インターネットには知識があふれています。知りたいことに対して、とりあえずの答えを、簡単に得ることができるようになりました。ありがたいことですが、活きた知識にするのには、それなりの工夫が必要でしょう。
多くの人は、新しいことを知った時に喜びを見出します。特に予想外の知識や、思いもよらぬ知識を得ると、ワクワクして誰かに伝えたくなります。知った喜びを、伝えたい、分かちあいたいという気持ちが湧いてくるためでしょう。知識によって心が刺激され、知識の共有、伝播、コミュニケーションへと心が向かっていくのでしょう。知識を身につけるとは、得(え)も言われぬ快感があるようです。
情報が流通していない時代には、知識とは、何らかの疑問を解くために、苦労の末、得たものでした。あるいは、誰かがもっている知識に至るまでには、努力や時間を手間暇をかければなりませんでした。そんな時代では、知識とは、一個人、もしくは限られた地域やグループだけで共有してきたものでした。
文字の発明や本としての記述、印刷などの技術革新により、一人の人間が手にできる知識量は、膨大に増えていきました。ただし、特別な知識は、一部の職能集団や親族だけが、伝承していって、他の人には知らせませんでした。重要な知識は、秘密にして守るべきものでした。流通していたとしても、かつては高価な本を購入できる一部の恵まれた人、その本を読める能力、立場の人だけが、蓄積された知識を手に入れることができました。知識が力となりえ時代だったのです。
いつの時代であっても、ひとりの人間が生み出せる知識の量は、そうそう増えるわけではありません。時代に進歩によって、多くの知識を流通させる条件は整って、共有する人や組織、コミュニティが広がっていくと、知識の量が爆発的に増えていきます。知識が増えてきたら、それを共有するため、得るために、基礎的な素養が必要になります。そのような素養を身につけるためには、訓練や教育が必要になります。
かつては、それらの基礎訓練は、辛く理不尽なものも多かったのです。小さな子どもにひたすら素読をさせ、今はわからなくても、将来わかるはずだ、となんの根拠も検証もない方法で教えたこともありました。また、教えるのではなく、技術は見て盗み取れというような、伝承をする気もない方法もありました。人材を養成していくため、教えるための方法も、教育学として進んでくると、より効率的な知識の伝達方法が取り入れられました。
子どもはものを覚えるのは早いのですが、理解ができる内容は、年齢に応じた脳の発達状況によって違ってきます。子どもや人の発達を理解して、発達段階に応じた手法を用いて教育する必要性もわかってきました。
膨大な知識をひたすら博物誌的に羅列して示しました。量が質を生むと考えていまし。系統性を持たない、体系化がなされていない知識をひたすら与えたこともありました。このようなバラバラの知識は、なかなか活用できませんでした。しかし、知識の体系化がなされてくると、その体系を学ぶことにより、おのおのの知識の位置づけが理解でき、知識の吸収がしやすくなります。
今では、学校での教育は非常に工夫を凝らされた体系だったものになってきました。ですから、義務教育として与えられる教育は、子どもでも効率よく、そして楽しみながら学ぶことができるようになってきました。
年齢が上がるとともに、人ぞれぞれの嗜好が生まれ、望む知識体系も異なってきます。学ぶ側にとっては、一般的な学校教育では、必要と感じない知識も含まれています。しかし教育する側では、より広い教養と専門性が必要と考え、複雑な知識の体系を伝えようとします。現代の高度な技術や複雑な社会を生きていくためには、そのような体系が必要だと考えられているからです。高校から大学での学びが、これに相当するのでしょう。
このとき生じるミスマッチが、学ぶ意欲の低下などにつながっているのかもしれません。同じ知識を得るにしても、好奇心や自発性がなければ、苦しみになってしまいます。試験や入試や資格テストなど、必要に迫られて身につけようとする知識は、苦痛となります。一方、好奇心、自発性や能動性をもっていれば、喜びをもって知識を身につけることができます。
多くの人は、両方の経験を持っているはずです。基本的に、人は、学ぶことを好んでいると思います。この学ぶ喜びは、多くの先哲が述べています。
アリストテレスは「形而上學」の冒頭に、「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する」と述べています。12世紀のオック語抒情詩のトゥルバドール(Troubadour)と呼ばれた詩人たちは、自分たちの詩をつくる方法を、オック語で「la Gaya Scienza」と呼びました。英語にすると、“The gay science”となり、savoirやscienceは、科学でもいいのですが、より広く、学問や知識という意味になります。後に、ニーチェはこの言葉を「悦ばしき知識」(1882年)という大作にしました。澁澤龍彥(しぶさわ たつひこ)は、新聞紙上で「学問や知恵とは、苦しみながら摂取するものではなく、むしろ楽しく悦ばしき含蓄をもったものであるべきことを、ニーチェはこの言葉によって暗示したのであろう」としています。1968にはゴダールの映画のタイトル“Le Gai savoir”としても使われました。
近年、スマートフォーンの普及により、簡単にインターネットを通じて検索することができるようになりました。現在では古今東西、世界中の人が蓄積してきた無尽蔵の知識が、瞬時に簡単に参照できるようになりました。大抵のわかないことには、答えを簡単に得、知ることができるようになりました。だから人はネットを通じて検索するのです。
そのように瞬間的に得た学ぶ喜びは、その場限りのものになってしまうことが多くなってきたような気がします。また、知識自体も、その場限りの死んだ知識、あるいは泡沫(うたかた)の知識となってしまったようです。
現在社会におて、知識はその気になれば簡単に手に入ります。しかし、知識とは活きて使えるものにしなくはなりません。そのために、学ぶことに楽しみをもっていなくてはならないはずです。回り道をしても、苦労しても、学ぶ喜びを経てこそ、知識の値打ちが生みだされるはずです。
子曰く、
知之者不如好之者
好之者不如楽之者
これを知る者は、これを好む者に如かず
これを好む者は、これを楽しむ者に如かず
『論語』雍也第六より
・入学式・
新年度になりました。
我が大学では、4月1日が入学式なっています。
区切りがよくてわかりやすい日にちの設定です。
北海道も、日に日に春めいてきました。
まだまだ雪は残っていますが
温かい春の日差しにもなってきて
入学式をするにふさわしい季節となりました。
新学期を迎える態勢も整ってきています。
1週間ほど、新入生のガイダンスなどがありますが、
授業もすぐにはじまります。
受け入れる大学のスタッフも心を一新しなければなりません。
・3月は・
3月は早く過ぎました。
そして、3月中旬からは、
ほとんど仕事がストップして進みませんでした。
まあ、いろいろ慌ただしい行事が続いきました。
ですから、仕方がないのでしょうが、
少々焦りを感じます。
授業がはじまってしばらくしないと
落ち着きは取り戻せないかもしれません。
2017年4月1日土曜日
2017年3月1日水曜日
182 歩くことと考えること
初学者が、野外調査でどのように調査の能力を身についけていくのか。地質学では、歩くことが必須となります。研究目的を達成するため山野を歩きます。目的が腑に落ちて、調査に没頭できるのは、どのような状態でしょうか。
初学者が。、野外調査を通じて、研究をはじめる場合を考えましょう。地質学の初学者にしましょう。基礎的な知識を持ち、野外調査のやり方も実習などである程度身につけています。研究目的は指導者から事前に与えられており、関連する専門的文献も読んでいるとしましょう。
知識も技術も一応は身についているはずなので、野外調査はスタートできます。ただし、長期間、ひとりで野外調査するのははじめてです。ですから、たとえ意欲はあっても、かなりの不安があるはずです。
自分一人での調査となると、今までの実習とは全く違うことがわかり、戸惑いも起こり、肉体的にも精神的にも疲労します。歩きはじめは、体が馴れていないので体力的にきつく、雨で休める日があるとホッとします。雨は調査が遅れるので、雨の日は歓迎すべきでないはずです。
また初めての地域では、実習の時とは地質も岩石の種類も変わるので、記載の仕方、データのとり方、試料の採取の仕方など、すべて自分なりのやり方や基準を決めていかなくてはなりません。精神的にも疲れます。
調査の仕方も、もがくような試行錯誤をしながら、自分なりのやり方を決めながら、だんだん石を見る目も熟練してきます。データや採取した試料も増えてくると、研究目的(例えば、オフィライトの起源を地質調査と岩石記載から明らかにする)にどう結びついていくのかが、少しわかってきます。さらに歩いていくと、体も慣れてきて、体力的な不安がなくなってきて、楽しくなってきます。
やがて、研究目的に沿って、記載の仕方もよりよいものへと変わっていくことになるでしょう。多分、初期に歩いたところや重要なところを、再度見直す必要があります。研究目的が腑に落ちてくると、野外調査のスキルもついてきたことを実感できます。卒業論文の調査は、まずは歩いて、それから考えていました。
ここまでの話しは、私がはじめて卒業論文で日高山脈で野外調査にでたときの経験です。あっさりと書きましたが、私がこのように歩くことに楽しみを覚えるまで、ひとシーズン(3ヶ月ほど)を要しました。調査が楽しくなるころに、雪のためシーズンが終わりました。歩きたいと思っても、次のシーズンまで待たなければなりませんでした。
卒業論文は4年生ですので、冬には卒業論文をまとめて、提出しなければなりません。卒業論文提出後、私は大学が変わり、指導教員も変わり、研究目的も変わりました。次シーズンは、全く別のところで野外調査をはじめました。「所変われば品変わる」で、すぐには石を見る目ができず、苦労しました。もちろん、昨シーズンの経験は、次なる調査地で活かされていました。早い段階で、調査に専念できました。卒業論文のときの調査は、野外調査の方法自体を身につけるということもありました。その結果、時間をかけた割には、調査の内容も目的の深め方にも不足や不満を感じていました。
修士論文は、岡山県のある地域だったので、1年に春と秋の2シーズンの調査ができました。ただし1年目の春は、調査地を決めるために、指導の先生と各地を歩き周りました。ですから、野外調査は、修士課程1年目の秋、2年目の春の2シーズン(3シーズン目の秋は少しだけ歩く)を集中的に歩きました。
この地域での新たな研究目的(オフィオライトの起源を調べる)のために、岩石や鉱物の化学分析という手段を利用することにしていました。適切な試料を採取しながら野外調査を進めていきます。もちろんはじめての地域なので、地質学の基本的な調査もおこないます。修士論文の調査は、新しい調査地でしたが、我ながらよく歩いたと思います。まさに野外調査に没頭していました。修士論文の調査は、手段も目的もはっきりと定まっていたので、その目的にあったものを探しながら歩いて考えていました。
博士論文の目的としては、修士論文の地域を基準にして、中国地方から近畿地方まで、類似の岩石がでているところを、広域に比較対象することにしました。野外調査の拡大して車やテントで寝泊まりしながら、4シーズンほど調査しました。もう3年も野外調査をしているので、要領を得ています。あらかじめ定めたひとつ地域で、目的に必要なルートで露頭を見つめては集中的に調査しました。そして、効率的に必要なデータや試料を集めることができるようになっていました。博士論文の調査は目的を達成することが優先されました。しかし、長期間、野外で調査していると、楽しく没頭できました。博士論文ではまずは、考えてから、効率的に歩くことにしていました。
卒業論文、修士論文、博士論文と野外調査のスキルは上がってきています。研究の成果も、この順に上がってきています。いずれも野外調査は大変ですが、楽しさもありました。しかし、研究目的を理解するために、もがきながらひたすら歩いていた時、アセリもありましたが、はじめての野外調査のせいかもしれませんが、達成感が一番あったような気がします。
このような達成感は、野外調査や研究だけでないはずです。体を動かし、手を使い、深く考え、納得し、腑に落ちで、肉体的にも精神的にも苦労したものほど、達成感が大きいものでしょう。
・3月は・
北海道は、暖かい日があるかと思ったら、
翌日は積雪という繰り返しがはじまりました。
今年は温度の変動が大きいように感じます。
いよいよ3月です。
大学は後期の入試と卒業や進学の判定、
また、新学期に向けての準備となります。
慌ただしい時期となります。
卒業生は社会に対して、
新入生は大学に対して希望と不安を抱えて、
新天地に向かいます
健闘を祈ります。
・たゆまぬ努力・
2月から3月上旬にかけて、
研究を進めたいと、時間と努力をかけてきました。
内容が多いため、手こずっています。
かといって、手を抜いていらたますます滞ります。
ただひたすら時間をかけて、手間をかけて
着実に進めていく必要があります。
たゆまぬ努力のみが解決手段です。
大変ですが、エッセイでも述べましたが、
「苦労したものほど、達成感が大きい」
はずです。
初学者が。、野外調査を通じて、研究をはじめる場合を考えましょう。地質学の初学者にしましょう。基礎的な知識を持ち、野外調査のやり方も実習などである程度身につけています。研究目的は指導者から事前に与えられており、関連する専門的文献も読んでいるとしましょう。
知識も技術も一応は身についているはずなので、野外調査はスタートできます。ただし、長期間、ひとりで野外調査するのははじめてです。ですから、たとえ意欲はあっても、かなりの不安があるはずです。
自分一人での調査となると、今までの実習とは全く違うことがわかり、戸惑いも起こり、肉体的にも精神的にも疲労します。歩きはじめは、体が馴れていないので体力的にきつく、雨で休める日があるとホッとします。雨は調査が遅れるので、雨の日は歓迎すべきでないはずです。
また初めての地域では、実習の時とは地質も岩石の種類も変わるので、記載の仕方、データのとり方、試料の採取の仕方など、すべて自分なりのやり方や基準を決めていかなくてはなりません。精神的にも疲れます。
調査の仕方も、もがくような試行錯誤をしながら、自分なりのやり方を決めながら、だんだん石を見る目も熟練してきます。データや採取した試料も増えてくると、研究目的(例えば、オフィライトの起源を地質調査と岩石記載から明らかにする)にどう結びついていくのかが、少しわかってきます。さらに歩いていくと、体も慣れてきて、体力的な不安がなくなってきて、楽しくなってきます。
やがて、研究目的に沿って、記載の仕方もよりよいものへと変わっていくことになるでしょう。多分、初期に歩いたところや重要なところを、再度見直す必要があります。研究目的が腑に落ちてくると、野外調査のスキルもついてきたことを実感できます。卒業論文の調査は、まずは歩いて、それから考えていました。
ここまでの話しは、私がはじめて卒業論文で日高山脈で野外調査にでたときの経験です。あっさりと書きましたが、私がこのように歩くことに楽しみを覚えるまで、ひとシーズン(3ヶ月ほど)を要しました。調査が楽しくなるころに、雪のためシーズンが終わりました。歩きたいと思っても、次のシーズンまで待たなければなりませんでした。
卒業論文は4年生ですので、冬には卒業論文をまとめて、提出しなければなりません。卒業論文提出後、私は大学が変わり、指導教員も変わり、研究目的も変わりました。次シーズンは、全く別のところで野外調査をはじめました。「所変われば品変わる」で、すぐには石を見る目ができず、苦労しました。もちろん、昨シーズンの経験は、次なる調査地で活かされていました。早い段階で、調査に専念できました。卒業論文のときの調査は、野外調査の方法自体を身につけるということもありました。その結果、時間をかけた割には、調査の内容も目的の深め方にも不足や不満を感じていました。
修士論文は、岡山県のある地域だったので、1年に春と秋の2シーズンの調査ができました。ただし1年目の春は、調査地を決めるために、指導の先生と各地を歩き周りました。ですから、野外調査は、修士課程1年目の秋、2年目の春の2シーズン(3シーズン目の秋は少しだけ歩く)を集中的に歩きました。
この地域での新たな研究目的(オフィオライトの起源を調べる)のために、岩石や鉱物の化学分析という手段を利用することにしていました。適切な試料を採取しながら野外調査を進めていきます。もちろんはじめての地域なので、地質学の基本的な調査もおこないます。修士論文の調査は、新しい調査地でしたが、我ながらよく歩いたと思います。まさに野外調査に没頭していました。修士論文の調査は、手段も目的もはっきりと定まっていたので、その目的にあったものを探しながら歩いて考えていました。
博士論文の目的としては、修士論文の地域を基準にして、中国地方から近畿地方まで、類似の岩石がでているところを、広域に比較対象することにしました。野外調査の拡大して車やテントで寝泊まりしながら、4シーズンほど調査しました。もう3年も野外調査をしているので、要領を得ています。あらかじめ定めたひとつ地域で、目的に必要なルートで露頭を見つめては集中的に調査しました。そして、効率的に必要なデータや試料を集めることができるようになっていました。博士論文の調査は目的を達成することが優先されました。しかし、長期間、野外で調査していると、楽しく没頭できました。博士論文ではまずは、考えてから、効率的に歩くことにしていました。
卒業論文、修士論文、博士論文と野外調査のスキルは上がってきています。研究の成果も、この順に上がってきています。いずれも野外調査は大変ですが、楽しさもありました。しかし、研究目的を理解するために、もがきながらひたすら歩いていた時、アセリもありましたが、はじめての野外調査のせいかもしれませんが、達成感が一番あったような気がします。
このような達成感は、野外調査や研究だけでないはずです。体を動かし、手を使い、深く考え、納得し、腑に落ちで、肉体的にも精神的にも苦労したものほど、達成感が大きいものでしょう。
・3月は・
北海道は、暖かい日があるかと思ったら、
翌日は積雪という繰り返しがはじまりました。
今年は温度の変動が大きいように感じます。
いよいよ3月です。
大学は後期の入試と卒業や進学の判定、
また、新学期に向けての準備となります。
慌ただしい時期となります。
卒業生は社会に対して、
新入生は大学に対して希望と不安を抱えて、
新天地に向かいます
健闘を祈ります。
・たゆまぬ努力・
2月から3月上旬にかけて、
研究を進めたいと、時間と努力をかけてきました。
内容が多いため、手こずっています。
かといって、手を抜いていらたますます滞ります。
ただひたすら時間をかけて、手間をかけて
着実に進めていく必要があります。
たゆまぬ努力のみが解決手段です。
大変ですが、エッセイでも述べましたが、
「苦労したものほど、達成感が大きい」
はずです。
2017年2月1日水曜日
181 熊楠の腹稿
「腹稿」について考えます。腹稿という言葉を聞いたことのない人でも、文章の中で使われれば、意味がわかるはずです。また、腹案と似た意味だといえば、納得できるはずです。「腹稿」について考えていきます。
聞いたことのない言葉であっても、その意味がわかることがあります。ただ、その言葉が自分にとって重要な意味を持つことがなければ、見過ごされていくことになります。一方、言葉には、意識していなくても、その言葉の通りに行っている行為自体に先進性があることもあります。ただし、言葉の意味や役割を、本人が残す意図がないのであれば、多数の言葉の中に埋もれて消えていくことが多いはずです。
偉大な先哲が、自分のアイディアを生み出したり、まとめるために、さまざまな工夫をしてきたはずです。しかし、それらの工夫は、アイディアができれば、目的を達成して不要となってしまい、残ることはありません。アイディアを生むための素晴らしい方法が、いろいろあったはずです。先哲のアイディアを生む手法が、言葉や文章にして残されていないとしても、先哲の工夫がなんらかの形や記録として残っていれば、後世に伝わることがあります。抽象的な話し方をしましたが、今回の話題は、そのような言葉と行為についてです。
「腹稿(ふっこう)」という言葉をご存知でしょうか。私は知りませんでした。でも何らかの文脈で使われていれば、意味はある程度読み取れます。
福沢諭吉が「学問のすすめ」の中で、「同僚の噂咄(うわさばなし)はわが注文書の腹稿となり」というような使い方をしています。この文章での意味は、「すでに買っている人がいるのなら、その人の意見を、自分がこれから注文するときの参考になる」という意味になります。これは、「腹案」とも言い換えることができるます。
本筋とは離れるのですが、諭吉の「腹稿」と言う言葉を用いた文章は、物欲について語っているところです。人はより多くのものを求めることになっていく。ものが欲しいがため、金を手にするために働くことになっていきます。物欲は、主客転倒をおこしていくといいます。物欲のために、分不相応なことをしている人がいる。それを諌めるための文章です。そこで本筋とは関係なく「腹稿」という言葉が使われています。特別に重要な意味がある用法ではありません。
「腹稿」は、辞書によると、古くは唐書の「王勃伝」にも見られるようで、「ものを書くとき心の中で案を練り上げる」ことを意味しているようです。古くからある言葉なのですが、見たことがないとしても、文字の組み合わから容易に、その意味が推定できます。
腹稿は、原稿を書くとき、事前に心の中で考えていくことです。腹稿は頭のなかでつくられるだけでなく、ときにはメモとして文字化されることもあったでしょう。古い言葉ですから、先哲も腹稿を利用していたはずです。
現代では、腹稿のために、いろいろな考えを整理する手法が、ブレインストーミングとして提案されてきました。私が学生の頃は、川喜田二郎氏が考案したKJ法があり、その方法に感銘して、活用したことがありました。付箋や小さな紙切れに思いつくことをなんでも書いていきます。考えが出つくすまで付箋を作成していきます。できた多数の付箋をグルーピングしたり、階層化していくことで、全体の考えを整理していく方法です。特に内容が多く多岐にわたる博士論文を書く時、KJ法にはお世話になりました。また、集団で討論をしてくときの考えを整理するときにも、利用させていただきました。
別の方法では、キーワードや思いついた言葉を線で結びながら書くクモの巣状の図(Web Map)があります。Web Mapと同じなのですが、連想を重視したマインド・マップなど、さまざまな方法が提案されてきました。今ではパソコンで簡単にWeb Mapを作成するソフトもあるので、私も腹稿作成に使っています。長期計画を立てたり、ものごとを構想するときに役に立っています。
現代では、腹稿のための思考整理の方法にもいろいろなものがあるので、自分に合ったものを見つけることができます。昔は、文章化することが重要でした。腹稿も文字が主だったのでしょうか。他の方法を考案していた先哲もいたはずです。素晴らしい腹稿の方法があったとしても、文章を書くことが目的のためなので、文章ができれば、そのような腹稿は不要になり、消えてしまうことになります。
ところが、私は、腹案を実体化し、皆が見られえる形で残されたものを知りました。南方熊楠が作成した腹稿でした。南方熊楠顕彰館を訪れた時、熊楠が原稿を書くとき用いた図を「腹稿」として展示されているのを見ました。実はこの時、初めて私は「腹稿」という言葉を知ることになったのです。
その腹稿はすごいものでした。大きな和紙に、熊楠特有の極めて小さな文字で、大量のキーワードや短文が書き込まれていました。キーワード同士で関連があるものは線でつないであり、グルーピングされたり、執筆順をメモしたり、赤のスミを使って区分しているところもあったりしました。展示されていたのは、「十二支考」用の腹稿で、ひとつひとつの干支に対して一枚の腹稿が示されていました。ときには裏面にも書き込みが続くこともあります。
熊楠が文章の構成を考えるために、非常にいろいろなキーワードを自分の頭から引っぱり出して、それをまとめる工夫をしていました。現在のいうところの、KJ法やマインド・マップに通じるものです。熊楠は誰に教わるでもなく、自分で編み出した方法です。もし、このような展示がなければ、この方法は知られることなく、埋もれていたはずです。現在のマインド・マップの提案より、数十年も先駆けていました。
このような緻密な作業をする傍ら、熊楠は手紙では奔放な書き方をしています。着地点も考えず、思いつくまま、話が行ったり来たりしながら、書き連ねられます。気心の知れた人への手紙は、長く、より一層その奔放さが増します。彼の頭の中にある自由闊達な思考形態を、そのまま書き連ねているようです。
「十二支考」のようにしっかりとした文章を書く時は、腹稿のように入念な準備がなされたようです。英語の論文を書くときは、このような腹稿はないようです。ある時から、あるいは複雑なアイディアをまとめる時、この方法を考案して使いだしたのでしょうか。
自分の考えを長文の文章化するとき、頭のなかで構想してそのまま書き出す人もいるはずです。今では、ワープロで修正加筆が簡単にできるので、書きながらアイディアをまとめていくこともできるようになりました。アウトライン機能を持っているエディターやワープロもあるので、それを利用することもできるでしょう。これは技術の進歩でもあり、よい手法の共有化が進んでいるためでしょう。
一部の能力あった人だけでなく、だれものが長文を書いたり、アイディアをまとめることができるようになってきました。おかげで、私のような凡才でも、長文が書けるようになってきたのです。世間にとってはの駄文の長文で迷惑でしょうが。
・有効利用・
大学は後期の授業終わり、
定期試験のシーズンとなっています。
そしていよいよ入試がはじまります。
教員は、いろいろ校務は続くのですが、
講義が終わると、時間に余裕はできます。
まとまった時間とれるので、
研究をすすめる重要な時期となります。
私もこの時期にしたいことがあり、
有効に使ってきたいと考えています。
その研究のまとめには、腹稿が不可欠になります。
利用させてもらっています。
・野外調査中・
このエッセイは、実はかなり前に書いて
予約発送の手続きをしています。
それは、1月下旬に九州に野外調査に出かけるためです。
昨年のゴールデンウィークに熊本を中心に
調査に出かける予定でしたが、
熊本地震のために、中止にしたものです。
今年度になんとか行くべきてだったのですが、
時間がとれずに、この期間にぎりぎり行くことになりました。
そのため、事前に書いて発行しています。
聞いたことのない言葉であっても、その意味がわかることがあります。ただ、その言葉が自分にとって重要な意味を持つことがなければ、見過ごされていくことになります。一方、言葉には、意識していなくても、その言葉の通りに行っている行為自体に先進性があることもあります。ただし、言葉の意味や役割を、本人が残す意図がないのであれば、多数の言葉の中に埋もれて消えていくことが多いはずです。
偉大な先哲が、自分のアイディアを生み出したり、まとめるために、さまざまな工夫をしてきたはずです。しかし、それらの工夫は、アイディアができれば、目的を達成して不要となってしまい、残ることはありません。アイディアを生むための素晴らしい方法が、いろいろあったはずです。先哲のアイディアを生む手法が、言葉や文章にして残されていないとしても、先哲の工夫がなんらかの形や記録として残っていれば、後世に伝わることがあります。抽象的な話し方をしましたが、今回の話題は、そのような言葉と行為についてです。
「腹稿(ふっこう)」という言葉をご存知でしょうか。私は知りませんでした。でも何らかの文脈で使われていれば、意味はある程度読み取れます。
福沢諭吉が「学問のすすめ」の中で、「同僚の噂咄(うわさばなし)はわが注文書の腹稿となり」というような使い方をしています。この文章での意味は、「すでに買っている人がいるのなら、その人の意見を、自分がこれから注文するときの参考になる」という意味になります。これは、「腹案」とも言い換えることができるます。
本筋とは離れるのですが、諭吉の「腹稿」と言う言葉を用いた文章は、物欲について語っているところです。人はより多くのものを求めることになっていく。ものが欲しいがため、金を手にするために働くことになっていきます。物欲は、主客転倒をおこしていくといいます。物欲のために、分不相応なことをしている人がいる。それを諌めるための文章です。そこで本筋とは関係なく「腹稿」という言葉が使われています。特別に重要な意味がある用法ではありません。
「腹稿」は、辞書によると、古くは唐書の「王勃伝」にも見られるようで、「ものを書くとき心の中で案を練り上げる」ことを意味しているようです。古くからある言葉なのですが、見たことがないとしても、文字の組み合わから容易に、その意味が推定できます。
腹稿は、原稿を書くとき、事前に心の中で考えていくことです。腹稿は頭のなかでつくられるだけでなく、ときにはメモとして文字化されることもあったでしょう。古い言葉ですから、先哲も腹稿を利用していたはずです。
現代では、腹稿のために、いろいろな考えを整理する手法が、ブレインストーミングとして提案されてきました。私が学生の頃は、川喜田二郎氏が考案したKJ法があり、その方法に感銘して、活用したことがありました。付箋や小さな紙切れに思いつくことをなんでも書いていきます。考えが出つくすまで付箋を作成していきます。できた多数の付箋をグルーピングしたり、階層化していくことで、全体の考えを整理していく方法です。特に内容が多く多岐にわたる博士論文を書く時、KJ法にはお世話になりました。また、集団で討論をしてくときの考えを整理するときにも、利用させていただきました。
別の方法では、キーワードや思いついた言葉を線で結びながら書くクモの巣状の図(Web Map)があります。Web Mapと同じなのですが、連想を重視したマインド・マップなど、さまざまな方法が提案されてきました。今ではパソコンで簡単にWeb Mapを作成するソフトもあるので、私も腹稿作成に使っています。長期計画を立てたり、ものごとを構想するときに役に立っています。
現代では、腹稿のための思考整理の方法にもいろいろなものがあるので、自分に合ったものを見つけることができます。昔は、文章化することが重要でした。腹稿も文字が主だったのでしょうか。他の方法を考案していた先哲もいたはずです。素晴らしい腹稿の方法があったとしても、文章を書くことが目的のためなので、文章ができれば、そのような腹稿は不要になり、消えてしまうことになります。
ところが、私は、腹案を実体化し、皆が見られえる形で残されたものを知りました。南方熊楠が作成した腹稿でした。南方熊楠顕彰館を訪れた時、熊楠が原稿を書くとき用いた図を「腹稿」として展示されているのを見ました。実はこの時、初めて私は「腹稿」という言葉を知ることになったのです。
その腹稿はすごいものでした。大きな和紙に、熊楠特有の極めて小さな文字で、大量のキーワードや短文が書き込まれていました。キーワード同士で関連があるものは線でつないであり、グルーピングされたり、執筆順をメモしたり、赤のスミを使って区分しているところもあったりしました。展示されていたのは、「十二支考」用の腹稿で、ひとつひとつの干支に対して一枚の腹稿が示されていました。ときには裏面にも書き込みが続くこともあります。
熊楠が文章の構成を考えるために、非常にいろいろなキーワードを自分の頭から引っぱり出して、それをまとめる工夫をしていました。現在のいうところの、KJ法やマインド・マップに通じるものです。熊楠は誰に教わるでもなく、自分で編み出した方法です。もし、このような展示がなければ、この方法は知られることなく、埋もれていたはずです。現在のマインド・マップの提案より、数十年も先駆けていました。
このような緻密な作業をする傍ら、熊楠は手紙では奔放な書き方をしています。着地点も考えず、思いつくまま、話が行ったり来たりしながら、書き連ねられます。気心の知れた人への手紙は、長く、より一層その奔放さが増します。彼の頭の中にある自由闊達な思考形態を、そのまま書き連ねているようです。
「十二支考」のようにしっかりとした文章を書く時は、腹稿のように入念な準備がなされたようです。英語の論文を書くときは、このような腹稿はないようです。ある時から、あるいは複雑なアイディアをまとめる時、この方法を考案して使いだしたのでしょうか。
自分の考えを長文の文章化するとき、頭のなかで構想してそのまま書き出す人もいるはずです。今では、ワープロで修正加筆が簡単にできるので、書きながらアイディアをまとめていくこともできるようになりました。アウトライン機能を持っているエディターやワープロもあるので、それを利用することもできるでしょう。これは技術の進歩でもあり、よい手法の共有化が進んでいるためでしょう。
一部の能力あった人だけでなく、だれものが長文を書いたり、アイディアをまとめることができるようになってきました。おかげで、私のような凡才でも、長文が書けるようになってきたのです。世間にとってはの駄文の長文で迷惑でしょうが。
・有効利用・
大学は後期の授業終わり、
定期試験のシーズンとなっています。
そしていよいよ入試がはじまります。
教員は、いろいろ校務は続くのですが、
講義が終わると、時間に余裕はできます。
まとまった時間とれるので、
研究をすすめる重要な時期となります。
私もこの時期にしたいことがあり、
有効に使ってきたいと考えています。
その研究のまとめには、腹稿が不可欠になります。
利用させてもらっています。
・野外調査中・
このエッセイは、実はかなり前に書いて
予約発送の手続きをしています。
それは、1月下旬に九州に野外調査に出かけるためです。
昨年のゴールデンウィークに熊本を中心に
調査に出かける予定でしたが、
熊本地震のために、中止にしたものです。
今年度になんとか行くべきてだったのですが、
時間がとれずに、この期間にぎりぎり行くことになりました。
そのため、事前に書いて発行しています。
2017年1月1日日曜日
180 悦ばしき知恵:生涯学ぶ
明けましておめでとうございます。今年最初のエッセイは、「悦ばしき知恵」というめでたいタイトルです。ただし正月早々、熊楠とニーチェの登場となります。難しい内容ではありませんので、お付き合いただければと思います。
昨年は例年にない異常気象がつぎつぎと起こり、不安定な気候状況でした。今年は穏やか一年であることを願っています。
新年早々のエッセイでは、今興味の持っていることを、少々深めて書こうと思ったのですが、少々専門的すぎるので、関連するのですが皆様に興味を持ってもらえそうな話題にしました。最初から優柔不断な話ですが、皆様にとっても「悦ばしき」話題になればと思っています。
私は、南方熊楠(1867.5.18-1941.12.29)に以前から興味をもっていました。昨年から熊楠自身の文献、関連する文献を可能な限り集め、少しずつ読み始めています。このあたりの事情は、昨年11月のエッセイ「178 南方マンダラ」で書きました。
熊楠は、不思議な人物で奇人変人扱いをされているのですが、調べていくと、なかなか面白い人で、共感覚えます。熊楠は、思索を深めながらも、フィールドワークを非常に重要視していました。その思索も独自のものを展開しています。世界を相手に一歩も引けを取らない気概も感じます。私が共感を覚えるところはこのような点です。
フィールドワークで粘菌類や菌類の採取をして、自宅で詳細なスケッチと記載をしています。資料提供はするのですが、自身では粘菌の論文は、あまり書きませんでした。一方、思索では伝承や伝説などの民俗学については、特に日本、東洋の思想を西洋の思想を比較研究するという分野で大きな貢献がありました。一流の科学雑誌である「Nature」誌にも51本の論文が掲載されており、他にも国内外の研究誌に非常に多くの業績を残しています。熊楠には抜群の記憶力と語学力があり、若い時代に14年に及ぶ海外生活があり大英博物館に出入りしました。そのような能力、人脈を持っている上に、持ち前に負けず嫌いの正確で、超人的な研究者生活を送っています。
彼の持ち味は、膨大な書翰にあります。送る相手に合わせて、いろいろな思想を展開しています。以前、熊楠の曼荼羅は紹介しましたが、土宜法竜との手紙は圧巻です。ただし、読むのは熊楠の癖を理解していないと、なかなか大変作業ですが。
手紙でも、研究でも、いずれも大変だと思うような方法をとっているのですが、いったてオーソドックスな正攻法で研究を進めています。素晴らしい姿勢です。熊楠のさらにすごい点は、そんな大変なフィールドワークや文献調査なども、楽しんでいるところです。晩年も衰えを感じながらも、生涯学び続けています。学ぶことに常に悦びを感じているところこそが、熊楠の魅力です。
ここから、話題が変わります。
ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844.10.15-1900.8.25)が登場します。ニーチェは、ドイツの哲学者です。名前を聞いた人も多いのではないでしょうか。彼の偉大さは、神、真理、理性、自我などの概念を、従来のものとは全く違った解釈をしました。さらに、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰など、ニーチェ固有の概念を提示しました。
ニーチェを出したのは、1882年に出版した「悦ばしき知識」という書籍を話題にするためです。私は読んだことがないのですが、この本では、永劫回帰説と、宗教からの別離を意味する「神は死んだ」という有名な主張をしています。
さて今回のエッセイで注目したいのは、本のタイトルでもある「悦ばしき知識」という言葉です。「悦ばしき知識」とは、「gai savoir」とも書かれ、もともとはフランス南部プロヴァンスで使用されているプロヴァンス語「la gaya scienza」に由来するもので、思索法を表すものだそうです。英語では著書名は、「Gay Sicence」、あるいは「Joyful Wisdom」と訳されています。「悦ばしき知識」とは、如何なるものでしょうか。
澁澤龍彥(しぶさわ たつひこ)によりますと、ニーチェの「悦ばしき知識」とは、「学問や知恵とは、苦しみながら摂取するものではなく、むしろ楽しく悦ばしき含蓄をもったものであるべきことを、ニーチェはこの言葉によって暗示したのであろう。」と述べています。同感です。
学ぶことは、元来、面白いもののはずです。そして、知ったことは他の人に伝えたくなるものです。正確によく伝えるには、深い理解が必要になります。断片的ではなく、体系的な知識。ただし、体系的に学び、理解するときには、難解な書物の読破、ときには基礎知識の吸収からはじめなければならないかもしれません。しかし、辛さの先には、学ぶ「悦び」が待っているのです。澁澤は、これこそが「悦ばしき知識」の意味だというのです。
そこに最初に述べた熊楠の学問の姿勢の通じるものがあります。熊楠は、多数の書翰を書いています。膨大な彼の著作(全集の12巻+日記4巻+その他)があるのですが、そこには書翰も多く再録されていますが、本来の量はその何倍にもなると考えられます。近年でも熊楠の書翰が発見され、新たし本や論文として紹介されています。
書翰にも、いや書翰にこそ、彼の思想のさまざまな展開がなされています。相手により議論や思索の内容を変えています。書翰ですから日の目を見ないはずのものであっても、思索には手心を加えていません。高尚に深く思索がめぐらされています。そんな書翰を、熊楠は、興が乗れば、不眠不休で書き続けます。澁澤は、そんな様子を、「南方熊楠は生まれながらにして、この「悦ばしき知恵」の体得者であったように思われる。」としています。私もそう思います。私は、しばらく熊楠を読むつもりです。
・終わりなきもの・
熊楠の書籍を読んでいると、
自分は、まだまだ学び足りないと思ってしまいます。
特に学ぶ姿勢が不足していると思います。
どんなにつらい状況であっても、
フィールドワークを続けようと思います。
学ぶ内容には貴賤やタブーはなく、
すべての知識は「悦ばしき」ものとして
対等に同じ姿勢で取り組んでいきます。
自分が面白いと思えることは、
最大限の努力と誠意をもって取り組むべきでしょう。
いくつくになっても、与えられた状況で
与えられた自身の能力で、精一杯に学んでいくべきです。
現在の私が与えられた職業、環境として
大学教員というものがあります。
この職業は、「悦ばしき知恵」を具現化できるものであります。
学ぶことは「悦ばしき」ことで、終わりなきものです。
・悔いのない日々を・
今年こそとは、思うことはなくないのですが、
それを全面に出すことはないでしょう。
やるべきことを、計画を立て、修正しながらも
淡々と進めていくことが大切です。
ただし、私に残された時間はあまりないことは確かです。
ただし、終わりを心配しながら生きていくのではなく、
どんなときに終わったとしても、
悔いのない日々を送ることが重要ではないでしょうか。
そんなことを年のはじめに考えています。
昨年は例年にない異常気象がつぎつぎと起こり、不安定な気候状況でした。今年は穏やか一年であることを願っています。
新年早々のエッセイでは、今興味の持っていることを、少々深めて書こうと思ったのですが、少々専門的すぎるので、関連するのですが皆様に興味を持ってもらえそうな話題にしました。最初から優柔不断な話ですが、皆様にとっても「悦ばしき」話題になればと思っています。
私は、南方熊楠(1867.5.18-1941.12.29)に以前から興味をもっていました。昨年から熊楠自身の文献、関連する文献を可能な限り集め、少しずつ読み始めています。このあたりの事情は、昨年11月のエッセイ「178 南方マンダラ」で書きました。
熊楠は、不思議な人物で奇人変人扱いをされているのですが、調べていくと、なかなか面白い人で、共感覚えます。熊楠は、思索を深めながらも、フィールドワークを非常に重要視していました。その思索も独自のものを展開しています。世界を相手に一歩も引けを取らない気概も感じます。私が共感を覚えるところはこのような点です。
フィールドワークで粘菌類や菌類の採取をして、自宅で詳細なスケッチと記載をしています。資料提供はするのですが、自身では粘菌の論文は、あまり書きませんでした。一方、思索では伝承や伝説などの民俗学については、特に日本、東洋の思想を西洋の思想を比較研究するという分野で大きな貢献がありました。一流の科学雑誌である「Nature」誌にも51本の論文が掲載されており、他にも国内外の研究誌に非常に多くの業績を残しています。熊楠には抜群の記憶力と語学力があり、若い時代に14年に及ぶ海外生活があり大英博物館に出入りしました。そのような能力、人脈を持っている上に、持ち前に負けず嫌いの正確で、超人的な研究者生活を送っています。
彼の持ち味は、膨大な書翰にあります。送る相手に合わせて、いろいろな思想を展開しています。以前、熊楠の曼荼羅は紹介しましたが、土宜法竜との手紙は圧巻です。ただし、読むのは熊楠の癖を理解していないと、なかなか大変作業ですが。
手紙でも、研究でも、いずれも大変だと思うような方法をとっているのですが、いったてオーソドックスな正攻法で研究を進めています。素晴らしい姿勢です。熊楠のさらにすごい点は、そんな大変なフィールドワークや文献調査なども、楽しんでいるところです。晩年も衰えを感じながらも、生涯学び続けています。学ぶことに常に悦びを感じているところこそが、熊楠の魅力です。
ここから、話題が変わります。
ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844.10.15-1900.8.25)が登場します。ニーチェは、ドイツの哲学者です。名前を聞いた人も多いのではないでしょうか。彼の偉大さは、神、真理、理性、自我などの概念を、従来のものとは全く違った解釈をしました。さらに、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰など、ニーチェ固有の概念を提示しました。
ニーチェを出したのは、1882年に出版した「悦ばしき知識」という書籍を話題にするためです。私は読んだことがないのですが、この本では、永劫回帰説と、宗教からの別離を意味する「神は死んだ」という有名な主張をしています。
さて今回のエッセイで注目したいのは、本のタイトルでもある「悦ばしき知識」という言葉です。「悦ばしき知識」とは、「gai savoir」とも書かれ、もともとはフランス南部プロヴァンスで使用されているプロヴァンス語「la gaya scienza」に由来するもので、思索法を表すものだそうです。英語では著書名は、「Gay Sicence」、あるいは「Joyful Wisdom」と訳されています。「悦ばしき知識」とは、如何なるものでしょうか。
澁澤龍彥(しぶさわ たつひこ)によりますと、ニーチェの「悦ばしき知識」とは、「学問や知恵とは、苦しみながら摂取するものではなく、むしろ楽しく悦ばしき含蓄をもったものであるべきことを、ニーチェはこの言葉によって暗示したのであろう。」と述べています。同感です。
学ぶことは、元来、面白いもののはずです。そして、知ったことは他の人に伝えたくなるものです。正確によく伝えるには、深い理解が必要になります。断片的ではなく、体系的な知識。ただし、体系的に学び、理解するときには、難解な書物の読破、ときには基礎知識の吸収からはじめなければならないかもしれません。しかし、辛さの先には、学ぶ「悦び」が待っているのです。澁澤は、これこそが「悦ばしき知識」の意味だというのです。
そこに最初に述べた熊楠の学問の姿勢の通じるものがあります。熊楠は、多数の書翰を書いています。膨大な彼の著作(全集の12巻+日記4巻+その他)があるのですが、そこには書翰も多く再録されていますが、本来の量はその何倍にもなると考えられます。近年でも熊楠の書翰が発見され、新たし本や論文として紹介されています。
書翰にも、いや書翰にこそ、彼の思想のさまざまな展開がなされています。相手により議論や思索の内容を変えています。書翰ですから日の目を見ないはずのものであっても、思索には手心を加えていません。高尚に深く思索がめぐらされています。そんな書翰を、熊楠は、興が乗れば、不眠不休で書き続けます。澁澤は、そんな様子を、「南方熊楠は生まれながらにして、この「悦ばしき知恵」の体得者であったように思われる。」としています。私もそう思います。私は、しばらく熊楠を読むつもりです。
・終わりなきもの・
熊楠の書籍を読んでいると、
自分は、まだまだ学び足りないと思ってしまいます。
特に学ぶ姿勢が不足していると思います。
どんなにつらい状況であっても、
フィールドワークを続けようと思います。
学ぶ内容には貴賤やタブーはなく、
すべての知識は「悦ばしき」ものとして
対等に同じ姿勢で取り組んでいきます。
自分が面白いと思えることは、
最大限の努力と誠意をもって取り組むべきでしょう。
いくつくになっても、与えられた状況で
与えられた自身の能力で、精一杯に学んでいくべきです。
現在の私が与えられた職業、環境として
大学教員というものがあります。
この職業は、「悦ばしき知恵」を具現化できるものであります。
学ぶことは「悦ばしき」ことで、終わりなきものです。
・悔いのない日々を・
今年こそとは、思うことはなくないのですが、
それを全面に出すことはないでしょう。
やるべきことを、計画を立て、修正しながらも
淡々と進めていくことが大切です。
ただし、私に残された時間はあまりないことは確かです。
ただし、終わりを心配しながら生きていくのではなく、
どんなときに終わったとしても、
悔いのない日々を送ることが重要ではないでしょうか。
そんなことを年のはじめに考えています。
2016年12月1日木曜日
179 Why think, why try:師走に
師走は慌ただしいものです。そんな慌ただしさの中、その一年におこったことをいろいろと思い起こしてしまいます。当たり前のことを、初心に戻って、思いを新たにする必要があるのでしょう。そんな当たり前のことを紹介しましょう。
月刊のメールマガジンを書く時、冒頭の書き出しを考える時、12月は「師走」という言葉を挙げて、いつもばたばたしている自分の書き出しとなっている気がします。しかし、今年最後のエッセイの冒頭はそんなことをやめようと考えていましたが、書き始めると、はやり師走の話題になっています。閑話休題。本題に入りましょう。
私は、冬のシーズンになると、インフルエンザの予防接種がスタートすると、いち早く受けるようにしています。今年も10月中旬に受けました。大学教員がインフルエンザにかかると、卒業研究を提出する学生に迷惑をかけたり、講義の代行ができないので、補講を多数しなければならないので、やはり学生迷惑をかけてします。そのため、早目に予防接種をして対処しています。それでもインフルエンザにかかることはあるのですが、ただ症状はましになります。
予防接種というと、ジェンナー(Edward Jenner、1749.5.17-1823.1.26)を思い出します。ジェンナーの研究以前にも、予防接種の先駆的手法はいろいろ試みられていたようです。1796年のジェンナーによってなされた実験が、最初のもと位置づけられます。それは研究の手法に則っているからです。
天然痘は強い感染力をもっていて、致死率も高い病気です。ところが、天然痘に似た牛痘にかかった人は、天然痘にかからないという現象がありました。それに牛痘のほうが症状も軽く、完治することも知られていました。
ジェンナーは、牛痘が天然痘の予防に使えるのではないかと、20年近くにわたって考え続けました。ジェンナーは、1787年に自分の子どもに天然痘の接種を試して成功し、1796年に牛痘の接種を使用人の子どもなどに試して、やはり成功しています。その成果は、1798年に発表され、種痘法としてヨーロッパ中にひろまり、現在では天然痘の根絶宣言がだされています。
このような人体実験は、たとえ身内であっても、倫理的には許されないことです。唯一可能なのは、自分自身を実験台にして試すことだけでしょうか。
さて、ジェンナーの例でいいたかったことは、種痘にいたる研究過程のことでした。なにか課題があったとき、それを解決するために、2つの大きなステップがあります。新しい答えを思いつき、正しいかどうかを試すことです。ジェンナーでは、牛痘の接種を思いつくこと、それを実証する実験をしていくことです。
思いつくこと、あるいはひらめくことは、誰にでもできるものではありません。しかし、唯一の道は、常にその課題に取り組み、考え続けていくことでしょう。課題によっては、少しずつ地道な努力を続けることで、解決策が見えてくるものもあるでしょう。あるいは、ある時一気に解決策を思いつくこともあるかもしれません。前者ならば、努力が報われるタイプの課題で、努力を続けていける人て、より大きな努力をした人が、いち早く結果をえられます。後者なら、まずは課題を必死になって考える必要があります。そしてあるとき突然、答え思いつくものです。セレンディピティー(serendipity)とも呼ばれているものです。セレンディピティーは、考え続けた人、誰もがえられるものでありません。でも考え続けないと、セレンディピティーはありません。努力は必要ですが、報われないこともあるので、大変です。
解決策を思いつくことも重要ですが、次なるステップである試行することも重要です。その試行や検証が難しい場合、大変な作業を伴う場合、事前に大変そうだと想像できそうな場合、ついつい検証作業を躊躇してしまいます。そんなことがあると、解決策を考える時にも影響がでてきそうです。
当たり前のことですが、生命に関わることや、大変な手続きや手間のかかること、巨大や費用や装置が必要なこと、大きな組織でしなければならないことなど、その実験を躊躇してしまう要因はいろいろありそうです。あるいは、解決策を考える時点で、そのような要因があるものは、除外してしまっているかもしれません。
さて、研究をするとき、新しいことをはじめるとき、ジェンナーの思考、検証過程には重要な示唆があると思います。ジェンナーのジョン・ハンターのもとで医学の手ほどきをうけました。ジェンナーが実験に踏み切る時、師匠のハンターからの手紙にあった言葉、
Why think, why try
(なぜかを考え、なぜかを試す)
というのを思い浮かべたそうでです。そして、人体実験に踏み切ったそうです。
課題解決の手法として、考えること、試すことは、当たり前のことです。でも、その当たり前のことをすることが大変な場合があるからこそ、ジェンナーもハンターの言葉の後押しが必要になったのでしょう。
私も今年の師走にあたり、再度思い起こしましょう。
Why think, why try
・根雪か・
北海道な12月前に、大雪となりました。
11月にも何度か吹雪くことがありました。
珍しく本州にも雪が降りました。
今年は、根雪も早そうです。
でも、天気さえよければ、
まだ溶ける時期でもあります。
冬至まで根雪はまって欲しいのですが、
どうなるでしょうか。
・心を御する・
今年は、忙しかったです。
この職場に来て以来
もっとも忙しい1年となりました。
この忙しさは、あと少し続きそうです。
忙しさの原因は、はっきりしています。
校務の多さと、研究上の成果報告の多さに
由来するものです。
校務は終わっても疲労感が高まりますが、
研究は大変ではありますが、
終われば達成感がでてきます。
このような違いは、自身の心の持ちようだと思いますが、
心はなかなか御するのが難しいものです。
月刊のメールマガジンを書く時、冒頭の書き出しを考える時、12月は「師走」という言葉を挙げて、いつもばたばたしている自分の書き出しとなっている気がします。しかし、今年最後のエッセイの冒頭はそんなことをやめようと考えていましたが、書き始めると、はやり師走の話題になっています。閑話休題。本題に入りましょう。
私は、冬のシーズンになると、インフルエンザの予防接種がスタートすると、いち早く受けるようにしています。今年も10月中旬に受けました。大学教員がインフルエンザにかかると、卒業研究を提出する学生に迷惑をかけたり、講義の代行ができないので、補講を多数しなければならないので、やはり学生迷惑をかけてします。そのため、早目に予防接種をして対処しています。それでもインフルエンザにかかることはあるのですが、ただ症状はましになります。
予防接種というと、ジェンナー(Edward Jenner、1749.5.17-1823.1.26)を思い出します。ジェンナーの研究以前にも、予防接種の先駆的手法はいろいろ試みられていたようです。1796年のジェンナーによってなされた実験が、最初のもと位置づけられます。それは研究の手法に則っているからです。
天然痘は強い感染力をもっていて、致死率も高い病気です。ところが、天然痘に似た牛痘にかかった人は、天然痘にかからないという現象がありました。それに牛痘のほうが症状も軽く、完治することも知られていました。
ジェンナーは、牛痘が天然痘の予防に使えるのではないかと、20年近くにわたって考え続けました。ジェンナーは、1787年に自分の子どもに天然痘の接種を試して成功し、1796年に牛痘の接種を使用人の子どもなどに試して、やはり成功しています。その成果は、1798年に発表され、種痘法としてヨーロッパ中にひろまり、現在では天然痘の根絶宣言がだされています。
このような人体実験は、たとえ身内であっても、倫理的には許されないことです。唯一可能なのは、自分自身を実験台にして試すことだけでしょうか。
さて、ジェンナーの例でいいたかったことは、種痘にいたる研究過程のことでした。なにか課題があったとき、それを解決するために、2つの大きなステップがあります。新しい答えを思いつき、正しいかどうかを試すことです。ジェンナーでは、牛痘の接種を思いつくこと、それを実証する実験をしていくことです。
思いつくこと、あるいはひらめくことは、誰にでもできるものではありません。しかし、唯一の道は、常にその課題に取り組み、考え続けていくことでしょう。課題によっては、少しずつ地道な努力を続けることで、解決策が見えてくるものもあるでしょう。あるいは、ある時一気に解決策を思いつくこともあるかもしれません。前者ならば、努力が報われるタイプの課題で、努力を続けていける人て、より大きな努力をした人が、いち早く結果をえられます。後者なら、まずは課題を必死になって考える必要があります。そしてあるとき突然、答え思いつくものです。セレンディピティー(serendipity)とも呼ばれているものです。セレンディピティーは、考え続けた人、誰もがえられるものでありません。でも考え続けないと、セレンディピティーはありません。努力は必要ですが、報われないこともあるので、大変です。
解決策を思いつくことも重要ですが、次なるステップである試行することも重要です。その試行や検証が難しい場合、大変な作業を伴う場合、事前に大変そうだと想像できそうな場合、ついつい検証作業を躊躇してしまいます。そんなことがあると、解決策を考える時にも影響がでてきそうです。
当たり前のことですが、生命に関わることや、大変な手続きや手間のかかること、巨大や費用や装置が必要なこと、大きな組織でしなければならないことなど、その実験を躊躇してしまう要因はいろいろありそうです。あるいは、解決策を考える時点で、そのような要因があるものは、除外してしまっているかもしれません。
さて、研究をするとき、新しいことをはじめるとき、ジェンナーの思考、検証過程には重要な示唆があると思います。ジェンナーのジョン・ハンターのもとで医学の手ほどきをうけました。ジェンナーが実験に踏み切る時、師匠のハンターからの手紙にあった言葉、
Why think, why try
(なぜかを考え、なぜかを試す)
というのを思い浮かべたそうでです。そして、人体実験に踏み切ったそうです。
課題解決の手法として、考えること、試すことは、当たり前のことです。でも、その当たり前のことをすることが大変な場合があるからこそ、ジェンナーもハンターの言葉の後押しが必要になったのでしょう。
私も今年の師走にあたり、再度思い起こしましょう。
Why think, why try
・根雪か・
北海道な12月前に、大雪となりました。
11月にも何度か吹雪くことがありました。
珍しく本州にも雪が降りました。
今年は、根雪も早そうです。
でも、天気さえよければ、
まだ溶ける時期でもあります。
冬至まで根雪はまって欲しいのですが、
どうなるでしょうか。
・心を御する・
今年は、忙しかったです。
この職場に来て以来
もっとも忙しい1年となりました。
この忙しさは、あと少し続きそうです。
忙しさの原因は、はっきりしています。
校務の多さと、研究上の成果報告の多さに
由来するものです。
校務は終わっても疲労感が高まりますが、
研究は大変ではありますが、
終われば達成感がでてきます。
このような違いは、自身の心の持ちようだと思いますが、
心はなかなか御するのが難しいものです。
2016年11月1日火曜日
178 南方マンダラ
秋に和歌山県田辺にいったとき、南方熊楠顕彰館を訪れました。その時、熊楠のマンダラに再会しました。以前にも興味を持っていたのですが、改めてその重要性に気づきました。
マンダラとは、仏の悟りや聖域、仏教の世界観などを図化したものです。狭義には密教におけるものを意味しますが、いろいろな宗教でもマンダラが作成されており、表現やその表している内容は、広義になっています。英語でもMandalaと示され、漢字では「曼荼羅」と書きます。マンダラは、広くその宗教や思考の世界観を意味しています。
密教では、金剛界曼荼羅と大悲胎蔵曼荼羅というふたつのマンダラがあり、前者は金剛頂経、後者は大日経と呼び、密教の一番重要な経典に基づいています。ですから、日本の密教の本尊とされる大日如来が図の中心となり、その他の尊像が首位に配置されています。
なぜ、マンダラの話からはじめたのかいうと、南方熊楠(みなかた まぐす)の文献を読んでいるためです。熊楠の思想の中に、マンダラが重要な意味をもつものがありす。熊楠の名前は聞いたことがある人も多いと思います。奇人変人、博覧強記、民俗学や粘菌の研究者などというイメージは、すでにお持ちでしょうか。その実像は、あまり知られていないかもしれません。少し略歴をみてきましょう。
1867(慶応3)年5月18日に生まれ、1941(昭和16)年12月29日に、74歳で亡くなっています。和歌山城下で生まれ、和歌山中学校を卒業し、東京の大学予備門(現・東京大学)に入学しますが中退、その後いくつかの学校に入りますが、卒業することなくすべて退学してしまいます。学校は嫌いでしたが、子どもの頃から晩年まで、いろいろな書籍を入手して独習を続けています。覚えるために書き写すことがいいとして、生涯抜書を続けました。このような弛まぬ努力が博覧強記を生み出したようです。野外調査と著作(書翰を書くことも含む)を日夜関係なく続けることが、一生の生活パターンとなっていきます。
1887(明治20)年、20歳で渡米して、幾つかの学校を経ながらも、すぐにやめて独習に入ります。動植物に興味を持ち、隠花植物の採集をしていきます。その後キューバにも行き、採集しています。1892(明治25)年にはイギリスのロンドンに渡ります。大英博物館に出入りして、図書館などで文献を読み、最新の学問や古典などを独習していきます。そこで西洋学問の方法論や議論の仕方を身につけていきます。1900(明治33)年に帰国し、3年間那智勝浦に住んで後、田辺に住み続けます。
大英博物館にいた時代に、子どものころや大英博物館の東洋図書目録編纂中に身につけた知識にもとづき、西洋の学問体系にない視点での論説を進めていきます。熊楠の論説した分野は、民俗学や博物学、植物学など幅広く、Natureに多数の論文(約50報)を書き、「ノーツ・アンド・クィアリーズ(Notes and Queries)」にも多数の寄稿(300以上)をしています。
熊楠の研究業績は比較民俗学で、柳田國男とともに日本の民俗学を起こした中心人物でもありました。柳田が見ていたのは日本の学界でしたが、熊楠は世界の知識人が相手でした。しかし、面白いことに熊楠の思想に根幹には、子どものころに身に着けていた大乗仏教の真言密教に根ざしていたものがありました。その哲学的は深まりは、土宜法龍(どき ほうりゅう)との議論でした。
土宜は、日本の近代の仏教を代表する学者であり僧侶でした。高野山学林長、仁和寺門跡、真言宗御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを大きな任務を歴任しました。熊楠はロンドン滞在時代に、土宜と出会い、意気投合し、その間ほんの数日ですが濃密な交流をおこないます。その後、晩年までその交流は続きましたが、会うことは少なかったのですが、多くの書翰が交されました。
熊楠の科学あるいは学問に関する哲学は、法龍との書簡によって展開されていきました。熊楠は、西洋の科学の限界を察知して、それを乗り越えるためには、東洋思想に古くからある曼荼羅や密教の思考法が有効だという論を展開しました。
残念ながらその思考は、熊楠存命中に論文や書物として発表されることはありませんでした。土宜法龍との書簡は、一部は熊楠に戻されており、熊楠没後、全集や日記(一部)、書翰集として公開されてきました。さらに、2004年に栂尾山高山寺から新たに熊楠の書翰が発見され、2010年に解読されたものが出版されています。熊楠は日記魔でかなり詳しく日記をつけているのですが、その解読は現在も進行中で、それも今後解読の手がかりとなるでしょう。
熊楠と私が専門としている地質学とは、全く接点がないように思えるかもしれませんが、関係があるように思えます。熊楠の考えた科学哲学は、実はまだ充分理解していません。いくつか理解したことは、科学の因果関係を重視した還元主義には限界があること、必然である因果ではなく、偶然から生まれる因縁、縁起を考える必要があること、物と心、両者の交わる「事」の重要性、さらにもっと大きく総合化する必要性を述べています。このような展開を考えるとき、大乗仏教の密教などの先哲の深い思索が役立つとしています。
そのあたりの考えが書翰に、熊楠一流の書き方で綴られています。手紙には図を使って説明しているのですが、「南方マンダラ」とよばれる有名な図があります。ぐちゃぐちゃ線の集まりに見えるのですが、実は深い意図をもって描かれています。線はこの世のあらゆる現象(熊楠は「理事」と呼んだ)を意味して、線が交わるところができると、人ははじめて因果を見出しはじめることになる(可知)いいます。そして線が多数交差する付近を萃点(すいてん)と呼んで、もっとも早く理解が進むといいます。萃点から離れるにつれて、気づきにくく(不可知)なってきます。しかし、交点がなくても、理事はあるはずです。そのような不可知を理解するには、西洋科学の還元的な見方では到達できず、密教の達した金剛や大日のような大きな考えを導入する必要があるといいます。
熊楠の書翰の書き方は、話題がポンポンと飛びながら展開していくのが基本です。ですからついていくのがなかなか難しい部分もあるのですが、その話題の飛び方が読んでて面白いところ、下ネタ、法龍を小馬鹿にしたような文章もあり、笑みながら読めるとこともあります。そんな中に重要な思索の展開が紛れ込んできます。熊楠の頭のなかではつながっていたのでしょうが、書翰を書き進めながら、思考を深めていったようです。重要な論点を述べていることはわかるのですが、前後の文脈を理解するのが難しくなっています。
熊楠のこのような思索を調べた研究があるのですが、中沢新一は「森のバロック」を、鶴見和子は「萃点」を、橋爪博幸は「事の学」を、松居竜五は「一切智」をキーワードにして熊楠の思想を読み解いています。また、中沢は熊楠の哲学に関する思索が那智勝浦にた短い時間に集中的に起こったことに注目して、その期間を「星の時間」と呼びました。
私には多分今後「星の時間」が訪れることはないようです。しかし自分が目指す地質学を進めながら、熊楠の哲学を読み解いていければと思っています。
・書翰の文章・
秋に和歌山へ調査に行った時、
田辺にある南方熊楠顕彰館を訪れました。
それまで南方マンダラの存在は知っていて、
いくつかの本は読んでいました。
未読の文献もいつかは手元にありました。
熊楠の哲学は詳しくは知りませんでした。
顕彰館にいって、熊楠を知るにつれて
私が考えている科学の考え方より
熊楠はもっと深く考えていることを知りました。
そこでまずは熊楠に関する研究を
一通り読むことにしました。
今もまだ読んでいるのですが、
主だったものは目を通しました。
現在は、熊楠の書翰を読み進めつつあります。
なかなか難解で手強いです。
でも読んでいて面白いのが救いです。
・読みきれない資料・
南方熊楠に関する書籍類はだいぶ収集しました。
今では古本でしか入手できない
全集や日記、書翰もありました。
土宜以外の書翰など関連のない
資料には手を出していませんが。
それでも、一通り読むのは大変です。
熊楠の研究は本業ではないので、
まずは関連のある部分だけを
ここ1年ほど集中して目を通したいと考えています。
そして自分なりの思索をまとめていければと思っています。
まあ、あとの部分は老後の楽しみにしましょうか。
マンダラとは、仏の悟りや聖域、仏教の世界観などを図化したものです。狭義には密教におけるものを意味しますが、いろいろな宗教でもマンダラが作成されており、表現やその表している内容は、広義になっています。英語でもMandalaと示され、漢字では「曼荼羅」と書きます。マンダラは、広くその宗教や思考の世界観を意味しています。
密教では、金剛界曼荼羅と大悲胎蔵曼荼羅というふたつのマンダラがあり、前者は金剛頂経、後者は大日経と呼び、密教の一番重要な経典に基づいています。ですから、日本の密教の本尊とされる大日如来が図の中心となり、その他の尊像が首位に配置されています。
なぜ、マンダラの話からはじめたのかいうと、南方熊楠(みなかた まぐす)の文献を読んでいるためです。熊楠の思想の中に、マンダラが重要な意味をもつものがありす。熊楠の名前は聞いたことがある人も多いと思います。奇人変人、博覧強記、民俗学や粘菌の研究者などというイメージは、すでにお持ちでしょうか。その実像は、あまり知られていないかもしれません。少し略歴をみてきましょう。
1867(慶応3)年5月18日に生まれ、1941(昭和16)年12月29日に、74歳で亡くなっています。和歌山城下で生まれ、和歌山中学校を卒業し、東京の大学予備門(現・東京大学)に入学しますが中退、その後いくつかの学校に入りますが、卒業することなくすべて退学してしまいます。学校は嫌いでしたが、子どもの頃から晩年まで、いろいろな書籍を入手して独習を続けています。覚えるために書き写すことがいいとして、生涯抜書を続けました。このような弛まぬ努力が博覧強記を生み出したようです。野外調査と著作(書翰を書くことも含む)を日夜関係なく続けることが、一生の生活パターンとなっていきます。
1887(明治20)年、20歳で渡米して、幾つかの学校を経ながらも、すぐにやめて独習に入ります。動植物に興味を持ち、隠花植物の採集をしていきます。その後キューバにも行き、採集しています。1892(明治25)年にはイギリスのロンドンに渡ります。大英博物館に出入りして、図書館などで文献を読み、最新の学問や古典などを独習していきます。そこで西洋学問の方法論や議論の仕方を身につけていきます。1900(明治33)年に帰国し、3年間那智勝浦に住んで後、田辺に住み続けます。
大英博物館にいた時代に、子どものころや大英博物館の東洋図書目録編纂中に身につけた知識にもとづき、西洋の学問体系にない視点での論説を進めていきます。熊楠の論説した分野は、民俗学や博物学、植物学など幅広く、Natureに多数の論文(約50報)を書き、「ノーツ・アンド・クィアリーズ(Notes and Queries)」にも多数の寄稿(300以上)をしています。
熊楠の研究業績は比較民俗学で、柳田國男とともに日本の民俗学を起こした中心人物でもありました。柳田が見ていたのは日本の学界でしたが、熊楠は世界の知識人が相手でした。しかし、面白いことに熊楠の思想に根幹には、子どものころに身に着けていた大乗仏教の真言密教に根ざしていたものがありました。その哲学的は深まりは、土宜法龍(どき ほうりゅう)との議論でした。
土宜は、日本の近代の仏教を代表する学者であり僧侶でした。高野山学林長、仁和寺門跡、真言宗御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを大きな任務を歴任しました。熊楠はロンドン滞在時代に、土宜と出会い、意気投合し、その間ほんの数日ですが濃密な交流をおこないます。その後、晩年までその交流は続きましたが、会うことは少なかったのですが、多くの書翰が交されました。
熊楠の科学あるいは学問に関する哲学は、法龍との書簡によって展開されていきました。熊楠は、西洋の科学の限界を察知して、それを乗り越えるためには、東洋思想に古くからある曼荼羅や密教の思考法が有効だという論を展開しました。
残念ながらその思考は、熊楠存命中に論文や書物として発表されることはありませんでした。土宜法龍との書簡は、一部は熊楠に戻されており、熊楠没後、全集や日記(一部)、書翰集として公開されてきました。さらに、2004年に栂尾山高山寺から新たに熊楠の書翰が発見され、2010年に解読されたものが出版されています。熊楠は日記魔でかなり詳しく日記をつけているのですが、その解読は現在も進行中で、それも今後解読の手がかりとなるでしょう。
熊楠と私が専門としている地質学とは、全く接点がないように思えるかもしれませんが、関係があるように思えます。熊楠の考えた科学哲学は、実はまだ充分理解していません。いくつか理解したことは、科学の因果関係を重視した還元主義には限界があること、必然である因果ではなく、偶然から生まれる因縁、縁起を考える必要があること、物と心、両者の交わる「事」の重要性、さらにもっと大きく総合化する必要性を述べています。このような展開を考えるとき、大乗仏教の密教などの先哲の深い思索が役立つとしています。
そのあたりの考えが書翰に、熊楠一流の書き方で綴られています。手紙には図を使って説明しているのですが、「南方マンダラ」とよばれる有名な図があります。ぐちゃぐちゃ線の集まりに見えるのですが、実は深い意図をもって描かれています。線はこの世のあらゆる現象(熊楠は「理事」と呼んだ)を意味して、線が交わるところができると、人ははじめて因果を見出しはじめることになる(可知)いいます。そして線が多数交差する付近を萃点(すいてん)と呼んで、もっとも早く理解が進むといいます。萃点から離れるにつれて、気づきにくく(不可知)なってきます。しかし、交点がなくても、理事はあるはずです。そのような不可知を理解するには、西洋科学の還元的な見方では到達できず、密教の達した金剛や大日のような大きな考えを導入する必要があるといいます。
熊楠の書翰の書き方は、話題がポンポンと飛びながら展開していくのが基本です。ですからついていくのがなかなか難しい部分もあるのですが、その話題の飛び方が読んでて面白いところ、下ネタ、法龍を小馬鹿にしたような文章もあり、笑みながら読めるとこともあります。そんな中に重要な思索の展開が紛れ込んできます。熊楠の頭のなかではつながっていたのでしょうが、書翰を書き進めながら、思考を深めていったようです。重要な論点を述べていることはわかるのですが、前後の文脈を理解するのが難しくなっています。
熊楠のこのような思索を調べた研究があるのですが、中沢新一は「森のバロック」を、鶴見和子は「萃点」を、橋爪博幸は「事の学」を、松居竜五は「一切智」をキーワードにして熊楠の思想を読み解いています。また、中沢は熊楠の哲学に関する思索が那智勝浦にた短い時間に集中的に起こったことに注目して、その期間を「星の時間」と呼びました。
私には多分今後「星の時間」が訪れることはないようです。しかし自分が目指す地質学を進めながら、熊楠の哲学を読み解いていければと思っています。
・書翰の文章・
秋に和歌山へ調査に行った時、
田辺にある南方熊楠顕彰館を訪れました。
それまで南方マンダラの存在は知っていて、
いくつかの本は読んでいました。
未読の文献もいつかは手元にありました。
熊楠の哲学は詳しくは知りませんでした。
顕彰館にいって、熊楠を知るにつれて
私が考えている科学の考え方より
熊楠はもっと深く考えていることを知りました。
そこでまずは熊楠に関する研究を
一通り読むことにしました。
今もまだ読んでいるのですが、
主だったものは目を通しました。
現在は、熊楠の書翰を読み進めつつあります。
なかなか難解で手強いです。
でも読んでいて面白いのが救いです。
・読みきれない資料・
南方熊楠に関する書籍類はだいぶ収集しました。
今では古本でしか入手できない
全集や日記、書翰もありました。
土宜以外の書翰など関連のない
資料には手を出していませんが。
それでも、一通り読むのは大変です。
熊楠の研究は本業ではないので、
まずは関連のある部分だけを
ここ1年ほど集中して目を通したいと考えています。
そして自分なりの思索をまとめていければと思っています。
まあ、あとの部分は老後の楽しみにしましょうか。
2016年10月1日土曜日
177 洗心と思遠
和歌山のある寺を参観したときに、2つの語句が目に入り、心に届き、今も残っています。ひとつは簡単に理解できるものですが、もう一つはわかりやすい言葉なのですが、いまだに答えが出ていません。時間をかけて、これからも考えていくことにしました。
和歌山に調査にいった時、朝早目に宿をでて、移動をしていくことになっていました。朝から日差しが強く、その日も暑くなりそうでした。そんな道すがら、涼し気な森に囲まれた寺がありました。その寺は由緒正しそうで、少し見学していくことにしました。
駐車場の近くあった説明文を読みました。すると、この寺は、由良町にある臨済宗妙心寺派の鷲峰山興国寺(もとは西方寺と呼ばれた)で、国指定の重要文化財が3つもあるとのことです。安貞元年(1227年)に建立された、由緒正しき寺で、1258年に法燈(ほっとう)国師が、この寺を禅宗に改宗しました。その後、「関南第一禅林」として、非常に栄え、多くの高名な弟子を輩出したそうです。
そんな寺の縁起を読みながら、駐車場のすぐ脇にある大きな山門から入りました。山門をくぐると、森に囲まれた緩やかな石畳になった参道を登っていきます。きれいに掃き清められ、手入れの行き届いている様子がわかります。
小さな流れがあり、そこにかかる橋の欄干に「洗心」という文字が彫られています。「洗心」は、寺の橋や手水(ちょうず)などでよく見かける言葉です。仏教で古くから使われている言葉です。禅の世界では、特によく使われているようです。手水では手と口を清めますが、「洗心」には、心の塵を洗い落とし、清めるという意味があります。手や口を清めるという行為をしながら、実は心も清めているというところが重要だと思います。
「洗心」はいい言葉です。そして、書かれている場所も、行為を伴っているので、意味もわかりやすいものです。だから、すなおに心に染みてくる言葉ではないでしょうか。
さて、橋を渡り、清められた気持ちで参道を進みました。まったく人っ気のないお寺でしたが、途中でお参りを終えられた女性が参道を下りてこられました。そして、すれ違う時、笑顔で会釈されました。口元が動いて挨拶の言葉を出されていたようですが、その笑顔と会釈だけで気持ちは伝わりました。こちらも自然と笑顔で会釈を返してしまいます。これは、「洗心」の賜物でしょうか。
参道を進んで、急な階段を登り、再度山門をくぐると、広い境内とその奥に大きなどっしりとした本堂がありました。本堂の前には広い庭があり、本堂まではまっすぐに伸びた石畳があり、その周囲には砂利が敷かれています。そこもきれいに掃き清められて、手入されている様子がわかります。
本堂の中には入ることはできなかったのですが、本堂の周りを見ることができました。その時、本堂の裏に建っている開山堂への渡り廊下がありました。その入口の棟木に掲げられた額(扁額、へんがく、といいます)がありました。そこに書かれていた文字が強く心に残りました。
扁額には、「思遠」と白い文字で明瞭に揮毫(書くこと)されています。「思遠」は、どう読めばいいのでしょうか。その読みは「おんえん」、「おんとう」、「しえん」、「しとう」などいろいろと読みをあててみたのですが、なかなか語呂のいいものがありませんでした。文字通りの意味であれば、「遠くを思う」ということになるのでしょうか。私には、本来の意味だけでなく、読み方すらも、わかりませんでした。
そして扁額には、雅号でしょうか、署名がありました。署名は、草書でしょうか、くずした文字で書かれていて、読めませんでした。誰の書かもわかりませんでした。
扁額の「思遠」は、心に残った簡単な言葉なのですが、読みも、意味も、作者もわからない、謎としてさらに心に刻まれました。
「思遠」に込められた意味は、はたしてどういうものなのでしょうか。
その後「思遠」という語をいろいろと調べました。津田さち子さんという作家が書かれた「思遠」という本があることを発見しました。この本は「思遠」について書かれているようです。早速、購入して読みました。しかし、この本はエッセイ集で、その一つとして「思遠」と題されたエッセイがありました。本を読んで、作者の津田さんも、この扁額をみて、同じように衝撃を受けたそうです。不思議な縁を感じました。
まだそれほど情報を得ていないのですが、津田さんの本からいくつかことがわかってきました。「思遠」は「しおん」と読みます。そして、扁額は、仙厓(せんがい)和尚の墨跡(書いたもの)だそうです。
仙厓は、以前から興味をもっていた僧侶で、少し調べたことがありました。有名な書に「○△□」や「○」(円相図と呼ばれています)があります。円相図には、その横に「これ食ふて茶のめ」という一文が添えられています。仙厓にはこのような判じ物のような書がいくつもあります。しかし、そこには洒落の利いたものが多いようです。
以前から仙厓和尚にも興味を惹かれていたのですが、ふと立ち寄った寺で、思うわぬ出会があったのです。ただし、その出会いの瞬間は、「思遠」の文字に興味を惹かれたのであって、仙厓に気づいたからではなかったのですが。でも、そこに不思議な縁を感じますが、まあ、仙厓について、別の機会にしましょう。
「思遠」は、ありふれた言葉のように見えますが、調べても詳しい説明が、まだ見つかっていません。ひとつだけ、東福寺の三門前に四角い形で「思遠の蓮」が生えている「思遠池」があることがわかりました。しかし、蓮や池に使われた「思遠」に、どのような意味が込められているのかは、まだわかりません。津田さんは、長年かかっていろいろ思索され、「思遠」は「非常に優れた仏教への憧れ」と考えられていたようです。
夏の朝、興国寺を訪れた時、「洗心」と「思遠」という2つの言葉が、心に残りました。「洗心」は、その文字が書かれている所(橋や手水)で、水は洗い清めるという行為の時に目にする言葉です。非常にわかりやすく、心にしみる言葉です。一方、「思遠」は、言葉の意味としては、当たり前のような意味に見えます。この言葉は、この寺だけなく、大きな寺の池にも使われているものです。しかし、この寺では、扁額は名のある禅僧が書いたものにもかかわらず、本堂の裏の別院に渡る廊下というわかりにくいところに、さり気なく掲げられています。その意味もよくわかりません。
心に残る2つの言葉を紹介したのですが、わからない「思遠」の方が、謎としてずっと心のどこかに居座りそうです。
・熊楠・
最近、南方熊楠に興味をもって
彼の思想をなぞっているところです。
熊楠は、仏教の大乗仏教の密教を
思想の中心に据えています。
彼のような西洋科学に精通した人間が、
西洋科学の弱点を
密教という東洋思想で克服しようとしていました。
気にならないはずはありません。
これまで、仏教あるいは広く宗教は、
科学には、無縁だと思っていたのですが。
熊楠の思想をみていくと、
そうではないように思えてきました。
科学を営み、思索を深めていくには、
哲学的視点が必要になると思います。
私には、その延長線上に
熊楠も仙厓和尚も存在するような気がしています。
・仙厓・
仙厓の言葉には、面白いものがいろいろあります。
その中の一つに、次の有名な言葉があります。
六十才は人生の花
七十才でお迎えがきたら「留守だ」と言え
八十才でお迎えがきたら「まだ早すぎる」と言え
九十才でお迎えがきたら「そう急ぐな」と言え
というのです。
人生は長くて、いくつになっても
生きてすることがるんだという気概を感じます。
仙厓は88歳で遷化(せんげ、亡くなること)しましたが、
少々「急いだ」ようですね。
和歌山に調査にいった時、朝早目に宿をでて、移動をしていくことになっていました。朝から日差しが強く、その日も暑くなりそうでした。そんな道すがら、涼し気な森に囲まれた寺がありました。その寺は由緒正しそうで、少し見学していくことにしました。
駐車場の近くあった説明文を読みました。すると、この寺は、由良町にある臨済宗妙心寺派の鷲峰山興国寺(もとは西方寺と呼ばれた)で、国指定の重要文化財が3つもあるとのことです。安貞元年(1227年)に建立された、由緒正しき寺で、1258年に法燈(ほっとう)国師が、この寺を禅宗に改宗しました。その後、「関南第一禅林」として、非常に栄え、多くの高名な弟子を輩出したそうです。
そんな寺の縁起を読みながら、駐車場のすぐ脇にある大きな山門から入りました。山門をくぐると、森に囲まれた緩やかな石畳になった参道を登っていきます。きれいに掃き清められ、手入れの行き届いている様子がわかります。
小さな流れがあり、そこにかかる橋の欄干に「洗心」という文字が彫られています。「洗心」は、寺の橋や手水(ちょうず)などでよく見かける言葉です。仏教で古くから使われている言葉です。禅の世界では、特によく使われているようです。手水では手と口を清めますが、「洗心」には、心の塵を洗い落とし、清めるという意味があります。手や口を清めるという行為をしながら、実は心も清めているというところが重要だと思います。
「洗心」はいい言葉です。そして、書かれている場所も、行為を伴っているので、意味もわかりやすいものです。だから、すなおに心に染みてくる言葉ではないでしょうか。
さて、橋を渡り、清められた気持ちで参道を進みました。まったく人っ気のないお寺でしたが、途中でお参りを終えられた女性が参道を下りてこられました。そして、すれ違う時、笑顔で会釈されました。口元が動いて挨拶の言葉を出されていたようですが、その笑顔と会釈だけで気持ちは伝わりました。こちらも自然と笑顔で会釈を返してしまいます。これは、「洗心」の賜物でしょうか。
参道を進んで、急な階段を登り、再度山門をくぐると、広い境内とその奥に大きなどっしりとした本堂がありました。本堂の前には広い庭があり、本堂まではまっすぐに伸びた石畳があり、その周囲には砂利が敷かれています。そこもきれいに掃き清められて、手入されている様子がわかります。
本堂の中には入ることはできなかったのですが、本堂の周りを見ることができました。その時、本堂の裏に建っている開山堂への渡り廊下がありました。その入口の棟木に掲げられた額(扁額、へんがく、といいます)がありました。そこに書かれていた文字が強く心に残りました。
扁額には、「思遠」と白い文字で明瞭に揮毫(書くこと)されています。「思遠」は、どう読めばいいのでしょうか。その読みは「おんえん」、「おんとう」、「しえん」、「しとう」などいろいろと読みをあててみたのですが、なかなか語呂のいいものがありませんでした。文字通りの意味であれば、「遠くを思う」ということになるのでしょうか。私には、本来の意味だけでなく、読み方すらも、わかりませんでした。
そして扁額には、雅号でしょうか、署名がありました。署名は、草書でしょうか、くずした文字で書かれていて、読めませんでした。誰の書かもわかりませんでした。
扁額の「思遠」は、心に残った簡単な言葉なのですが、読みも、意味も、作者もわからない、謎としてさらに心に刻まれました。
「思遠」に込められた意味は、はたしてどういうものなのでしょうか。
その後「思遠」という語をいろいろと調べました。津田さち子さんという作家が書かれた「思遠」という本があることを発見しました。この本は「思遠」について書かれているようです。早速、購入して読みました。しかし、この本はエッセイ集で、その一つとして「思遠」と題されたエッセイがありました。本を読んで、作者の津田さんも、この扁額をみて、同じように衝撃を受けたそうです。不思議な縁を感じました。
まだそれほど情報を得ていないのですが、津田さんの本からいくつかことがわかってきました。「思遠」は「しおん」と読みます。そして、扁額は、仙厓(せんがい)和尚の墨跡(書いたもの)だそうです。
仙厓は、以前から興味をもっていた僧侶で、少し調べたことがありました。有名な書に「○△□」や「○」(円相図と呼ばれています)があります。円相図には、その横に「これ食ふて茶のめ」という一文が添えられています。仙厓にはこのような判じ物のような書がいくつもあります。しかし、そこには洒落の利いたものが多いようです。
以前から仙厓和尚にも興味を惹かれていたのですが、ふと立ち寄った寺で、思うわぬ出会があったのです。ただし、その出会いの瞬間は、「思遠」の文字に興味を惹かれたのであって、仙厓に気づいたからではなかったのですが。でも、そこに不思議な縁を感じますが、まあ、仙厓について、別の機会にしましょう。
「思遠」は、ありふれた言葉のように見えますが、調べても詳しい説明が、まだ見つかっていません。ひとつだけ、東福寺の三門前に四角い形で「思遠の蓮」が生えている「思遠池」があることがわかりました。しかし、蓮や池に使われた「思遠」に、どのような意味が込められているのかは、まだわかりません。津田さんは、長年かかっていろいろ思索され、「思遠」は「非常に優れた仏教への憧れ」と考えられていたようです。
夏の朝、興国寺を訪れた時、「洗心」と「思遠」という2つの言葉が、心に残りました。「洗心」は、その文字が書かれている所(橋や手水)で、水は洗い清めるという行為の時に目にする言葉です。非常にわかりやすく、心にしみる言葉です。一方、「思遠」は、言葉の意味としては、当たり前のような意味に見えます。この言葉は、この寺だけなく、大きな寺の池にも使われているものです。しかし、この寺では、扁額は名のある禅僧が書いたものにもかかわらず、本堂の裏の別院に渡る廊下というわかりにくいところに、さり気なく掲げられています。その意味もよくわかりません。
心に残る2つの言葉を紹介したのですが、わからない「思遠」の方が、謎としてずっと心のどこかに居座りそうです。
・熊楠・
最近、南方熊楠に興味をもって
彼の思想をなぞっているところです。
熊楠は、仏教の大乗仏教の密教を
思想の中心に据えています。
彼のような西洋科学に精通した人間が、
西洋科学の弱点を
密教という東洋思想で克服しようとしていました。
気にならないはずはありません。
これまで、仏教あるいは広く宗教は、
科学には、無縁だと思っていたのですが。
熊楠の思想をみていくと、
そうではないように思えてきました。
科学を営み、思索を深めていくには、
哲学的視点が必要になると思います。
私には、その延長線上に
熊楠も仙厓和尚も存在するような気がしています。
・仙厓・
仙厓の言葉には、面白いものがいろいろあります。
その中の一つに、次の有名な言葉があります。
六十才は人生の花
七十才でお迎えがきたら「留守だ」と言え
八十才でお迎えがきたら「まだ早すぎる」と言え
九十才でお迎えがきたら「そう急ぐな」と言え
というのです。
人生は長くて、いくつになっても
生きてすることがるんだという気概を感じます。
仙厓は88歳で遷化(せんげ、亡くなること)しましたが、
少々「急いだ」ようですね。
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