時間を哲学では、非常に難しい対象として研究されています。私は、地質学でどう扱っていくべきかを、重要なテーマととして取り組んでいます。時間は、自然科学でも地質学でも、難しい対象なのです。
私は重要なテーマのひとつとして、地質学の素材を用いて、過去の時間をどのように、どこまで復元できるかなどを考えています。地質学的なアプローチとして、各種の地層に時間がどのように記録されているのかを、体系化、抽象化を試みています。
日本列島によくみられる地層は、もともとは陸地から土砂として河口付近にたまったものが、地震や洪水をきっかけにして、大陸斜面を海底土石流として流れ下って、大陸斜面から海溝付近にたまってできたものです。海底を流れていく土石流はタービダイトと呼ばれています。水中を密度の違う物質が流れていくため密度流と呼ばれたり、いろいろな堆積物が混じっているため混濁流とも呼ばれています。
タービダイトによって形成された地層はタービダイト層といいます。タービダイト層は、「タービダイト」がそのまま使われることもあり、混乱するので、ここでは地層を指す場合には「層」をつけることにします。
日本列島でよくみられる地層の典型ともいうべきタービダイト層の形成は、上で述べたような成因を持つので短い時間で終わる現象です。小学校の理科で地層のでき方を、実験をしたことがあると思います。ペットボトルに土砂と水を入れて、よく振ります。しばらく置くと、濁りがとれて、土砂が大き粒から小さい粒へと整然とたまっています。これは、地層のできる様子を模擬実験(シミュレーション)としておこない、観察するものでした。
タービダイトでは、これの作用が大規模に起こったものです。タービダイトは、ペットボトルと比べて大規模ですが、物理的現象ですから、水中での物質の移動がはじまり、混濁し物質の流れが形成され、重力流となり、やがて傾斜がゆるくなると、粒子が沈降します。ペットボトルと実際のタービダイト比べると、移動も、堆積も、何桁も違うものですが、時間としては、地質学的には大きな違いはありません。形成に要する時間は、タービダイトが発生してから、数時間、せいぜい数日で終わる現象になります。
短時間でできたタービダイト層は、大陸斜面のくぼみや麓、海溝に付近にたまります。そこは、沈み込む海洋プレートが列島側に付け加える付加作用が起こっているとこでです。付加作用によってできたものを、付加体と呼んでいます。
付加体の主要構成物は、陸側からはタービダイト層、海側からは海洋地殻の岩石や海洋底の堆積物、海山の残骸などがあります。付加作用は、プレートの境界域で起こる激しい地質現象なので、地層はひどく乱れたもの(メランジュと呼ばれます)から、整然としたものまで、同し岩石でも見かけの違ういろいろなものが形成されます。ですから、同じタービダイト層でも、陸地にある付加体では多様な見かけになります。
このタービダイト層を体系化して、時間記録がどのようになされ、どのように変容するかということを整理しています。このとき私が着目しているのは、地層に記録されている時間が、地層という物質に置き換えられているという点です。過去の時間を直接観察しているのではないのです。地層には、物質という側面と、ある空間を占めているという側面もあります。地層は、過去の時間を空間に置き換えていると読み替えることが可能です。変ないい方に聞こえたかもしれませんが、実は普遍的な見方にも通じるものでもあります。
物理学の重要な体系である相対性理論では、時間と空間は同じもの、変換可能とされています。時空という渾然一体化したものとみなされます。
さらに、相対性理論では、光の速度が絶対不変のものになっています。光速度はどのようは状態で観測しても、一定であることは実証されていることから前提とされているものです。ですから、光速度一定の立場でみると、時間も空間も区別がなくなり、過去も未来も存在しないことになります。
例えば光速で移動している光子からみると、空間は無限に縮み、時間も無限に縮みます。つまりビックバンのときに誕生した光子が現在に残っていたとしたら、我々には137億年もたっていたとしても、その光子には「時間は経過はしない」ということになります。あるいは質量を持たない素粒子(未発見の重力媒体素粒子の重力子、グラビトンなども同じ)の移動は、時間や空間は絶対的存在ではなく、速度こそが不変のものとなります。
ところで速度は、長さを時間で割った次元を持ちます。長さは空間の単位でもあります。つまり速度とは、空間と時間の比、対応関係を意味しています。質量をもたない、物質ではない存在からすると、時空間を関係を速度で代表できることになります。
一方、私が研究対象としている地層は、物質です。物質には質量があります。速度と質量を結びつける関係として、相対性理論では、
E=mc^2
という関係があります。ここでEはエネルギー、mは質量で物質を意味し、cは光速度です。別の表現として、ニュートン力学では、
F=1/2・mv^2
とも表現されます。Fは力で、mは質量、vは速度です。
両式は記号は違いますが、形式が同じです。質量に着目すると、質量とは力もしくはエネルギーと速度の2乗との比を表していることになります。別の表現をすれば、エネルギーと質量の比、力と質量の比は一定、あるいは時空の比になるという関係です。
時間は、光速、速度の中に現れますが、それは時空の比であって、質量を持たないものには単なる定数になります。これはいったい何を意味するのでしょうか・・・・。
難しい問題です。物理的に考えても、複雑です。物理の実験では時間を観測しますが、それは時計の針の運動やデジタル表示(結晶の発振による)などの規則的に繰り返される運動を、時間と見立ているわけです。本当の時間ではなく、規則的、周期的運動をみているにすぎないのです。物質の運動の周期を数えているだけではなのです。そんな不連続な数、カウントを、時間とみなしているのです。私たちが扱っている時間は、離散的であって、決して連続した流れではないのです。
時間について、いろいろ考えていると、人は本当に時間を認識すること、まして科学的に扱うことができるのか、過去を知ること、未来を予測することができるのか、などの疑問を感じてしまいます。
・サクラの開花・
サクラが咲きました。
一気に咲き誇るサクラは見応えがあります。
北海道だけではないかもしれませんが、
雪に閉ざされた冬から、春へ。
雪解けのあとに訪れる春の陽気とサクラ、
そして背景の春の青空。
北海道の青空は、本州のように霞んだものではなく
すっきりとした澄み切ったものです。
毎年のことなのですが
サクラの春はいいです。
日本人だからでしょうかね。
・リフレッシュ・
皆さんは、ゴールデンウィークは、いかがお過ごしでしょうか。
カレンダー通りで、5連休でしょうか。
我が大学は、29日を平常授業の日とし、
5月7日、8日を休講にしています。
そこは、大学の教職員は休みではないですが、
多くの職員は休みをとることでしょう。
学生は9日間の連休となります。
私は、この連休を知って、急に思い立ち、
7日から11日まで調査に出ることにしました。
本当なら6日にでたかったのですが、
運賃がかなり違うので平日に出発することにしました。
4泊5日ですが、移動に2日ですから、
賞味3日間を調査に当てます。
今回は、以前いったところばかりですが、調査としてきます。
なにより野外調査で、リフレッシュできればと思っています。
2015年5月1日金曜日
2015年4月1日水曜日
159 普遍を目指して:大きな知性
研究をしている人間はだれもが、自分の成果が、より普遍的なものになるように望み、そのために弛まぬ努力をしています。しかし、日々の歩みは、苦渋に満ちています。そんなジレンマを紹介します。
新しい年度がはじまりました。私は、2015年に入ってから、校務が急増してきました。つぎつぎと仕事に追われて、なかなか気の休まることがありません。手を抜きたいのですが、大事な仕事だとわかっているので、やるしかないと思い、こなしています。それでも、隙間時間をみて、自分の研究はしなければと、研究にしがみついています。すべてを投げ捨てて、野外調査にでも出たいものですが、なかなか行けません。今年度の学内の研究費に応募していて、今年度には2回の野外調査に出る申請をしています。当たるかどうか、また当たったとしても出れるかどうかが問題ですが、現状からの開放が調査によって必然的に生まれます。それを期待している日々です。
愚痴はこれくらいにして、研究の普遍化について考えていきます。私にとって研究が一番興味があること、そして最優先すべきことです。2番が学生に対する教育、3番が給料分としての校務の順です。現在の研究は個人でおこなっています。一方、教育も校務の相手や組織があることなので、他者への対応、他者との面談、組織人としての会議、締め切りなど、個人の事情を斟酌しない強引さがそこには存在します。そんなとき、どうしても研究が犠牲になります。これが、サラリーマンでもあり、研究者でもあり、教育者である、といういくつものワラジを履いている現代人のつらさでしょう。
またまた愚痴っぽくなってきました。研究をしている人間にとって、研究は自己満足的、自己完結的なところがあります。研究には、最終的にその成果を公表、公開し、学界や世間の評価を受けるところで、一つのサイクルが完結するはずです。ですから、テーマや内容、そして成果の重要性も重要なことになります。ただし、成果の重要性は即座に判断できるとは限りません。基礎的、あるいは画期的であれはあるほど、評価は後の時代になることも多いでしょう。
評価はさておき、研究者は、自分の成果を普遍化することが重要だと考えています。普遍化は成果公表時に重要になります。普遍化によって、個別の成果が、汎用性を持ったものになります。普遍化には知性が必要です。個々のデータ、地域の記載、個別の現象から、「見えない何か」、「いままでにないもの」を見出すことが普遍化です。そこには、知性によってのみ普遍化がなされます。優れた知性による大きな普遍化が起こると、それは人類に大きな福音を与えてくれます。
普遍化の評価は、時代が決めます。科学の成果には、ある時代には非常に役立っても、それが利用され尽くされ、より優れたものがでてくれば、その普遍化の成果の役割が終わることもあります。
このような減少は科学技術にはよくあることです。例えは、真空管やブラウン管などは、ある時代、多くの人類に恩恵を与えました。しかし今では特別な用途をのぞき、ICやLSI、液晶ディスプレイなどにほとんど置き換わってきました。従来の技術を超える新技術が生まれ、その必要性が高くなると、需要が大ききくなり、経済原理で低価格化が進み、庶民に普及し「枯れた」技術となっていきます。やがて新たな技術への大転換が起こるのでしょう。そんな繰り返しが科学にはあります。
個別の問題、局所的問題、地域性的問題の解決に用いるための成果にも、真空管とブラウン管と同じような運命になるものも多いのでしょう。いや大部分はこのような末路をたどるはずです。
ところが科学の成果には、古びないものもあります。それは、普遍化の大きな原理や法則などです。そんな原理、法則も、個別、局所、地域の問題解決から抽出されることも多々あります。それを成しとげるのは、やはり研究者の知性に負っています。個別から普遍へという転換は、大きな知性が必要です。普遍性が大きいほど、その法則は長く生き残るでしょう。そして、法則には、人類の知性として永久保存される原理のようなものもあります。
中には、だれもが無意識に利用しているものもあります。例えば、ギリシア時代に構築された三段論法などの論理、近世にはそれまで無意識に利用されてきた帰納法と演繹法などが体系化されました。これらは、考え方自体は多くの人が使っていたものですが、それを意識的に抽出して、体系化することによって、無意識による利用以上の使い道があることもがわかってきました。それが古典的論理体系となって今も活きています。日常の考え方から普遍性を抽出したという点で、偉大な知性が導いた業績となります。このような原理、法則を導いた、プラトンやアリストテレス、デカルト、ベーコンなどの知性は、人類を代表し、時代を超えるものといえます。
ある研究者、あるグループが、今まで誰も気づかなかったものを、独自に構築していくこともあります。弁証法、唯物論、構造主義などの考え方、ニュートンの古典力学、ダーウィンの進化論、アインシュタインの相対性理論やシュレーディンガーやハイデルベルグなどの量子力学など学問も、普遍化された体系です。大きな知性によって普遍化されたものです。普遍性の大きな考え方、学問体系は、時代を越えて残るものでしょう。それを生み出した知性は、偉大な人物として、歴史にいつまでも刻まれているでしょう。
基礎科学に携わる研究者の多くは、普遍を目指して研究しているはずです。地域や個別の素材、試料、題材を扱いながらも、自分の研究を進め、小さいながらも成果を普遍化をています。大きな普遍を生み出すのは、稀なことですが、小さいな一歩一歩の積み重ねから、少し大きめの普遍が生まれることもあります。校務や雑用に追い詰められながらも、研究を諦めることになく、日々進めています。進めているテーマ自体も個別で、ささやかなものであることも、多くの研究者は自覚しています。でも、何年かに一度は、ささやかですが普遍化された成果が出ることもあります。そんな喜びを糧に、次なるテーマへと歩を進めていく日々です。
愚痴からはじまったこのエッセイですが、どこもで似たような不平不満、愚痴をいっている研究者がいることでしょう。日々の生活、仕事から生まれる不満は、そこには普遍化に時間を費やせない苦しみが反映されているのかもしれません。もしかしたら、その不満には自分才能のなさの嘆きも含まれているかもしれませんね。
・春には・
今年の北海道は、雪解けが早かったです。
12月や1月の積雪は、例年を上回っていたようですが、
繰り返しの暖気が、早めの春を呼んだようです。
北海道の人間にとって、
春が一番待ち遠しく、嬉しい季節です。
そこに卒業や入学が重なるので、
春はひとしお、思い出深くなります。
・入学式・
我が大学は、昨年から4月1日が入学式になりました。
今年度から学科長になり、
新入生の前で挨拶をしなければなりません。
ストレスがたまります。
年齢的に、そして組織の人員構成上、
仕方がないことも理解できます。
だから、どこにもいえない、訴えられない
不満が生まれてくるのでしょう。
しかし、学生は可愛く思えます。
いろいろ問題を起こす学生も多々います。
でも、彼ら、彼女らが卒業すれば、
過去のトラブルもすべて帳消しになり
すべて思い出になっていきます。
そんな卒業式もだいぶ前に思えてしまいます。
まだ、2週間もたってないのですが。
新しい年度がはじまりました。私は、2015年に入ってから、校務が急増してきました。つぎつぎと仕事に追われて、なかなか気の休まることがありません。手を抜きたいのですが、大事な仕事だとわかっているので、やるしかないと思い、こなしています。それでも、隙間時間をみて、自分の研究はしなければと、研究にしがみついています。すべてを投げ捨てて、野外調査にでも出たいものですが、なかなか行けません。今年度の学内の研究費に応募していて、今年度には2回の野外調査に出る申請をしています。当たるかどうか、また当たったとしても出れるかどうかが問題ですが、現状からの開放が調査によって必然的に生まれます。それを期待している日々です。
愚痴はこれくらいにして、研究の普遍化について考えていきます。私にとって研究が一番興味があること、そして最優先すべきことです。2番が学生に対する教育、3番が給料分としての校務の順です。現在の研究は個人でおこなっています。一方、教育も校務の相手や組織があることなので、他者への対応、他者との面談、組織人としての会議、締め切りなど、個人の事情を斟酌しない強引さがそこには存在します。そんなとき、どうしても研究が犠牲になります。これが、サラリーマンでもあり、研究者でもあり、教育者である、といういくつものワラジを履いている現代人のつらさでしょう。
またまた愚痴っぽくなってきました。研究をしている人間にとって、研究は自己満足的、自己完結的なところがあります。研究には、最終的にその成果を公表、公開し、学界や世間の評価を受けるところで、一つのサイクルが完結するはずです。ですから、テーマや内容、そして成果の重要性も重要なことになります。ただし、成果の重要性は即座に判断できるとは限りません。基礎的、あるいは画期的であれはあるほど、評価は後の時代になることも多いでしょう。
評価はさておき、研究者は、自分の成果を普遍化することが重要だと考えています。普遍化は成果公表時に重要になります。普遍化によって、個別の成果が、汎用性を持ったものになります。普遍化には知性が必要です。個々のデータ、地域の記載、個別の現象から、「見えない何か」、「いままでにないもの」を見出すことが普遍化です。そこには、知性によってのみ普遍化がなされます。優れた知性による大きな普遍化が起こると、それは人類に大きな福音を与えてくれます。
普遍化の評価は、時代が決めます。科学の成果には、ある時代には非常に役立っても、それが利用され尽くされ、より優れたものがでてくれば、その普遍化の成果の役割が終わることもあります。
このような減少は科学技術にはよくあることです。例えは、真空管やブラウン管などは、ある時代、多くの人類に恩恵を与えました。しかし今では特別な用途をのぞき、ICやLSI、液晶ディスプレイなどにほとんど置き換わってきました。従来の技術を超える新技術が生まれ、その必要性が高くなると、需要が大ききくなり、経済原理で低価格化が進み、庶民に普及し「枯れた」技術となっていきます。やがて新たな技術への大転換が起こるのでしょう。そんな繰り返しが科学にはあります。
個別の問題、局所的問題、地域性的問題の解決に用いるための成果にも、真空管とブラウン管と同じような運命になるものも多いのでしょう。いや大部分はこのような末路をたどるはずです。
ところが科学の成果には、古びないものもあります。それは、普遍化の大きな原理や法則などです。そんな原理、法則も、個別、局所、地域の問題解決から抽出されることも多々あります。それを成しとげるのは、やはり研究者の知性に負っています。個別から普遍へという転換は、大きな知性が必要です。普遍性が大きいほど、その法則は長く生き残るでしょう。そして、法則には、人類の知性として永久保存される原理のようなものもあります。
中には、だれもが無意識に利用しているものもあります。例えば、ギリシア時代に構築された三段論法などの論理、近世にはそれまで無意識に利用されてきた帰納法と演繹法などが体系化されました。これらは、考え方自体は多くの人が使っていたものですが、それを意識的に抽出して、体系化することによって、無意識による利用以上の使い道があることもがわかってきました。それが古典的論理体系となって今も活きています。日常の考え方から普遍性を抽出したという点で、偉大な知性が導いた業績となります。このような原理、法則を導いた、プラトンやアリストテレス、デカルト、ベーコンなどの知性は、人類を代表し、時代を超えるものといえます。
ある研究者、あるグループが、今まで誰も気づかなかったものを、独自に構築していくこともあります。弁証法、唯物論、構造主義などの考え方、ニュートンの古典力学、ダーウィンの進化論、アインシュタインの相対性理論やシュレーディンガーやハイデルベルグなどの量子力学など学問も、普遍化された体系です。大きな知性によって普遍化されたものです。普遍性の大きな考え方、学問体系は、時代を越えて残るものでしょう。それを生み出した知性は、偉大な人物として、歴史にいつまでも刻まれているでしょう。
基礎科学に携わる研究者の多くは、普遍を目指して研究しているはずです。地域や個別の素材、試料、題材を扱いながらも、自分の研究を進め、小さいながらも成果を普遍化をています。大きな普遍を生み出すのは、稀なことですが、小さいな一歩一歩の積み重ねから、少し大きめの普遍が生まれることもあります。校務や雑用に追い詰められながらも、研究を諦めることになく、日々進めています。進めているテーマ自体も個別で、ささやかなものであることも、多くの研究者は自覚しています。でも、何年かに一度は、ささやかですが普遍化された成果が出ることもあります。そんな喜びを糧に、次なるテーマへと歩を進めていく日々です。
愚痴からはじまったこのエッセイですが、どこもで似たような不平不満、愚痴をいっている研究者がいることでしょう。日々の生活、仕事から生まれる不満は、そこには普遍化に時間を費やせない苦しみが反映されているのかもしれません。もしかしたら、その不満には自分才能のなさの嘆きも含まれているかもしれませんね。
・春には・
今年の北海道は、雪解けが早かったです。
12月や1月の積雪は、例年を上回っていたようですが、
繰り返しの暖気が、早めの春を呼んだようです。
北海道の人間にとって、
春が一番待ち遠しく、嬉しい季節です。
そこに卒業や入学が重なるので、
春はひとしお、思い出深くなります。
・入学式・
我が大学は、昨年から4月1日が入学式になりました。
今年度から学科長になり、
新入生の前で挨拶をしなければなりません。
ストレスがたまります。
年齢的に、そして組織の人員構成上、
仕方がないことも理解できます。
だから、どこにもいえない、訴えられない
不満が生まれてくるのでしょう。
しかし、学生は可愛く思えます。
いろいろ問題を起こす学生も多々います。
でも、彼ら、彼女らが卒業すれば、
過去のトラブルもすべて帳消しになり
すべて思い出になっていきます。
そんな卒業式もだいぶ前に思えてしまいます。
まだ、2週間もたってないのですが。
2015年3月1日日曜日
158 理と質:学問の本質
自分が研究している学問分野が、どのような視座をもっているのかは、研究者には暗黙知となっています。研究者は、そんなことに疑問を感じないかもしれません。新たな分野で研究をスタートする時、学際的共同研究をする時など、視座の違いは不協和音を生むかもしれません。
現在の科学は、非常に細分化されています。その欠点を補うために、領域横断的な学問の必要性が唱えられ、実践もされています。それでも、先端で進められている研究になると、少し分野の離れた研究者には内容や進捗を知り得ないことも往々にして起こります。特に最新の技術や手法、装置などを利用する分野では、顕著だと思います。
これは、最先端の科学の話です。学問には、非常に基本的な原理や原則と呼ぶべきものがあります。その学問、あるいは対象に対する原理のようなものがあり、その理解なくしてはその学問や自然科学を進められないような内容があります。たとえば、物理学では、古典力学や電磁気学などの分野が基礎をなし、もっと本質に遡れば、元素や原子などの特性、性質、解析するときの数学的手法、議論を進める上での論理学などは、さらなる基本的な原理となります。
原理以上に重要だと考えられるものがあると、私は思っています。それぞれの学問体系に固有の研究手法、考え方ともいうべきものが、それに当たるのではないでしょうか。少々わかりに言い方かもしれませんので、説明しなければなりません。
物理学と哲学、地質学をとりあげてみていきましょう。学問の考え方、進め方にどんな違いがあるのでしょうか。そのとっかかりは、学問の名称、漢字の意味の違いにあらわれている気がします。文字から、含蓄をもった背景が見えてきます。
物理学の「理」は「り」と読みますが、「ことわり」とも読みます。「理」とは、世界大百科によると、もともとは璞(あらたま、掘りだしたままでまだ磨いてない玉)から、美しい模様を磨きだすとの意味だそうです。その後、「鄭(てい)人、玉のいまだ理(みが)かざるものを謂いて璞となす」(戦国策)のような使用から、「ととのえる」あるいは「すじ目をつける」という意味が生じてきたようです。さらに後には、中国思想の中心的な道徳的規範として、抽象化された秩序、理法、道理などの意味として使われるようになってきたようです。
学問体系の用語として「理」は、物理学の他にも、広く「理学」から、「地理学」や「心理学」などにも使われています。地理学は地(地球)の理を、心理学は、心の理を調べる学問であるということになります。理とは、なかなかいい言葉ではないしょうか。
理(こわり)とは、璞(今まで知られていないものごと)から、有用なものを磨きだした(見出したりした)玉(体系)なのです。物理学という言葉は、「物」(ものごと)の「理」(こわり)を調べる「学」問となります。物理学を表すのに、非常に適切な用語だといえます。ただし、「物」あくまで実態のある自然、あるいは自然を成り立たせている作用、現象など、自然に直結している対象となります。これが、物理が自然科学である所以でもあります。
一方、私が今興味をもって進めている哲学も、今まで取り組んできた地質学は、理の文字を用いていない学問です。これは、少々気になるところであります。
哲学の「哲」は、「あきらか」と読むこともあります。「哲」は「折」と「口」が合わさってできた字です。「折」は断ち切ることで、「口」が合わさって「哲」になると、言動が明快に断ち切れる、適切であるという意味になります。そこから物事の筋道が通っている様や人に対して用います。「哲」は、「理」よりもっと筋を通している、より抽象化しているような語感があります。やはり、これも哲学という学問の本質を表しているように見えます。哲学では、対象はものから概念、人の思考まで、なんでもありで、そこから筋道、道理など、より本質的なものを抽象していくことを目的している学問です。
次に、地質学の「質」です。「質」は、「しち」、「しつ」、「たち」などの読み方があります。「しち」は、本物・本人の代わりで、同等の機能、価値をもつもので、「身代」(むかわりとも読む)という字が与えられることもあります。「しつ」と読めば、内容や中味のことで、ある対象を他と区別する特色という意味です。「たち」と読めば、人やものごとの性質や特徴を意味します。いずれの「質」においても、ある対象の本質を全体的、総体的、大局的、包括的にとらえることを意味しています。
哲学は、対象を限定することなく、道理、真理を追求することに重きをおています。極限まで抽象化していくことで残ったものが哲学の原理となるります。一番の本質のみを求める学問が、哲学の本来の姿なのかもしれません。
理(ことわり)とは、自然のままの璞(あらたま)から、いらないものを、磨いて捨て去ることでもあります。これは、還元主義的手法を象徴しています。物理学がおこなっているような学問は、本質に関わらないものをそぎ落とし、中核となるものだけを抽象していく作業です。ただし、対象は自然です。見える自然だけでなく、磁気や電気、電波、力、熱、エネルギー、エントロピーなど見えないものでも、自然を構成し、科学の俎上に乗るものであれば、すべて対象となります。ただし、抽象化することを究極の目的としています。求めるているのは、すべてから抽出された究極の原理(統一場理論などと呼ばれています)です。まだまだ、先は長いようですが。
地質学は、何ものも削り取ることなく地(球)全体の質を探る学問です。もちろん、その手法として物理学や数学、化学、生物学など多様な手法を適用しています。物理学や数学を導入するときには、還元的に処理を進める必要があります。ただし、還元的手法でえた結論の成否は、対象である地(球)に照らし合わせていくことになります。広い地域(空間)、長い時代(時間)になればなるほど、原理原則より大局的、包括的な整合性が重要になります。
今回とりあげた3つの学問体系は、ぞれぞれ目指す方向、用いている手法は違っています。もっとも抽象化の著しい哲学と、還元化されていますがあくまでも自然を対象にしている物理学、そして自然を包括化という方向性をもった地質学がありました。物理学と地質学の間に、化学と生物が位置します。もちろん生物学の方が地質学よりです。
それぞれの学問の中には、質的(総合化、包括化)な部分と理的(還元的、抽象化)な部分が混在しているでしょう。たとえば総合的な地質学においても、モデル実験や合成実験、化学分析を中心手段にしているような分野は、抽象度の強いものとなります。物理学でも、天文学など観測を中心にしている分野は、理論より観測事実の探査、現象を捉えることに主眼をおいている分野もあります。天文学のような観測分野は、抽象化より総合化、包括化が強くなります。物理学や地質学と学問を大括りにするのは、少々乱暴かもしれません。しかし、これまで述べてきたように、学問の言葉が表している中味には、それなりの真理はありそうです。主たる専門として地質学を進めてきた私としては、地質学が理の学問でないことには、それなりの意義を見出しています。
・次なるテーマへ・
いよいよ3月になりました。
2月中にすべきことがあったのですが、
ほとんどできませんでした。
ただし、空いている時間があれば、
少しでもいいから進めることはしていました。
それは面白いテーマや作業になることは
少し進めておかげてわかってきました。
ただし、もはや時間切れです。
3月には別のテーマの仕事を進めなければなりません。
・卒業・
3月は卒業のシーズンです。
私の所属する学科でも、
例年より多くの卒業生が巣立ちます。
それぞれの思いを持って社会に旅立ちます。
寂しい反面、喜ばしい思いもあります。
卒業式はまだ少し先ですが。
それまでは4年生は在学生です。
現在の科学は、非常に細分化されています。その欠点を補うために、領域横断的な学問の必要性が唱えられ、実践もされています。それでも、先端で進められている研究になると、少し分野の離れた研究者には内容や進捗を知り得ないことも往々にして起こります。特に最新の技術や手法、装置などを利用する分野では、顕著だと思います。
これは、最先端の科学の話です。学問には、非常に基本的な原理や原則と呼ぶべきものがあります。その学問、あるいは対象に対する原理のようなものがあり、その理解なくしてはその学問や自然科学を進められないような内容があります。たとえば、物理学では、古典力学や電磁気学などの分野が基礎をなし、もっと本質に遡れば、元素や原子などの特性、性質、解析するときの数学的手法、議論を進める上での論理学などは、さらなる基本的な原理となります。
原理以上に重要だと考えられるものがあると、私は思っています。それぞれの学問体系に固有の研究手法、考え方ともいうべきものが、それに当たるのではないでしょうか。少々わかりに言い方かもしれませんので、説明しなければなりません。
物理学と哲学、地質学をとりあげてみていきましょう。学問の考え方、進め方にどんな違いがあるのでしょうか。そのとっかかりは、学問の名称、漢字の意味の違いにあらわれている気がします。文字から、含蓄をもった背景が見えてきます。
物理学の「理」は「り」と読みますが、「ことわり」とも読みます。「理」とは、世界大百科によると、もともとは璞(あらたま、掘りだしたままでまだ磨いてない玉)から、美しい模様を磨きだすとの意味だそうです。その後、「鄭(てい)人、玉のいまだ理(みが)かざるものを謂いて璞となす」(戦国策)のような使用から、「ととのえる」あるいは「すじ目をつける」という意味が生じてきたようです。さらに後には、中国思想の中心的な道徳的規範として、抽象化された秩序、理法、道理などの意味として使われるようになってきたようです。
学問体系の用語として「理」は、物理学の他にも、広く「理学」から、「地理学」や「心理学」などにも使われています。地理学は地(地球)の理を、心理学は、心の理を調べる学問であるということになります。理とは、なかなかいい言葉ではないしょうか。
理(こわり)とは、璞(今まで知られていないものごと)から、有用なものを磨きだした(見出したりした)玉(体系)なのです。物理学という言葉は、「物」(ものごと)の「理」(こわり)を調べる「学」問となります。物理学を表すのに、非常に適切な用語だといえます。ただし、「物」あくまで実態のある自然、あるいは自然を成り立たせている作用、現象など、自然に直結している対象となります。これが、物理が自然科学である所以でもあります。
一方、私が今興味をもって進めている哲学も、今まで取り組んできた地質学は、理の文字を用いていない学問です。これは、少々気になるところであります。
哲学の「哲」は、「あきらか」と読むこともあります。「哲」は「折」と「口」が合わさってできた字です。「折」は断ち切ることで、「口」が合わさって「哲」になると、言動が明快に断ち切れる、適切であるという意味になります。そこから物事の筋道が通っている様や人に対して用います。「哲」は、「理」よりもっと筋を通している、より抽象化しているような語感があります。やはり、これも哲学という学問の本質を表しているように見えます。哲学では、対象はものから概念、人の思考まで、なんでもありで、そこから筋道、道理など、より本質的なものを抽象していくことを目的している学問です。
次に、地質学の「質」です。「質」は、「しち」、「しつ」、「たち」などの読み方があります。「しち」は、本物・本人の代わりで、同等の機能、価値をもつもので、「身代」(むかわりとも読む)という字が与えられることもあります。「しつ」と読めば、内容や中味のことで、ある対象を他と区別する特色という意味です。「たち」と読めば、人やものごとの性質や特徴を意味します。いずれの「質」においても、ある対象の本質を全体的、総体的、大局的、包括的にとらえることを意味しています。
哲学は、対象を限定することなく、道理、真理を追求することに重きをおています。極限まで抽象化していくことで残ったものが哲学の原理となるります。一番の本質のみを求める学問が、哲学の本来の姿なのかもしれません。
理(ことわり)とは、自然のままの璞(あらたま)から、いらないものを、磨いて捨て去ることでもあります。これは、還元主義的手法を象徴しています。物理学がおこなっているような学問は、本質に関わらないものをそぎ落とし、中核となるものだけを抽象していく作業です。ただし、対象は自然です。見える自然だけでなく、磁気や電気、電波、力、熱、エネルギー、エントロピーなど見えないものでも、自然を構成し、科学の俎上に乗るものであれば、すべて対象となります。ただし、抽象化することを究極の目的としています。求めるているのは、すべてから抽出された究極の原理(統一場理論などと呼ばれています)です。まだまだ、先は長いようですが。
地質学は、何ものも削り取ることなく地(球)全体の質を探る学問です。もちろん、その手法として物理学や数学、化学、生物学など多様な手法を適用しています。物理学や数学を導入するときには、還元的に処理を進める必要があります。ただし、還元的手法でえた結論の成否は、対象である地(球)に照らし合わせていくことになります。広い地域(空間)、長い時代(時間)になればなるほど、原理原則より大局的、包括的な整合性が重要になります。
今回とりあげた3つの学問体系は、ぞれぞれ目指す方向、用いている手法は違っています。もっとも抽象化の著しい哲学と、還元化されていますがあくまでも自然を対象にしている物理学、そして自然を包括化という方向性をもった地質学がありました。物理学と地質学の間に、化学と生物が位置します。もちろん生物学の方が地質学よりです。
それぞれの学問の中には、質的(総合化、包括化)な部分と理的(還元的、抽象化)な部分が混在しているでしょう。たとえば総合的な地質学においても、モデル実験や合成実験、化学分析を中心手段にしているような分野は、抽象度の強いものとなります。物理学でも、天文学など観測を中心にしている分野は、理論より観測事実の探査、現象を捉えることに主眼をおいている分野もあります。天文学のような観測分野は、抽象化より総合化、包括化が強くなります。物理学や地質学と学問を大括りにするのは、少々乱暴かもしれません。しかし、これまで述べてきたように、学問の言葉が表している中味には、それなりの真理はありそうです。主たる専門として地質学を進めてきた私としては、地質学が理の学問でないことには、それなりの意義を見出しています。
・次なるテーマへ・
いよいよ3月になりました。
2月中にすべきことがあったのですが、
ほとんどできませんでした。
ただし、空いている時間があれば、
少しでもいいから進めることはしていました。
それは面白いテーマや作業になることは
少し進めておかげてわかってきました。
ただし、もはや時間切れです。
3月には別のテーマの仕事を進めなければなりません。
・卒業・
3月は卒業のシーズンです。
私の所属する学科でも、
例年より多くの卒業生が巣立ちます。
それぞれの思いを持って社会に旅立ちます。
寂しい反面、喜ばしい思いもあります。
卒業式はまだ少し先ですが。
それまでは4年生は在学生です。
2015年2月1日日曜日
157 noblesse oblige:覚悟と献身
ノブレス・オブリジュという聞きなれない言葉があります。意味は本文で詳しく紹介しますが、指導者への警句とも読めます。少し前の時代であれば、これを重要な警句と考え、実行に移した人もいたでしょう。今の時代では、この言葉通りに振る舞うのは、なかなか難しいようです。そんな時代に、指導者はどうすればいいのかを考えました。
若い時、その分野で偉大な成果を出した科学者がいたとしましょうた。彼が、その後も科学の世界にとどまり、研究を続け、それなりの業績を挙げていけば、一流の科学者へと成長していきます。研究の傍ら、後進の指導をおこない、年齢とともに、自分の仲間や弟子たちが科学の世界(コミュニティ)に進出していくことでしょう。彼やその仲間たちは、学界内でそれなりの勢力を持ち、発言力が増していきます。やがて彼は、指導的立場に立つことになっていくことでしょう。
彼が、指導的立場になればなるほど、研究に従事する時間よりも、学界の運営や学界からの情報発信に多くの時間を割かれていくようになるでしょう。ただし、弟子たちの共同研究として業績は増え続けるでしょう。師を立てることにより、弟子たちも資金や研究環境もよくなり、学会内での認知度や発言力も上がっていき、ギブエンドテイクの関係が成り立ちます。彼は、中枢に入り込み、運営や政策、提言など学界の利益代表として重要な役割を果たすでしょう。
しかし、科学者の中には、常に研究を続けていたい人もいることでしょう。現在の日本では、なかなか研究だけに専念できる条件を維持続けている人は少なく、誰もが学界内の中枢で運営にかかわって働く必要があります。時には、指導的立場にはなじまない人、トラブルを起こしたり、人的軋轢があるような人は、それなりに免除されることにあります。ただし、そのような人は、資金的に社会的に冷遇されたりすることもあります。円満に学界中枢から離れている研究者は少数派でしょう。
さて、コミュニティの中枢の指導者の話です。科学の世界だけでなく、政治や経済の世界でも、中枢的な立場に立つ人って貢献できる人は、それなりの資質が求められるのではないでしょうか。それは、どんな資質でしょうか。
その世界での業績、業界での実績が、あるにこしたことはありません。業績や実績のある人は、それなりの努力や苦労をして、経験も豊富であることは確かでしょう。しかし、実績、業績の優劣が、指導的立場の立つための、必要条件ではなさそうです。いい選手がいいコーチとは限らないし、上で述べたように、大きな業績を挙げた人すべてが指導者に適しているとはいえません。
コミュニティの中枢に立つためには、実績、業績だけでなく、指導者特有の能力や見識が必要になるでしょう。そして、対人関係が発生する場面では、人が精一杯働ける意欲を沸かせるだけの、指導力が必要でしょう。そうでなければ、人は動きませんし、大きなコミュニティを動かせないでしょう。
指導力や見識は、残念ながら上に立つすべて人に備わっているとは限りません。指導力や見識がない人も、時には指導的立場に立つことがあるでしょう。そんなとき、コミュニティの指導者において必要不可欠な資質とは、なんでしょうか。
まず前提として、そのコミュニティへの帰属意識、「愛」といっていのかもしれません。その上で、指導的立場に立つという「覚悟」を持って、その世界に「献身」することが必要なのではないかと思います。愛、覚悟と献身は、すべてのコミュニティの運営における、指導者の要件となるのではないでしょうか。小さなコミュニティであれば、構成員全員が愛を持ち献身的でなければ組織は動かないでしょう。構成員の献身が担保されていれば、指導者はみんなのために働くという「覚悟」だけがあれば、最低限の条件を満たせることになります。小さなコミュニティであれば、これで運営はできるでしょう。
そこには時間や労力だけでなく、指導者の資産の持ち出しもあるかもしれません。指導者の「愛」と「覚悟」があれば、資産を投げ打ってでもコミュニティで「献身」するでしょう。指導者としてそんな覚悟できるかどうか、これからはその覚悟が問われるのかもしれません。
先日、CNNのニュースで、イギリスにある貧困と不正を根絶するための国際支援団体オックスファム・インターナショナル(Oxfam International)の調査結果が報道されました。「2016年には富裕層上位1%の富は、その他99%の人々の富を上回る」といいます。つまり、1%の富裕層が、世界の富の半分を持つことになるということです。
このユースを聞いて、直結はしないのですが、「ノブレス・オブリージュ」という言葉が思い浮かびました。その意味は後で紹介します。
富めるものと貧するものの格差、貧富の差がますます広がっていることを示しています。社会主義や共産主義態勢の崩壊に続き、グローバル化による資本主義の行き詰まりが生じてきました。その中で、富めるものは労働者階級から合法的に、国によっては非合法に資本を搾取することに専念しています。国ごとに、個人ごとに、経済の格差がますます広がるということです。
バブル崩壊以降、21世紀になって、世界が持っている資本は、アフリカ以外の途上国の分を除くと、ほとんど出尽くしているのではないでしょうか。あとは、毎年生まれてくる少ない再生可能な資本と、限りある「化石」資本を運用するだけです。それを覚悟していく時代になったのではないでしょうか。
限られた資本を、均等に再分配する共産主義、社会主義は崩壊しました。途上国のアフリカが、これからの資本の狩場となるのでしょうか。持てるものは、持たざるものから、搾取を繰り返すという構図がスタートしてきたようです。この構図は何時の時代もあったのですが、最近富に激しくなってきたよに見えます。そんな時代に突入したのでなかいかというのが、CNNのニュースをみた私の思いでした。
もしそうなら、金(かね)や経済を社会の中心におく資本主義は、もう限界が見えてきたことになります。このような格差拡大を是正するためには、小さなコミュニティで、金銭によらない豊かさを求める生き方、暮らし方がが一つの解決策ではないでしょうか。そのようなコミュニティを認める覚悟と、構成員全体が他者やコミュニティに献身的であることが、これからの社会では必要ではないでしょうか。
さて、ノブレス・オブリージュは、フランス語のnoblesse obligeで、英語ではnoble obligationと訳されることがあります。直訳としては「高貴さの責任」となり、意味としては、高貴さには責任が伴うということになります。一般には、権力や地位につくにはそれなり責任が伴うという意味で使われているようです。
富を持つ人が、政治や権力を握ることとは、完全なイコールではないでしょうが、庶民や貧困層よりは明らかに結びつきは強いと思います。上で述べた文脈でいうと、中枢にいる指導者、特に富める権力者は、それなりの責任が伴うということです。その責任にはいろいろなものがあるでしょうが、重要な資質として、覚悟と献身だともいいました。しかし、現在の世界をみると強力な指導者で、指導力と見識のある人は、極端に減ったように見えます。小数いたとしても、他が独善的であれば、複数の大きな国家、民族規模のコミュニティでは、指導力も見識も通用しなくなります。
もしそうなら、世界を小さなコミュニティに再編して、成長、金銭的利益より心の豊かさなどを目標を定め、その中で全員が覚悟が決まれば、大きな指導力がなくても献身だけで社会が動くのではないでしょうか。ノブレス・オブリージュという一部の特権階級の指導力や見識に期待するのではなく、だれもができる組織運営が必要ではないでしょうか。ノブレス・オブリージュに対抗して、common devotionとでも呼びましょうかね。
・新プロジェクト・
あっという間に1月が終わりました。
そして2月です。
大学は定期試験と入試が重なりかなり忙しい時期です。
私も入試に伴う出張や校務がいろいろとあります。
しかし、講義がない時期なので、
一番まとまった時間を使えるので、
新しい学問をまとめて勉強したり、
次の論文の準備をしたり出来る期間でもあります。
今年は、新しいアイディアに基づいた
プロジェクトをスタートしようと考ええています。
新たな研究のスタートというより、
今までの研究の集大成を行なっていくというものです。
しかし、そのプロジェクトを1ヶ月で
終わらせたいと目論んでいますが、
どうなることでしょうか。
大変で苦しいものが、楽しくもあります。
そのためには、校務を順調にこなさなければなりませんが。
・卒業旅行・
4年生の卒業研究が全て終わり、
あとは、成績評価で、私の作業になります。
ゼミの打ち上げも先日行いました。
その中には、卒業旅行にいって不在のものもいました。
羨ましい限りです。
これから社会にできていく前に
最後の学生生活を謳歌するのでしょう。
心置きなく楽しんでもらいたいものです。
あとは、卒業式まで逢えません。
若い時、その分野で偉大な成果を出した科学者がいたとしましょうた。彼が、その後も科学の世界にとどまり、研究を続け、それなりの業績を挙げていけば、一流の科学者へと成長していきます。研究の傍ら、後進の指導をおこない、年齢とともに、自分の仲間や弟子たちが科学の世界(コミュニティ)に進出していくことでしょう。彼やその仲間たちは、学界内でそれなりの勢力を持ち、発言力が増していきます。やがて彼は、指導的立場に立つことになっていくことでしょう。
彼が、指導的立場になればなるほど、研究に従事する時間よりも、学界の運営や学界からの情報発信に多くの時間を割かれていくようになるでしょう。ただし、弟子たちの共同研究として業績は増え続けるでしょう。師を立てることにより、弟子たちも資金や研究環境もよくなり、学会内での認知度や発言力も上がっていき、ギブエンドテイクの関係が成り立ちます。彼は、中枢に入り込み、運営や政策、提言など学界の利益代表として重要な役割を果たすでしょう。
しかし、科学者の中には、常に研究を続けていたい人もいることでしょう。現在の日本では、なかなか研究だけに専念できる条件を維持続けている人は少なく、誰もが学界内の中枢で運営にかかわって働く必要があります。時には、指導的立場にはなじまない人、トラブルを起こしたり、人的軋轢があるような人は、それなりに免除されることにあります。ただし、そのような人は、資金的に社会的に冷遇されたりすることもあります。円満に学界中枢から離れている研究者は少数派でしょう。
さて、コミュニティの中枢の指導者の話です。科学の世界だけでなく、政治や経済の世界でも、中枢的な立場に立つ人って貢献できる人は、それなりの資質が求められるのではないでしょうか。それは、どんな資質でしょうか。
その世界での業績、業界での実績が、あるにこしたことはありません。業績や実績のある人は、それなりの努力や苦労をして、経験も豊富であることは確かでしょう。しかし、実績、業績の優劣が、指導的立場の立つための、必要条件ではなさそうです。いい選手がいいコーチとは限らないし、上で述べたように、大きな業績を挙げた人すべてが指導者に適しているとはいえません。
コミュニティの中枢に立つためには、実績、業績だけでなく、指導者特有の能力や見識が必要になるでしょう。そして、対人関係が発生する場面では、人が精一杯働ける意欲を沸かせるだけの、指導力が必要でしょう。そうでなければ、人は動きませんし、大きなコミュニティを動かせないでしょう。
指導力や見識は、残念ながら上に立つすべて人に備わっているとは限りません。指導力や見識がない人も、時には指導的立場に立つことがあるでしょう。そんなとき、コミュニティの指導者において必要不可欠な資質とは、なんでしょうか。
まず前提として、そのコミュニティへの帰属意識、「愛」といっていのかもしれません。その上で、指導的立場に立つという「覚悟」を持って、その世界に「献身」することが必要なのではないかと思います。愛、覚悟と献身は、すべてのコミュニティの運営における、指導者の要件となるのではないでしょうか。小さなコミュニティであれば、構成員全員が愛を持ち献身的でなければ組織は動かないでしょう。構成員の献身が担保されていれば、指導者はみんなのために働くという「覚悟」だけがあれば、最低限の条件を満たせることになります。小さなコミュニティであれば、これで運営はできるでしょう。
そこには時間や労力だけでなく、指導者の資産の持ち出しもあるかもしれません。指導者の「愛」と「覚悟」があれば、資産を投げ打ってでもコミュニティで「献身」するでしょう。指導者としてそんな覚悟できるかどうか、これからはその覚悟が問われるのかもしれません。
先日、CNNのニュースで、イギリスにある貧困と不正を根絶するための国際支援団体オックスファム・インターナショナル(Oxfam International)の調査結果が報道されました。「2016年には富裕層上位1%の富は、その他99%の人々の富を上回る」といいます。つまり、1%の富裕層が、世界の富の半分を持つことになるということです。
このユースを聞いて、直結はしないのですが、「ノブレス・オブリージュ」という言葉が思い浮かびました。その意味は後で紹介します。
富めるものと貧するものの格差、貧富の差がますます広がっていることを示しています。社会主義や共産主義態勢の崩壊に続き、グローバル化による資本主義の行き詰まりが生じてきました。その中で、富めるものは労働者階級から合法的に、国によっては非合法に資本を搾取することに専念しています。国ごとに、個人ごとに、経済の格差がますます広がるということです。
バブル崩壊以降、21世紀になって、世界が持っている資本は、アフリカ以外の途上国の分を除くと、ほとんど出尽くしているのではないでしょうか。あとは、毎年生まれてくる少ない再生可能な資本と、限りある「化石」資本を運用するだけです。それを覚悟していく時代になったのではないでしょうか。
限られた資本を、均等に再分配する共産主義、社会主義は崩壊しました。途上国のアフリカが、これからの資本の狩場となるのでしょうか。持てるものは、持たざるものから、搾取を繰り返すという構図がスタートしてきたようです。この構図は何時の時代もあったのですが、最近富に激しくなってきたよに見えます。そんな時代に突入したのでなかいかというのが、CNNのニュースをみた私の思いでした。
もしそうなら、金(かね)や経済を社会の中心におく資本主義は、もう限界が見えてきたことになります。このような格差拡大を是正するためには、小さなコミュニティで、金銭によらない豊かさを求める生き方、暮らし方がが一つの解決策ではないでしょうか。そのようなコミュニティを認める覚悟と、構成員全体が他者やコミュニティに献身的であることが、これからの社会では必要ではないでしょうか。
さて、ノブレス・オブリージュは、フランス語のnoblesse obligeで、英語ではnoble obligationと訳されることがあります。直訳としては「高貴さの責任」となり、意味としては、高貴さには責任が伴うということになります。一般には、権力や地位につくにはそれなり責任が伴うという意味で使われているようです。
富を持つ人が、政治や権力を握ることとは、完全なイコールではないでしょうが、庶民や貧困層よりは明らかに結びつきは強いと思います。上で述べた文脈でいうと、中枢にいる指導者、特に富める権力者は、それなりの責任が伴うということです。その責任にはいろいろなものがあるでしょうが、重要な資質として、覚悟と献身だともいいました。しかし、現在の世界をみると強力な指導者で、指導力と見識のある人は、極端に減ったように見えます。小数いたとしても、他が独善的であれば、複数の大きな国家、民族規模のコミュニティでは、指導力も見識も通用しなくなります。
もしそうなら、世界を小さなコミュニティに再編して、成長、金銭的利益より心の豊かさなどを目標を定め、その中で全員が覚悟が決まれば、大きな指導力がなくても献身だけで社会が動くのではないでしょうか。ノブレス・オブリージュという一部の特権階級の指導力や見識に期待するのではなく、だれもができる組織運営が必要ではないでしょうか。ノブレス・オブリージュに対抗して、common devotionとでも呼びましょうかね。
・新プロジェクト・
あっという間に1月が終わりました。
そして2月です。
大学は定期試験と入試が重なりかなり忙しい時期です。
私も入試に伴う出張や校務がいろいろとあります。
しかし、講義がない時期なので、
一番まとまった時間を使えるので、
新しい学問をまとめて勉強したり、
次の論文の準備をしたり出来る期間でもあります。
今年は、新しいアイディアに基づいた
プロジェクトをスタートしようと考ええています。
新たな研究のスタートというより、
今までの研究の集大成を行なっていくというものです。
しかし、そのプロジェクトを1ヶ月で
終わらせたいと目論んでいますが、
どうなることでしょうか。
大変で苦しいものが、楽しくもあります。
そのためには、校務を順調にこなさなければなりませんが。
・卒業旅行・
4年生の卒業研究が全て終わり、
あとは、成績評価で、私の作業になります。
ゼミの打ち上げも先日行いました。
その中には、卒業旅行にいって不在のものもいました。
羨ましい限りです。
これから社会にできていく前に
最後の学生生活を謳歌するのでしょう。
心置きなく楽しんでもらいたいものです。
あとは、卒業式まで逢えません。
2015年1月1日木曜日
156 碩学:無限の可能性
明けましておめでとうございます。新年最初の話題は、知恵のある大人物についての話です。少々難しい熟語ですが、碩学鴻儒(せきがくこうじゅ)という言葉があります。碩学への道を目指して、精進していこうと考えています。
今年最初のエッセイで、私がこれからの目指そうしている道を紹介しようと思います。人生の残された時間を使って、碩学への道を目指すことです。
まず、サバンから話をはじめます。サバン症候群という障害をご存知でしょうか。
私がサバン症候群について一番最初に知ったのは、「レインマン」という映画でした。父の遺産を大半を兄のレイモンド(ダスティン・ホフマンがやっていました)が相続しました。弟のチャーリー(トム・クルーズ)に残されたとは車とバラだけでした。兄のレイモンドがサバン症候群の自閉症であるという設定でした。弟は遺産を手に入れようとして兄を施設から連れ出して、自分の住む街まで旅行をしていきます。旅行中に、兄の障害から生まれるさまざまなトラブル、驚異的な計算能力など驚き、それをギャンブルに悪用したりなどの出来事を通じて、やがて弟が兄を受けていくというストーリーでした。
この兄のレイモンドには、モデルがありました。サバン症候群のキム・ピーク(Kim Peek、1951.11.11ー2009.12.19)という人です。キムを取材したテレビ番組を何度か見たことがあるのですが、その能力には驚かされました。キムは、ボタンをとめたり、靴下をはくこともできないような先天性脳障害による発育障害をもっていました。
しかし、キムは、驚異的な記憶力をもっています。1ページを数秒で写真のように記憶し、9000冊以上の本を読み、その内容の98%は瞬時に検索して思い出すことができます。歴史と地理の情報も連動しています。地図や電話帳もすべて記憶しているので、地名を聞けば、道路と郵便番号をすぐに答えます。その地の過去の歴史もすべて教えてくれます。数学における抽象的概念を理解できないですが、算数的計算能力やカレンダー計算が驚異的です。彼の能力は、50歳をすぎても発展中で、記憶や計算だけでなく、晩年にはピアニストとしての才能を開花させていたそうです。
サバン症候群の人の話、特にキムの話を聞くと、人の脳が秘めている可能性を思い知らされます。脳は、記憶に対していくらでもキャパシティはあるのです。脳の新しい能力は、いつもで開花させられるのです。脳は、もっともっと、いろいろな用途に使えるのです。キムはそれを教えてくれました。
さて、サバンという言葉です。英語ではsavantと書き、語源はフランス語で、原意は「知る」ということです。日本語では碩学(せきがく)と訳されます。碩とは「大きい」という原意で、「頭が充実している」とか「中身が優れている」という意味になっています。ですから、碩学とは、学が優れているということになります。
碩学は、「碩学鴻儒(こうじゅ)」という熟語で使われることがあります。鴻とは「大きい水鳥」という原意で、「ひしくい」という雁の仲間で最も大きい鳥のことです。そこから転じて、抜きん出た才能という意味で「鴻才」や、儒教に優れた「鴻儒」という言葉があります。碩学も鴻儒も、学問の優れたという意味で使われ、碩学鴻儒としても使われています。
人間の能力において、記憶力と検索力は非常に重要な機能です。キムの能力が、人に驚嘆を与えたのは、記憶力と検索力であったことを見てもわかります。
記憶力とは情報量の多さです。情報量は、人でいえば知識量です。知識と知恵は同じものではありません。多くの人は、知識より知恵を重視しています。でも、知識のない知恵は、本当の知恵といえるでしょうか。大人物の賛辞として、博覧強記といい言葉があります。膨大な知識が大人物の重要な要素となっています。知恵を発揮するためには、ある程度の知識は不可欠でしょう。多ければ多いほど、いいはずです。
では、知恵とはなんでしょうか。一つには、必要な知識を有機的に結びつける力ではないでしょうか。知識を有機的に結びつける力とは、まさに検索能力です。知恵は、膨大な知識を操れる検索能力の上に構築されているのではないでしょうか。では、人は、キムを碩学と呼ぶでしょうか。少し、疑問があります。記憶力と検索能力の他にも、何かが必要なのでしょう。
私は、10代後半だけは記憶能力が旺盛でした。好きな分野であった科学に関しては、一度見れば意識することなく簡単に覚えられました。それ以外の分野は、努力しないと覚えられませんでした。しかし、20歳過ぎてからは、興味あることでも、なかなか覚えられなくなりました。
記憶力の低下への自衛のために、外部記憶を利用することにしました。外部記憶とは、今もで毎日持ち歩いている単なるノートです。毎日、必要なことをメモしています。スケジュールもデジタルではなく、アナログのノートで管理しています。それに加えて、パソコンのハードディスクも重要な外部記憶として利用しています。
ノートは、少しの記憶力を頼りに時間軸で検索していくために、原始的ですが非常に有効です。保存能力も高いです。一方、ハードディスクは、私が記憶したいもので、私が記憶をさせなければならないので、私の本来の記憶の延長といえます。今では、パソコンのハードディクスは、私の記憶力を遥かに凌駕しています。もちろん、トラブルに備えて、5重にバックアップをとって保護しています。
検索力は、パソコンを利用すれば、ハードディスクは非常に優秀です。どのフォルダーに納めているのがを覚えていれば、簡単に膨大な記憶にアクセスできます。収納様式さえ定めておけば、記憶力が衰えても有用です。どこにあるかを忘れていても、ハードディスクをすべて検索することも、少々時間をかければ可能です。
しかし、検索能力の威力は、インターネットを通じた世界中の記録へのアクセスと検索です。インターネットのサイトには、私の以外の人の記憶が膨大に保存されています。
今では私でも、キム並みの記憶能力と検索能力を持てるようになったのです。必要な情報を、いくらでも記憶でき、いったんハードディスクやインターネットのサイトに保存された情報は、キーワードさえ与えれば、瞬時に検索することができます。つまり、パソコンとインターネットさえあれば、碩学の必要条件は、誰にでも与えられたことになります。
インターネットを使う人なら今では誰もが利用しているWikipediaの知識を並べ立てるだけでは、碩学にはなれません。もちろん、Wikipediaの知識は今では侮ることができないほどの膨大になっています。Wikipediaを使うことはいいでしょう。キムは、生きたひとりWikipediaなのです。では、私が、キムを超えるには、何が必要でしょうか。
問題は、Wikipediaの先にあるはずです。いくら検索能力に秀でていても、その先がなければなりません。知識の使い方、つまり知恵が必要となります。では、知恵とはどのような能力でしょうか。知識を検索することの次に、自分なりに検索した知識を活用し、応用し、新しいものを創造していく能力ではないでしょうか。キムを超えるためには、膨大な知識量への検索に加えて、活用、応用して、新たなものを創造することが重要なのでしょう。碩学の十分条件は、創造力という知恵を持つことに至るだと思います。
キムは、無限の知識と検索の可能性を示してくれました。時代は、私たちにキムに至る必要条件を与えてくれました。キムの可能性の先を、目指すことが重要です。その先にこそ、碩学への道があるのです。
・賀正・
明けましておめでとうございます。
今年は、皆様にとっていい年であるようにお祈りしています。
旧年の私は忙しく、
なかなか落ち着いて自分のことができませんでした。
実は、春から2年間は校務が忙しくなりそうで、
ますます時間が少なくなりそうです。
効率よく時間を使う必要があります。
碩学への道は、遥か先です。
でも、一歩でも歩むこと、道を進むことが
大切だと思っています。
・Wikipediaへの感謝・
インターネットで検索をする人で
GoggleやYahoo、あるいは調べもので
Wikipediaを使わない人はほとんどいないでしょう。
GoogleやYahooは、ネット上でビジネスを展開して、
営利を生み出しています。
一方、Wikipediaは、寄付のみで運営されている非営利団体です。
Wikipediaへの寄付が、今年も募られています。
使用するときに表示がでるはずです。
多くの人は煩わしく思い、無視するでしょう。
しかし、私はそれを見ると、寄付をします。
多くの人はインターネットの情報は
無料だと思っているでしょうが
その情報の背景には多くの努力と善意があります。
このメールマガジンは、私が無料で配信しています。
私も、いくつかのメールマガジンを読んでいます。
そして、私が配信することは、
他者へのなんらかの貢献になると思っておこなっています。
私は、Wikipediaを書くことより、
自分での情報発信をすることを選びました。
なぜなら、私は2000年9月20日に、
メールマガジンの発刊をはじめていたからです。
それから、早、14年以上にたっています。
このメールマガジンは、
1年遅れの2001年9月20にスタートしました。
Wikipedia(英語版)は2001年1月15日からスタートし、
そして早くも2001年5月20日には日本語版がスタートしました。
同じ時期に私のメールマガジンとWikipediaはスタートしました。
それに数年前に気づきました。
それから、自分自身の初心や志を改めに思い起こすため、
そして、外部記憶たるWikipediaへの感謝の気持ちとして、
私は少額ながら毎年寄付をしています。
今年最初のエッセイで、私がこれからの目指そうしている道を紹介しようと思います。人生の残された時間を使って、碩学への道を目指すことです。
まず、サバンから話をはじめます。サバン症候群という障害をご存知でしょうか。
私がサバン症候群について一番最初に知ったのは、「レインマン」という映画でした。父の遺産を大半を兄のレイモンド(ダスティン・ホフマンがやっていました)が相続しました。弟のチャーリー(トム・クルーズ)に残されたとは車とバラだけでした。兄のレイモンドがサバン症候群の自閉症であるという設定でした。弟は遺産を手に入れようとして兄を施設から連れ出して、自分の住む街まで旅行をしていきます。旅行中に、兄の障害から生まれるさまざまなトラブル、驚異的な計算能力など驚き、それをギャンブルに悪用したりなどの出来事を通じて、やがて弟が兄を受けていくというストーリーでした。
この兄のレイモンドには、モデルがありました。サバン症候群のキム・ピーク(Kim Peek、1951.11.11ー2009.12.19)という人です。キムを取材したテレビ番組を何度か見たことがあるのですが、その能力には驚かされました。キムは、ボタンをとめたり、靴下をはくこともできないような先天性脳障害による発育障害をもっていました。
しかし、キムは、驚異的な記憶力をもっています。1ページを数秒で写真のように記憶し、9000冊以上の本を読み、その内容の98%は瞬時に検索して思い出すことができます。歴史と地理の情報も連動しています。地図や電話帳もすべて記憶しているので、地名を聞けば、道路と郵便番号をすぐに答えます。その地の過去の歴史もすべて教えてくれます。数学における抽象的概念を理解できないですが、算数的計算能力やカレンダー計算が驚異的です。彼の能力は、50歳をすぎても発展中で、記憶や計算だけでなく、晩年にはピアニストとしての才能を開花させていたそうです。
サバン症候群の人の話、特にキムの話を聞くと、人の脳が秘めている可能性を思い知らされます。脳は、記憶に対していくらでもキャパシティはあるのです。脳の新しい能力は、いつもで開花させられるのです。脳は、もっともっと、いろいろな用途に使えるのです。キムはそれを教えてくれました。
さて、サバンという言葉です。英語ではsavantと書き、語源はフランス語で、原意は「知る」ということです。日本語では碩学(せきがく)と訳されます。碩とは「大きい」という原意で、「頭が充実している」とか「中身が優れている」という意味になっています。ですから、碩学とは、学が優れているということになります。
碩学は、「碩学鴻儒(こうじゅ)」という熟語で使われることがあります。鴻とは「大きい水鳥」という原意で、「ひしくい」という雁の仲間で最も大きい鳥のことです。そこから転じて、抜きん出た才能という意味で「鴻才」や、儒教に優れた「鴻儒」という言葉があります。碩学も鴻儒も、学問の優れたという意味で使われ、碩学鴻儒としても使われています。
人間の能力において、記憶力と検索力は非常に重要な機能です。キムの能力が、人に驚嘆を与えたのは、記憶力と検索力であったことを見てもわかります。
記憶力とは情報量の多さです。情報量は、人でいえば知識量です。知識と知恵は同じものではありません。多くの人は、知識より知恵を重視しています。でも、知識のない知恵は、本当の知恵といえるでしょうか。大人物の賛辞として、博覧強記といい言葉があります。膨大な知識が大人物の重要な要素となっています。知恵を発揮するためには、ある程度の知識は不可欠でしょう。多ければ多いほど、いいはずです。
では、知恵とはなんでしょうか。一つには、必要な知識を有機的に結びつける力ではないでしょうか。知識を有機的に結びつける力とは、まさに検索能力です。知恵は、膨大な知識を操れる検索能力の上に構築されているのではないでしょうか。では、人は、キムを碩学と呼ぶでしょうか。少し、疑問があります。記憶力と検索能力の他にも、何かが必要なのでしょう。
私は、10代後半だけは記憶能力が旺盛でした。好きな分野であった科学に関しては、一度見れば意識することなく簡単に覚えられました。それ以外の分野は、努力しないと覚えられませんでした。しかし、20歳過ぎてからは、興味あることでも、なかなか覚えられなくなりました。
記憶力の低下への自衛のために、外部記憶を利用することにしました。外部記憶とは、今もで毎日持ち歩いている単なるノートです。毎日、必要なことをメモしています。スケジュールもデジタルではなく、アナログのノートで管理しています。それに加えて、パソコンのハードディスクも重要な外部記憶として利用しています。
ノートは、少しの記憶力を頼りに時間軸で検索していくために、原始的ですが非常に有効です。保存能力も高いです。一方、ハードディスクは、私が記憶したいもので、私が記憶をさせなければならないので、私の本来の記憶の延長といえます。今では、パソコンのハードディクスは、私の記憶力を遥かに凌駕しています。もちろん、トラブルに備えて、5重にバックアップをとって保護しています。
検索力は、パソコンを利用すれば、ハードディスクは非常に優秀です。どのフォルダーに納めているのがを覚えていれば、簡単に膨大な記憶にアクセスできます。収納様式さえ定めておけば、記憶力が衰えても有用です。どこにあるかを忘れていても、ハードディスクをすべて検索することも、少々時間をかければ可能です。
しかし、検索能力の威力は、インターネットを通じた世界中の記録へのアクセスと検索です。インターネットのサイトには、私の以外の人の記憶が膨大に保存されています。
今では私でも、キム並みの記憶能力と検索能力を持てるようになったのです。必要な情報を、いくらでも記憶でき、いったんハードディスクやインターネットのサイトに保存された情報は、キーワードさえ与えれば、瞬時に検索することができます。つまり、パソコンとインターネットさえあれば、碩学の必要条件は、誰にでも与えられたことになります。
インターネットを使う人なら今では誰もが利用しているWikipediaの知識を並べ立てるだけでは、碩学にはなれません。もちろん、Wikipediaの知識は今では侮ることができないほどの膨大になっています。Wikipediaを使うことはいいでしょう。キムは、生きたひとりWikipediaなのです。では、私が、キムを超えるには、何が必要でしょうか。
問題は、Wikipediaの先にあるはずです。いくら検索能力に秀でていても、その先がなければなりません。知識の使い方、つまり知恵が必要となります。では、知恵とはどのような能力でしょうか。知識を検索することの次に、自分なりに検索した知識を活用し、応用し、新しいものを創造していく能力ではないでしょうか。キムを超えるためには、膨大な知識量への検索に加えて、活用、応用して、新たなものを創造することが重要なのでしょう。碩学の十分条件は、創造力という知恵を持つことに至るだと思います。
キムは、無限の知識と検索の可能性を示してくれました。時代は、私たちにキムに至る必要条件を与えてくれました。キムの可能性の先を、目指すことが重要です。その先にこそ、碩学への道があるのです。
・賀正・
明けましておめでとうございます。
今年は、皆様にとっていい年であるようにお祈りしています。
旧年の私は忙しく、
なかなか落ち着いて自分のことができませんでした。
実は、春から2年間は校務が忙しくなりそうで、
ますます時間が少なくなりそうです。
効率よく時間を使う必要があります。
碩学への道は、遥か先です。
でも、一歩でも歩むこと、道を進むことが
大切だと思っています。
・Wikipediaへの感謝・
インターネットで検索をする人で
GoggleやYahoo、あるいは調べもので
Wikipediaを使わない人はほとんどいないでしょう。
GoogleやYahooは、ネット上でビジネスを展開して、
営利を生み出しています。
一方、Wikipediaは、寄付のみで運営されている非営利団体です。
Wikipediaへの寄付が、今年も募られています。
使用するときに表示がでるはずです。
多くの人は煩わしく思い、無視するでしょう。
しかし、私はそれを見ると、寄付をします。
多くの人はインターネットの情報は
無料だと思っているでしょうが
その情報の背景には多くの努力と善意があります。
このメールマガジンは、私が無料で配信しています。
私も、いくつかのメールマガジンを読んでいます。
そして、私が配信することは、
他者へのなんらかの貢献になると思っておこなっています。
私は、Wikipediaを書くことより、
自分での情報発信をすることを選びました。
なぜなら、私は2000年9月20日に、
メールマガジンの発刊をはじめていたからです。
それから、早、14年以上にたっています。
このメールマガジンは、
1年遅れの2001年9月20にスタートしました。
Wikipedia(英語版)は2001年1月15日からスタートし、
そして早くも2001年5月20日には日本語版がスタートしました。
同じ時期に私のメールマガジンとWikipediaはスタートしました。
それに数年前に気づきました。
それから、自分自身の初心や志を改めに思い起こすため、
そして、外部記憶たるWikipediaへの感謝の気持ちとして、
私は少額ながら毎年寄付をしています。
2014年12月1日月曜日
155 岩石と弁証法
自然科学と哲学の結びつきは、一見すると不思議かもしれません。しかし、思想の歴史をみると、古代から自然科学と哲学は密接な関係がありました。現代社会だからこそ、科学と哲学の結びつきが重要であると考えられます。
今年の10月に出た私の論文のタイトルは、「岩石の多様性形成の要因とその弁証法的意義について」というものでした。自然科学の一分野である地質学に関する「岩石の多様性形成」という用語と、哲学の「弁証法的意義」というものが、どう結びつくのでしょうか。これが今回のテーマです。
科学と哲学の結びつきは、現在は希薄になっているように見えます。科学哲学というものがありますが、哲学者がおこなっているもので、自然科学に従事する人が哲学をしているわけではありません。現代では自然科学が複雑化、細分化したことで、自然科学と哲学の乖離が起こってきたのです。これは決していい状況ではないと思います。改善するための実践例となるのが、今回の私の論文になると思っています。
かつて自然科学と哲学は、ギリシア時代から近世まで、密接な関係がありました。科学者が自然科学をおこなっていませんでした。そもそも、科学者という職業もなく、科学者と呼ばれる人もいませんでした。科学は自然哲学として、自然哲学者たちが取り組んでいました。
たとえばデカルトは、1644年に出版した「哲学の諸原理」という本の中で、微粒子が集まり元素ができ、そこに渦が生じてやがて太陽系が形成されたいう、太陽系の起源に関する仮説を提示しました。もちろん当時は思索の一貫として考えられていたので、科学的な証拠、つまり観測や実験などの根拠となるものを示すことなく、仮説を述べるにとどまっていました。説得力のある仮説には論理性が必要で、そこに哲学的な緻密な考え方が色濃く出ていました。
自然哲学がもっていた、自然の事物、事象に関する疑問を、なんらかの論理的な仮説で説明しようという姿勢は、今も変わらず自然科学に踏襲されています。哲学の実証性の不足部を補うために、証拠による論証、検証、再現性などをもとに、科学の方法が生まれてきました。哲学の論理性と証拠に基づく実証性を基本原則として自然科学が進んできました。ただし、深い思索の部分は薄れていきたような気がします。
哲学は先人の思考や歴史を背景に、新しいものを加えて思索が組み立てられていきます。哲学者は先人の知性を経由して物事を考えていくことになります。哲学者は、自然科学者にない多様な対象に広い視点で、深い思索をおこないます。
エンゲルスの「自然の弁証法」は未完の草稿ですが、以前岩波文庫にあったものを読みました。断章でしたが、自然科学の広い範囲を横断的に概観していこうという姿勢、構想を感じました。現在のように専門化、細分化している科学で、このような大領域に挑戦できる人はいるのでしょうか。そんなことをできる人は、まずは博覧強記でなければなりません。科学を網羅した上で深い思索、独自の視点も持つことができる人でなければなりません。なかなか難しい挑戦ではないでしょうか。理由は知りませんが、エンゲルスの「自然の弁証法」は未完でした。
現在では、細分化された自然科学の専門家が多数います。自然科学に従事する科学者が、哲学を論じることは非常に稀なことです。その専門の範疇で深い思索を進めている人は、何人もいるのではないでしょうか。そのような研究者の発言は重要だと思います。
私は学生時代、井尻正二の「科学論」を読んで地質学の範囲であれば、それを目指す人もいたのだということを思いました。都城秋穂の「科学革命とはな何か」にも非常に感銘を受けました。両者はタイプも思考も違いますが、地質哲学の巨人でもありました。生物学の分野でも「生物哲学の基礎」という大部の名著があります。多分、どの自然科学の分野でも、そのような知の巨人はいるはずです。
さらにいうと、科学者で深い思索に興味ある人は、もっと哲学的見解を語っていいのではないかと思います。科学者は、自分が興味をもっている対象や事象に、深く考えているはずです。狭くてもいいから、科学者だからこそ語れる自然観や時間の見方などがあったいいはずです。地質学者は、嫌というほど過去の時間に関わっています。そこで感じ、考えてきたものを、もっとアウトプットしていいはずです。領域の狭さ、対象の特異性などに関係なく思索の結果を出すべきです。自分の見方や概念を抽象化させ昇華させていけば、狭くてもそれなりの哲学になっていくのではないでしょうか。
もちろん誰もが深い思索ができるわけでもないし、興味を持っていないかもしれません。なかには異質な見方、変な考え、トンデモナイ理屈などもあるかもしれません。それも考えの多様性を育むために必要な土壌なのかもしれません。本流になりえない思索は、淘汰されていくでしょう。科学者の考えたものの中には、きっと今までにない斬新な見解、重要な考えなども、多数あるはずです。
それぞれの分野の巨人が、多数の専門的思索を、総括的、網羅的にまとめていくときの素材なるはずです。自然科学の分野ごとの哲学があれば、科学哲学者あるいは哲学者が分野ごとの哲学を素材により大きな体系系をしていくことになるはずです。科学者による自然科学の思索は、現代の「自然哲学」として、新しい哲学的潮流が生まれるのではないかと思っています。
井尻氏や都城氏のような高みにはたどり着けなくとも、だれもが、もちろん私自身も含めて、興味があれば思索を深め、アウトプットすることは重要だと考えています。自然科学、特に地質学と哲学の結びつきを考えていくことを、私は、現在の職についてからのライフワークにしようと思っていました。現在の職についてもう12年半が経過しました。少しずつですが、思索を深めた結果もアウトプットしてきました。この論文もその一環でした。ただし私の「大きな野望」からすると、本来の目的ではなく、その前段階の産物で、数年前に考えたものをやっとまとめたものです。
最後に私の論文をの内容を紹介しましょう。岩石の多様性の本質を突き詰めていくと、どこにたどり着くのか、というのが論文のテーマでした。多様性を突き詰めるというのは、多様性を生み出している本質的な要因を見極めていくことです。岩石の多様性では、起源や成因がもっとも重要だと考えられます。岩石の成因を突き詰めていくということは、時間を遡っていくことになります。結果として、どのような成因に達したかというと、地球でできた岩石では火成岩で、それも地球初期に存在したといわれるマグマオーシャンに由来した岩石にたどり着きました。その岩石とは、マグマオーシャンが固化した「地球最初の火成岩」になります。
今度は、「最初の火成岩」から時間を進めていくと、火成岩を起源物質(固体)として、マグマ(液体)を経由して、別の火成岩(固体)に変わっていきます。この過程は、弁証法的発展過程を内在しているように見える、というのが論旨でした。
弁証法とは、ある命題(テーゼ、正)と、それを否定する命題(アンチテーゼ、反)、それらを本質的に統合した命題(シンテーゼ、合)になるというものです。新旧の命題は、対立し合いながら関係しています。反から合へ止揚(アウフヘーベン)となり、より発展した命題となります。この弁証法的発展過程によって、火成岩の進化発展過程を説明できるのではないかということです。
これがいい思索はどうかはわかりません。このような「小さな考え」を出しあいながら、地質哲学の素材になればと思っています。私の思索が、本当に素材なるか、残るかは時代が決めていくのでしょうが。
・手本の巨人・
井尻氏は32歳で「科学論」を書いたそうです。
こんな深い考えを進めていました。
若い時の頭の柔らかい時に
斬新な思索に至ることもあるでしょう。
一方、都城氏は大家になってから
「科学革命とはな何か」を書かれたものです。
学問を極めた後に深い思索に至ったのでしょう。
いずれもいい思索のアウトプットの手本となると思います。
私は、地質学の先端の研究からは外れましたが、
かろうじて地質学につながっています。
地質学の素材をもとに考えを深め、
アウトプットすることは重要だと考えています。
なにより野外調査をしながら、そして露頭を見ながら
地質学や自然の本質に迫ることは面白いです。
野外で壮大な自然に思いを馳せることを楽しんでいます。
まあ、私は手本にならないので気楽に進めています。
・成功体験・
いよいよ今年もあとひと月となりました。
私は10月あたりから、忙しない日々を過ごしています。
今年は特に忙しなさが強く感じます。
いくつもの校務と論文締め切りなどが
重なったためでもありますが、
学生の数の多さと、長文を書く基礎的能力が
少々足りない気がしています。
学生は真面目で、優しいのですが、
どうも拙い、幼い感じがします。
ぜひ卒業研究で基礎力や成功体験を
味わってもらいたいものです。
そのためには、きつい先生になっていようと思います。
社会にでると、切って捨てられることもあるのです。
失敗、やり直せるのは大学までです。
頑張ってもらいたいものです。
今年の10月に出た私の論文のタイトルは、「岩石の多様性形成の要因とその弁証法的意義について」というものでした。自然科学の一分野である地質学に関する「岩石の多様性形成」という用語と、哲学の「弁証法的意義」というものが、どう結びつくのでしょうか。これが今回のテーマです。
科学と哲学の結びつきは、現在は希薄になっているように見えます。科学哲学というものがありますが、哲学者がおこなっているもので、自然科学に従事する人が哲学をしているわけではありません。現代では自然科学が複雑化、細分化したことで、自然科学と哲学の乖離が起こってきたのです。これは決していい状況ではないと思います。改善するための実践例となるのが、今回の私の論文になると思っています。
かつて自然科学と哲学は、ギリシア時代から近世まで、密接な関係がありました。科学者が自然科学をおこなっていませんでした。そもそも、科学者という職業もなく、科学者と呼ばれる人もいませんでした。科学は自然哲学として、自然哲学者たちが取り組んでいました。
たとえばデカルトは、1644年に出版した「哲学の諸原理」という本の中で、微粒子が集まり元素ができ、そこに渦が生じてやがて太陽系が形成されたいう、太陽系の起源に関する仮説を提示しました。もちろん当時は思索の一貫として考えられていたので、科学的な証拠、つまり観測や実験などの根拠となるものを示すことなく、仮説を述べるにとどまっていました。説得力のある仮説には論理性が必要で、そこに哲学的な緻密な考え方が色濃く出ていました。
自然哲学がもっていた、自然の事物、事象に関する疑問を、なんらかの論理的な仮説で説明しようという姿勢は、今も変わらず自然科学に踏襲されています。哲学の実証性の不足部を補うために、証拠による論証、検証、再現性などをもとに、科学の方法が生まれてきました。哲学の論理性と証拠に基づく実証性を基本原則として自然科学が進んできました。ただし、深い思索の部分は薄れていきたような気がします。
哲学は先人の思考や歴史を背景に、新しいものを加えて思索が組み立てられていきます。哲学者は先人の知性を経由して物事を考えていくことになります。哲学者は、自然科学者にない多様な対象に広い視点で、深い思索をおこないます。
エンゲルスの「自然の弁証法」は未完の草稿ですが、以前岩波文庫にあったものを読みました。断章でしたが、自然科学の広い範囲を横断的に概観していこうという姿勢、構想を感じました。現在のように専門化、細分化している科学で、このような大領域に挑戦できる人はいるのでしょうか。そんなことをできる人は、まずは博覧強記でなければなりません。科学を網羅した上で深い思索、独自の視点も持つことができる人でなければなりません。なかなか難しい挑戦ではないでしょうか。理由は知りませんが、エンゲルスの「自然の弁証法」は未完でした。
現在では、細分化された自然科学の専門家が多数います。自然科学に従事する科学者が、哲学を論じることは非常に稀なことです。その専門の範疇で深い思索を進めている人は、何人もいるのではないでしょうか。そのような研究者の発言は重要だと思います。
私は学生時代、井尻正二の「科学論」を読んで地質学の範囲であれば、それを目指す人もいたのだということを思いました。都城秋穂の「科学革命とはな何か」にも非常に感銘を受けました。両者はタイプも思考も違いますが、地質哲学の巨人でもありました。生物学の分野でも「生物哲学の基礎」という大部の名著があります。多分、どの自然科学の分野でも、そのような知の巨人はいるはずです。
さらにいうと、科学者で深い思索に興味ある人は、もっと哲学的見解を語っていいのではないかと思います。科学者は、自分が興味をもっている対象や事象に、深く考えているはずです。狭くてもいいから、科学者だからこそ語れる自然観や時間の見方などがあったいいはずです。地質学者は、嫌というほど過去の時間に関わっています。そこで感じ、考えてきたものを、もっとアウトプットしていいはずです。領域の狭さ、対象の特異性などに関係なく思索の結果を出すべきです。自分の見方や概念を抽象化させ昇華させていけば、狭くてもそれなりの哲学になっていくのではないでしょうか。
もちろん誰もが深い思索ができるわけでもないし、興味を持っていないかもしれません。なかには異質な見方、変な考え、トンデモナイ理屈などもあるかもしれません。それも考えの多様性を育むために必要な土壌なのかもしれません。本流になりえない思索は、淘汰されていくでしょう。科学者の考えたものの中には、きっと今までにない斬新な見解、重要な考えなども、多数あるはずです。
それぞれの分野の巨人が、多数の専門的思索を、総括的、網羅的にまとめていくときの素材なるはずです。自然科学の分野ごとの哲学があれば、科学哲学者あるいは哲学者が分野ごとの哲学を素材により大きな体系系をしていくことになるはずです。科学者による自然科学の思索は、現代の「自然哲学」として、新しい哲学的潮流が生まれるのではないかと思っています。
井尻氏や都城氏のような高みにはたどり着けなくとも、だれもが、もちろん私自身も含めて、興味があれば思索を深め、アウトプットすることは重要だと考えています。自然科学、特に地質学と哲学の結びつきを考えていくことを、私は、現在の職についてからのライフワークにしようと思っていました。現在の職についてもう12年半が経過しました。少しずつですが、思索を深めた結果もアウトプットしてきました。この論文もその一環でした。ただし私の「大きな野望」からすると、本来の目的ではなく、その前段階の産物で、数年前に考えたものをやっとまとめたものです。
最後に私の論文をの内容を紹介しましょう。岩石の多様性の本質を突き詰めていくと、どこにたどり着くのか、というのが論文のテーマでした。多様性を突き詰めるというのは、多様性を生み出している本質的な要因を見極めていくことです。岩石の多様性では、起源や成因がもっとも重要だと考えられます。岩石の成因を突き詰めていくということは、時間を遡っていくことになります。結果として、どのような成因に達したかというと、地球でできた岩石では火成岩で、それも地球初期に存在したといわれるマグマオーシャンに由来した岩石にたどり着きました。その岩石とは、マグマオーシャンが固化した「地球最初の火成岩」になります。
今度は、「最初の火成岩」から時間を進めていくと、火成岩を起源物質(固体)として、マグマ(液体)を経由して、別の火成岩(固体)に変わっていきます。この過程は、弁証法的発展過程を内在しているように見える、というのが論旨でした。
弁証法とは、ある命題(テーゼ、正)と、それを否定する命題(アンチテーゼ、反)、それらを本質的に統合した命題(シンテーゼ、合)になるというものです。新旧の命題は、対立し合いながら関係しています。反から合へ止揚(アウフヘーベン)となり、より発展した命題となります。この弁証法的発展過程によって、火成岩の進化発展過程を説明できるのではないかということです。
これがいい思索はどうかはわかりません。このような「小さな考え」を出しあいながら、地質哲学の素材になればと思っています。私の思索が、本当に素材なるか、残るかは時代が決めていくのでしょうが。
・手本の巨人・
井尻氏は32歳で「科学論」を書いたそうです。
こんな深い考えを進めていました。
若い時の頭の柔らかい時に
斬新な思索に至ることもあるでしょう。
一方、都城氏は大家になってから
「科学革命とはな何か」を書かれたものです。
学問を極めた後に深い思索に至ったのでしょう。
いずれもいい思索のアウトプットの手本となると思います。
私は、地質学の先端の研究からは外れましたが、
かろうじて地質学につながっています。
地質学の素材をもとに考えを深め、
アウトプットすることは重要だと考えています。
なにより野外調査をしながら、そして露頭を見ながら
地質学や自然の本質に迫ることは面白いです。
野外で壮大な自然に思いを馳せることを楽しんでいます。
まあ、私は手本にならないので気楽に進めています。
・成功体験・
いよいよ今年もあとひと月となりました。
私は10月あたりから、忙しない日々を過ごしています。
今年は特に忙しなさが強く感じます。
いくつもの校務と論文締め切りなどが
重なったためでもありますが、
学生の数の多さと、長文を書く基礎的能力が
少々足りない気がしています。
学生は真面目で、優しいのですが、
どうも拙い、幼い感じがします。
ぜひ卒業研究で基礎力や成功体験を
味わってもらいたいものです。
そのためには、きつい先生になっていようと思います。
社会にでると、切って捨てられることもあるのです。
失敗、やり直せるのは大学までです。
頑張ってもらいたいものです。
2014年11月1日土曜日
154 まつろわぬ心
例外は、稀なものであまりないものです。多数の現象が起これば、時として例外に接することがあります。その多くは、何らかのミスによるものでしょう。しかしその中に、真実を含む例外もあるかもしれません。それを見抜きアウトプットするには、「まつろわぬ」心が必要なのかもしれません。
自然の事物や現象を調べるときに、計測、計量などの測定をして数値化していきます。得られたデータは、いろいろな単位を用いて示されます。この単位ですが、いろいろなものをはかるとなれば、多数の単位が必要になります。でも、すべての単位が必須ではなく、基本となる単位を組み合わせることで、できる単位もあります。例えば密度は、質量を体積、つまり長さの三乗で割れば求められるので、より基本の単位として、質量と長さがあればいいわけです。そのような単位を基本単位、基本単位からできているものを組み立て単位と呼びます。
自然界の規則性でも、同じようなことが起こっています。いろいろな規則、法則がありますが、それらの規則を導き出せる、あるいはより基本的な、原則、原理ともいうべきものもあります。基本原則を見つけ出すことも、自然科学、いや人類の知的活動で、大きな目標ではないでしょうか。
そこには大きな落とし穴があります。
多数の法則や基本的な原則があったとしても、そこには少数の例外が存在することがあります。そのような例外は、単純に測定ミス、装置の欠陥、人的ミスなど、さまざまな要因があるはずです。そのようなミスは、どんなに科学技術が進んでも起こりえます。
最近の有名な例として、CERN(欧州合同原子核研究所)で観測され、2011年9月23日に発表された、光速より速いニュートリノが見つかったというニュースです。OPERAという研究者グループから実験によって光より速いニュートリノが見つかったと発表されました。これは相対性理論、つまり科学の常識を覆す結果なので、OPERAの多数の共同研究者で慎重に議論して、検証も繰り返して公表に至りました。ところが、再度チェックをしところ、GPS(衛星利用測位システム)時計をつなぐ光ケーブルに接続不良があることがわかりました。その結果、時間同期に問題が発生していたため、測定精度が不十分だったことが判明しました。研究者たちは、2012年6月に結果を取り下げました。この例外の発見は、人為的ミスによるものでした。
とろが、自然は面白いもので、人為的ミスではない、本当に存在する例外からみつかることがままあります。その例外は、当然、従来の説を変更して説明すべきです。時には、基本的原理や原則が覆ることもあります。これは、科学革命やパラダイム転換などと呼ばれるものです。古くは天動説から地動説への転換、ニュートン力学から相対性理論への転換、地向斜論からプレートテクトニクスへの転換などが、パラダイム転換に当たります。
パラダイム転換のような大発見は、天才、秀才、偉大な者によってなされることのように思えますが、その発端は、予想外、想定外の出来事、ときにはささやかな出来事の発見からです。重要なことは、そのようなささやかな規則性の破れを見つけられるかどうか。そしてその例外を信じられるかどうか。その疑問を口にし、真摯に取り組めるかどうかが重要になります。先ほどの例に出したOPERAの人たちのことは、残念な結果に終わりましたが、謙虚に事実を受け入れ、勇気を持って発表をしました。これは、科学者として素晴らしい姿勢であったと思います。
原則を信じている人たち、原則から生まれる研究の牽引者、つまりはバリバリと研究をしている多くの主流派の研究者は、原理、原則に反するささやかな規則の破れを、例外と無視したり、失敗と見なしたりして、取り上げないことも多いでしょう。これは先入観、あるいは常識というべきもので、だれもが陥ってしまう大きな罠でもあります。そんな罠から逃れるのは、たやすいことではありません。
ここで話は全く変わります。
「まつろわぬもの」という言葉をご存知でしょうか。「まつろわぬもの」とは、漢字表記すると「服わぬ者」あるいは「奉ろわぬ者」と書きます。「服従しないもの」という意味です。「まつろわぬ」は、もともとは大和時代や奈良時代の上代の言葉で、第二次大戦中にも使われていたようですが、今ではほとんど聞かない言葉です。
大和時代には、各地の地域国家の中で、近畿地方の奈良盆地を中心として、いくつかの有力氏族が連合して大和朝廷が成立しました。渡来系の人たちも朝廷側に加わっていきました。ところがまだ日本が完全に統一されていたわけではないので、大和朝廷に従わない者や批判的な勢力がありました。例えば、地方の豪族や迫害され大和を追われた出雲にいった一族などは、「まつろわぬもの」なりました。また、東北や北海道など大和朝廷の勢力が届かない地域に住んでいた人たちも、「まつろわぬもの」となりました。
特に、年貢や税金など利害がにかかわる政策、もともと持っていた自分たち固有の風習や習慣を否定しされて中央集権的な仕組みを押し付けられる、などがあれば、反感を持つ人は少なからずいたはずです。
「まつろわぬ」とは、中心勢力や主流派に対抗するときに用いられる言葉です。このような変化は、大和時代だけでなく、大きな政変、変革、価値観の転換などがあると、いつでも起こることなのかもしれません。ところが、時間がたち、主流派が勢力を増し続け、支配が継続すると、「まつろわぬもの」たちは、反対勢力、批判派から、時間とともに傍流、少数派になっていきます。やがて「まつろわぬもの」も、強制的にあるいは無意識に「まつろうもの」たち ですから、そして殆どの人たちが「まつろう」ものなっています。
主流派は、それなりの知力(学力、学歴)、地位(職、栄誉)、財力(給与、研究資金、先端の研究装置)をもって、成果を上げ続けられるプラスのスパイラスを形成します。そして、その立場から、ものごとをみていくことになります。主流派は常識をつくり続け、常識の中核をなします。
大きな変革、改革の芽は、常識の破れ、つまりささやかな例外からはじまります。そんな例外を「まつろわぬもの」は、見ぬくことができるはずです。そんなささやかな「まつろわぬ」ことを見ぬく眼力を備えること。「まつろわぬ」現象を見つけた時、「まつろわぬもの」となり、常識に反することにも真摯に取り組み、アウトプットする勇気を持つことが、人類の大きな一歩になるでしょう。それは、大きな転換につながるでしょう。
「まつろわぬ」心もつことは、大変ですが、大切でもあります。そんなことをふと考えました。
・エール・
今回のエッセイの裏話を。
もともと「まつろわぬもの」については
いつか書く予定がありました。
もうひとつ、私は、以前から、政府の原子力政策への
方針、姿勢に疑問を感じていました。
そこに、先日、原子力政策の中心に位置するポストへ就いた
人から挨拶状がきました。
古くから付き合いのある知人で、
何度か共著論文を書いたこともあります。
人格的にも信頼している人物ですし、
反骨、批判精神のある人でもあります。
挨拶状をみて、その人の今後、
そのポストでの大変さを思っていました。
その思いと、今回のエッセイは、
間接的、あるいは隠喩的ですが
私の心のなかで大きく連動しました。
これは、その知人への私からの
エールになればと思っています。
届かないかもしれませんが。
・冬到来?・
先週末は暑かったのですが、
一気に寒くなりました。
そして、近郊の山々が白くなりました。
初冠雪でした。
里にもミゾレやアラレが降りました。
また、積雪まで至っていませんでが。
もう、寒い日には当たり前にストーブをたいています。
里の積雪も、いつあってもおかしくないほどの寒さです。
自然の事物や現象を調べるときに、計測、計量などの測定をして数値化していきます。得られたデータは、いろいろな単位を用いて示されます。この単位ですが、いろいろなものをはかるとなれば、多数の単位が必要になります。でも、すべての単位が必須ではなく、基本となる単位を組み合わせることで、できる単位もあります。例えば密度は、質量を体積、つまり長さの三乗で割れば求められるので、より基本の単位として、質量と長さがあればいいわけです。そのような単位を基本単位、基本単位からできているものを組み立て単位と呼びます。
自然界の規則性でも、同じようなことが起こっています。いろいろな規則、法則がありますが、それらの規則を導き出せる、あるいはより基本的な、原則、原理ともいうべきものもあります。基本原則を見つけ出すことも、自然科学、いや人類の知的活動で、大きな目標ではないでしょうか。
そこには大きな落とし穴があります。
多数の法則や基本的な原則があったとしても、そこには少数の例外が存在することがあります。そのような例外は、単純に測定ミス、装置の欠陥、人的ミスなど、さまざまな要因があるはずです。そのようなミスは、どんなに科学技術が進んでも起こりえます。
最近の有名な例として、CERN(欧州合同原子核研究所)で観測され、2011年9月23日に発表された、光速より速いニュートリノが見つかったというニュースです。OPERAという研究者グループから実験によって光より速いニュートリノが見つかったと発表されました。これは相対性理論、つまり科学の常識を覆す結果なので、OPERAの多数の共同研究者で慎重に議論して、検証も繰り返して公表に至りました。ところが、再度チェックをしところ、GPS(衛星利用測位システム)時計をつなぐ光ケーブルに接続不良があることがわかりました。その結果、時間同期に問題が発生していたため、測定精度が不十分だったことが判明しました。研究者たちは、2012年6月に結果を取り下げました。この例外の発見は、人為的ミスによるものでした。
とろが、自然は面白いもので、人為的ミスではない、本当に存在する例外からみつかることがままあります。その例外は、当然、従来の説を変更して説明すべきです。時には、基本的原理や原則が覆ることもあります。これは、科学革命やパラダイム転換などと呼ばれるものです。古くは天動説から地動説への転換、ニュートン力学から相対性理論への転換、地向斜論からプレートテクトニクスへの転換などが、パラダイム転換に当たります。
パラダイム転換のような大発見は、天才、秀才、偉大な者によってなされることのように思えますが、その発端は、予想外、想定外の出来事、ときにはささやかな出来事の発見からです。重要なことは、そのようなささやかな規則性の破れを見つけられるかどうか。そしてその例外を信じられるかどうか。その疑問を口にし、真摯に取り組めるかどうかが重要になります。先ほどの例に出したOPERAの人たちのことは、残念な結果に終わりましたが、謙虚に事実を受け入れ、勇気を持って発表をしました。これは、科学者として素晴らしい姿勢であったと思います。
原則を信じている人たち、原則から生まれる研究の牽引者、つまりはバリバリと研究をしている多くの主流派の研究者は、原理、原則に反するささやかな規則の破れを、例外と無視したり、失敗と見なしたりして、取り上げないことも多いでしょう。これは先入観、あるいは常識というべきもので、だれもが陥ってしまう大きな罠でもあります。そんな罠から逃れるのは、たやすいことではありません。
ここで話は全く変わります。
「まつろわぬもの」という言葉をご存知でしょうか。「まつろわぬもの」とは、漢字表記すると「服わぬ者」あるいは「奉ろわぬ者」と書きます。「服従しないもの」という意味です。「まつろわぬ」は、もともとは大和時代や奈良時代の上代の言葉で、第二次大戦中にも使われていたようですが、今ではほとんど聞かない言葉です。
大和時代には、各地の地域国家の中で、近畿地方の奈良盆地を中心として、いくつかの有力氏族が連合して大和朝廷が成立しました。渡来系の人たちも朝廷側に加わっていきました。ところがまだ日本が完全に統一されていたわけではないので、大和朝廷に従わない者や批判的な勢力がありました。例えば、地方の豪族や迫害され大和を追われた出雲にいった一族などは、「まつろわぬもの」なりました。また、東北や北海道など大和朝廷の勢力が届かない地域に住んでいた人たちも、「まつろわぬもの」となりました。
特に、年貢や税金など利害がにかかわる政策、もともと持っていた自分たち固有の風習や習慣を否定しされて中央集権的な仕組みを押し付けられる、などがあれば、反感を持つ人は少なからずいたはずです。
「まつろわぬ」とは、中心勢力や主流派に対抗するときに用いられる言葉です。このような変化は、大和時代だけでなく、大きな政変、変革、価値観の転換などがあると、いつでも起こることなのかもしれません。ところが、時間がたち、主流派が勢力を増し続け、支配が継続すると、「まつろわぬもの」たちは、反対勢力、批判派から、時間とともに傍流、少数派になっていきます。やがて「まつろわぬもの」も、強制的にあるいは無意識に「まつろうもの」たち ですから、そして殆どの人たちが「まつろう」ものなっています。
主流派は、それなりの知力(学力、学歴)、地位(職、栄誉)、財力(給与、研究資金、先端の研究装置)をもって、成果を上げ続けられるプラスのスパイラスを形成します。そして、その立場から、ものごとをみていくことになります。主流派は常識をつくり続け、常識の中核をなします。
大きな変革、改革の芽は、常識の破れ、つまりささやかな例外からはじまります。そんな例外を「まつろわぬもの」は、見ぬくことができるはずです。そんなささやかな「まつろわぬ」ことを見ぬく眼力を備えること。「まつろわぬ」現象を見つけた時、「まつろわぬもの」となり、常識に反することにも真摯に取り組み、アウトプットする勇気を持つことが、人類の大きな一歩になるでしょう。それは、大きな転換につながるでしょう。
「まつろわぬ」心もつことは、大変ですが、大切でもあります。そんなことをふと考えました。
・エール・
今回のエッセイの裏話を。
もともと「まつろわぬもの」については
いつか書く予定がありました。
もうひとつ、私は、以前から、政府の原子力政策への
方針、姿勢に疑問を感じていました。
そこに、先日、原子力政策の中心に位置するポストへ就いた
人から挨拶状がきました。
古くから付き合いのある知人で、
何度か共著論文を書いたこともあります。
人格的にも信頼している人物ですし、
反骨、批判精神のある人でもあります。
挨拶状をみて、その人の今後、
そのポストでの大変さを思っていました。
その思いと、今回のエッセイは、
間接的、あるいは隠喩的ですが
私の心のなかで大きく連動しました。
これは、その知人への私からの
エールになればと思っています。
届かないかもしれませんが。
・冬到来?・
先週末は暑かったのですが、
一気に寒くなりました。
そして、近郊の山々が白くなりました。
初冠雪でした。
里にもミゾレやアラレが降りました。
また、積雪まで至っていませんでが。
もう、寒い日には当たり前にストーブをたいています。
里の積雪も、いつあってもおかしくないほどの寒さです。
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