2019年1月1日火曜日

204 不立文字の多義性

 今年最初のエッセイは、文字にできないことについてです。言葉できないことも、多々あるはずです。大切なことであっても、言葉にすると多義性が生まれてくることがあります。ですからそれは感じ、悟るしかありません。

 人は、さまざま物事や感情、思いなどを伝えるために言葉を利用しています。言葉とは不思議なものです。鳥類や哺乳類のように、鳴き声でそれなりのコミュニケーションをしているものもいます。人の言葉を話す鳥もいます。ただし、自身の意図を言葉として組み立て、他者がその意図を解することができるのは、人だけです。人が操る言葉を、ここでは「言語」と呼びましょう。
 人と他の生物、特に類人猿との差をDNAでみていくと、非常に小さいといわれています。ところが、両者の形態や機能における差は、非常に大きなものに見えます。この意味するところは、人の特徴である言語の獲得は、遺伝的には大きな差ではなく、ささやかな差と推察できます。
 人の進化として、600~700万年前に脳容積の増大と二足歩行が起こります。その後、複雑な音声を生み出すために必要な、口腔(口の中の空間)と咽頭腔(喉と声帯の間の空間)が直角になって、咽頭が下に移動するという生物学的変化がありました。これらの生物学的変化は、DNAに記録されているはずです。この変化の結果、人は4~5万年前に言語を操れるようになったといわれています。言語の獲得は、人類の歴史からすると、それほど前ではないということです。
 コミュニケーションの手段として言語を手に入れて(発明、発見?)以降、文明の発達、人の活動の多様化にともない、言語は複雑化、高度化を遂げてきました。その変化は、現在も継続中です。ただし、言語能力の変化は、DNAに遺伝情報として書き込まれた変化ではなく、文明や文化として学習することで継承してきたと考えられます。文化とともに言語を修得するために、子どもの教育には、多く時間が必要になってきました。現在では、文化の複雑化、高度化によって修得には、ますます長い期間が必要になってきました。
 一方、文化や知的資産を伝達、継承するために、言語を文字にして書き留めてもきました。文字が紙に記録され、それが長く保存されることで、資料となり、歴史が編まれてきました。言語はコミュニケーションをとるため、そして文字は人の知的営みを記録し資産とするために、重要なツールとなりました。言語が人という種を特徴づけ、そして地球で繁栄を遂げるのに、重要な特性であったことは確かです。
 知的資産とは、言い換えると言語化できるものということになります。では、そこからこぼれ落ちたものはないでしょうか。ここからが本題となります。
 「不立文字」と書いて、「ふりゅうもんじ」と読みます。禅の言葉で、
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」
(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん、
じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)
という言葉の一部になります。言語や文字で伝えることのできないもの(不立文字)があり、それは書かれたり伝えられたりしたもの以外から学ぶもの(教外別伝)であって、それは自身の心で直感的につかみとるべきもの(直指人心)で、その本質をつかみとれば悟を得たことにとなる(見性成仏)ということです。昔の賢人は、言語にはできないけれども、大切なことも多々あると考えたのです。達観ではないでしょうか。それは、一部の人にしか悟れないものでしょうか。いろいろな悟りがあり、その一端は多くの人は経験がしていることと思います。
 科学は論理性を重んじます。論理なき科学はありえません。ここでいう論理とは、数式を含む言語によって構築されたものです。しかし、論理が人類の知恵や創造性のすべてを網羅しているのでしょうか。論理化できない「なにか」も多々あるはずです。多くの人は、それを知っています。ただし、その論理化できない「なにか」には、多くの人が共通に理解できるものと、共通理解が成り立たないものがあります。
 「なにか」を伝える(訴える)芸術作品を例にみていきましょう。これは、一部の芸術家のみが使用できる手段ですが、すぐれた作品は、多くの人に「なにか」を訴えています。絵や音楽などのように、言語化できなくとも、感情を動かす(感動させる)ことができます。動かされる感情には、多くの人が共通して抱くものもあります。これは共通理解を生み出す作品でしょう。
 一方、芸術作品の中には、人によって、あるいは精神状況によって、異なる感情を生み出すものもあります。例えば、ダビンチのモナリザや能面の表情などは、見方によって、条件によって、いろいろな感情の生みます。つまり共通理解は成り立たず、理解に多義性が生まれることになります。
 また言語できるものにも、芸術作品としての小説や詩歌などにも、論理的に解釈が難しいですが、感動させるものもあります。その感動にも、共通理解の生まれるものと、多義理解を生むものもあります。
 では、それらが「なにか」のすべてでしょうか。大切なことにも、一部の人にしか理解できない「なにか」もあるかもしれません。それが不立文字たる悟りのようなものでしょう。悟りというと一部の努力した人にのみに適用できないものに思えますが、
 身体的なものを思い浮かべるとその例となるでしょう。身体的なものではコツというとわかりやすいかもしれません。例えば、自転車に乗れる瞬間などは、突然そのコツが体得(教外別伝)できます。そのコツは体が覚えており、長年自転車に乗っていなくても、体は忘れません。
 ここで示したコツは技術や体感での例ですが、より深い思索、より抽象的概念などの理解においても、このような「なにか」があるのではないでしょうか。それは教わるものではなく(教外別伝)、自身が感じること(直指人心)で悟れる(見性成仏)もののはずです。多分、その「なにか」とは、一通りに解釈されるものではなく、時と場合によって、さまざまな見え方がする多義性を持つものでしょう。
 私は、なかなかその境地に立てませんが、まずは文字にできない不立文字があることから、スタートですね。

・年頭の挨拶・
あけましておめでとうございます。
旧年中はこのメールマガジンの購読をいただき、
ありがとうございました。
本年も購読をよろしくお願いします。
昨年1年は、研究に没頭できる有意義な年となりました。
成果は例年並でしたが、集中できる時間が確保できたので、
達成感、満足感は例年にない充実したものとなりました。
願わくば、新しい1年も同じようでありたいものです。

・そこに「なにか」が・
このエッセイは、地質学やその周辺にある感じたこと
文字によって、できるだけ「論理的」に示しすことを意図してきました。
しかし、新年最初のエッセイは、その論理性の限界と
その先に文字にできない何かがあるのではないか
という内容になりました。
文字化できないものを、文章で論理的に示しました。
表現と内容が矛盾しているのですが、
そこに「なにか」があるように思えます。

2018年12月1日土曜日

203 不可知の肩に立って

 巨人の肩の上に立って眺めると、遠くの景色が見えます。そこからは、実は言語化できる景色だけが、見えているのではないかもしれません。言語化できない不可知の肩からは、どんな景色が見えるのでしょうか。

 Google Scholar という学術論文を探すサイトがあるのですが、検索の窓の下に「巨人の肩の上に立つ」という一文が、さり気なく添えられています。「巨人の肩の上に立つ」という文は、ニュートンがフックに宛てた手紙で、
 If I have seen further it is by standing on the shoulders of giants.
(もし私が遠くを見れならば、それは巨人の肩の上に立っているからだ)
(ニュートンの英語表記は、古いもので、If I have seen further it is by standing on ye sholders of Giants. となっています)
と書いたものだそうです。1676年のことでした。
 この一文は、先人の知識の上に新たな発見をしていくことをいったものです。先人の業績なくしては、新しい発見はなし得ないということです。私たちは、これまで多大な先人の知的資産を受け継いできました。そのような先人からの学びを土台として、新たにささやかな知見を発見し、付け加えてきました。しかし、多数のささやかな知見が、大きな知的体系へと成長してきました。
 先人の知的資産は、論文や書籍など文章して残されてきました。現在でも、科学の成果は、学会誌や専門書の文章、もしくは学会の講演やポスターなどで発表され、言語化され報告されます。現在では、インターネットを通じたデジタルでの報告も多くなりましたが、そこでも文字や言葉が使われています。
 現代の科学の成果は、媒体はいろいろと変化してきましたが、古くから文字での、報告、公開がされてきました。知は、いずれかの手段、なんらかの媒体で報告、公開しないと、科学の成果とはなりえません。知として残るためには、時間の風化にたえる媒体(たとえば石や紙)に記録され、保存されなければなりません。それらの媒体に文字として記録されてきました。最近ではデジタル化された情報として多くは文字として保存されています。はたしてデジタル情報は、時間の風化にどの程度耐えられるでしょうか。
 もうひとつ知を伝承する方法があります。それは人を介したものです。現代社会では、先人の知的資産を、教育として教師が伝えることができます。教師は、先人の知的資産を教科書、専門書、論文など文字もあるでしょうが、先輩の教師からの言葉を通じて教わってきました。このような知的資産の文字と言葉による連鎖が続いてきました。言葉は消えますが、ものに転写された文字は残ります。
 これまで、言葉と文字は、知の伝承には不可欠の存在でした。しかし、知というものは、文字や言葉に変換できたものがすべてでしょうか。もし、できない知があったとして、それが非常に重要なものだとしたら、その知はどうなうでしょうか。その知は、伝承されることなく、その人のみ一代で、その存在は継承することができないものになるのでしょうか。技術の極意、芸術などの表現方法などは、その例の最たるものでしょう。その人固有の高度な技術や表現は、言葉や文字では、伝えることができないものもあるかもしれません。
 さらに、思考にも言葉にできないものがあるかもしれません。インドでは、概念的思索、あるは単なる現象や出来事も、言葉では捉えきれない、「不可知」ものがあると考えられていたそうです。不可知の概念を知るために、修行法や真言を唱えるなどの手段は、いろいろ考案され、不可知へ至るルートだけは示されてきました。得られた知は、悟りや大日などとして、大乗仏教として体系化されてきました。ただし、その知は言語化できないものでした。宗教的な概念だけでなく、深い思索には言葉にできない不可知のものもあるかもしれません。
 言語化不能の知があったとして、ある人の得た知と、他の人の知とは、比較することはできないでしょう。知の差異や変化・変遷、進化なども、客観的に示すことはできません。そのような知は、積み上げていくことはできないものでしょう。ひとりひとりの知の高みがわかりません。知の高みと人間性、人徳と比例するということも判別できません。肩の高さは、巨人なのか、子どもなのか、普通の人なのか、比べることはできません。ひとりで、ただただより高みを目指すし、景色を変化を感じるしかありません。
 知には、不可知の部分もあるという考え方は、不可知論と呼ぶのですが、英語では、agnostic、あるいは agnosticism と呼びます。agnostic は、gnostic に a をつけているので否定の意味となります。gnostic は、ギリシア語を語源として、知恵や知識という意味です。その否定なので、知識にできない、理解できないという意味合いになり、上で述べたのと一致しています。
 人が認識できるのは、ある限られた領域(実証可能な現象の世界や経験可能な世界)であり、それ以上の超越的、超経験的な世界は、認識不可能だとされていました。キリスト教的社会では、神は超越者で、神が司る世界は超経験的世界であるとされています。
 科学者が、神の存在について考えた時、科学的に証明できそうもないので、証明不能、不可知という立場を表明することになります。そのような立場を不可知論、不可知論者といいます。不可知論(者)を英語では、agnostic といい、ダーウィンの進化論を弁護したハクスリーが、自分の宗教上の立場を表明するのに初めて用いたとされています。以降、不可知論とは、神の存在は不可知である、という宗教上の立場を表明するために持ちられるようになりました。
 一方、神の存在を否定する、無神論の立場もあります。無神論、atheist 呼ばれています。theist が有神論ですので、a がついて否定となる言葉になります。有神論と無神論は、神が存在するかしないかを証明できれば、決着を見ます。現状の科学では検証不可能です。ですから、不可知論という立場が生じるわけです。
 もし上述したように、言語化できない領域があり、そのでの存在(例えば神)が、悟れる人のみが知り得るものとすると、他人には真偽のわからない存在となります。不可知の領域で、無神か有神の決着をしても、それを検証することはできません。悩ましいものです。
 さて、ここまで、不可知の事柄について、言語化、文章化してきたのですが、本当に私の考えている概念が、完全に文章化できたとな思えません。また私の伝えたい内容が、私の本当に考えた通りに、あなたに伝わったでしょうか。それが、非言語的不可知の領域です。その肩の高さは、そこに立って見ている人にしかわかりません。

・厳冬期仕様・
わが町では、何度か雪が降りました。
時には激しい吹雪となった日もありました。
いよいよ冬が本番となってきました。
車のタイヤは、早めに冬用にしています。
着るもの、履くものも、厳冬期仕様にしました。
そして、季節は、師走を迎えることになります。

・授業体制・
大学の後期の講義も終盤となってきました。
1月下旬まで講義はあるのですが、
冬休みを挟むので、集中が途切れます。
また、教員はセンター試験も含めて
各種の入試が進行しています。
教員も講義への集中が途切れそうになります。
この授業体制の集中を途切れさせることは、
多くの大学での問題と思います。
常々思っているのですが、この学期と、
長期休み、月曜び振替休日、大学行事(主に入試)は、
なんとかならないものでしょうかね。

2018年11月1日木曜日

202 縁とやりあて

 南方熊楠の世界は、非常に広いものです。まだまだその広さは、私には理解できません。でも、そのうちのほんの少しのキーワードですが、縁とやりあて、tactの3つが、理解できた気がしました。これら3つについて考えていきます。

 私は、ここ数年、南方熊楠に興味をもっています。破天荒な生き方だけでなく、彼の哲学的世界観に、いろいろ学ぶところがあると思っています。ですが、文献を読むのが、なかなか進みません。
 進まない理由は、最近はデジタル書籍の便利さを謳歌しているため、空き時間で紙の本を読む機会が減ってきためです。紙の本でしか出版されていないものも、いっぱいあります。日本の専門書や特定作家、古い書物などは、紙でしか出版されていません。南方熊楠に関するものは、紙の書籍が多いのですが、少しはデジタルになっているものもあるので、ついついてそちらを優先して読んでいます。本来の優先順とは異なっているので、読むべき文献がなかなかこなせなくなっています。
 さて、熊楠の思想的背景に密教があることは、知られています。日本での密教の始祖は空海です。熊楠と密教の関連で、空海に関する本も読み出しました。やはり紙媒体が多いのですが、デジタル版のものを主として読んでいます。まずは、空海の小説や入門書を読み、現在は熊楠の小説に移っています。ただ、熊楠に関する短い文献であれば、忙しくても目を通すことができるので、気分転換に読んでいます。
 熊楠の思想に惹かれているのは、私が考えている科学的方法や科学哲学の考え方に、合い通じるものを見いだせるからです。
 熊楠の思想的背景は、大乗仏教の密教なので、大日の森羅万象の理(真理)を説く胎蔵と、大日の真理や悟りを智慧として説く金剛を用いて説明しています。その考えを図示しています。図では、大日がすべての中心です。大日の胎蔵の部分は、因と果が関係し、因と起が関係し、因と起の間に縁があると示しています。もうひとつの大日の金剛には、心が中心で、心と物、心と事、事の物が三角の関係を持っています。そして、事は名と関連します。名は印と弱い関係があります。そして印は心を意味する。そんな図があります。
 その意味するところは、なかなか難しいので、私はまだ十分理解できません。それぞれの語の意味がわからないと、熊楠の思想を理解できません。熊楠の自身の思想を、土宜法竜への手紙で伝えています。これを理解することが、熊楠の重要な思想を理解することになると考えています。
 そのような熊楠の思想の一部を、「縁」や「やりあて」、「tact」というキーワードを使って説明しています。
 「やりあて」という言葉は、辞書にはなく、熊楠の造語のようで「やりあてる」の名詞となっているようです。「発見ということは、予期よりやりあての方が多いなり」と熊楠はいっています。「やりあて」というより「tact」と呼んだほうがよいともいっています。「tact」は、分別、思慮、気配りなどの意味で、異なるものを同士を結びつける力、臨機応変の結合力のようなものなのでしょう。つまり、因果のずっと奥に存在するものであるようです。異なるものを結びつける力が、「やりあて」や「tact」で、その結びつきのことを、縁と呼んでいます。縁とは、「諸因果総体の一層上の因果」と熊楠はいっています。これは、「メタ因果」を意味しているようです。
 私は科学的方法について考えています。一般的な科学的方法として、帰納法と演繹法があります。帰納法は、多数のデータから規則性を導くもので、演繹法は既存の規則を適用することです。帰納法は新たな規則性を創造でき、演繹法は規則の適用範囲を決めたり、確かさの検証に使えます。
 ところが、帰納法は用いたデータ内でつくられた法則ですから、そのデータの範囲での確かさは保証されますが、その範囲外では確かさの保証はなくなります。また範囲内であっても、例外が一つでも見つかれば、その規則の正しさは否定されます。「カラスは黒い」や「白鳥は白い」という規則が、たったひとつの白いカラスや黒い白鳥の発見で、否定されてしまいます。これは、自然の帰納法の限界となっています。
 演繹法は、規則の正しさを検証できます。調べられる範囲で、正しさをいくらでも精密に検証することができます。ところが、規則を検証するだけで、新しい規則性を生み出す創造性がありません。
 現状の科学では、帰納法と演繹法を、ぐるぐる回しながら科学は進められています。これが科学的方法であり、そこから逸脱することは、科学的な正確さを満たさず、科学的論証とな見なされません。しかし、そこには反例一個の出現で、いつ何時、否定されるかという不安や、不確かさが存在し続けます。
 私が考えている方法として、昔からあったのですが、「アブダクション(abduction)」が重要ではないかと考えています。アブダクションとは、帰納法のようはデータがそろってからはじめるのではなく、事前に「やりあて」や「tact」のように根拠はなくてもいいから、とりあえず考えて試してみようすることです。じつは、仮説や見通しとして、科学をおこなうときに、多くの研究者が無意識にしているものでもあります。「カン」とも呼ばれているものですが、それが熊楠のいう「やりあて」や「tact」でしょう。
 統計学では、このようなやり方としてベイズ統計学があります。ベイズ統計では、データがその後でてくることで、統計学上の検証できます。でも取り合えず何らかの「やりあて」の値を入れて、考えていこうとするものです。検証は、統計データを得たら、その仮定を修正していきます。後からデータが出てくることで、成り立つ方法です。データがないと、科学的には成立しません。
 アブダクションやベイズ統計の方法の重要性を、100年以上も前に、熊楠が「やりあて」や「tact」として見抜いていました。さらに、因果の先にある、因果のより上の因果、メタ因果を、「縁」という考えがあることを示しています。それらの考えを密教として、中国で短期間に集大成したのが、空海です。
 先哲の頭脳は、すごいものだと思います。空海の本も読みたくなりますが、深入りはしないようにしにないと・・・。

・空海の景色・
空海の小説といえば
司馬遼太郎の「空海の景色」が有名です。
私は、かつて紙の本を読み出して
挫折した経験があります。
それまで司馬遼太郎氏の小説は多数読んでいたのですが、
この本だけは異質に感じました。
「空海の景色」にはデジタル版があるので、
ダウンロードしているので
再挑戦をしてみたいと考えています。

・老後に・
熊楠や空海、密教などの哲学的考察は
私には、まだまだ先のテーマになると考えています。
まずは、地質学的な概念で思索を深めていくことが先決です。
地質哲学が最優先のテーマで、
それだけでも現役中のライフワークになります。
熊楠の文献はかなり集めているのですが、
小説を読むことで、お茶を濁しておきます。
熊楠は、退職後に楽しにとっておきましょうかね。

2018年10月1日月曜日

201 非決定論の世界に生きる

 いつおこるかわからない自然現象の前には、対応不能に思え、無力さを感じます。自然現象は、非決定論的だからなのでしょうか。非決定論的への対処は、ひとりでも行動することです。カオスで大きなうねりになるもしれません。

 世界の情勢の不安定さの荒波を受けて、日本の世情も激しく揺れ動いています。IS、イスラエル、トルコ、北朝鮮、トランプ大統領など、さまざまな要因ですが、予測不能な変動が起こっています。
 日本の舵取り役も、安定政権といいますが、市民感覚とはかけ離れた、人事られないことを次々とおこなっています。だれのための政府なのか、どこに向かっているのか、国民としても不安が募ります。
 そこに天変地異ともいうべき、地震、台風、洪水なども繰り返し日本列島を襲っています。大きな自然現象の不安定を抱えた状況になっています。政治も迷走しているので、予測不能な国際的な危機もありそうです。そんな世の中で暮らす一市民は、どうすればいいのかわからなくなります。
 社会や政治は予測不能ですが、科学、数学や論理の世界は、もっと厳密であるはずで、予測も成り立ちそうな気がします。未来が予測できる世界は安心感があります。
 例えば次のような方程式があるとしましょう。
  y=ax+b
aとbは定数で値が決まっているとします。もしxが与えられれば、必然的にyは決まっていきます。xにどんな値を入れても、yを求めることができます。このような数学的な方程式は、xが与えられればyも必然的に決まってしまいます。この方程式で示され直線上につねにあるので、何度計算しても、予測できます。このような数学の世界は、決定論の代表ともいうべきものでしょう。
 小学校の算数、中学校の数学には答えがあり、答えにたどり着く筋道はいろいろあったとしても、答えは決定論として存在することになります。算数や数学は、そのような正しい、間違いが決定論的に存在する世界であることを、教えていくことにもなります。このような数学、論理の学問こそが、信頼の拠り所になることも、理解していくことになります。
 物理学も決定論の世界になのでしょう。特にニュートンの打ち立てた力学の世界は、今でも多くの運動を記述する上で、自然科学の基本法則となっている決定論となります。
 ただし、自然科学では、法則が確定するまでは、測定値などの事実を集積し、それらの事実をもっと説明できる近似として、方程式をつくっていきます。その方程式が正しいかどうかは、検証を経なければなりません。近似や方程式とは「仮説」です。仮説は、決定論にはまだなりません。
 仮説に基づき、多くの検証作業がなされていき、正しさが判明してくると、信頼性をもった法則や理論へと昇格していきます。法則や理論があれば、そこから出される予想は、決定論として信頼できます。
 しかし、法則も理論も自然現象を扱っている限り、決して決定論とはなりません。なぜなら、物理学は自然現象を記述するものなので、自然界からその法則に反する事例がひとつでも見つかれば、その法則は破綻します。これが、自然科学には、自己修正機能を内蔵している強かさと、現状の非決定論的危うさとが、混在しています。このような危うさは、「帰納法の限界」として理解されています。
 法則であっても、たとえ大科学者の主張であっても、事実の前には、謙虚でなければなりません。ただ、科学者も人間ですから、ついつい自分の信じているものは、守りたくなります。そんな例が、アインシュタインという大科学者にもありました。
 数学の中で、統計学は不確かさを確率で見ていく手法を編み出しました。その結果、不確かさを決定論として記述するという分野を作り上げられました。確率的な世界でしか記述できない世界を受け入れた自然科学の分野が、量子力学でした。量子力学に対して、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と抵抗を示しました。これは自然界の現象は、確率ではなく決定論的に起こると考えたのです。
 アインシュタインも学問の進歩には勝てませんでした。微小の世界で、神様はサイコロを振り続けたのです。その後も、量子力学は、大きく成長し、微小の世界を探るには、かかせない重要な学問分野となりました。ただし、偉大なアインシュタインが量子力学に投げかけたいくつもの疑問は、真摯に対応され、量子力学を発展させると契機になるという皮肉もありました。
 数学的世界でも、「不確かさ」が発見されています。統計ではなく、方程式で記述できる純粋な理論の世界においてです。ロジスティック写像と呼ばれるものがあります。例えば、
  y=ax(1-x)
という方程式があります。
 この方程式は、aが定数で、xに値を入れれば、yが決まります。そのyの値をxに入れて再度計算します。その作業を繰り返していくと、例えば100回目の値は、99回目の値がわかれば決まります。99回目は98回目が・・・となります。単純方程式ですから、予測可能なある値が出てくるような決定論的な世界に見えます。
 ところが、この方程式で、0 こんな単純な方程式の中に、非決定論的なカオスが紛れ込んでいたのです。20世紀中頃から、不思議な振る舞いが、数学だけでなく、いろいろな方程式に紛れ込んでいうことがわかってきました。決定論だと思われていた数学の方程式に、ある日から非決定論が紛れ込んでいることがわかってしまったのです。これまで信頼を置いていた数学の理論体系が、予測という点で一気に信頼性に疑問が生まれることになったのです。
 今ではこのようなカオスを含めて非決定論的な振る舞いは、「複雑系」と呼ばれる学問になってきました。予測不可能な方程式が、自然現象の中には、あちこちにあることがわかってきました。その結果、天体運動などニュートン力学で大きな信頼を勝ち得ていたものにも、複雑系が紛れていることがわかってきました。気象現象や天気予報にもカオスはありました。
 人の行動などは自由に振る舞っているはずなので、その集合である社会や経済などは、非決定論的になっているはずです。しかし、大きな影響力や強い権力が加わっていくと、少しずつその力の方向に向かっていくように見えます。つまり力をかけ続ければ、その方向に向かう傾向が強いのです。その力をもっているのは、冒頭で紹介した一部の強国や権力者たちでしょうか。しかし、そんな国も人も、非決定論的な振る舞いの集合体なので、ほんの少しの変動や行動から、大きな変化が起こることもありえます。たった一言の発言、たった一人の行動が、もしかするとカオスを発生し、大きな変化へと向かうこともあるかもしれません。そんな意志を一人でも持ち、行動を続けることが、予測不能の時代には重要なのかもしれません。もちろん、その結果は予測不能ですが。

・秋めいて・
北海道は今年の秋は少々遅めのようです。
しかし、着実に秋は迫ってきています。
日が短くなるとともに、
朝夕の冷え込みの強くなってきます。
朝夕で冷え込んでいる時は
コートを着てちょうどいい気候です。
まだ被災している人もいるので、
冬の到来は、もう少し遅めがいいのですが。

・議員たるもの・
現代社会での生活は、
グローバル化、盛んな国際交流、
円高・円安による原油価格、観光への影響など
日本だけの挙動で左右できない事態にもなっています。
なかなか一国の舵取りの難しい時代だと思います。
しかし、国選議員は、少なくとも国民の幸福を
最大限に考えるべきだと思いますが、
どうも別の方に目が向いているように見えるのですが。

2018年8月29日水曜日

200 乾坤只一人:唯一さ

 どれだけ多くの人がいても、自分自身は、「只一人」の存在となります。その「唯一さ」は重要です。地質学でも、特異性や唯一さが重要になります。しかし唯一さを理解して、普遍性を探っていきます。

 中国の禅の書に「嘉泰普灯録」というものがあります。「嘉泰普灯録」は、中国の南宋の時代に成立した禅宗の歴史書で、「五灯録」と総称されるもののひとつです。他に、「景徳伝灯録」、「天聖広灯録」、「建中靖国続灯録」、「宗門聨灯会要」があり、すべてで20巻になる書です。
 その「嘉泰普灯録」の五巻に、
  僧問。如何是君。曰。宇宙無雙日。乾坤只一人。
という問答が示されています。
「僧問う、君是いかなるか。曰く、宇宙に双日(そうじつ)無く、乾坤(けんこん)にただ一人(いちにん)」
と読み下します。宇宙には、日(太陽)はふたつとしてなく、天と地の間にも、自分はただ一つである、ということです。太陽と自分を比べて、どちらも「唯一さ」があること点が重要であることを諭す言葉でしょう。「君」はこの問いにどう答えるのか、気になるところですが、このエッセイでは、この「唯一さ」に注目します。
 禅の世界では、「唯一さ」を極めていくことが重要になっているようです。では、他の分野では、「唯一さ」の位置づけはどうなっているのでしょうか。
 そこで、話題が地質学になります。
 地質学が研究対象にしているものは、一度しか起こらなかった事象や、ひとつしか存在しなかったものなど、特異で稀なものが、素材になっていることがよくあります。いや、地質学的にありふれているように見えても、後述するようには、それは唯一の存在といえます。
 そのようなただ一つしかないものは、どのように扱っていくのでしょうか。「唯一さ」を重視して特別な取り扱いをしながらも、そこから普遍性を見出す方向で地質学は進められていきます。
 例えば、地球史では、超大陸の形成され、その後に離散がありました。似たような離合集散の現象は、地球史において2、3度起こっています。それぞれの超大陸は、その時の地球の表層環境や気候、生態系などは、同じ状態のものは2つとしてなく、似た現象と一括りにすると、細部の違いを無視してしまいかねません。ですから、「唯一さ」を重視して、そこにはどのような個性があったのか、そしてその影響下にあったものへ「唯一さ」の伝播を知ることが重要です。その上で、数少ない超大陸の離合集散における普遍性を見出すべきでしょう。事例が少ないので、もしかすると、普遍性の検証が十分ではないかもしれませんが。
 例えば、同じ種類の化石が、同じ地層から多数見つかったとしましょう。同じだから典型的な化石以外は、学術的には不要でしょうか。そうではありません。個々の生物には、個性(個体差)があるはずです。その個性に着目して記載すれば、種内の多様性を把握することにつながります。そこには、個々の個性の「唯一さ」に着目するという考え方があります。そして次の段階として、個性の「唯一さ」と多様性を違う時代の地層でもおこなうことで、多様性からの逸脱を見出します。それが生物の進化などの普遍性が抽出されていくことになります。化石の例では、類似物が時代をまたがって多数あれば、普遍性の検証を可能にすることになります。
 ある超大陸の個性、多数の中のひとつの化石の個性を、自分自身に置き換えると、どうなるでしょうか。
 たとえ、どれだけ多数の同種の中であっても、自分を特徴づけるのは自身の個性です。たとえ人類70億人の同種が存在していても、たとえ自身が他とは劣っていても、たたえ自身に弱点があっても、その個性を持った自分は、「唯一さ」をもっています。「唯一さ」をもっとも身近に感じる存在になります。しかし、自身の「唯一さ」から普遍性へと向かうのでしょうか。禅では、自分自身を深めていくこと、「唯一さ」を深めていくと、哲学や心理学へとつながるのでしょうか。
 ところで、自然界で「唯一さ」を生み出しているのは、宇宙に流れている不可逆な時間です。不可逆な時間とは、エントロピーの法則に従っているものです。エントロピーとは時間とともに常に増加していくもので、熱力学第二法則になっています。一方向にしか流れない時間は、「時間の矢」とも呼ばれます。この「時間の矢」が自然界の「唯一さ」を生み出します。同じように見える現象、出来事であっても、時間軸、つまり時代が異なれば、違ったエントロピー状態になるはずです。時代が違っていても、同じようなものがあったり、同じような現象が起こるのであれば、エントロピーの法則を破る理由があるはずです。その理由を解明していく必要があります。
 地球に流れる時間の「唯一さ」を考えるのが、地質学です。地質学の素材からは、「唯一さ」を知り、そこから普遍性を考えていくことも、地質学の重要な方向性となっています。これは地質学だえでなく自然科学全般の方向性かもしれません。一方、自分自身の「唯一さ」に深く分け入っていくのは、禅であり、哲学、心理学でしょう。これは、人文科学の方向性かもしれません。

・帰省・
1週間ほど、京都に帰省していて、本日、帰札する予定です。
台風の後、京都は暑いというニュースがありました。
すごく暑いと思って、覚悟して帰省したのですが、
思っていたほどではありませんでした。
この時期だけ少し暑さも和らいでいたので、ほっとしました。
仕事を持って帰省していたのですが、
仕事をする場所も机もないので、
母のテレビを見ている部屋で、
気を散らせながらも、ぽつぽつと仕事を進めました。
実は急ぎの校正があったのですが。
仕事を思う通り進めようとしても
場所が変わると、なかなか難しいですね。

・母の老化・
毎日のように母とは電話で話はしていたのですが、
電話で声を聞くのと、実際に会って話すのには、違いがあります。
久しぶりに会うことになるので、
容貌の変化にはすぐに気づきます。
そして、何日も一緒にいて話を続けていると、
言動から、その老化の様子もよくわかってきます。
母は、後期高齢者になってだいぶたちますが、
独居でがんばっています。

2018年8月1日水曜日

199 誤謬の混入:目の前の真実

 ファクトが目の前にあっても、脳が見ようとしなければ、フェイクが頭の中で形づくられます。そして他者の批判に、自身の主張をオルタナティブな真実と弁護します。悪循環です。真実は、目の前にあるのです。

 アメリカのトランプ大統領が使った言葉で、フェイク・ニュース(fake news)やオルタナティブ・ファクト(alternative fact)という言葉が、メディアでよく聞ききました。
 フェイク・ニュースとは「偽のニュース」という意味です。これは、トランプ大統領が、自分に批判的な報道を「フェイク・ニュース」だと何度も口にしたり、2018年1月、就任1年目に「フェイク・ニュース大賞」を発表して話題にもなりました。
 オルタナティブ・ファクトとは、「代替の事実」が直訳になり、「もう一つの事実」などという言葉も使われています。オルタナティブ・ファクトは、トランプ大統領就任式(2017年1月)の群衆の数が、空撮写真でみると「過去最少だった」と報道されました。それに対して、スパイサー・ホワイトハウス報道官が「観客は過去最多だった」と反論しました。2017年1月、その発言が「明らかな虚偽」ではないかというメディアのインタビューに、コンウェイ大統領顧問は、「嘘ではなく、もう一つの事実だ」と反論したことで有名になりました。そのために、大統領側は、いろいろな理由を示したのですが、メディアがそれらをすべて論拠を示して否定していきました。
 トランプ大統領は懲りることなく、重要な影響のあるよう政治や外交判断をいまだにSNSで発信しています。民主主義を無視した、非常に乱暴なやり方です。似たような乱暴な議論の進め方が日本の政府でも起こっているように見えます。かなり不安です。
 今回のテーマは、トランプ氏側の主張の中で、あえて「真実」の部分を抽出すると、「見えているものだけが、真実ではない」という点ではないでしょうか。「見えないものは、存在しない」というのは、写真に写っている人の数のように見るべき対象が限定されていれば、それは真か偽かは判断できます。一般化して「見えないものは、存在しない」と定言にすると、明らかに偽となります。科学は、見えないものでも、存在していることを証明しています。
 例えば、小さいもの、細菌やウイスルなどは、肉眼では「見えない」のですが、光学顕微鏡や電子顕微鏡などを用いれば、その姿かたちを「見る」ことができます。今では、高倍率の電子顕微鏡を用いれば、原子を一粒一粒を「見る」ことができます。
 重要なことは、肉眼では見えないものであっても、道具や装置を用いることで、「見える」視覚の範囲を拡大することできます。小さいものだけでなく、遠くのものも性能のいい望遠鏡を使えば見ることできます。また、人の代わりに探査機を送り込むことで、深海や他の天体(月や火星、冥王星、地球近傍小惑星リュウグウなど)を「見る」ことができます。
 私に「見えない」ものが、子どもが「見えた」経験があります。地質見学(巡検と呼ばれています)に参加していたとき、学生時代は火成作用に興味あったので、地層や化石にはあまり興味がありませんでした。だから私は、なかなか化石を発見できませんでした、でも化石に興味のある同級生には見えていました。また、博物館内の観察会で、館の石材を見学しているとき、「化石が見つからないとされていますが、頑張れば見つかるかもしれません」といって案内しました。私は、この石材から見つからないという先入観を持っていました。しかし、なんと子どもが小さな巻き貝の化石を発見しました。見る気がない人には、真実は見えないのです。
 素直に「見れ」ば、事実だとだれもで判定できるのに、トランプ陣営の人のように、その事実を見ようとしなけば「見えません」。皆さんにも、似たような経験があるのではないでしょうか。そこに視覚情報、正しい情報があったとしても、それを素直に見よう、判断しようとする気持ち、姿勢がなければ、真実が見えなかったり、偽に見えたりするのでしょう。
 これは、脳が見ていることに起因しているのです。脳が見ようとしないものは、視覚に情報が入っていても見えせん。脳は、持ち主の考えて簡単に「オルタナティブ・ファクト」を見てしまいます。
 このような誤謬は、人の脳には簡単に入り込んでいます。常識、当たり前だ、面倒だ、などが、誤謬の入り口はささやかなものでしょう。ですから、素直に、ありのままを見ることが、誤謬を除く一番簡単な方法でしょう。
 誤謬の混入は、視覚だけではありません。すべての感覚器官で同じような誤謬が入り込んでいる可能性があります。例えば、マジシャンは、このような視覚トリックを意図的に操作しています。VRのアトラクションでは、イスを傾けることで平衡感覚を惑わして、スリルを味わう仕組みが取られています。ゲームセンターのレーシングカーのアトラクションなども、体勢感覚の錯覚を操作しています。聴覚も、左右の音でステレオ効果をきかせれば、目の前を車が通り過ぎたように思えます。
 これらの例は、感覚器官を通じて情報は正確に取り入れているのですが、脳が騙されているのです。それが、エンターテイメントや楽しみであれば、問題はありません。ですが、民主的な結論、重要な政治判断、より確かな規則性などを見つけたいときには、自分の意を反映した脳が、邪魔をすることがあるはずです。そんな誤謬を最小限にするために、素直に「見る」必要があるでしょう。自身の考えも重要ですが、「見えていること」にこそ「真」があるはずです。

・自然災害・
今年は、西日本では、地震、大雨、猛暑、
台風の逆行など、例年とは違った気候で
自然災害が多発しています。
北海道も日照時間の短い冷たい初夏から、
一気に蒸し暑い夏になったり、
変動が激しいようです。
自然の変化に一番影響を受けるのは農業でしょう。
北海道では大規模農場が多いので、
その被害は全国的に影響を受けます。
まだあまり影響のニュースを聞かないので
ひと安心ですが。

・定期試験・
現在大学は、前期の定期試験期間中です。
毎年思うのですが、祝日などのやりくりで
講義が終わるのが7月末になるので、
停止危険が8月に入ります。
北海道でもこの時期は一番暑くなります。
試験の条件としては最悪の時期です。
それでもスケジュールをこなさなければなりません。
大学は文科省の指示に従っています。
規則ではそうなっているのですが、
もう少し学生の立場でものごとが進みませんかね。

2018年7月1日日曜日

198 充足理由律と旅

 久しぶりにゆったりとした旅ができました。これまでの旅では目的を達成を重視していました。旅には過程にこそ意義ある場合があります。旅の行程や、ゆったりとした時間の流れを味わっていくことも、旅の意義ではないでしょうか。

 先日、学会で長崎に出張しました。会場は、都市からは離れていたのですが、巨大観光施設ある付近なので、交通や宿泊などには便利なところでした。学会は2日間でしたが、前泊と後泊をすることになり、3泊4日の旅となりました。そのため、時間的には余裕がありました。近県や関西、関東から来た人は、1泊2日での参加だったようです。北海道からの学会出席は、遠距離というハンディもあるのですが、今回のように急がないときには、非常にのんびりとゆったりとした「旅」ができました。それまでの研究の旅と比べながら、いろいろ考える機会となりました。
 今回の旅は、時間的余裕があっても、あえてあちこちを見て回ることはせず、時間をたっぷりかけて、行程の付近をぶらぶらと寄り道しながら、一服しながら、移動しました。目的地への移動の行程も、旅として楽しむことにしました。
 江戸時代の旅のように、自力、自分の足で移動していた時代、旅の大部分は移動行程を意味していてたはずです。目的地での目的を達成することは、中間地点に位置しています。帰りの旅も同程度の時間をかけることになります。
 移動手段の発展にともなって、目的を果たすことが最優先になりました。移動時間は少なければ少ないほどいい、移動速度は速けば速いほどいい、という「移動」になってきた。その結果、私たしは「忙(せわ)しなく」なりました。旅ではなく、目的達成のための「移動」となりました。いまや「旅」は、校務や公務、仕事しておこなうときは、なくなってしまったようです。
 今まで忙しなく働いていた私は、移動しかしていませんでした。学会も自分の発表だけが最優先になっていき、その後は論文を書いて発表してればいいのでは、となりきました。野外調査は続けていたのですが、そのときでも調査目的が最優先で、露頭から露頭へと「移動」していました。
 そんなとき、今回の「旅」をすることになりました。移動か旅、点から点へと見るか、点と点の間に線を見るか、行程や過程が無駄と見るか、重要とみるかの違いではないでしょうか、もっと大きな違いは、旅にはその過程を味わう心、気持ちに大きな影響を与えることがあります。
 さて、ここから本題です。「充足理由律」という言葉を御存知でしょうか。17世紀のドイツの哲学者ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)が唱えた考えで、「どんな事実についても、それが事実であるべき理由がなければならない」となります。いいかえると、何かの事象が起これば、それが起こるには原因がなければならない、あるいは真であるためには、それが真である理由が充足されなければならないというものです。論理体系を保証するためにも、必要不可欠な原理となります。
 充足理由律とは、なにかの事象が起こったら、つまり結果があれば、それを起こした原因が必ずあるはずだ、というものです。因果律、因果関係ということもできます。ただし、充足理由律とは、因果関係が解明できていなくても、理由はきっとあるはずという前提になっている考えです。
 充足理由律は、要素還元主義と時間の不可逆性にも関係します。
 要素還元主義とは、ある事象という総体は、いくつかの要素に還元でき、それぞれの要素を解明していけば、総体としての事象も解明できるという考えです。複雑な事象であっても、要素に還元し、ひとつずつ解決していき、すべての要素が理解できれば、複雑な総体も理解できるということになります。現在の科学や技術は、そして人文学や社会学も、およそ論理を用いる学問体系であれば、要素還元主義を用いています。因果関係が成り立てば、原因があれば結果が必然的に起こり、結果は原因があったからだ、ということになります。原因追求はできる。結果はついてくる。これは人のモチベーションを生み出す原動力にもなります。これが要素還元主義の意義でしょう。
 原因が先にあり、その後に結果が生じます。この順番は入れ替えることはできません。これが、時間の不可逆性を導きます。目的を達成するためには、要素還元主義や時間の不可逆性を前提として、過程は簡単、明瞭、短い、最小の方がいいわけです。そしていったん、定理、法則、定式ができれば、過程は持ち出す必要もなくなります。そのような成果や学問実績の積み上げが、科学を進め、技術を発展させることになります。
 充足理由律は論理学の世界では当然のことなのですが、世の中、論理だけでは成り立っていません。人の感情の世界です。感情では、因果関係がなくても、理由や原因は不明であっても、心が充足することがあります。それが先に述べたような、目的よりも過程を重視する「旅」に象徴されるものではないでしょうか。

・主催大学・
学会の開催校は学長の方針で、
茶道を重視していました。
1年生全員が必修で1年間履修しているそうです。
上級生も履修する学生もいるとのことです。
学会でもお茶が振る舞われていました。
私の一服いただきました。
まったく作法を知らなかったのですが、いい雰囲気でした。
接待くださった先生も穏やかでいい方でも
おもてなしもいただきました。

・人柄・
学会は小さいもので、
参加大学は百校ほどで、出席者は百数十名程度でした。
この学会のホストの代表の先生が明るく
しゃきしゃきとした方で楽しい方でした。
学会を手伝っておられた職員とも仲が良さそうで
この大学の人的交流がうまく行っている
ということが感じとれました。
学会も施設見学会も、有意義なものとなりました。