大学を離れてのコミュケーションを考えます。私の場合、家族以外の対面のコミュニケーションは、極端に減ります。ある時期深い付き合いがあり、今では連絡は少ないですが、いつでもコミュニケーションを取れる状態にしておきたい人という意味で、年賀状などの挨拶状で近況報告をしあっている人は、それにあたりそうです。
 一般に、年賀状や移転通知などの挨拶状は、儀礼的、商的なものも多分にあります。ですから、対面ではないコミュニケーションとして、儀礼的、商的なものを除いてどれくらいの数があるでしょうか。私は、対外的な職務あったときや、何度も転居、転勤など移動している時期は、挨拶状は150枚以上ありましたが、今では落ち着いて年々数を減らしています。意図的に減らしていることもありますが、今では50枚程度になっています。ここでは、学生や大学の同僚は除いています。
 少々古い(1970年後半)考えですが、「アレン曲線」というものがあります。アメリカの工学システムの研究者アレン(Thomas J. Allen)が考えたものです。革新的な思考を促進するために適切なスペースを、グラフで示しました。技術者のコミュニケーションの頻度とオフィス間の距離には指数関係があるということを示しました。距離が近いと頻繁にコミュケーションがとられるが、離れると急激に減少するというものです。毎週コミュニケーションをとるには、その距離は50mが限界であるというものです。
 アレン曲線は、技術者がものづくりをするときに必要なコミュニケーションという観点に限ったものですが、現代人、あるいは私のようなデスクワークを主として生活をしているものには、どの程度の距離でしょうか。
 私の場合を考えると、大学のメインのキャンパスには、ざっと10個の建物があります。私はそのうちの1つの最上階の5階に研究室があます。私は、休日以外は、基本的に大学にいて、講義や校務のないときは、研究室にいます。講義や仕事などで、10個のうち5個の建物には、頻繁に行き来しています。直線距離で、半径150m程度になりそうです。距離は組織や建物によって違ってくるでしょうが、デスクワークをする人に共通する鼓動パターンの特徴となるのではないでしょうか。ただし、通勤の経路や自宅は含めていません。
 私が頻繁に対面のコミュニケーションをするのは、学生以外の同僚とは、同じ階の人が多くなります。とすると50mという数字は当てはまりそうです。離れている建物の人には、電話かメールで連絡することが多く、必要な時な交互に行き来することになります。近ければ対面でのコミュニケーションをとり、離れるほどの対面でのコミュニケーションは減ります。対面でのコミュニケーションに限定すると、50mというはいい数値のような気がします。
 アレン曲線はかなり古い時代もので、実社会での人間関係を元にした考察です。また、ダンバー数もアラン曲線も、インターネットの普及や、現代の携帯電話やスマートフォーンの普及を考慮していないものでした。上の話でも、前提の条件をいろいろ付けましたし、私の立場の特殊性もありますので、数値がそのまま適用できるかどうかはわかりません。しかし、なんとなくある数や距離にコミュニケーションが規定されるという考えは、当てはまりそうに見えます。そして、その値も大きく外れてはいないように思えます。
 コミュニケーション人数として、密接にできる人は50名程度、常に付き合える限界は150名程度(ダンバー数)、コミュニケーションの距離もアラン曲線があてはまり、50mが対面コミュニケーションの限界(アラン曲線)というものも、適合しそうです。

・秋の調査を断念・
秋に調査に出たかったのですが、
講義の関係で調整ができませんでした。
ですから、3月になってからに
出かけることになりそうです。
予算の執行上の都合で
早めに予定を決めて、
チケットを事前に手配しておく必要があます。
そして残金処理をできるようにしておくことになります。
まあ、大学や組織の会計年度の都合があるので、
実際に動けるのは、限られた時期になるのを
3月に行動するとなると
このような事前の手配が必要になります。
まだ、だいぶ先ですが、
あれよあれよという間に時間が過ぎていくので
心して置かなければなりません。

・卒業研究・
11月になると卒業研究のために
4年生と空き時間につぎつぎと
添削校正の打ち合わせが入ってきます。
まあ、大切なことなので、付き合いますが
11月はかなりの時間が、ここに割かれます。
私も努力しますから、
学生の努力にも期待したいものです。
最後には、いい卒業研究ができたと思えるものになることを
願うしかありません。

2013年10月1日火曜日

141 道具をつくる人:心は自由に

 シリアの化学兵器使用が国際問題になり、一時は戦争の危機もありました。悪意を持った道具の使用は、使用者が罪問われるのは当たり前ですが、道具を作った人は罪に問わません。少々複雑な思いがしますが、それが健全だと思います。今回は地質学から離れて、道具と作者の関係について考えていきましょう。

 Winny(ウィニー)というソフトウェアをご存知でしょうか。インターネットをよく利用される方、ITに詳しい方は、聞いたことがあるかもしれません。また、ニュースをよくご覧になられる方も、知っているかもしれません。
 Winnyとは、コンピュータのソフトウェアで、インターネットを介して、ファイルを交換するためのソフトです。サーバーを経由することなく、ネットにつながったパソコン同士でファイル交換できるので、効率よくデータのやり取りができます。コンピュータ上のファイルは、すべて交換可能になります。Winnyは無料のソフトであったため、非常多くに人が利用しました。「すべてのファイル」には、音楽や映画などのデジタル・コンテンツと呼ばれるものも含まれます。さらに、通信の暗号化もでき、匿名性の高いという特徴ありました。
 デジタル・コンテンツは著作権で保護されているものなので、コピーは違法な行為となります。また、著作権法違反や個人情報保護法に触れるようなコンテンツの交換を、匿名性をもったWinnyでおこなえば、違法行為がわかりにくくなります。Winnyは違法行為をするための道具としても、よく利用されていました。
 京都府警は、蔓延する違法コピーを取り締まるために、何人かを逮捕をしました。そのとき、ソフトの作者も著作権法違反幇助の疑いで、一緒に逮捕しました。逮捕は、2004年5月10日のことでした。Winnyの作者は、金子勇さん(当時東京大学大学院情報理工学系研究科助手)でした。
 Winnyは、コンピュータ用のソフトで、ネットワークを用いたファイル交換の手段、道具です。その道具を使って、違法行為がなされたとき、その製作者を逮捕したのです。そのニュースを聞いた多くの人が、疑問に感じたと思います。実際に識者も、いろいろな論点で抗議しました。
 最終的にこの事件は、2006年に京都地方裁判所で有罪判決が下りましたが、2009年の大阪高等裁判所では無罪判決、そして2011年に最高裁判所が検察側の上告を棄却し、無罪が確定しました。つまり、道具の作者は無罪となりました。
 この問題には、いくつかの論点がありそうです。著作権に関する問題はもちろんのことですが、手法・道具を作成した人が罪を問われるべきか、違法行為のための道具をどう取り締まるか、複雑化するネット犯罪の手段にどう対処するのか・・・。どれも重要な問題です。ここでは道具と犯罪とその作者について考えていきます。
 違法行為を取り締まりたいがために、利用された道具の作者を取り締まるべきでしょうか。もし、その道具が犯罪のためだけにしか使用しないものであったら、取り締まるべきでしょうか。Winnyの事件は、結論を出さない前に、逮捕がありました。
 Winnyが多くの人が利用していたのは、便利だからです。広範囲の利用目的があった道具の作者が、犯罪の共犯者にされたのです。著作権侵害の取り締まりに、Winnyの作者の金子さんが、スケープゴートとなったと読み取れます。一般化すると、道具が犯罪に使われた時、それを作った人を逮捕したという構図です。そう考えると、この逮捕は、明らかにおかしいものと思えます。
 通常、道具は、使い方しだいで、毒にも薬にもなり、益も害も与えます。銃や刀剣は、犯罪や戦争など人を傷つけるために使われます。一方、身を守るため、狩猟や生活のためにも利用されます。ですから、すべての道具は自由に発想し、発明し者、作成することは、罪に問われることがありません。もっといえば、人の発想、その発想を具現化する自由を守らなければなりません。この姿勢は重要です。
 では、悪意を持ってつくられた道具の作者は犯罪に問われるのでしょうか。例えば、コンピュータウイルスは明らかに、悪意あるいはマイナスの結果をわかっていて作成、流布させます。現状では、考えただけ、作成しても実行しなければ、犯罪とはなりません。実際に実行したら、実行者が犯罪者となります。発想することや作成することには、罪を認めないという原則です。コンピュータウイルスの例では、少々理解し難い部分のある考え方ですが、この原則は重要だと思います。
 化学兵器や生物兵器、原子爆弾は、使用したら、敵以外の人々も傷ついたいり、死ぬことも起こります。利用されれば、大きな被害でます。悪意の明らかな道具ともいえます。化学兵器や生物兵器、原子爆弾などは、使用に関しては、よく監視されていますが、研究すること、保持することは、取締まられていません。
 使えば、悪い状況、避難を受け、使用者は罪に問われることがあっても、発明者や作成者は罪に問われることはありません。やはり、発想や作成には制限をかけないという原則が適用されているためです。
 どんな発想であっても、それを抑えること、そんな環境を生むのは、よくないことです。発想や創造は、心の働きがに大きく依存します。心を自由にさせることが重要で、心を縛り付けたり、萎縮させるような状態は、よくないことです。
 原子爆弾の開発であっても、そこから原子力への平和利用への道が生まれます。その原子力の平和利用も、現在、福島第一原発の事故で、岐路に立たされています。原子力関係者は、自由や発想はなかなかできないでしょう。もちろん、社会的責任や倫理の問題がよく考える必要がありますが。
 しかし、原子力の技術や知恵を、根絶やしにしてしまえというのも危ない考え方だと思います。すべての研究は開発は、原子力の含めて常に自由に進めておく必要があります。もちろん、大掛かりな実験であれば、それなりの監視も必要でしょうが。発想や開発に制限をかけることは、たとえ原子力発電であっても、上で述べた原則からも、よくないことです。
 誤解をされそうなので、注意が必要ですが、私の立場は、現状の原子力発電は停止すべきだと思っています。今までの反省を踏まえ、政府のいう安全性ではなく、科学的に安全なものであれば、将来稼働の可能性を残すべきでしょう。ただし、現状の技術では科学的に安全なものは難しいと思います。また、核廃棄物の処理技術もできていなので、それが完成してからでないと、商業発電を考えるべきではないでしょう。
 現在、日本は、拡散してしまった核汚染の除染や、大量の核廃棄物処理して行かなければならない立場に立たされいます。そこに叡智と国費を集中すべきでしょう。今のように世論で原子力への圧力は、研究にも制限を加えることになりかねません。もっと確かな安全技術、廃棄物の処理技術が生まれることすら捨て去ることになりかねません。商業的運用ではなく、研究・開発は続けるべきだと思います。これは、原子力だけにかかわらず、すべての分野で徹底されるべきだと思います。将来、安全性や信頼性が向上し、核廃棄物の処理技術が完成できるかもしれないからです。その時、商業的原子力発電をする、しないの判断をしてはどうでしょうか。まだ、不安が残るのであれば、さらに研究を続ければいいのです。その選択を子孫に託すべきではないでしょうか。研究開発をやめるということは、それに関する知恵、知識の途絶、断絶を意味し、将来の選択肢をなくすということにもなります。
 このように原則にそった考え方は、現在の原発事故への心情とは相反する答えがでてきます。心情は重要なファクターです。親が子を思う心、子が親を思う心、家族への愛情、そのような心情は抑えがたいものがありますが、理性や知恵の示す方向も重要です。知恵をもった人として、理性的にものごとを考えていきべきでしょう。
 Winnyの作者の金子勇(当時現在東京大学情報基盤センター特任講師)氏が、2013年7月6日午後6時55分、急性心筋梗塞で死去されました。享年42歳でした。少々遅くなりましたが、ご冥福をお祈りします。彼の死は、発想へはどんな制限を加えてはいけない、制限は悪意の行使のみにすべきということを、私に教えてくれました。

・抑止力・
原子爆弾を保有することで、
核の抑止力を発揮するという、
非常に特異な論理が用いられています。
詭弁に見えます。
抑止力とは使用しないという前提で成り立ち、
使用しないと決まると抑止力が消えます。
人の行動は理性を逸脱することもあります。
ですから、道具があり悪意があれば、
危機が常につきまといます。
私たちの技術や科学がそのレベルに達したのです。
しかし、いつもどこかに悪意があるのは
私たちの心情や理性が、
そのベレルに達してはいなのでしょうか。
もしそうならそんな危険なものを発想レベルから
抑止するのがいいという発想もわからなくはないのですが、
それこそ人の可能性や知性の力を貶める気がします。
難しい問題です。

・ストーブ・
北海道は涼しくなりました。
18日には大雪山の黒岳で初雪が観測されました。
私の街でも、初霜が降りました。
まだストーブはつけていません。
我が家は、2年に一度、ストーブのメインテナンスをしています。
我が家では、部屋ごとの個別暖房はなく
家全体を温めるために、
大きなストーブが2台あります。
それを寒くなる前に業者に清掃してもらいます。
今年は少々遅いのですが、
先日、お願いすることにしました。
その間にさらに寒くならなければいいのですが。